「ねえ、四組の葉瀬さん知ってる?」

「あー……あの記憶喪失の?」

「そうそう! やっぱり何にも覚えてないみたいだよ」


 "いつもの場所"に向かう途中、通り過ぎようとした空き教室から声が聞こえて、思わず立ち止まった。
 なんでもない会話だったなら、なんの気にもとめずにスルーしていたはずだった。けれど聞こえてしまった。


 葉瀬さん、と。ようやく耳に馴染んできた名前が。




「えー、じゃあ柴谷くんのことも覚えてないの?」

「自分のことも全部忘れてるらしいから、そうだと思ったんだけどさ」

「なーに。まさか覚えてたの?」

「わかんない。けどずっとふたりでいるらしいよ」

「あたしこの前ふたりで登校してるの見たよ」



 まじー?と声が上がる。

 どうやら柴谷はここでも有名人らしい。本人のいないところで話題にあがるということは、そういうことだ。


 会話の内容が予想できてしまうのはなぜなのか。これはただの勘だけど、柴谷はきっと一目置かれる存在なのだと思う。
 私とは違う意味で、目立ってしまう人。


 そんな彼と一緒にいるのだから、わたしに刃物が向けられるのは当然だった。





 ここから離れなきゃ。ここから先は、聞いてはだめ。

 きっと傷ついてしまう。



 それなのに、足が地面に張り付いてしまったように動かなかった。たらりとこめかみを汗が伝う。無意識のうちに唇を噛んでいた。



「柴谷くんの記憶だけは残ってるとか?」

「そんなことあるのかなぁ」

「ありそうじゃない? じゃないとどうやって仲良くなるの」

「葉瀬さんから声かけたとか」

「四組の子からきいたけど、性格がまるきり違うんだって。前とは違って空気みたいだって言ってたから、柴谷くんなんかに話しかけられるわけないよ」

「じゃあ柴谷くんからってこと?」

「わかんない」



 声からして女の子。きっと彼女たちにとっては、昼食の話題の一つだったのだろう。

 聞かせてやろうと仕組まれたわけではなく、たまたまわたしが通りかかってしまっただけ。意地悪してやろうとか、嫌がらせしてやろうとか、そういうつもりではなかったはずだ。


 だから、なかったことにできるよね、紬。
 聞かなかったことにできるよね。



 噛み締めすぎたのか、唇から血の味がする。それでも、今にも溢れ出してしまいそうなものをこらえるには、こうするしかなかった。
 それ(・・)が頬を濡らすことがないように、必死に。


 それなのに、視界がぼやけていく。最近、傷つくことが少なかったからかもしれない。
 前は傷つくことが当たり前の生活だった。クラスメイトの視線に、言葉に、空気に、心を痛めつけられてばかりだった。

 柴谷は。彼は、何があってもわたしを傷つけてはこなかった。多少意地悪をされたり厳しい視線を送られたこともあったけれど、それでも彼は理不尽にわたしを傷つけるようなことはしなかった。当たり前すぎて気が付かなかった事実に、今さら気づく。



 だから息がしやすかったのか。


 彼のとなりにいるときだけは、繕うことのない自分でいられた。それは、彼に心を預けていられるほど、信頼していたからなのかもしれない。



 ぽろ、と涙が落ちる。わたしはずいぶんと弱くなってしまった。
 彼の優しさに浸りすぎたせいで、自分が置かれている状況を忘れていた。



「どうせ可哀想な自分アピールでもしたんじゃない?」

「ぜったいそうだよー」

「まったく、そういうことしてるから────」
 


 突然、声が聞こえなくなった。心だけでなく耳までやられてしまったのかと思ったけど、違った。

 わたしの耳はそっと覆われていた。あたたかい何かによって。



「遅い」



 魔法だ。そうか、彼は魔法が使えるんだ。
 わたしの身体を素直に動かしてしまう、そんな魔法を。

 くるりと振り向かされて、彼を認識した途端、涙が溢れて止まらなくなった。わたしは必死に声を殺して泣いた。


 どうしてこんなに安心するんだろう。彼のまなざしは、声は、こんなにも優しいんだろう。



「聞かなくていいから。こっち来い」



 いつからいたの。なんでいるの。

 ねえ、柴谷。



「どうして、わかったの……っ」



 いつだって強引。最初から、彼はこんな人だった。

 まっさらな状態のわたしに、なんの躊躇もなく近づいて、息の仕方を教えてくれた人。毎朝わたしを待っていてくれる人。目醒めさせてくれる人。

 言葉よりも行動で。行動よりも表情で。なにより、目で。すべてを伝えてくれる人。



 どうしてわかったの?

ーーわたしが、ここにいるって。



 手を引かれながらこぼした言葉に、彼は静かに振り返った。それから、懐かしい顔で笑う。



「なんとなく」




 前は、そんな回答では納得なんてできないと思っていた。


 けれど今は、その言葉を信じていたいと。信じさせてほしいと。





 ーー…ただそれだけを、願った。






────────

────



「ずいぶん遅かったから」

「会話の内容聞いたら、離れられなくなっちゃって。ごめん」

「謝んな。別に責めてるわけじゃない」



 いつもの場所についてわたしの気持ちが落ち着くまで、柴谷はずっとわたしの手を離さなかった。
 ようやく落ち着いた頃に、ひとつふたつ会話を交わす。


 柴谷は突然、お弁当袋の中から何かを取りだした。渡されたのは、前もらったのと同じ包み紙のキャラメル。


「……キャラメル」
「元気出るだろ。やる」



 ふは、と笑みがこぼれる。元気が出るってなに、と思う。

 柴谷にとって、キャラメル配りは餌付けなのか。まあ、キャラメル好きだし、べつにいいけど。



「ありがと」

「そっちのがいいよ」

「え?」

「笑ってるほうがいいよ、葉瀬は」



 何言ってるの、と返しながらキャラメルを口に放り込む。やっぱり甘い。

 しばらくぼうっとわたしを眺めていた柴谷は、やがて床に手をついて少しのけぞった。合わせていた視線が逸れる。



「何言われてたか知らねえけど、変に気にすんなよ」


 うん。気にしなくていいよね。


「お前のことは俺がちゃんと見てるんだから」


 そうだよね。噂を信じる人よりも、わたしを見てくれる人を大切にしたい。



 何度も心のなかで繰り返す。
 前を向かなきゃ。気にしないで、前に進んでいかないと。


 そう思っているのに、胸に突き刺さった小さなトゲが、動き出そうとするわたしを止めるように痛みだす。




『まったく、そういうことしてるから──────』
 



 この先にはどんな言葉が続くのか。
 それだけがずっと気になって、柴谷の言葉に素直にうなずくことができない。



「どうしたら元気出んの」

「……元気だよ。すっごく元気」

「嘘つくな」



 彼の目を誤魔化せるなんて微塵も思っていない。
 彼の目はいつだって、とても澄んでいる。心まで容易に見透かしてしまえるほどに。

 それでも強がっていたかった。情けない姿ばかり晒して、彼を傷つけてばかりで。

 こんなだめだめな人間なのに、柴谷は文句も言わず一緒にいてくれる。



 未完成の写真のことも。わたしは正直関係が途絶えてしまうと思っていた。翌日から、わたしたちの時間なんてまるでなかったことのように接されると思っていた。


『おはよ、葉瀬』


 小さな希望だけを抱いて"いつもの場所"に向かった時、いつもと変わらない顔で迎えられたとき、もう彼には敵わないと思った。
 彼がわたしを離さない限り、わたしも彼を離せない。


 大切だと、心の底から想った。




「俺、葉瀬には嘘ついてほしくない。俺の前だけでいいから、自分の気持ちに正直でいて」


 逃げようとした視線はあっという間に捕まえられる。目があったが最後、囚われてしまったように逸らすことができない。


「つらいことはつらい。嫌なことは嫌。俺はお前の素直な気持ちが知りたい。葉瀬がずっと言えなかったこと、今の俺なら受け止めてやれる」



 ーー今の俺なら。

 強いまなざしと言葉が、わたしに突き刺さる。

 少し考えて、ゆっくりとうなずいた。




 心のうちを吐露するのは、苦手だ。思っていることを口にするのは難しい。誰かを頼ったり、助けを求めるのは怖くてできない。面倒くさいやつだと思われたくないから。


 だけど。彼になら。
 今の柴谷になら、吐き出せるような気がした。


「……わたしね」



 声が震える。
 柴谷は静かに目を閉じて、わたしに呼吸を合わせた。



「自分がどうして記憶をなくしてしまったのか。それが分からなくてずっと苦しいままなの。クラスメイトの視線が痛い。前のわたしと今のわたしを重ねられるのが嫌だ」


 言葉にするたび、込み上げてくる涙が止められなかった。悲しいわけでもない。悔しいわけでもない。それなのに、自分の気持ちを話そうとすると泣いてしまう。

 柴谷はとなりに座ったまま、わたしの肩を引き寄せた。



「みんな、わたしが元に戻ることを望んでる。だったら今のわたしはどうなるの? みんな昔のわたしのことしか見てない。可哀想な目でわたしを見てる。それがたまらなく苦しい。ずっと、ずっと。ここにわたしの居場所はない」



 溢れて止まらなかった。
 こんなふうに自分の気持ちを誰かにぶつけるのは初めてだった。


 普段は強がっているけれど、本当は弱いのだ。昔のわたしほど強くはないし、魅力的でもない。


 こんなわたしが葉瀬紬を乗っ取ってしまったのが申し訳ない。



「葉瀬」


 柴谷の肩に頭を預けるかたちになる。涙が制服を濡らしてしまうから頭を離そうとすると、それすら厭わないと押さえつけられた。耳元で優しく声が落とされる。



「俺は、今の葉瀬のこと見てる。はじめからずっと、俺はお前のことを見てるよ」


 大切に、一つひとつ、言葉が紡がれていく。彼はわたしが欲している言葉を、惜しむことなく渡してくれた。どうして彼はいつも、いつも。

 ーーわたしのことが分かるのだろう。




「それに、昔なんてもう関係ない。お前が本物の葉瀬紬だろ? 堂々としてろよ」
「……しばたに」
「もしこの先、過去を知って苦しくなることがあったら。そのときは俺がいるから。葉瀬はひとりじゃない」



 わたしはひとりじゃない。

 とても響く言葉だった。




 涙がまた溢れ出す。

 はじめて人に自分の気持ちを打ち明けることができた。


 自分の思いを話すと、こんなに心がスッキリするんだ。知らなかった。

 今まですべて抱えこんで、誰にも話すことなく苦しさも痛みも悲しさも抱え込んで生きてきたから。




 やっと誰かに話すことができた。


 ーーその相手が君でよかった。




 流れゆく雲を眺めながら、心の底からそう思った。








 冬になったら日が落ちるのが早くなってしまう。だからできるだけ夕方の時間を外で感じていたかった。
 まだ暗くならないうちに。天気の良い日は寄り道をすることが多くなった。


 今となってはすっかり小さく感じるようになってしまった遊具。公園のベンチに座って、無邪気に遊ぶ子どもたちをぼんやり眺める。


 あ、ロープの山に近づいた。わたしもあれ好きだったなぁ。
 そういえば正式名称知らないな。なんていうんだろう。



 わたしの脳内は活発だった。すぐにスマホで検索する。
 人類の発展には何も貢献していないわたしが言うのもなんだけど、ずいぶんと便利な世界になったものだ。


 SNSが発達することでのデメリットはたしかにある。けれどメリットのほうがはるかに多いし、デメリットに巻き込まれないように注意すればいいだけの話だ。そうすれば、SNSはそこまでの脅威ではない。

 なんて偉そうなことを思っているうちに、検索結果が表示される。



 ザイルクライミング、というらしい。


「きいたことないな……」


 もう少し覚えやすい名前はなかったのか、と思う。

 名付けた人には申し訳ないけれど、きっと数分後には忘れているだろう。




 昔遊んでいた記憶はある。誰と一緒にいたのかは思い出せないけれど。



 夕方はどこか感傷的な気分になるからわたしは好きだ。
 そう言ったら柴谷も共感してくれたからますますこの時間帯が好きになった。



 薄紫色と桃色を混ぜた空が広がっている。柴谷もこの空を見ているだろうか。


 冷たくなった空気が鼻先をくすぐる。空から視線を落とすと、ふいに視線を感じて息を止める。


 なんだろう、この感じ。
 こわくなってあたりを見回すと、自販機のそばからやけにじっとこちらを見つめる一人の男性がいた。制服を着ているから、学生なのだろうと理解する。

 いったい何なのだろう。知らない人に見られるのはなんだか居心地が悪い。



 人はじっと見つめられると気になってしまうらしい。わたしも視線を逸らさずじっと見つめ返す。
 彼は目元まで隠している髪をさらりと揺らしながらこちらに近づいてくる。

 これにはわたしも驚いて、なにより恐怖を抱いて思わずベンチから立ち上がった。にもかかわらず、彼は躊躇なくわたしに近づいてくる。



「葉瀬だよね」



 目が合って、何秒だったか。

 確信するのにそう時間は要さなかったみたいだ。



 口を噤んだままのわたしに彼はもう一度「葉瀬だよね?」と問うた。これは質問というより、確信するためだけの行為だった。

 沈黙は肯定。そんな言葉を聞くたびに、黙ったりせずはやく否定すればいいのにと思っていた。けれど、実際人間は本当に焦ると声が出なくなるらしい。自分には言語があるということ自体がすっぽり頭から抜けてしまうような感じだ。




「あなた、誰ですか」




 わたしは彼を知らない。でも、彼はわたしを知っている。
 葉瀬、とわたしを呼び捨てにしたってことは、少なくとも他人ではない。



「俺のこと覚えてないの?」
「……知りません」
「まじ? 中学のときの同級生なんだけど」



 中学の同級生。覚えているはずがない。記憶がないのだから。

 彼は、わたしの身体を頭のてっぺんから爪先までじろっと観察し、驚いたように目を開く。興味深い観察対象のように見られている気がして、気持ちが悪かった。

 わたしはいったい何を言われるのだろう。わたしはどうすればいいの。


 謎の彼はゆっくりと視線を上げて、わたしの目を見つめた。
 ドクリと嫌な鼓動が響いた。目の前にある薄い唇が静かに動く。








「まだ生きてたんだ」




──────

───



「紬? 大丈夫なの?」


 あれからどうやって帰ったのか、あまり覚えていない。
 気がつけば家のリビングで食卓を囲んでいた。


「あぁ、うん。大丈夫」



 何かあったことはとっくに気づいている。それでも母は敢えて多くは聞いてこなかった。

 ありがたい。もしここで問い詰められていたら、わたしの脳はキャパオーバーしていたと思う。



「紬」


 感想を求められてもいないのに、美味しいよ、と答えた。
 まったく料理の味がしないけれど、もしかしたら不味そうに見えているのかもしれないと思ったから、すぐに感想を述べた。

 母の料理は美味しい。ただ今日は、味覚が仕事をしてくれなかった。



「何かあったら言うのよ。力になれることは頑張るから」



 いいんだよ頑張らなくて、と心のなかで呟いた。

 色々させてもらっているから。じゅうぶん贅沢な思いさせてもらってるから。
 お母さんはこれ以上頑張る必要なんてないんだよ。



『まだ生きてたんだ』



 突然あの言葉がフラッシュバックする。ガリ、と箸が音を立てた。



 彼の言葉がずっと頭のなかに残っている。家に帰って、自室にこもって、聞かなかったことにしようと思っても無理だった。



「ねぇお母さん」
「なぁに」
「わたしって、生きてるの?」



 間違いなく生きている。生きている、はずなのに。


ーーまだ生きてたんだ。


 わたしは死んでいたの?
 彼の中で、わたしは死んだことになっていたの?



「どうしたの紬」
「わたしって、死んでるの?」
「何言ってるの。紬はちゃんと生きてるわよ」



 ちゃんと生きてるわよ。

 そうだよね。わたしはちゃんと生きている。


 名前も知らない、たいして記憶もない謎の男の子の言葉に翻弄されていてはダメだ。



 すると突然立ち上がった母がわたしのそばに近づいてきて、ポンッと強く肩をたたいた。
 触れられるのは初めてだった。今までずっと、微妙に距離を保って生活していたから。


「紬は生きてるわよ。こうして触れるんだから!」

 ね?と顔を覗き込まれて言葉に詰まった。


 この人はわたしの家族だ。優しくて、あたたかくて。こんなふうになってしまったわたしを、いつも見守ってくれる。



「ねえ、お母さん」
「ん?」
「わたしはどうして記憶を失ったの?」



ーー解離性健忘。
 図書室で借りた本を読んだ。たくさんの症例が載っていた中で、今のわたしに一番近しいのがこれだった。


 心的外傷やストレスによって、ある特定の記憶を失ってしまう。わたしの場合、「ある記憶」というのは人間関係のことと自分自身のこと。

 記憶を失うきっかけは何なのか。わたしは未だそれを掴めないでいる。



「……それを知ってどうするの?」



 それまで動きを止めていた母の言葉に、背筋が伸びた。


「どうしてって、気になるから」
「なんで?」
「そんなこと言われても……」


 ついさっきまではよかった。柴谷の言葉で前を向けるようになって、自分の失われた記憶なんてどうでもよくなった。ずっと目の前に広がっていた靄を柴谷が晴らしてくれたから、なにも気にしていなかったんだ、本当に。

 だけど。



『まだ生きてたんだ』



 強烈な言葉をぶつけられてしまった。わたしはすぐには変われない。前を向こうと思っても、何か出来事があるたびにまた不安な自分へと逆戻りしてしまう。


 やっぱりそう簡単には忘れることなんてできない。
 しばらく黙っていたわたしは、母に謎の男の子の話をすることにした。

 誰かに話さないと、ひとりでは抱えきれないことだったから。






「そうだったの」


 話を聞き終えてから、母が発した一言目はそれだった。母はもう一度わたしに近寄って、今度は腕をのばした。そのままギュッと抱きしめられる。

 あったかい。


 ザザッと砂嵐をかき分けた先に、一瞬、母に抱きしめられるわたしの姿が映った。
 わたしは昔からこうして抱きしめてもらっていたんだ。この人にーー母に。


「お母さんの気持ちを正直に話していいかな」


 わたしの背中を撫でながら、母が小さく言葉を紡いだ。腕の中でうなずく。


「紬の記憶がなくなったのは、前の紬が苦しいなって思いすぎたせいなのかもしれないでしょう。だったら、お母さんは紬に苦しかったときのことなんて思い出してほしくない。思い出すべきじゃないと思ってる」


 ゆっくりで、少し震えた声からは、慎重に言葉を選んでいるのがうかがえた。



「だからお母さんもお父さんも紬に話したくない。意地悪をしてるとか、紬に嫌がらせをしているんじゃなくて、単純に紬のことが大切なの。それだけなの」

 そこで息を吸って、母は続けた。

「だからお母さんは今後なにも話さない。紬がどうしても思い出したいなら、自分の力でなんとかしてほしい。これがお母さんの気持ち」



 話を聞きながら、わたしは「なるほど」と思った。てっきり「無理」の一点張りだと思っていたから、母の正直な気持ちを聞けるなんて思っていなかったのだ。


「いっぱい考えたうえで紬が知りたいのなら、お母さんは止めないよ。何があっても、どんな過去を知っても、お母さんは紬の味方だからね」
「分かった。ありがとう」
「お母さん夜勤に行ってくるから。あとはよろしくね」
「うん。いってらっしゃい」



 わたしが食べ終わったのを見届けて、母はコートと鞄を持った。ちら、と時計を気にして、足早に部屋を出ていく。まもなくして、玄関の扉が閉まる音が聞こえた。



『まだ生きてたんだ』



 過去の自分に何が起こったのか。
 すべてが、わかってしまう。記憶の蓋を開ける勇気を、わたしはずっと持てなかった。


 けれど、今は。自分の過去に何があったのか、やっぱりきちんと向き合いたい。


 たとえ過去を知ってしまってどうにかなりそうになっても、その時は彼が────柴谷がいるから。




 前は開けられなかった、近寄ることすらできなかった押し入れの前に立つ。空気が肺を通るのを感じる。



 大丈夫、だいじょうぶ。

 確証のない言葉だけを、心の中で繰り返す。冷たい金具に触れても、以前のように頭痛がすることはなかった。




 キィィと心地よくない音がする。押し入れの扉が開いた、というよりは、隙間が見えた、といった感覚のほうが近い。

 真っ暗な奥が、電灯によって照らし出される。












「────っ、」





 弾けたようにドサドサと足元へ崩れ落ちる物には。




【葉瀬紬】




 余すことなくすべてに、わたしの名が記されていた。



 真っ白な封筒のすみにも、自分の名前が記されている。



「手紙……?」



 ドキッと鼓動が強く鳴る。

 指先が震える。



『何があっても、どんな過去を知っても、お母さんは紬の味方だからね』


『もしこの先、過去を知って苦しくなることがあったら。そのときは俺がいるから。葉瀬はひとりじゃない』





 お母さん。お父さん。

 山井さん。




 ーー柴谷。






─────


【遺書】


お父さん、お母さん。
親不孝者でごめんなさい。

今までありがとう、幸せでした。





追伸
約束果たせなくて、ごめんね。



─────