*
「じゃ、これでホームルーム終わりだ。お前らー寄り道しないで帰れよー。部活のやつはほどほどに頑張れ」
気怠そうな担任がそそくさと教室を出ると、それまで静かだった教室が途端に騒がしくなる。特に喋る予定がある友達は、今日はいなかったので、賑やかに会話に花を咲かせるいくつかのグループを縫って廊下に出る。
大人しく帰ることにした。流石に昨日の今日で、図書室に行く気にはなれない。
冷静になって考えると、どう考えても昨日の僕は変人だ。突然、口説きまがいのセリフを吐き、そしてあろうことか、重ねたのだから、きっと、名も知らない彼女の僕への印象は最底辺に振り分けられただろう。
かと言って、一人で寄り道をするような気の利いた場所が、この小さな街にあるかと言われれば、思わず唸ってしまう。
「おーい、実笠! お前にお客さんだぞー!」
不意に幸田に呼び止められ、振り向く。爽やかフェイスに似合わないニヤついた表情で手を振っている幸田の横には、昨日最悪な出会い方をしてしまった彼女がポツンと立っていた。
「じゃ、俺は部活行くからなー」
僕の肩をわざとらしく小突き、幸田はそそくさと去っていく。恥ずかしさと気まずさで、できることなら見なかったことにしてそのまま帰りたかったが、流石にそうはいかない。
図書室以外で見る彼女は、まるで僕と同じように空気を演じているように感じた。極力、人から距離をとるようにしているというか、自分は元からそこにある石ころですよ、とでも言わんばかりの仕草。
それでも、やはり整った顔立ちとすらっとしたスタイルに何人もの男子生徒の目線が向いている。
半空気な彼女が、完全空気である僕に一体何の用なのだろう。まさか、昨日の出来事が本当に口説く行為と勘違いでもされてしまったのだろうか。
「えっと、僕に用でも……?」
彼女は小さく頷く。
「昨日の話、詳しく聞きたくて」
立ち眩みがした。僕の予想通り、昨日の出来事の続きだった。
「いや、あれは本当に口説くとかじゃなくて、なんていうのかな、できれば気にしないでいただけると助かるんだけど」
彼女は僕の必死の抵抗などまるで聞いていないようで、周囲を見回し、踵を返した。
「場所、変えましょう。ここじゃ、人が多くて落ち着いて話せないもの」
てっきり、校内で人気の少ない場所に移動するだけだと思ったが、彼女は校門を出て、街の中心部に向かっているようだ。その少し後ろを僕は黙って付いて行く。
一度も振り向かないし、言葉も発さないので、僕と話したことなど忘れてしまって、ただ単純に帰路についているだけなんじゃないかと不安になる。
この街でもっとも人が多く滞留する駅を通り過ぎると、人とすれ違う回数が極端に減る。行き交う人の数に比例しない妙におしゃれで、だだっ広い通りに存在する、一軒の古びたカフェの扉を彼女は開けた。
カランコロンという木板の心地よい音と共に、豆を挽く香ばしい香りが鼻孔を刺激する。
「おや、琴音ちゃん。いらっしゃい」
マスターと思しき白髪のおじいさんに彼女は一礼すると、促されるわけでもなく、自ら一番奥の席に腰を据えた。
向かいに座ると、彼女と取り巻く空間に少しだけ息がつまる。僕らとマスターしかいない、アンティーク調の雰囲気で揃えられた狭い店内に、びっくりするくらい彼女は溶け込んでいた。まるで違う世界のように感じるこの場所は、彼女がいることで完璧な空間になっているのではないかとさえ思う。
「琴音ちゃんがお友達を連れてくるなんて珍しいねぇ。琴音ちゃんはいつものでいいね? お友達は何にする?」
彼女に一瞥をくれる。しかし、彼女はマスターに小さく頷くのみで、一言も発さない。
「じゃあ、同じもので」
マスターは柔和な笑顔で注文を受け取ると、カウンターの奥へと戻って行く。
「篠原くんって、本当に赤い糸というものが眼に見えるの?」
何の前触れもなく、彼女は唐突に切り出した。彼女的にはここまで来て、ようやく話せる状況になったということだろうか。それとも、人前であまりこの話をしたくないという僕の意を汲んでくれたのだろうか。
どちらにせよ、僕が本当に口説いたわけではないと、彼女は判断してくれたということだ。
彼女の好奇心と疑心の眼差しから目を背け、テーブルの木目に視線を這わせながら答える。
「見えるよ。大抵の人は胸元から一本の赤い糸が伸びているんだ」
「そして、その糸がどこかの誰かさんと繋がっているというわけね」
「そういうこと。信じてもらえそうなことは語れないけどね」
胸元に目線を送る。僕からは一本の糸が、窓ガラスをすり抜けて外へと伸びている。
「それで、どうしてその話を突然私にしたの?」
その言葉に僕は無言を貫いた。正確にはどう返したものか分からずに沈黙を招いてしまった。
「まぁ、考えられるとすれば三つね。一つ目は、実は赤い糸が見えるなんてのは全くの嘘で本当に口説くため、二つ目は、篠原くんの糸と私の糸が繋がっているから、三つ目は、私がその赤い糸関係で他人と違う何かを持ち合わせているか、もしくは糸が見えないか」
それまで表情という表情はつくらないでいた彼女が、いたずらに微笑む。
「そうだね。正解は二番。僕の糸は君と繋がっている」
彼女の的確すぎる推理に、僕は迷わず返す。結果的に見れば、やっぱりただの告白みたいな感じになってしまったが、これが彼女を傷つけずに済む回答だと思った。
「嘘ね」
そして彼女もまた、迷わずに僕の意見を否定したのだった。
「どうして嘘だと思うの?」
彼女は僕の胸の中心を指差し、ゆっくりとその指を上にあげて行く。胸から肩へ、口へ、そして目まであげると、ピタッと止めた。
「さっき、私が篠原くんと私の糸が繋がっているからと仮説を言った時、篠原くんは一瞬だけ窓の外を見た。つまり、篠原くんの糸は私に向かってじゃなくて、ここにいない誰かさんと繋がっているんじゃないかと思ったの」
「うわぁ、凄すぎて何も言い返せない」
「ということは、正解は三番目ね」
「そういうことになるね……」
少しばかりの申し訳なさを感じる僕とは裏腹に、彼女は表情一つ変えずに「そう」とだけ呟いた。
「辛くないの? いや、辛いと言うか不安じゃないの? 運命の糸に問題があるってことは、将来そういうことで他人と違うってことになるんだけど」
「そういうことって?」
「それは……恋愛とか、結婚とか」
「それなら、別に怖くない。私、恋愛とかしないと思うし。たぶん、結婚もしない。というか、無理」
彼女は視線を下げ、小さく咳払いをする。
「それは、男性恐怖症とかそういうやつ?」
「だとしたら、篠原くんと話してないよ」
何となく、これ以上は踏み込んではいけないと感じた。少なくとも、会話をするのが二回目の相手に、誰しも自分の恋愛観など語りたくはないだろう。
「まぁ、もう言ってしまうけど、君からは赤い糸が見えないんだ。他の人はほぼ全員糸があるのに、君は糸を持っていない。糸を持たない人は年に一人見かけるか、どうかなんだ。だから気になって無意識に声をかけてしまった。本当にただの好奇心で、申し訳ないとは思ってる」
彼女は不思議そうに少しだけ首を傾げた。
「でも、それだと運命の相手がこの世にいない人の糸はどうなるのかしら。例えば、もう亡くなっているとか、まだ生まれていないとか」
僕は先ほどの彼女を真似て、指を使ってその答えを示した。
「なるほど、天に向かって伸びてるのね。なんだか、ロマンチックね。人は皆、天から授けられて、天に戻って行くってことになるものね。もちろん、この話が篠原くんの妄想でないのだとしたらのお話だけどね」
「どうして、妄想じゃないって思えるの? きっと、僕が君の立場なら頭のおかしいやつだなって思うはずだけど」
彼女は少し考えるように視線を彷徨わせる。
「うまく言えないけど、信じた方が退屈じゃなさそうでしょ? ネッシーとか宇宙人とかも、いないって頭ごなしに否定するよりも、本当にいるかもしれないと思った方が絶対に楽しいよ」
「納得できるような、できないような……」
少し意外だった。図書室での彼女は、静かで、妙に態度も大人びているように見えるから、先ほどのロマンチック発言もそうだが、実は思ったよりも好奇心旺盛なのかもしれない。
「それに、篠原くんみたいに特別な能力みたいなものを持った人の話、他にも聞いたことあるよ。一生に一度だけ、五秒間どんな願いも叶えることができるって能力。面白そうでしょ?」
「うーん、どうだろう。五秒間だけって、何ができるのかな。しかも、一度きりなんて」
「確かに五秒間だけっていうのがポイントよね。そんな能力を持った人はきっと、いつまでも使いどきを悩んでしまいそうね」
沈黙が流れる。きっと彼女も僕と同じく、五秒間の使い道を考えているのだろう。
漂う静寂を破るように、白いシャツに黒ベストのカチッとした服装のマスターが、曲がった腰でティーカップを二つ盆に乗せて来た。
「はい、お待たせ。ゆっくりしていってね」
年配の方特有の暖かい表情を浮かべて去って行くマスターを目線で追う。
視線を卓に戻すと、高級そうに見えるアンティークのティーカップに注がれた白い湯気が立ち上る珈琲が二つ。どう見ても、高校生という立場には似つかない代物だ。
彼女は角砂糖を三つティーカップの中に溶かす。
僕が見ていることに気が付いたのか、彼女は自ら告白する。
「私、甘党なの」
そして、僕の返事を待つこともなく続けた。
「私に赤い糸が無いのはきっと、人を愛することも、愛されることも、完全に諦めているからだと思う」
「それって……」
「よく、私もう独身でいいとか、人なんて絶対に好きにならないって言ってる人いるけど、そういう人たちにも赤い糸は見えるのよね?」
一つ、小さく頷く。
「そういう人たちって、口では愛する人をつくりませんとか言ってるけど、結局心のどこかでは少なからず、人を愛することへの関心とか、愛される期待を持っているから赤い糸があるんじゃないかしら。でも、私は違う。私は人を心から愛することは今後一度たりとも無いだろうし、愛されてはいけない人間だと思ってるから」
彼女の無表情がやけに刺々しい。嫌悪感を発しているというよりは、まるで自分を守る為にバリアを張っているように見える。
「人を愛せれば、愛されれば、砂糖なんてなくても珈琲は苦く感じなくなるのかしら」
胸元の赤い糸がふわりと揺れる。
「それは、どうだろう」
僕は角砂糖を四つ手に取り、ティーカップに落とし込んだ。
「僕も甘党だからね」
*
春にしては冷たい夜風に身を縮め、街灯のない道を一人歩く。
真っ暗な世界に一人取り残された気分だ。もちろん、周囲の建物からは温かみのある光が漏れ出しているため、完全に視界が黒というわけではない。しかし、こうして一本の道に前にも後ろにも人が見えないと、この明るい建物の中にも、実は人がいないんではないんだろうかと思う。
普段はこんな馬鹿げた妄想はしないのだけれど、今日は珍しくテンションが高いようだ。
胸のつっかえが取れたとまでは言わないが、秘密を共有する人ができたということだけで、暗闇に赤外線レーザーのように交錯する赤い糸もさほど気にならなくなった。
なぜ、彼女に本当のことを話そうと思ったのか、自分でも分からない。ただ、彼女が僕の話を信じてくれそうな気がした。きっと、それだけのことだ。
客がおらず、暇を持て余して眠そうな店員がいるコンビニを曲がると、すぐに自分の家が見えてくる。
玄関のドアをそっと開けると、途端に気分が悪くなった。気持ちを逆撫でするような母親の罵声が、身体の芯を貫く。
でも、母親が罵りを吐き出した相手は僕ではない。
続いて、今度は父親の反論する大声が聞こえてきて、僕はそっとドアを閉めた。外では、猫の喧嘩するけたたましい鳴き声が響いているが、家の中よりはましだ。
ため息を一つ吐き出し、来た道を戻る。そして、三軒隣の玄関のインターホンをためらいもなく押した。
「はーい! どなたですか?」
インターホン越しにノイズ混じりの高い声が聞こえて来る。
「あの、実笠ですけど……」
「実笠くん!? 今、開けるわね。ちょっと、待ってて」
随分と急いでくれたようで、すぐに玄関のドアが開き、エプロン姿の女性が姿を表す。随分、こわばった表情で、申し訳ない気持ちが強くなる。
彼女は僕の顔を見るなり、一つ息をつき、安堵の表情を浮かべた。そして、僕の頭をぽんぽんと軽く触ると、何も聞かずに家にあげてくれた。
「ありがとうございます。……お邪魔します」
リビングに入ると、四人がけのソファーに寝転がりスマートフォンをいじる同級生と目があった。
「おー、実笠。また逃げて来たのー?」
「……愛衣。急に来たのは僕だけど、もう少し恥じらえよ」
愛衣は不思議そうに自分の姿を見直す。ショートパンツに薄いTシャツ。細い四肢が大胆に覗き、Tシャツは少しめくれてへそが見えている。男子高校生が喉を鳴らすには十分すぎる服装だ。
「何言ってんの。昔は一緒にお風呂も入ったじゃん」
「いつの話してんだよ。ったく、幸田にこの姿を見せてやりたいよ」
「ちょっと、幸田くんに変なこと言ったら、本気で怒るからね!」
ソファーを陣取る愛衣の足を押しやり、開けたスペースに座る。
「冗談だよ。あいつ、日曜の試合は九時からだってさ」
「九時かー。早いなぁ。私、あんま朝早いと化粧馴染まないんだよね」
「学校より遅いだろ」
「あ、それもそうか。なんか、九時って聞くと早く感じるけど、学校って言われるといつも通りか、って感じだよね。ってか、なんで学校ってあんな早いんだろ。ウチの家、お父さんの方が家出るの遅いんだけど」
本当、外でも内でもよく喋る幼馴染だ。
ずらずらと止まらない語りにあーとか、それなーとか、適当に相槌を打つ。はたから見れば失礼極まりない態度も、僕と愛衣の間ではこれが普通なのだ。
別に僕は愛衣の話を聞いていないわけじゃないし、聞きたくないわけじゃない。そして、愛衣も僕の話を聞きたいわけじゃなく、話を聞いてもらえればいい。互いの性格を分かっているからこその会話の形だ。
自分の家に帰らず、愛衣の家にお邪魔するのは週に二回くらいの頻度だ。前までは頻繁に訪れるのは申し訳ないと感じて、こういった夜は通学路にある土手に座ったり、コンビニで時間を潰していたのだが、一度警察に補導されてしまってからは、愛衣の母親にウチに来るように強く言いつけられてしまった。実の親には何とも言われなかったのに、変な話だ。
愛衣の家族も僕の家庭状況は重々理解してくれているため、快く歓迎してくれる。
「ほら、二人ともご飯できたから、早く来なさい」
当たり前のように僕の分まで用意してくれる愛衣の母親には、本当に頭が上がらない。
テーブルを三人で囲み、手を合わせた時、愛衣の父親が帰って来た。額に深くシワが刻まれた堅物な顔で、他人を寄せ付けにくい人ではあるが、僕は愛衣の父親を見ると心が安らいだ。
「おや、実笠。来てたのか」
「お邪魔してます」
「ゆっくりしていけ。ここは、お前の家でもあるんだ」
愛衣の父親はそれだけ言い残すと、着替えるためにリビングを後にした。
夕食を食べ終わると、風呂に入らされ、愛衣の部屋にいつものように押し込められた。しばらくすると、愛衣の母親が僕用の布団を持ってきた。
「朝ごはんはどうする?」
「一度、家に戻って着替えるんで大丈夫です。ありがとうございます」
「そう、分かったわ。ゆっくり休みなさい。おやすみ」
「おやすみなさい」
愛衣の母親は僕の頭をぽんぽんと軽く触って、部屋を後にした。
撫でられたところが、やけに暖かい。
しばらくすると、風呂を上がった愛衣が部屋に戻って来る。その後は、互いにくだらない会話を繰り広げ、二十三時を回ると、愛衣が電気を消す。
いつも通りの流れで、いつも通りの生活。しかし、いつもであればすぐ睡魔が襲って来て、そのまま身を委ねるのだが、今日はなぜかなかなか寝付けなかった。
ふいに、愛衣の寝息が小さく聞こえて来た。
幼馴染と言えど、年頃の男女が一緒の部屋で横になっている状況は、人によっては羨ましいと感じるのだろうか。
部屋に漂う一本の赤い糸に目を奪われる。
愛ってなんだろう。
父親は僕を苛立ちのはけ口として利用し、母親は父親に利を取るために表面では僕に優しくする。僕が――僕の人生そのものが、赤い糸で繋がっていない者同士から生まれた存在だ。
僕の家庭が極端で、必ずしもこういった結末になることはないと分かっている。それでも、愛っていうものは、人の人生でとても大事で、重要なものなんだろう。
愛衣の家族は、僕に確かな愛を注いでくれているだろう。当たり前のように接してくれる母親も、寡黙ながらも我が子のように受け入れてくれる父親も、僕を愛してくれている。
でも、これは本物の愛ではない。なぜなら、僕が彼らの愛を素直に受け入れられずにいるからだ。申し訳なさと、本来の僕の家庭状況が、愛を妨げるのだ。
愛は片道では成り立たない。
だから、僕はまだ本当の愛を知らないでいる。
(心のどこかでは少なからず、人を愛することへの関心とか、愛される期待を持っているから赤い糸があるんじゃないかしら)
脳裏に桜坂琴音の言葉が響いた。
背後でかすかにパコーンッというゴムゴールを弾く軽快な音が聞こえて来た。
ここ最近の肌寒さはどこに行ったのか、まだ朝の八時半だというのに、立っているだけで額に汗がじんわりと滲む。まだ眠い目を擦り、雲ひとつない前方の空を眺めていると、肩を軽く叩かれる。
視線を下ろすと、ストライプシャツにネイビーの花柄ロングスカートに身を包んだ女性が、表情薄くいつの間にか隣に立っていた。
彼女は不自然に小さく咳払いをする。
「お待たせ」
小さくつぶやくように発された挨拶に、踵を返すことで応対する。
しばらく、無言で歩くと、先ほどから聞こえていたボールを弾く音が徐々に大きくなっていく。
隣を歩く彼女からちらっと視線を感じる。
「褒めてもいいのよ?」
「時間に遅れなかったことを?」
「……服装を」
「あぁ、似合ってるね。落ち着いた清楚感が綺麗な黒髪に良く映えてる」
「ちゃんとできるじゃない。物語の中だと、こういうシーンはお門違いなところを褒めて、女性に幻滅されるのが定番よ」
彼女に視線を向ける。どうやら、学校じゃないと彼女は空気を演じる真似はしないみたいだ。正確には、制服という平等に縛られた服装じゃないせいで、空気を演じることは到底できていない。
周辺男性からの好色にも近しい視線が集まっていることに、彼女は気づいているのだろうか。
隣を歩いていて居心地の良いものではない。
「口説いた相手と休日に隣を歩くのって、どんな気分かしら」
「優越感でたまらない気持ちだね」
「ええ、そうね。私もよ」
そもそも、どうして貴重な休日に僕は桜坂琴音と一緒にテニスコートになんか来ているのだろうか。
「ところで、あなたの赤い糸の繋がる先の相手は、テニス部なの? 違うと私は予想しているのだけれど」
「もしかして、心を読める特殊能力とか持ってたりする?」
「そんなの持っていたら、会話なんて必要なさそうで便利ね。本当に喉から手が出るほど欲しいわ」
表情をつくらない彼女が、今日初めて口元に小さく笑みを浮かべた。
あの喫茶店での一件以来、僕と彼女は放課後、図書室で少しの間会話を交わすようになっていた。ほとんどは彼女が質問して、僕が答えるだけなのだけど。
彼女は予想以上に好奇心が旺盛のようで、次の休日に、もう一度あの喫茶店で話を聞きたいと言われてしまった。正直、これ以上話すようなことも特にないので、テニス部の友人の試合を見に行くと嘘をついて断ろうとしたところ、なぜか彼女も行くと言い出した。そして、奇妙な状況の今に至る。
そんなわけでわざわざ休日に出会って間もない彼女と共に、普段であれば絶対にしないであろう、親友の試合の応援に来てしまったというわけだ。
「私、テニス場なんて来たの初めて」
「まあ、名の通りテニスをやってなければ、特に縁のない場所だからね。かくいう僕も中学生ぶり」
「篠原くんは中学はテニス部だったのね」
「なんとなくで入ってただけだよ」
時計に目を向けると、幸田の試合予定時刻まで十分を切っていた。本来であれば、すでにコート内に入っていてもおかしくない時間だ。
「実笠は強かったんだぜ。彼女さん」
不意に肩にべたついた肌がずしっとのしかかる。形容しがたい不快感に眉に力が入った。
「桜坂琴音です。篠原くんとはただの知り合いですよ」
「そっか、そっか。俺は雲宮幸田。実笠の数少ない友達。なんでか分からないけど、こいつを連れて来てくれてありがとうね。いつ誘っても来てくれないからさー」
「おい、幸田。重いし、汗臭いから早くどけ。あと、僕は友達が少なくない」
無駄に筋肉質な腕を振り払い、わざとらしく肩を払う。
「そんな邪険にすんなってー。あ、俺十一番コートね」
幸田はそれだけを言い残すと、試合前だというのにものすごい速さで走って行ってしまった。嵐のように訪れ、雷のように去って行く友達に、僕はただただため息しか出ない。
「かっこいいだろ? 185センチ、68kg、運動神経抜群でおまけにあの気さくな性格。ちなみにめちゃくちゃモテる」
幸田の走り去って行った方向に指を向ける。
「一般的な価値観だとかっこいいってことになるのかしら」
「間違いなく、そうだろ。三年になって、もう三回告白されている」
「ふーん……」
十一番コートに到着すると、ちょうど試合が始まったところのようで、僕たちは手頃な席に腰を下ろした。
「桜坂さんから見て、幸田はかっこいいと思わない?」
「八百屋にこの魚鮮度いいでしょ? って聞くようなものだと思う」
「面白い言い回しだね。でも、よかった」
一瞬、彼女は僕に視線を向けたものの、物珍しいテニスの試合が気になるのか、すぐにコートに目を戻す。
「よかったって、どういうこと?」
「桜坂さんみたいな美人が幸田を好きになっちゃったら、僕の幼馴染じゃ歯が立たないからね。ほら、あそこにいる、いかにも幸田にベタ惚れですっていう表情している女」
コートに一番近い前方で、まるで転げ落ちるんじゃないかと思うほど前のめりで試合を見つめる愛衣を指差す。
「彼女、十分可愛いと思うのだけれど」
「そう? 昔から一緒にいすぎて、よく分からないけどね」
「恋とか愛なんて知らない私より、よっぽど美人で可愛いと思うわ」
そう言った彼女の瞳は、少しだけ悲しげに見えた。
「好きなの? 彼女のこと」
しばらく試合を見守っていると、彼女が唐突に切り込んだ。
「恋愛的な好きな抱いてないよ。僕は愛衣の幼馴染で、幸田は親友。二人には幸せになってほしいと思ってるよ。心の底からね」
「あなたと彼女が糸で繋がっているとしても?」
思わず、彼女を見た。強く脈を打った心臓が、まだ大きく震えている。
「本当に心の声聞こえてるんじゃない?」
「ただのハッタリだったのだけど、当たってたみたいね」
彼女が微笑む。
僕が苦い顔をする。
「全く、勘が鋭い八百屋だ」
*
最近、図書室は放課後が一番騒がしいかもしれない。
騒がしいと言っても、図書室なので他の教室や校庭のような大声が飛び交うのではなく、ただひたすら本と本の間を二人の会話が絶えずすり抜けて行く程度だ。
「篠原くん、本当にテニス上手だったのね」
もう二人以外誰もいない図書室で、桜坂さんがカウンターを挟んでノートに何かを書きながら言った。
「だから、あれは相手がそんな上手くなかったのと、幸田のおかげだよ」
僕と愛衣が糸で繋がっているのが彼女にバレた日、幸田は無事に試合には勝ったものの、物足りなかったようで、なぜかテニス場の端で行われている誰でも参加できるレクリエーション試合に、勝手に僕とダブルスで応募してしまった。
その流れで、中学生ぶりに一試合だけテニスをやらされた。おかげで、二日経った今でもまだ腕が筋肉痛だ。
「相手だって本大会で勝ち進んでいた人たちだったじゃない。私、篠原くんは運動が苦手そうって思っていたから、少しだけ感心したわ」
「だったら、せめて少しじゃなくてすごく感心してほしかったところだね」
喉を痛めているのか、不自然に小さく一つ咳をして、彼女は書き終わったノートを掲げて見せてきた。ノートにはみみずのようなぶれぶれの線で描かれた絵。
「これ、もしかして僕と幸田?」
「そっ、この前の試合」
最初は堪えていたものの、彼女が自信満々に言うものだから、思わず吹き出してしまった。
「ははっ、桜坂さん絵が苦手なんだ」
「む、そんなに変かしら。……いや、確かに下手くそね」
二人には広すぎる図書室に小さく二つの笑い声が流れる。
彼女――桜坂琴音は話せば話すほど、印象が最初と変わっていく。
物静かで表情が乏しいと思えば、二人ではよく喋るし、普通に笑いもする。思いの外ロマンチストで、今しがた発覚した絵が苦手。
普段は僕と同じように空気を演じている彼女の、みんなが知らない一面を垣間見れていることにちょっとした優越感を覚える。空気を演じているといっても、演じきれていないわけだが。
「桜坂さん、今日昼休みに告白されてたでしょ」
「えっ……?」
驚いたように固まる彼女。
「僕が見たわけじゃないけど、幸田が偶然見かけちゃったって。あれ、うちのクラスの男子」
彼女は空気になろうと努めている。しかし、優れすぎた容姿がそれを許さないのだ。
彼女と知り合い分かったことがある。彼女は結構モテるのだ。一緒に歩いてたりすると、彼女に視線を向ける男子がちらほらいることに気が付いた。
彼女本人が気が付いているのかは謎だが、意外とこういうのは自分では気づきにくいことだ。
「ああいうのは、よくあるから。ちょっとひどいけど、日常茶飯事だと思うことにしてるの」
OKしたいとは思わないの? と喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。詳しく理由は聞いていないが、恋愛やそういう類のことに対してある種の嫌悪感に近いものを抱いている彼女にとって、この言葉は地雷そのものだろう。
「ちなみに三年になって、何人に告白された?」
彼女は目線を宙に彷徨わせる。そして、少し照れたようにノートで口元を隠す。
「……四人」
「わお、幸田越え」
「本当にたまたまよ。最近はなぜかそういうのが多いだけ」
「まあ、確かに新学期でこの高校ともあと一年だからね。みんな、最後の青春がしたいんでしょ」
「だからって、話したこともない人に突然告白するというのは、どう考えても無謀そのものじゃないかしら」
ふっと、窓から差し込む西日が沈み、教室が一層暗くなった。最近は、これが下校の目安になる。日が沈むと、先生たちが最終の下校を促しに教室を見回りに来るのだ。
「桜坂さんは、どうして僕にこうやって構ってくれるの? 僕はただ、家になるべく早く帰りたくないからこうしているんだけど」
教室の電気が届きにくい薄暗いカウンターの向こうで、彼女の表情が固くなった気がした。
数秒の沈黙が、図書室に本来の姿を取り戻させる。
「おーい、まだ残っているのか。もう、下校の時間だぞー。早く帰れー!」
ドアから半身出した体育教師が、静寂を破って、すぐに去っていった。
「私がこうやって、篠原くんと話しているのは、私が話したいからよ。もちろん、分かると思うけど篠原くんのことが気になってるからとか、そういうのじゃなくてね。篠原くんって、私の話をしっかり聞いてくれるでしょ? 聞き上手って言うのかしら」
「人と話したいから、僕に付き合ってくれてるってこと?」
「ちょっと違うかな。会話する時間って私にとって貴重だから、どうでもいい人とはむしろ話したくないの。篠原くんは、なんでか分からないけど話しやすいのよ。出会いがナンパだったからなのかしら」
そう言って、彼女は意地悪く笑った。
「よく分からないけど、とりあえず今日は帰ろっか。あの先生、二回目は怒って来るし」
図書室の電気を消し、ドアに手をかける。締め切ったはずの部屋にふわりと風が吹き込んだ気がした。
「私の夢はね、ここで大きな声で叫ぶことなの」
開けかけたドアから、手が離れた。
「あ、こっち向かないでね」
彼女の小さくも透き通る声が鼓膜を揺らす。
僕はドアを凝視したまま、問いかける。
「別に図書室だからって、大声を出せないわけじゃなくない? 例えば、別に誰もいない今叫んでもいいわけだし。もちろん、モラルというか、そういうのを考えると、ちょっとできないかなってなるけど」
返事は帰ってこない。
本当に今ここで叫んでやろうかと考えた瞬間、彼女の小さく息を吸い込む音が聞こえた。
「私、一年後には喋れなくなるの」
嘘ではない。その力強い声が、それを物語っている。
思わず振り向いてしまった。
そこには、暗闇でひどく悲しそうな顔をしている彼女が立っていた。
「喋れなくなるって……卒業するから、僕ともう喋れなくなるって意味じゃない……よね?」
先程までの怯えたような悲しげな表情に真顔の仮面をした彼女は、静かに頷いた。
なぜだろうか。彼女と会話ができなくなることに恐怖を覚える自分がいる。まだ、それこそ出会って間もない、言ってしまえば他人のことのはずなのに、どうして僕はこんなに怯えているのだろうか。
「病気ってこと? あまり知らないけど失声病とか……」
「少し違うのだけど、まあ似たような病気ね。徐々に声が掠れていって、最終的には一切声が出せなくなるらしいわ。ほら、私よく咳払いみたいなのするでしょ?」
見本を見せるように、彼女はわざとらしく咳き込む。
思い返すと、確かに彼女は不自然なタイミングで、小さくではあるが咳をする癖があると思っていた。しかし、まさかその癖だと思っていた行為が病気のせいだなんて、全くの予想外だ。
「昔から医者には言われてたのだけど、最近喉に何かがつっかえてるみたいな感覚になるの。医者曰く、これから徐々にひどくなるって」
「治らない……の?」
鼓動が、痛いくらいに胸を内から叩いて鳴りやまない。
「今の医学では無理だってはっきり言われたわ」
彼女はお手上げと言ったように肩をくすめる。
繋げる言葉が見つからない。
せっかく、彼女が仮面を着けてまで重い空気にならないように努めてくれているのは分かっているのに、あまりの衝撃に脳の回転が追いつかない。
必死に言葉を振り絞ろうとする僕に、彼女は優しく微笑んだ。
「篠原くんって、他人に興味ないように見えて、すごく気を使って色々考えてくれるのね」
「……そうかな? 自分では分からないや」
「そうよ。私が聞かれたくないことはちゃんと言葉を飲み込むし、かけて欲しい時にちゃんとふさわしい言葉をくれる。それこそまるで心を読まれてるみたいだわ」
「そんなの……」
微妙に開けられたドアの隙間から、廊下のひんやりとした空気が足を撫でる。開きかけた口を閉じると、無意識に喉が小さく悲鳴を上げた。
「持っていたら、会話なんて必要なさそうで便利ね。本当に喉から手が出るほど欲しいわって、私が過去に言ったセリフを使って笑いを誘おうとするのも、その言葉の意味が今になってちゃんと分かってしまったから、私が嫌な思いをしないように飲み込むのも、ちゃんとその人のことを考えているからできることよ」
「僕は……そんなできた人間じゃないよ。ただ、昔からこの煩わしい赤い糸が見えてしまうから、人と関わることに怖がっているだけ」
放課後の図書室に一本の赤い糸。この赤い糸さえ見えなければ、きっと僕は彼女に恋をしていたんじゃないかと思う。
でも、僕と彼女の間には虚空が存在するだけで、僕の赤い糸は彼女と逆方向に向かってなびいている。
だから、僕はまた自分の気持ちに蓋をする。
彼女も僕も運命という牢屋に閉じ込められた無罪の囚人だ。
自由が奪われた狭い籠の中で、檻越しに会話をする関係。
「おらっ! お前らもう下校時刻だと言っただろ! いつまで残ってるんだ!」
廊下から怒声が響いてくる。でも、僕はそんなことを気にしてはいなかった。
「もう、私はあんな風に叫べないの。大きな声で、神様の馬鹿野郎って叫んで、暴れたいのだけれど……。だからね、私の夢は静かなこの空間で大きな声で叫ぶこと。悪いことしたいだけの変な女なのよ」
いつの間にか、僕の手は赤い糸を掴むように胸の前で握りしめられていた。その無意識が、また僕を苦しめる。
「さっ、もう帰りましょ。今日は少し喋りすぎたわ」
彼女は固く握りしめた僕の手を優しい手つきで解くと、そのまま手を取って背を向けた。
僕は、ただ引っ張られるようについて行くことしかできなかった。
これは弱みの見せ合いだろうか。それとも、運命を恨み合う会だろうか。
違う。
これは、傷の舐め合いだ。
*
今年の春は雨が多い。
ガラス越しの空は灰色に塗りつぶされ、桜の枝からは常に雨水が滴り落ち、根元に生える雑草が隠れてしまうくらいの水たまりをつくっている。
おかげで気分もどこか曇天模様だ。
陰り空の薄暗い外に比べ、ファミレス内はいつもの二倍はうるさい。遊ぶ場所もない田舎の街で、かつ外が雨とくれば、ファミレスは、別にテスト期間も近くないのに学生の溜まり場と化す。
混雑した店内ではドリンクバーに向かうことすら億劫で、空のグラスに溜まる氷をストローでぐるぐると回す。
「ねえ、聞いてんの?」
「えっ? 聞いてるけど?」
対面に座る愛衣が微かに睨んでくる。
「嘘つけ。今、完全に上の空だったからね。口数が少ないからって、幼馴染の目は騙せないんだからね」
彼女はグラスに結露した水滴を指ですくい上げ、僕に向けて弾く。
「あー、ごめん。ちょっと、考え事」
実際、この席に座ってずいぶん経つが、自分から積極的に発した言葉は一言か二言だけで、ずっと喋り続ける彼女の話もろくに頭に入っていなかった。
僕の頭の中をぐるぐると渦巻くのは、昨日の図書室での出来事だ。
驚きというか、軽い恐怖に近いものをずっと感じている。普段喋っている人の声が聞こえなくなる、喋れなくなるというのは、正直想像がつかない。
「おい、考え事はわかったけど、そっちに戻るな。私を見ろ」
「その台詞、幸田に言ってやれよな」
「そんなこと言えるわけないじゃん! 自己中っぽい」
「こんな雨の中、嫌がる僕を引きずってここまで来たのは一体どこの誰だろうなぁ」
テーブルの中央に置かれた皿に盛られたポテトをつまみ、指でぷらぷらと揺らしてみる。
「実笠はいいの。でも、他の人にはそういうの見せたくない。特に幸田くんはダメ」
「言っとくけど、あいつは元気な子が好きだってこの前言ってたぞ」
「男なんてみんなそう言うじゃん。でも、実際大人しくて可愛い子が好きなんでしょ! ほら、実笠だって最近五組の桜坂さんとずっと一緒にいるじゃん。どうせ、実笠もああいうのがタイプなんでしょ。大人しくて、美人で、頭良さそうな子だし」
「……別に好きとかじゃないよ。話が合うっていうか、うまく表現できないけどそんな感じ。だから、恋愛的な好きってわけじゃないんだよ。たぶんね」
「ふーん……」
愛衣は納得いかないとでも言いたげな表情をしているが、そもそもこの話題に関してはそこまで興味がないのだろう。
つまむポテトを卓上に伸びる一本の赤い糸に重ねてみる。
どうして、この糸は僕と彼女を繋いでいるんだろう。
幼馴染だから? 異性では一番近い関係だから? それとも、ただの偶然?
幼馴染の恋愛は応援してあげたい。これは本心だ。でも、僕は赤い糸が繋がっていない同士で将来を共にすればどうなるかを、この目で見て育っている。
だから、この糸が見えるせいで背を押せずにいるのだ。
赤い糸が見えるからって恋のキューピットにはなれない。むしろ、僕は恋路を邪魔するいじわるな悪魔なのかもしれない。
別に彼女に僕を好きになってほしいわけじゃない。ただ、幸田のことは諦めてほしいと思ってしまっている。そんな自分がどうしようもなく嫌いで、呆れさえ感じる。
僕はとんでもなく自己中心的だ。
「ま、そんなわけで幸田くんの前では大人しくしてるのよ」
「大人しくしてるっていうか、テンパって素の自分が出せないだけだろ。それにそっち系目指してるならギャルみたいなチャラついた格好から直すべきだろ」
「女子は何かとめんどくさいんだよ。ヒエラルキーみたいな? 暗黙の了解的なやつ」
「ふーん、まあ愛衣なら地味な格好してても目立ちそうだけどね。良い意味とは言わないけど」
ちょっと反論されるかなと思ったが、彼女は特に言葉を返すわけでもなく、不思議そうな顔で僕を見る。
「実笠、最近口数増えたね」
「……そうかな。気のせいじゃない?」
「だから、幼馴染は騙せないよ。何年一緒にいると思ってんのさ」
「まあ、愛衣が言うならそうなのかもね」
それからは、天邪鬼な性格が出てしまったのか、それとも変に意識してしまってなのか、ひたすら幸田のことについて話し続ける彼女に相槌を打ち続けた。
振り続ける雨はより一層勢いを増し、もう陽も沈む頃合いだ。
「でね、今度の日曜日ちょっと付き合いなよ。映画のチケット余ってるから消化しちゃいたいんだよね」
「友達誘えばいいじゃん。それか幸田でも誘ってみろよ。たしか部活休みだったはずだから」
「あいにく、みんな彼氏とデートだってさ。それに幸田くんを誘うなんて滅相もなさすぎる。というか、絶対今の心持ちでそんな状況になったらきっと泡吹いて倒れちゃう」
「あいつ、蟹なら好きだから安心しろ」
「そうじゃないんだよー。いいから付き合え。あと、私の買い物の荷物持ちも! 日曜、十時に駅前の時計台!」
「へーへー。昼飯おごりな」
ふいに愛衣の表情が固まる。
外から窓をコンコンと叩く音が聞こえる。見ると、大きなテニスバッグを背負った幸田が、覗き込むようにして立っていた。
テーブルに置かれたほとんど手のついていないポテトを指差し、そのあと無邪気に腹に両手を持っていってお腹すいたよジェスチャーをして何か言っているが、もちろんガラス越しなので全然分からない。
「可愛い……」
横目でチラチラと幸田を見ている愛衣がボソッと呟くが、これも聞こえないふりをしよう。
どうやら、たまたま見かけて合図しただけのようで、幸田は手を振って部活仲間を追いかけようとする。その時、僕は半ば無意識に片手をあげ、ちょいちょいと手招きをして中に入るように促した。
「ちょっ! 何やってんの!?」
隣でなんかすごい慌てふためいてるけど、何も聞こえないぞ。
幸田は指でOKサインを作ると、入り口の方へ向かって姿を消した。
「ちょ、本当に来ちゃうじゃん!」
「良いじゃん別に。三人でダベるくらいさ。何も二人っきりにしようってわけじゃないんだから」
「いや、ほんとに無理。心臓破裂する自信ある。お金は日曜に返すから!」
「は? おい、ちょっと!」
愛衣はリュックとスマホを手に持って、足早に席を去る。入り口で幸田とすれ違うと、うつむきながら一言声を交わしてそそくさと出ていってしまった。
「よかったのか? 佐野倉帰っちゃったけど」
「僕とお前が二人っきりになってどうすんだよ」
「ん? どゆこと?」
「……なんでもない」
幸田は重そうなテニスバッグを降ろし、全身を預けるように深々と座席に座った。どうやら、愛衣が帰った理由の半分――いや八割が自分にあることを理解していないようだ。
「おっ、なんか佐野倉の温もりを感じる」
「気持ち悪い、やめて」
「確かに今のはキモかった、我ながら。佐野倉には内緒な」
「怒りゃしないよ。むしろ、泡噴いて倒れるなきっと」
「そんなに嫌かぁ。佐野倉、教室だと元気良いけど意外に大人しいもんな」
「それ、特定の人物にだけだよ。それより、幸田は好きなやつとかいないの?」
先ほどまで全くといっていいほど減っていなかった山盛りのポテトが、ぐんぐん減っていく様を見ながら尋ねる。
「え、なんか急すぎない? 別に彼女とか気になってる子とかはいないけど」
「だろうね。っていうか、幸田が誰かを好きになったっていうの聞いたことないし」
「小学生の頃は同じクラスの牧野ちゃんが好きだったけどなぁ。あれが初恋」
ものの数分でポテトを綺麗さっぱり片付けた幸田は、それでも足りなかったようで追加で何品か頼んでいる。
見ているだけで膨れてきた腹をさすりながら、幸田の言う牧野ちゃんとやらを必死に思い返す。ぼんやりとした記憶しか残っていないが、なんかすごいクラスの中心にいそうな感じ……だったような。
「もしかして、幸田って元気な子とかが好き?」
「んー、そうだなぁ。まぁ、大人しい子よりは元気な子の方がいいかな。あとは、なんだろ。意外と乙女的な? ていうか、こういう話してるとデートしたくなるよな。たまには女の子と出かけたいって言うか、癒しがほしい」
「……ふーん」
幸田が貪るハンバーグプレートからウインナーをつまみ、口に放り込む。
「あ、ちきしょう。楽しみに取っておいたのに」
「デート代だよ、デート代」
「俺は女の子って言ったんだよ。誰も、男とデートする趣味はないからな」
口の中が無性に油っぽくなったので、ドリンクバーに向かおうと席を立つ。
「日曜日、映画見に行こう」
「だから、男とデートする趣味はないんだよ」
「十時に駅前の時計台な」
炭酸飲料にするつもりだったが、僕は無意識にコーヒーを注いでいた。
*
けたたましいアラームに意識が覚醒する。手探りで探し出したスマホに目を向けると、時刻は九時を表示しており、一瞬寝坊かと背中の毛が逆立つが、次の瞬間には日曜日だと思い出し、ため息を吐く。
普段であるなら、日曜日はもっと寝ていたいのだ。ただ、今日はどうしてもこの時間に起きて、やらねばならないことがある。
寝ぼけ眼を擦りながら、幸田と愛衣にそれぞれ同じ文面で『用事ができた。友達を代わりに行かせるからそいつと行ってくれ』とメッセージを送る。
愛衣から速攻で返信が帰ってくるが、それに目を通すことなく、スマホを放り投げてもう一度布団をかぶる。しかし、目が冴えてしまい、どうにも二度寝などできそうにない。
「何やってんだ僕……」
この心に霧がかるモヤモヤしたものは、一体何が原因なんだろうか。約束を破ったから? 赤い糸で繋がってない人同士をくっつけようとしたから?
なんだか布団に潜り込んでいる気にもなれず、カーテンを開けて部屋を出る。相変わらず、不気味なほど静かな家だ。張りつめたような空気が常に漂っている。いつも住んでいる場所にも関わらず息がつまった。
リビングに降りると、無言で家事をしている母親と無言で新聞を読む父親が、無意識にか互いに背を向けている。
「実笠、早いじゃないおはよう」
「ちょっと、起きちゃってね」
いつも通り、母親とは朝は一言で終わる。僕も母親も最低限だけ会話を重ねて、終了だ。
テーブルに出された朝食に手をつける間、誰一人として言葉を発さない。もちろん、僕も。
珍しく晴れた陽気にも関わらず、冷たい空気が流れる。
心に溜まった靄と家に流れる嫌な空気がまとわりつく感じがして、僕はシャワーを頭からかぶった。すると、いくらかマシになったので、自室で本でも読んで過ごそうと考えていた矢先、リビングから父親の怒鳴り声が聞こえて来た。
「……はぁ」
ため息を吐くと幸せが逃げると言うが、僕に言わせてみれば、幸せじゃないからため息が出るのだ。逃げるも何も、元から幸せならため息なんてつかないんだから。
両親の口喧嘩はいつも通り激化し、僕の居場所はなくなった。
家にいるのが億劫になり、外へ出て来たはいいが、一人で行きたい場所など特になく気がつけば駅前の時計台に足を運んでいた。見上げると時刻は十時半を指しており、二人の姿は見えなかった。
安心したような、できればどちらかが待っていて欲しかったような、どっちつかずの気分だ。
僕は何がしたいんだろうか。背中を押したと思えば、僕が思い描くシナリオにならないでほしいと思っている自分がいる。
「ま、考えても仕方ないか……」
もう二人で映画を見に行っただろうし、あとはなるようになるだろう。
立ち上がり、時間を潰す場所を考える。
なんとなく、今は話がしたい気分だ。
邪よこしまにも近い気持ちで、駅の裏手に向けて歩を進めた。日曜だと言うのに閑散とした通りに存在する喫茶店のドアを緊張しながら開ける。カランコロンという木板を叩くような音と共に、香ばしくも苦い香りが鼻腔奥深くを刺激した。
「いらっしゃい。おや、君は確か……」
背を曲げて椅子に座っていた老人が腰をあげ、店の奥に目を向けた。つられて視線を向けると、店の奥角の席に彼女がいた。長い睫毛を下方向へ向け、手元の本の世界へと入り込んでいるようだ。乱れひとつない長い黒髪に人形のような整った顔立ちは、アンティーク調の店内にぴったり染まっていて、まるでこの空間が彼女のためにあるようにさえ思えてくる。
「琴音ちゃん。お友達が来たよ」
マスターの声に彼女が顔をあげる。彼女は少し驚いたような顔をしたが、口元に小さな笑みを浮かべ、本を閉じた。それが同席を許す合図だと判断し、僕は彼女の向かい席に座った。
「こんにちわ」
「こんにちわ、桜坂さん。邪魔しちゃったかな」
「そんなことないわ。暇な休日の時間を潰すために来てるだけだもの」
「僕も同じかな。考え事してたら、ここにたどり着いた」
彼女が僕の顔色を伺うようにまじまじと見つめてくる。そこまでまじまじと見つめられると、そういうことに疎い僕でも流石に照れてしまう。
「何かあったの?」
「いや、わざわざ休日に話すようなことでもないよ。あんま面白くないし」
「そんなことないわ。篠原くんと話すのは楽しいもの。ぜひ、聞かせてもらいたいのだけれど」
彼女の微笑みがやけに眩しく感じ、思わず視線をそらした。
「じゃあ、少しだけ聞いてもらおうかな」
最近、何かあると彼女に話したくなる自分の弱さに目を背けて、心の中にあるモヤモヤした感情について語った。
こうして、僕がこの喫茶店に来た目的が果たされたのである。
「面白くないわ」
僕の話を聞いてからの彼女の第一声が、これである。テーブルに頬杖をついて、わざとらしく外まで見る始末である。
「だから言ったでしょ。面白くないよって」
「そうじゃなくて、篠原くんの行動が面白くないのよ」
「ちょっと意味がわからないんだけど」
「だから、二人で行かせてはい終わり、じゃつまらないでしょ? 普通、そこは尾行するものよ」
不意に彼女がこちらに向き直る。普段はしないような無邪気な笑顔に、不覚にも少しだけ胸が跳ねた。
「僕のもやもやってそうじゃないんだけど」
「そんなにお門違いな話ってわけでもないじゃない。だって、後を尾ければいつまでも悩む必要もなく結果が分るじゃない」
「それは……そうだけど。バレたら愛衣に殺されると思うんだよなぁ」
彼女は返事をするでもなく、両手を逆手に組んで大きく伸びをする。白いワンピースの胸元が盛り上がり、身体のラインが浮かび上がる。無意識に見てしまったことに罪悪感を覚え、慌てて目線を外す。
「篠原くんも男ってことね」
「なんのこと?」
「こら、女子はそういう視線に意外と敏感なのよ」
「……申し訳ございませんでした」
「なんちゃってね。男の人はそういうものだって分かってるから、全然気にしてないけどね」
甘いはずのコーヒーが少し苦く感じた。全ての男性に後ろめたさを感じるが、彼女の言う通り男性とはそういう性別なのだ。
「よし、それじゃ行きましょうか」
そそくさと本をカバンにしまい、立ち上がる彼女。
「どこに?」
「どこにって、決まっているじゃない。映画館よ」
映画館は駅の真横に立つ大きなビルの中に入っている。僕たちのいたカフェからは歩いて数分だ。
ビルの中は日曜日ということもあり、混み合っているため、誰かを後ろから尾けてもそう簡単にはバレないだろう。
「ここ、久しぶりに来たわ」
「僕も。一人じゃ、なかなか来ないよね」
「映画が終わるのは何時頃なの?」
「えーと、たしか愛衣が観たがっていたのであれば、あと四十分くらいかな」
幸田のことだ。一緒に観るとなれば、きっと相手の観たいものを優先するだろう。
「じゃあ、それまでどこかで時間潰しましょう」
「四十分もあるんだから、もう少しさっきのところにいて良くなかった?」
「あら、篠原くんは私とのデートは嫌だって言うのかしら」
「まさか、光栄だね」
「そんな冗談は置いておいて、クレープが食べたかったの」
三、四階にある映画館まで行かず、二階でエレベーターを降りる。フードコートや衣服店が増えたせいか、人がさらに多くなり、正直尾行という目的がなければ今すぐに外に出たい気分だ。
「先に本屋に寄っていいかしら。クレープ持ってなんて入れないし」
そう言いながらすでに足先が本屋に向かっている彼女の後を追いかけるようについて行く。別に本は嫌いじゃないし、時間もまだあるので大丈夫だろう。
「この作者の本、面白いから今度貸してあげるわ」
彼女が指差す先にあったのは五百ページ以上ありそうな厚い本で、軽くめまいがした。
「なんか頭痛くなりそう」
「ちゃんと読みやすい本も出してるから、そっち貸してあげるわ」
「そう? じゃあ、読んでみようかな」
「ちゃんと読んだかどうか、感想は聞くわよ」
そんななんでもない話をしながら、店内をぐるりと回る。本の話をしている時の彼女はとても楽しそうで、抑えられない好奇心のままにたくさん喋る彼女はとても輝いて見えた。
結局、彼女は一冊本を買い、ついて行った僕はなぜか彼女が面白そうとつぶやいていた二冊を手に取っていた。
本屋を後にして、クレープ屋の列に並ぶ。田舎の街だと言うのに、駅前はやたらと人が多いから、必然とクレープを買う時ですら、待ち時間を要する。
「それにしても、桜坂と一緒にいるとやたらと視線感じるんだよね。なんか落ち着かない」
「そうかしら?」
彼女はチラチラと左右を見渡し、最後に僕の顔を見上げて首をかしげる。
「普段から目立たないように意識しているつもりなんだけど。あっ、もしかして服装変だったりする?」
やっぱり、目立たないように心がけていたのか。
それでも知らず知らずのうちに目を惹かれていることに気づいていないのは、彼女らしいといえばらしいけれど。
「そんなことないよ。よく似合ってる。が、ゆえにってこと」
「それゆえってこと?」
「そういうこと。光が影になろうと努力しても明るすぎて無理でしょ? もっと大きな光があるなら別だけどね」
彼女がじっと何かを疑うような目で僕を見る。そうなると、今度は僕が首をかしげる番だ。
「篠原くんって、たまに奥歯が痛くなるようなセリフを吐くわよね」
「思ったことをそのまま口に出しているだけだよ。嘘つくの苦手だし」
並ぶこと数分、ようやく店員の顔を見ることができた。彼女は注文を聞かれると、真っ先にチョコバナナを選ぶ。同じものにしようと思っていたのだけれど、二人して同じものを注文するのもおかしい気がして、僕はとっさに目についたきなこみかん味にした。
「きな粉にみかんって美味しいの?」
「うーん、どうだろう。いや、正直あんま美味しくない」
きな粉のパサパサ感とみかんのみずみずしさがなんともミスマッチで、口の中がごちゃごちゃだ。
「どんな味なの?」
「言葉じゃ伝えられないような、形容しがたい味だね」
「ふーん……」
彼女は訝しげに僕のクレープをじっと見つめている。
「一口食べる?」
彼女はうーんと唸る。
「じゃあ、一口いただ――」
「あれ? 実笠?」
突然、名前を呼ばれ、僕と彼女は同時に身体を固めた。思わず、彼女と顔を見合わせてしまう。
恐る恐る振り向く。そこには手をひらひらと振っている幸田と、その横――といっても人が二人くらい入れそうなほど空けて口角をひくつかせている愛衣の姿があった。
「や、やあ。偶然だね」
やたらと早歩きで幸田を置き去りにして近づいてくる愛衣。
「偶然じゃないでしょ! 実笠ぁ!」
幸田に聞こえないほどの小さな声で怒りをあらわにする愛衣だが、幸田がいるせいか、どこか嬉しそうで、半分は照れ隠しのための態度なんだろうなと、希望的な観測を持っておくことにしよう。
「映画は面白かった?」
「そういう話じゃなくてね」
「おー! 映画な、面白かったぜ。普段、映画なんて見ないんだけど、俺真剣に見すぎてエンドロールまでじっと見てたわ。な、佐野倉」
「あ、えっと……そうだね、面白かった、です」
急にしおらしくなる愛衣。きっと、今日はずっとこんな感じなんだろう。
「それにしても、用事ってぼかすから何かと思えば、桜坂とデートかよ。水臭いぞ、実笠」
「いや、えっと」
「篠原くんとはたまたま出会ったの。それで、私が勝手に引っ張り回してるだけよ」
突然、割り込んで来た桜坂に幸田は一瞬、キョトンとした表情を浮かべたが、すぐにニッと笑う。
「おー、そうだったのか。でも、意外だな。桜坂、大人しそうな印象だったから、外でクレープ食べるとかじゃなくて、家で本とか読んでそうなイメージだったわ」
当たらずも、遠からずだ。
「甘いもの好きなの。でも、一人じゃ並びづらいから篠原くんに一緒に並んでもらったのよ」
「なるほど、確かにあれは一人だと浮くな。いや、でもなんか無性に食いたくなって来たな。佐野倉、クレープいる?」
「あ、えっと、私は大丈夫」
「そっか、じゃ、ちょっと並んでくるわ」
そう言い残し、幸田はカップルと女性しか並んでいない中に一人で並びに行ってしまった。食い意地が張っているのか、度胸があるのか、どっちなのだろうか。どっちも正解な気がするけど。
幸田の姿が小さくなると、愛衣が一気に息を吐き出した。
「はぁ〜、疲れた」
「でも、楽しいだろ?」
愛衣は赤らめた頬で睨みつけてくるが、やっぱり必死ににやけを抑えようとしているのが分かってしまう。
「まあ、それは当たり前だけど」
「この後は?」
「……一緒にカラオケ行く」
「そりゃ、すごい。頑張れ」
愛衣は特に返事をすることもなく、僕のクレープをふんだくって一口食べた。
「うえ、なにこれ。あんま美味しくない」
「やっぱり、そう思う?」
処理してくれるなら助かったが、早々に突き返されてしまった。
「それより、デートの邪魔してごめんね。桜坂さん」
「さっきも言ったのだけれど、篠原くんは友達よ」
こちらこそ邪魔してごめんなさいという罪悪感で苦笑いする僕とは違い、桜坂はマイペースにクレープを食べながら返答した。
「じゃあ、今から私たちも友達ね。また、今度話そうね! やっぱり、私も一緒に並んでくる」
愛衣は自分の頬を叩き、顔をしっかりつくって幸田の元へ向かって行った。その姿を見送り、今度は僕たち二人が大きく息をついた。
「迂闊だった。全然時間気にしてなかった……」
「私もよ」
まあ、それでもなんとかなっているということが分かったので良しとしよう。
「……帰るか」
「そうね。家で探偵のなりかたでも勉強することにするわ」
持って帰るわけにもいかず、クレープを処理しようと口を開けて、思い出した。
「あ、一口食べる?」
彼女はクレープに目を落とし、次に僕の顔を見て、もう一度視線を落とす。
「いえ、いいわ。やっぱり、あんま美味しそうじゃないもの」
頼んでおいてなんだが、このクレープには少し同情してしまう。
残ったクレープを口の中に放り込む。
やっぱり、あんまり美味しくはなかった。
*
環境の変化のせいか、それとも残された高校生活が僅かという意識が時の流れを早く感じさせているのか、どちらにせよ、僕たち高校三年生にとって、一日は非常に貴重だ。
だからこそ、彼女との一日もまた、決して軽んじてはいけない。
セミの鳴き声が聞こえ始める頃、彼女は以前のように長く話すことができなくなった。とはいえ、普通に会話はできるし、日常的な会話であれば何の問題もない。
それでも、やはり一時間と話していると彼女は苦しそうに喉を摩さするのだ。それを見るのがどうしようもなく苦痛で、言葉には出来ないもどかしさを感じてしまう。一番苦しくて、悲しいのは彼女のはずなのに。
放課後の図書室。彼女はひとしきり咳き込んだ後、何事もなかったかのように会話を再開した。
「それで篠原くんは大学、どうするの?」
「桜坂、今日はもう帰ろう?」
彼女は一つ喉を鳴らした。
「あと、少しだけ。付き合って」
「じゃあ、帰りながら話そう」
彼女は嬉しそうに微笑むと、カバンを持って立ち上がった。
最近の彼女は出会ったばかりの時よりも、ほんの少しだけ幼く見える。僕が彼女のことを理解しだしたこともあるし、彼女が多少なりとも心を開いてくれているおかげだと思う。多分、今の彼女が素の彼女なのだろう。
誰もいない図書室に別れを告げ、鍵を返しに職員室に向かった彼女より一足先に下駄箱に向かう。すると、下駄箱を出たところ――屋根付きでグランドを上から見下ろせるため、生徒からはバルコニーと呼ばれている場所に見慣れた姿があった。
「まだ帰ってなかったの?」
野球部と陸部がグラウンドを整備している様子を頬杖をついて眺めていた愛衣は、ばっと振り向き、声をかけた主が僕だと分かると、あからさまに肩の力を抜いた。
「なんだ、実笠か。それ、私のセリフでもあると思うんだよね」
「まあ、それもそうか。誰待ってるの? 幸田?」
彼女は露骨に顔を逸らし、小さく頷いた。
「へえ、頑張ってるじゃん」
無意識に言った自分の言葉に、胸が針で刺されたようにチクっと痛んだ。
「もう、そんなに時間もないじゃん? だから、ちょっと頑張ろうと思って。毎日はしつこいだろうから、金曜日だけ」
女子が一緒に帰るように誘っている時点で、何となく察しがつきそうなもんだけど。幸田は人一倍そういった感情に疎いから、果たして愛衣の誠意が伝わっているかは不明だ。それが分かっているから、愛衣も以前より積極的にしているのだろう。
最近では普通にメッセージのやりとりもしているらしいし、映画の一件以降、二人の仲は順調に進んでいると言えるだろう。
だからこそ、胸が痛んだ。まるで、彼女と繋がっている赤い糸に自分の胸が貫かれているようで、無意識に胸の前で掴めもしない運命という名の鎖を握りしめた。
「実笠は? 琴音と帰るの?」
「えっ、まあ……そうだけど」
もう一つ変わった点と言えば、愛衣と桜坂が話すようになったことだろうか。元々、愛衣は誰に対しても社交的だし、きっかけさえあれば誰とも仲良くなるから、そんなに驚くことでもないけど。
「あんたたち、仲良いよね。もう、付き合っちゃいなよ。琴音のこと、好きでしょ?」
「……違うよ。僕と桜坂の関係は、恋愛的なものじゃないんだよ」
「ふーん。なんか、難しいね。でも、琴音といるときの実笠は楽しそうだよ。それは琴音も一緒のことだけどね。あっ、やばい幸田くん来た!」
部室から幸田が出て来たのを発見すると、彼女は頬杖をやめて、丸めていた背をすっと伸ばして、とたんにそわそわしだした。
幸田が僕たち二人を見つけ、混じり気のない笑顔で手を振ってくる。それと同時に桜坂が校舎から出て来た。
「じゃ、僕は行くから、頑張りなよ」
胸が痛い。本当は邪魔してやりたい。そんな思いを飲み込んで、桜坂の元に足早に向かう。
「あ、また明日ね! 琴音もー! ばいばーい!」
桜坂は小さく手を振り返していた。
「良かったの? 佐野倉さん」
急坂をゆっくりと下る最中、話を切り出したのは彼女だ。時間が開いたおかげか、先ほどみたいに苦しそうじゃなくて、少しだけ安堵する。
「幸田と帰るんだってさ。最近、仲良いんだよあの二人。幸田は愛衣の気持ちなんて気づいてなさそうだけどね」
彼女の視線が僕に向いた。
「篠原くんはそれでいいの?」
「正直、僕にも分からない。これでいいのか。二人をけしかけたことが正解なのか、間違いなのか分からないんだよ」
もう癖になってしまって、胸に突き刺さる鎖を握る。
「そこに赤い糸があるの?」
「そうだよ。今、後ろの学校に向かって伸びてる」
「ふーん……」
彼女は握りしめる僕の手のすぐ近くで、同じように手を握ったり開いたりする。その位置に糸がないことは、まあ言わなくてもいいだろう。どうせ、僕以外には見えやしないのだから。
「やっぱり、見えないし触れもしないのね」
「僕も触れはしないよ。見えるだけ。だから、もどかしい」
「そうね。決まっていて、変えられない運命なんて、本当にもどかしいだけよね」
彼女の言葉を聞いて、僕は失態に気が付いた。
「ごめん。軽率だった……」
何が、なんて言わなくても彼女は分かるだろう。彼女は面白おかしく笑い出した。
「篠原くんって、察しが良かったり、妙に大人びた性格のせいで色々損してそうよね」
「変なものが見えるおかげで、空気を読む癖がついちゃっただけだよ」
僕と彼女が一緒にいるのは、好きだとか、気になっているみたいな青春っぽいものじゃない。もっと、重く、それこそ鎖のような運命を互いに認知し合う存在だからだ。
そんないびつな関係でも、唯一弱みを見せることのできる彼女といる時間は、辛い日常の中の安息だ。
人によっては、それは恋だと、恋愛だと言う人もいるかもしれない。
それでも、僕は彼女に恋はしないし、彼女は僕と恋愛をしない。そういう運命なのだ。
「実笠、お願い! 夏祭り一緒に行こ!」
そんなお願いを愛衣にされたのは、夏休みに入る直前のことだった。
「頼む相手、間違ってない? 確かに小さい頃はよく一緒に行ったけど」
「そうじゃなくて、いや、そうなんだけど。何としても夏休みに決着をつけたいんだよ」
「何の?」
そこまで話して、幸田が友達と談笑しながら教室に入って来た。僕の視線が明後日の方向に向いていることを察し、彼女も幸田の存在に気が付いたようだ。
「やっぱり、あとで話す! ついでに琴音も誘っておいて!」
ちらちらと幸田に視線を向けながら、愛衣はいつものギャルグループに戻って行った。
なるほどなぁ、と思った反面、少しめんどくさくて、とんでもなく憂鬱な祭りになりそうだと感じた。
それでも、僕には二人の行方を見届ける義務があると勝手に思っている。ここまでくるとただのお節介な気もするが、やっぱり気になるのは事実だ。
それに、桜坂と夏休みに会う口実になるという邪な思いも若干あったりする。今の様子を見るに、夏休み明けの二学期が始まった頃には、今以上に話すことが困難になってしまうはずだ。
夏休みとは言え、受験生の僕たちは補習などで学校に来るものの、それでもやっぱり会う回数は減ってしまうだろう。一日でも、一分でも長く彼女と話したいという思いが、愛衣の願いを断るという選択肢をさっぱり消し去ってしまった。
放課後、夏祭りの件を伝えると、彼女は存外あっさりと承諾した。
「私、友達とお祭りに行くのなんて初めてで、今からワクワクしてるわ」
「この街、祭りの花火だけが有名だもんなぁ」
「機を見計らって佐野倉さんと雲宮くんを二人っきりにしてあげましょ。付き合ってない男女が二人で花火を見るなんて、結構ロマンチックでドキドキするわね」
「……そうだね」
我ながら、つまらない意地を張っているなと思う。うじうじ悩んで、それを隠そうともせず、こうして進んで行く周りの関係が、時間が、止まってしまえばいいと願っている。
「ここまで来てしまったら、あとは遠巻きに眺めているしかできることはないわよ」
「やっぱり、そう思う?」
参考書の一ページを眺めて十分。書いてある内容は全く頭に入ってこないし、もはや飾りと化したその行為があほらしく感じて参考書を閉じる。
「言ってはいけないことかもしれないけど、ただの高校生の恋愛よ。もちろん、学生のうちから付き合って、そのまま結婚する人だっているのかもしれないけれど、そうならない方が可能性的には高いんだから、あまり自分を追い詰めない方がいいわ」
参考書を閉じると、行き場のない視線は自然と目の前の彼女に注がれる。彼女は話しながらもノートにペンを走らせて、次々と参考書の問題を解いている。
視線が下を向く時に覗く長いまつげも、すらすらとペンを動かす細い指先も、もう僕には見慣れた光景になってしまった。なんだか、すごい贅沢な思いをしている気がしなくもない。
「それとも、佐野倉さんを自分のものにしておきたい欲がまだあるの?」
「そんなの最初から無いよ。僕は恋愛なんて見通しのつかない青春は出来ないんだから」
「でも、篠原くんは表面上そう思っているだけで、きっと心のどこかでは恋をしたいと思っているはずよ」
ノートの端に彼女はいびつなハートを描いた。きっと、彼女は綺麗なハートを描いたつもりなのだろうけど、今はそんな不恰好なハートが僕の恋愛観を表しているような気がした。
「それは、僕自身にも赤い糸があるから?」
「そうよ。だって、本当に恋をしないと誓っているのなら、私みたいに赤い糸は見えないはずでしょ? それとも、私にも赤い糸が見えるようになったかしら?」
両手を軽く広げて見せた彼女の胸元に赤い糸なんて鎖は見えない。
「本当に恋愛がしたいなんて気持ちは一ミリもないんだけどなぁ。赤い糸が見える能力を持つ人自身が、赤い糸を持ってないなんておかしすぎるから、神様が特別に付けたんじゃないかな」
「その説も否定は出来ないわね。何しろ、科学的には絶対的に証明出来ないものなんだから」
「僕はいまだに自分の痛々しい妄想だと思っているけどね」
「そうであるなら、篠原くんはとんでもない予知能力者ってことになるわね」
グラウンドからかすかにホイッスルの音が聞こえてきた。サッカー部の部活終了を合図するものだ。このホイッスルが聞こえて来ると、もうすぐ下校時間なのだと最近になって気が付いた。
彼女もそれを知っているのか、ホイッスルの音を聞くと参考書を閉じて大きく伸びをした。夕焼けに照らされた彼女は、まるで今にも消えて無くなってしまいそうな儚さと、それをかき消してしまわんとする圧倒的な美しさを感じさせる。
きっと、彼女みたいな人を本当の美少女とか美女とかいうのだと思う。
でも、僕は彼女の本当に美しい部分を知っている。彼女と話さないと絶対に分からない、その内面と価値観こそが、彼女の真に美しく輝きを放つものなんだと。
「恋愛なんて僕はするつもりはないんだけど、桜坂になら恋してもいいかなって思うよ」
開いた窓から、強い風が吹き込み、カーテンを大きくなびかせた。
彼女は表情を変えることもなく、僕を見つめる。
「それは告白と受け取っていいのかしら?」
「違うよ。ただ、赤い糸が見えなかったら、今の僕はきっとこう言うだろうなって思った」
「……駄目。私は人を愛しない。恋はしないんだから」
「知ってるよ。桜坂に赤い糸はないよ」
彼女は少し安心したようにうっすらと口角を上げた。
「帰りましょ。たまには先生に言われる前に職員室に行って鍵返したいの」
こうして、また残り少ない彼女との一日が終わる。僕はあと何日、彼女とこうやって話をすることができるんだろう。
最後の日に、僕は彼女と何を語るんだろう。
ふいに目が覚めた。脳が覚醒したというよりは、何かに妨げられて無理やり起こされた気分だ。
前日にセットしておいたアラームはまだ鳴っていないようだし、カーテンの隙間から覗く外は薄暗く、とても朝を迎えて起きたとは考えられなかった。
身体を起こしてカーテンを開けると、やっぱり空はまだ白んですらなく、小鳥の囀りさえずよりはフクロウの鳴き声が聞こえてきそうな雰囲気だ。
僕は眠りは深い方だし、夢とかも滅多に見ないタイプだから、こんな時間に目が覚めることは記憶にほとんどない。スマホをタップすると寝起きにはキツい明るさで画面が付き、時刻を表示した。
「四時半……?」
そりゃ、夏だろうがまだ陽が昇っていないわけだ。
首を傾げつつ、すっかり冴えてしまった目をこすりながら布団に潜り込もうとした刹那、下の階から話し声が聞こえてきていることに気が付いた。その瞬間、僕は不自然な時間に起きてしまった理由と今の状況を察し、心底嫌な気分になった。
耳を塞いでさっさと寝てしまおうと布団を頭まで被った。しかし、脳裏に赤い糸が――僕を縛り付ける見えないはずの糸がチラつく。
見守るしかない。桜坂はそう言った。その通りだ。僕はあくまでも愛衣と幸田の友達というだけで、本人ではないんだし、二人の幸せをただただ願う存在だ。
二人が今、幸せならそれでいいじゃないか。現に幸田も愛衣を気にし始めているようだし、愛衣に至ってはもう何年も片思いだった相手と両思いになれるのだから、これ以上に幸せなことはないだろう。
それでも、駄目なんだ。
運命の鎖は、そう簡単には切れないし、この世界は敷かれたレールに沿って進むことを求められる世界だ。道を外れた者がどうなるか、僕は知っている。ある意味、一番身近でそれを目の当たりにしている。だからこそ、目をそらしてはいけないんだ。
静かに起き上がり、音を立てずに廊下に出た。階段のすぐ下にあるリビングからうっすらと明かりが漏れ、言い争っている声が聞こえる。
「どうして、こんな時間に帰って来るのよ! こっちは夕飯だってつくってあったのよ。残ったあなたの分、捨てろって言うの?」
「だから、急な接待だったんだよ! 仕方ないだろ! 取引先の相手の前で女房に連絡を入れろって言うのか! お前だって近所の連中と出かけて飯も作らずに遅くに帰って来ることあるじゃないか!」
「それとこれは関係ないでしょ!」
どうやら、父親が真偽はともかく、取引先の人と飯に行って、今帰ってきたらしい。今回に関しては父親に非があるのは明らかだが、父親の言い分も確かで、母親も夜遅くに帰って来ることがしばしばある。
僕からすればどっちもどっちで、正直聞き飽きた内容の喧嘩だ。
別に親がどこの誰とほっつき歩こうが、僕には関係ないし、興味もない。両方とも不倫してるんじゃないかとさえ思っている。
一体、いつから両親はこんなにも険悪な関係になったのだろう。
僕が幼稚園くらいの時はまだ仲が良かった気がする。少なくとも、幼かった僕の目にはそういう風に見えていた。しかし、小学生に入ったぐらいの時からちらほら言い争いが増え、いつしか毎週のように喧嘩を繰り広げるようになった。思えば、この頃から二人の目に僕は映らなくなったのだと思う。
父親はたまに暴力を振るうようになったし、母親は露骨にご機嫌取りをして夫婦喧嘩になった際に擁護するように言い寄ってきた。
僕が七歳の時に今までとは比べ物にならない夫婦喧嘩が起きた。
喧嘩の内容は覚えていないけど、父親が椅子を蹴り飛ばし、窓ガラスを割った記憶だけが鮮明に残っている。庭へと繋がる大きな窓ガラスで、その近くで丸くなっていた僕が、上空から降り注ぐ硝子の破片で頭を切ったことで喧嘩は収束した。
偶然か、必然か、その夫婦喧嘩の次の日、僕は自分の視界が赤い糸で埋め尽くされていることに気が付いた。そして、どうして両親がこんなにも不仲なのかを理解して、納得してしまった。
赤い糸で繋がった同士でなければ、こういう結末を辿るのだと、若干七歳にして気づいてしまったのだ。
リビングへと繋がるドアの横に腰を下ろし、しばらく不毛な喧嘩を聞いていたが、馬鹿馬鹿しくなり、自室に戻ろうとしたその時、母親から思いがけない台詞が飛び出した。
「もう、離婚よ!」
冷静に考えれば、当たり前のことで僕もさっさとそうするべきだとさえ思っていた。しかし、実際に自分の親がその言葉を使っている事実に、頭が付いて行かなかった。
そのあとの会話は、頭に入って来なかった。
僕はいつ自室に戻ったのか、いつ眠ったのか全く覚えていないまま、気がつけばいつも通りのアラームで再び目を覚ました。
*
「ですからして、三年生は受験生としての自覚を持ち、また本校の生徒としてふさわしい行動を――」
長ったらしい校長の言葉は、きっと僕だけじゃなくて大半の生徒の耳には入っていないだろう。体育館の壁際で気だるそうに突っ立っている僕らの担任すらも聞いていないように見える。
マイクを通した大きな声ですら内容が入って来ないくらい、今年の夏は暑く、映像越しであればきっと最高の雰囲気を感じられるはずだ。しかし、実際は滲む汗も、青すぎる空を貫かんと立ち昇る入道雲も、その場にいればうっとおしいだけだ。
夏が嫌いだとは言わない。でも、夏だろうが、冬だろうが、その時になればその季節が嫌になる。暑すぎるし、寒すぎるし、実際に体感しなければ見方も感じ方も違うということだ。
校長のありがたい話が終わり、教室に戻ると、あとはホームルームで一学期が終わる。
「あー、俺からは特に話すこともないんだけど、受験生としての自覚を持ってだな、あとは本校の生徒なんだぞってのをちゃんと意識して――」
「先生、それさっき校長先生が話してましたよ」
クラスの真面目な女子が口を挟む。僕からすれば、同じことを話していようが、いまいがどっちでもいい話だ。
「あー、そうか……いや、そうだったな、すまんすまん」
結局、担任の話もさほど耳に入らないまま、ホームルームが終わり、夏休みへと突入する羽目になった。三年生は補習なり、受験対策などがあるため、頻繁に学校に来ることになるのだが、それでもやっぱり夏休みという響きがクラス中にいつも以上の活気をもたらしているように見える。
今年の夏は長くなりそうだなと、痛いくらいの強い日差しを燦々と浴びる席から立ち上がり、図書室へと向かった。
夏休みに入って、彼女と初めて会ったのは幸田の最後の大会の会場だった。結局、終業式の日は彼女は病院へ行っていたらしく、図書室に彼女の姿はなかった。
幸田が順調に勝ち進んでいく様を当然のように眺めながら、彼女とたわいもない会話を繰り広げる。
「そういえば、篠原くんは大学はどうするの? 進学はするでしょう?」
「んー、まだちゃんと決めてはいないんだけど、とりあえず東京には出たいなぁって考えてる。桜坂は?」
「私もしっかり決めてないけれど、東京に出るわ。この近くには、私でも通えそうな大学は無いもの」
自然と視線が彼女の喉に向かってしまう。こうして会話をしている相手が、喋れなくなるとはいまだに信じられないでいる。
しかし、日を追うごとに彼女は確実に話を途中で途切らせることが増えた。最近では、一時間と持たずに苦しそうに喉に手を当てて咳き込んでしまう。その度に、僕は彼女を気遣って話を切るのだが、彼女は頑なに喋り続けた。まるで、運命に抗うように。
結局、あっさりと次の大会の出場権をゲットした幸田は、まだまだやり足りなさそうな表情でコートから出てきた。試合中から僕と桜坂を見つけていたようで、笑顔で手を振って来る。
桜坂は小さく手を振り返していたが、僕は後ろについた手をあげることはなく、代わりに舌を出した。
「こんな時くらい、しっかり応援してあげればいいのに」
「僕がここに来た時点で、最大限の応援になっているんだよ」
「それもそうね。雲宮くん、すごい嬉しそうだもの」
ペアの人と別れた幸田の元に、愛衣がタオルと飲み物を持って駆け寄る。遠すぎて何を話しているかは分からないが、二人とも嫣然とした笑顔で見つめ合っている。
「良い二人ね」
桜坂が珍しく優し気な笑みで呟く。
「……そうだね」
「あの様子なら、二人っきりで夏祭りに行ったって、大丈夫そうに見えるんだけど」
「僕もそう思うよ。側から見れば、もう恋人同士に見えてもおかしくないよね。実際、クラスには勘違いしてる人もいたし」
今日も、憎たらしいくらい澄み渡った青空だ。でも、反面に僕の心の黒ずみは消えるどころか、増え続けていた。
「夏祭り、楽しみね」
「……うん」
結局、僕は彼女の言葉を否定することはできず、空を見上げたまま曖昧な返事をした。