未完成な世界で、今日も君と息をする。


 夢を見ていた。
 一人で夕日を眺めている、そんな夢を。


 これが夢だとすぐに分かったのは、腕に深く刻み込まれた傷がなかったから。

 記憶を失う前の、もっと昔のころの夢を見ているのだと。瞬間的にそう悟った。


 焦がすような太陽の光が、顔に容赦なく差し込む。わたしはそれを、一心に浴びていた。溶け込んでいくように、そのまばゆさに身体を委ねる。

 ぼうっと地平線の彼方を眺めては、息を吐く。そして酸素を取り込んだとき、これは夢だと確信した。



 息がしやすかったから。



 澄んだ空気で、肺がすべて満たされていく感覚。

 現実の世界にはない、切ない感覚がした。


 もう一度腕に視線を落とす。

 すると、じわじわと赤茶色の傷が浮き上がって、ずくんずくんと傷口が痛み出す。


「っあ……はあっ……や、だ」


 擦っても、押さえても、どう頑張っても消えない。どんどん濃くなって、忘れられないものとして深く深く刻まれる。


 決して消えない傷痕。
 刃物で切り付けたようなものだ。

 どうしてついた傷なのか、わからない。こんなに深いもの、どうして。


「……思い、出せない」


 思い出そうとすれば、ザザッと砂あらしのように記憶が遮られる。思い出そうと何度も集中すると、だんだん頭が痛くなって、最終的には意識が飛びそうになるくらいの激痛に襲われる。
 思い出したくないと、身体が拒絶反応を起こしていた。



 憂愁(ゆうしゅう)を秘めた淡さが、刻々と濃いものへと変わってゆく。



 ああ、まって。いかないで。
 わたしを置いていかないで。まだ終わらないで。

 夢中で沈みゆく太陽に手を伸ばす。



 わたしのむなしい叫びをきくことなく、空は紺碧を瞳に映し、静かに夜の帳が下りる。




 ───…そこで目が醒めた。

 傷のある手を伸ばしたままで。
 わたしが必死に掴もうとしていたのは、こげ茶色の天井だった。趣も何もない、殺風景なわたしの部屋。

 ゆるゆると手をおろして、枕元に置いたスマホを手に取る。


 A.M.4:30。



 今日もまた、はやすぎる目覚めだった。










 季節は秋へと移り変わり、それと同時に制服も衣替えとなった。

 紺色のブレザーに袖を通す。胸元でリボンが揺れていた。



 ブレザーの上から傷のある右腕をそっとなぞると、ズクズクした痛みが和らいだ……気がした。スカートと靴下では庇いきれずにむき出しになった足に、朝の冷えた空気がまとわりつく。

 部屋にある全身鏡の前に立つ。


「……変なの」


 鏡に映ったわたしは、たとえるなら、幽霊のような顔をしていた。このまま役者としてホラー映画に出演できそうだ。

 スカートは校則に準じた膝丈。
 白い靴下、髪型は後ろでひとつ結び。もちろんノーメイクだけれど、まるでファンデーションを塗ったかのように顔が白い。いや、不健康の表すような青白さだった。


 可愛げも何もない。むしろ恐怖すら与えかねない外見だった。



 ふと、赤坂さんの姿が浮かぶ。【JKブランド】という青春の具現化のような称号を得るにふさわしい格好をしていて、とにかく目立つ人。毎日高く縛り上げられたポニーテールも、ゆるく巻かれたおくれ毛も、バッチリ決まったメイクも、すれ違ったときの甘い香水の匂いも、膝よりはるか上のスカート丈も。

 絵に描いたような女子高生の姿をしているのが赤坂燈という人物だ。



 わたしには無理だ。
 毎日完璧に自分を着飾るなんて、そんな努力できない。だからわたしは、ひそかに彼女のことを尊敬しているのだ。




 机の上に置いてあったヘアゴムで、高い位置で髪を括ってみる。結果は言うまでもなかった。がっくりと肩を落とす。


 ポニーテールとも呼べないその髪型のままリビングに行き、朝イチで作っておいたお弁当をとりにいこうとしたときだった。


 急に廊下の先から物音がして、びくりと肩が跳ねる。どうやら寝ているはずの両親のどちらかが起きたらしい。完全な油断だった。


 大急ぎで部屋に戻って、リュックを掴む。鏡の前でポニーテールをほどいていつものひとつ結びに直した。



 いってきます、と焦り気味に呟いて今日も朝食をとらずに家を出た。挨拶は相手に聞こえなければ意味がないとどこかで聞いたことがあるので、きっと毎朝わたしが発しているのは挨拶ではなく単なる独り言なのかもしれない。

 どちらにせよ、形だけの挨拶に意味など存在しなかった。








 朝の教室は、まっさらな状態でわたしを出迎えてくれた。
 色づき始めた葉が窓の外に見える。登校時間には程遠いので、まだ人は少ない。

 ふうっと息を吐く。やはり深呼吸をすると落ち着く。
 まだ、以前のように気持ちよく息は吸えないけれど。



 そのとき、カバンの中でスマホが振動した。取り出して、通知を確認する。



 母からのメールだった。
 乾いた指先でタップして開く。


 液晶画面に表示された文字に、わたしはつい呼吸を止めてしまった。黙ったまま、何度も文字を目で追う。


『紬、お弁当忘れてるよ。届けようか』



 ドキリと嫌な感覚がした。

 焦った時に心臓が縮み上がるようなこの感覚は、何度経験しても慣れることはない。スマホを持つ手が震えた。


 このメールをみてはじめて、お弁当を家に置いてきたことに気づいた。

 どうして今日は忘れてしまったのだろう。
 その理由を考えて、はたと思い出す。


 髪の毛で遊んだせいで、焦って家を飛び出したんだった。まさか親が起きてくるとは思わなかったから。
 

 しまった、うっかりしていた。



 慌てて返信画面を開く。スマホのキーボードの上に指を乗せる。
 けれど、書いては決して、書いては消しての繰り返し。



『大丈夫。買って食べます』


 結局、たったそれだけのメッセージを送るのに五分もかかった。
 返信にはいつも気力を使う。

 思わず敬語を使いそうになってしまうのを直したり、文章が変じゃないかを何度も見直したりする。
 そうして、親しすぎるような気がして気持ちの悪い文章を送らなきゃいけないから。


 結局、タメ口と敬語を同時に使った。


 しばらく送信したメールを見直していると、急に扉が音を立てた。誰かが教室に入ってきたことがわかる。
 乱雑な具合で予想はつくのに、つい名前が呼ばれるのを待ってしまう。



「葉瀬」
「……柴谷」
「ん」


 ん、だけで彼の意図がわかってしまうのがなんだか悔しい。それほどまでに習慣化された、二人だけの朝の時間。

 くいっと顎で合図をする柴谷。
 どうやら、ついてこい、ということらしい。







「今日遅くね?」
「あー……お弁当、忘れちゃって。メールしてたの。その……お母さんに」
「そんな時間かかるのかよ」
「なんていうか……距離が掴めなくて。気まずいんだよね、色々と。ううん、気まずくしちゃってるんだよね、わたしが。顔を合わせるのがこわくて」


 言葉に詰まりながら、事情を説明する。


「お前はどうしたいわけ?」
「一緒に朝ごはん、食べられるようになりたい。それで……いってきますって言えるようになりたい」


 自分が思い描く親子のかたちをなんとか説明すると、ふうん、と柴谷は曖昧な相槌を打った。色々と質問したくせに、たいして興味がなさそうだ。
 もはや話をきいているかすら怪しい。

 一緒に朝食をとって、いってきます、いってらっしゃいの挨拶をして学校に向かいたい。

 そんな願望はあるのに、わたしには勇気がないから逃げるように家を出るしかない。夢物語は到底叶いそうになかったから、「いつか、ね」と付け足す。こういうふうに保険をかける自分も嫌いだ。



「お前昼どうすんの」
「購買でなにか買おうかなって」
「残念だけど、今日は購買休み。食堂のおばさんが体調不良だって昨日お知らせされただろ」


 柴谷に言われてハッとする。たしかに昨日、そんな放送が流れていたような気がする。

 ということは、わたしは今日昼食抜きだ。朝食も昼食も抜くとなると、間違いなく午後の授業はお陀仏。
 がっくりと肩を落とす。


 朝食も昼食も自業自得だ。
 いくら嘆いてもどうしようもないので、仕方ないと割り切るよりほかないだろう。


 キュッと口を引き結んで決意を固めていると、突然、いぶかしげに眉を寄せた柴谷がわたしの顔をのぞきこんだ。




「お前、もしかして食わないつもり?」

「仕方がないかなって。購買休みならどうしようもないし」



 正直、お弁当抜きは結構きつい。
 肉体的にもきついし、午後の授業でお腹が鳴るときの恐怖に耐えないといけないというのなら、精神的にもかなりきつい。


 ……というより今は、彼の視線の近さに驚く。ものさし、用意したほうがいいんじゃないか。


 顔をあげたすぐそばに柴谷の顔があって、途端に心臓が暴れ出す。ヒュ、と息が止まった。



 三十センチものさしでは、明らかに長すぎる。

 至近距離もいいところだ。



「近く、ない?」


 付き合っているわけではないと言ったくせに、その距離はどう考えてもおかしい。少し身を乗り出せば鼻先が触れ合うくらいの距離に、彼はいた。



「……嫌?」



 は、と息が洩れる。伏し目がちな彼の目がわたしを見ていた。いつも聞いているよりも低い声に耳が痺れる。


 わたしは嫌なのだろうか。近い距離に彼がいることが。
 自分に問いかけてみても、なかなか答えは見つからなかった。




 黙り込んだわたしから目を逸らした柴谷は、ふ、と小さく息を洩らした。それは今まで一度も見たことがないほど、消えてしまいそうな微笑だった。

 心臓を鷲掴みにされたような感覚になる。それは、彼の写真を初めて見たときの感覚と似ていた。



 世界から音が消えて、時間が止まる。
 わたしたちの呼吸音だけが、この世界の言葉だった。



 しばらく動きを止めていた柴谷は、悪い、と言葉を落として後ろにさがる。


 その瞬間、勢いよく空気が肺に流れ込んでくる。無意識のうちに息を止めていたみたいだ。


 さっきは儚く微笑んでいたはずなのに、もうすでに彼は何も意識していないみたいに、平然としている。頬が赤くなることも、必死に息をしているようすも見せない。わたしに「近い」と指摘された気まずささえ感じさせないようだった。



 わたしばかりが気にしているみたいで、なんだかくやしい。
 柴谷にとって、わたしの存在ってなんなのだろう。




 柴谷の顔を見るのがなんだか無性に恥ずかしい。目を合わせたら、さっき至近距離で見たときの熱が蘇ってくるような気がした。

 会話をしないまま、黙って空を眺める。柴谷は相変わらず真剣なまなざしで写真を撮っていた。



 いつかこの青空を窓ガラス越しではなくて、直接見てみたい。

 柴谷のとなりで。




 予鈴がなって、わたしたちはおもむろに立ち上がった。美術準備室にカメラを片付けにいく柴谷。
 わたしが先に帰ろうとすると、柴谷はめずらしく「待て」と言った。

 何か特別な用事でもあるのかと思ったけれど、そうではないらしい。完全に彼の気まぐれだった。
 カメラを返してきた柴谷の少し後ろを歩いて教室に戻る。



 教室に入る直前、戸に手をかけた柴谷は振り返った。


「しょうがねえな」


 廊下の窓から差し込む明かりが、彼を静かに照らす。



「昼、集合な」



 ────あの場所で。


 彼の唇の動きが、そう言っていた。
 秘密の場所で、秘密の待ち合わせをとりつけた彼の背中が教室に溶けていく。

 わたしは声を出せないまま、その背中を見つめていた。




 柴谷はいったい何を考えているんだろう。どうして今日の昼、わたしに集合だと言ったのだろう。
 そんなの、行ってみればわかることか。いや、でも。


 教室の前でぐるぐると考えてばかりだ。行きたい、行きたくない、行かなきゃいけない。
 行く? 行かない? 行ってもいい?



 自分の中でさまざまな意見がぶつかり合い、最終的に出た答えは。


「……行こう」



 堂々巡りに終止符を打とうと、無理やりにでも自分を納得させる。

 教室に入ると、もう柴谷は男子に囲まれていた。さっきまでわたしと一緒にいたのに、目すら合わない。
 無意識にこぼれ落ちたため息が、教室の空気に溶けていく。




「おはよう、葉瀬さん」
「山井さんおはようございます」



 ひかえめに手を振る山井さんに挨拶を返し、わたしも自分の席につく。彼女は少し前のグループ活動のとき以来、こうして朝の挨拶をしてくるようになった。




 横目で柴谷を盗み見る。柴谷は無表情かと思いきや、そばにいた男子の発言で急に笑ってみたり、おどけたようすの男子にツッコミを入れたり、呆れたように目を伏せたりと何度も表情を変えていた。


 いつもの柴谷だ、と思う。

 男子に囲まれているときに見せるめいっぱいの笑顔。女子と話しているときに見せる気だるげな顔。
 そして、わたしと一緒にいるときに見せる優しい顔。



 すべてが違うから、どれが本当の柴谷なのかが分からなくなる。






 ーーああ、本当に。君は、わたしを困らせるのが上手だ。








「わたし、食べるもの何もないよ」
「ばーか。だから呼んだんだろうが」


 昼休み。約束の場所に行けば、もう柴谷はそこで待っていた。
 近くの階段のすみに二人並んで座る。

 ……狭い。柴谷の肩が触れている。
 ざわざわっとなぜか胸騒ぎがして妙に落ち着かなくなる。


 落ち着け、わたし。動揺することなんて何もない。
 思いの外騒ぎだす心のうちを悟られないように、必死に言葉を探した。咄嗟に浮かんだ質問をそのまま口にする。



「柴谷はいつもここで食べてるの?」

「そうだよ」



 端的な回答だった。

 いつも教室に彼がいないのは、ここで一人過ごしていたからなんだ。
 少し前から疑問に思っていたことの答え合わせ。



「鮭と梅、どっち」
「うめ」



 何がなんだか分からないまま答える。袋からあらわれたのは、コンビニのおにぎりだった。
 梅と書かれた包装のほうを手渡される。どうやらさっきのはおにぎりの具を訊いていたらしい。


「もしかして毎日コンビニ食品なの?」

「違えよ。今日はたまたま。葉瀬が弁当忘れるの見越して、神様が仕組んでくれたんじゃね?」

「へぇー、『神様』って。柴谷もそんなこと言うんだ、意外」



 はいこれ没収な、とおにぎりが取られそうになったので慌てて死守する。
 彼の口から「神様」という言葉が出てきたことがなんだかおかしくて、つい言葉に出してしまった。案の定怒りポイントに触れたらしい。怒りといっても、軽く咎められる程度のものだけれど。


「美味しくいただきます」
「感謝しろ」



 感謝してるってば、と心の中で思う。
 横柄な性格はどうにかしたほうがいいよ、といらぬことを思いつつも、昼食を分けてもらったので柴谷には頭が上がらない。素直に合掌をした。


 コンビニ食品を食べる機会は多い。
 できるだけ母の手を煩わせないためと、あとは自分で作るのが面倒くさいという理由から、休日の昼食はだいたいコンビニで済ませているから。


 当然この梅おにぎりにはいつもお世話になっている。
 それなのに、このおにぎりはまるで魔法でもかかったみたいだ。いつもよりも美味しく感じる。


 わたしの横で、柴谷は静かに笑っていた。
 普段の堅苦しい顔がふっと崩れて、柔らかい印象が前面に押し出される。不覚にも、きれいだと思った。


 ふと浮かんだ疑問をそのまま口にする。



「いつも一人なの?」

「悪いかよ」




 ぶっきらぼうな口調はいつもと変わらない。
 それなのに、彼の横顔は少しだけ寂しそうに見えた。



「悪いとかじゃないけど、その。さみしく……ない?」



 まっすぐ先に空が見える。青く透き通った空。
 溶けていきそうなほど澄んでいるから、そんな疑問が口をついたのかもしれない。





「お前は?」


 え、と声が洩れる。

 質問に質問返しはよくないと、過去に誰かが言っていた。
 記憶が定かではないけれど、たしか中学時代の国語の先生だったような気がする。



「お前は寂しくないの?」




 柴谷と、ようやく目が合った。




 ────わたしは、さみしいのだろうか。

 なぞらえるように自分に問いかけてみる。


 毎日息苦しいのは、わたしが寂しいから?
 死にたい、消えたいとマイナスなことを思ってしまうのは、わたしが独りぼっちだから?



「……さみしい、のかな。わたし」



 自分のことなのにわかんねえのかよ、と笑った柴谷は、わたしの頭をぐしゃっと撫でた。頭に触れられるのは初めてだったから、びっくりして固まる。彼の手が離れたあとも、手の感触がまだ頭に残っていた。


 寂しいって、どういうことだろう。大切なものがなくなったとき、会いたいと願う人に会えないとき、自分の周りに人がいないとき。

 それを寂しいというのなら、わたしは。




「そっか。わたし……さみしいんだ」



 ずっと考えていた、息苦しさの理由。
 わたしは、寂しがっている。無意識のうちに、心が勝手にぬくもりを求めていたんだ。

 柴谷、と呼ぼうとした唇が震える。たった四文字を発音することさえも、今のわたしには難しかった。





 強がっていたつもりはなかった。記憶を失ってしまったのは変えようもない事実で、避けられない運命だと、必死に自分に言い聞かせて生きていた。大人になるうえで、わたしに課せられた試練だと。

 だけど、やっぱりわたしだけでは耐えられなかった。
 ひとりはしんどい。一緒に支えてくれる人がいないと、わたしだけでは苦しい。

 手足の動かし方、感情の出し方、息の仕方すら分からなくなってしまう。



 きっとあの日、柴谷がわたしの前に現れてくれなかったら。こうして一緒に過ごす時間をつくってくれなかったら。

 ーーわたしはとっくに息苦しさに溺れて死んでいたのだと思う。





 食べ終えたおにぎりの包装をぎゅっと手のひらで包み込む。
 そのままぎゅうぎゅうと握っていると、ふと、あたたかいものが頬を伝った。

 となりから伸びてきた彼の指先が、ゆっくりとそれ(・・)を拭う。



 透明な涙だった。



 どうして彼はわたしに執着するのか。
 ここまでわたしにつきまとってくるメリットは何なのか。


 彼と出会ったあの日から、ずっとその答えを探していた。



「安心しろ。俺が一緒にいてやるよ」



 ああ、だから、彼は。
 彼がしつこくわたしにつきまとってくる理由が、ひとつ分かった気がした。

 彼はわたしの心を早々(そうそう)に見抜いていて、わたし自身でさえ気がつかなかった理由にも気づいたうえで、何も言わずにとなりにいてくれたのだ。



 彼は優しいから。
 自分が寂しいことにすら気づけない可哀想なわたしのそばにいて、わたしを支えてくれていた。


『俺は優しいから、ひとりぼっちで可哀想なお前のとなりにいてやるって言ってんだ』


 彼は何も嘘なんて言っていなかった。

 何か裏があるかもしれないとわたしが勝手に疑って、彼のことを信じていなかっただけで、彼の言葉には『本当』しかなかったのだ。



 ふたりで、真っ青な空を眺める。雲ひとつない、いっさいの濁りもない。一色で描かれた空だった。



「青空ってさ」

「うん」

「すげえ広いじゃん。快晴って気分よくなるし、雨が降る心配もないし。雲が一個もなくて、一面の青じゃん」

「……うん」

「だけど、俺はそれが少しこわい。ずっと見つめてると、寂しい気持ちになる」



 ふ、と柴谷は肩を揺らす。

 見つめると、彼の透明な瞳がまっすぐにわたしを向いた。艶やかな双眸にとらわれた瞬間、心が小さく締め付けられる。



「……だからお前もかなって、思った」




 その瞬間、また涙が頬を濡らした。なぜなのかは分からない。

 「わたし」として、『葉瀬紬』の人生を歩みはじめてから、一滴も出なかったはずの涙。苦しい痛いと嘆いても、一向に流れるはずのなかったものを。

 彼はこんなにも簡単に流させてしまった。
 わたしの心は、あっさり彼に(ほだ)されてしまったのだ。



「なんで……分かったの」


 さみしくないの?なんて。
 澄んだ青を見て、そんな質問をしてしまった。それはきっと、彼と同じように空がさみしいと感じてしまったから。



「なんとなく」

「それって理由になるの?」



 なるよ、と断言される。なんとなく、って曖昧な言葉だから、矛盾しているような気がするけれど。



「葉瀬にもいつか分かるよ」

「……ふぅん」



 いつか、だなんて。
 まるでわたしよりも先に進んでいるかのような物言いに、なんだかもやもやする。

 わたしだけが子供で。
 柴谷はわたしよりも大人に近づいていて。


 わたしだけがいつまでも止まったまま。
 それがほんの少し悔しい。


 顔を背けていると、ふいに柴谷が「あ」と声を上げた。



「葉瀬」

「なに」

「そんな拗ねるなって。いいモンやるから」

「拗ねてないよ」



 拗ねてないと言ったのに、それすらお見通しだと柴谷は笑っていた。彼は悪戯っぽく口角を上げて、何かを袋から取り出す。

 これやるよ、と半ば強引に手渡されたのは一粒のキャラメルだった。



「食べてみ」

「……ありがと」



 茶色い直方体を口の中に放ると、砂糖の甘さがひろがる。これくらいしつこい甘さは嫌いじゃない。
 甘いものは好きだ。卵焼き同様。



「美味いだろ」

「うん。ありがとう」



 わたしの反応に満足したのか、柴谷はククッと笑っていた。あくまでわたしが食べたのであって、柴谷自身が食べたわけでもないのに、なんだか嬉しそうだった。


 それにしてもミルクキャラメルか。
 甘いもの好きなのは意外だった。


 少しだけ可愛いな、と思う。可愛いというのはあれだ。
 見た目も言動も男性らしさが目立つから、ギャップが可愛いというだけの話だ。


 ひとりでよく分からない訂正を挟みながら、ひっそりと脳内の柴谷図鑑に【甘いもの好き】と書いておく。もしかしたらこの先役に立つかもしれないし。



「……いや、役立つわけないか」
「は?」



 おかしくなってひとりぼやくと、柴谷は眉をひそめた。その顔がおかしくてプッと吹き出すと、つられたように柴谷も笑う。

 その表情があどけなくて、いつもとは違う彼をみられたような気がして、どこか懐かしい気持ちになる。





 今日の空は快晴。

 明日はどんな空なんだろうか。彼と見る雨は、どんな色をしているのだろうか。
 彼と見る雪は、いったいどれほど美しく思えるのだろう。



「ありがとう、柴谷」



 おう、と返事をした柴谷は、ふいっと顔を逸らした。
 どこか素っ気ないように見える所作も、今なら気にしないでいられる。


 彼はちょっと不器用なだけで、本当はとても優しい人だと気づいたから。



「……ねえ、柴谷」

「ん?」

「明日からも、ここで一緒に食べてもいい?」

「当たり前」




 期待していた回答に、思わず頬がゆるんだ。



 朝だけじゃなくて、昼も彼に会いたい。もっと彼のことを知りたい。



 ふとそんなことを思っている自分にびっくりするけれど、本心だから訂正する必要なんてない。



 毎日彼の声でわたしは目醒める。
 一日の始まりには、必ず彼がいる。

 その事実が、たまらなく嬉しい。




「ダメだったら誘ってねーよ」



 彼が笑うたび揺れる黒髪が、陽光を浴びて銀色に輝いていた。












「スマホ、新しいのに変えておいたからね」


 母からそう告げられたのは、記憶を失った退院後すぐのことだった。
 あ、はい。と短い反応しかできなかったことをよく覚えている。



「もちろん紬が使いたかったら、前のほうを使ってもいいよ。まだ契約したままだから」



 恵まれていると思う。
 申し訳なくなるくらいに。



 結局、前のスマホはまだ一度も使えていない。

 前の自分が、否────本当の葉瀬紬が誰とどんな会話をしていたのか、見るのがとてもこわかった。
 まったくの別人のスマホを覗きみているような感じがして、気持ち悪くて仕方がなくなりそうだった。


 だからスマホは押し入れに閉まってある。購入時に貰う箱に入れたままで。




 新しいスマホの通話履歴を開く。
【母】という文字だけが連続している。日付を見るとだいたい三日おきくらいだ。


 スクロールしていくと、一番最初の履歴に【父】という表示があった。


 試しにかけてみたときだと思う。

 けれど、父との通話履歴はそれが最初で最後だった。とくに用事がないので、電話をすることはおろか話すことすらあまりない。何かあれば、話すのは母ばかりだ。


 友達との履歴はまったくない。今のところ、わたしのスマホの履歴を埋めているのは両親だけだ。





 『連絡先』をタップすると、一番上に表示された文字にドキリとする。


【柴谷】


 ただただシンプルだった。
 意地でも名前を使いたくないのか。

 そう聞いたとき、彼は少し考えてから、


()えてだよ」


 と笑っていた。
 もうすっかり耳に馴染んだ苗字。


 柴谷、しばたに、と。

 最近のわたしはもう彼の苗字しか呼んでいないような気がする。



 彼とお昼を共にするようになってから、はやくも二週間。



『葉瀬スマホ出して。連絡先』



 アドレスの交換はあっさりしていた。
 言葉足らずの彼が差し出すスマホのQRコードを読み込む。


 たった、それだけ。


 正直なところ、連絡することがないから意味があるのかは分からない。


 けれど心の持ちよう的に、少し違うような気がする。

 彼の名前があるだけで、不思議と支えられているような気持ちになるのだ。




 その時ピロンとメールの着信。フォルダを開くと、母からだった。


『ごめん。今日遅くなるから冷蔵庫のご飯食べておいてね』


 共働きの両親。わたしがこうなってしまってから、余計に働きに出ているような気がする。
 間違いなく大きな負担になっているのが申し訳ない。

 だからわたしができることといえば、自分でご飯を食べてできるだけ手間を取らないように片付けておくだけ。
 料理するよと言えば、それは大丈夫だと断られた。毎日自分のお弁当をつくるだけでじゅうぶんだと。


「いただきます」



 チッチッと時計の秒針が時を刻むだけ。


 さみしい……と言われれば、そうなのだと思う。

 決して口には出せないけれど、寂しい気持ちに変わりはない。



 テレビをつけることすら面倒で、音のない部屋のまま、夕飯を口に運んでは咀嚼する。

 わたしが唯一誰かと摂る食事は、昼食だけ。



 食器を洗って二階に上がる途中、ふいに目に留まった押し入れ。

 今まで気になったことなどなかったのに、無性に開けたくてたまらなくなった。



 無意識のうちに手を伸ばしていたらしい。冷たい金具に指が触れる。


「……っ!!」



 タイミングを見計らったかのように、キィィンと耳鳴りがして、次の瞬間にはとっさに手を離していた。ドクドクとものすごい速さで鼓動が波打っている。目がまわって、呼吸が浅くなって、歯を食いしばっていないと今にも倒れそうな頭痛におそわれる。


 嘘でしょ?


 


「無理だ……」


 後ずさって、金具をじっと見つめる。

 何か大切なものがこの中にあるはずなのに、それは痛いくらいにわかっているのに、どうしても身体が動かなかった。


 視線が一点を見つめる。身体だけじゃなく、視線までもが動かなくなることがあるんだと。

 くるりと背を向けて、逃げるようにその場を去る。
 秋だというのに、べっとりと全身に汗をかいていた。


 自分の部屋に入ってもなお、身体から汗が噴き出してくる。


 電気をつける余裕などない。窓から差す夕日が、家具の影をつくる。


 呼吸を整えようと深呼吸を繰り返しても、わたしの足は震えたままだった。













「柴谷みて! 今日はたまご焼き二個入ってまーす」

「よかったな」

「反応薄っ! てか、まーたコンビニ食品じゃん」

「悪いかよ」

「身体にはあんまりよくないじゃん。仕方ないなぁ、そんなかわいそうな柴谷にはこのミルクキャラメルをあげよう」





「甘いの苦手って言ってんだろ」

「あはっ、知ってる!」




「おはよう、紬」


 午前四時四十分。いつもどおりの朝をともに迎えたのは母だった。



 朝はコップ一杯の白湯を飲むのがいい。そう聞くから、毎朝かかさず飲むようにしている。

 リビングのドアを開けると、もう母はソファーに座っていた。



 驚いて突っ立ったままのわたしに、母は何度かまばたきをしてから、


「今日ははやく目が覚めちゃって。あ、でも今起きたところだけど」


と呟いた。それきり、時計の秒針の音しか聞こえなくなる。

 はやく目が覚めちゃってという割には整っている髪や、しっかり開いた目を見る限り、それを寝起きと呼ぶには少々苦しい。


「わたし、お弁当を作りにきて」
「お弁当なら作ってあるよ。お母さんのじゃ満足できないかもしれないけど、少しでも楽になるといいなと思って」



 わたしに被せるように告げられたその言葉で確信した。
 このはやすぎる時間よりももっとはやくから、母は起きてわたしを待っていたのだ。
 

 嘘をつくのが下手なんだと思う。
 きっと、まっすぐ生きてきた証だ。



「そう、なんだ」



 相手が嘘をついていると気づいた時、その反応に困ることがある。何か理由があるのだろうかと、わざと気づかないふりをすることもあれば、指摘することもある。

 すべては相手との親密度で決まることだけれど、嘘を見過ごしたことで後々大きな後悔になったり、逆に見破ってしまったせいで関係にヒビが入ったりする。


 そこの見極めが難しい。


「たまにはお弁当作るのもいいわね、楽しくて」



 嘘を流したわたしに、母は小さく笑ってキッチンへ向かった。


「あの、お母さん」

「ん?」

「お弁当つくってくれてありがとうございます」


 しまった。
 こういうときこそ敬語を外すべきだった。言ってしまってから後悔するだけで、言い直すこともできないのでうつむく。


「いいのよ」


 それは何に対してか。

 お弁当ありがとうに対する言葉か、敬語のままでごめんなさいに対する言葉か。


 その真意は、母の微笑みからは読みとれなかった。




「そうだ紬、朝ごはん食べていく?」



 目が合う。

 これが"本当"なんだ、と唐突に理解した。

 考えつく早起きの目的などこれしかないというのに、母はなんでもないトーンのままきいてきた。


 あくまで"普通の会話"であるように、その場で思いついたように告げられた言葉が耳を抜ける。



 母はこれをきくためだけに、早起きをしてわたしを待っていたのだ。

 偶然起きてしまったふうを装いながら。




 ずっと願望として抱いてはいたけれど、口に出したことはなかったから、まさか母がここまでするなんて思わなかった。半ば夢を見ているような気持ちのまま、こくりとうなずく。



「……食べる」



 よかった、と小声でつぶやいた母に、学校の支度をすると告げ、わたしは自室に戻った。




 想定外の出来事にまだ少し取り乱している。深く息を吸って、呼吸を整える。


 今日は学校に行くのがいつもより遅くなるだろう。
 朝ごはんを食べていく以上、いつもと違う時間になるのは当然のことだ。


 柴谷に連絡すべきか迷う。そのためのスマホだ、と叫ぶ自分もいれば、そんなことで連絡するのか、と囁く自分もいて、両極の意見に翻弄されてしまう。


【今日学校に行くのが遅くなる】



 悩んだ結果、国語の教科書に載っている例文のような、なんともお堅い文章になってしまった。業務連絡なのか、と脳内で一人ツッコミをいれる。


 それから身支度をしてリビングに向かい、朝食をとっている間も、妙にそわそわして仕方がなかった。我ながら執着しすぎかと思ったけれど、彼からの返信をまだかまだかと待っている自分がいるのは誤魔化しようがない事実だった。



 久しぶりにとる朝食は、やはり重かった。今まで一日二食生活だったわけなので、当然のことといえば当然だけれど。

 母はじゅうぶんなほどの朝食を用意してくれた。いつから準備して、いつから待っていたんだろう。断らなくてよかった、と安堵できるほどのクオリティだったため、余計に申し訳なくなる。


 朝食を口に運ぶわたしを、母は向かいの椅子に座って静かに見ていた。とくに会話をするわけでもない。だけど、沈黙にいつものような気まずさは感じなかった。むしろ今までにはない心地よさを感じていた。

 まさか、こんなにすぐに願いが叶ってしまうなんて。ただ、わたしからきっかけをつくったわけではなく、これはあくまで母の優しさの結果だ。
 そこは履き違えてはいけない。



「ごちそうさまでした」
「ありがとうね、紬」


 合掌すると、母は泣きそうな顔で微笑んだ。流しまで食器を運びながら、じゅうぶんすぎるほど丁寧に作られていた朝食を思い出す。

 お礼を言うのはわたしのほうなのに、この人はどこまでいい人なんだろう。わたしは親に恵まれすぎている。


「紬。本当にありがとう」


 もう一度お礼を告げた母に、うん、とうなずく。じんわりと心の内側からあたたかいものが込み上げてきた。

 部屋に戻ると、机の上に置いてあるスマホに着信があった。言うまでもなく、柴谷からだ。
 深呼吸をして、メッセージ画面を開く。何と返ってくるのか気になってそわそわしていたのに、送られてきたメッセージをみて拍子抜けしてしまった。


【了解】


 ふは、と笑みが洩れる。端的すぎて逆におもしろい。
 業務連絡が成立してしまったみたいだ。

 けれど柴谷の返信はこれがしっくりくるような気がした。逆に長文を送られてきたほうが、それこそ彼のイメージ崩壊につながる。


 可笑しくなってひとり笑っていると、追加でメッセージが送られてくる。
 なんだろう。端的すぎて、言い忘れたことでもあるのだろうか。



【待ってる】



 液晶画面を目でなぞり、気付けばスマホを凝視していた。
 ぎゅっと心臓が掴まれたように苦しくなる。


 待ってる。
 柴谷は、わたしを待っている。


 彼の文章をそのまま受け取っていいのならば、こんな解釈になる。
 ここでまた「そんなはずがない」などと思えば、間違いなく彼からのお叱りが飛んでくるだろう。

 いい加減信じろ、と脳内で勝手に再生されてしまうほど、わたしは彼と一緒にいすぎてしまった。




 柴谷はすごい。たった四文字だけで、わたしが学校に行く理由をつくってくれるから。

 学校に行けば彼が出迎えてくれる。そんな安心感を与えてくれる存在だから。




 ブラウンのコートを制服の上に羽織る。玄関へ向かう途中でリビングから顔を出した母が「いってらっしゃい」と笑みを浮かべた。

 いってきます、とまだ上手く動かない口から声を出す。誰かに挨拶をして出かけるのは、「わたし」として初めてだった。


「紬」


 ドアノブに手をかけたところで、ふいに母が名前を呼んだ。


「気をつけてね」


 わたしと同じようにまた、母も緊張しているのかもしれない。わたしにとっての母も、母にとってのわたしも、お互いに他人でしかないのだから。
 それでも母はわたしに向き合ってくれようとしている。

 わたしはいつも逃げてばかりで、こうなってしまったのは運命だったと甘えて、向き合おうとしなかったのに。

 それでもこの人は、お母さん(・・・・)は、ずっとわたしを見てくれていた。


 うん、とうなずく。
 ずっとわたしたちの前にあった見えない壁が、徐々に崩れていく音がした。


 息を吸って、逃げ続けていたその目に視線を合わせる。とても優しいまなざしが、わたしをとらえた。

 ずっと言えなかったその名前を、今なら紡げるような気がした。



「ありがとう、お母さん」



_____


 ドアを開けると、秋風が頰を突き刺すように吹いた。頰が冷えたことで、身体までもがぶるりと震える。最近、めっきり秋めいて肌寒くなった。



「あ、紅葉」


 見上げると、秋晴れの澄んだ空に、紅葉がひらひらと舞っていた。青と赤のコントラストに、思わず目を細める。



……どんな色合いにしよう。配色は。メインのものは何にしよう。


「え?」


 ふと思考が変な方へと曲がっていることに気づいて、思わず足を止めた。


 わたしはいったい何を思った?
 どうしてそんなことを考えた?


 自分で自分に問いかけてみる。
 けれどいくら考えても納得のいく答えは導き出せなかった。不完全燃焼のようなもやもやした気持ちのまま、紅葉が舞い散るなかを歩く。



 ーーさっき、わたしではない『何か』が出てきたような感覚だった。

 ずっと恐れていた。
 以前の(・・・)葉瀬紬が、わたしを乗っ取ろうとする……違う。


 葉瀬紬という『本物』が、『偽物』のわたしから全てを取り返そうとする日を。


 それは信じられないほど苦しいこと。
 だけどきっと周りの人たちは本物を望んでいる。両親はたぶん、安堵で涙を流すだろう。わたしと距離をとっている友達はまた寄ってきてくれるようになるだろう。山井さんも今より親密に話しかけてくれるようになるかもしれない。


 柴谷は……彼も、そっちの方が嬉しいと思う。


 今のわたしは誰にも求められていない。
 だからわたしははやく記憶を取り戻さなくちゃいけない。

 みんなのために、消えなくてはいけない存在。



 無意識のうちに唇を噛んでいた。
 涙を流さないためなのか、悔しさを抑えるためだったのか。



……悔しいのか、わたしは。
 泣くほど悲しいのか、わたしは。



 消えたいと思って生活していたはずなのに、いつしか消えたくないと思ってしまうようになってしまったのか。

 それが本当だったとしたら、きっかけをくれた人は、たった一人しかいない。
 唯一、心当たりがある。




 そのときふと、聞き慣れた声が耳をかすめた。


「おはよ、葉瀬」


 下を向いていたから、急に声が飛んできてびくりと肩が跳ねた。


 最初は、ついに幻聴が聞こえるようになったのかと思った。
 けれどどうやら、幻ではなかったらしい。



「しば……っ、なんで、いるの?」
「朝の時間取れないだろうから。今日だけ特別」
「は……?」



 あどけない顔で笑う柴谷のもとへ駆け寄る。


「でも、遠いでしょ? どうしてわざわざ」
「迷惑?」
「それはないけど、でも」



 迷惑なんて、思うわけない。けれど学校からここまで結構距離があるはずだ。見たところ自転車というわけでもなさそうだし、きっとここまで歩いてきたのだろう。
 どうしてわざわざそこまでしてわたしを。


 それに、どうしてわたしの家を知っているのか。

 そんな疑問が生まれたけれど、それはすぐに自己解決した。
 だって、答えはたったひとつだけ。昔のわたしが、柴谷に教えたのだ。それほどの親密度だったのだ、わたしたちは。


 こんなところまで迎えに来るなんてお人好しなのだろうか、と考えたけれど、その考えはすぐに排除された。だって彼は、あまり執着しないタイプの人間だから。自分を犠牲にして誰かのために働くとか、みんなの幸せが自分の幸せだとか、そういう人たちの部類ではない。

 クラスでも誰かのために動いているのを見たことがないし、リーダー役を進んで引き受けているわけでもない。もちろん頼まれたら応じるけれど、それまでだ。

 基本的に、人に興味がない人だと、関わりが増えた今でも思っている。


 どうして、と理由を求めるわたしに、苛立ったようにくしゃっと頭をかいた柴谷は、そっぽを向いたまま告げた。


「会いたくなったから」
「……え」
「これが理由。お前うるさいから。これで満足?」


 言葉は刺々しいのに、全然嫌な気がしないのは、ひとつ前に言われた言葉があまりに強烈すぎたからかもしれない。


「……なにそれ」


 ほんと、なにそれ。
 会いたくなったって、なにそれ。



 柴谷はまた飄々としていた。彼には照れという感情がないのか。
 それとも、本当に思っていないから簡単に言葉にできるのか。


 恥ずかしげもなくそんなことを口にする柴谷。
 彼は余裕そうで、わたしばかり意識してバカみたい。




 それきり何も発せなくなって、口を噤んだ。
 どうして、なんでとまた訊きたいことが増えたと言うのに、同じことを繰り返し言われたらもう心臓がもたないような気がした。



「目覚めは早いほうがいいだろ?」



 柴谷が言葉を紡ぐ。
 心臓を鷲掴みにされたような感覚だった。この感覚は、三度目。初めて写真を見たときと、至近距離で見つめ合ったとき。そして、今だ。



 あ、と頼りない声が洩れたきり、話しかたを忘れたみたいに声が出なくなる。

 そのかわりに心臓の音だけが響くものだから、柴谷に届いてしまうんじゃないと心配になった。


 胸の内側から叩かれているみたいに、トントンと音が鳴る。



「ねぇ柴谷……っ」



 歩き出したその背に声をかける。



 ねぇ、柴谷。

 わたし、君の。



「写真、撮ってもいい?」




 何か形に残しておきたかった。
 これから先、彼を忘れることがあっても、その度に思い出せるように。


 ああ、そうか。だから柴谷は写真を撮るんだ。
 この一瞬の幸せを、たしかな青春を、忘れずに残しておくために。




 スマホを構えたわたしを見て、驚いたように目を開いた柴谷は、それから少し笑った。







 この瞬間を、思い出せますように。

 彼と離れる日が来ても、わたしがわたしじゃなくなる日が来ても、何度でも、なんどでも。




 その日、空っぽだったわたしのカメラロールには、初めての色が加わった。



【全国高校生フォトコンテスト】


 図書室に行ったときのことだ。


 少しでも記憶喪失の手がかりがほしくて、その類の本を抱えて貸し出しカウンターに向かう途中。
 ふと、棚に置かれた冊子のタイトルに目を惹かれた。



 特別写真に興味があるわけではない。
 けれど、【フォト】という字に足が止まってしまったのは、同時に柴谷の顔が思い浮かんだからだ。



「気になるの?」


 囁く声に振り向くと、『矢崎』というネームプレートを首から下げた女性が立っていた。
 司書さんか、と理解する。



「気になるっていうか、その」
「ん?」
「とも……知り合いの写真が載ってるのかなって、思って」



 気になっている以外の何でもないのに、すぐに否定してしまって後悔した。柴谷のことを友達と呼ぶのもなんだか憚られて、言葉に詰まってから答える。
 けれど矢崎さんはとくに気にしたようすもなく、「そうなのね」と穏やかに笑った。



「見ていってもいいわよ」


 矢崎さんは、わたしが持っていた本を受け取り、手続きを始める。手持ち無沙汰になったわたしは、まるで吸い寄せられるように、フォトコンテストの冊子を開いていた。


 フォトコンテストとやらは、毎年開催されているらしい。この冊子は今年のもので、ついこの間結果が出たのだという。応募されている写真はすべてポートレート──人物の写真──だった。



 この学校の生徒もちらほら受賞しているようだった。

 受賞した写真の横に、高校名と名前が載っている。




 そこに柴谷の写真はなかった。
 何度も最初から最後までくまなく目を通して、目次も見返した。けれど、何度見ても彼の名前はそこには載っていなかった。



「あった?」



 貸し出し手続きを終えた矢崎さんの声に、力なく首を振る。


 信じられない。
 てっきり受賞しているものだと思っていた。



 わたしに写真の才能なんてない。
 どの写真が優れているかの判断なんてできやしない。



 それでも、彼の写真は評価されるべきだ。
 初めて見たとき本当に衝撃を受けた。彼が切りとる世界は繊細で、美しくて。

 素人(しろうと)のわたしでも、心惹かれるものが彼の写真にはあるのだから。



「ちなみに、その人のお名前は?」



 正直ためらった。
 柴谷の写真を探していると伝えるのが、どこか気恥ずかしかったからだ。


 しばらく逡巡したのち、顔をあげる。
 彼の名前を伝えてでも、彼の写真が載っているのを見たかった。


「柴谷です」


 そう告げた瞬間、矢崎さんの顔がスッと曇る。ほとんど一瞬の表情の変化を、わたしは見逃さなかった。
 ーー見逃せなかった。


「柴谷のこと、知ってるんですか」
「え?」


 これ、訊いてもいいのかな、とか。
 気づかなかったふりをしたほうが幸せなんじゃないか、とか。


 普段なら嫌というほど考えるはずのそれを、今はまったく気にしていなかった。


 困惑したように苦笑する矢崎さんは、今にも逃げたそうに顔を歪めていたけれど、やがて観念したように「写真撮るのが上手い子よね」と言葉を落とした。

 写真部顧問はともかく、司書さんでもそんなふうに認識をしているなんて。やっぱり彼はこの学校内で知名度が高いんだ、と理解する。だったらなおさら、彼のことを知りたい。
 どうして冊子(ここ)に名前が載っていないのか。



「何か、理由があるんですか」
「え?」
「柴谷は、どうして載ってないんですか。受賞しなかったんですか」



 矢崎さんの言い方だと、彼には間違いなく才能があるみたいだ。
 受賞しないなどあり得ない、と。


 ーー写真撮るのが上手い子よね。

 矢崎さんは柴谷の写真を見たことがあるんだ。もしかしたら、わたしが知らない過去で、彼はコンテストに応募していたのかも知れない。そして、彼の写真は評価されてきたのだろうか。わたしが、知らないだけで。



 矢継ぎ早に質問するわたしを一瞥した矢崎さんは、窓の外に視線を移した。



 薄暗い曇で覆われた空から、ポツポツと小雨が落ちてくる。




 矢崎さんの口から告げられる真実を聞くのが怖い。それなのに、わたしは夢中になって矢崎さんを見つめていた。

 フォトコンテストの冊子を持つ手に力がこもる。




 しばらく逡巡したように黙っていた矢崎さんは、小さく息を吐いて、そっと目を伏せた。






「応募しなかったのよ、彼」




─────

───




 いつもの場所で、同じようにカメラを構える柴谷の背中を見つめていた。早朝の空気が日に日に冷たくなっているのが分かる。



「ねえ、柴谷」
「ん?」




 最近、時の流れがはやい。なんて、大人みたいなことを思うようになったものだ、と思ったけれど、あと一年も経たずしてわたしは成人するらしい。すっかり大人の仲間入りだ。


 漠然としていてこわい。やっていけるのか、ちゃんと生きていけるのか、こわい。
 それでも、柴谷がとなりにいてくれるのなら、そんな日がずっと続いていくのなら、なんだかやっていけそうな気がする。最近はとくにそんなおかしなことを思ってしまうのだ。




 彼の瞳がスッとわたしに流れる。世界を切り取っていた硝子玉のような瞳は、わたしだけを捉えていた。



「写真、コンテストには出さないの?」



 彼はコンテストに応募しなかった。その事実を知ったのは、先週の水曜日のこと。
 本当はもっとはやく理由を聞きたかったのだけれど、彼にとって触れてはいけない部分のような気がして、なかなか踏み出せなかった。


 誰だって、触れられたくない部分がある。わたしは、わたしの記憶に関してあまり触れられたくない。
 嫌だ、というより、どう説明したらいいかわからなくなるから。今のわたしの状況を説明しろと言われても、できないと首をふるしかない。

 思えば、彼は一度もわたしの記憶について訊いてきいたことがなかった。周りの憐れむ視線を取り払ってくれることはあっても、彼から話題に出したことは一度だってない。彼は最初から、まるでわたしがフツウ(・・・)であるかのように接してくれていた。




 写真を撮る彼のとなりで、ずっと思っていた。部活として活動しているのならば当然コンテストに応募しなければならないだろうし、彼の実力なら何かすごいことが起こるに違いないと思ったから。
 それなのに、どうして応募しないのか。深刻な悩みを聞くためじゃなかった。

 ただ単に、このときのわたしは自制心よりも興味が勝ってしまった。



「俺、写真部じゃねえし」


 カメラを構えながら、柴谷が答える。
 聞き捨てならない言葉に目を丸くすると、柴谷は「知らなかったのか」とあきれたようにつぶやいた。


「じゃあどうして柴谷は写真撮ってるの? 部活は?」
「写真部だとお題が決まってるせいで好きなもの撮れないから。だから部活入ってない」


 たしかに、校内に飾ってある写真は建物や校内のとある場所の場合が多い。どうも、顧問がやる気に満ち溢れた人で、写真部なのに活動量が多すぎると噂を耳にしたことがある。写真部なのに、とか言ったら怒られてしまうだろうけれど。

 一方、柴谷はもっぱら空や景色の写真だけだ。これといったメインの被写体がない。


 そうか、と納得する。彼に写真部は自由が効かないのだ。




「人物の写真は撮らないの?」
「ポートレート?」
「うん。いつも景色ばっかりじゃん」



 先週見たコンテストは、ポートレートであることが条件だった。もしかすると柴谷はポートレートが得意ではないのかもしれない。そう思ってその他のコンテスト結果も見てみたけれど、そのどれにも柴谷の名前はなかった。
 少し視線を遠くへ向けた柴谷は、「過去に」と続ける。


「過去に二人だけ、撮ったことがある」
「え、誰のこと撮ったの?」
「そんなの教えるわけないだろ」



 ぶっきらぼうに突き放された。


「もし、次にポートレートを撮ることがあったら、被写体はもう決めてるから」
「だれ?」
「好きなやつ」



 あまりにもまっすぐ告げられたから、聞き間違えたかと思った。
 目を見開いて聞き返そうとすると、



「それに俺のは趣味だから。撮りたいって思った時に好きなもの撮んの」


 誤魔化すように柴谷が言う。これ以上は何も教えてくれなさそうだったから、諦めることにした。本題は、彼がどうしてコンテストに応募しなかったかだ。


「でも部活に入っていなくても、コンテストに出すことはできるでしょ」



 カメラから顔を上げて、まぁ、と柴谷は曖昧にうなずく。
 どうして何のコンテストにも応募しないのか。才能が評価されるせっかくの機会なのに、出品しないのはもったいないと思ってしまう。


「柴谷、写真撮るの上手なんだから。コンテスト出してみればいいじゃん」
「いや、いい」
「もったいないよ。何か賞をもらえるかもしれないのに」


 頑なにうなずかない彼は、いったい何を思っているのか。さっぱり分からない。


 何か好きなことがあって、実力も持っているのなら、チャレンジしてみるのは悪いことではないと思った。
 挑戦するのは素敵なことだし、もし結果が伴わなかったとしてもわたしはきっと彼を(たた)える。そして、何度だって背中を押し続ける。

 だから勧めたつもりだった。たとえそれが多少のおせっかいだったとしても。



「どうして? もし結果が出なかったとしても、それって無駄なことじゃないでしょ。チャレンジしてみたらいいじゃない」

「お前」



 気づけば、わたしを見る彼の瞳は、険しいものへと変わっていた。

 ぐっと言葉に詰まる。苛立ったように眉を寄せた柴谷は、しばらく気を鎮めるように目を閉じていたけれど、やがてゆっくりと開いた。


 そこには、さっきまでのあたたかさも、柔らかさも、何ひとつなかった。

 ただあるのは、たしかな拒絶だけ。



「お前は俺の何なんだよ。自惚れてんじゃねえよ」



 途端に身体が固まって動かなくなる。口の中が乾燥していくのが分かった。
 耳は言葉を拾っているのに、脳へと届くことはない。


 柴谷はわたしを拒絶している。
 柴谷はわたしに怒っている。



 それだけが、事実として存在しているだけだった。




 柴谷はわたしをきつく睨みつけて、さらに言葉を続けた。



「無責任なこと言ってんじゃねえよ。お前、何も知らないくせに」




 ーー何も知らないくせに。



 言葉にされて、はじめて気がつく。わたしは彼のことを何も知らない。
 彼がわたしのそばにいてくれる理由。彼がひとりで昼食を食べていた理由。そして、彼がコンテストに挑戦しない理由。すべて、人間の行動には理由がある。
 それなのにわたしは彼の心の声を聞かないで、勝手に責めるようなことを言ってしまった。


 踏み込みすぎた。傷つけてしまった。

 彼が心を開いてくれているような気がしたから。距離が近くなったような気がしたから。
 つい調子に乗って訊き過ぎてしまった。自惚れていると言われて当然だ。



「ごめんなさい」



 嫌われてしまったかもしれない。もう、こうして朝の時間を過ごすことも、一緒に昼食をとることも、たまにスマホでやり取りすることも、すべてなくなってしまうかもしれない。


 柴谷がいなくなってしまったら、わたしは。


 涙がこぼれそうになる。うつむいたわたしの耳に、柴谷の声が飛んできた。




「────未完成だから」




 思わず顔をあげた。
 視界のすみで柴谷の横顔を捉える。彼がどんな表情をしているのか、わたしにはわからなかった。



 ーー未完成。

 いまだ、かんせいしていない。



 よく澄んだ声だった。その言葉が耳に届いたとき、気づいたら震える声で問いかけていた。



「……完成、させないの?」


 『未』ってことは、『まだ』今はないだけで、これからがあるってことだから。未来と同じように、まだ先があるってことだから。

 じゃあ、柴谷の写真が完成するのはいつなのだろう。そもそも、一瞬を切り取るはずの写真が未完成ってどういうことなのか。




「しないよ」



 まっすぐに目が合う。いつのまにか、彼の瞳はわたしのほうへと向いていた。
 
 透明な瞳だった。そこに何を映しているのか、わたしは読み取ることができない。




「完成しないよ、一生」



 そう言った彼は、どこか泣きそうな顔をしていた。











「コンテスト、間に合うかな」

「分かんねえけど、でもきっとできるよ。俺たちなら」

「そうだよね! よしっ、目指せ最優秀賞!」



「ついてきて、葉瀬」

「もちろん! 一緒に頑張るためにあたしはここにいるからね!」






「なぁ葉瀬」

「ん?」



「もしこの作品が完成したら……そしたら────」






「ねえ、四組の葉瀬さん知ってる?」

「あー……あの記憶喪失の?」

「そうそう! やっぱり何にも覚えてないみたいだよ」


 "いつもの場所"に向かう途中、通り過ぎようとした空き教室から声が聞こえて、思わず立ち止まった。
 なんでもない会話だったなら、なんの気にもとめずにスルーしていたはずだった。けれど聞こえてしまった。


 葉瀬さん、と。ようやく耳に馴染んできた名前が。




「えー、じゃあ柴谷くんのことも覚えてないの?」

「自分のことも全部忘れてるらしいから、そうだと思ったんだけどさ」

「なーに。まさか覚えてたの?」

「わかんない。けどずっとふたりでいるらしいよ」

「あたしこの前ふたりで登校してるの見たよ」



 まじー?と声が上がる。

 どうやら柴谷はここでも有名人らしい。本人のいないところで話題にあがるということは、そういうことだ。


 会話の内容が予想できてしまうのはなぜなのか。これはただの勘だけど、柴谷はきっと一目置かれる存在なのだと思う。
 私とは違う意味で、目立ってしまう人。


 そんな彼と一緒にいるのだから、わたしに刃物が向けられるのは当然だった。





 ここから離れなきゃ。ここから先は、聞いてはだめ。

 きっと傷ついてしまう。



 それなのに、足が地面に張り付いてしまったように動かなかった。たらりとこめかみを汗が伝う。無意識のうちに唇を噛んでいた。



「柴谷くんの記憶だけは残ってるとか?」

「そんなことあるのかなぁ」

「ありそうじゃない? じゃないとどうやって仲良くなるの」

「葉瀬さんから声かけたとか」

「四組の子からきいたけど、性格がまるきり違うんだって。前とは違って空気みたいだって言ってたから、柴谷くんなんかに話しかけられるわけないよ」

「じゃあ柴谷くんからってこと?」

「わかんない」



 声からして女の子。きっと彼女たちにとっては、昼食の話題の一つだったのだろう。

 聞かせてやろうと仕組まれたわけではなく、たまたまわたしが通りかかってしまっただけ。意地悪してやろうとか、嫌がらせしてやろうとか、そういうつもりではなかったはずだ。


 だから、なかったことにできるよね、紬。
 聞かなかったことにできるよね。



 噛み締めすぎたのか、唇から血の味がする。それでも、今にも溢れ出してしまいそうなものをこらえるには、こうするしかなかった。
 それ(・・)が頬を濡らすことがないように、必死に。


 それなのに、視界がぼやけていく。最近、傷つくことが少なかったからかもしれない。
 前は傷つくことが当たり前の生活だった。クラスメイトの視線に、言葉に、空気に、心を痛めつけられてばかりだった。

 柴谷は。彼は、何があってもわたしを傷つけてはこなかった。多少意地悪をされたり厳しい視線を送られたこともあったけれど、それでも彼は理不尽にわたしを傷つけるようなことはしなかった。当たり前すぎて気が付かなかった事実に、今さら気づく。



 だから息がしやすかったのか。


 彼のとなりにいるときだけは、繕うことのない自分でいられた。それは、彼に心を預けていられるほど、信頼していたからなのかもしれない。



 ぽろ、と涙が落ちる。わたしはずいぶんと弱くなってしまった。
 彼の優しさに浸りすぎたせいで、自分が置かれている状況を忘れていた。



「どうせ可哀想な自分アピールでもしたんじゃない?」

「ぜったいそうだよー」

「まったく、そういうことしてるから────」
 


 突然、声が聞こえなくなった。心だけでなく耳までやられてしまったのかと思ったけど、違った。

 わたしの耳はそっと覆われていた。あたたかい何かによって。



「遅い」



 魔法だ。そうか、彼は魔法が使えるんだ。
 わたしの身体を素直に動かしてしまう、そんな魔法を。

 くるりと振り向かされて、彼を認識した途端、涙が溢れて止まらなくなった。わたしは必死に声を殺して泣いた。


 どうしてこんなに安心するんだろう。彼のまなざしは、声は、こんなにも優しいんだろう。



「聞かなくていいから。こっち来い」



 いつからいたの。なんでいるの。

 ねえ、柴谷。



「どうして、わかったの……っ」



 いつだって強引。最初から、彼はこんな人だった。

 まっさらな状態のわたしに、なんの躊躇もなく近づいて、息の仕方を教えてくれた人。毎朝わたしを待っていてくれる人。目醒めさせてくれる人。

 言葉よりも行動で。行動よりも表情で。なにより、目で。すべてを伝えてくれる人。



 どうしてわかったの?

ーーわたしが、ここにいるって。



 手を引かれながらこぼした言葉に、彼は静かに振り返った。それから、懐かしい顔で笑う。



「なんとなく」




 前は、そんな回答では納得なんてできないと思っていた。


 けれど今は、その言葉を信じていたいと。信じさせてほしいと。





 ーー…ただそれだけを、願った。






────────

────



「ずいぶん遅かったから」

「会話の内容聞いたら、離れられなくなっちゃって。ごめん」

「謝んな。別に責めてるわけじゃない」



 いつもの場所についてわたしの気持ちが落ち着くまで、柴谷はずっとわたしの手を離さなかった。
 ようやく落ち着いた頃に、ひとつふたつ会話を交わす。


 柴谷は突然、お弁当袋の中から何かを取りだした。渡されたのは、前もらったのと同じ包み紙のキャラメル。


「……キャラメル」
「元気出るだろ。やる」



 ふは、と笑みがこぼれる。元気が出るってなに、と思う。

 柴谷にとって、キャラメル配りは餌付けなのか。まあ、キャラメル好きだし、べつにいいけど。



「ありがと」

「そっちのがいいよ」

「え?」

「笑ってるほうがいいよ、葉瀬は」



 何言ってるの、と返しながらキャラメルを口に放り込む。やっぱり甘い。

 しばらくぼうっとわたしを眺めていた柴谷は、やがて床に手をついて少しのけぞった。合わせていた視線が逸れる。



「何言われてたか知らねえけど、変に気にすんなよ」


 うん。気にしなくていいよね。


「お前のことは俺がちゃんと見てるんだから」


 そうだよね。噂を信じる人よりも、わたしを見てくれる人を大切にしたい。



 何度も心のなかで繰り返す。
 前を向かなきゃ。気にしないで、前に進んでいかないと。


 そう思っているのに、胸に突き刺さった小さなトゲが、動き出そうとするわたしを止めるように痛みだす。




『まったく、そういうことしてるから──────』
 



 この先にはどんな言葉が続くのか。
 それだけがずっと気になって、柴谷の言葉に素直にうなずくことができない。



「どうしたら元気出んの」

「……元気だよ。すっごく元気」

「嘘つくな」



 彼の目を誤魔化せるなんて微塵も思っていない。
 彼の目はいつだって、とても澄んでいる。心まで容易に見透かしてしまえるほどに。

 それでも強がっていたかった。情けない姿ばかり晒して、彼を傷つけてばかりで。

 こんなだめだめな人間なのに、柴谷は文句も言わず一緒にいてくれる。



 未完成の写真のことも。わたしは正直関係が途絶えてしまうと思っていた。翌日から、わたしたちの時間なんてまるでなかったことのように接されると思っていた。


『おはよ、葉瀬』


 小さな希望だけを抱いて"いつもの場所"に向かった時、いつもと変わらない顔で迎えられたとき、もう彼には敵わないと思った。
 彼がわたしを離さない限り、わたしも彼を離せない。


 大切だと、心の底から想った。




「俺、葉瀬には嘘ついてほしくない。俺の前だけでいいから、自分の気持ちに正直でいて」


 逃げようとした視線はあっという間に捕まえられる。目があったが最後、囚われてしまったように逸らすことができない。


「つらいことはつらい。嫌なことは嫌。俺はお前の素直な気持ちが知りたい。葉瀬がずっと言えなかったこと、今の俺なら受け止めてやれる」



 ーー今の俺なら。

 強いまなざしと言葉が、わたしに突き刺さる。

 少し考えて、ゆっくりとうなずいた。




 心のうちを吐露するのは、苦手だ。思っていることを口にするのは難しい。誰かを頼ったり、助けを求めるのは怖くてできない。面倒くさいやつだと思われたくないから。


 だけど。彼になら。
 今の柴谷になら、吐き出せるような気がした。


「……わたしね」



 声が震える。
 柴谷は静かに目を閉じて、わたしに呼吸を合わせた。



「自分がどうして記憶をなくしてしまったのか。それが分からなくてずっと苦しいままなの。クラスメイトの視線が痛い。前のわたしと今のわたしを重ねられるのが嫌だ」


 言葉にするたび、込み上げてくる涙が止められなかった。悲しいわけでもない。悔しいわけでもない。それなのに、自分の気持ちを話そうとすると泣いてしまう。

 柴谷はとなりに座ったまま、わたしの肩を引き寄せた。



「みんな、わたしが元に戻ることを望んでる。だったら今のわたしはどうなるの? みんな昔のわたしのことしか見てない。可哀想な目でわたしを見てる。それがたまらなく苦しい。ずっと、ずっと。ここにわたしの居場所はない」



 溢れて止まらなかった。
 こんなふうに自分の気持ちを誰かにぶつけるのは初めてだった。


 普段は強がっているけれど、本当は弱いのだ。昔のわたしほど強くはないし、魅力的でもない。


 こんなわたしが葉瀬紬を乗っ取ってしまったのが申し訳ない。



「葉瀬」


 柴谷の肩に頭を預けるかたちになる。涙が制服を濡らしてしまうから頭を離そうとすると、それすら厭わないと押さえつけられた。耳元で優しく声が落とされる。



「俺は、今の葉瀬のこと見てる。はじめからずっと、俺はお前のことを見てるよ」


 大切に、一つひとつ、言葉が紡がれていく。彼はわたしが欲している言葉を、惜しむことなく渡してくれた。どうして彼はいつも、いつも。

 ーーわたしのことが分かるのだろう。




「それに、昔なんてもう関係ない。お前が本物の葉瀬紬だろ? 堂々としてろよ」
「……しばたに」
「もしこの先、過去を知って苦しくなることがあったら。そのときは俺がいるから。葉瀬はひとりじゃない」



 わたしはひとりじゃない。

 とても響く言葉だった。




 涙がまた溢れ出す。

 はじめて人に自分の気持ちを打ち明けることができた。


 自分の思いを話すと、こんなに心がスッキリするんだ。知らなかった。

 今まですべて抱えこんで、誰にも話すことなく苦しさも痛みも悲しさも抱え込んで生きてきたから。




 やっと誰かに話すことができた。


 ーーその相手が君でよかった。




 流れゆく雲を眺めながら、心の底からそう思った。








 冬になったら日が落ちるのが早くなってしまう。だからできるだけ夕方の時間を外で感じていたかった。
 まだ暗くならないうちに。天気の良い日は寄り道をすることが多くなった。


 今となってはすっかり小さく感じるようになってしまった遊具。公園のベンチに座って、無邪気に遊ぶ子どもたちをぼんやり眺める。


 あ、ロープの山に近づいた。わたしもあれ好きだったなぁ。
 そういえば正式名称知らないな。なんていうんだろう。



 わたしの脳内は活発だった。すぐにスマホで検索する。
 人類の発展には何も貢献していないわたしが言うのもなんだけど、ずいぶんと便利な世界になったものだ。


 SNSが発達することでのデメリットはたしかにある。けれどメリットのほうがはるかに多いし、デメリットに巻き込まれないように注意すればいいだけの話だ。そうすれば、SNSはそこまでの脅威ではない。

 なんて偉そうなことを思っているうちに、検索結果が表示される。



 ザイルクライミング、というらしい。


「きいたことないな……」


 もう少し覚えやすい名前はなかったのか、と思う。

 名付けた人には申し訳ないけれど、きっと数分後には忘れているだろう。




 昔遊んでいた記憶はある。誰と一緒にいたのかは思い出せないけれど。



 夕方はどこか感傷的な気分になるからわたしは好きだ。
 そう言ったら柴谷も共感してくれたからますますこの時間帯が好きになった。



 薄紫色と桃色を混ぜた空が広がっている。柴谷もこの空を見ているだろうか。


 冷たくなった空気が鼻先をくすぐる。空から視線を落とすと、ふいに視線を感じて息を止める。


 なんだろう、この感じ。
 こわくなってあたりを見回すと、自販機のそばからやけにじっとこちらを見つめる一人の男性がいた。制服を着ているから、学生なのだろうと理解する。

 いったい何なのだろう。知らない人に見られるのはなんだか居心地が悪い。



 人はじっと見つめられると気になってしまうらしい。わたしも視線を逸らさずじっと見つめ返す。
 彼は目元まで隠している髪をさらりと揺らしながらこちらに近づいてくる。

 これにはわたしも驚いて、なにより恐怖を抱いて思わずベンチから立ち上がった。にもかかわらず、彼は躊躇なくわたしに近づいてくる。



「葉瀬だよね」



 目が合って、何秒だったか。

 確信するのにそう時間は要さなかったみたいだ。



 口を噤んだままのわたしに彼はもう一度「葉瀬だよね?」と問うた。これは質問というより、確信するためだけの行為だった。

 沈黙は肯定。そんな言葉を聞くたびに、黙ったりせずはやく否定すればいいのにと思っていた。けれど、実際人間は本当に焦ると声が出なくなるらしい。自分には言語があるということ自体がすっぽり頭から抜けてしまうような感じだ。




「あなた、誰ですか」




 わたしは彼を知らない。でも、彼はわたしを知っている。
 葉瀬、とわたしを呼び捨てにしたってことは、少なくとも他人ではない。



「俺のこと覚えてないの?」
「……知りません」
「まじ? 中学のときの同級生なんだけど」



 中学の同級生。覚えているはずがない。記憶がないのだから。

 彼は、わたしの身体を頭のてっぺんから爪先までじろっと観察し、驚いたように目を開く。興味深い観察対象のように見られている気がして、気持ちが悪かった。

 わたしはいったい何を言われるのだろう。わたしはどうすればいいの。


 謎の彼はゆっくりと視線を上げて、わたしの目を見つめた。
 ドクリと嫌な鼓動が響いた。目の前にある薄い唇が静かに動く。








「まだ生きてたんだ」




──────

───



「紬? 大丈夫なの?」


 あれからどうやって帰ったのか、あまり覚えていない。
 気がつけば家のリビングで食卓を囲んでいた。


「あぁ、うん。大丈夫」



 何かあったことはとっくに気づいている。それでも母は敢えて多くは聞いてこなかった。

 ありがたい。もしここで問い詰められていたら、わたしの脳はキャパオーバーしていたと思う。



「紬」


 感想を求められてもいないのに、美味しいよ、と答えた。
 まったく料理の味がしないけれど、もしかしたら不味そうに見えているのかもしれないと思ったから、すぐに感想を述べた。

 母の料理は美味しい。ただ今日は、味覚が仕事をしてくれなかった。



「何かあったら言うのよ。力になれることは頑張るから」



 いいんだよ頑張らなくて、と心のなかで呟いた。

 色々させてもらっているから。じゅうぶん贅沢な思いさせてもらってるから。
 お母さんはこれ以上頑張る必要なんてないんだよ。



『まだ生きてたんだ』



 突然あの言葉がフラッシュバックする。ガリ、と箸が音を立てた。



 彼の言葉がずっと頭のなかに残っている。家に帰って、自室にこもって、聞かなかったことにしようと思っても無理だった。



「ねぇお母さん」
「なぁに」
「わたしって、生きてるの?」



 間違いなく生きている。生きている、はずなのに。


ーーまだ生きてたんだ。


 わたしは死んでいたの?
 彼の中で、わたしは死んだことになっていたの?



「どうしたの紬」
「わたしって、死んでるの?」
「何言ってるの。紬はちゃんと生きてるわよ」



 ちゃんと生きてるわよ。

 そうだよね。わたしはちゃんと生きている。


 名前も知らない、たいして記憶もない謎の男の子の言葉に翻弄されていてはダメだ。



 すると突然立ち上がった母がわたしのそばに近づいてきて、ポンッと強く肩をたたいた。
 触れられるのは初めてだった。今までずっと、微妙に距離を保って生活していたから。


「紬は生きてるわよ。こうして触れるんだから!」

 ね?と顔を覗き込まれて言葉に詰まった。


 この人はわたしの家族だ。優しくて、あたたかくて。こんなふうになってしまったわたしを、いつも見守ってくれる。



「ねえ、お母さん」
「ん?」
「わたしはどうして記憶を失ったの?」



ーー解離性健忘。
 図書室で借りた本を読んだ。たくさんの症例が載っていた中で、今のわたしに一番近しいのがこれだった。


 心的外傷やストレスによって、ある特定の記憶を失ってしまう。わたしの場合、「ある記憶」というのは人間関係のことと自分自身のこと。

 記憶を失うきっかけは何なのか。わたしは未だそれを掴めないでいる。



「……それを知ってどうするの?」



 それまで動きを止めていた母の言葉に、背筋が伸びた。


「どうしてって、気になるから」
「なんで?」
「そんなこと言われても……」


 ついさっきまではよかった。柴谷の言葉で前を向けるようになって、自分の失われた記憶なんてどうでもよくなった。ずっと目の前に広がっていた靄を柴谷が晴らしてくれたから、なにも気にしていなかったんだ、本当に。

 だけど。



『まだ生きてたんだ』



 強烈な言葉をぶつけられてしまった。わたしはすぐには変われない。前を向こうと思っても、何か出来事があるたびにまた不安な自分へと逆戻りしてしまう。


 やっぱりそう簡単には忘れることなんてできない。
 しばらく黙っていたわたしは、母に謎の男の子の話をすることにした。

 誰かに話さないと、ひとりでは抱えきれないことだったから。






「そうだったの」


 話を聞き終えてから、母が発した一言目はそれだった。母はもう一度わたしに近寄って、今度は腕をのばした。そのままギュッと抱きしめられる。

 あったかい。


 ザザッと砂嵐をかき分けた先に、一瞬、母に抱きしめられるわたしの姿が映った。
 わたしは昔からこうして抱きしめてもらっていたんだ。この人にーー母に。


「お母さんの気持ちを正直に話していいかな」


 わたしの背中を撫でながら、母が小さく言葉を紡いだ。腕の中でうなずく。


「紬の記憶がなくなったのは、前の紬が苦しいなって思いすぎたせいなのかもしれないでしょう。だったら、お母さんは紬に苦しかったときのことなんて思い出してほしくない。思い出すべきじゃないと思ってる」


 ゆっくりで、少し震えた声からは、慎重に言葉を選んでいるのがうかがえた。



「だからお母さんもお父さんも紬に話したくない。意地悪をしてるとか、紬に嫌がらせをしているんじゃなくて、単純に紬のことが大切なの。それだけなの」

 そこで息を吸って、母は続けた。

「だからお母さんは今後なにも話さない。紬がどうしても思い出したいなら、自分の力でなんとかしてほしい。これがお母さんの気持ち」



 話を聞きながら、わたしは「なるほど」と思った。てっきり「無理」の一点張りだと思っていたから、母の正直な気持ちを聞けるなんて思っていなかったのだ。


「いっぱい考えたうえで紬が知りたいのなら、お母さんは止めないよ。何があっても、どんな過去を知っても、お母さんは紬の味方だからね」
「分かった。ありがとう」
「お母さん夜勤に行ってくるから。あとはよろしくね」
「うん。いってらっしゃい」



 わたしが食べ終わったのを見届けて、母はコートと鞄を持った。ちら、と時計を気にして、足早に部屋を出ていく。まもなくして、玄関の扉が閉まる音が聞こえた。



『まだ生きてたんだ』



 過去の自分に何が起こったのか。
 すべてが、わかってしまう。記憶の蓋を開ける勇気を、わたしはずっと持てなかった。


 けれど、今は。自分の過去に何があったのか、やっぱりきちんと向き合いたい。


 たとえ過去を知ってしまってどうにかなりそうになっても、その時は彼が────柴谷がいるから。




 前は開けられなかった、近寄ることすらできなかった押し入れの前に立つ。空気が肺を通るのを感じる。



 大丈夫、だいじょうぶ。

 確証のない言葉だけを、心の中で繰り返す。冷たい金具に触れても、以前のように頭痛がすることはなかった。




 キィィと心地よくない音がする。押し入れの扉が開いた、というよりは、隙間が見えた、といった感覚のほうが近い。

 真っ暗な奥が、電灯によって照らし出される。












「────っ、」





 弾けたようにドサドサと足元へ崩れ落ちる物には。




【葉瀬紬】




 余すことなくすべてに、わたしの名が記されていた。



 真っ白な封筒のすみにも、自分の名前が記されている。



「手紙……?」



 ドキッと鼓動が強く鳴る。

 指先が震える。



『何があっても、どんな過去を知っても、お母さんは紬の味方だからね』


『もしこの先、過去を知って苦しくなることがあったら。そのときは俺がいるから。葉瀬はひとりじゃない』





 お母さん。お父さん。

 山井さん。




 ーー柴谷。






─────


【遺書】


お父さん、お母さん。
親不孝者でごめんなさい。

今までありがとう、幸せでした。





追伸
約束果たせなくて、ごめんね。



─────





「葉瀬さん、自殺したって」


 高校二年生、夏の終わり。
 スマホから耳を離した母の第一声が、やけに遠く感じた。グツグツとそのままにされた夏鍋が音を立てている。俺はただ呆然と、その光景を見つめていた。

 俺が誰と関わっているとか。どんな学校生活を送っているとか。



 生まれてこのかた自分の交友関係なんて、母はおろか、父にも、歳の離れた姉にも話したことがなかったから、こうして家族の口から葉瀬の名前が出てくるなんて思わなかった。




「……は?」
「今、病院にいて意識不明の重体だって。発見がかなりはやかったみたいだけど、どうなるか分からないから、って」
「なに……言ってんだよ。母さん」


 脳裏に浮かぶ彼女は、いつも笑っていた。だから、母の言葉のすべてが信じられなくて、夢を見ているのかとすら思う。


 嘘だろ?
 だって、ついこの前まで、一緒に。


「葉瀬さんのご両親から学校を通して連絡が入ったの。あなたには、伝えておきたいからって」
「……俺、行ってくる。病院どこ?」



 この目で見て確かめたかった。
 信じていたかった。



 いつも笑っていた葉瀬は、
 俺の好きなやつは、



ーー今日も同じように、元気で笑っていると。








「葉瀬っ……あの、葉瀬紬ってどこにいますか。俺、面会を」

 気が急いで上手く呂律が回らない。

「申し訳ありませんがただいま関係者の方以外は面会謝絶となっておりまして」
「俺、柴谷っていいます。クラスメイトなんです、会わせてください」


 クラスメイトという響きに胸が痛む。こんなに会いたいのに、会うことを許されない関係。所詮、ただのクラスメイト止まり。それがたまらなく悔しかった。


 苦い顔をしている受付の人が、しだいに険しい顔になっていく。高校生にもなって、自分がどれほどの駄々をこねているのかは分かっていた。けれど、葉瀬に会いたい一心だった。



「無理です」


 決定的な一言を告げられ、言葉を失う。そのままよろよろと外に出て、ポケットからスマホを取り出した。




【紬】


 その文字を見つめる。
 今までに何度かけたか分からない。ことあるごとに、俺たちはよく電話をしていた。

 震える指でタップする。連絡先を持っている、唯一の女性だった。



 細い息が唇の隙間から洩れていくのを、何度か繰り返す。




「っ、葉瀬────!」
「おかけになった電話は、お客様のご都合によりお繋ぎできま────」
「くそっ」


 会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。
 どうして。どうして。どうして。



 俺に夢を与えてくれたのはキミだった。
 それなのに、どうして俺から離れていくんだよ。


 行くな。行かないで。
 俺の前から消えないで。



*



 彼女との出会いは、高校の入学式より少し前のこと。
 入学式を間近に控えた、よく晴れた春の日のことだった。

 入学式を迎えるまでに桜は散ってしまうから。このタイミングがベストなんだと、一眼レフを構えて公園でひとり写真を撮っていた。



 写真を撮る、ということは、記憶と心の重ね合わせだと思う。写真を見返すたび、その出来事の色、音、ある時はにおいまで、鮮明に思い起こされる。それと同時に、感情までもが蘇ってくる。
 だから好きだ。

 青空に桜はよく映える。風に揺れる桜が、ひらひらと花びらを舞い落とした。
 思わずカメラを構える。



「……あ」



 突然、ファインダー越しに誰かの姿が見えた。自分のとらえる先に、彼女が乱入してきたのだと気づいた時には、もうシャッターを切っていた。
 桜色をまとった彼女は、長い髪を揺らして振り返った。白い肌が、後ろにある桜と澄み渡る青空に負けないくらい美しかったのを覚えている。


「どう、よく撮れた?」


 割り込まれたともいえるその行為は、不思議と腹立たしく思わなかった。


「現像したら、やる」
「いいよ、あなたが持ってて。いらなかったら現像せずに消しちゃって」


 彼女は、すでに友達だったのかと錯覚するくらい距離を詰めるのが上手かった。初対面のはずなのに、ちょうどいい距離感で埋めてくる感じが、とても。


「桜、きれいだね。写真撮りたくなる気持ち分かるよ」




 桜を見上げながら、ふう、と息を吐く彼女。


 ーー葉瀬紬。それが、彼女の名前だった。







「あーっ! あなた、この前の!」


 仕組まれたように、クラスが同じになった。入学式で再会を果たしたとき、運命というものは本当にあるんじゃないのかと思ってしまったくらいだ。

 柄にもなく。




「へぇー、柴谷ね! おっけ、あたしのことは葉瀬でも紬でも何でもいいよ」


 彼女は明るく、いつも目立っていた。もともと整った顔立ちをしているが、それに持ち前の愛嬌がプラスされて、正直、クラスでもダントツのモテっぷりだった。



 ただ、彼女は誰に対しても同じ距離感で接していた。特別扱いという言葉は、彼女の辞書にはないようだった。

 だから余計に人気だったのだと思う。特に、男子から。



 それなりに意識はしていた。けれど、このときはまだ、気になるクラスメイトというくらいで。

 決定的な瞬間がおとずれたのは、夏休みに入る一週間前の、とある朝のことだった。





「ここでも撮ってるの? 好きなんだね、写真」



 いつも生活している棟とは違うから、まさかこんな場所に現れるなんて思わず、持っていたカメラを放り出しそうになったのを覚えている。



「コンテスト、出さないの?」
「は?」
「あたしにくれた写真、とってもきれいだったよ」



 桜のやつか、と思い出す。彼女と出会った日の写真だ。


「顔がこわいよ。柴谷、口調が荒いんだからちょっとは顔優しくしたら?」
「うるせぇ」


 ふいと顔を逸らす。こんな雑な返答をしても、葉瀬は怒ることなくニコニコと笑みを浮かべていた。



「どうして出さないの?」


 昔から趣味だった。写真を撮るのが、なにより楽しかった。


「人物の写真も、撮ればいいのに」



 投げやりな口調なのに、どうしてか無責任だと思うことはなかった。不思議と、彼女になら話せるんじゃないか、という気持ちが湧き上がってくる。

 葉瀬は階段に腰掛けて、ぼんやり空を眺めていた。彼女の意識は空に注がれている。

 そう思えたから、話すことが不思議と億劫ではなくなった。




「……俺、過去に写真撮ったことがあって」


 うん、と軽い相槌が返ってきた。


「姉……なんだけど。ずいぶん前に、死んだ」

 うん、と。ここでもまた、同じ相槌。


「歳が結構離れてて。俺が小学生の時に、写真を撮った。その一年後に姉は死んだ。自殺だった」


 事実だけを並べていく。


 俺には椿(つばき)という名の姉がいた。
 俺の姉は、よくできた人だった。それでいて、とてもきれいな人だった。


『お姉ちゃん、こっち向いて』


 そう言うと、いつもとびきりの笑顔を見せてくれた。

 学校に行けば「椿さんの弟くんだよね?」と声がかかり、それがとても誇らしかった。どこを切り取っても、優秀で、完璧な姉だった。



「まさか自殺するなんて、思わねぇじゃん」


 何がきっかけだったのか。上手くいってなかったのか。

 歯車が狂い出したなら、言ってくれればどうにかやりようはあったはずなのに。俺たち家族が気づいたのは、姉が完全に壊れてからだった。



「写真だけが、ずっと遺ったままだ。俺はそれを見るたびに、こわくなる。写真を撮っていたその瞬間に戻りたくなってしまうから」



 だからポートレートは撮らない。


「それなのに、お前、乱入してきたから」
「あっはは、あれは────」
「偶然だろ?」


 だから、何も心配することはない。目の前にいる葉瀬は、消えたりなんかしない。俺の写真に写ったからといって、死んでしまったりしないんだ。



「ううん。わざとだよ」


 葉瀬はまっすぐに俺の目を見つめていた。



「気になったの、柴谷のことが。あんな公園で一人写真撮ってるんだもん。話しかけたくなった」
「だからって乱入するか普通」
「するする。あたしを誰だと思ってんの」


 ドン、と胸を張る葉瀬。ぜったいに自信を持つ状況を間違えている。




「安心して、柴谷。あたしは消えない。ずっと柴谷のそばにいるから」


 透き通った声が、耳を抜けていく。



「コンテスト、こわい?」


 肯定のかわりにうつむく。
 情けない話だ。趣味、趣味、と今までまわりに言ってきたのは、保険だった。

 俺の写真には価値がないと、そう判断されるのがこわかったからだ。

 顔で、態度で、声で、口調で。今まで舐められないように、強さを示してきたはずだった。

 けれど本当の俺は、こうしていつも怯えて、逃げ場を探しているような人間。




「じゃあ……一緒に頑張ろうよ。コンテスト、出そう。来年のやつ」
「は?」
「よし、きまりっ。来年の夏までなら準備期間はじゅうぶんあるね。柴谷クン、あたしは何が得意かご存じ?」



 躊躇なく美術準備室へと足を踏み入れた葉瀬は、しばらくして何やら細長いものを持って出てくる。




「ふふん。共同制作だね」
「おい、葉瀬。待てよ」
「こわがらないで、チャレンジしてみようよ。柴谷の写真に、あたしの絵が加わるの。これ、最強だと思わない?」



────それは筆だった。

 葉瀬は(くう)に色をのせるように、サラサラと筆を動かしてゆく。



「受かる時も、落ちる時も一緒だから。一緒に喜んだり落ち込んだりしようよ。大丈夫、二人ならきっとできるよ」



 気づいたら、シャッターを切っていた。パシャっという音に、彼女は少し驚いた顔をした。



「撮った?」
「撮った。すげぇ、きれいだったから」
「……なにそれ、照れるじゃーん」





 彼女はきっと、いなくならない。俺の前から、消えたりしない。



「絶対消えたりしない。約束するね」


 絡めた小指は、とても細くて。力を入れたらすぐに折れてしまうんじゃないかと心配になるほど、繊細で。



 きっと、生まれて初めて、恋に落ちた瞬間だった。









「おはよ、葉瀬」
「おはよう。柴谷」


 彼女と過ごす日々は、目まぐるしく過ぎていった。

 高校一年生、冬。
 彼女と出会って半年以上が経っていた。

 花が開くように、ゆっくりと笑顔をつくった彼女は、風になびく髪をおさえながら俺のもとへとやってきた。


「写真、見せて!」


 ニコニコ。彼女にオノマトペをつけるとしたら、これしかない。

 断られるなんてこと、1ミリも考えていないみたいだ。無論、断るはずもないけれど。



「うわぁ、これもまたきれいだねぇ。うーん、クジラにしようかな……ネコとか、あ、こっちはトナカイとか?」


 俺の写真を見ながらぶつぶつ呟く彼女は、しばらく目を通してから顔をあげた。


「そうだ柴谷。あたしね、来年の冬に柴谷に渡したいものがあるの。今年はちょっと間に合いそうにないんだけど、来年は絶対渡すからね」
「……おー」


 興味なさそうな相槌を打ってしまったけれど、内心ではなんだろうと期待が膨らんでいた。はやくも来年の冬が待ち遠しくて、はやく今年の冬なんか終わってしまえばいいのにと思う始末だった。


「その絵にはね、あたしの全部が込めてあるの。だからどうか、受け取ってね」
「わーったから。ほら、描き始めろよ」
「もう! あたしは真剣に話してるのに」


 空気が変わる予感みたいなものが、ぞわりと背筋をなぞったから。きいてはいけないような声が、彼女の口から出てしまうような気がしたから。
 話を逸らして、逃げようとした。否、俺は逃げた。


「……たとえあたしがいなくなっても」


 ぼそりと呟かれた言葉を、きかないままで。





*



「柴谷くん?」


 声がかかって、ふと顔を上げる。そこには、四十代半ばの男性が立っていた。

 顔立ちが葉瀬によく似ている。いや、葉瀬がこの人に似ているのか。



「紬の父です。柴谷くん、かな。さっき、受付のところでちょうど見かけて」
「っ、葉瀬は今、どんな状況なんですか」
「ついさっき、目を覚ましたところだよ。発見がはやかったみたいで、助かった」



 息を吐くと同時に、目頭が熱くなる。必死に押さえても、到底止められるはずがなかった。



「よかった……」
「ただ───」



 助かったというのに、葉瀬の父親はなぜか泣きそうな顔をしていた。唇を噛んで、悔しそうにうつむいている。それは間違いなく、安堵からくるものではなかった。


「記憶が……」





 初めは、信じられなかった。葉瀬が助かったことで、不安やら安堵やらがぐちゃぐちゃになってしまい、そんなふうに思い込んでしまっただけだと。

 葉瀬の父親を疑っていたし、俺も、俺自身のことを疑っていた。


 また一緒に過ごせるに決まってる。あの元気で明るくて、俺を光へと導いてくれた葉瀬に、会えるんだって。


 けれど病室で対面した時、俺は、自分の考えが甘かったことを痛感した。


「誰……ですか」




 大切なひとに忘れられる痛みを。

 苦しさを。むなしさを、切なさを。
 やるせなさを、しんどさを。



 そのときになってようやく、俺は実感したのだ。




「紬には、自殺のことはいっさい話さないでほしい。思い出すのもつらいだろうし、もし思い出したとして、もう一度自殺を試みるようなことがあったら耐えられないから」


 葉瀬の両親からは、そんな感じのことを言われた。ぼんやりとしていて、とても曖昧だけど。


「わかりました。でも俺はこれまでどおり、葉瀬と話します」


 もちろん、彼女を苦しめない範囲で。

 また、話したい。目を合わせたい。


 会いたい。いつもどおりの葉瀬に。



 もう一度出会いからやり直そう。明るい彼女なら、きっと俺を受け入れてくれるはず。



 それなのに、いざ学校に来た彼女は、常に下を向いて、表情を隠すようになっていた。



 友達の名前はおろか、自分の名前も、絵を描くのが得意だったことも、何もかも覚えていない。もちろん、コンテストのことなんて覚えているはずがなかった。


 ほとんど別人。昔の、好きだった頃の葉瀬紬は、この世に存在していなかった。


 ぐしゃっ、と持っていたプリントに力がこもった。



 夢を描いたその先で、俺たちは一緒に並んでいるはずだった。


 けれどその夢は未完成のまま、バラバラと崩れ落ちていったのだ。




 昔の葉瀬はもういない。

 俺を救ってくれたころの葉瀬は、俺の前から消えてしまった。




 だから今度は俺が、今の葉瀬を救ってやる。葉瀬が俺にとっての光だったように、次は俺が、葉瀬にとっての光になる。



 昔の葉瀬に、俺がずっと言えなかったこと。

 常にそばにいることに安心しきって、伝えることができなかった想いを。




 今度は、絶対に無駄にしない。



 そう心に誓った夜は、いつもよりも空気が澄み、月がひどくきれいだった。









「柴谷は優しいね。あたしのこと絶対傷つけたりしないから」

「それって普通だろ。なんのために傷つける必要があるんだよ」

「んーん。普通じゃないよ。相手のことを思うって、誰にでもできることじゃない。柴谷がいてくれるから、あたしは毎日生きていけるんだよ」

「大袈裟だな」





「葉瀬って相槌適当だよな。ほんとにきいてんのかいつも不安になる」

「内容が重たければ重たいほど、相槌は軽い方がいいじゃん。構えられると話せるものも話せないでしょ?」

「……たしかに」

「それに、適当だけど雑ってわけじゃないよ。ちゃんと話はきいてるし、感情も共有してる。ただ、重く受け止められすぎない方が相談しやすいかなと思ってね」


「……ふぅん」






「ねえこの記事見て。ネットでトラブルだって。ネットは怖いからできるだけ関わらない方がいいと思うんだけどなぁ」

「今の社会的に難しくね?」

「そうなんだけど。ネットの扱い方を学んだ方がいいよって話」

「葉瀬は自信あるの? ネット」

「ううん、まったく。だから触らないことにしてるの」





「ねえ、柴谷」

「ん?」

「この作品は誰にも見せずに眠らせておくの。わたしと柴谷だけが知る、秘密のものにしたいから」







「じゃあ葉瀬さんと私は休憩ってことで。まわってきますね」
「はーい。楽しんで〜」


 文化祭、当日。
 わたしは、山井さんと一緒に教室から出た。店番はシフト制なので、揃って休憩をとったのだ。一時間近くあるため、たくさん出店をまわることができる。


「どこ行きたい?」
「どこでも。山井さんの好きなところに」
「じゃあ何か食べ物が売ってるところに行こっか」



 文化祭バージョンの山井さんは、いつものひとつ結びとは違い、おさげスタイル。わたしがやると芋っぽくなってしまうのに、山井さんは驚くほど似合っていた。素朴な顔立ちでどのパーツも薄くきれいだから、似合うのだと思う。


「あの、山井さん」
「ん?」


 人気(ひとけ)のなくなったところで、前を歩く山井さんの腕を掴んだ。


「誘ってくれて本当にありがとう。わたしなんかと、まわってくれて」
「ううん! ただ、私が葉瀬さんとまわりたかっただけだから! お礼を言うのは私の方だよ」


 山井さんはペコっと小さなお辞儀をした。






『葉瀬さん。文化祭一緒にまわろう』

 それは二日前のこと。そのときまで、わたしは文化祭を休むつもりだった。
 そんなわたしを見越してなのか、単に偶然なのか。わたしにそう声をかけてきたのは、以前、グループが一緒になった山井夕映さんだった。

「あ、もし葉瀬さんがよければだけど。安心して! 二人だけだから、気楽にしててくれればいいし」


 身体の前でヒラヒラ手を振っている山井さんは、「もちろん、無理なくだけど」とまだ言葉を並べていた。


 正直、嬉しかった。一人でいるのは目に見えていたから、そんな思いをするのならと休むつもりだった。クラスの出し物は結局ワッフルになってしまったし、出店の主なメンバーは赤坂さんたちだったから。

 わたしなんて、必要ない。


 文化祭は、普段一緒にいてくれる柴谷も、他の男子と回るらしかった。だからますます自分が孤立してしまったみたいで、休まざるをえなかった。


 それなのに、だ。山井さんはどうして、わたしを誘ってくれたんだろう。

 同情か、それとも単に優しいだけなのか。文化祭という大イベントを、たいして親しくもないクラスメイトとまわるなんて、山井さんはどうかしている。


「山井さん、わたしのことは大丈夫。好きな人とまわりなよ」
「うん! だから葉瀬さんとまわろうと思って! 私は葉瀬さんとまわりたいの!」
「……本当にいいの?」
「こちらこそ、よろしく!」


 へへ、と笑った山井さん。彼女が笑っているところは、何気に初めて見たような気がする。
 たまに話しかけてくれることはあっても、ここまで親しく関わったことはなかった。


「ありがとう、山井さん」




 こうしてわたしは、二度目の文化祭を体験できることになったのだ。




 やきそば、クレープ、占い、わたあめ。各教室、できるだけ被りがないよう配慮されたから、その分たくさんの種類のお店がある。なかには恋愛相談バーというのもあって、お酒の代わりにジュースが出てくるものもあった。

 山井さんは男女逆転メイド喫茶がとても気になっているらしく、そこも一緒にまわった。


「星野先輩!」


 山井さんにはお気に入りの先輩がいるらしく。その人を見ることが目的なのだろうと悟る。

 残念ながらメイド姿はしておらず、制服姿のままだったけれど。
 とてもきれいな人だった。纏う雰囲気がどことなく柴谷に似ている。

 聞けば、バスケ部のエースらしい。山井さんはバスケ部のマネージャーをしているから関わりがあるんだとか。


「もう引退されたんだけど、たまに廊下で会うたびにドキドキしちゃうんだよね」


 じっと見つめると、山井さんは「全然恋愛感情とかじゃないんだけど!」と慌てて否定した。
 

「ぷっ……顔、真っ赤」
「やめてよつむ……、葉瀬さん」




 砕けるように笑った山井さんが、突然顔を引き締める。一瞬、「つむぎ」という名前が呼ばれる気がして身構えたけれど、すぐに訂正されてしまった。


 そうだ。わたしは今日、彼女に聞かなければならないことがある。


 そのためにも、こうして一緒に文化祭をまわっているのだから。



「美術部の成果発表見にいきたい」



 そう願い出ると、少し動きを止めた山井さんは、静かに目を伏せた。長いまつ毛が影をつくる。



「いいよ! でも、急にどうして?」
「ちょっと、気になることがあって」
「……そう」



【美術部展示】


 わいわい賑わう教室とは違う棟にある、その場所には。


「わー……たくさんある」
「レベルたかっ……」


 たくさんの絵が飾られていた。
 キャンバスの裏側に、小さく名前が描いてあるようだった。

 手に持てるくらいの大きさのキャンバスがほとんどのなか、数人でなければ運べないほど大きなものがあった。
 それは校内でよく見る、光の絵。キャンバスいっぱいに光がひろがっている、そんな絵だった。

 今日だけ壁から外されて、ここに展示してあるらしい。


「この絵、すごくお気に入りなんだ。明るくて、見ているこっちまで明るい気持ちになれるような気がして」


 近寄った山井さんは、ふっ、と目を細めた。わたしも山井さんの隣に並ぶ。


【光】


 この絵のタイトルは、それだった。
 

「葉瀬さんはどう思う?」
「え」
「この絵を見て、何を感じる?」


 山井さんはそう呟いてまぶたをおろした。わたしはじっと絵を見つめる。

 胸の奥からじわじわと感情が広がって、描き手の叫びが伝わってくるような気がした。焦がれるように、その絵に食い入る。そんなわたしを、山井さんは静かに見つめていた。


「苦しそう。光を撒き散らして周囲を明るくするたびに、自分は陰っていくの。ほら、ここ。だんだん色が暗色に近づいてる」


 この真ん中に描かれているのは、光源。男性とも女性ともとれない人物が、光を身体にまとっていた。離れたところからは、周囲に行き届くほど、光り輝いてみえる。まるで、この絵の中の主人公のようだった。

 だけど近くで見ると、それは少し誤解だってことがわかる。明るく見えるのに、繊細なタッチであかりの加減が表現されている。

 たぶん、これは。苦しいんだ。



「コンテストテーマ、知ってる?」
「……知らない」


 ざわっ、と胸騒ぎがした。



「このコンテストのテーマは『きみがずっと言えなかったこと』。それで、この人はこの絵を描いた。いったい、何を伝えたかったんだろうね」



 山井さんの目がわたしに流れる。わたしもその瞳をまっすぐに見つめ返した。

 この絵を、描いたのは。



「これ……わたしの絵、だよね」



 さらっと窓から入ってきた風が、わたしたちの髪を掬った。山井さんの、薄墨色の瞳が揺れる。その反応は、この絵がわたしのものだと確信するにはじゅうぶんすぎるものだった。



「わたし、もう知ってるの。自分が自殺しようとしたこと」


 山井さんは息を呑んでいた。お互いの小さな呼吸音だけが会話をする。




 あの日。遺書を見つけた日、絵具道具も一緒に押し入れに入っていた。だから、なんとなく予想していた。以前のわたしは、美術部にいたのではないかと。

 光り輝く絵の中に、小さく桜の花びらが描かれている。どうしてこの絵が自作のものだと思ったのかは自分でもよくわからないけれど、最初に見たとき直感的に、好きだ、と思ったのだ。きっと、昔の葉瀬紬と本質は変わっていないのだろう。



「あなたはわたしの何? どうしてそこまで優しくしてくれるの?」
「それは……」
「わたし、知りたい。なかったことにはしたくないよ」



 山井さんが、過去のわたしにとってどんな存在だったのか。わたしは知りたい。過去に向き合って、受け入れて、そして今度は「わたし」として、しっかり前に進んでいきたい。


「私は────」



 文化祭の喧騒は、いつのまにか遠くなっていた。



⸝⋆⸝⋆



 葉瀬紬は、私の憧れだった。誰とでもすぐに仲良くなって、明るいノリを求められたときにはいつも調子を合わせていた。私には永遠にできないことだ。

 そのときは愛想笑いで乗り切れたとしても後々疲労が現れるし、そもそも素の気質が暗いので明るさを偽ることすらできない。

 だからそんな偉業を何の気なしにこなしてしまう葉瀬紬という存在は、常に憧れと尊敬の的だった。

 けれど彼女のいちばんすごいところは、私のような暗い人間にも寄り添うことができるところだと思う。



『夕映ちゃんって暗いよね。もっと笑えばいいのに』


 はるか昔、心に突き刺さった言葉は今も忘れていない。言葉は違えど、こういったニュアンスのことを言われすぎたせいで、自分は根暗な人間なのだと自覚するようになった。

 だから、葉瀬紬とは違う世界を生きている。向こうが光なら、私は影。向こうが陽なら私は陰。そんなふうに、対極にいるような人物だと思っていた。



「夕映って名前、すごく綺麗だね」

 たまたま席が隣になって、よく話すようになったころ、彼女はノートの名前をみながらそう言った。



「いや、似合ってないし……」


 夕映。自分でも、素敵な名前だと思う。けれど、自分には似合っていないと思っていた。名乗るたびに、自分はその名にふさわしくないような気がして、恥ずかしかった。いつしか自分の名前を名乗ることがコンプレックスになっていた。


「ほら、私って暗いから。名前負けしちゃってるよね」


 ゆうばえ、と読むこともできる。あたりが薄暗くなって、かえって物がくっきり美しく見えるようになること。
 辞書で調べた時、いかにも美しいそれは、私には到底似合わない気がして。
 山井夕映と書くたびに、自分の胸が締め付けられているのを感じた。


「暗いんじゃなくて、まわりのことをよくみてるんだよね。だって夕映ちゃん優しいし。こうしてちゃんと話してくれるし。暗いなんてあたしは一度も思ったことないよ」
「え」
「夕映ちゃんの名前は、あたしがつけても似合わないよ。やっぱり、夕映ちゃんだからいいんだよ。唯一無二だね」


 どうして。いつも明るく振る舞っていて、住む世界が違うような人なのに、なんでこんなにも私が欲しい言葉をくれるのだろう。彼女がたくさんの人から人気な理由が、そのときはっきり分かった。

 彼女は、無理して明るくしているわけではなくて。ただ、対象の人に寄り添っているだけなのだと。
 そのためなら、カメレオンのように色を変えて、仮面をかぶることだっていとわない。そうやって彼女は生きているのだと。



「あたし、ずっと夕映ちゃんと仲良くなりたかったんだぁ」
「私も仲良くなりたかった。紬ちゃんと」


 その会話から、私たちの距離はどんどん縮まっていった。



 一年生のとき、文化祭を一緒にまわった。髪をおろして、少し普段とは違う紬ちゃんの姿に、男子たちが言葉を失っていたのを覚えている。

 二年生になってもクラスが同じで、とても嬉しかった。掲示板の前で思わず紬ちゃんに抱きついてしまった。





 二年生になって勉強や部活が難しくなっても、短い時間をなんとかやりくりしながら学校生活を送っていた。
 そんなある日のことだった。


「紬ちゃん。柴谷くんが探してたよ」
「わかった! ありがと」
「あ、紬ちゃん! 修正テープ、返したいんだけど」
「また明日でいいよー!」



 ばいばーい!と手を振りながら、五号館へとかけていく紬ちゃん。入学当初から仲の良い柴谷くんと会うのだ。彼女の口から「柴谷」という名前が出てきたことはないけれど、私は知っている。彼らが、二人だけの時間を過ごしていることを。

 前に何度か、渡り廊下を歩く二人の姿を見かけたことがある。もし付き合っているのだとしたら、二人は隠すのが上手だ。クラスではいっさいかかわることなく、甘い雰囲気もぜったいに出さないから。

 どんなふうに付き合って、どんなことをしているのか。私にはさっぱり分からなかった。



 明日でいいって言ってたけど、どうせ教室に戻ってくるだろうし。ロッカーの中に返しておけば、見つけてくれるはず。

【ありがとう】と添え書きをして、紬ちゃんのロッカーを何気なく開けたそのときだった。



「……え?」

 ロッカーの裏に貼られたものに、私は釘付けになる。


「あーーーっ!!」


 ドタドタと足音がして、向こうから紬ちゃんがかけてきた。私のもとへ到着した彼女は、ロッカー扉の裏の貼り紙をびりっとはがす。



「……見た?」
「紬ちゃん、これ……」
「撤去し忘れちゃった。あーあ、やっちゃった」


 へらっと笑う紬ちゃんの顔は、どこか歪んでいた。


「慌てて戻ったんだけど、どーして今日に限って忘れちゃったかなぁ」
「今日に限って、って……もしかしてこれ、毎日?」
「あー……またやっちゃった。もう黙ったほうがいいね」


 ははっとかわいた笑みを洩らす紬ちゃんが何を思っているのか。どんなに目を見つめても、何も感じ取れなかった。


「紬ちゃん」
「いいの!」


【死ね】
【柴谷くんから離れろ】
【調子乗るなブス】


 高校生にもなって、こんなことがあるのか。目を見張る言葉がそこには何枚も何枚も貼られていた。
 今どきスマホがあるこの時代に、こんな安っぽいいじめがあるのだと驚愕した。だけど、匿名で届く文字の羅列よりも、こうして視覚的にインパクトが残るやり方を敢えて使ったのだと理解したとき、腹が立って仕方がなかった。

 バレないようにこっそり、ではない。見せつけるかの如く、堂々といじめをしている。これはそういうことだ。

 こんなに堂々としているのに、紬ちゃんが隠すのがうますぎて。
 いや、私が鈍すぎたせいで、まったく気づいてあげられなかったのだ。


 毎日笑っていたはずなのに。彼女は毎日こんな仕打ちをうけていたのだろうか。
 どうして私は、何も気づかなかったんだろう。



「夕映ちゃん! あたしは全然大丈夫だから!」



 こんなに近くにいたのに。どうして。


「所詮言葉だから。暴力とかはされていないからだいじょーぶ」


 なんで。なんでそんなに笑っていられるの。おかしいよ、紬ちゃん。



「やっぱり柴谷は目立つからねぇ。でもあたしは柴谷といたいから、仕方ないことだよね。全然へーき。嫉妬なんてどんとこいだよ!」
「……ごめん」
「どうして謝るの! 本当に大丈夫だから、夕映ちゃんが思い詰めることはないんだよ。もしほんとに助けてほしい時があったら、遠慮なく頼るから! ね!」


 うそ、ばっかりだ。
 こんなにひどいいじめを受けているのに、毎日笑っていられる強さは、いったいどこから湧いてきているのだろう。彼女の明るさは、こんないじめがあった上でのものだったの?


「もし、限界が来そうになったらいつでもいってね。私、なんでも力になるから」
「……うん、ありがとう」





────結局、彼女は一度も私を頼ることなく、あっけなく生涯を終えた。自分で死を選んだ彼女は、誰にも言わず、人知れずこの世を去った。





『不自由かけますが……よろしく、お願いします』


 そして、また私の前へと現れた。

 新しい、葉瀬紬となって。







⸝⋆⸝⋆



「思い出したら、また自殺しちゃうんじゃないかと思って。完全にいなくなっちゃうんじゃないかって。そう思ったら、近づけなくなった。何にも守ってあげられなかった私が不用意に近づいて、最悪の結果になったらって」
「そう、だったんだ」
「ごめんね。ずっと、他人のふりして。本当は話したくて、一緒にいたくて、でも逃げてたの。自分の弱さから、逃げてたの」


 ぽろぽろと涙を流す山井さん────もとい、夕映ちゃんは再び「ごめん」とつぶやいた。


「紬ちゃんの記憶は、治ったの?」
「ううん、なおってない。でも、わたしはどんな過去を知っても、向き合うって決めたから。絶対に死のうとしない」


 この気持ちは、本当だった。もし、もう一回自殺をしようとしたら。その気持ちで、両親も、夕映ちゃんも、あまり距離を縮めようとはしなかった。



 けれど、今のわたしなら大丈夫。どんなにつらい過去があっても、この先生きていくのがつらくなるような事実を知っても、それでも今は柴谷のとなりで笑っていたいから。



「……前のわたしも、柴谷と一緒にいたんだね」


 やっぱり、わたしと彼は一緒にいたんだね。たとえ恋人という関係ではなかったかもしれないけれど、紛れもなく一緒にいたのだ。
 周囲から疎まれる結果になったとしても、過去のわたしは彼と一緒にいることを選んだ。それが、とても嬉しかった。



「わたし……どうして自殺したのかな。知りたい。思い出せなくてもいいから、知りたいんだ」



 いじめに耐えきれなくなって、という線がいちばん怪しいけれど、なにせ葉瀬紬だ。彼女は本当にしんどかったら、最初から何か対策をしているだろうし、夕映ちゃんに助けを求めているような気がする。自分のことなのに、まるで他人事みたいで笑えてくる。



「私も分からない。夏休み中だったし、連絡のやり取りはしていたけど紬ちゃん……ああ、昔の紬ちゃんから何か聞いてたわけじゃないから」
「そうなんだ」
「うん。突然だった、本当に」



 だとすれば、よほど大きな衝撃が彼女を襲ったのかもしれない。明るく笑えていたはずの以前の葉瀬紬を、死に至るまでに追い込んでしまう圧倒的な出来事が。



「あ、あと。文化祭の出し物ね、本当は前、紬ちゃんの絵が目立つようにしようって作戦練ってたから。だから赤坂さんの案に決まったとき、結構ショックだったんだ。顔にでてたかもしれない」
「納得した」


 時を経ての答え合わせでなんだかくすぐったい。
 あのとき夕映ちゃんが沈んでいるように見えたのは、やはり見間違いではなかったのだ。




「そういえば紬ちゃん、文化祭マジック起きた?」
「なにもないよ……っていうか、相手いないから!」
「えー? 柴谷くんじゃないの?」



 にやにやしながらわたしの肩をつつく夕映ちゃん。恋バナに発展したおかげで、いっきに可愛らしいムードが出来上がった。



 柴谷のこと。
 彼のとなりに並んでいたいと思うし、彼にならすべてを打ち明けることができる。

 彼の瞳はとても綺麗だと思うし、いつも彼と過ごす時間を楽しみに学校に通っている。




「好きってどういうことなのかな」

「誰にもとられたくないって思うことじゃない?」




 ーー誰にもとられたくない。

 そういう感情はまだ芽生えていないような気がする。



 じゃあ、やっぱりわたしは柴谷のことが好きなわけではない?




「そのための恋愛相談バーだよ! よし、いっくぞー!」


 夕映ちゃんに引っ張られるようにして廊下を歩く。


 久しぶりに高校生として、青春を謳歌できているような気がした。

 本来、わたしが求めていたのはこういう何気ない幸せだ。




 大切な誰かと、大切な思い出を積み重ねていく。その瞬間を切りとって、忘れないように閉じ込めておく。




 ねぇ、過去のわたし。
 苦しさを必死に隠しながら、常に明るく振る舞っていたはずのわたしへ。


 絵に描くことしかできなくて、苦しんでいた昔のわたしへ。





 ーーきみがずっと言えなかったこと、教えて。




『未完成だから』


 柴谷の言葉を聞いてから、一ヶ月が経った。相変わらず朝と昼食は一緒に過ごしているけれど、写真の話はいっさいしない。

 それと、わたしの過去の話も。


 放課後、わたしは学校に残ることにした。放課後も活動をするらしい柴谷についていく。どうしても知りたいことがあって、いい加減逃げてきたことに向き合おうと思ったから。

 もうすぐ桃色へと変わりそうな空のしたで、目の前で揺れる柴谷の髪を見つめていた。


 乾いた唇を舐めて、深呼吸をひとつ。大丈夫、わたしなら、だいじょうぶ。


「ねえ柴谷」


 ん、と小さな返事を寄越した柴谷は、ぼんやり空を眺めていた。最近、柴谷はカメラを持たなくなった。わたしが来た時には使っているふうな素振りを見せるけれど、構える回数が格段に減った。

 どうして、ときければいいのだけれど、この前踏み込みすぎた前例があるのでなかなか難しい。


「わたしね、もう知ってるの。自分がどうして記憶を失ったのか」


 わたしの言葉をきいた柴谷は、何も言わないで、目を静かに見開いた。


 文化祭のあと、両親にすべてを話した。押し入れを開けたこと、自殺しようとしたと分かったこと、学校で自分の絵を見たこと、柴谷や夕映ちゃんと会っていること。それを踏まえた上で、詳しい説明をしてもらった。


 色々な専門用語が出てきて頭がパンクしそうになったけれど、簡略化すると、人間関係でたまったストレスと自殺における脳への負担によって記憶がとんでしまったのだという。


 その過程で、絵を描く特技についても忘れてしまったと。


「わたし、絵を描くことがストレスだったのかな」


 どうして記憶を失う必要があったのか。絵に関することで大きな衝撃があったのだろうか。その謎がまだ解決していない。


「教えてほしい。あの日、何があったのか。わたしが自殺した日、わたしが生まれたあの日。いったい何があったのか教えて、柴谷」



 詰め寄ると、わざとらしく視線を外した柴谷は小さく首を振った。



「知る必要ねえよ」
「未完成の理由が知りたいの。やっぱり、ずっと未完成なのは嫌だよ。柴谷の力になりたい。だから、未完成の理由を教えてほしい」




 わたしはずっと、逃げてばかりだった。周囲の視線を気にして、息苦しい世界を生きていた。
 だけど、そんな自分から変わりたい。

 過去に向き合う。それは決して簡単なことではないけれど、何も知らないまま、わたしと関わってくれた人たちの想いも記憶から消してしまったままなのは嫌だ。


 目を伏せた柴谷は、ため息を吐いた。
 それから何度か呼吸を整えて、透明な瞳に光を宿す。それは、どこか遠い場所を見つめていた。






「コンテストに出すはずだったんだ。俺と葉瀬の……合作で」



・・





 俺の第一声は、あまりにも腑抜けた声だった。


「盗作……?」


 美術部顧問は、俺と葉瀬の挑戦を心から応援してくれていた。あと少しで完成。ふたりでつくりあげた最高傑作。これなら、自信を持ってコンテストに応募できる。

 そんなふうに思っていた矢先だった。彼女から記憶が抜け落ちてしまったのは。

 あとになって俺はようやく、葉瀬が複数の女子からいじめを受けていたことを知った。


「これを見てほしい」


 美術部顧問から見せられたのは、インターネットの記事。【イラストコンテスト】とシンプルだが大規模なコンテストで、大賞をとっていたのは紛れもなく葉瀬の絵だった。俺との合作というかたちで出すはずの絵だった。色塗りはまだされていない、いわゆる下書きの状態。だが繊細なタッチが魅力的で、才能を放っていた。


 初めは、葉瀬がこっそり自分だけのコンテストに応募したのかと思った。俺と合作にするのではなく、自分の力だけで試してみたかったのだと。けれど受賞者の名前がまったくの別人だと気づいた時、身体から力が抜けていくような感覚がした。



「なんで、これ。まだどこにも出してないのに」


 どうしてこんなにそっくり描けるんだ。偶然なはずがない。


「そう思ってすぐに問い合わせてみたら、受賞した子が吐いたよ。ネットから盗作したって」
「ネットから?」
「なんの拍子か知らないが、たまたま葉瀬の絵を見つけたらしい」



 葉瀬は絵をあげていた?
 どこでどんな扱いをされるか分からないネットに?

 それは少し……いや、かなり無責任じゃないか。自分だけの作品ではないのに。



『ネットでトラブルだって。ネットは怖いからできるだけ関わらない方がいいと思うんだけどなぁ』

『この作品は誰にも見せずに眠らせておくの。わたしと柴谷だけが知る、秘密のものにしたいから』



 すぐに、そんなはずはないと思い直す。俺が知っている葉瀬紬は、決してそんなことしない。



「これが見つかったのは、コンテストに出す二日前。君との合作を本当に楽しみに、本気で取り組んでいたからこそショックが大きかったんだろうな」
「それで葉瀬は……」
「創作者にとって、盗作というのは命を奪われるのと同義だ。自分が魂を込めて生み出した一作を盗られるというのは、それくらい大きな影響を与える。他者が、たとえ軽い気持ちでやったことだとしても」


 顧問は瞑目して天を仰いだ。


「今やネット社会だ。海のように広い。一度広まれば戻ってこない。彼女はきっと、そんな世界に君との宝物が放り出されたことに責任を感じたんだろうな」
「葉瀬は何も悪くないのに」
「彼女の絵は、彼女の心だ。繊細で、傷つきやすくて、儚くて。言葉にできない彼女の想いが、すべて込められているはずだから」



 以前、『きみがずっと言えなかったこと』というテーマのコンテストで受賞した彼女の絵を見たことがある。顧問の言うとおり、本当に繊細な絵だった。その絵を見た瞬間から、俺は改めて彼女の絵の虜になった。


 絵描きなら絵で。物書きなら文字で。写真家なら写真で。

 それぞれの作品には、すべてに作者の想いが込められている。だからこそ、たくさんの人の心を打つのだ。



 望まぬ形で評価されてしまった絵。どうあがいても間に合わない事実に、彼女は絶望したのだろう。



 いじめを受けていながら常に笑っていた彼女が、唯一我慢できなかったこと。彼女を死へと追い詰めた出来事。
 それは、俺と描いた夢をかき消されることだったのだ。



 いったいどこから葉瀬の絵が漏れたのか。俺はその真相を突き止めることにした。

 記憶をなくした葉瀬と迎えた新学期。葉瀬の記憶について担任から知らされたとき、明らかに動揺していた人物がひとりいた。



 葉瀬紬が自殺をはかった。

 そんな珍しき事実は、噂として広まるのにたいした時間はかからなかった。広いようで狭い町だ。同じ高校内だけでなく、他校の高校や中学にまでも噂が流れたのだろう。

 だから表向きに言われている『記憶喪失』という言葉の裏には、『自殺未遂』という意味が隠されていることを、ほとんどの生徒は知っている。



 俺はすぐにそいつを呼び出した。放課後、空っぽになった教室に。



「……お前がやったのか」


 何をという部分がなくとも、察したようにうつむいたところで理解した。間違いない。



 赤坂燈。
 その名を持つ人物が、この泥臭い出来事のすべての黒幕だった。


「こんなに大事になるなんて思わなくて。葉瀬さん、ちょっとムカつくから恥ずかしい思いすればいいなくらいの気持ちだったの」


 赤坂は顔を真っ青にしながら必死に訴えてくる。



「そんなに大事な絵だと思わなくて。たまたまノートに描いてあるのを見つけて、少しだけ恥ずかしい思いをさせようと思って裏垢に写真をあげただけ。まさかこんなことになるなんて知らなかった」


 目に涙をいっぱいためている赤坂には、同情のかけらすら生まれなかった。
 赤坂は首を振りながら、消えそうな声で言葉を紡いだ。


「鍵垢だったし、フォロワーも少ないから本当に身内だけで共有をーー」
「黙れよ」



 赤坂は息を呑んで、ぐっと口を閉じた。


 自分ではない誰かのために怒るというのは、そこに必ず愛があると思う。その「誰か」のことを守りたい。「誰か」のために思いをぶつけたい。

 自分がどう思われたとしても構わないから、自分はこの人のために腹を立てて、怒りたい。怒鳴って、相手に嫌われてでも守ってやりたい。



 葉瀬紬は俺にとって、たったひとりのそんな存在だった。



「お前の軽率な行為で、葉瀬はあんなことになったんだ。この期に及んで許されようとしてんじゃねえよ」
「それは……」
「第一、ムカつくってなんだよ。アイツがお前に何かしたのか? 聞いたよ全部。お前が葉瀬をいじめていたことも」



 なんで言わなかった。
 なぜ、気づけなかった。



 過去の俺は、いったい彼女のとなりで何をみていたんだ。




「私、葉瀬さんがずっと嫌いだったの。憎かった」


 息を吸った赤坂は、覚悟を決めたように俺に向き直った。もう言い訳を並べることはやめたらしい。



「柴谷くん、私には何もしてくれなかったじゃない! 葉瀬さんばかり気にかけて、ちっとも私のほうを向いてくれなかった。私はずっとずっと、柴谷くんのことだけを見ていたのに」



 赤坂の目は俺をまっすぐにとらえていた。こうしてちゃんと目を合わせたのは、これがはじめてだった。



「ウザかったの。嫌な思いをして、柴谷くんから離れればいいと思った。だからいじめたの。葉瀬さんがあんなことになったのは、全部柴谷くんのせいだか────」
「わかった」



 これ以上、話し合っても何も生まれないということも。赤坂に反省の色が浮かぶことなど、この先ないということも。
 俺が、葉瀬より赤坂を選ぶことなどあり得ないということも。


 すべて、わかった。




「俺のせいでいいよ。全部なすりつけていい。そのかわり、今後アイツに近づいたときには俺、容赦しないから。全力でアイツのこと守るから」
「え……?」
「今度は絶対傷つけさせない」




 決意を固める。喉元が熱くなる。
 脳裏に、記憶を失ったあとの葉瀬の顔が浮かんだ。青白く、消えそうで、この世の終わりみたいな顔をしていた。周囲の奴らがみんな初めましての環境にひどく怯えているようだった。




「私……私ね、柴谷くんのことが」



 伝える資格すらない言葉を赤坂が発する前に、スマホを目の前に差し出した。

 黙れ、と。言葉ではなく行動で示す。





『ウザかったの。嫌な思いをして、柴谷くんから離れればいいと思った。だからいじめたの』






 再生中、と表示されている画面を見ながら、赤坂は呆然と立ちすくんでいた。視線は一点に集中している。




「これ、バラされたくなかったらもうアイツには近づくな。本当は同じようにネットにばら撒いてやりたいよ。でも、そんなことをしてもきっとアイツは喜ばないから」



 葉瀬はそんなこと望んでいないはずだから。


「お前が葉瀬にどんなことをしたのか、話せばお前の立場は間違いなく崩れる。この通り、証拠もとった」
「やめて! そんなことされたら私……」
「俺は優しいから。アイツに見えている通りの俺でいたいから。だから葉瀬にいっさい近づかないと約束するなら、これはどこにも晒さない。ただし、何かあったらいつでも晒しあげる準備はできてる」




 赤坂は悔しげに唇を噛んでうつむいた。彼女の長い髪が垂れて、その顔に影をつくる。



「赤坂。嫌われてもいいと、傷つけてもいいは違う」



 赤坂はハッと顔をあげる。その目には大きな涙が浮かんでいた。



「俺は葉瀬のことが好きだから。お前のことは好きじゃない」



 分かりきったことをわざわざ伝えようと思ったのは、自分の意思をはっきりとさせるためだった。そして、このくだらない茶番に終止符を打つためでもあった。


 赤坂は頬を濡らして教室を出ていく。生ぬるい風が髪を揺らした。





 ーー助けて。
 俺は、その言葉が聞きたかった。

 頼ってほしかった。会いにきてほしかった。すべてひとりで決めてしまう前に。



 俺はずっと、決定打を探していた。
 彼女に告白しようと、もっと距離を縮めたいと思える出来事を。

 自分に自信がついて、常に笑っていた彼女にふさわしい自分になれるように。



 ーー助けて。
 言葉をあげて、俺に悩みを打ち明けてくれる。助けを求めてくれる。
 俺のことを、信じてくれる。


 胸の内に秘めた、本当の葉瀬紬。




 俺はいつも、そんなキミを探していた。








・・



「柴谷は……わたしのことが好きだったんだね」


 気付けば頰が濡れていた。これは誰の涙なのか分からない。

 わたしのもの?
 それとも以前の葉瀬紬のもの?



「今の言い方は語弊があるね。正確には、昔のわたしが、好きだったんだね」


 明るくて、前向きで、彼を引っ張って光ある方へと導いてくれるような。絵が得意で、打たれ強くて、繊細な人の気持ちがわかるような。結局はみんな、以前の葉瀬紬が好きなのだ。



 過去を受け止めるつもりで、彼からの言葉を待った。それなのに、思っていたよりも衝撃が大きくて。

 どうして、こんな気持ちになるんだろう。


 彼が好きなのは昔の葉瀬紬。
 その事実を改めて認識するたびに、苦しくて無性に泣きたくなる。



 わたしは本物の葉瀬紬にはなれない。

 わたしはきみにはなれないよ、紬。



 こんなわたしじゃ、彼のとなりにふさわしくない。並べない。
 わたしはやっぱり誰からも求められていない。それが痛いほど分かって、苦しかった。



「教えてくれてありがとう、柴谷」



 これ以上彼の顔を見ていると、涙が止まらなくなってしまうような気がした。


 どうして、どうして。あんなに自分を強く持とうと決めたじゃないか。それなのに、どうして今揺らぐ必要がある。

 悔しい。
 わたしは、わたしに勝てない。

 どんなにあがいても、昔のわたしには勝てやしない。



ーー前はもっと明るかったのにね。
ーーすっかり変わってしまったね。




 変わってしまう前のわたしは、みんなの話を聞く限りとても魅力的で。どうしても今の自分と比べて、落ち込んでしまう。



「美術準備室にカメラ。ずっと不思議だったけど、昔のわたしがよく使ってた部屋だからでしょ」
「……」
「入るね」



 あれだけ頑なにダメだと言っていた柴谷は、今日は何も言わなかった。足を踏み入れると、どこか懐かしい特有のにおいが鼻をつく。

 画材がたくさん並んでいた。完成した作品も、何作か飾られていた。



【葉瀬紬】

 すみのほうにつくられたコーナー。そっと棚から引き出してみると、美術部展示でみたような繊細なタッチだった。わたしはこの絵で、いったい何を伝えたかったのだろう。


ーーわたしには、やっぱりきみの気持ちなんて分からないよ。紬。


「……葉瀬」
「わたしには分からない。ごめんね、約束を果たしてあげられなくて。こんなわたしじゃ何もできないから、柴谷のこと応援する資格すらないんだ」


 ああ、また自己嫌悪。
 彼と出会って変われたはずなのに、変われたと思っていたのに、実際は暗く深い場所を彷徨っているだけ。




「逃げるなよ、葉瀬」



 美術準備室から飛び出そうとした腕を掴まれる。
 逃げるなって、なに。透明な目で見つめられて、途端に逃げ出したくなる。自分の気持ちがぐしゃぐしゃになって、自分自身でもよく分からなくて、涙があふれだした。


 わたしはもう前のわたしとは違う。

 結局過去を知ったことで自分を苦しめて、あてもなく彷徨いながら後悔して生きていくんだ。昔の自分に謝りながら、周囲の人を跳ね除けて。



 過去の出来事を知るのはこわくない。だけど、過去の自分を知るのはこわかった。過去の自分がすぐれていればすぐれているほど、今の自分の存在価値を見失う。



「わたし……帰るね」



 柴谷はもう何も言ってこなかった。追いかけてくる足音もない。



 今のわたしが、過去のわたしより優れているところはなんだろう。どうやったら、過去の自分を越えられるんだろう。

 過去を知ったその先で、柴谷が支えてくれるだろうと勘違いしていた。彼が支えたいと思っているのは、会いたいと願っているのは、前の葉瀬紬なのだから。

 決してわたしじゃない。








 家に帰って廊下を歩いていると、急に母が現れた。対面して視線が絡んだその瞬間、母はわたしの名前を呼んだ。


「紬」
「え?」
「なにかあったね」


 問いかければ大丈夫だと答えると思ったのか。母は断定するように言葉を発した。



「お母さんね、ずっと紬に渡さなきゃいけないものがあったの」


 母は寝室に姿を消し、それからしばらくしてひとつのキャンバスを抱えて戻ってきた。大切そうに抱えられたそれは、美術部のわたしなら見飽きたほど見てきたであろうもの。


「本当は遺書と一緒にこれも見つかっていてね。最初はお母さんたちから柴谷くんに渡そうと思ったんだけど、それはやっぱり違うんじゃないかって。これは、紬から渡すべきだと思ったの」



 両親が遺書や画材を押し入れに隠していたのは、それらを捨ててしまえば昔のわたしが生きた証が完全に消えてしまうような気がしたからだと言っていた。名残惜しくて捨てられなかった、と。

 遺書、画材、それらが押し入れから見つかったとき、柴谷にあてたものが何もないことに違和感を覚えていた。
 遺書に書かれていた追伸は柴谷に宛てたものだとしても、彼へ残す想いはたった一文だけで割り切れてしまうものなのかと。



『そうだ柴谷。あたしね、来年の冬に柴谷に渡したいものがあるの。今年はちょっと間に合いそうにないんだけど、来年は絶対渡すからね』




 柴谷の記憶の中で、わたしはこんなことを言っていた。
 来年の冬渡したいもの。以前のわたしがずっと準備していたもの。


 だけど渡せなかったもの。




 じっとそのキャンバスを見つめる。

 ずっと考えていた。わたしが生き延びてしまった理由を。

 残された人生で、空っぽになってしまった人生で、わたしは何ができるのかを。





「……実はお母さんが早起きした日の前日に、柴谷くんと偶然会ってね。そのときに言われたの。朝ごはん、一緒に食べないんですかって」
「え」
「だめね、お母さん。紬はお母さんと一緒にいるのが嫌なんじゃないかって思って、距離を詰めようとしなかったの。紬の本当の気持ちを聞かないまま、勝手に決めつけて」



 とある朝の会話が思い起こされる。


『お前はどうしたいわけ?』
『一緒に朝ごはん、食べられるようになりたい。それで……いってきますって言えるようになりたい』



 たしかあのとき彼は「ふぅん」と適当な相槌を打っていた。だからてっきり、聞いていないと思っていたのに。

 母とわたしの間にある壁を取り壊すきっかけをくれたのは、彼だったんだ。

 わたしの知らないところで、彼はいつも、わたしを助けてくれていた。
 もう一度、前を向いて進み出せるように。



「ねえ、お母さん」



 毎日自分を嫌いになって、消えたいと願って、以前のわたしに申し訳ないと謝って。
 変わってしまった自分を恨みながら、生きていく意味を探していた。



 だけど彼は。

 ちゃんと今のわたしを見てくれていた。





 ーー好きだ。
 わたしは、柴谷のことが。

 だからこんなにも苦しくて、泣きそうになってしまうんだ。彼がわたしを通して過去の葉瀬紬を見るたびに、胸が締め付けられて息ができなくなる。


 彼の瞳にずっと映っていたい。
 わたしだけを映してほしい。



 この感情を恋と呼ぶのなら。


ーーわたしは君に、恋をしている。





「わたし、今から出かけてきてもいいかな」



 わたしは、以前のわたしが言えなかった気持ちを、伝えられなかった想いを彼に届けるために、この世界に生まれた。十七歳の誕生日、すべてに絶望した日にわたしの人生は始まった。



「気をつけていってらっしゃい。紬」



 過去のわたしは、柴谷のことが好きだった。柴谷も、過去のわたしのことが好きだった。

 ずっと言えなかった過去のわたしの気持ちを、今度は今のわたしが伝えにいく。




 繊細なタッチで描かれた絵の中で、柔らかく笑う柴谷を見つめた。

 突き刺すような部分はいっさいなくて、ただただ優しさが溢れている絵だった。以前の葉瀬紬には、彼がこんなふうに見えていたんだろう。



 キャンバスを持って、家を飛び出す。


 会いたい。柴谷に会いたい。
 この作品を、想いを、彼に届けたい。




 わたしが死ななかった理由。こうして生命を繋いだ理由は、きっと。









「柴谷!」


 もしかしたら、まだ学校に残っているかもしれない。そんな考えで学校に戻る。

 運動部はまだ活動をしている時間で、その可能性はじゅうぶんにあった。
 けれどもう、柴谷はいなかった。美術準備室までくまなく探したけれど、そこに柴谷の姿はなかった。

 かわりに、いつもあるはずのカメラがなくなっている。ここ最近写真を撮らなくなった彼が、どこかでカメラを構えているのだろうか。




 足早に廊下を歩いていると、角からいきなり現れた人物とぶつかりそうになる。それが誰なのかを認識したとき、思わず息を呑んだ。


「赤坂さん……」



 赤坂燈。記憶を失ってからは一度も関わったことがないけれど、以前のわたしを追い詰めた張本人。事実を知ってからだと、見る目がガラッと変わってしまう。


「その反応、もしかして思い出した?」



 いぶかしげに眉を寄せた赤坂さんに「違います」と首を振った。


「記憶は戻ってないです。でも、以前のわたしが何をされたのか、それはききました」
「……そう」
「正直、怒っています」


 過去の話を聞いたとき、いちばんに浮かんできた感情は怒りだった。彼女は過去のわたしを苦しめた。その事実はこれまでも、これからも変わることはない。



「以前のわたしは、間違いなくあなたのせいで死まで追い詰められた。柴谷との夢を壊されたまま」
「……ええ」
「すごく苦しかった。結果的に生命は助かったとしても、記憶を失うことになるほどの出来事だった」


 そうして、わたしがうまれた。
 赤坂さんのせいで過去のわたしは消えてしまったけれど、赤坂さんのおかげで今のわたしは生まれたのだ。

 息を吸う。
 肺いっぱいに空気が満たされるのを感じる。


「死ぬまでのわたしは、ずっと自分の気持ちを隠したままだった。誰にも助けを求められないまま、笑顔を貼り付けて。でも今のわたしは違うから。以前のわたしが叶えられなかった夢を、今度はわたしが叶えてみせる」



 柴谷と、一緒に。




「それに赤坂さんの気持ち、今なら少しは分かるから。もちろん嫉妬でその対象を傷つけるのは許されちゃいけないことだよ。でも、柴谷は昔の葉瀬紬しか見えてないから。柴谷が好きなのはわたしじゃないから。それが悔しいし、羨ましい」


 好きな人の好きな人。いくら憧れてもまったく手の届かないその場所で笑っている姿を見るのは、当然苦しい。



「だからね、もういいの。今を生きてるのはわたしだから。今のわたしは、赤坂さんのこと許すよ」



 人間は完璧じゃない。長所も短所もそれぞれが持っているから、時にぶつかり合いが生じることだってある。

 だけどそのたびに言葉を交わして、行動で示して、一緒に前に進んでいくことができたら。そしたらぶつかり合う前よりも、お互いのことを知ることができる。

 そうやって、わたしたちは生きていくしかない。


 だってわたしたちは、未完成なのだから。




「……やっぱり、あなたには勝てないわ。何も変わっていないもの」
「え?」
「柴谷くんが好きなのは、いつまで経ってもあなたなんだと思う。悔しいけど、ほんとに何も変わってない。以前のあなたも今のあなたも、すごく強くて敵わない」



 泣きそうな顔で笑った赤坂さんは「柴谷くんなら少し前に校舎から出ていったわよ」と助言を残して去っていった。






 柴谷はどこにいるんだろう。彼の行動範囲など知らない。
 必死に記憶を手繰り寄せる。柴谷が話してくれた過去に、何か手がかりはないのか。


 焦って飛び出したからスマホは持っていない。連絡手段を断たれてしまった今、わたしにできることは勘にかけるよりほかなかった。



 カメラを持ち出した柴谷は、いったい何を撮ろうとしていたんだろう。柴谷の過去とカメラが関係する場所。


 それはーー。





 薄く広がる淡空のした。
 柴谷と葉瀬紬が出会った場所。わたしが何の気なしに訪れていた公園は、実は彼との思い出の場所だったのだ。
 ザイルクライミングが視界の端に見える。


 花びらも葉もない桜のそばでたたずんでいる柴谷に駆け寄ると、彼は驚いたようにこちらを向いた。その手にはしっかりとカメラが抱えられている。



「これを、柴谷に渡したくて。ごめんね、途中で逃げ出したりして」


 切れそうな息のまま、柴谷に絵を差し出す。その絵を静かに見つめた彼は、そっと瞳の奥を緩ませた。



「約束、ちゃんと果たしてくれたんだな」


 その言葉は、わたしへの言葉ではなかった。

 来年の冬、と交わされた約束を。守れなくてごめんね、と記された約束を。
 ちゃんと果たし抜いた、ここにはいない葉瀬紬へと贈られた言葉だった。



「ありがとう、葉瀬」
「きっとね。昔のわたしは、柴谷のことが好きだったんだよ。この絵を見たら分かると思うけど、本当に、好きだった」



 やっと、言えた。
 ーーきみが直接言えなかったこと、伝えてあげられたよ。


 ねぇ、過去のわたし。

 きみがずっと言えなかったこと。
 ちゃんと彼に届いてるよ。


 柴谷は目を細めた。彼の透明な瞳に、もっと透明なものが光っている。柴谷は空を見上げて、そっと目を閉じた。

 それから小さく息を吸って、もう一度その瞳にわたしを……否、あたし(・・・)を映す。


「俺も……好き、だった」


 気づけば頬が濡れていた。
 柴谷から紡がれる繊細な言葉と、そこに込められた想いに、心が震えて涙が止まらなかった。




 昔のわたしと柴谷の想いが通じ合った。今はそれだけでよかった。

 今のわたしの気持ちなんて、伝えるべきじゃない。




 だから、わたしが言えることは。
 今、彼に言いたいことは。



「でも、過去のわたしはもういないから。ここにいるのはまったく違うわたし」


 ぎゅっと拳を握り締める。まっすぐに柴谷の目を見つめた。
 柴谷は呼吸を合わせて、わたしの言葉を待ってくれている。




「だからもう一度、挑戦しよう。柴谷」




 その瞬間、柴谷の目が見開かれた。
 優しい風がわたしたちの髪を静かに揺らす。トンッと誰かに背中を押されたような気がした。



「以前のわたしとの作品は未完成のままかもしれない。だけど今度は、新しいわたしと一緒に頑張ってくれないかな」



 わたしたちは何度だってやり直せる。
 生きてさえいれば。


 こんなところで立ち止まってはいられない。夢を描いたその先で、わたしたちはとなりに並んでいるはずだから。


 彼と描く未完成な世界を、わたしはこれからも見ていたい。



「前みたいに素敵な絵は描けないかもしれない。筆を握っても失望させるだけかもしれない。それでもわたしは頑張るから、だからもう一回挑戦してみようよ。わたしたちならきっとできるよ」



 柴谷。


 空っぽのわたしに息の仕方を教えてくれた人。

 学校に行く理由になってくれた人。

 もう一度、前を向くきっかけをくれた人。


 わたしは何度記憶を失っても、そのたびに彼を好きになるんだろう。


 導かれるように。息をするように。
 未完成な世界に、徐々に色を付けていくように。


 ーーそんなふうに、君のことを好きになった。






「言っただろ。俺にとっては過去の葉瀬も、今の葉瀬も、どっちも本物の葉瀬なんだって」
「え?」



 キャンバスとカメラを丁寧に抱きしめて、柴谷は凛とした光をたたえたままこちらを見た。



「紬」



 名前を呼ばれた瞬間、全神経が彼に注がれる感覚がした。彼の瞳から目が離せなくなる。



「俺ともう一度、コンテスト目指してほしい」






 ふたりで挑戦すればこわくない。
 もう一度、一緒に同じところを目指そう。


 ーーわたしと君なら、きっとできるよ。




 わたしたちはこうやって支え合って、与え合って、未完成な世界を生きていく。





 私には後悔していることがある。
 自分の嫉妬を抑えきれずに、とある人物を傷つけたことだ。

 葉瀬紬。その名前を持つ人物だった。


 私は柴谷くんにずっと想いを寄せていた。中学生のころから、女子や恋愛に無頓着で常に自分の世界を生きているような彼に惹かれていた。何度も何度もアタックしたけれど、全然相手にしてもらえなかった。

 それでも、彼が夢中になるような相手がいなかったから、なんとか我慢できていた。高校に入って、葉瀬紬という存在が現れるまでは。



「赤坂さんの気持ちは赤坂さんのもの、私の気持ちは私のものでしょ。どう頑張っても変わらないし、無理して変えなくていいものだよ」



 いざ会話してみると、差は歴然としていた。悔しいと嘆く気持ちとは裏腹に、自分との差を見せつけられたみたいでどこか諦めの感情すら浮かんでいた。


ーーあまりにも差がありすぎる。


 柴谷くんが求めている人間というのが葉瀬紬であるならば、私はどう頑張っても柴谷くんのとなりに並ぶことなんてできないのだと理解した。


 写真家の彼と、絵描きの彼女。
 それだけでも特別感があったけれど、ふたりが並んでいるのをみると、ただそれだけの感情で二人が一緒にいるわけではないのだとすぐに分かった。

 お互いにとっての居場所であり、安心して息を吸える場所であり、誰にも立ち入れない雰囲気がそこにはあった。



「赤坂さんがどう思っていようと、私は赤坂さんが好きだよ。今のところはだけどね」



 どう生きていけばこんなふうになれるのだろう。だってまだ同じ年数しか生きていない。
 大人のようにも、子供のようにも見える葉瀬紬は魅力的だった。柴谷くんも、彼女のそういうところに惹かれたんだろう。

 もし葉瀬紬がとても性格の悪い人間だったなら、表立って火花を散らすことができたかもしれない。
 けれどあまりにも彼女が出来すぎた人間だったから。柴谷くんのとなりにふさわしい人物だったから。



 私は姑息な手を使って、彼女を苦しめることしかできなかった。






 その日も、少しばかりイタズラしてやろう、くらいの気持ちだった。
 教室に戻った時、ふと葉瀬さんの机に置かれた一枚の紙に目が止まった。


 周りに誰もいないことを確認して近寄る。それは絵だった。
 色も塗られていなければ、くっきりと描かれているわけでもない。イラスト好きな友達が「ラフ」と呼ぶそれに似ていた。
 もう一度周囲を見渡して、持っていたスマホで写真を撮った。一瞬の行動だったけれど、心臓がバクバクと鳴って飛び出そうだった。

 最低なことをしている自覚があったから。



 小さな小さなコミュニティ。
 私と、それからいつも一緒にいるマキとミホ。あとは信頼はできないけれど、いつも私の後ろをついてくるサキやアコ。たったそれほどの人しか知らない鍵アカウント。

 そこで共有して、反応を楽しもうとしていた。
 彼女たちはいつも私が満足できるような言葉を探して、私に話しかけてくる。だからとても気持ちがいいし、落ち込んだときにはすごく支えになっていた、はずだった。




 けれど最近になって思うようになった。あまりにも馬鹿馬鹿しいと。


 アイコンの周りが虹色に光ったのを見て、ストーリーがきちんと上がったことを確認する。
 投稿してすぐに、サキとアコの閲覧履歴がついた。ふたりとも抜かりなく、いいね!を押している。
 本当にいいね!と思っているのか、既読感覚いいね!なのか本当のところは分からないけれど、おそらく後者だろうと思う。


 はあ、とため息をついた。




『ともたん、葉瀬さんのことほっといていいの?』
『今日も柴谷くんと距離近かったよ』
『張り紙しておいたからね! まったく、暴言書くこっちの身にもなってほしいよね〜』
『はやく身を引けっつーの!』



 グループラインに次々とメッセージが書き込まれていく。私はそれに反応せず、既読をつけただけで電源を落とした。



 ああもう、みたくない。


 もちろん最初は悔しくて、少しでも嫌な思いにさせてやろうと最低なことを思っていた。けれど葉瀬さんの強さと優しさに触れるたびに、自分が情けなくて、みっともなくて、消えたくなった。



 私に絵の才能があったら。そしたら、柴谷くんのとなりに並べただろうか。
 彼女として。柴谷くんの好きな人として。


 自問して、やがて首を振った。答えが出るのは一瞬だった。
 いくら柴谷くんの目を惹くような絵が描けたとしても、きっと私ではだめだ。


 葉瀬紬でないと、だめなのだ。





 いつしか、強い私を求められるようになっていた。クラスの女王として権力をふるって、学校を偉そうに闊歩(かっぽ)しながら、青春を謳歌するような。

 取り巻きたちはみな、私が葉瀬さんを痛めつけることを望んでいる。葉瀬さんをいじめている主な人物は私になるわけであって、彼女たちは比較的安全な場所から葉瀬さんが苦しむところを見て面白がっているに過ぎない。

 自分でいじめる勇気はないから、同じように葉瀬さんに嫉妬している人で固まって、攻撃してやろうという魂胆だ。




 こんなことをすればするほど、柴谷くんに選ばれるはずなどないのだと分かっていた。けれど止められなかった。





 悪事を働こうとしたとき、彼女と鉢合わせたことがある。その内容はもう覚えていないほどくだらないことだったけれど、いじめの決定的瞬間を確実に見られた。


「あ……」
「未遂だから大丈夫だよ!」


 それなのに彼女は笑みを絶やさず私のもとへと近づいてきた。

 そのときばかりは、え、と固まった。どうしてこんなふうに笑えるのか、本当に同じ人間なのか、何もかもが信じられなかった。


「あなた……つらくないの?」


 いったい誰が訊いているんだと、笑ってしまいそうになる。彼女を苦しめている張本人。そして、私が主犯だということもきっと彼女は知っているだろう。



「嫌じゃないって言ったら嘘になるけど……でも、大丈夫! 全然、大丈夫」
「……ばっかじゃないの」
「バカなのかな、あたし。うん、バカだから平気なのかも!」


 彼女のアーモンド型の目がスッと線になる。
 笑っていた。それはもう、満面の笑みで。



「じゃああたし行くね! 赤坂さんも部活頑張って!」



 私はどうやっても脇役だ。
 彼女が主人公で、柴谷くんが主人公の相手役だとしたら、私は台詞が少しある程度の脇役。


 昔から、本が嫌いだった。
 主人公の言動で、まわりの態度がどんどん変わっていく。最初は主人公をやっかんでいた登場人物たちが、最終的には主人公のことを好きになる。
 わたしはいつも、主人公ではなく、悪役に自分を重ねていたから。


 主人公が周りの人たちを変えていくなんて、そんなわけがないと思っていた。主人公に魔法の力でもなければ、そんなこと現実世界ではありえないと。



 だけど、本当に存在していた。いじめてやろうとか、嫌な思いにさせてやろうという気持ちが、なんて浅ましくて無意味なことだったのだろうと気付かされてしまう。

 自然と、私は彼女に惹かれていた。
 一人の人間として。彼女に抱いていた邪念などとっくに消え、いつしか憧れを抱いていた。


 だからもう、こんなくだらないことはやめよう。取り巻きたちは間違いなく幻滅して、私のそばを離れていくだろう。それでも、こんなふうにかっこ悪いことを続けていくのは耐えられなかった。


 ーー私は、葉瀬紬の笑顔がみたい。







 そう思っていた矢先だった。

 急に葉瀬さんの嫌な知らせが耳に入り、両親に呼び出されたのは。




 葉瀬さんが自殺を試みたこと。命は助かったがその過程で記憶を失ったこと。私が無断であげた絵の写真が違うアプリで拡散されて、盗作されたこと。その作品がコンテスト受賞を果たしてしまい、柴谷くんと葉瀬さんの夢を台無しにしたこと。


 ーー私が、主人公の葉瀬紬を殺したこと。






 頭が真っ白になった。
 SNSの使い方は今まで何度も教え込まれてきたけれど、まさか小規模の鍵垢から写真が漏れることがあるなんて思いもしなかったから。

 繋がっている数人の友達……否、知り合いがどこかに無断転載したなどという事実は、考えたくなかった。けれど漏れてしまった以上、そう考えるより他ならない。




 私は呆然と両親の話を聞いていた。葉瀬さんの両親に会って頭を下げた時、ようやく取り返しのつかないことをしてしまったのだと深く実感した。

 あの一瞬で。私の軽率な考えで。
 浅ましい嫉妬で。


 あやうく彼女は死ぬところだった。




 始業式、胸が張り裂けそうになりながら彼女の姿を待った。すぐに謝るつもりだった。許してもらえるとは思っていないけれど、今までの心が狭くて傲慢な自分からは卒業できると信じて。


 けれど。


『不自由かけますが……よろしく、お願いします』



 常に笑顔を浮かべていた彼女とはまったく別人。うつむきがちにそんな挨拶をした葉瀬紬という人物を、私はただ見つめることしかできなかった。

 その日の放課後、柴谷くんから呼び出された。それはまったく嬉しいことではなくて、むしろこれから地獄が待っているのだと。そう直感的に悟った。



 案の定、彼からきびしい言葉をぶつけられた。そのどれもに、彼の葉瀬さんに対する愛が込められていて。

 こんなに圧倒的で、羨望することすらおこがましいような想いに私は嫉妬していたのだと分かった時、アホらしくて仕方がなくなった。

 すべて、私が悪い。彼女をいじめてきたツケがまわってきたのだ。





 私は柴谷くんの前で、過剰なまでに自分の思いを吐露した。言葉を並べれば並べるほど、自分の醜さが目立って泣きたくなった。





『私……私ね、柴谷くんのことが』



 その先を続ける前に、録音を流されて遮られた。けれど私はその先を続けるつもりは最初からなかった。


 そんな資格が私にないことは、痛いほど分かっていた。



『俺は葉瀬のことが好きだから。お前のことは好きじゃない』




 その言葉をはっきりと告げられたとき、泣きながらも心のどこかで安堵していた。

 これでやっと、終わることができる。
 汚い自分から卒業することができる。



 彼を想って苦しむことに、ようやく終わりが見えた気がした。



 柴谷くんと交わした条件は、二度と葉瀬さんに近づかないこと。
 彼女に謝れたら、と思っていたけれど、私のことを忘れているのならば彼のいう通り、最初からなかったこととして記憶から消す方が幸せなんだろうと思った。


 だから近づかないようにしていた。
 それなのに。



『だからね、もういいの。今を生きてるのはわたしだから。今のわたしは、赤坂さんのこと許すよ』


 過去のすべてを知った彼女は、それでもなおこんな言葉を私に贈ってくれた。


 葉瀬さんは自分自身のことを、前とは変わってしまったと卑下していたけれど、それはきっと間違いだ。

 本当の部分が何も変わっていないから。まっすぐ前を向いていて、強くて、周囲を引き込んでいく圧倒的な力。



 もしかすると、繕っていた部分がすべて柴谷くんによって取り除かれた今の葉瀬さんが、本物の彼女なのかもしれない。ありのままの自分をさらけ出せる存在。

 それが柴谷くんにとっての葉瀬さんで、葉瀬さんにとっての柴谷くんだ。



『柴谷くんなら少し前に校舎から出ていったわよ』



 せめてもの助言に、葉瀬さんは「ありがとう」と微笑んで走り去っていった。


 これでよかったんだ。
 彼女も彼も、幸せになるべきだ。



 ただ、ひとつ。
 まだ彼女に伝えられていない「ごめん」という言葉。


 それだけが私のなかで、引っかかっていた。






***



「謝れたのか?」


 放課後。教室でゆっくり準備していた私に声をかけてきたのは柴谷くんだった。葉瀬さんに謝りたいと思っているうちに、季節はいつのまにか冬に突入していた。


「……ううん。まだ」


 首を振りながら、はたと考える。どうして彼は、私が謝りたいと思っていると気づいたのだろう。

 彼が抱いている私の印象は最悪のはずだ。謝るなんてこと考えられないくらいに、自分勝手で自己中な人物だと捉えられているはずなのに。


「そんな気がしただけ」



 彼は、人をよく見ている。まったく興味がないふうに見えたり、冷たく突き放しているように見えても、その裏でしっかりと相手の本質の部分をとらえている。そういうところがすごい。


 もう彼にトキメキをおぼえることはないけれど、それでも。

 この人を想った瞬間があってよかったと、心から思った。




「しばたにー?」



 ふと、廊下のほうから声が聞こえる。葉瀬さんの声だ。

 先生に頼まれごとをしていて、少し席を外していたらしい。



 このあと、彼らは作品の制作に取りかかるのだ。今は純粋な気持ちで、心から応援している。




「紬。赤坂から話があるって」


 現れた葉瀬さんの肩に手を置き、そんなことを言う柴谷くんにギョッとして視線を向ける。鞄を持って戸に手をかけた彼は、振り返って私を見ると片眉をあげた。


「がんばれ」


 そうして、教室を出ていく。


 あまりにも突然舞い降りてきたチャンスにあたふたしている私を、葉瀬さんはおだやかな表情で見ていた。



「なに? 赤坂さん」
「あ、えっと……」



 手汗がにじむ。冬だというのに、身体から火が出ているかと思うくらいあつい。

 葉瀬さんは急かすことなく、私の言葉をじっと待ってくれた。深呼吸をすると、いくぶん心に余裕がうまれる。




「傷つけて、ごめんなさい」



 頭を下げる。
 ああ、言えた。浮かんだ涙で目の前が滲む。



 ずっと言えなかった。ごめんね、とその一言がずっと。



「うん。いいよ」
「……葉瀬さん」
「もう一回、やり直そうよ。今度はわたしも、嫌なことがあったらちゃんと言うから。我慢しないで、自分の気持ちに正直に生きるって決めたから」


 葉瀬さんは満面の笑みを浮かべていた。
 これまで見ていた笑顔とは明らかにどこか違った。

 心からの笑顔だった。




「燈ちゃん。よろしくね」





 謝って、許してもらって、和解する。それはとても難しいことだと思っていた。

 けれど私が勇気を出さなかっただけで、葉瀬さんはこうして私を待ってくれていた。今となってはこんなにあっさりできることなのに、どうして当時は複雑に絡まってしまったのか。変なプライドや嫉妬が邪魔をして、ずっと謝ることができなかった。


「ありがとう……紬ちゃん」


 
 名前を呼んだ瞬間、また一粒、涙がこぼれ落ちた。




「おはよう、お父さん。お母さん」


 あれから季節がめぐり、夏が来た。わたしが生まれた季節だ。

 燈ちゃんとはクラスが離れてしまったけれど、今も交友は続いている。休日には一緒に出かけたり、放課後カフェに寄って帰るほどには仲良くなった。

 夕映ちゃんと柴谷とはまた一年同じクラス。三年生として高校生最後の年を一緒に過ごしている。
 笑う回数が増えたからか、クラスメイトともだんだん打ち解けていって、今は何不自由なく過ごすことができている。学校が息苦しいと思うこともなくなった。



 夏休みだというのに、両親はどちらも早起きをしていた。食卓を囲んで、一緒に朝食をとる。


「紬は今日も学校?」
「うん。明日ついに完成予定なの」
「あら、すごいじゃない」
「見るの楽しみにしてるからな」



 嬉しそうに微笑む両親を見ていると、わたしまで笑顔になる。


「卵焼き甘くて美味しい。わたし、お母さんがつくる卵焼き大好きだよ」
「あら嬉しい。でも紬もつくれるわよね、この味」
「ううん。お母さんの味がいちばんに決まってる」



 そんな会話をしていると、机に置いていたスマホが着信を知らせた。


【柴谷】


 相変わらず苗字だけだ。
 履歴には彼とのメッセージのやり取りや着信が数多く残っている。



『今日迎えにいく』


 彼のメッセージに、了解、と返信してスマホを閉じた。




 わたしたちが目指しているのは、夏の終わりに開催されるコンテスト。テーマは【きみが生きる世界】だ。去年は残念ながら出品できなかったので、今年こそはと意気込んでいる。


 朝食を食べ終えたあと、部屋に戻って少し高めの位置で髪を括った。夏だからいいよね、とわけのわからない言い訳をしつつ、調子にのって少しだけメイクもしてみる。


 そうしていると、


『着いた』


 とメールが届いたので、慌てて鞄を持った。


 玄関前で一息呼吸をして、振り返る。リビングから顔を覗かせた両親が、笑顔で手を振っていた。



「いってきます」









 家から少し離れた場所でわたしを待っていた柴谷は、わたしに気づくと手をあげて近づいてきた。



「わざわざありがとう」
「べつに、俺が来たかっただけ」



 そんな言い草に、ふぅん、と返す。彼とこうして学校へ向かうのは何度目か。

 初めてのときは緊張していたけれど、今はもうそこまで緊張しない。むしろ居心地がよく感じる。



 シャツが肌に張り付く。高く縛った髪のおかげでむき出しになったうなじに風があたる。

 空を見上げる。
 入道雲が遠くに見えた。


「葉瀬、キャラメルいるか?」
「うん」


 夕映ちゃんからきいた話だけれど、柴谷はどうやら甘いものが苦手らしい。そう知った時、驚愕した。念の為にと用意した【脳内柴谷図鑑】には甘いもの好き、と記録しておいたからだ。


『それって紬ちゃんが甘いもの好きだから、いつも持ってるんじゃないの?』


 にやつきながら言ってくる夕映ちゃんに、そのときは誤魔化すように「そんなわけないよ」と言ったけれど。
 案外間違いじゃないのかも、と思ってしまいたくなる。



「そういえば柴谷、わたしのこと『紬』って呼んでくれないんだね。前一回呼んでくれたことあったのに」
「あれは……気合入れないと呼べねぇか
ら無理」
「なにそれ」



 そっぽを向く柴谷。どうやら呼んでくれる気はまだないらしい。まぁわたしも苗字呼びなので、無理強いはできない。



「明日でやっと完成だね」



 そう言うと、うなずいた彼は少し緊張した面持ちでまっすぐに前を見据えた。





──────

───





 筆を持つと、身体が勝手に描いてくれた。一緒に夢を目指そうと豪語した手前、何の力にもなれなかったらと最初は不安だったけれど。


 自分の心にあるものをこの筆でうつしだす。そんな感覚で描いていたら、ずっと見ていた葉瀬紬の絵のタッチが現れたのだ。


 はじめはもちろんブレたりもしたけれど、練習を積み重ねることによってもうそこまで支障はない。



 写真に絵を描き込んでいくわたしを、柴谷はとなりでじっと見つめていた。


 構成を練って、納得いく写真を撮るまで。これだけでもかなり苦戦した。
 テーマにある【わたしたちの世界】というのは、いったいなんなのか。それを伝えるには、どんな作品なら良いのか。


 どの部分を写真で表現して、どこを絵で表現するのか。たくさん話し合って、お互いに技術を高める毎日だった。夏休みも毎日のように顔を合わせて、何度も何度も納得がいくまでやり直した。

 完成させてもなんだかしっくりこなくて、すべて最初からやり直したこともあった。


 それも、明日で一区切りつく。

 以前成し得なかったことを、明日、やっと成し遂げることができる。




 夏の終わり。
 去年とはまったく違う気持ちで、わたしはここにいる。



 柴谷のカッターシャツの白が、鮮やかな空によく映える。美術準備室には、わたしの作品が何枚も増えた。もちろん、柴谷が撮る写真も。




 美術準備室に入って、【葉瀬紬】と書かれたコーナーからいくつか新しい作品を引き出す。


 一時期、柴谷がカメラを構えなくなったときがあった。わたしの過去について彼から聞き出した頃だ。
 カメラを持つだけで、決してファインダーを覗くことはなかった。



 その理由を聞けたのはたしか、春のはじめ。ほんのり開花を待つ桜のにおいがするような、そんな日だった。


『写真を撮るのがこわくなった』


 そんな弱音をこぼした彼。そんな彼を連れて、雨の降る街を一緒に走ったことがあった。


 これはその日の夜に描きあげた絵。

 傘をさしていることなど意味ないくらい、ずぶ濡れになりながらふたりで街を駆け回った。光る雨粒や、跳ねる水飛沫の煌めき。
 同じ温度の世界をとなりで眺めて、こんなに綺麗なんだと再認識した。


 次のキャンバスを見つめる。

 今年の夏、一緒に花火大会に行った。コンテストのための勉強だと、意味のわからない言い訳を添えて。

 結局、たくさんの屋台の魅力に負けて、普通に祭りを満喫してしまった。花火を見ながらイカ焼きを食べているわたしを、呆れたように見つめる柴谷。花火そっちのけでその瞳に目を奪われた。


 ーーこれは、そのときの絵。




 彼と時間を過ごせば過ごすほど、想いは大きくなっていく。これらの絵を見るたびに、わたしはその時のにおい、音、気持ちまで思い出すことができる。




 キャンバスの前に戻って、筆を握った。この先を(えが)けるのは、わたしだけだ。

 完成は明日。
 前もってスケジュールを立てた時、柴谷が完成日はこの日がいいと希望したのだ。



 何か特別な意味があるのか。
 それは分からないけれど、目まぐるしくすぎてゆく時間の中で理由をいちいち考えている余裕などなかったからあまり気にしていなかった。

 頑張れば今日中に終えることもできるけれど、明日のために敢えて未完成な部分を残して作業を終えた。
 コンテスト出品の最終締切は一週間後。だからかなり余裕を持っての完成となる。



 わたしたちの"未完成"が出来上がるまで、あと一日。









 迎えた完成予定日。
 いつかの朝のように、息を潜めてすばやく準備をした。両親はまだ寝ている。

 こんなに早く起きるのは久しぶりだった。夏休み中は比較的遅い時間から柴谷に会っていたから。


 今日はできるだけ学校の日と同じ時間に待ち合わせる。それが柴谷との約束だった。


 不規則な鼓動が鳴っている。前もって用意していた朝食をとる。

 ふと目に入ったリビングのカレンダーには、今日の日付に大きな花丸がされている。きっと書いたのはお母さんだ。

 不思議に思ってはいたけれど、勝手に作品完成日だからと納得していた。
 家族で作品を楽しみにしてくれているのだと。



 集中して玄関のドアを閉めた。本気を出すと、案外音はならないらしい。

 学校に着くと、柴谷はもう"いつもの場所"にいた。




 おはよ、葉瀬。


 わたしはその言葉が彼から告げられるのを待っていた。久しぶりに聞くその言葉を楽しみにしながら、通学路を歩いた。


 好きな人に会いたいと考えながら学校に向かうって、こんなに幸せなことなんだと噛み締めながら。

 けれど、今日の柴谷から紡がれた言葉は、いつもとは違う言葉だった。
 彼の透明な瞳がわたしを見つめる。

 出会ったころよりも柔らかい、どこか懐かしい瞳だった。





「誕生日おめでとう、紬」




 え、と声が洩れる。
 予想外の言葉に一瞬、思考回路が停止する。



 そうか、今日は。
 わたしの。



 家のカレンダーの花丸を思い出す。
 そうだ、わたしの誕生日はコンテストに近い夏の終わり。


 作品を仕上げなきゃということで精一杯で、すっかり忘れていた。
 わたしが生まれた日を。



「ありがとう、柴谷」



 微笑むと、柴谷はわたしのもとへ近寄った。距離がグッと近くなる。目線を上げたすぐそばに、彼の綺麗な目があった。


「完成させよう。俺たちの未完成を」


 うん、とうなずいて筆を持つ。


 鮮やかに彩っていく。色づいていく。
 わたしたちの、未完成な世界が。



 ゆっくりと筆がキャンバスから離れる。そっと筆をおく。


 その瞬間、込み上げてきた涙が頬を伝って床に落ちた。となりにいる柴谷を見上げると、彼も同じように透明な涙を流していた。


「完成した……できた……」



 柴谷は静かに泣いていた。心から、この日を待ち望んでいたように。


 一瞬、指先が触れる。それからしばらくして、気づけば手を繋いでいた。
 この作品を作りだしてくれたお互いの手に、ありがとう、と。感謝の思いを伝えるように。




「葉瀬。俺と、もう一度挑戦してくれてありがとう」
「柴谷こそ。わたしのことを受け入れてくれて、もう一度前を向かせてくれて、ありがとう」




 一年前のわたしは、絶望していた。何をするにも周りの目が気になって、自分の運命から逃げようとしていた。

 わたしの中の世界は、いつも息苦しかった。けれど、そんな息苦しい世界を、彼が変えてくれた。



「この作品が完成したら、今度こそ言おうって決めてた。だから今、伝える」


 静かに息を吸った柴谷は、繋いだ手にそっと力を込めた。朝の澄んだ空気がわたしたちを取り囲んでいる。


 凛とした光が、まっすぐにわたしを見ていた。





「好きだ」



 たった三文字。それだけで一気に体温があがった。



「もちろん前の葉瀬のことも好きだったけど、今の葉瀬のほうがもっと好きだし、となりにいたいって思う。俺はずっと、お前のこと見てた」
「本当に、今の、わたしを……?」
「そうだよ。俺は二回、葉瀬のことを好きになった」



 前のわたしとは対照的。それなのに、彼はもう一度わたしに恋をしてくれたのだろうか。


「……最初は、もしかしたら記憶が戻ってくるかもしれない。前のお前が戻ってくるかもしれないって思ってた。だけど俺はずっと葉瀬に、自分の気持ちを正直に話してほしかった。だから初めて俺に悩みを打ち明けて、涙を流してる姿を見たとき、確信したんだ。やっぱり俺はお前のことが好きだって」


 柴谷は照れたように笑いながら言葉を続ける。


「記憶を失っても、泣きながら懸命に前を向こうとしてるところを見てたら、自然と守ってやりたいと思った。一緒にもう一度コンテストに挑戦しようって言ってくれたとき、前の葉瀬も今の葉瀬も、どっちも大切にしてやりたいと思った」
「じゃあ、柴谷は」
「毎日必死に生きていて、死にそうな顔をしながら頑張って前を向こうとしていて、繊細で、人のことによく気づけて、赤坂のこと許せて、俺にもう一度夢を与えてくれた、そんな今の紬が好きだ」



 ーーわたしは君の心に触れられただろうか。
 わたしは与えてもらってばかりなのに、君に何かしてあげられた?




「俺と付き合ってほしい」


 前のわたしは聞けなかったその言葉を、今、わたしに告げられている。
 止まっていたはずの涙がまたこぼれた。どうしてわたしの涙腺はこんなに脆くなってしまったんだろう。

 想いを言葉にしようとすると、唇が震える。
 こんなに緊張するんだ。周りの音が消えて、微かな息遣いだけに意識が持っていかれそうになる。

 彼の透明な瞳には、わたしだけが、映っていた。




「わたしも……柴谷のことが好き」




 嬉しいこと、楽しいこと、そういうことをいちばんに伝えたくて、共有したくなるのが好きな人だと思っていた。だけど、きっとそれは違う。
 つらいこと、悲しいことがあったとき、その弱さや苦しみをまっさきに見せて、等身大の自分で助けを求められる存在こそが、わたしにとっての好きな人なのだ。


 柴谷は、そのまま静かにわたしを引き寄せた。密着した身体。耳にかかる小さな吐息に鼓動がはやくなっていく。
 抱きしめられたせいで真っ暗になった視界。机に伏せていたときとは全然違う。
 あのときの冷たさとは真逆で、ただただあたたかい。生きてるんだ、って実感できる。


 今なら、ずっと言えなかったわたしの気持ちを、素直に伝えられる気がした。


 
「柴谷のとなりで、ようやく息ができた気がした。本当のわたしを見つけてくれて、探してくれて────ありがとう」



 ずっと、息苦しかった。きっと自ら命を絶とうとする前も、死に損なってしまってからの日々も。
 それでも、柴谷はいつもわたしのとなりにいてくれた。記憶も、性格も、まるっきりすべて失ってしまったわたしのそばに。



「これを、ずっと隠してきたの」


 身体を離して、腕にある傷跡を見せる。何とは明確に言わずとも、以前のわたしが生きるためにしていた行為だとわかる。

 ずっと謎だった。誰にも見せたくなくて、長袖が手放せなかった。


「……わたしは、頑張ってたんだと思う。わたしはこの傷跡と一緒に、生きていく。だから、柴谷も」
「もちろん受け入れてるよ、最初から」


 再び柴谷がわたしを抱きしめる。過去の傷まるごと受け止めるように。


「前の葉瀬の記憶は」



 腕の中に閉じ込められているせいで、視界はまっくら。それなのに、わたしの全身を包む彼のぬくもりが、たしかな安心感までもを与えてくれる。


「今は存在してねーかもしれないけどさ」
「……うん」
「俺が、憶えてるから。ぜんぶ」
「───…っ、うん……っ」
「なかったことには、ならないから」



 この先、記憶は戻らずにわたしの日常は続いていくかもしれない。けれどきっと、それまでの出来事や言葉、想いは誰かに届いている。それは一生消えることはない。

 そっとわたしから身体を離した柴谷。



「キャンバスの裏に題名書こうぜ」



 柴谷に言われて、木枠にペンを走らせる。何度も考え直して、描き出してからもなかなか決まらなかったこの絵の題。

 今なら、この題にしてよかったと心から思える。
 わたしたちが生きる世界。それは。



【未完成な世界で、今日も君と息をする。】





 この未完成な世界で、わたしは今日も、柴谷と息をしていたい。









・*・


「しょうがねえな。作品も完成したことだし、誕生日だからこのままどっかいくか」
「え」
「……出かけたいって言ってんだよ」



 繋いだ手に力を込められる。なかなか素直になれない癖は、未だに健在のようだ。


「どこ行くの?」
「お前の行きたいとこ」
「えーっ、ちょっと待ってね。考える」



 考えるそぶりをしていると、急に柴谷が立ち止まった。手を繋いでいるから、わたしも同じく足を止めることになる。



「───…撮りたい」
「え?」
「今のお前、すげえ撮りたい。いい?」


 確認しながらも、拒否権なんてないみたいだ。ケースからカメラを取り出して、構えようとする柴谷。


「ま、待って。急すぎてどんな顔したらいいのか……」


 こうして写真を撮られるなんて滅多にないから、気恥ずかしくて、どうしていいかわからなくてアタフタする。


「いーよ。そのままで」


 モデルさんみたいなキメ顔はできないけれど、できるだけ綺麗に映りたい。なんて、色々なことを考えすぎた結果。


「顔固すぎだろ」
「だ、だって」
「そんな顔撮りたかったわけじゃねえよ、俺は」


 呆れたように笑ってカメラをおろす柴谷。
 彼の期待に応える表情はできていなかったらしい。




 ポートレートを撮るのが苦手だと言っていた柴谷。技術的にではなく、精神的に。
 だけどわたしはもう、いなくなったりしない。そのことを感じ取ったのか、柴谷も安心しきった顔でわたしにカメラを向けていた。


『もし、次にポートレートを撮ることがあったら、被写体はもう決めてるから』
『だれ?』
『好きなやつ』



 ふとそんな会話がよみがえってきて、途端に頰があつくなる。


「紬」



 名前呼びって、ずるい。顔を真っ赤にしている自覚がある。
 その瞬間、パシャッ────とシャッターが切られて、カメラから顔を上げた柴谷とまっすぐに目があった。


「今っ、いま、撮った?」
「撮った」


 あんまりだ。わたしの照れ顔なんて需要のかけらもない。満足げに笑っているようすをみるかぎり、消して、って言っても聞いてくれないだろう。



「──くん」


 ずっと呼べなかった、彼の名前を呼んでみる。すると今度は彼のほうが照れる番だった。
 お返しというようにスマホを構える。いつしか、わたしのカメラロールは彼でいっぱいになっていた。






 過去のわたし、きいていますか。

 つらくて、しんどくて、逃げ出したくて仕方なかったわたし、わたしの声が聞こえますか。


 わたしは今、幸せです。あなたを未来で幸せにするために、頑張っています。


 正直、記憶を失ってからもつらいこと、苦しいこと、悲しいことがあったけれど、わたしはなんとか乗り越えられました。それは彼が───…柴谷がいたから。


「行くか」
「うん」
「誕生日デートとかしたことねぇけど……ま、楽しませるんで。よろしく」



 彼のとなりで、はじめてちゃんと息ができたような気がした。ずっとずっと息苦しかった毎日が、彼のおかげで変わっていった。

 きみがずっと言えなかった、本当の気持ち。明るく振る舞っていたらしいきみが、心の奥底に閉まっていた想い。前の自分のことなのに、わたしには全てはわかりません。


 だけど今は、ちゃんと吐き出せるようになりました。
 本当の気持ちを、言えるようになりました。


 わたしはこれからも生きていきます。
 彼のとなりで息をして、きれいなものをこの目で見ながら。
 彼が映し出す世界を、一緒に。


「紬、手」
「え」
「手、出せよ」


 過去のわたし、きこえますか。彼に片想いをしていたわたし、この声が聞こえますか。


「やっぱり柴谷の手はあったかいね」
「お前が冷たすぎるんだよ」
「えー? そうかなぁ」


 今日、わたしね。
 きみがずっと言えなかったこと、彼にちゃんと伝えられたよ。













わたしたちはこうやって支え合って、

与え合って、


未完成な世界を生きていく。




作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:62

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

四月のきみが笑うから。

総文字数/92,230

青春・恋愛16ページ

本棚に入れる
表紙を見る
トワイライト

総文字数/9,407

ヒューマンドラマ1ページ

本棚に入れる
しばーせのクリスマス

総文字数/4,745

青春・恋愛1ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

エラーが発生しました。

この作品をシェア