十七歳の誕生日。
ーーそれがわたしの生まれた日だ。
不規則なリズムで足を進める。
肩に圧をかけるリュック。歩くたびに音を鳴らすローファー。胸元で揺れるリボン。
とある場所に足を踏み入れた途端、ぞわっと身体の内側から何かに包まれる感覚がした。息の通り道がキュッと狭められて、鼓動が耳の近くで鳴り響いている。
ーー昇降口だ。
ここは、息苦しい世界の入り口。
自由と束縛を分つように、毎日わたしを待ち構えている。
学校という場所は息苦しい。
着心地が悪くて動きにくい制服は、ここに自由はない、と伝えてくるような気がした。
その通りだ。
この世界にわたしの居場所なんて、ない。
ずっとずっと、肺ではないどこかで、口ではないどこかから、息をしている。
あの日から、わたしの中の呼吸は、そんな感覚だった。
息を吸って、吐く。
そんなあたりまえのことができなくなったのは、"わたし"が生まれてから、ずっとだ。
「おはよう葉瀬さん」
「お、おはよう……ございます」
急に横から飛んできた、クラスメイトからの挨拶。できるだけ声が震えないように気をつけながら、挨拶を返した。
にこ、とどこかつくりもののような笑顔を見せた彼女は、そのままいつもの女子の輪の中へ。
もちろんわたしはその輪のメンバーじゃない。
機械的な挨拶のあと、彼女がわたしのほうを向くことは一度もなかった。
息を吐いて、目をつむって、周りの騒音を遮断する。
ぐるぐる、ぐるぐる。
立っていた地面が溶けていって、暗くて深いところへと嵌まっていくような感覚がした。底なし沼、ってこういうことを言うのかもしれない。
何かに引っかかることもなく、海底に沈んでいくみたいに、ゆっくり、ゆっくり。そして、静かに。
もがけばもがくほど手足がとられて次第に動かなくなる。鈍い色をした泥が頬に張り付き、それからわたしの頭を飲み込んでいく。
そしてわたしはずっと、永遠に、沈んでいく。
二学期が始まって一週間。
夏休みの出来事を語り合う時間はじゅうぶんにあったはずなのに。
それでも語り足りないのだろう。さまざまな夏休みの思い出が、教室のすみずみで飛び交っている。
「夏祭りでデートしてたのみたぞ、このやろ!」
「うわー、だるっ。見てたのかよ」
「テスト勉強した?」
「まさか。課題やるので精一杯よ」
「三組の原くんと海行ってたストーリー見たけど。付き合った?」
「うん、実は付き合った!」
「菊池ー! 提出課題終わった?」
「俺が終わってるわけないだろ」
「っしゃ期待どおり〜……って、それだめじゃん!!」
騒音に紛れるようにして否応なく飛び込んでくる言葉は、廃れたわたしの心を引き裂いた。
それはもう、残酷なほどに。
────ああ、もう。
だめかもしれない。
乾いた唇を静かに舐めて、机に突っ伏す。火照った頰が、冷ややかな天板に触れる。
顔を伏せていると、視界が真っ暗になるせいで、余計に耳に神経が集まるような気がする。
遮断したはずのクラスメイトたちの声が、女子たちの声が、雑音が。聞きたくない声が、拾いたくない音が、全部入ってくる。
嫌だ。お願い、何も言わないで。
これ以上、わたしを苦しめないで。
顔を伏せていると、さっきわたしに挨拶した女子のグループらしき声が聞こえた。
「挨拶したの?」
「うん。一応」
「えらすぎるね」
「それにしてもかわいそうにねえ」
「なんて声かけたらいいかわからないんだもん」
「だよねえ」
「前はもっと明るかったのにね」
────前はもっと明るかったのにね。
────まえはもっとあかるかったのにね。
────マエハ、モット、アカルカッタノニネ。
聞き逃しが通用しないくらいはっきりと、三回。
ボコボコボコっと、水中で何かを吐き出したみたいに。溺れてしまったみたいに。
途端に息ができなくなる。
溺れる、おぼれる。
ああ、しんじゃう。
いっそ、死にたい。
ここから、消えたい。
ガタッーーと椅子の音がして、クラスメイトの視線がわたしに突き刺さる。
ああ、そうか。
今の音はわたしが出したのか。立ち上がったから、音がなったんだ。
そっか、わたしか。
まわらない頭でそう理解したときには、胃から押し上げてくる吐き気が限界を迎えていた。
どこか別の場所に行かないと。わたしはもう、ここにはいられない。
わたしは吐き出しそうになるのをなんとかこらえながら、夢中で教室を飛び出した。
壁に縋るようにして廊下を歩く。とにかくひとりになりたかった。
触れる壁が冷たい。けれど、その冷たさにどこか安心してしまう自分がいる。
生きてるんだ、って実感できるから。
あてもなく廊下を彷徨う。棟を移ると、一日の始まりにはふさわしくない薄暗い廊下が続いていた。
そんな場所に、足は勝手に進んでいく。
まるで、何かを目指しているみたいだった。
この先に何があるかなんて、わたし自身にも分からないのに、勝手に。
『葉瀬さん』と、脳内でさっきの言葉が反芻する。
葉瀬さん、はせさん。
前はもっと。
葉瀬、はせ、はせ。
アカルカッタノニネ。
「……っ、うぇ」
胃から押し上げてきた吐き気に、思わず口を押さえる。そんなことで、止められるはずないのに。
ハセさん。
──前は、もっと。いや、チガウ。
前って、なに?前のわたしって、ダレ?
「違う……ちがっ、ちがうっ」
再び熱いものがせり上がってくる感覚がして、じわりと涙が浮かぶ。胸のあたりを締め付けられている感覚は分かるのに、治し方が分からない。
苦しくて、しんどくて、気持ちが悪くて。だけどそれ以上に、心が痛い。
すべてが狂ったのは、わたしの十七歳の誕生日。
息苦しくなったのも、こうしてクラスに馴染めなくなったのも、学校が嫌いになったのも、消えてしまいたいと願うようになったのも。
すべて、その日のせいだ。
ーーわたしはその日、
ほとんどの記憶を失ったから。
自分は誰なのか、どんな存在なのか。今まで構築したはずの人間関係や、得意不得意、好きなこと、嫌いなもの、すべてが分からなくなってしまった。
生活するうえでの基礎的なこと、過去の出来事はぼんやりと覚えているのに、肝心な「誰と」の部分がごっそり抜け落ちてしまっている。
友達、クラスメイトはおろか、家族のことさえも。何もかも、覚えていない。
中身がまるごと入れ替わってしまったかのよう。
原因は分からない。
目が醒めて最初に対面した両親────まったく記憶にない四十代の夫婦は、決して教えてくれなかった。
なんでわたし、こんなことになっちゃったんだろう。
そう疑問をつぶやくたびに、彼らは口を揃えて「気にしなくていいよ」と言ってくるのだ。
正直、自分の記憶が消えてしまっても気にせず生きられる人間なんて、そういないと思う。
誰しも自分ではない、他の誰かと繋がりがあるはずだ。それは家族だったり、友人だったり、あるいは恋人だったりとさまざまだと思うけれど、少なくとも自分一人で生きることなんてできないはず。
私生活に影響が出るに決まってる。こんな状況になっても気にしないでいられるのは、よほど能天気で前向きな性格の人か、悲しいことに人との繋がりがまったくなかった人だけだ。
葉瀬紬。
わたしの名前はそういうらしい。目が醒めて、白衣を着た人物といくつか会話を交わしたあと、その名を告げられた。
大丈夫、気にしちゃダメよ。安心してね紬。
すぐに元に戻るからな。紬はちゃんと戻るから。
両親の言葉は、耳をすり抜けていくだけで何も心に響かなかった。
まだ彼らが両親だという認識がわたしのなかで上手くいっていないからなのか、話の内容が本当に薄いのか。その理由はまだわからない。
けれど、記憶がないわたしからすれば、彼らはどう見ても他人にしか映らなくて。
同じ家で暮らしてはいるものの、やはり気まずい空気が流れている。否、わたしが気まずい空気にしてしまっている。
それをあえて感じさせないよう精一杯振る舞ってくれている『お母さん』には申し訳ないけれど、やっぱりまだわたしには無理だ。
腫れ物扱い、って言葉がピッタリだと思う。家でも学校でも、わたしは『触れるな危険』というプレートをさげて生活しているような気分だ。
できるだけ触れてはいけない、関わってはいけない、そんな感じ。
当然だ。
こんな人間、気味が悪いだろうから。
面倒ごとには巻き込まれたくない。そう思うのが"一般的な"人間だと思う。
そう思い込んでいないと、どうにかなりそうだった。
みんなが知っている以前の【葉瀬紬】は、もうこの世界どこを探しても存在しない。わたしという得体のしれない何者かが、彼女を上書きしてしまったのだから。
昔のわたしがどんな人間だったのか、わたしだけが知らない。
けれど、以前のわたしを知るクラスメイトの言葉を聞く限りでは、わたしはきっと明るい人間だったのだろう。こんなふうに下ばかり向いて、いっそ死んでしまいたいと思うような人間ではなかったのだろう。
ああ、本当に気持ちが悪い。
吐き出したい。ぜんぶ。
迫り上がってくるものを、必死に手で抑えてうつむいた。
ーーそのときだった。
「おい」
ふいに前から低い声がして、え、と視線が上がる。そこには、苛ついた表情でわたしを睨みつける一人の男子がいた。
知らない人だらけのクラスメイトの中で、唯一、顔と名前が一致している人物。
わたしは彼を、よく知っている。
「し、ばたに……」
「また吐こうとしてんのかよ」
射抜くような視線にたえられなくて、にげるように目を逸らす。もう目はあっていないのに、ひどく視線が痛かった。
つかつかと歩み寄ってきた彼は、強引にわたしの手を掴んで引いた。
「来い」
「わっ……」
途端に心臓が縮みあがる。キュンとしてじゃない、こわくてだ。
彼はいつも乱暴だから、会うたびにどこか萎縮してしまう。彼を前にすると、彼の手を振り払うだけの力も、自由に紡ぐことのできる言葉も、なにひとつ意味のないものに変わってしまう。
何も言わずにわたしを女子トイレの前まで連れて行った彼は、急に足を止めてわたしの顔をのぞき込んだ。透明な瞳とまっすぐに目が合う。とつぜん胸の奥が疼いた。
───…ああ、逃げ出したい。
彼の瞳はいつも何を映しているのか分からない。もしかしたらわたしの心の声まで透けて見えているのかもしれない。頭の中の考えまでお見通しなのかもしれない。
そう思うと、彼の視界の外まで衝動的に逃げたくなってしまうのだ。
「もう大丈夫だろ?」
「え……あ、ほんとだ……」
いつのまにか、吐き気から意識が逸れていたことに気づく。彼はきびしい視線のまま、繋ぐ手に力を込めた。
「朝飯もほとんど食ってないくせに、吐くもんなんてあるかよ」
「どうして、それを……」
少しわたしを見つめてから、ふっ、と小さく笑った彼。さっきまでの鋭い視線とは違うけれど、どこかバカにしたような笑い方でもある。
呆れと、哀れみと、他のなにかが、その笑みに混ざっている。そんなふうに思えた。
嬉しいとか、悲しいとか、そんな単純ではない感情をいつも心に宿している。
柴谷。それが彼の名前だ。
「全部お見通しなんだよ。ばか」
やっぱりすべてバレていた。
わたしが毎朝、朝食をとらずに家を出ていること。他人としか思えない家族に迷惑をかけるのが嫌で、なにより怖くて、逃げるように家を出てきていること。だから吐きたくても何も吐けないこと。
すべてわかっていて、彼はそんなふうに言うんだ。
ぐ、と唇を噛んだわたしの顔を、柴谷がのぞきこんだ。そうしてわたしの吐き気がおさまったのを確認した彼は、何も言わずにもう一度わたしの手を引いて歩きだす。
抗う気にもなれず、上履きが冷たい廊下をこする音だけをききながら、"いつもの場所"へとむかう柴谷の背中を見つめた。
黒い髪が揺れている。繋がれた手のぬくもりに、どこか懐かしさをおぼえる。
突然締め付けられたように、息ができなくなる。
目と、指先。それと、浮かんでくる薄い記憶。
それらに意識が注がれるせいで、吸う息と吐く息の均衡が保てなくなった。
だんだん呼吸が浅くなっていき、また苦しくなる。
けれどそれに気づいたみたいに、握る手に力を込められるから。
「……っ」
わたし本来の息の仕方へと、戻してくれる。
不思議なチカラ。
彼だけが持つ、魔法みたいな力。
二年生の教室とは別棟にある、共用講義室。そして、会議室や美術室のさらに奥。
おそらく誰も知らない、来たことがない、そんな場所。こんなところがあったんだ、って生徒誰もが驚くような、静寂に包まれた、冷たい場所で。
「───…おはよ、葉瀬」
柴谷は静かに、笑った。
空気が、変わった。
紛れもなく、彼が変えたのだ。
「お、おはよ……し、ばたに」
「ぎこちなすぎだろ」
「ご、ごめん」
「謝んな、ばーか」
呆れたように笑う柴谷は、ほんの少し、柔らかい表情をしていた。教室では見せない顔だ。
ここに来るのは、これがはじめてではない。夏休み明け、まっさらな状態で登校したわたしを、この冷たい場所まで引っ張ってきたのが柴谷。そして、同じように挨拶をされた。
記憶を失う前のわたしが、彼にとってどんな存在だったのか。彼は、わたしにとってどんな存在だったのか。
気にならないと言えば嘘になる。
どこか知らない場所に置き去られてしまった記憶は、未だわたしのもとへ戻ってはこない。だから、知らないでいる。
ずっと、きけないままでいる。
「よし、撮るか」
正直な話、柴谷は変わっていると思う。
記憶をなくしてしまったわたしという異質な人物に躊躇なく話しかけて、一から関係をやり直そうとしている。普通なら怖がって離れていくはずなのに、彼だけはおかしいぐらいに距離を詰めてくるから。
乱暴な言葉と、強引な行動。問答無用でわたしの心にズケズケ踏み込んでくるくせ、ふとした瞬間柔らかい表情になる。透明な瞳にはすべてを見透かされているような気がする。
わたしの心をいとも簡単にあやつって、使い物にならなくしてしまう。
だからわたしは、あまり彼のことが得意ではない。
そんな性格をしているのに、クラスにはうまく溶け込んでいる……ように見える。ここ一週間、彼ばかり注目して見ていた。柴谷はいつもクラスの輪の中心で笑っていて、男子にも女子にも慕われている。
教室でも変わらず乱暴な口調だけど、みんな彼を認めて慕っている。わたしが「ばか」とか「やめろ」とか言ったとしたらきっとみんな離れていくはずなのに、彼だから許されているということが羨ましい。
柴谷のそういうところも少し苦手だ。
女子に人気な理由はもっとあるはず。その中でも最大の加点ポイントは、つくりもののように整った顔の造形だと思う。
つややかなストレートの黒髪とか、凹凸のはっきりした彫りの深い顔立ちとか、透き通った白い肌とか、しなやかな指先とか、どこか別世界の人間みたいなところがまた彼の魅力を増しているんだと思う。こればかりはどうしようもない。悔しいけれど。
美術倉庫からカメラを手にして戻ってきた柴谷は、いつものように空に向かってカメラを構えた。
「ふーーーーっ」
それは、はじまりの合図。
柴谷は一息呼吸をして、空全体を透明な目に映してから、そのままの景色をレンズに閉じ込める。
彼が世界にピントを合わせている瞬間、わたしは彼に話しかけられなくなる。ぎゅっと胸がつかまれてしまったみたいに苦しくなって、たまらなく切なくなって、なぜだか泣きたくなる。
ずっと前から、知っていたみたいに。忘れちゃいけない何かが、胸の奥からせり上がってくるみたいに。
カシャッ、と音がなるたびに、空気が凛と張っていく。この世界は今、彼によって丁寧に、繊細に、切りとられているんだ。
*
「葉瀬は諸事情で一部、記憶を失ってしまってな。何かと弊害があるかもしれないが、こういうときこそ助け合いだ。普通に生活していたら自然と思い出すかもしれないから、いつもどおり接するように」
夏休み明け、最初のホームルームにて。そんな説明を担任から受けたクラスメイトは、みんな呆然としていた。目を瞬かせて、それから視線を落とす。誰もがこの一連の動作を行った。
わたしは教卓に立ちながら、転校生かのごとくゆっくり目を動かして一人ひとりの顔を眺めてみたけれど、誰の顔も思い出せなかった。
「不自由かけますが……よろしく、お願いします」
とは言ったものの、泣き叫んで縋りついてくる人がいないのだから、わたしと本当に仲が良かった『親友』みたいな人物はいないのだろう。その事実に愕然とした。
その証拠に、みんな目を合わせてくれない。もし本当に仲がよければ、もう一度近づいてきてくれるはず。仲が良かったのにいきなり他人みたいに突き放すなんて、ありえないから。
唯一目が合って、絶対に逸らさなかった人。それが柴谷だった。
透明な瞳で見られたとき、心臓が縮んだような気がして、妙に落ち着かなくなった。
登校も、教室でも、移動教室も、下校も、すべて一人。部活は休部という形になった。両親が手続きをして、学校から特別措置として許可を得たのだと言っていた。
なんの部活に入っていたのか。
自分の得意不得意まで思い出せないから、知ったところでどうにもならない。どうせ、続けられないから。
だから両親は、わたしに伝えなかったのだと思う。わたしも部活を続けようとは思わないから、なんの部活だったのかなんて知る必要などない。
学校は、二日目、三日目と通えば慣れると思ったけれど、全然ダメだった。
冷たい廊下を歩いていると、無意識のうちに涙が出そうになって、吐き気と頭痛に襲われた。けれど乾ききった身体からは涙なんて出てこなくて、悲しいという感情を外に出す方法すら失っていた。深海に沈んでいくみたいに、底のない暗闇へと放り込まれてしまったかのようだった。
そんなある日のことだった。柴谷がわたしの前に現れたのは。
「葉瀬、来いよ」
「え……」
「きれいなモン見せてやる」
まだホームルームまで一時間以上ある、朝のはやい時間。
今日みたいに廊下を彷徨っていたわたしの手を引いて、この場所にたどり着いて。
「落ち着いて、息吐いて。吸って、前向いて」
「……っ」
「おはよう、葉瀬」
まるでこの瞬間、「わたし」が目覚めるみたいに。
おはよう、って。
そう言ってくれた。
もし「綺麗なものを挙げよ」という課題が出たのならば、わたしは間違いなく彼の瞳を選ぶだろう。暗いところばかり見ているわたしとは対照的な、澄みきった目。
彼の瞳を通して見える世界を、わたしも見てみたい。
そう羨望してしまうほど、美しいものだから。
*
「……瀬、葉瀬。おい、何してんだよ」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「ったく、何考えてたんだよ」
「わたしたちの出会いを思い返してたの」
ぼそりとつぶやくと、一瞬動きを止めた柴谷は「そうか」と返してまたレンズを構えた。
何でも出来る人気者の彼。
そんな彼のなかでもとくに秀でたものと言えば、なんと言っても写真を撮るのが上手いということだ。
こんなこと言ったら怒られてしまうだろうけれど、初めて彼を見たとき、芸術的なものには興味がなさそうなイメージを抱いたから。
だからこの場所でいきなりカメラを構え出したとき、びっくりして思わず声をあげてしまった。撮影を邪魔された彼は相変わらず苛立った顔をしていたけれど、わたしが謝るとすぐに写真へと意識を戻した。
『ふーーーーーっ』
そうして一気に自分だけの世界をつくりだす。周りの空気も、わたしの意識も、すべてを取り込むような呼吸のあとで、彼はシャッターを切った。
その日、彼が撮った空の写真を見た時の感動を、衝撃を、わたしは一生忘れないと思う。
泣きたくなるほど綺麗で、繊細な写真だった。
普段何気なしに見ていた空。昼間の空は青い。夜の空は黒い。当時のわたしにあったのはそんな認識だけだった。
だけど、彼の写真はその"間"の時間を切り取るものだった。青い空に桃色が混ざって、薄紫が広がったのちに藍色のような深い色が混ざっていく。そうやってゆっくりと、わたしたちの頭上にある空は変化していくんだ。
当たり前すぎて見落としていた瞬間を、彼は逃すことなくカメラに収めて、世界を切りとっていた。
彼の瞳がうつす空は、こんなに綺麗なんだ。彼の瞳からみる世界は、こんなにも繊細で儚いものなんだ。
くすんでしまっていたわたしのものとは全然違う。
そのことに気づいたとき、色のない世界が壊れていくような衝撃と、言葉にできない感情がわたしの心を包み込んでいた。きっと、「感動」っていうのはこういうときのことを言うんだと思う。
ーー写真は撮り手の心を写すというのならば、わたしは君のとなりで、君の心に触れたいと思ったのだ。
「葉瀬は、もっと堂々としていればいいだろ。クラスメイトなんだから」
「……できないよ、そんなの」
「ったく、なんでだよ」
荒っぽい言動の裏、こんなに芸術センスに長けた素晴らしい写真を撮る。そういうところも、変わっている。言い方を変えると、不思議な人だと思う。
「みんな……気持ち悪いだけでしょ。わたしは葉瀬紬だけど本物の葉瀬紬じゃないの。ニセモノなの」
「なんだそれ」
「前のわたしはもういない。だから柴谷も、前のわたしを求めているんだったら諦めてほしい。今のわたしは柴谷の期待には応えられない」
わたしはもう、以前のわたしではない。昔の葉瀬紬は、残念ながらここにはいない。
閉じていた目をうっすらと開けて、柴谷は軽蔑するように眉を寄せた。それは怒っているようにも、呆れているようにも、あるいはバカにしているようにも思えた。
「お前、もしかして俺が彼氏だったとか思ってないよな。悪いけど、俺とお前はそんなんじゃない。勘違いすんな」
はっきりと釘を刺されて、言葉に詰まる。実際、ききたかったけどきけなかった内容はそれだった。
わたしは、柴谷と付き合っていたのか。そうでもなければ、彼がここまでわたしに執着する理由がないから。
「俺たちは付き合ってたわけじゃない。好き合ってたわけでもない。だからお前はゼロから始めればいい。俺は優しいから、ひとりぼっちで可哀想なお前のとなりにいてやるって言ってんだ」
「優しいって……自分で言うの?」
「ーー優しいんだってよ、俺」
だってよ、って。
まるで誰かから言われたみたいだ。その言葉が引っかかったけれど、口を開こうとする前に予鈴が鳴ったので、仕方なく教室に戻ることにした。
教室へと歩きだすわたしとは違って、美術準備室へと足を向ける柴谷。
「カメラ戻してくるから。お前先行っといて」
「そこの美術準備室でしょ。わたしもついていくよ」
「いい。先に戻っとけ」
ついていこうと踵を返したけれど、有無を言わせぬ圧に尻込みする。わかったな、と命令するように鋭い視線をぶつけた柴谷に、あわててうなずいた。柴谷は一変して、のんびりした歩調で美術準備室へと消えていった。
さっきまでは真剣に写真を撮っていたのに、今となってはゆっくりのんびり歩いている。気まぐれ、ってこういうことを言うのかもしれない。
柴谷の背中を追いたい衝動にかられたけれど、さっきの彼の目を思い出して踏みとどまった。
あの目に鋭く刺されたら最後、わたしは本当に死んでしまうような気がしたから。
*
「ねえ、柴谷」
「なに」
「柴谷はどうして写真を撮ってるの? 入学してからずっと訊きたかったんだよね」
「……その瞬間は二度とやってこないから忘れないように、とか」
「ふうん、そっか」
「お前、興味ねえだろ。真面目に答えたのがアホだった」
「あるよ。柴谷のことだもん。興味あるから聞いてるんだよ」
「どーだか」
「あ、その反応は信じてないね? ほらほら、そんなこといいからはやく写真撮りなよ」
「『そんなこと』って、やっぱり適当じゃねえか」
「……葉瀬は」
「え、あたし?」
「────お前はなんで描いてんの?」