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 けたたましいアラームに意識が覚醒する。手探りで探し出したスマホに目を向けると、時刻は九時を表示しており、一瞬寝坊かと背中の毛が逆立つが、次の瞬間には日曜日だと思い出し、ため息を吐く。
 普段であるなら、日曜日はもっと寝ていたいのだ。ただ、今日はどうしてもこの時間に起きて、やらねばならないことがある。
 寝ぼけ眼を擦りながら、幸田と愛衣にそれぞれ同じ文面で『用事ができた。友達を代わりに行かせるからそいつと行ってくれ』とメッセージを送る。
 愛衣から速攻で返信が帰ってくるが、それに目を通すことなく、スマホを放り投げてもう一度布団をかぶる。しかし、目が冴えてしまい、どうにも二度寝などできそうにない。

「何やってんだ僕……」

 この心に霧がかるモヤモヤしたものは、一体何が原因なんだろうか。約束を破ったから? 赤い糸で繋がってない人同士をくっつけようとしたから? 
 なんだか布団に潜り込んでいる気にもなれず、カーテンを開けて部屋を出る。相変わらず、不気味なほど静かな家だ。張りつめたような空気が常に漂っている。いつも住んでいる場所にも関わらず息がつまった。
 リビングに降りると、無言で家事をしている母親と無言で新聞を読む父親が、無意識にか互いに背を向けている。

「実笠、早いじゃないおはよう」

「ちょっと、起きちゃってね」

 いつも通り、母親とは朝は一言で終わる。僕も母親も最低限だけ会話を重ねて、終了だ。
 テーブルに出された朝食に手をつける間、誰一人として言葉を発さない。もちろん、僕も。
 珍しく晴れた陽気にも関わらず、冷たい空気が流れる。
 心に溜まった靄と家に流れる嫌な空気がまとわりつく感じがして、僕はシャワーを頭からかぶった。すると、いくらかマシになったので、自室で本でも読んで過ごそうと考えていた矢先、リビングから父親の怒鳴り声が聞こえて来た。

「……はぁ」

 ため息を吐くと幸せが逃げると言うが、僕に言わせてみれば、幸せじゃないからため息が出るのだ。逃げるも何も、元から幸せならため息なんてつかないんだから。
 両親の口喧嘩はいつも通り激化し、僕の居場所はなくなった。


 家にいるのが億劫になり、外へ出て来たはいいが、一人で行きたい場所など特になく気がつけば駅前の時計台に足を運んでいた。見上げると時刻は十時半を指しており、二人の姿は見えなかった。
 安心したような、できればどちらかが待っていて欲しかったような、どっちつかずの気分だ。

 僕は何がしたいんだろうか。背中を押したと思えば、僕が思い描くシナリオにならないでほしいと思っている自分がいる。

「ま、考えても仕方ないか……」

 もう二人で映画を見に行っただろうし、あとはなるようになるだろう。
 立ち上がり、時間を潰す場所を考える。
 なんとなく、今は話がしたい気分だ。
 邪よこしまにも近い気持ちで、駅の裏手に向けて歩を進めた。日曜だと言うのに閑散とした通りに存在する喫茶店のドアを緊張しながら開ける。カランコロンという木板を叩くような音と共に、香ばしくも苦い香りが鼻腔奥深くを刺激した。

「いらっしゃい。おや、君は確か……」

 背を曲げて椅子に座っていた老人が腰をあげ、店の奥に目を向けた。つられて視線を向けると、店の奥角の席に彼女がいた。長い睫毛を下方向へ向け、手元の本の世界へと入り込んでいるようだ。乱れひとつない長い黒髪に人形のような整った顔立ちは、アンティーク調の店内にぴったり染まっていて、まるでこの空間が彼女のためにあるようにさえ思えてくる。

「琴音ちゃん。お友達が来たよ」

 マスターの声に彼女が顔をあげる。彼女は少し驚いたような顔をしたが、口元に小さな笑みを浮かべ、本を閉じた。それが同席を許す合図だと判断し、僕は彼女の向かい席に座った。

「こんにちわ」

「こんにちわ、桜坂さん。邪魔しちゃったかな」

「そんなことないわ。暇な休日の時間を潰すために来てるだけだもの」

「僕も同じかな。考え事してたら、ここにたどり着いた」

 彼女が僕の顔色を伺うようにまじまじと見つめてくる。そこまでまじまじと見つめられると、そういうことに疎い僕でも流石に照れてしまう。

「何かあったの?」

「いや、わざわざ休日に話すようなことでもないよ。あんま面白くないし」

「そんなことないわ。篠原くんと話すのは楽しいもの。ぜひ、聞かせてもらいたいのだけれど」

 彼女の微笑みがやけに眩しく感じ、思わず視線をそらした。

「じゃあ、少しだけ聞いてもらおうかな」

 最近、何かあると彼女に話したくなる自分の弱さに目を背けて、心の中にあるモヤモヤした感情について語った。
 こうして、僕がこの喫茶店に来た目的が果たされたのである。


「面白くないわ」

 僕の話を聞いてからの彼女の第一声が、これである。テーブルに頬杖をついて、わざとらしく外まで見る始末である。

「だから言ったでしょ。面白くないよって」

「そうじゃなくて、篠原くんの行動が面白くないのよ」

「ちょっと意味がわからないんだけど」

「だから、二人で行かせてはい終わり、じゃつまらないでしょ? 普通、そこは尾行するものよ」

 不意に彼女がこちらに向き直る。普段はしないような無邪気な笑顔に、不覚にも少しだけ胸が跳ねた。

「僕のもやもやってそうじゃないんだけど」

「そんなにお門違いな話ってわけでもないじゃない。だって、後を尾ければいつまでも悩む必要もなく結果が分るじゃない」

「それは……そうだけど。バレたら愛衣に殺されると思うんだよなぁ」

 彼女は返事をするでもなく、両手を逆手に組んで大きく伸びをする。白いワンピースの胸元が盛り上がり、身体のラインが浮かび上がる。無意識に見てしまったことに罪悪感を覚え、慌てて目線を外す。

「篠原くんも男ってことね」

「なんのこと?」

「こら、女子はそういう視線に意外と敏感なのよ」

「……申し訳ございませんでした」

「なんちゃってね。男の人はそういうものだって分かってるから、全然気にしてないけどね」

 甘いはずのコーヒーが少し苦く感じた。全ての男性に後ろめたさを感じるが、彼女の言う通り男性とはそういう性別なのだ。

「よし、それじゃ行きましょうか」

 そそくさと本をカバンにしまい、立ち上がる彼女。

「どこに?」

「どこにって、決まっているじゃない。映画館よ」


 映画館は駅の真横に立つ大きなビルの中に入っている。僕たちのいたカフェからは歩いて数分だ。
 ビルの中は日曜日ということもあり、混み合っているため、誰かを後ろから尾けてもそう簡単にはバレないだろう。

「ここ、久しぶりに来たわ」

「僕も。一人じゃ、なかなか来ないよね」

「映画が終わるのは何時頃なの?」

「えーと、たしか愛衣が観たがっていたのであれば、あと四十分くらいかな」

 幸田のことだ。一緒に観るとなれば、きっと相手の観たいものを優先するだろう。

「じゃあ、それまでどこかで時間潰しましょう」

「四十分もあるんだから、もう少しさっきのところにいて良くなかった?」

「あら、篠原くんは私とのデートは嫌だって言うのかしら」

「まさか、光栄だね」

「そんな冗談は置いておいて、クレープが食べたかったの」

 三、四階にある映画館まで行かず、二階でエレベーターを降りる。フードコートや衣服店が増えたせいか、人がさらに多くなり、正直尾行という目的がなければ今すぐに外に出たい気分だ。

「先に本屋に寄っていいかしら。クレープ持ってなんて入れないし」

 そう言いながらすでに足先が本屋に向かっている彼女の後を追いかけるようについて行く。別に本は嫌いじゃないし、時間もまだあるので大丈夫だろう。

「この作者の本、面白いから今度貸してあげるわ」

 彼女が指差す先にあったのは五百ページ以上ありそうな厚い本で、軽くめまいがした。

「なんか頭痛くなりそう」

「ちゃんと読みやすい本も出してるから、そっち貸してあげるわ」

「そう? じゃあ、読んでみようかな」

「ちゃんと読んだかどうか、感想は聞くわよ」

 そんななんでもない話をしながら、店内をぐるりと回る。本の話をしている時の彼女はとても楽しそうで、抑えられない好奇心のままにたくさん喋る彼女はとても輝いて見えた。
 結局、彼女は一冊本を買い、ついて行った僕はなぜか彼女が面白そうとつぶやいていた二冊を手に取っていた。
 本屋を後にして、クレープ屋の列に並ぶ。田舎の街だと言うのに、駅前はやたらと人が多いから、必然とクレープを買う時ですら、待ち時間を要する。

「それにしても、桜坂と一緒にいるとやたらと視線感じるんだよね。なんか落ち着かない」

「そうかしら?」

 彼女はチラチラと左右を見渡し、最後に僕の顔を見上げて首をかしげる。

「普段から目立たないように意識しているつもりなんだけど。あっ、もしかして服装変だったりする?」

 やっぱり、目立たないように心がけていたのか。
 それでも知らず知らずのうちに目を惹かれていることに気づいていないのは、彼女らしいといえばらしいけれど。

「そんなことないよ。よく似合ってる。が、ゆえにってこと」

「それゆえってこと?」

「そういうこと。光が影になろうと努力しても明るすぎて無理でしょ? もっと大きな光があるなら別だけどね」

 彼女がじっと何かを疑うような目で僕を見る。そうなると、今度は僕が首をかしげる番だ。

「篠原くんって、たまに奥歯が痛くなるようなセリフを吐くわよね」

「思ったことをそのまま口に出しているだけだよ。嘘つくの苦手だし」

 並ぶこと数分、ようやく店員の顔を見ることができた。彼女は注文を聞かれると、真っ先にチョコバナナを選ぶ。同じものにしようと思っていたのだけれど、二人して同じものを注文するのもおかしい気がして、僕はとっさに目についたきなこみかん味にした。

「きな粉にみかんって美味しいの?」

「うーん、どうだろう。いや、正直あんま美味しくない」

 きな粉のパサパサ感とみかんのみずみずしさがなんともミスマッチで、口の中がごちゃごちゃだ。

「どんな味なの?」

「言葉じゃ伝えられないような、形容しがたい味だね」

「ふーん……」

 彼女は訝しげに僕のクレープをじっと見つめている。

「一口食べる?」

 彼女はうーんと唸る。

「じゃあ、一口いただ――」
「あれ? 実笠?」

 突然、名前を呼ばれ、僕と彼女は同時に身体を固めた。思わず、彼女と顔を見合わせてしまう。
 恐る恐る振り向く。そこには手をひらひらと振っている幸田と、その横――といっても人が二人くらい入れそうなほど空けて口角をひくつかせている愛衣の姿があった。

「や、やあ。偶然だね」

 やたらと早歩きで幸田を置き去りにして近づいてくる愛衣。

「偶然じゃないでしょ! 実笠ぁ!」

 幸田に聞こえないほどの小さな声で怒りをあらわにする愛衣だが、幸田がいるせいか、どこか嬉しそうで、半分は照れ隠しのための態度なんだろうなと、希望的な観測を持っておくことにしよう。

「映画は面白かった?」

「そういう話じゃなくてね」

「おー! 映画な、面白かったぜ。普段、映画なんて見ないんだけど、俺真剣に見すぎてエンドロールまでじっと見てたわ。な、佐野倉」

「あ、えっと……そうだね、面白かった、です」

 急にしおらしくなる愛衣。きっと、今日はずっとこんな感じなんだろう。

「それにしても、用事ってぼかすから何かと思えば、桜坂とデートかよ。水臭いぞ、実笠」

「いや、えっと」

「篠原くんとはたまたま出会ったの。それで、私が勝手に引っ張り回してるだけよ」

 突然、割り込んで来た桜坂に幸田は一瞬、キョトンとした表情を浮かべたが、すぐにニッと笑う。

「おー、そうだったのか。でも、意外だな。桜坂、大人しそうな印象だったから、外でクレープ食べるとかじゃなくて、家で本とか読んでそうなイメージだったわ」

 当たらずも、遠からずだ。

「甘いもの好きなの。でも、一人じゃ並びづらいから篠原くんに一緒に並んでもらったのよ」

「なるほど、確かにあれは一人だと浮くな。いや、でもなんか無性に食いたくなって来たな。佐野倉、クレープいる?」

「あ、えっと、私は大丈夫」

「そっか、じゃ、ちょっと並んでくるわ」

 そう言い残し、幸田はカップルと女性しか並んでいない中に一人で並びに行ってしまった。食い意地が張っているのか、度胸があるのか、どっちなのだろうか。どっちも正解な気がするけど。
 幸田の姿が小さくなると、愛衣が一気に息を吐き出した。

「はぁ〜、疲れた」

「でも、楽しいだろ?」

 愛衣は赤らめた頬で睨みつけてくるが、やっぱり必死ににやけを抑えようとしているのが分かってしまう。

「まあ、それは当たり前だけど」

「この後は?」

「……一緒にカラオケ行く」

「そりゃ、すごい。頑張れ」

 愛衣は特に返事をすることもなく、僕のクレープをふんだくって一口食べた。

「うえ、なにこれ。あんま美味しくない」

「やっぱり、そう思う?」

 処理してくれるなら助かったが、早々に突き返されてしまった。

「それより、デートの邪魔してごめんね。桜坂さん」

「さっきも言ったのだけれど、篠原くんは友達よ」

 こちらこそ邪魔してごめんなさいという罪悪感で苦笑いする僕とは違い、桜坂はマイペースにクレープを食べながら返答した。

「じゃあ、今から私たちも友達ね。また、今度話そうね! やっぱり、私も一緒に並んでくる」

 愛衣は自分の頬を叩き、顔をしっかりつくって幸田の元へ向かって行った。その姿を見送り、今度は僕たち二人が大きく息をついた。

「迂闊だった。全然時間気にしてなかった……」

「私もよ」

 まあ、それでもなんとかなっているということが分かったので良しとしよう。

「……帰るか」

「そうね。家で探偵のなりかたでも勉強することにするわ」

 持って帰るわけにもいかず、クレープを処理しようと口を開けて、思い出した。

「あ、一口食べる?」

 彼女はクレープに目を落とし、次に僕の顔を見て、もう一度視線を落とす。

「いえ、いいわ。やっぱり、あんま美味しそうじゃないもの」

 頼んでおいてなんだが、このクレープには少し同情してしまう。
 残ったクレープを口の中に放り込む。
 やっぱり、あんまり美味しくはなかった。