「おはよう、紬」
午前四時四十分。いつもどおりの朝をともに迎えたのは母だった。
朝はコップ一杯の白湯を飲むのがいい。そう聞くから、毎朝かかさず飲むようにしている。
リビングのドアを開けると、もう母はソファーに座っていた。
驚いて突っ立ったままのわたしに、母は何度かまばたきをしてから、
「今日ははやく目が覚めちゃって。あ、でも今起きたところだけど」
と呟いた。それきり、時計の秒針の音しか聞こえなくなる。
はやく目が覚めちゃってという割には整っている髪や、しっかり開いた目を見る限り、それを寝起きと呼ぶには少々苦しい。
「わたし、お弁当を作りにきて」
「お弁当なら作ってあるよ。お母さんのじゃ満足できないかもしれないけど、少しでも楽になるといいなと思って」
わたしに被せるように告げられたその言葉で確信した。
このはやすぎる時間よりももっとはやくから、母は起きてわたしを待っていたのだ。
嘘をつくのが下手なんだと思う。
きっと、まっすぐ生きてきた証だ。
「そう、なんだ」
相手が嘘をついていると気づいた時、その反応に困ることがある。何か理由があるのだろうかと、わざと気づかないふりをすることもあれば、指摘することもある。
すべては相手との親密度で決まることだけれど、嘘を見過ごしたことで後々大きな後悔になったり、逆に見破ってしまったせいで関係にヒビが入ったりする。
そこの見極めが難しい。
「たまにはお弁当作るのもいいわね、楽しくて」
嘘を流したわたしに、母は小さく笑ってキッチンへ向かった。
「あの、お母さん」
「ん?」
「お弁当つくってくれてありがとうございます」
しまった。
こういうときこそ敬語を外すべきだった。言ってしまってから後悔するだけで、言い直すこともできないのでうつむく。
「いいのよ」
それは何に対してか。
お弁当ありがとうに対する言葉か、敬語のままでごめんなさいに対する言葉か。
その真意は、母の微笑みからは読みとれなかった。
「そうだ紬、朝ごはん食べていく?」
目が合う。
これが"本当"なんだ、と唐突に理解した。
考えつく早起きの目的などこれしかないというのに、母はなんでもないトーンのままきいてきた。
あくまで"普通の会話"であるように、その場で思いついたように告げられた言葉が耳を抜ける。
母はこれをきくためだけに、早起きをしてわたしを待っていたのだ。
偶然起きてしまったふうを装いながら。
ずっと願望として抱いてはいたけれど、口に出したことはなかったから、まさか母がここまでするなんて思わなかった。半ば夢を見ているような気持ちのまま、こくりとうなずく。
「……食べる」
よかった、と小声でつぶやいた母に、学校の支度をすると告げ、わたしは自室に戻った。
想定外の出来事にまだ少し取り乱している。深く息を吸って、呼吸を整える。
今日は学校に行くのがいつもより遅くなるだろう。
朝ごはんを食べていく以上、いつもと違う時間になるのは当然のことだ。
柴谷に連絡すべきか迷う。そのためのスマホだ、と叫ぶ自分もいれば、そんなことで連絡するのか、と囁く自分もいて、両極の意見に翻弄されてしまう。
【今日学校に行くのが遅くなる】
悩んだ結果、国語の教科書に載っている例文のような、なんともお堅い文章になってしまった。業務連絡なのか、と脳内で一人ツッコミをいれる。
それから身支度をしてリビングに向かい、朝食をとっている間も、妙にそわそわして仕方がなかった。我ながら執着しすぎかと思ったけれど、彼からの返信をまだかまだかと待っている自分がいるのは誤魔化しようがない事実だった。
久しぶりにとる朝食は、やはり重かった。今まで一日二食生活だったわけなので、当然のことといえば当然だけれど。
母はじゅうぶんなほどの朝食を用意してくれた。いつから準備して、いつから待っていたんだろう。断らなくてよかった、と安堵できるほどのクオリティだったため、余計に申し訳なくなる。
朝食を口に運ぶわたしを、母は向かいの椅子に座って静かに見ていた。とくに会話をするわけでもない。だけど、沈黙にいつものような気まずさは感じなかった。むしろ今までにはない心地よさを感じていた。
まさか、こんなにすぐに願いが叶ってしまうなんて。ただ、わたしからきっかけをつくったわけではなく、これはあくまで母の優しさの結果だ。
そこは履き違えてはいけない。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうね、紬」
合掌すると、母は泣きそうな顔で微笑んだ。流しまで食器を運びながら、じゅうぶんすぎるほど丁寧に作られていた朝食を思い出す。
お礼を言うのはわたしのほうなのに、この人はどこまでいい人なんだろう。わたしは親に恵まれすぎている。
「紬。本当にありがとう」
もう一度お礼を告げた母に、うん、とうなずく。じんわりと心の内側からあたたかいものが込み上げてきた。
部屋に戻ると、机の上に置いてあるスマホに着信があった。言うまでもなく、柴谷からだ。
深呼吸をして、メッセージ画面を開く。何と返ってくるのか気になってそわそわしていたのに、送られてきたメッセージをみて拍子抜けしてしまった。
【了解】
ふは、と笑みが洩れる。端的すぎて逆におもしろい。
業務連絡が成立してしまったみたいだ。
けれど柴谷の返信はこれがしっくりくるような気がした。逆に長文を送られてきたほうが、それこそ彼のイメージ崩壊につながる。
可笑しくなってひとり笑っていると、追加でメッセージが送られてくる。
なんだろう。端的すぎて、言い忘れたことでもあるのだろうか。
【待ってる】
液晶画面を目でなぞり、気付けばスマホを凝視していた。
ぎゅっと心臓が掴まれたように苦しくなる。
待ってる。
柴谷は、わたしを待っている。
彼の文章をそのまま受け取っていいのならば、こんな解釈になる。
ここでまた「そんなはずがない」などと思えば、間違いなく彼からのお叱りが飛んでくるだろう。
いい加減信じろ、と脳内で勝手に再生されてしまうほど、わたしは彼と一緒にいすぎてしまった。
柴谷はすごい。たった四文字だけで、わたしが学校に行く理由をつくってくれるから。
学校に行けば彼が出迎えてくれる。そんな安心感を与えてくれる存在だから。
ブラウンのコートを制服の上に羽織る。玄関へ向かう途中でリビングから顔を出した母が「いってらっしゃい」と笑みを浮かべた。
いってきます、とまだ上手く動かない口から声を出す。誰かに挨拶をして出かけるのは、「わたし」として初めてだった。
「紬」
ドアノブに手をかけたところで、ふいに母が名前を呼んだ。
「気をつけてね」
わたしと同じようにまた、母も緊張しているのかもしれない。わたしにとっての母も、母にとってのわたしも、お互いに他人でしかないのだから。
それでも母はわたしに向き合ってくれようとしている。
わたしはいつも逃げてばかりで、こうなってしまったのは運命だったと甘えて、向き合おうとしなかったのに。
それでもこの人は、お母さんは、ずっとわたしを見てくれていた。
うん、とうなずく。
ずっとわたしたちの前にあった見えない壁が、徐々に崩れていく音がした。
息を吸って、逃げ続けていたその目に視線を合わせる。とても優しいまなざしが、わたしをとらえた。
ずっと言えなかったその名前を、今なら紡げるような気がした。
「ありがとう、お母さん」
_____
ドアを開けると、秋風が頰を突き刺すように吹いた。頰が冷えたことで、身体までもがぶるりと震える。最近、めっきり秋めいて肌寒くなった。
「あ、紅葉」
見上げると、秋晴れの澄んだ空に、紅葉がひらひらと舞っていた。青と赤のコントラストに、思わず目を細める。
……どんな色合いにしよう。配色は。メインのものは何にしよう。
「え?」
ふと思考が変な方へと曲がっていることに気づいて、思わず足を止めた。
わたしはいったい何を思った?
どうしてそんなことを考えた?
自分で自分に問いかけてみる。
けれどいくら考えても納得のいく答えは導き出せなかった。不完全燃焼のようなもやもやした気持ちのまま、紅葉が舞い散るなかを歩く。
ーーさっき、わたしではない『何か』が出てきたような感覚だった。
ずっと恐れていた。
以前の葉瀬紬が、わたしを乗っ取ろうとする……違う。
葉瀬紬という『本物』が、『偽物』のわたしから全てを取り返そうとする日を。
それは信じられないほど苦しいこと。
だけどきっと周りの人たちは本物を望んでいる。両親はたぶん、安堵で涙を流すだろう。わたしと距離をとっている友達はまた寄ってきてくれるようになるだろう。山井さんも今より親密に話しかけてくれるようになるかもしれない。
柴谷は……彼も、そっちの方が嬉しいと思う。
今のわたしは誰にも求められていない。
だからわたしははやく記憶を取り戻さなくちゃいけない。
みんなのために、消えなくてはいけない存在。
無意識のうちに唇を噛んでいた。
涙を流さないためなのか、悔しさを抑えるためだったのか。
……悔しいのか、わたしは。
泣くほど悲しいのか、わたしは。
消えたいと思って生活していたはずなのに、いつしか消えたくないと思ってしまうようになってしまったのか。
それが本当だったとしたら、きっかけをくれた人は、たった一人しかいない。
唯一、心当たりがある。
そのときふと、聞き慣れた声が耳をかすめた。
「おはよ、葉瀬」
下を向いていたから、急に声が飛んできてびくりと肩が跳ねた。
最初は、ついに幻聴が聞こえるようになったのかと思った。
けれどどうやら、幻ではなかったらしい。
「しば……っ、なんで、いるの?」
「朝の時間取れないだろうから。今日だけ特別」
「は……?」
あどけない顔で笑う柴谷のもとへ駆け寄る。
「でも、遠いでしょ? どうしてわざわざ」
「迷惑?」
「それはないけど、でも」
迷惑なんて、思うわけない。けれど学校からここまで結構距離があるはずだ。見たところ自転車というわけでもなさそうだし、きっとここまで歩いてきたのだろう。
どうしてわざわざそこまでしてわたしを。
それに、どうしてわたしの家を知っているのか。
そんな疑問が生まれたけれど、それはすぐに自己解決した。
だって、答えはたったひとつだけ。昔のわたしが、柴谷に教えたのだ。それほどの親密度だったのだ、わたしたちは。
こんなところまで迎えに来るなんてお人好しなのだろうか、と考えたけれど、その考えはすぐに排除された。だって彼は、あまり執着しないタイプの人間だから。自分を犠牲にして誰かのために働くとか、みんなの幸せが自分の幸せだとか、そういう人たちの部類ではない。
クラスでも誰かのために動いているのを見たことがないし、リーダー役を進んで引き受けているわけでもない。もちろん頼まれたら応じるけれど、それまでだ。
基本的に、人に興味がない人だと、関わりが増えた今でも思っている。
どうして、と理由を求めるわたしに、苛立ったようにくしゃっと頭をかいた柴谷は、そっぽを向いたまま告げた。
「会いたくなったから」
「……え」
「これが理由。お前うるさいから。これで満足?」
言葉は刺々しいのに、全然嫌な気がしないのは、ひとつ前に言われた言葉があまりに強烈すぎたからかもしれない。
「……なにそれ」
ほんと、なにそれ。
会いたくなったって、なにそれ。
柴谷はまた飄々としていた。彼には照れという感情がないのか。
それとも、本当に思っていないから簡単に言葉にできるのか。
恥ずかしげもなくそんなことを口にする柴谷。
彼は余裕そうで、わたしばかり意識してバカみたい。
それきり何も発せなくなって、口を噤んだ。
どうして、なんでとまた訊きたいことが増えたと言うのに、同じことを繰り返し言われたらもう心臓がもたないような気がした。
「目覚めは早いほうがいいだろ?」
柴谷が言葉を紡ぐ。
心臓を鷲掴みにされたような感覚だった。この感覚は、三度目。初めて写真を見たときと、至近距離で見つめ合ったとき。そして、今だ。
あ、と頼りない声が洩れたきり、話しかたを忘れたみたいに声が出なくなる。
そのかわりに心臓の音だけが響くものだから、柴谷に届いてしまうんじゃないと心配になった。
胸の内側から叩かれているみたいに、トントンと音が鳴る。
「ねぇ柴谷……っ」
歩き出したその背に声をかける。
ねぇ、柴谷。
わたし、君の。
「写真、撮ってもいい?」
何か形に残しておきたかった。
これから先、彼を忘れることがあっても、その度に思い出せるように。
ああ、そうか。だから柴谷は写真を撮るんだ。
この一瞬の幸せを、たしかな青春を、忘れずに残しておくために。
スマホを構えたわたしを見て、驚いたように目を開いた柴谷は、それから少し笑った。
この瞬間を、思い出せますように。
彼と離れる日が来ても、わたしがわたしじゃなくなる日が来ても、何度でも、なんどでも。
その日、空っぽだったわたしのカメラロールには、初めての色が加わった。