幼い桜子には、宵史郎が良い人に見えた。

 だって、きつねの尻尾はふかふかで、あったかい。
 いい子だね、かわいそうに、と桜子の背中を撫でる手は、やさしい。
 
 桜子なんかいらない、迷惑だ、と大声で言って押し付け合う親族より安心できて、頼りにできて、味方だと思わせてくれる。
 
「ねえ、桜子ちゃん。これ、おじさんが持っていてもいいかなぁ……?」

 その形見は、丸くて小さな鏡だった。
 
 桜子の父はこの鏡を『遠見(とおみ)の鏡』と呼んでいて、幼い桜子を抱っこして、よく御伽噺(おとぎばなし)をきかせてくれた。
 お話をきかせながら、お父さまは鏡にふしぎな光景を映し出すことが多かった。
 
『桜子、これは特別な鏡なんだ。ふしぎだねえ、たのしいねえ』
 と、そう言って。
  
 海が舞台の話をしながら雄大な海を映し、花畑が舞台であればカラフルな花の咲き誇る花畑を見せる。
 空に浮かぶ雲の上、遠い海の向こうの知らない国の町、土の中……父の声に導かれて、桜子はたくさんの未知の風景に触れた。

『すごい、すごいわ、お父さま。あっ、いま、男の子がみえたの。お父さまもみえた?』
『ははは、お父さまは見えなかった』 

 母が「またやってる」と笑いながら並んで鏡をのぞきこむまでが、いつものこと。
 両親はやさしくて、桜子はふたりが大好きだった。
 
 でも、ふたりとも桜子を置いて亡くなってしまった……。

「ねえ、桜子ちゃん。だめかなぁ……?」
 
 宵史郎が猫なで声で問いかける。両親がいなくなって、みんなに「いらない」と拒絶された桜子のそばには、宵史郎だけがいた。
 
 宵史郎の目には執着が浮かんでいて、声には「欲しいのだ、どうしても譲ってほしいのだ」と訴える切なる響きがあった。
 
 桜子は思った。
(親戚の誰もに拒絶された私を引き取ってくれるのだし、お父さまのお友だちなのだもの。いいじゃない)

「はい、雨水のおじさま」
「ワア、ありがとう。それじゃあ桜子ちゃん。ちょっとお願いしたいんだけど、きみのお父さんが鏡の持ち主を桜子ちゃんだと決めているので、私が所有者になるにはきみの許可がいるんだよね」
「そうなの……?」
「そうなんだ。なので、すまないが……おじさんが言う言葉を、あとから繰り返してみてくれるかな」
 
 宵史郎はきつねの尻尾をふわふわっと揺らしながら、桜子を撫でた。桜子は、動物が好きだ。尻尾はとても魅力的に感じられて、触ってみたくてたまらなくなった。
 
「桜子ちゃん。できるかな?」
「はあい」
「桜子ちゃんは素直ないい子だね」
 
(このおじさまに嫌われたら、ほんとうに世界中にひとりも味方がいなくなってしまう)
 
 そう思っていた桜子は、褒めてもらえてよかった、と安堵しながら宵史郎の言うとおりに言葉を繰り返した。

「さくらこは、かがみを、うすいよいしろうさまに、あげます」
「さくらこは、かがみを、うすいよいしろうさまに、あげます」
 
 その言葉のあと、鏡が一瞬ピカッと光ったのを覚えている。

「ありがとう桜子ちゃん……いや、桜子」
「おじさま……?」
 
 鏡を自分のものにした宵史郎の顔からは、笑顔が消えた。
 声は別人のように低く、よそよそしく、冷たくなった。
 眼差しは恐ろしくて、桜子は「ひっ」と喉を引き攣らせた。
 
「いいか桜子。引き取ると言った手前、世間体もあることだし、お前を我が家に置いてやろう。だが、家族扱いされるなどと思い上がるなよ。お前にかかる生活費と学費は全て貸しとする。全額働いて返すのだ」

 ――そして、地獄のような日々が始まった。
 
 
 * * *
 
 
「きみ、五歳だったのだろう? そんな年齢で、……働いたのか?」
 
 話を聞いた京也は驚いたように言った。
 
「はい……その年齢でできることを、がんばりました。羅道(らどう)坊ちゃんが同じ年齢でしたので、遊び相手を務めることが多く……」
「いじめられていた?」
「……はい」
「そして、成長したきみを売り飛ばそうとした……」
「は、はい。恥ずかしながら、そんな経緯でした。正確に申しますと、羅道坊ちゃんは助けてくださるおつもりだったと思うのです。売るぞと脅していらっしゃいましたが、私が言いなりになれば助けてくださるおつもりで……」
 
 京也の手が、桜子をいたわるように頭を撫でる。
 
「つらかっただろう」

「は……」
 
 花街で助けてくれたときにも言われた言葉だ。
 
 思えば、今まで、自分の境遇を誰かに聞いてもらったことも、つらさをわかってもらったこともなかった。
 
 桜子の瞳に、透明な涙がじわりとあふれた。

『こいつ、すぐ泣きやがる! 弱っちい生き物だな。身体も弱いし、心も弱い! いいところがなんにもない』
 
 ――雨水家で、過去に何度も浴びせられた羅道の声がよみがえる。
 
『ただでさえ醜いのに、泣き顔は見るにたえないな。おい、泣いたら現実が変わると思っているのかよ、甘えるな』

 我慢しないといけない。
 堪えないといけない。
 
 でも、優しい京也の手がよしよしと髪を撫でてくれて、ほろりと一滴、涙がこぼれる。すると、それで(せき)が切れたように想いがあふれて、涙が次々とあふれてしまう。

「嫌なことを話させてしまって、すまなかった」
 
 京也はそう言って桜子のそばに寄り、背中に手をまわして抱き寄せた。

 優しい声が、ゆっくりと耳もとで言う。

「いいか、桜子さんは今まで劣悪な家庭環境だったようだが、我ら天狗の一族が統治するこの帝国では、未成年者は大切にされるべき存在だ。大人たちに守られて、すこやかに成長する時期なんだ」

 すらすらと湧き出るように贈られる言葉は、学校の先生よりも、先生っぽさがあった。
 どうしてだろう? ――自信があるからだ。自分が正しい、導く方向はこちらで間違いない、と確信している声だからだ。
 桜子は、そう感じた。

「あの雨水家のようなあやかし族が野放しになっているのは、大問題だ。俺は皇族として、きみに詫びる。そして、今からはきみを全力で守り、過去につらかったのが帳消しになってお釣りがくるくらい、幸せにしたい」

 ――自分の人生は、変わるのだ。世の中に、救いはあるのだ。

 そんな奇跡のような予感が、胸に芽生える。

「桜子さんは学校があるのだったか。明日は休むのがいいと思う。通いたければ通えばいいし、辞めてもいい。落ち着いてから今後のことを考えよう。きみの意思を尊重するから――」
 
 桜子は父親に抱っこされていたときを思い出しながら子どものように泣いた。そして、泣き疲れて眠りに落ちたのだった。