「い、いやだーーーっ、こっちにくるなぁ~~っ!」
「坊ちゃん⁉︎」
使用人が正気に戻そうとするが、羅道は両手をじたばたさせて、目に見えないなにかと格闘するような素振りをみせた。
「う、うわああ! ぴ、ぴーまん……た、たべられるぅ」
そして、何かを怖れるように目を見開いて、ガクガクと震えたのちに倒れこんだ。
「⁉︎」
いったいなにが起きたのか、と息を呑む桜子に、京也は「まさか心配しているのか?」と首をかしげる。
「え、えと……」
「自分を傷つけたやつの心配なんて、することはないだろうに。……精神に働きかける術で、やつが怖がっているものを見せてやっただけだ。なにを見たのか知らないが」
ぴーまん、たべられると言っていた。
子どものころ、羅道は「ピーマンのお化けに食べられる悪夢をみた」と言って涙目で桜子に八つ当たりしていたことがあったが、まさか……。
「うしまる、薔薇を」
「承知ッ」
京也は桜子を抱きかかえて馬車に乗り、あやかし族の従者になにかを命じた。
うしまる、と呼ばれた従者は、鍛え上げられた肉体美をアピールするように身体を露出させ、股間には赤いふんどしを締めている。白い髪は前髪が長くて目が隠れていて、頭には朱色の角があった。
あやかし族の中でも力の強い『鬼』のように思えるが、『うしまる』という名前からすると『牛』なのだろうか?
「こちらは薔薇でございますッ、奥様ッ」
威勢よく言って、うしまるが薔薇の花束を持ってくる。
「えっ? お、お、おく?」
それは私に言っていますか? と問うより先に、目の前で京也が花束を受け取り、「俺の気持ちだ」と桜子に渡してくる。
朱色の振袖や西洋ドレスのように乙女心をくすぐる、深紅の花びらの薔薇。
見ているだけで心が清められるような心地のする、初々しいつぼみの白い薔薇。
珍しい青薔薇まである。
大輪の薔薇に目を奪われてお礼を言おうとすると、「次の薔薇でございますッ」「俺の気持ちは花束ひとつで収まらないので」とまた渡される。
今度は膝に置かれて、反応するより早く「そしてこちらも薔薇でございますッ、薔薇のフルコースですッ」「まだまだあるぞ」と新しい花束が降ってくる。
花束は、大量だった。
途中からはうしまるも面倒になったのか、無言で馬車の隙間を埋めるようにせっせと置いていく。そして、馬車の扉が閉められたとき、桜子は薔薇でいっぱいの空間に埋もれるようにして京也に抱っこされていた。
「え、なんです? なんですか? え、薔薇のフルコース……?」
「そうだ。聞くのを忘れていた。薔薇は好きかい? 好みを確認するのを失念していた」
照れたように頬を染め、京也が微笑む。
それが妙に初々しくて、まるで初恋にはしゃぐ少年のよう。
(この方は、怖い人ではない……みたい)
桜子はそんな感覚を肌で感じつつ、「好きですが……」と返事をした。すると、京也はパアアッと光輝くような笑顔を咲かせた。
「うしまる、きいたか! 彼女、俺のことが好きだと言った!」
「えっ⁉︎ ば、薔薇が好きだと申し上げたのですが……っ⁉︎」
びっくりして、反射の速度で声をあげてしまう。
こんな衝動的に誰かに「ちがいますよ⁉︎」と言ってしまうのは、初めてだった。
「勘違いすまないっ、しかし、俺はきみが好きだ! ははっ、きみと一緒にいると、それだけで幸せになってしまう。はしゃぎすぎていたらすまないね、……少し落ち着こう。うしまる、皇宮に帰るぞ」
「ハハッ、どう見てもはしゃぎすぎていますぞ、殿下ッ!」
うしまるが率直な感想を言い、馬車を出発させる。
皇宮と聞こえた? ――桜子は自分の耳を疑った。
幽世皇宮とも呼ばれるそこは、帝都でもっとも高貴な方々が住む場所だ。
(あと、この京也様には、見覚えが……あるような、ないような)
先ほど、京也は「普段通っている甘味処の店員さん」と言っていた。
桜子は思い当たるお客さまと目の前の美青年を脳内で比べた。正直、「ほんとうに?」という思いがあるが。名前もそういえば、『春告』と呼ばれていたのだ。
「あ、あのう。春告さん……さま……、でしょうか? 『にゃんこ甘味店』のお客さまで、『ごーすとらいたー』を書かれているお兄さま……ですか?」
思い当たるお客さまのお名前と特徴を言えば、京也は首を縦にした。
「いかにも、俺である。俺の存在を認知してくれていたとは、感無量だ。ちなみに、俺もきみの名前を知っている。お店や他のお客さんもよく噂していた……桜子さんというのだ。そうだろう」
「あっ、はい」
「ただ、『ゴーストライターを書く』という表現は不適切である。ゴーストライターとは代筆者のことを差す単語であるからして、この場合は『ゴーストライターをなさっているお兄さま』となるであろうか」
(ご本人だった!)
と驚きつつ、桜子は自分の知識の偏りを自覚した。
学校で習うことや、妖狐族である雨水家一家が話すこと、雇われ先の職場で見聞きすること――桜子の知識は、そういった環境によって形成されている。
聞いたことがあって知ったようなつもりになっているけれど、正確には理解していないような言葉や概念も、いっぱいあるのだった。
「活用してみたまえ」
「は、はい。春告のお兄さまは、ゴーストライターをなさっている方なのですね」
「正しい! 桜子さんは天才だ!」
「えっ、ええ……?」
京也の笑顔が、まぶしい。
『ゴーストライターをなさっているお兄さま』のちょっと不審な格好は、思えば、この目立つ美貌を隠していたのだろう。
「春告のお兄さま。こ、こここ、このたびは……助けていただき? お、お買い上げくださり……? ありがとうござい……ます?」
桜子はお礼を告げた。
すると、京也は困ったような表情になった。
「俺に人を買う趣味はないので、人聞きの悪いことは言わないでほしい」
「で、ででですが」
思い切り、誰がどう見ても、買っていたじゃないですか――桜子の目から、思いがあふれた。
その瞳を見つめて、京也は笑みを浮かべる。
「きれいな瞳だね。どんな宝石よりも素晴らしい。この瞳が俺を見ているという奇跡に感謝したい。今夜はよい夜だ」
まつげを伏せて、幸せをかみしめるように言う様子は真剣だ。ふざけている様子がない。
「……き、きれいなのは、あなたです」
桜子は異性とのお付き合いの経験がない。
急にありえないくらいの美形に急接近されて、歯の浮くような甘ったるいセリフを美声でささやかれるのは、刺激が強すぎた。
「嫁に貰うので金を払う。それでどうだろうか」
意見をうかがうように、返事を待たれる。桜子は遠慮がちに意見を返してみた。
「す、すみません……ええと、金を払う、ですと……結局買っていらっしゃるような……けっこん……?」
「結納金と考えてはいかがだろうか?」
結納金とは、新郎側から新婦側へ贈られる金銭のことだ。
とりあえず、相手は結婚する気満々である。なぜ? ――桜子は現実を疑った。