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春にしては冷たい夜風に身を縮め、街灯のない道を一人歩く。
真っ暗な世界に一人取り残された気分だ。もちろん、周囲の建物からは温かみのある光が漏れ出しているため、完全に視界が黒というわけではない。しかし、こうして一本の道に前にも後ろにも人が見えないと、この明るい建物の中にも、実は人がいないんではないんだろうかと思う。
普段はこんな馬鹿げた妄想はしないのだけれど、今日は珍しくテンションが高いようだ。
胸のつっかえが取れたとまでは言わないが、秘密を共有する人ができたということだけで、暗闇に赤外線レーザーのように交錯する赤い糸もさほど気にならなくなった。
なぜ、彼女に本当のことを話そうと思ったのか、自分でも分からない。ただ、彼女が僕の話を信じてくれそうな気がした。きっと、それだけのことだ。
客がおらず、暇を持て余して眠そうな店員がいるコンビニを曲がると、すぐに自分の家が見えてくる。
玄関のドアをそっと開けると、途端に気分が悪くなった。気持ちを逆撫でするような母親の罵声が、身体の芯を貫く。
でも、母親が罵りを吐き出した相手は僕ではない。
続いて、今度は父親の反論する大声が聞こえてきて、僕はそっとドアを閉めた。外では、猫の喧嘩するけたたましい鳴き声が響いているが、家の中よりはましだ。
ため息を一つ吐き出し、来た道を戻る。そして、三軒隣の玄関のインターホンをためらいもなく押した。
「はーい! どなたですか?」
インターホン越しにノイズ混じりの高い声が聞こえて来る。
「あの、実笠ですけど……」
「実笠くん!? 今、開けるわね。ちょっと、待ってて」
随分と急いでくれたようで、すぐに玄関のドアが開き、エプロン姿の女性が姿を表す。随分、こわばった表情で、申し訳ない気持ちが強くなる。
彼女は僕の顔を見るなり、一つ息をつき、安堵の表情を浮かべた。そして、僕の頭をぽんぽんと軽く触ると、何も聞かずに家にあげてくれた。
「ありがとうございます。……お邪魔します」
リビングに入ると、四人がけのソファーに寝転がりスマートフォンをいじる同級生と目があった。
「おー、実笠。また逃げて来たのー?」
「……愛衣。急に来たのは僕だけど、もう少し恥じらえよ」
愛衣は不思議そうに自分の姿を見直す。ショートパンツに薄いTシャツ。細い四肢が大胆に覗き、Tシャツは少しめくれてへそが見えている。男子高校生が喉を鳴らすには十分すぎる服装だ。
「何言ってんの。昔は一緒にお風呂も入ったじゃん」
「いつの話してんだよ。ったく、幸田にこの姿を見せてやりたいよ」
「ちょっと、幸田くんに変なこと言ったら、本気で怒るからね!」
ソファーを陣取る愛衣の足を押しやり、開けたスペースに座る。
「冗談だよ。あいつ、日曜の試合は九時からだってさ」
「九時かー。早いなぁ。私、あんま朝早いと化粧馴染まないんだよね」
「学校より遅いだろ」
「あ、それもそうか。なんか、九時って聞くと早く感じるけど、学校って言われるといつも通りか、って感じだよね。ってか、なんで学校ってあんな早いんだろ。ウチの家、お父さんの方が家出るの遅いんだけど」
本当、外でも内でもよく喋る幼馴染だ。
ずらずらと止まらない語りにあーとか、それなーとか、適当に相槌を打つ。はたから見れば失礼極まりない態度も、僕と愛衣の間ではこれが普通なのだ。
別に僕は愛衣の話を聞いていないわけじゃないし、聞きたくないわけじゃない。そして、愛衣も僕の話を聞きたいわけじゃなく、話を聞いてもらえればいい。互いの性格を分かっているからこその会話の形だ。
自分の家に帰らず、愛衣の家にお邪魔するのは週に二回くらいの頻度だ。前までは頻繁に訪れるのは申し訳ないと感じて、こういった夜は通学路にある土手に座ったり、コンビニで時間を潰していたのだが、一度警察に補導されてしまってからは、愛衣の母親にウチに来るように強く言いつけられてしまった。実の親には何とも言われなかったのに、変な話だ。
愛衣の家族も僕の家庭状況は重々理解してくれているため、快く歓迎してくれる。
「ほら、二人ともご飯できたから、早く来なさい」
当たり前のように僕の分まで用意してくれる愛衣の母親には、本当に頭が上がらない。
テーブルを三人で囲み、手を合わせた時、愛衣の父親が帰って来た。額に深くシワが刻まれた堅物な顔で、他人を寄せ付けにくい人ではあるが、僕は愛衣の父親を見ると心が安らいだ。
「おや、実笠。来てたのか」
「お邪魔してます」
「ゆっくりしていけ。ここは、お前の家でもあるんだ」
愛衣の父親はそれだけ言い残すと、着替えるためにリビングを後にした。
夕食を食べ終わると、風呂に入らされ、愛衣の部屋にいつものように押し込められた。しばらくすると、愛衣の母親が僕用の布団を持ってきた。
「朝ごはんはどうする?」
「一度、家に戻って着替えるんで大丈夫です。ありがとうございます」
「そう、分かったわ。ゆっくり休みなさい。おやすみ」
「おやすみなさい」
愛衣の母親は僕の頭をぽんぽんと軽く触って、部屋を後にした。
撫でられたところが、やけに暖かい。
しばらくすると、風呂を上がった愛衣が部屋に戻って来る。その後は、互いにくだらない会話を繰り広げ、二十三時を回ると、愛衣が電気を消す。
いつも通りの流れで、いつも通りの生活。しかし、いつもであればすぐ睡魔が襲って来て、そのまま身を委ねるのだが、今日はなぜかなかなか寝付けなかった。
ふいに、愛衣の寝息が小さく聞こえて来た。
幼馴染と言えど、年頃の男女が一緒の部屋で横になっている状況は、人によっては羨ましいと感じるのだろうか。
部屋に漂う一本の赤い糸に目を奪われる。
愛ってなんだろう。
父親は僕を苛立ちのはけ口として利用し、母親は父親に利を取るために表面では僕に優しくする。僕が――僕の人生そのものが、赤い糸で繋がっていない者同士から生まれた存在だ。
僕の家庭が極端で、必ずしもこういった結末になることはないと分かっている。それでも、愛っていうものは、人の人生でとても大事で、重要なものなんだろう。
愛衣の家族は、僕に確かな愛を注いでくれているだろう。当たり前のように接してくれる母親も、寡黙ながらも我が子のように受け入れてくれる父親も、僕を愛してくれている。
でも、これは本物の愛ではない。なぜなら、僕が彼らの愛を素直に受け入れられずにいるからだ。申し訳なさと、本来の僕の家庭状況が、愛を妨げるのだ。
愛は片道では成り立たない。
だから、僕はまだ本当の愛を知らないでいる。
(心のどこかでは少なからず、人を愛することへの関心とか、愛される期待を持っているから赤い糸があるんじゃないかしら)
脳裏に桜坂琴音の言葉が響いた。