「美緒ちゃんっ!?」
「……え?」

 焦るような声で男の人が彼女の名前を呼んだ。この人も自分の事を知っているの? 彼女が戸惑っていると、彼は取り繕うように喉を鳴らした。

「いらっしゃい、鈴奈ちゃん、美緒ちゃん」
「こんにちは! 今日はよろしくお願いします」

 鈴奈が再び車椅子を押してくれようとするが、その男性に変わった。

「……あの、私の事、知っているんですか?」
「やあ、まぁ……」
「美緒ちゃん、ここで髪切ったことがあるんだよー。私、初めて美緒ちゃん見たのここだもん」

 鈴奈が嬉しそうにクルクル回って、近くにある椅子に座った。

「美容師の竹田雅弘です。竹の田んぼで、竹田。鈴奈ちゃんの言った通り、去年の夏ごろかな? 美緒ちゃんの髪も切ったことがあります。由梨さんともたまに話したりすることがあるよ」

 また、以前の【美緒】の事を知っている人が増えた。足元からサッと体が冷たくなっていく。竹田と名乗った美容師は鈴奈のウィッグが入った箱を取り出した。黒髪のミディアムヘア。それを見て、鈴奈は「うーん」と首を傾げながら唸った。

「やっぱり美緒ちゃんみたいなロングヘアが良かったなぁ」
「絡まっちゃうし手入れも大変だよ?」
「うん、お母さんにも言われた。自分の髪が伸びるまで我慢かぁ」

 彼女が不思議そうな顔をしていることに鏡越しに気づいた鈴奈が振り返る。

「美緒ちゃん、髪長かったんだよ」

 まるで信じられないと言うように彼女の唇が薄く開く。二人が少し笑う声が聞こえてきた。彼女が被っているニット帽の中は、あまり直視したくない状態だった。気づいたらそうなっていたせいか、そんな自分の、過去の【美緒】の髪型なんて今まで考えたこともなかった。
 鈴奈は顔を伏せながらニット帽を脱ぎ、竹田さんは素早くその頭にウィッグを被せた。鏡に映るのはミディアムボブヘアの鈴奈。帽子で判別していた彼女の目から見ると、その姿は今までとは全く別人みたいに見えた。

「被せた感じはどう? サイズとかは問題ない」
「ちょっとチクチクする」
「そっか、アンダーキャップ付けてないもんね。それがあれば和らぐと思うんだけど。あとは慣れるしかないかな」

 鈴奈は頭を振るように、髪をなびかせていた。鏡に映る自分自身の姿を気に入ったみたいで、とても楽しそうに見えた。

「美緒ちゃん、どうかな? 似合う?」
「う、うん。もちろん、よく似合うよ」

 彼女のとても曖昧に笑った。その姿に、以前の【美緒】を重ねようとする。けれど、それは出来なかった。顔も、どんな性格だったのかも覚えていない。
 目を覚ましてから、いろんな人に出会った。姉の由梨、友人だったという二人、鈴奈、美容師の竹田さん。でも、彼女は誰一人として覚えていない。誰かと出会うたびに、いつも同じことを考えてしまう――あのまま、目覚めなければ良かったのに、と。彼女が顔を伏せて、表情を曇らせたことに鈴奈はすぐに気づいた。まるで不満を貯めるように、鈴奈はぐっと唇を曲げる。彼女の様子が以前と違うのも、弱弱しく見えるのも、全部病気のせい。それは十分に分かっている。けれど、やっぱり……今の彼女の姿は、鈴奈の中に残っていた【美緒】と全く違う。それに苛立ってしまい、鈴奈は勢いよく立ち上がっていた。

「美緒ちゃんが言ってたんじゃん! 病気に負けたくないって! だから、私だって頑張ってきたのに!」

 その大きな声に驚いて、彼女は頭をあげていた。鈴奈の小さく細い体が、怒りで小刻みに揺れている。

「こんなの、美緒ちゃんらしくない!」
「ちょ、ちょっと鈴奈ちゃん、美緒ちゃんだって頑張ってるんだから……」

 美容師の雅弘が小さな声で鈴奈を諫める。けれど、鈴奈は止まらない。足元にはぼたぼたと透明な水滴が落ちていく。

「美緒ちゃんは絶対に病気に勝てる人だと思ってたのに! 彼氏と文通しているの見てて、羨ましかったし、病気になっても好きな人ができるんだって、憧れてたのに……こんな美緒ちゃん、見たくない!」

 わんわんと声をあげて泣き出す鈴奈、彼女をあやしながら美緒にも気を配る雅弘。まるで彼女だけはこの世界から隔絶されたみたいに、目の前で起きた出来事がまるで自分の事と思えなくて呆然としたままだった。
 やがて鈴奈の母親がやって来て、泣きじゃくる鈴奈を連れて行ってしまった。雅弘が病棟の看護師を呼んでくれて、彼女もそのまま病室に戻っていく。病室には、まだ明るい時間なのに由梨がもう来ていた。

「今日、リハビリの日だったっけ?」
「いいえ、あの……鈴奈ちゃんと一緒に美容室に行ってて」
「あぁ、あの明るい子ね」

 洗濯物を慣れた手付きで交換していく由梨の手元を見ながら、彼女は少しためらいながらこう尋ねる。

「私って……記憶がなくなる前はどんな感じでした?」

 由梨が息を飲むのが聞こえてきた。そういえば、目を覚ましてから聞いたことがなかったなと彼女は思い出す。

「普通の子だったよ。友達がいて、それなりに勉強をして……まだ将来の進路は定まっていなかったけれど」
「……彼氏、とかは?」

 鈴奈が言い放ったその一言が心の中に引っかかる様な感覚があった。彼女の言葉に由梨は首を傾げる、何か考えているみたいだった。

「仲のいい男の子――幼馴染だったんだけど――はいたけれど、まだ付き合うまではいってなかったかな。どうしたの、急に」
「あの、いや……何でもない、です」