私には後悔していることがある。
 自分の嫉妬を抑えきれずに、とある人物を傷つけたことだ。

 葉瀬紬。その名前を持つ人物だった。


 私は柴谷くんにずっと想いを寄せていた。中学生のころから、女子や恋愛に無頓着で常に自分の世界を生きているような彼に惹かれていた。何度も何度もアタックしたけれど、全然相手にしてもらえなかった。

 それでも、彼が夢中になるような相手がいなかったから、なんとか我慢できていた。高校に入って、葉瀬紬という存在が現れるまでは。



「赤坂さんの気持ちは赤坂さんのもの、私の気持ちは私のものでしょ。どう頑張っても変わらないし、無理して変えなくていいものだよ」



 いざ会話してみると、差は歴然としていた。悔しいと嘆く気持ちとは裏腹に、自分との差を見せつけられたみたいでどこか諦めの感情すら浮かんでいた。


ーーあまりにも差がありすぎる。


 柴谷くんが求めている人間というのが葉瀬紬であるならば、私はどう頑張っても柴谷くんのとなりに並ぶことなんてできないのだと理解した。


 写真家の彼と、絵描きの彼女。
 それだけでも特別感があったけれど、ふたりが並んでいるのをみると、ただそれだけの感情で二人が一緒にいるわけではないのだとすぐに分かった。

 お互いにとっての居場所であり、安心して息を吸える場所であり、誰にも立ち入れない雰囲気がそこにはあった。



「赤坂さんがどう思っていようと、私は赤坂さんが好きだよ。今のところはだけどね」



 どう生きていけばこんなふうになれるのだろう。だってまだ同じ年数しか生きていない。
 大人のようにも、子供のようにも見える葉瀬紬は魅力的だった。柴谷くんも、彼女のそういうところに惹かれたんだろう。

 もし葉瀬紬がとても性格の悪い人間だったなら、表立って火花を散らすことができたかもしれない。
 けれどあまりにも彼女が出来すぎた人間だったから。柴谷くんのとなりにふさわしい人物だったから。



 私は姑息な手を使って、彼女を苦しめることしかできなかった。






 その日も、少しばかりイタズラしてやろう、くらいの気持ちだった。
 教室に戻った時、ふと葉瀬さんの机に置かれた一枚の紙に目が止まった。


 周りに誰もいないことを確認して近寄る。それは絵だった。
 色も塗られていなければ、くっきりと描かれているわけでもない。イラスト好きな友達が「ラフ」と呼ぶそれに似ていた。
 もう一度周囲を見渡して、持っていたスマホで写真を撮った。一瞬の行動だったけれど、心臓がバクバクと鳴って飛び出そうだった。

 最低なことをしている自覚があったから。



 小さな小さなコミュニティ。
 私と、それからいつも一緒にいるマキとミホ。あとは信頼はできないけれど、いつも私の後ろをついてくるサキやアコ。たったそれほどの人しか知らない鍵アカウント。

 そこで共有して、反応を楽しもうとしていた。
 彼女たちはいつも私が満足できるような言葉を探して、私に話しかけてくる。だからとても気持ちがいいし、落ち込んだときにはすごく支えになっていた、はずだった。




 けれど最近になって思うようになった。あまりにも馬鹿馬鹿しいと。


 アイコンの周りが虹色に光ったのを見て、ストーリーがきちんと上がったことを確認する。
 投稿してすぐに、サキとアコの閲覧履歴がついた。ふたりとも抜かりなく、いいね!を押している。
 本当にいいね!と思っているのか、既読感覚いいね!なのか本当のところは分からないけれど、おそらく後者だろうと思う。


 はあ、とため息をついた。




『ともたん、葉瀬さんのことほっといていいの?』
『今日も柴谷くんと距離近かったよ』
『張り紙しておいたからね! まったく、暴言書くこっちの身にもなってほしいよね〜』
『はやく身を引けっつーの!』



 グループラインに次々とメッセージが書き込まれていく。私はそれに反応せず、既読をつけただけで電源を落とした。



 ああもう、みたくない。


 もちろん最初は悔しくて、少しでも嫌な思いにさせてやろうと最低なことを思っていた。けれど葉瀬さんの強さと優しさに触れるたびに、自分が情けなくて、みっともなくて、消えたくなった。



 私に絵の才能があったら。そしたら、柴谷くんのとなりに並べただろうか。
 彼女として。柴谷くんの好きな人として。


 自問して、やがて首を振った。答えが出るのは一瞬だった。
 いくら柴谷くんの目を惹くような絵が描けたとしても、きっと私ではだめだ。


 葉瀬紬でないと、だめなのだ。





 いつしか、強い私を求められるようになっていた。クラスの女王として権力をふるって、学校を偉そうに闊歩(かっぽ)しながら、青春を謳歌するような。

 取り巻きたちはみな、私が葉瀬さんを痛めつけることを望んでいる。葉瀬さんをいじめている主な人物は私になるわけであって、彼女たちは比較的安全な場所から葉瀬さんが苦しむところを見て面白がっているに過ぎない。

 自分でいじめる勇気はないから、同じように葉瀬さんに嫉妬している人で固まって、攻撃してやろうという魂胆だ。




 こんなことをすればするほど、柴谷くんに選ばれるはずなどないのだと分かっていた。けれど止められなかった。





 悪事を働こうとしたとき、彼女と鉢合わせたことがある。その内容はもう覚えていないほどくだらないことだったけれど、いじめの決定的瞬間を確実に見られた。


「あ……」
「未遂だから大丈夫だよ!」


 それなのに彼女は笑みを絶やさず私のもとへと近づいてきた。

 そのときばかりは、え、と固まった。どうしてこんなふうに笑えるのか、本当に同じ人間なのか、何もかもが信じられなかった。


「あなた……つらくないの?」


 いったい誰が訊いているんだと、笑ってしまいそうになる。彼女を苦しめている張本人。そして、私が主犯だということもきっと彼女は知っているだろう。



「嫌じゃないって言ったら嘘になるけど……でも、大丈夫! 全然、大丈夫」
「……ばっかじゃないの」
「バカなのかな、あたし。うん、バカだから平気なのかも!」


 彼女のアーモンド型の目がスッと線になる。
 笑っていた。それはもう、満面の笑みで。



「じゃああたし行くね! 赤坂さんも部活頑張って!」



 私はどうやっても脇役だ。
 彼女が主人公で、柴谷くんが主人公の相手役だとしたら、私は台詞が少しある程度の脇役。


 昔から、本が嫌いだった。
 主人公の言動で、まわりの態度がどんどん変わっていく。最初は主人公をやっかんでいた登場人物たちが、最終的には主人公のことを好きになる。
 わたしはいつも、主人公ではなく、悪役に自分を重ねていたから。


 主人公が周りの人たちを変えていくなんて、そんなわけがないと思っていた。主人公に魔法の力でもなければ、そんなこと現実世界ではありえないと。



 だけど、本当に存在していた。いじめてやろうとか、嫌な思いにさせてやろうという気持ちが、なんて浅ましくて無意味なことだったのだろうと気付かされてしまう。

 自然と、私は彼女に惹かれていた。
 一人の人間として。彼女に抱いていた邪念などとっくに消え、いつしか憧れを抱いていた。


 だからもう、こんなくだらないことはやめよう。取り巻きたちは間違いなく幻滅して、私のそばを離れていくだろう。それでも、こんなふうにかっこ悪いことを続けていくのは耐えられなかった。


 ーー私は、葉瀬紬の笑顔がみたい。







 そう思っていた矢先だった。

 急に葉瀬さんの嫌な知らせが耳に入り、両親に呼び出されたのは。




 葉瀬さんが自殺を試みたこと。命は助かったがその過程で記憶を失ったこと。私が無断であげた絵の写真が違うアプリで拡散されて、盗作されたこと。その作品がコンテスト受賞を果たしてしまい、柴谷くんと葉瀬さんの夢を台無しにしたこと。


 ーー私が、主人公の葉瀬紬を殺したこと。






 頭が真っ白になった。
 SNSの使い方は今まで何度も教え込まれてきたけれど、まさか小規模の鍵垢から写真が漏れることがあるなんて思いもしなかったから。

 繋がっている数人の友達……否、知り合いがどこかに無断転載したなどという事実は、考えたくなかった。けれど漏れてしまった以上、そう考えるより他ならない。




 私は呆然と両親の話を聞いていた。葉瀬さんの両親に会って頭を下げた時、ようやく取り返しのつかないことをしてしまったのだと深く実感した。

 あの一瞬で。私の軽率な考えで。
 浅ましい嫉妬で。


 あやうく彼女は死ぬところだった。




 始業式、胸が張り裂けそうになりながら彼女の姿を待った。すぐに謝るつもりだった。許してもらえるとは思っていないけれど、今までの心が狭くて傲慢な自分からは卒業できると信じて。


 けれど。


『不自由かけますが……よろしく、お願いします』



 常に笑顔を浮かべていた彼女とはまったく別人。うつむきがちにそんな挨拶をした葉瀬紬という人物を、私はただ見つめることしかできなかった。

 その日の放課後、柴谷くんから呼び出された。それはまったく嬉しいことではなくて、むしろこれから地獄が待っているのだと。そう直感的に悟った。



 案の定、彼からきびしい言葉をぶつけられた。そのどれもに、彼の葉瀬さんに対する愛が込められていて。

 こんなに圧倒的で、羨望することすらおこがましいような想いに私は嫉妬していたのだと分かった時、アホらしくて仕方がなくなった。

 すべて、私が悪い。彼女をいじめてきたツケがまわってきたのだ。





 私は柴谷くんの前で、過剰なまでに自分の思いを吐露した。言葉を並べれば並べるほど、自分の醜さが目立って泣きたくなった。





『私……私ね、柴谷くんのことが』



 その先を続ける前に、録音を流されて遮られた。けれど私はその先を続けるつもりは最初からなかった。


 そんな資格が私にないことは、痛いほど分かっていた。



『俺は葉瀬のことが好きだから。お前のことは好きじゃない』




 その言葉をはっきりと告げられたとき、泣きながらも心のどこかで安堵していた。

 これでやっと、終わることができる。
 汚い自分から卒業することができる。



 彼を想って苦しむことに、ようやく終わりが見えた気がした。



 柴谷くんと交わした条件は、二度と葉瀬さんに近づかないこと。
 彼女に謝れたら、と思っていたけれど、私のことを忘れているのならば彼のいう通り、最初からなかったこととして記憶から消す方が幸せなんだろうと思った。


 だから近づかないようにしていた。
 それなのに。



『だからね、もういいの。今を生きてるのはわたしだから。今のわたしは、赤坂さんのこと許すよ』


 過去のすべてを知った彼女は、それでもなおこんな言葉を私に贈ってくれた。


 葉瀬さんは自分自身のことを、前とは変わってしまったと卑下していたけれど、それはきっと間違いだ。

 本当の部分が何も変わっていないから。まっすぐ前を向いていて、強くて、周囲を引き込んでいく圧倒的な力。



 もしかすると、繕っていた部分がすべて柴谷くんによって取り除かれた今の葉瀬さんが、本物の彼女なのかもしれない。ありのままの自分をさらけ出せる存在。

 それが柴谷くんにとっての葉瀬さんで、葉瀬さんにとっての柴谷くんだ。



『柴谷くんなら少し前に校舎から出ていったわよ』



 せめてもの助言に、葉瀬さんは「ありがとう」と微笑んで走り去っていった。


 これでよかったんだ。
 彼女も彼も、幸せになるべきだ。



 ただ、ひとつ。
 まだ彼女に伝えられていない「ごめん」という言葉。


 それだけが私のなかで、引っかかっていた。






***



「謝れたのか?」


 放課後。教室でゆっくり準備していた私に声をかけてきたのは柴谷くんだった。葉瀬さんに謝りたいと思っているうちに、季節はいつのまにか冬に突入していた。


「……ううん。まだ」


 首を振りながら、はたと考える。どうして彼は、私が謝りたいと思っていると気づいたのだろう。

 彼が抱いている私の印象は最悪のはずだ。謝るなんてこと考えられないくらいに、自分勝手で自己中な人物だと捉えられているはずなのに。


「そんな気がしただけ」



 彼は、人をよく見ている。まったく興味がないふうに見えたり、冷たく突き放しているように見えても、その裏でしっかりと相手の本質の部分をとらえている。そういうところがすごい。


 もう彼にトキメキをおぼえることはないけれど、それでも。

 この人を想った瞬間があってよかったと、心から思った。




「しばたにー?」



 ふと、廊下のほうから声が聞こえる。葉瀬さんの声だ。

 先生に頼まれごとをしていて、少し席を外していたらしい。



 このあと、彼らは作品の制作に取りかかるのだ。今は純粋な気持ちで、心から応援している。




「紬。赤坂から話があるって」


 現れた葉瀬さんの肩に手を置き、そんなことを言う柴谷くんにギョッとして視線を向ける。鞄を持って戸に手をかけた彼は、振り返って私を見ると片眉をあげた。


「がんばれ」


 そうして、教室を出ていく。


 あまりにも突然舞い降りてきたチャンスにあたふたしている私を、葉瀬さんはおだやかな表情で見ていた。



「なに? 赤坂さん」
「あ、えっと……」



 手汗がにじむ。冬だというのに、身体から火が出ているかと思うくらいあつい。

 葉瀬さんは急かすことなく、私の言葉をじっと待ってくれた。深呼吸をすると、いくぶん心に余裕がうまれる。




「傷つけて、ごめんなさい」



 頭を下げる。
 ああ、言えた。浮かんだ涙で目の前が滲む。



 ずっと言えなかった。ごめんね、とその一言がずっと。



「うん。いいよ」
「……葉瀬さん」
「もう一回、やり直そうよ。今度はわたしも、嫌なことがあったらちゃんと言うから。我慢しないで、自分の気持ちに正直に生きるって決めたから」


 葉瀬さんは満面の笑みを浮かべていた。
 これまで見ていた笑顔とは明らかにどこか違った。

 心からの笑顔だった。




「燈ちゃん。よろしくね」





 謝って、許してもらって、和解する。それはとても難しいことだと思っていた。

 けれど私が勇気を出さなかっただけで、葉瀬さんはこうして私を待ってくれていた。今となってはこんなにあっさりできることなのに、どうして当時は複雑に絡まってしまったのか。変なプライドや嫉妬が邪魔をして、ずっと謝ることができなかった。


「ありがとう……紬ちゃん」


 
 名前を呼んだ瞬間、また一粒、涙がこぼれ落ちた。