十六歳の誕生日に、桜子(さくらこ)は売られる。
 
 車窓から見える人工の明かりで照らされた帝都の街景色が、どんどん後ろに流れていく。
 花街に向かう車の中で、人身売買の商品になる予定の桜子は羅道の宿題をしていた。読書感想文だ。
 
 本のタイトルは、『おお、大帝都にあやかしの旗は燃えて』。
 最近、文学賞を受賞した人気女流作家、二世乃(にせの)咲花(さっか)の作品だ。
 読んでいるページでは、それまで義理の妹の影のようになって虐げられていた華族令嬢が主人公の妖狐に救われる場面が描かれている。
 
「よくもまあ、そんな本が人気だとは。人間の感性は理解に苦しむよ。人間はこれのどこがいいと思うんだ?」
 
 呆れたように言う羅道に、桜子は説明した。
 
「羅道坊ちゃん。すみません……説明しますと、このご本は主人公が魅力的で人気なのです。現在の帝都と似ている世界を舞台にしていて、あやかし族が上流支配階級なのですが、主人公は……」
 
 語り始めた顔の近くに狐火がポッと出て、脅すようにぼぼぼっと揺らされる――桜子は「ひぁっ」と喉をひきつらせた。
 
「勝手に口を開くな! どうせその本の主人公も人間だろ」

 花火の音が遠くなり、代わりに、ぽつりぽつりと車の窓に雨滴が伝い始める。
 ぽたりと付着した雨滴がつつー、と下に垂れていくさまは、窓が泣いているみたいだった。
 
「どうだ言ってみろ。人間だろう」
「も、申し訳ありません、羅道坊ちゃん。ですが、主人公は妖狐の将校さんです」
「ふーん。妖狐が主人公なのは褒めてやろう。僕も将来は将校になろうかな」

  羅道の言葉を聞いて、桜子は続きを述べるのをやめた。
  なにせ、この本は主人公の妖狐が人間と恋に落ちる話なのだから。聞けばきっと、彼はまた怒り狂うだろう。

 車が停まったのは、ちょうどそのタイミングだった。

「ちっ、もう着いたのか」
「あ……」
 
 そこはもう目的地――色彩豊かな提灯が風に揺れ、和傘や洋傘をさした人々で賑わう細い路地に、格子の窓が美しく並ぶ花街だった。
 
 酒の香りをふわふわと漂わせる通行人が「なにごとか」と視線を注ぐ中、使用人が洋傘をパッと差す。羅道は桜子を外に突き出すようにして車の外に出た。
 
 きつねの尻尾を揺らす羅道を見て、周囲からは「あやかし族のお坊ちゃまだ」という声がいくつも(こぼ)れる。
 
 羅道は、スポットライトを浴びているかのように、目立つ存在感を放っていた。
 
 街灯に照らされる頭にはピンと立ったきつね耳があり、尻のあたりではきつねの尻尾が揺れている。
 誰がみても、あやかし族の妖狐。現代帝都の支配階級のお坊ちゃんだ。
 
 対する桜子はというと、貧相な人間だ。体格はもともと華奢な骨格だったのが、栄養不十分と過労で痛々しいほどに痩せている。
 黒髪は不ぞろいで、乱れた髪が頬に張り付いている――桜子は恥じらった。
  
「桜子。父様と母様にはお前を売ってこいと言われてるけど、お前の態度しだいでは僕が小遣いから今月の生活費払ってやってもいいんだぜ。利子付きの、貸しだけどな」

 羅道は意地悪な笑みを浮かべた。 

「そうだ。この場で『桜子は、羅道坊ちゃんの奴隷以下の飼育動物です。死んでしまった両親は無能だったので、桜子も無能に育ってしまいました』って言ってみろ」

 羅道の狐火がいくつも浮かび桜子を囲み照らす。
 ざわざわと周囲の視線が集まるのを感じる。
 
 ――遊びをご所望なのだ。
 桜子は察した。
 ――満足させられたら、助けてやると仰せなのだ。

 長い年月をこの少年と過ごし、言いなりになることに慣れた桜子は慣れていた。でも。

「さ、桜子は……羅道坊ちゃんに……」

 雨に濡れた石畳の地面に膝をついて、ふと言葉を止める。
 
 膝をついた瞬間の地面の硬さと冷たさに。
 周囲から聞こえた「うわぁ」という声に。
 ――雨水家での日々が、脳裏をよぎった。
 
 ここで言いなりになって得られるのは、今日までと変わらない、どころか、日を追うごとに待遇が悪くなる『雨水家での未来』。
 
(それなのに、私は従うの? 大好きなお父さまとお母さまを(おとし)める言葉を口にするの?)

 それはおかしい。そんなのはダメだ。そう、自分の中のなにかが叫ぶのだ。
 けれど、身についた習性みたいなものが、惰性のようなものが、『逆らうより従う方が楽じゃない?』とささやくのだ。
 
(ああ、いっそ、いっそ……売られたほうが。もっと言うなら、死んでしまったほうが、ましなのでは?) 

 そんな迷いを感じたのか、羅道は脅すような声になった。
 
「どうした? 早く従えよ――キヨがどうなってもいいのか? お前を甘やかしてる店だって、僕が潰そうと思えば簡単に潰せるんだぜ?」
 
 びくり、と桜子の肩が揺れる。
 自分が言うことを聞かないと、キヨや中田夫妻が大変な目に遭ってしまう。
 ありがたいとか、ましとか、そんな話ではなかった。桜子は従わないといけないのだ。

(せめて、自分のせいで誰かが傷つくのは防ぎたい……私が我慢して、それが防げるのなら)
  
「し、従います」
 
(ごめんなさい。お父さま、お母さま……)

 じわり、と目頭が熱を帯びる。
 桜子の目に透明な涙がにじんで、こらえきれなくなる――まさにそのとき。大きな声が響いた。

 張りがあって、存在感のある、年上の青年の声だ。

「待ちたまえ!」

「は?」
「え……」
 
 視界の至るところで、ふわりほわりとした蒼白い炎が咲く。
 大きさは、人の頭くらい。
 虚空に浮いてゆらゆら揺らめく炎に、人間たちはどよめいた。

「あやかしの炎だ」

 あやかし族は、人間には使えない術をつかう者が多い。その中でも有名なのが、炎を生み出す術だった。
 無数の視線が妖狐である羅道に注がれる。が、羅道は「僕じゃない」と首を振って否定した。

 そんな現場に、青年の声が朗々と響く。
 道行く者が足を止めて聞きほれてしまうような美声だ。
 
「うら若き乙女を売りさばく! まったく優雅ではなく、上品でもなく、文明的でもなく、モラルもない。だというのに、アア! 道を往く帝都の民は誰ひとり彼女を助けないのである。なぜか? ――長いものに巻かれよ、身分が上の者に逆らうな。そんな保身があるからだ……」

 まるで、演劇。
 そんな芝居でもするような声の方向をみてみれば、桐紋入りの上質な紫紺の着物の上に漆黒のインバネスコートをまとった青年が立っていた。
 
 なんて、美しさ。
 桜子も、通行人も、目を大きく見開いてその青年に見惚れた。青年は、この世の生き物と思えぬほどの完璧な美貌を持っていた。
 
 従者が青海波(せいがいは)柄の和傘を差している。見るからに特別で、高貴な青年だ。
 そんな高貴な青年は、堂々と口上を響かせた。

「ああ無常! この世には絶望しかないのであろうか? ――(いな)! ここに愛をもって彼女を救おうとする男がいる。この超イケメンな俺である。おお、この愛情の前では争いすら逃げていくであろう!」

 その言葉は、やはり演劇のようで、まるで正義の味方のよう。
 桜子は状況を忘れてぽかんとした。