―――美優、……美優!

しゃぼん玉が弾けるようにはっと目が覚めた。
目の前には真っ青な空に、真っ白な雲。安っぽい青空が描かれた天井は、私が生まれる前、両親がこの家を建てる時に自分たちで塗ったらしい。
私はこの天井が苦手だった。だけど、塗り変えてとは言えなかった。子どもころ、この部屋で過ごせなかった娘としてのせめてもの遠慮だ。
起き上がると、ほほに違和感を覚えた。拭った指先が濡れているのを見て初めて自分が涙を流していることを知った。
なにか夢を見ていた気がする。誰かがずっと私の名前を呼んでいたような、そんな夢だった。あれは誰だったのか、どうして私の名前を呼んでいたのか。いくら考えても答えは出なかった。
人生最後の夢がなにも思い出せないとはね……。
自嘲的な気分でカーテンを開けると今にも雨が降りそうな黒い雲が風に流されていた。これが現実の空だ。
リビングへ降りると、両親はすでに仕事へ出かけていた。
 私はいつものように顔を洗い、歯を磨き、パンを焼いて食べた。
 そして、両親への遺言書を自分の机に置いた。
「ごめんね」
 私は学校指定のスクールバッグを肩にさげ、玄関を出た。


 桃子と初めて会ったのは私が九回目の誕生日を迎えた日だった。
ベッドのわきにはプレゼントで買ってもらった最新の携帯ゲームとソフトが数本、梱包されたまま置いてある。あとは看護師さんがくれた「お誕生日おめでとう」と書かれた折り紙の花束が飾られていた。
 だけどちっともうれしくない。
 私は誕生日が嫌いだった。私の余命は五年だった。それが今はなぜか生きている。医者は回復に向かっているというが信用できなかった。だって、今も私は学校に通えず、家にも帰れず、ずっと入院したままだから。
泣くのも飽きた。怒るのもやめた。
そんなことしたって両親が私よりも悲しむだけだから。
私の背後にはいつも死神が立っている。ボロボロの黒いマントをまとった骸骨のイメージ。死神は三日月形の大きな鎌を持っているがそんなものを使わなくても息をふーっと吹くだけで、私の命の灯はあっけなく消え去ってしまうだろう。
なのに私は生きている。それはきっと死神のきまぐれだ。その気になればいつでも消せるし、その気じゃなくてもくしゃみ一発でアウト。
その程度のか細い灯なんだ、私の命なんて……。
「お邪魔しまーす!」
 突然仕切りのカーテンが開き、私と同じくらいの年の女の子が入ってきた。ギプスがついた左足をかばい、松葉杖でひょこひょこと入ってくる女の子は聞いてもいないのに自己紹介を始めた。
「清開小学校三年四組の森桃子です! 見ての通り足を骨折したから、今日からこの病院に入院することになったの! 看護師さんに同級生の子がいるって聞いたから来たんだけど、ってあれ?! そこにおいてあるやつってゲーム? やらないの? っていうか今日誕生日なの?! すごい! おめでとう!」
 そういって桃子は私のベッドに腰掛けようとするから私はとびきり冷たい声で言い放つ。
「勝手に座らないで。あなたと仲良くするつもりないから。カーテンの中にも入ってこないで。プライバシーの侵害だから。迷惑だから」
 これまでの同室になった同じくらいの子どもはいた。
友達がいない私は嬉しくていっぱい遊んで仲良くなった、と思っていた。
だけどみんな、病気やけがが治るとここに戻ってくることはなかった。治ったのだから当たり前だけど私はそのたびに裏切られたような気持ちになった。もしくは病気で死んじゃうか。
どちらにしてもみんな私の前からいなくなる。だったら話をするだけ無駄じゃん。
 朝からの不機嫌も相まって、我ながらかなり怖い言い方になった。
なのに。
「わかった! それで、えっと、『みゆう』ちゃんなにして遊ぶ? ゲームやってもいい? ゲームがだめならそうだな、私なぞなぞの本持ってるよ! 持ってくるからちょっと待ってて!」
 そういってまたひょこひょこととカーテンの向こうへ行ってしまった。
 なんなの、あいつ……。
 それから毎日、桃子は私に話しかけてきた。どんなにそっけない態度を取っても、嫌なことを言っても桃子は次の日も無許可でカーテンの中へ入ってきた。
桃子はメンタルが強いわけじゃない(私がひどいことを言うとしょぼんとして自分の病室に帰っていく)。ただ単に、悩み事は寝たら忘れてしまうタイプであり、びっくりするほど空気が読めないだけだった。
「それでね、みゆうちゃん……」
「あのさ、私の名前『みゆ』なんだけど」
 桃子が私に会いに来て一週間。私はついに根負けした。
 それから私たちはお互いの話をするようになった。
 桃子は親の都合で転校をすでに三回しているらしく、それぞれの学校の話をしてきた。外の世界を知らない私にとって桃子の話は新鮮で、楽しくて、そして、妬ましいほどに羨ましかった。
 私はぼそりとつぶやく。
「私もみんなと一緒に授業を受けてみたい。給食を食べてみたい。学校が終わった後にみんなで遊びたい……」
 私は口にした後、しまった、と思った。私が願いを口にすると周りの空気がしんと静まり返る。周りの大人たちは叶わない願いを持つ私を見て、哀れみ、同情し、そしてこういうのだ。
 いつか、きっと叶うよ。
 私がそんなことを言ってほしいわけじゃないのに……。
 一人落ち込む私に対し、桃子はいつもと変わらない調子で答える。
「じゃあ退院したら私と同じ学校においでよ。美優ちゃんがやりたいこと全部一緒にやろ!」
 気がつけば、涙があふれて止まらなくなった。
それは私がずっと誰かに言ってほしかった言葉だったから。
突然号泣する私に、桃子は不思議そうに「お腹空いたの?」と聞いてきたから私は泣きながら笑った。
桃子はやはり空気が読めなかった。
その後、桃子は骨折が治っても私に会いに来てくれた。
 自分のことを忘れないでいてくれる。
それがどんなに嬉しいことか。私は桃子に教わった。
 しかし、しばらくして桃子は再び転校してしまった。お互いに連絡手段を持っていなかった私たちは手紙のやりとりをしていたが、時が経つにつれ返信の間隔が少しずつ広がっていき、中学生になるころには年賀状を送りあう程度だった。
 そして私は高校生になった。
 私の病気は完治の目途が立ちつつあった。あと半年、入院すれば問題ないだろうと。だけど私は無理を言って、入学式へ参加した。(その結果、案の定体調を崩し、結局入院期間が一年延びてしまったけど)
 入学式当日。
 私は校舎前に集まった新入生の中できょろきょろとあたりを探す。すると、懐かしい顔を見つけ、私は人混みをかき分け進む。
 偶然にも、桃子の年賀状に記された高校の進学先は私の進学先でもあった。
 私はあえてそれを伝えず、お互いに新入生として再会する。そんなサプライズを考えた。
 しかし、記憶の中のよりも少し大人びた桃子が知らない人を楽しそうに話している様子を見て、私は話しかけるのをためらった。
 もしも、私のことを忘れていたらどうしよう。
 私はみるみる不安になり、とたんに恥ずかしくなった。
 私にとっては唯一の友達でも、相手にとっては数多くいる友達の一人かもしれない。なのに私はどうして当たり前に私のことを覚えてくれていると思ったのだろう。
 みるみる気持ちが落ち込んでいく。それと同時に、人の多さや緊張で具合が悪くなっていた。激しいめまいに膝に力が入らない。
 誰かに助けを求めたくても、だれに話しかければいいのかもわからなかった。そのうち、体力は限界を迎え、倒れそうになったところで私は誰かに抱えられた。
「大丈夫っ?! って、もしかして美優ちゃん?!」
 校舎中に響きそうな場違いな声量。遠のく意識の中で私は声をかける。

 相変わらず空気が読めないね、桃子。


 華やかに飾りつけられた廊下。ソースの焦げた匂いと一緒にわたがしの甘い匂いが香ってくる。生徒だけじゃなく、小さい子どもや、卒業生と思しき大学生たちも笑いながら私を通り抜けていく。校内は祭り一色だ。
 時刻は午後二時。
 予定よりもかなり早く着いてしまった。なんとなく出し物や出店のポスターが貼られた掲示板を見ると、はがれかけのポスターに目が止まった。
「ミスター佐々木のサイエンスショー?」
 思わず声に出して読んでしまった。ポスターに映る怪しげな仮面をかぶった白衣姿のおじさんを私はじっと見つめる。
 この人は誰だろう。どこかで会ったことある気がするけど……。
 私はポスターを描かれた開演時間を見て、腕時計を確認する。午前の部はすでに終わっており、午後の部は少し遅めの時間だ。だけどこちらも間に合いそうにない。午後の部が始まるころにはすでに私はこの世にいないのだから。
「久しぶり」
 声がする方を振り返ると、懐かしい二人が立っていた。
「阿野くんと、……山口さん」
「あれ? もう名前で呼んでくれないの?」
 そう言って近づいてくる千晴。千晴は私と同じ学校指定のスクールバッグを持っていた。
「桐谷くんからいろいろ聞いたよ」
「そう」
「そうって……」
 黙る千晴に私はあえて冷たく言い放つ。
「用がないならいい?」
 私は二人に背を向け歩き出す。
「あなたにとって桃子が特別な存在だってことはよくわかった。でも、桃子以外はどうでもいいの?」
 私は思わず足を止めた。
「私たちと過ごした日々は? 美優にとって桐谷くんは特別じゃないの?!」
「それは……」
 口ごもっていると、千晴は走って私の肩を強く掴む。
「なんとか言ったらどうなの?!」
 肩を揺らされ、抵抗していると間に阿野くんが割って入ってきた。
「山口先輩! やめてください!」
 阿野くんに私から引きはがされた千晴は息を乱し、じっと私をにらむ。その目にはうっすらと涙がにじんでいた。
 腕がひりひりと痛む。もみ合ってる間に腕にひっかき傷をできていた。
「これ」
 阿野くんがいつのまにか床に落としていた二つのスクールバッグを私へ差し出し、もう一つを千晴に渡す。
「爆発まであと一時間。それまでにここから離れて」
 そう言って、私は二人を置いて去った。
 廊下の角を曲がり、二人が追ってきていないことを確認すると私は壁にもたれ、頭を抑える。
 千晴の言葉を聞いてから、私の脳裏には夏の思い出があふれて止まらない。
 どうでもいいわけがない。
 みんなで一緒に岡田の実家がある村へ行ったこと。爆発実験をしたこと。阿野くんの家にお泊りしたこと。夜までゲームをしたこと。
 楽しかった。
間違いなく、私の人生の中でもっとも充実した夏だった。そこには千晴がいて、阿野くんがいて、そして、桐谷くんがいた。
 桐谷くん。
 桐谷くんがいなければ私は今日という日を迎えることはできなかっただろう。あの日、理科準備室で桐谷くんと出会えて本当に良かったと思っている。
 だけど、いや。
 だから、みんなと仲良くなりたくなかったのに……。
 誰かと仲良くなると、離れたくないと思うから。死にたくないと思ってしまうから。
 私は行く当てもなく、階段をふらふらと上っていると踊り場に設置された姿鏡に映る自分と目が合った。
 鏡の中の私は冷ややかな視線を向け、言い放つ。

「なんで桃子じゃなくて、あんたが生きてるの?」


 桃子が死んだと聞いたときのことはあまり思い出せない。
 だけど私はとっさに悲しいとか、信じられないとか思わないように意識したことだけ覚えている。もしもそんな風に心を揺らしてしまうと悲しみの波に飲み込まれてしまうと分かっていたから。心の防衛本能が働いたのだと思う。
 しかし、そんな一時的な防衛もすぐに決壊した。
 それは桃子とのメッセージを見返した時だ。

桃子 私、好きな人ができたんだ!

 あるとき、桃子から突然メッセージが届いた。この時のことはよく覚えている。というか忘れられない。後にも先にも、あんなにも心がざわざわした経験はないからだ。
 親しい友達に好きな人ができた。
 本来なら祝うべきなのだろう。だけど私は素直に祝えなかった。今から思えばただ寂しかったのだと思う。私の桃子が、誰かの桃子になってしまうことが。
 だけどこの時の私は素直になれなかったし、心のざわざわを上手に言葉にもできなくて、ただ自分の気持ちを隠して桃子にメッセージを送った。

美憂 へー。よかったね。どんな人?
桃子 教えない! けど、すごくかっこいい人!

 イラっとした。普通に教えろよ。苛立ちが文面ににじみ出る。

美優 教えないならいいよ。別に興味ないし
桃子 なんでそういうこというのー? 教えたいけど、言えないんだよ! 禁断の恋ってやつ(笑)

 なにを言ってるのかさっぱりわからなかった。

桃子 それでね今度の土曜日に、告白しようと思ってるんだ!

 は? 土曜日って三日後だよね。三日後は。

美優 土曜日って一緒に映画見に行く約束でしょ?」
桃子 あ!! そうだった! ごめん! じゃあ告白は来週にする!(笑)

 私はさらに苛立った。軽い謝罪に。『じゃあ』という言葉に。(笑)に。

美優 別にいいよ。告白したいんでしょ?

 桃子は私との約束を優先すると言っているのに、私は意地になって断り続けた。意味のないラリーが続くごとに私の苛立ちは募っていった。

美優 そもそもはあんたが約束忘れてたのが悪いんでしょ!
桃子 恋は盲目ってやつ? 美優も誰かのことを好きになったらわかるよ(笑)

 ぷちっ。
 血管が切れる音が脳内で聞こえた。
 この日は検査結果が悪かった。朝から片頭痛がひどかった。部屋の中が蒸し暑かった。機嫌が悪くなる要因はいくらでもあった。いや、それはただの言い訳だ。
浅はかな私は怒りの衝動のまま指先を動かし、メッセージを送った。

美優 もういい。死ね

 それが桃子に送った最後のメッセージだった。
 正直メッセージを見返すまで送ったことも忘れていた。それくらい意味のない、バカ、とかと同じ、ただの悪口のつもりだった。今までだって死ねと送ったことも、直接言ったこともあった。私だけじゃない。桃子から死ねと言われたこともあった。
 しかし、そんな過去は関係なく、現実に桃子はこのメッセージを見た後に死んだ。
 桃子は、死んだのだ。
 その日から私の心は激しく揺れた。
 泣いた。怒った。暴れた。吐いた。笑った。そしてまた泣いた。
 その間ずっと考えて、悩んで、迷って、吹っ切れて、また考えた。
 どうして桃子は死んだのか。
 誰のせいで桃子は死んだのか。
 私の、せい……?
 私は何度考えてもたどり着く答えを受け入れられなくて、違う答えを作り上げた。
 桃子はいじめられていた。だから死んだ。
その答えは正解じゃないかもしれない。でも、間違ってないとは言い切れない。そんな証明ができない仮説を真実と思い込んだ。
私は桃子のために、みんなを殺す。
だからどうか、私を。私のことを……。

『お前のせいだよ』

 頭の中で何度も何度も繰り返す。
 私は逃げるように屋上を目指す。しかし、いつもは解放されている屋上が文化祭だからか、関係者以外立ち入り禁止の張り紙が貼られており、扉には鍵がかかっていた。
 私は扉を背に、床へ座り込む。
 爆発まで残り三十分。
 扉についた窓を見上げると、やはり空は分厚い雲に覆われたまま。冷え切った秋風が音を立てて吹いている。
 私は先ほどの取っ組み合いでついた腕の傷を見つめる。赤く腫れ、熱を帯びたすり傷に手を当てる。
 阿野くん、千晴、そして桐谷くん。
 みんなには死んでほしくないな。
『無駄だよ。みんな死ぬ。お前が仲良くなった人はみんな死ぬ。全部お前のせいだ』
 蔑むように、あざ笑うように、私は私を否定する。
 桐谷くんはきっと今、爆弾を探しているだろう。
 すべての爆弾を見つけ出せばあの日のように、解除してしまうかもしれない。桐谷くんにはそういう不思議な力があると思う。
 だけど最後の一つは絶対に見つからない。
 私が嘘をついたから。爆弾を四つ、校内に仕掛けた、と。
 嘘を信じさせるには、ちょっとだけ本当のことをいうのがいいらしい。
 私は確かに爆弾を校内に仕掛けた。三つだけ。
 最後の一つはこのバッグの中にある。
 これは誰でもない、私を殺すための爆弾だ。
『お前のせいだ。お前のせいで私は死んだんだ』
 頭の中の私はいつしか桃子の姿に変わっていた。
「わかってる。だから、こうするしかないでしょ。私も死ぬ。だからもう……」
 私は膝を抱え、消えそうな声でつぶやいた。
「許して、桃子」


 爆発まで残り五分をきった。
 私は静かに階段を降り、中庭へと足を踏み入れる。
 中庭は二つの校舎の間にあり、それぞれの壁沿いに出店が並んでいる。
 奥にはステージが設けられており、人だかりができている。その中には友達と笑いあっている夏目ありさと先生たちと話をしている岡田雄介、そしてテントの中で退屈そうに座っている金子進の姿があった。
 私は入学式のように、人混みをかき分けステージ前方へと進み、あるポイントで立ち止まる。爆弾は左右の校舎、そして二つの校舎をつなぐ渡り廊下の真ん中に設置した。すべてが同時に爆発したとき、最もがれきが落ちてくるのはここだ。
 人の声が、風の音が、心臓の音が、はるか遠い。
 音のない世界で私の浅い呼吸だけがはっきりと聞こえる。私は静かに目を閉じる。
 爆発まで残り十秒。暗闇の中で私は謝る。
 ごめんなさい。お父さん。お母さん。
 あと三秒……。
ごめんなさい。千晴。阿野くん。
二秒。
 ごめんなさい。桐谷くん。
 一秒。

 ごめんなさい。桃子。





 ドクン、ドクン……。
 心臓の音が聞こえる。風の音も、人の声も、遠くに聞こえていたはずの世界の音が一気に大きくなった。
 目を開けると、景色は数秒前から何も変わっていなかった。
 私の身体も、腕の傷がまだひりひりと痛むだけ。
 どうして……? 
私は爆弾を仕掛けたはずの場所を見上げる。
 まさか、本当に桐谷くん全部解除した? だとしても、私のバッグの中の爆弾は……!
 急いでチャックを開けると中には四角い爆弾ではなく、一冊の化学図鑑とまるまると膨らんだ赤い風船が詰まっていた。
「なに、これ……?」
 すると、ステージから耳障りな叫び声が聞こえてきた。
「俺は将来! 絶対ミュージシャンになります!」
 髪の毛をツンツンに立てた男子がマイクに向かって叫ぶと、周りの生徒が歓声を上げる。
「ありがとうございました! 以上でエントリーしていた生徒の叫びは以上となります! ここからは飛び入り参加募集! 想いを叫びたい人はいますかー!」
 司会が手を上げ促すと、観客たちはざわざわと騒ぐ。するとたくさんの頭の中から手がすっと上がる。
「お、そこのあなた! ぜひステージへ!」
 拍手を背に受け、一人の男子がステージ上に上がり、マイクの前に立つ。あれは……。
「では学年とお名前をどうぞ!」
「えっと、二年二組、安達隼人です」
 安達くんが名乗ると、冷やかすような歓声が上がる。
「よっ! 安達!」
「とうとう告白か?!」
 安達くんはそれらを無視して、まっすぐに前を見る。
「それでは、あなたはどんな想いを叫びますか?」
「えっと、俺じゃなくて、友人から手紙を預かってきたので、それを読みます……」
 手紙? みんなが首をかしげる中、安達くんはポケットから取り出した手紙を広げる。いや、あんなのはどうでもいい。早く三人を殺して、私も死なないと。爆弾がないなら、力づくでもなんでも……。
 出店の中に、たこ焼き屋があった。丸いたこ焼きを器用に焼いている生徒の裏で、タコの足を一口サイズに包丁で切っているのがみえた。あの包丁を使えば……。
 私はその場を離れようとすると、安達くんの声が届いた。
「初めまして。桐谷蓮といいます」
 桐谷くん?
 私は足を止め、ステージへと身体を向ける。
「この手紙はここにいるみんなに、そして、俺の大切な人に向けたものです」
 大切な人、というワードに観客たちは安易に盛り上がる。
 安達くんはそれでも調子を崩すことなく、まっすぐに読み上げる。
「俺は子どものころ、死に強く惹かれていました。巣に掛かった蝶が蜘蛛の糸でぐるぐると巻かれる様子や、たくさんの蟻が死んだ蝉を運んでいる様子を飽きることなくじっと観察していました」
 潮が引くように、先ほどの盛り上がりは一気に下がる。
「みんなが想像している通り、俺は子どものころ周りに気味悪がられ友達は少なかったです。そんな俺を母さんは心配してよく𠮟っていました。そのたびに生物学者だった父さんがこう言って庇ってくれました。『生物はいつか必ず死ぬ。死について考えることは、同時に生を考えることでもあるんだ』って。母さんはなに言ってんの? って俺も父さんも一緒に叱りました」
 会場のあちこちから笑い声が聞こえる。
 みんなはいつのまにか桐谷くんの手紙に耳を傾けていた。
「そんな両親は去年の冬、交通事故で亡くなりました。それから俺は叔母に引き取られ、この学校へ転校してきました。この学校でちょっと変だけどいい先生と出会い、仲がいい友達ができて、俺の心は少しずつ回復していきました。だけど、少しでも気を抜くと考えてしまう。
俺も同じ車に乗っていた。だけど俺は生き残り、父さんも母さんも死んだ。どうして自分だけが生きているのだろう、と。
もしもあの時、一緒に出掛けなければ両親は死ななかったんじゃないか。
もしもあの時、俺が死んでいれば、両親は助かったんじゃないか。
もしも、もしも、もしも……。
いつからか、両親のことを考えることが苦しくなっていました。
 忘れたいのに、忘れられない。変えられない過去にこの先もずっと囚われ続けるのかと考えると、いっそ死んだ方が楽になれるんじゃないか、と思ったこともあります。俺は両親の死を、自分自身を呪うために利用していました……」
「やめろ!」
 突然、観客の中から声が上がった。
「つまんねえよ!」
「辛気臭い話ばっかりするな!」
 野次は止まらず、ざわつきは次第に観客全員に広がった。たじろぐ司会者が前に出る。
「えっと、お手紙はこのくらいにして、次の方は……」
「うるせぇ!!」
 安達くんはマイクに向かって叫んだ。
「ここは想いを叫ぶ場所なんだろ! この手紙は、俺の友達の心の叫びだ! 最後まで聞け!」
 安達くんの一声でざわつきは一気に静まった。安達くんはお調子者として学校全体に知られている。そんな安達くんの真剣さにみんなは息をのんだ。
 喉をこほん、と鳴らし、安達くんは手紙の続きを読み始める。
「この学校には俺と同じ、身近な人を突然亡くした人がいました。その身近な人は誰かにとっては他人であり、クラスメイトであり、そして大切な親友でした」
 安達くんに、桐谷くんの影が重なって見えた。
「俺が出会ったその人もまた、大切な親友の死に苦しんでいました。誰かを責めて。自分自身を責め続けて。だから俺が誰かに言ってほしかった言葉をあなたに送ります」
 安達くんの声が、桐谷くんの声に聞こえる。
「あなたは生きていてもいい。大切な人が亡くなったのはあなたのせいじゃない」
 私は心臓がぐっと暖かくなる。
でも、ダメなんだ。私は。
 私はこぶしを握って地面を見つめる。心の奥から涙が浮かび上がり、ぽたぽたと落ちる。
「だけどきっと、俺の言葉は届かないでしょう。それはあなたがとてもやさしい人だから。自分で自分を許せなくて、ずっと下をうつむいてしまうでしょう。だから、この空を見上げてください」
 どこからか、せーの、という掛け声が聞こえ、あちこちの校舎の窓から一斉にたくさんの風船が飛び出した。
 風船は風にのって、ゆらゆらと浮かび上がり、空へと散らばっていく。気がつけば厚い雲の隙間から青い空が見えていた。
 観客たちは空を見上げ、感嘆の声を漏らす。
 風船でできた心の隙間に、桐谷くんの言葉が入り込んでくる。
「父さん。母さん。俺はあなたたちとの思い出を胸に刻んで生きていきます。それが父さんの言葉の本当の意味だと思うから。
だからみんなもどうか、大切な人の死で、自分を呪わないでほしい。大切な人との思い出を胸に刻んで、生き続けてほしい。
それでもまた、自分のことを呪ってしまいそうになったら、今の光景を思い出してください。空へと上る風船に、あなたの想いを込めてください。
想いを天国へ届けたら、また明日を、ともに生きましょう」
 以上です。そう言って、安達くんは颯爽とステージから降りていった。
 みんなの反応は、二つに分かれていた。
 大半は、空へと消えていく風船に盛り上がる人ばかり。
だけど、桐谷くんの言葉に何かを感じている人もいた。胸に手を当てる人、手を合わせる人。中には夏目ありさの姿もあった。よく見ると、彼らはみんな、桃子のクラスメイトたちだった。
みんな、桃子のことを思い出しているのかな。
よかったね、桃子。みんなに忘れられるのは寂しいもんね。
「伊藤さん!」
 振り返ると和服姿の三宅さんと安達くんが立っていた。
「……伊藤さん。お客さんが多くて、料理担当の人手が足りないの。一緒に手伝ってくれないかな?」
 え?
 三宅さんの手は微かにふるえていた。勇気を振り絞ってくれているのが分かった。
「私、森さんのこと忘れないから」
「うん」
 隣に立つ安達くんは先ほどのステージ上の様子とは異なり、なんだかまごまごしている。
「伊藤、俺……」
 言葉にしなくても、安達くんの言いたいことはなんとなくわかった。今まで私を避けていたのに、こうして私に話しかけてくれていることが、安達くんなりに、桃子のことを胸に刻んでくれた証だ。
 私は初めて、安達くんに対し、笑顔を見せる。
「安達くん、私料理苦手だから作り方を教えてね」
 不安そうだった安達くんは目を開き、安達くんは力いっぱい自分の胸を叩く。
「まかせろ!」
 力が強すぎてせき込む安達くんに、なにしてんの、とつっこむ三宅さん。
 二人のやりとりに笑いながら、私はバッグの中から風船を取り出す。
 私は桐谷くんの言葉を思い出し、風船に想いをのせる。

 桃子。私、桃子がいない世界で生きていくよ。
 だけど絶対。絶対に忘れないよ。

 私は手を放すと風船は、はるか遠い空を目指して飛んでいった。


「いらっしゃいませ!」
 私たちのクラスの出店は『大江戸茶屋』という和風な喫茶店だ。
教室は和風に飾り付けられており、メニューも抹茶やあんみつ、どらやきなど和風なものになっている。
 私は料理担当だったが、不器用すぎてすぐにクビになった。どら焼きは加熱のし過ぎで真っ黒に焦がし、抹茶は何度試しても飲めないぐらい苦いものか味が薄すぎるものしか淹れられなかった。苦い方を飲んだ安達くんは顔を真っ青にし、薄い方を飲んだ三宅さんはそのあまりの味のしなさに「緑色の白湯」とコメントしていた。
 私は余っていた和服を借りて、町娘風なウエイトレスをしている。
 それなりに忙しく、時間はあっという間に過ぎていった。
 入口の暖簾が上がり、振り返るとやはり懐かしい二人が立っていた。
「なにその恰好?」
 千晴は私を指さし笑う。
「そっちこそ」
 二人は白衣を着ていた。阿野くんは丈が全然足りてないし、千晴は逆に丈が余り過ぎている。へんてこな研究者のような風貌だ。
「佐々木にやらされたの。大量の風船と引き換えにね」
 大量の風船?
 いまいち話が読めなかったが、私はあることを思い出した。
「私のバッグは?」
 千晴は得意げに目を細める。私のバッグはお昼ごろ、千晴に肩を揺さぶられたときにすり替えられたのだ。
「気づかなかったでしょ。阿野、返してあげて」
「俺持ってないっすよ。桐谷先輩に渡したままでしょ」
 そうだっけ、と千晴は首をかしげる。
「あれ、そういえば桐谷くんは? まだ戻ってないの?」
「え、見てないけど」
「安達くん、桐谷くんがどこ行ったか知らない?」
「え、手紙貰った時は、用事がすんだら戻るって言ってたけど……」
 なんだか嫌な予感がする……。
 みんなが顔を見合わせたその時、教室の奥でコーヒーカップが落ちて割れた。