背後でかすかにパコーンッというゴムゴールを弾く軽快な音が聞こえて来た。
ここ最近の肌寒さはどこに行ったのか、まだ朝の八時半だというのに、立っているだけで額に汗がじんわりと滲む。まだ眠い目を擦り、雲ひとつない前方の空を眺めていると、肩を軽く叩かれる。
視線を下ろすと、ストライプシャツにネイビーの花柄ロングスカートに身を包んだ女性が、表情薄くいつの間にか隣に立っていた。
彼女は不自然に小さく咳払いをする。
「お待たせ」
小さくつぶやくように発された挨拶に、踵を返すことで応対する。
しばらく、無言で歩くと、先ほどから聞こえていたボールを弾く音が徐々に大きくなっていく。
隣を歩く彼女からちらっと視線を感じる。
「褒めてもいいのよ?」
「時間に遅れなかったことを?」
「……服装を」
「あぁ、似合ってるね。落ち着いた清楚感が綺麗な黒髪に良く映えてる」
「ちゃんとできるじゃない。物語の中だと、こういうシーンはお門違いなところを褒めて、女性に幻滅されるのが定番よ」
彼女に視線を向ける。どうやら、学校じゃないと彼女は空気を演じる真似はしないみたいだ。正確には、制服という平等に縛られた服装じゃないせいで、空気を演じることは到底できていない。
周辺男性からの好色にも近しい視線が集まっていることに、彼女は気づいているのだろうか。
隣を歩いていて居心地の良いものではない。
「口説いた相手と休日に隣を歩くのって、どんな気分かしら」
「優越感でたまらない気持ちだね」
「ええ、そうね。私もよ」
そもそも、どうして貴重な休日に僕は桜坂琴音と一緒にテニスコートになんか来ているのだろうか。
「ところで、あなたの赤い糸の繋がる先の相手は、テニス部なの? 違うと私は予想しているのだけれど」
「もしかして、心を読める特殊能力とか持ってたりする?」
「そんなの持っていたら、会話なんて必要なさそうで便利ね。本当に喉から手が出るほど欲しいわ」
表情をつくらない彼女が、今日初めて口元に小さく笑みを浮かべた。
あの喫茶店での一件以来、僕と彼女は放課後、図書室で少しの間会話を交わすようになっていた。ほとんどは彼女が質問して、僕が答えるだけなのだけど。
彼女は予想以上に好奇心が旺盛のようで、次の休日に、もう一度あの喫茶店で話を聞きたいと言われてしまった。正直、これ以上話すようなことも特にないので、テニス部の友人の試合を見に行くと嘘をついて断ろうとしたところ、なぜか彼女も行くと言い出した。そして、奇妙な状況の今に至る。
そんなわけでわざわざ休日に出会って間もない彼女と共に、普段であれば絶対にしないであろう、親友の試合の応援に来てしまったというわけだ。
「私、テニス場なんて来たの初めて」
「まあ、名の通りテニスをやってなければ、特に縁のない場所だからね。かくいう僕も中学生ぶり」
「篠原くんは中学はテニス部だったのね」
「なんとなくで入ってただけだよ」
時計に目を向けると、幸田の試合予定時刻まで十分を切っていた。本来であれば、すでにコート内に入っていてもおかしくない時間だ。
「実笠は強かったんだぜ。彼女さん」
不意に肩にべたついた肌がずしっとのしかかる。形容しがたい不快感に眉に力が入った。
「桜坂琴音です。篠原くんとはただの知り合いですよ」
「そっか、そっか。俺は雲宮幸田。実笠の数少ない友達。なんでか分からないけど、こいつを連れて来てくれてありがとうね。いつ誘っても来てくれないからさー」
「おい、幸田。重いし、汗臭いから早くどけ。あと、僕は友達が少なくない」
無駄に筋肉質な腕を振り払い、わざとらしく肩を払う。
「そんな邪険にすんなってー。あ、俺十一番コートね」
幸田はそれだけを言い残すと、試合前だというのにものすごい速さで走って行ってしまった。嵐のように訪れ、雷のように去って行く友達に、僕はただただため息しか出ない。
「かっこいいだろ? 185センチ、68kg、運動神経抜群でおまけにあの気さくな性格。ちなみにめちゃくちゃモテる」
幸田の走り去って行った方向に指を向ける。
「一般的な価値観だとかっこいいってことになるのかしら」
「間違いなく、そうだろ。三年になって、もう三回告白されている」
「ふーん……」
十一番コートに到着すると、ちょうど試合が始まったところのようで、僕たちは手頃な席に腰を下ろした。
「桜坂さんから見て、幸田はかっこいいと思わない?」
「八百屋にこの魚鮮度いいでしょ? って聞くようなものだと思う」
「面白い言い回しだね。でも、よかった」
一瞬、彼女は僕に視線を向けたものの、物珍しいテニスの試合が気になるのか、すぐにコートに目を戻す。
「よかったって、どういうこと?」
「桜坂さんみたいな美人が幸田を好きになっちゃったら、僕の幼馴染じゃ歯が立たないからね。ほら、あそこにいる、いかにも幸田にベタ惚れですっていう表情している女」
コートに一番近い前方で、まるで転げ落ちるんじゃないかと思うほど前のめりで試合を見つめる愛衣を指差す。
「彼女、十分可愛いと思うのだけれど」
「そう? 昔から一緒にいすぎて、よく分からないけどね」
「恋とか愛なんて知らない私より、よっぽど美人で可愛いと思うわ」
そう言った彼女の瞳は、少しだけ悲しげに見えた。
「好きなの? 彼女のこと」
しばらく試合を見守っていると、彼女が唐突に切り込んだ。
「恋愛的な好きな抱いてないよ。僕は愛衣の幼馴染で、幸田は親友。二人には幸せになってほしいと思ってるよ。心の底からね」
「あなたと彼女が糸で繋がっているとしても?」
思わず、彼女を見た。強く脈を打った心臓が、まだ大きく震えている。
「本当に心の声聞こえてるんじゃない?」
「ただのハッタリだったのだけど、当たってたみたいね」
彼女が微笑む。
僕が苦い顔をする。
「全く、勘が鋭い八百屋だ」
ここ最近の肌寒さはどこに行ったのか、まだ朝の八時半だというのに、立っているだけで額に汗がじんわりと滲む。まだ眠い目を擦り、雲ひとつない前方の空を眺めていると、肩を軽く叩かれる。
視線を下ろすと、ストライプシャツにネイビーの花柄ロングスカートに身を包んだ女性が、表情薄くいつの間にか隣に立っていた。
彼女は不自然に小さく咳払いをする。
「お待たせ」
小さくつぶやくように発された挨拶に、踵を返すことで応対する。
しばらく、無言で歩くと、先ほどから聞こえていたボールを弾く音が徐々に大きくなっていく。
隣を歩く彼女からちらっと視線を感じる。
「褒めてもいいのよ?」
「時間に遅れなかったことを?」
「……服装を」
「あぁ、似合ってるね。落ち着いた清楚感が綺麗な黒髪に良く映えてる」
「ちゃんとできるじゃない。物語の中だと、こういうシーンはお門違いなところを褒めて、女性に幻滅されるのが定番よ」
彼女に視線を向ける。どうやら、学校じゃないと彼女は空気を演じる真似はしないみたいだ。正確には、制服という平等に縛られた服装じゃないせいで、空気を演じることは到底できていない。
周辺男性からの好色にも近しい視線が集まっていることに、彼女は気づいているのだろうか。
隣を歩いていて居心地の良いものではない。
「口説いた相手と休日に隣を歩くのって、どんな気分かしら」
「優越感でたまらない気持ちだね」
「ええ、そうね。私もよ」
そもそも、どうして貴重な休日に僕は桜坂琴音と一緒にテニスコートになんか来ているのだろうか。
「ところで、あなたの赤い糸の繋がる先の相手は、テニス部なの? 違うと私は予想しているのだけれど」
「もしかして、心を読める特殊能力とか持ってたりする?」
「そんなの持っていたら、会話なんて必要なさそうで便利ね。本当に喉から手が出るほど欲しいわ」
表情をつくらない彼女が、今日初めて口元に小さく笑みを浮かべた。
あの喫茶店での一件以来、僕と彼女は放課後、図書室で少しの間会話を交わすようになっていた。ほとんどは彼女が質問して、僕が答えるだけなのだけど。
彼女は予想以上に好奇心が旺盛のようで、次の休日に、もう一度あの喫茶店で話を聞きたいと言われてしまった。正直、これ以上話すようなことも特にないので、テニス部の友人の試合を見に行くと嘘をついて断ろうとしたところ、なぜか彼女も行くと言い出した。そして、奇妙な状況の今に至る。
そんなわけでわざわざ休日に出会って間もない彼女と共に、普段であれば絶対にしないであろう、親友の試合の応援に来てしまったというわけだ。
「私、テニス場なんて来たの初めて」
「まあ、名の通りテニスをやってなければ、特に縁のない場所だからね。かくいう僕も中学生ぶり」
「篠原くんは中学はテニス部だったのね」
「なんとなくで入ってただけだよ」
時計に目を向けると、幸田の試合予定時刻まで十分を切っていた。本来であれば、すでにコート内に入っていてもおかしくない時間だ。
「実笠は強かったんだぜ。彼女さん」
不意に肩にべたついた肌がずしっとのしかかる。形容しがたい不快感に眉に力が入った。
「桜坂琴音です。篠原くんとはただの知り合いですよ」
「そっか、そっか。俺は雲宮幸田。実笠の数少ない友達。なんでか分からないけど、こいつを連れて来てくれてありがとうね。いつ誘っても来てくれないからさー」
「おい、幸田。重いし、汗臭いから早くどけ。あと、僕は友達が少なくない」
無駄に筋肉質な腕を振り払い、わざとらしく肩を払う。
「そんな邪険にすんなってー。あ、俺十一番コートね」
幸田はそれだけを言い残すと、試合前だというのにものすごい速さで走って行ってしまった。嵐のように訪れ、雷のように去って行く友達に、僕はただただため息しか出ない。
「かっこいいだろ? 185センチ、68kg、運動神経抜群でおまけにあの気さくな性格。ちなみにめちゃくちゃモテる」
幸田の走り去って行った方向に指を向ける。
「一般的な価値観だとかっこいいってことになるのかしら」
「間違いなく、そうだろ。三年になって、もう三回告白されている」
「ふーん……」
十一番コートに到着すると、ちょうど試合が始まったところのようで、僕たちは手頃な席に腰を下ろした。
「桜坂さんから見て、幸田はかっこいいと思わない?」
「八百屋にこの魚鮮度いいでしょ? って聞くようなものだと思う」
「面白い言い回しだね。でも、よかった」
一瞬、彼女は僕に視線を向けたものの、物珍しいテニスの試合が気になるのか、すぐにコートに目を戻す。
「よかったって、どういうこと?」
「桜坂さんみたいな美人が幸田を好きになっちゃったら、僕の幼馴染じゃ歯が立たないからね。ほら、あそこにいる、いかにも幸田にベタ惚れですっていう表情している女」
コートに一番近い前方で、まるで転げ落ちるんじゃないかと思うほど前のめりで試合を見つめる愛衣を指差す。
「彼女、十分可愛いと思うのだけれど」
「そう? 昔から一緒にいすぎて、よく分からないけどね」
「恋とか愛なんて知らない私より、よっぽど美人で可愛いと思うわ」
そう言った彼女の瞳は、少しだけ悲しげに見えた。
「好きなの? 彼女のこと」
しばらく試合を見守っていると、彼女が唐突に切り込んだ。
「恋愛的な好きな抱いてないよ。僕は愛衣の幼馴染で、幸田は親友。二人には幸せになってほしいと思ってるよ。心の底からね」
「あなたと彼女が糸で繋がっているとしても?」
思わず、彼女を見た。強く脈を打った心臓が、まだ大きく震えている。
「本当に心の声聞こえてるんじゃない?」
「ただのハッタリだったのだけど、当たってたみたいね」
彼女が微笑む。
僕が苦い顔をする。
「全く、勘が鋭い八百屋だ」