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 最近、図書室は放課後が一番騒がしいかもしれない。
 騒がしいと言っても、図書室なので他の教室や校庭のような大声が飛び交うのではなく、ただひたすら本と本の間を二人の会話が絶えずすり抜けて行く程度だ。

「篠原くん、本当にテニス上手だったのね」

 もう二人以外誰もいない図書室で、桜坂さんがカウンターを挟んでノートに何かを書きながら言った。

「だから、あれは相手がそんな上手くなかったのと、幸田のおかげだよ」

 僕と愛衣が糸で繋がっているのが彼女にバレた日、幸田は無事に試合には勝ったものの、物足りなかったようで、なぜかテニス場の端で行われている誰でも参加できるレクリエーション試合に、勝手に僕とダブルスで応募してしまった。
 その流れで、中学生ぶりに一試合だけテニスをやらされた。おかげで、二日経った今でもまだ腕が筋肉痛だ。

「相手だって本大会で勝ち進んでいた人たちだったじゃない。私、篠原くんは運動が苦手そうって思っていたから、少しだけ感心したわ」

「だったら、せめて少しじゃなくてすごく感心してほしかったところだね」

 喉を痛めているのか、不自然に小さく一つ咳をして、彼女は書き終わったノートを掲げて見せてきた。ノートにはみみずのようなぶれぶれの線で描かれた絵。

「これ、もしかして僕と幸田?」

「そっ、この前の試合」

 最初は堪えていたものの、彼女が自信満々に言うものだから、思わず吹き出してしまった。

「ははっ、桜坂さん絵が苦手なんだ」

「む、そんなに変かしら。……いや、確かに下手くそね」

 二人には広すぎる図書室に小さく二つの笑い声が流れる。

 彼女――桜坂琴音は話せば話すほど、印象が最初と変わっていく。
 物静かで表情が乏しいと思えば、二人ではよく喋るし、普通に笑いもする。思いの外ロマンチストで、今しがた発覚した絵が苦手。
 普段は僕と同じように空気を演じている彼女の、みんなが知らない一面を垣間見れていることにちょっとした優越感を覚える。空気を演じているといっても、演じきれていないわけだが。

「桜坂さん、今日昼休みに告白されてたでしょ」

「えっ……?」

 驚いたように固まる彼女。

「僕が見たわけじゃないけど、幸田が偶然見かけちゃったって。あれ、うちのクラスの男子」

 彼女は空気になろうと努めている。しかし、優れすぎた容姿がそれを許さないのだ。
 彼女と知り合い分かったことがある。彼女は結構モテるのだ。一緒に歩いてたりすると、彼女に視線を向ける男子がちらほらいることに気が付いた。
 彼女本人が気が付いているのかは謎だが、意外とこういうのは自分では気づきにくいことだ。

「ああいうのは、よくあるから。ちょっとひどいけど、日常茶飯事だと思うことにしてるの」

 OKしたいとは思わないの? と喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。詳しく理由は聞いていないが、恋愛やそういう類のことに対してある種の嫌悪感に近いものを抱いている彼女にとって、この言葉は地雷そのものだろう。

「ちなみに三年になって、何人に告白された?」

 彼女は目線を宙に彷徨わせる。そして、少し照れたようにノートで口元を隠す。

「……四人」

「わお、幸田越え」

「本当にたまたまよ。最近はなぜかそういうのが多いだけ」

「まあ、確かに新学期でこの高校ともあと一年だからね。みんな、最後の青春がしたいんでしょ」

「だからって、話したこともない人に突然告白するというのは、どう考えても無謀そのものじゃないかしら」

 ふっと、窓から差し込む西日が沈み、教室が一層暗くなった。最近は、これが下校の目安になる。日が沈むと、先生たちが最終の下校を促しに教室を見回りに来るのだ。

「桜坂さんは、どうして僕にこうやって構ってくれるの? 僕はただ、家になるべく早く帰りたくないからこうしているんだけど」

 教室の電気が届きにくい薄暗いカウンターの向こうで、彼女の表情が固くなった気がした。
 数秒の沈黙が、図書室に本来の姿を取り戻させる。

「おーい、まだ残っているのか。もう、下校の時間だぞー。早く帰れー!」

 ドアから半身出した体育教師が、静寂を破って、すぐに去っていった。

「私がこうやって、篠原くんと話しているのは、私が話したいからよ。もちろん、分かると思うけど篠原くんのことが気になってるからとか、そういうのじゃなくてね。篠原くんって、私の話をしっかり聞いてくれるでしょ? 聞き上手って言うのかしら」

「人と話したいから、僕に付き合ってくれてるってこと?」

「ちょっと違うかな。会話する時間って私にとって貴重だから、どうでもいい人とはむしろ話したくないの。篠原くんは、なんでか分からないけど話しやすいのよ。出会いがナンパだったからなのかしら」

 そう言って、彼女は意地悪く笑った。

「よく分からないけど、とりあえず今日は帰ろっか。あの先生、二回目は怒って来るし」

 図書室の電気を消し、ドアに手をかける。締め切ったはずの部屋にふわりと風が吹き込んだ気がした。

「私の夢はね、ここで大きな声で叫ぶことなの」

 開けかけたドアから、手が離れた。

「あ、こっち向かないでね」

 彼女の小さくも透き通る声が鼓膜を揺らす。
 僕はドアを凝視したまま、問いかける。

「別に図書室だからって、大声を出せないわけじゃなくない? 例えば、別に誰もいない今叫んでもいいわけだし。もちろん、モラルというか、そういうのを考えると、ちょっとできないかなってなるけど」

 返事は帰ってこない。
 本当に今ここで叫んでやろうかと考えた瞬間、彼女の小さく息を吸い込む音が聞こえた。

「私、一年後には喋れなくなるの」

 嘘ではない。その力強い声が、それを物語っている。
 思わず振り向いてしまった。
 そこには、暗闇でひどく悲しそうな顔をしている彼女が立っていた。


「喋れなくなるって……卒業するから、僕ともう喋れなくなるって意味じゃない……よね?」

 先程までの怯えたような悲しげな表情に真顔の仮面をした彼女は、静かに頷いた。
 なぜだろうか。彼女と会話ができなくなることに恐怖を覚える自分がいる。まだ、それこそ出会って間もない、言ってしまえば他人のことのはずなのに、どうして僕はこんなに怯えているのだろうか。

「病気ってこと? あまり知らないけど失声病とか……」

「少し違うのだけど、まあ似たような病気ね。徐々に声が掠れていって、最終的には一切声が出せなくなるらしいわ。ほら、私よく咳払いみたいなのするでしょ?」

 見本を見せるように、彼女はわざとらしく咳き込む。
 思い返すと、確かに彼女は不自然なタイミングで、小さくではあるが咳をする癖があると思っていた。しかし、まさかその癖だと思っていた行為が病気のせいだなんて、全くの予想外だ。

「昔から医者には言われてたのだけど、最近喉に何かがつっかえてるみたいな感覚になるの。医者曰く、これから徐々にひどくなるって」

「治らない……の?」

 鼓動が、痛いくらいに胸を内から叩いて鳴りやまない。

「今の医学では無理だってはっきり言われたわ」

 彼女はお手上げと言ったように肩をくすめる。
 繋げる言葉が見つからない。
 せっかく、彼女が仮面を着けてまで重い空気にならないように努めてくれているのは分かっているのに、あまりの衝撃に脳の回転が追いつかない。
 必死に言葉を振り絞ろうとする僕に、彼女は優しく微笑んだ。

「篠原くんって、他人に興味ないように見えて、すごく気を使って色々考えてくれるのね」

「……そうかな? 自分では分からないや」

「そうよ。私が聞かれたくないことはちゃんと言葉を飲み込むし、かけて欲しい時にちゃんとふさわしい言葉をくれる。それこそまるで心を読まれてるみたいだわ」

「そんなの……」

 微妙に開けられたドアの隙間から、廊下のひんやりとした空気が足を撫でる。開きかけた口を閉じると、無意識に喉が小さく悲鳴を上げた。

「持っていたら、会話なんて必要なさそうで便利ね。本当に喉から手が出るほど欲しいわって、私が過去に言ったセリフを使って笑いを誘おうとするのも、その言葉の意味が今になってちゃんと分かってしまったから、私が嫌な思いをしないように飲み込むのも、ちゃんとその人のことを考えているからできることよ」

「僕は……そんなできた人間じゃないよ。ただ、昔からこの煩わしい赤い糸が見えてしまうから、人と関わることに怖がっているだけ」

 放課後の図書室に一本の赤い糸。この赤い糸さえ見えなければ、きっと僕は彼女に恋をしていたんじゃないかと思う。
 でも、僕と彼女の間には虚空が存在するだけで、僕の赤い糸は彼女と逆方向に向かってなびいている。
 だから、僕はまた自分の気持ちに蓋をする。
 彼女も僕も運命という牢屋に閉じ込められた無罪の囚人だ。
 自由が奪われた狭い籠の中で、檻越しに会話をする関係。

「おらっ! お前らもう下校時刻だと言っただろ! いつまで残ってるんだ!」

 廊下から怒声が響いてくる。でも、僕はそんなことを気にしてはいなかった。
 
「もう、私はあんな風に叫べないの。大きな声で、神様の馬鹿野郎って叫んで、暴れたいのだけれど……。だからね、私の夢は静かなこの空間で大きな声で叫ぶこと。悪いことしたいだけの変な女なのよ」

 いつの間にか、僕の手は赤い糸を掴むように胸の前で握りしめられていた。その無意識が、また僕を苦しめる。
 
「さっ、もう帰りましょ。今日は少し喋りすぎたわ」

 彼女は固く握りしめた僕の手を優しい手つきで解くと、そのまま手を取って背を向けた。
 僕は、ただ引っ張られるようについて行くことしかできなかった。
 これは弱みの見せ合いだろうか。それとも、運命を恨み合う会だろうか。
 違う。
 これは、傷の舐め合いだ。