*
彼女は嘘を演じた。
別にそのことについて怒っているんじゃない。そもそも、胸中を渦巻く泥々としたこの気持ちは確かに負の感情ではあるが、果たして僕は怒っているのだろうか。それとも悲しんでいるのだろうか。
人の心を読める力が、僕にあればいいのに。
今、たとえ赤い糸が見えたとしても、何の役にも立たない。それとも桜坂が言っていた、五秒間だけどんなことでも願いが叶う力なら、何かできるだろうか。
「できっこないよなぁ……」
天井から降り注ぐ照明が眩しいくらい明るく、降ろした垂れ幕の隙間から、薄暗い体育館に微かな光を漏らしているだろう。
暗い中でその僅かな灯りを完全に隠すことはできない。なぜなら、ステージの輝きを隠す垂れ幕はただの分厚い布だ。床との微かな境目には、少しの隙間が生まれるのは当たり前。周囲が一面の闇の中で、きらきらと覗く輝きを見れば、誰だってそこに目を奪われずにはいられない。
きっと彼女の涙を見た大半の人は、輝きが漏れたのだと思っただろう。薄暗いステージと袖の境で、半分だけ顔をスポットライトに照らした少女が涙を流す光景に、目を向けないものはいない。
「――綺麗」
誰かが呟いた言葉に周りが同調する。感極まって泣いちゃったんだよ、でもその様子すら美しいね、とでも言い合いたいのだろうか。
確かに彼女を知らない人から見れば、そう見えるに極まっている。あれだけ完璧な演技を披露した人が、たくさんの拍手と歓声に思わず感動して涙を流したと解釈するのは当然だ。僕だってその人物が桜坂琴音でなければ、同じような感想を抱いていたに違いない。
でも、彼女のそれは決して感動とか、安堵じゃない。むしろ、彼女が必死に取り繕って、隠し続けてきた陰りが隙間から見えてしまったのだ。
影は光のあるところでしか見えない。周りが暗ければ、影もそれに溶け込んで姿を隠す。
予期せぬ輝きから漏れ出した涙。それは僕にとっても彼女にとっても予想外のものだった。だから、僕は行き場のない怒りを隠せず、彼女は慌てて本音の雨をよそ行きのような笑顔で隠そうとする。
彼女はどんな時でも冷静で、僕なんかよりずっと大人で完璧な人間だと思っていた。いや、思い込んでいた。
だから、普段であれば絶対にやらないであろう舞台の主役をやることになった今回も、さほど疑問や心配はしていなかった。
なんだかんだいってそつなくこなし、思ってたより楽しかったみたいなことをいつも通りフリップに書いて僕に見せる。そう信じて疑わなかった。
でも、桜坂琴音は僕と同じはぐれもので、誰よりも普通を望んでいた。
「桜坂さん、病気で声出せないのに周りとの連携すごかったよね」
誰かが言った。頷く声も聞こえてくる。
それだよ。その特別扱いが、はぐれものには刺さるんだ。
普通を望む人間に、特別という箔を押し付けるのはあまりにも残酷だ。
でも彼女は大人だから、他の人からすればなんてことのないその言葉に対して口を出さないし、僕と違って同じ過ちは繰り返さない。また、いつも通りの淡白な笑みで、ボロボロの心と涙を隠すのだろう。
「おい、実笠。何ぼーっとしてるんだ? 始まるぞ?」
幸田に声をかけられ、我に帰る。
ステージ上はすでに大トリである僕たちのクラスの装飾が運ばれていた。
「じゃ、行ってくるな」
「あ、うん……頑張って」
最初のシーンは勇者役である幸田と姫役の愛衣、あとは魔王役の三人だけだ。
「なんか他人事だなぁ。実笠も出番までにその呆け面どうにかしろよ。包帯越しでも丸わかりだぞ?」
自分でも思う。心ここに在らず。さっきまで高鳴っていた鼓動も、今は静かすぎて不気味だ。緊張なんて、彼女の涙を見た瞬間に吹き飛んでしまった。
僕たちのクラスの劇は、クラスの――いや学年の人気者である幸田の覇気ある一声から始まった。
魔王に連れ去られる姫を救う王道ファンタジーチックな作品。正直、前の彼女たちの作品と比べると、見劣りすることは確かだが、もとより他のクラスと競っているのは委員長くらいなので、誰かの演技が萎縮するようなこともない。
序盤、姫を連れ去られた勇者は魔王城への道すがら仲間を集める。一人目は僕の演じるミイラ男。感情を持たず、喋ることもできない。ただ、ひたすら主人と認識した人物に付いて行く、所謂操り人形のような役だ。
二人目は離れ村の魔法使いで、三人目がゴロツキ崩れの盗賊。
勇者のパーティーとして魔法使い以外はどうなんだろうかと思ってしまうが、口には出さない。
「ほら、実笠の番だよ」
愛衣に背中を押され、つんのめるように舞台へとおどり出る。シーンチェンジの最中なので、ステージ上は暗転し、薄暗い。
なんだか、全てが数倍速で動いているみたいだ。一瞬前に始まったと思えば、すぐに出番が来て、こうやって考えているうちに照明がパッと光を放つ。
「王国の墓地を彷徨い続ける亡霊よ。どうか私に力を貸してくれ」
幸田と視線が交わる。びっくりするくらい役に入りきっている彼を見てか、それともしこたま練習したおかげか、自然と身体が動いていた。
無口なミイラ男の大きな動作に観客の視線が突き刺さる。しかし、やっぱり何も思わなかった。ある意味、僕も役に入れている。感情を持たない人形。ひたすらに勇者の横を献身的に付いて行く存在。
物語は終盤、何人かの細かな台詞間違いはあれど、大きなミスはなく順調に劇が進む。ここからは、勇者が背負っていた不治の病が悪化し、塞ぎ込んでしまう場面だ。
決して治ることのない病気に蝕まれ、心身共にボロ布のように擦り切れた勇者は一人殻にこもってしまう。見かねた盗賊は勇者を見放してパーティーを去り、そして魔法使いもしばらくして勇者の元を出た。
そんな状況の中、ミイラ男だけが何日もそばに居続ける。魔王の手先が迫りくれば勇者を守るために戦い、何もないときはすぐ横でじっとうつむいて顔を隠す勇者を見守る。そして、そのミイラ男の様子を見て勇者はもう一度立ち上がることを決意する。
そういうシーンの予定だった。
うずくまる勇者を横で見守る僕の視界に、彼女が入り込んでしまった。客席のさらに奥の体育館の壁際に、一人ぽつんと立っている彼女と確かに目が合う。
その瞬間、僕の中の何かが崩れた。
彼女から目が離せない。まるで磁石のように吸い寄せられて、反発することも叶わない。
「……実笠?」
幸田の心配そうな小声が聞こえてくる。でも、僕の動きは固まったままだ。
舞台の空気が止まる。それは確かなトラブルで、緊急事態だ。視界の端で、クラスメイトたちが不安そうに僕を見るのが分かった。観客はこういう演出だと思っている人もいれば、不審そうに首をひねる人もいる。
全部見えているのに、僕の意識は彼女にしか向けられていない。
その彼女の頬の涙が伝った痕跡に気づいた瞬間、周りが真っ白になった。
まるで夏祭りの時と同じ感覚。僕の悪い癖。
――あ、ダメだ。
「…………ふざけんなよ」
無口で無心のミイラ男から、感情が漏れた。
小さい頃、僕は周りの同年代を少しだけ見下していたと思う。だって、すぐにわがままを言うし、後先考えずに行動するし、みんな子供だなぁ。そんなことを自分も子供のくせに思っていた。
周りの大人からはしっかりした子とか言われていたが、それは少し違う。実際、僕みたいな、子供にしては達観した人はちらほらいたし、さして珍しいわけではない。
子供みたいに感情のままに喋り、そして叫ぶ。
この行為を子供の頃の僕であれば、確かに馬鹿みたいで子供らしいと感じていただろう。でも、子供と大人の狭間に立った今、この行為が悪なのか、善なのか分からない。
我慢することは美徳なのか。隠して偽ることは悪徳なのか。
言いたいことを言わずに口を閉ざしたあの頃は本当に大人だったのか。
感情を抑えられなくなった今の僕は、大人と子供――どっちなんだろうか?
僕があまりに小さく呟くものだから、会場が音を無くしたように静まり返った。観客は僕の台詞を聞き逃さないように、そしてクラスメイトは単純に予定外のことをした僕に言葉を失っているだけだろう。
幸田も呆気からんとした表情で僕を見る。それどころか小さく「……え?」なんていう素の声が出ていた。
それでも、一度言葉を発してしまったら、ストーリー上も僕の本音自体も、一言では収まりがつくわけがなかった。
「どうして一人で抱え込むんだよ。友達だって……ありのままを見せれるのはあなただけって言っただろ! だったら、隠さないでよ。辛いことがあるなら、全部吐き出してよ!」
どこを見て良いのか分からず、天を仰いだ。
「僕だって、話したくても迷惑になるかなって思って話せないこともあったよ。君は心でも読んでるんじゃないかと思うくらい察してくるから、だから僕は話さなくても救われたんだ。でも、僕はそんな力持ってない。だから、話してくれよ! 言えないことがあるなら、僕が代わりに叫んであげるから! 一緒に背負わせてくれよ! ……僕は君の特別でいたいんだよ!」
体育館中に僕の声が響き、こだまする。
同時に襲ってくるやってしまったという思いと、言ってやったという両感情。
人は往々にして間違いを繰り返す生き物。まさにその通りだ。
怖くて天を仰いだまま静止する。頭から湯気を出してる委員長が目に浮かぶ。いや、それどころかクラス全員がブチ切れててもおかしくない。
でも僕の数少ない友達は、こういう時だってイケメンだ。
「もしかして、我が親友グランなのか……? ミイラ男……君は、三年前病気で死んでしまった私の親友グランだったのか!?」
グランという名前がきっとミイラ男の僕を指すのだろう。とっさに機転を利かして、ミイラ男の生前と勇者が親友だったという設定でアドリブを利かせてくれているのだ。
これに乗らなければ作品は崩壊する。助け舟を出してくれた勇者の親友に感謝しつつ、僕はもう一度口を開いた。
「あぁ、そうだよ。本当は最初から口だってきけるし、ちゃんと理性もある。身体は正真正銘のミイラだけどね」
目で幸田に謝る。伝わったのか、伝わらなかったのか、幸田は面白くなってきたと言わんばかりにニヤつく。
「そうか、君はずっと私の側で見守っていてくれたのだな……。ならばこそ、私はここで臥して天命が尽きるのを待っている姿を見せるわけにはいかない!」
舞台袖をちらりと見ると、ぐったりとしている委員長と、その横で何やら慌ただしげに皆に指示を飛ばしている愛衣の姿があった。
愛衣は僕の視線に気づくと、なぜか親指を立てて、魔法使い役の人と盗賊役の人をステージ上に強引に押し出す。
とっさに出てきた二人に観客の視線は集まる。
「あー、その……なんつーか」
かろうじて役の口ぶりにはなっている盗賊だが、突然のことすぎて言葉が出てこないようだ。それを見て、魔法使いが割り込む。
「薬を――勇者の病に効く薬を持って参りました!」
魔法使いが杖で盗賊の脇を突く。
「あ、えっと……そうそう! てめーがいないと魔王なんざ倒せないからな。ま、俺は魔王とか勇者とか? そんなのどうでもいいんだけどよ」
「何言っているんですか。あなたが一番に飛び出して行ったではありませんか」
「ばっ! ちげーよ! 本当に抜けてやるつもりだったっての」
二人ともどうにか話を取り繋げてくれている。愛衣が早急に動いてくれたおかげだ。
「おぉ! 二人とも、私のために! これで魔王に挑むことができる!」
この後は大半がアドリブだった。なにせ、本当の台本ではこの先は勇者と喋らないミイラ男の二人が魔王と戦うはずなのに、魔法使いと盗賊が戻ってきて、なおかつミイラ男が喋れるようになるという大改編が起きているのだから。
結果的に幕が下りる時、会場は拍手で包まれた。前のクラスの大歓声には程遠いものであったが、一応は作品として成り立ったと言っても良いだろう。
もちろん、終わった後は委員長に殴りかかられる勢いで怒られたものの、脚本担当の人にはなぜか絶賛されてしまった。他のクラスメートも僕の暴走については忘れてしまったかのように、わいわいと騒いでおり、僕の元に賛辞はあれど、詰め寄ってくる人はいなかった。
「おーう、お前ら。お疲れさん。この後はもう少し暗くなったら校庭でキャンプファイヤーだぞー。女子と手繋いで踊りたい男子はしっかり手洗っとけよ」
のっそりとやってきた担任は右手にたこ焼きを持って、諸事項だけ気だるそうに伝えるとすぐに身を翻す。
「キャンプファイヤーかぁ。実笠はどうする? 俺は愛衣と行ってくるけど、一緒にくるか?」
「だから、今日くらい僕に気を使うなって。それに、僕はちょっと行きたいところあるし」
幸田は首を傾げる。
「どこに?」
「……言わない」
人がまばらになった体育館を見渡す。
そこに彼女の姿はなかった。
黄昏時がいつしか終わろうとしていた。
一般開放を終えた校舎内は未だにざわついているものの、昼間のような喧騒はない。売れ残った商品、剥がれかけたビラ、疲れの色が出る生徒。この様子は祭りの後のような、もの寂しげな湿っぽい雰囲気によく似ている。
今、廊下を歩いている瞬間でさえ、外は徐々に暗くなり、生徒たちはグラウンドへと各々足を運ぶ。
僕はその波に逆らうように歩みを進める。
目的の場所にたどり着き、ドアの前で立ち止まった。電気は付いていない。でも、ドアを開ければそこに彼女がいると確信がある。
正直、どんな顔をして会えばいいのか分からない。彼女はどう思っただろうか。賢い彼女は劇での僕の行動を、ただの演技だとは思わないだろう。ちゃんと、伝わっているはず。
意を決して、教室に入る。
まず最初に目に飛び込んでくるのは立ち並ぶ本棚。そして、ちょっと埃っぽい臭い。まるでドアを介して、異世界に潜り込んだかのような静けさ。
桜坂琴音は図書室の中心に立って、天井を眺めていた。
暗くて、表情は見えない。
彼女は今、どんな感情でそこに立っているのだろうか。
かける言葉に迷っていると、窓の外がぼんやりと明るくなった。開けられた窓から、歓声が聞こえてくる。
すぐに軽快な音楽が入り込んで、本の群れをかいくぐって教室に響き渡る。
キャンプファイヤーの灯りで、彼女の姿が露わになる。背中まで伸ばされた美しい艶髪、それに相反するような透明な白磁の肌、灯火が映り込むガラス玉のような双眸。
「綺麗だ……」
自然と口をついて出た言葉は、すぐに溶けてしまう。
彼女は恥ずかしいとでも言いたげな笑みを漏らし、僕を見た。その曇りなき瞳を向けられて、改めて理解する。
僕は桜坂琴音のことが好きだ。
彼女がフリップに文字を書こうとする。
「あっ……! ちょっと、待って」
彼女の手が止まる。そして、僕がこれから言わんとしていることを理解したのか、一度書いた文字を消して、新しくペンを走らせた。
彼女が書き終え、ペンを置くのを待って、口を開く。
「えっと……僕と踊りませんか?」
差し出した僕の手に彼女の手が重なる。
『はい、喜んで!』
教室の中で、僕と彼女の影がぎこちなく動き回る。
フォークダンスの踊りなんて、正直ほとんど覚えていない。でも、なぜか自然と身体が動き、彼女がそれに合わせてくれる。
二人とも、口を閉ざしたまま。ずっと見つめあって。
この曲は何という曲だったろうか? 確か、オクラホマ・ミクサーだったっけ? さっきの曲は……きっと彼女なら知っているのだろう。
僕は賢い彼女が好きだ。
優しい彼女が好きだ。
吸い込まれてしまいそうなその瞳が好きだ。
桜坂琴音の全てが好きだ。
僕のそばにずっといてくれた人。
僕の世界を壊してくれた人。
僕にたくさんの声を届けてくれた人。
僕に――恋を教えてくれた人。
鳴り止むことを知らない音楽の中を、愛する人と踊り回る。この幸せをいつまでも噛み締めていたい。叶うことなら、これから先もずっと彼女の隣にいたい。
不意に彼女の瞳が滲んで、輝きが滴った。でも、彼女は踊る足を止めない。僕の手を握りしめたまま、笑顔で涙をこぼす。
その涙さえ美しく、彼女をより一層引き立たせた。
彼女が口を開き、声にならない思いを吐露する。
そして、今までに見たことないくらい満面の笑みを僕にくれた。
「僕も、幸せだ」
僕と彼女の影は、いつまでも図書室を駆け巡っていた。
何でもかんでも、上手くいかないことはある。
例えば、卒業式の日に限って少しだけ寝坊してしまったり、三月中旬の窓からの景色に桜が咲いていなかったり、言ってしまえば些細なことだ。
着るのが最後になるであろう制服に名残惜しさを感じる余裕すらなく、僕は慌ただしく階段を駆け下りる。
電気のついていないリビングには、母親が最低限の義務と言わんばかりにつくった朝食が、ラップをかけて置かれている。
日曜日の朝にも関わらず、両親の姿はない。仮にも一人息子の晴れ舞台だというのに、二人とも意中の相手のところへ足を運んでいるのだろう。
僕の寝坊はとても些細な過ちだが、父親と母親は人生において大きな過ちを犯した。
結局、僕の両親は離婚という形で話が進んでいる。でも、僕はそれが最良の選択だと感じた。
もちろん、親が仲睦まじくあるに越したことはない。多少、亀裂が入っていたとしても、なぎの両親のようにちょっとした歯車の調整で修復されることもある。だけど僕の両親の間には手の施しようのないほどに大きな亀裂が入ってしまった。
こうなった場合、色々考えたけどやっぱり離婚という形できっぱり終わりにしてしまうのが一番良いと思う。結局、長年の喧嘩の日々は、どちらが先に離婚という話を持ち出すかという駆け引きをしていたに過ぎないのだろう。
僕も卒業して一人暮らしを始めるわけで、さして悲しいとか嬉しいという感情もない。まあ、いいんじゃん? くらいの心持ちだ。
目には見えない二人の運命が引き合わなかった。引き合うように互いに努力をしなかった。それだけの話だ。
冷めた朝食を片付け、足早に家を出る。春を待つ、冷たい空気が頬を撫でた。
小さな川沿いを歩くことも、もう当分ないだろう。例年であれば、等間隔に並んだ桜の木が満開の花を咲かせている時期だが、どうも今年は寒波の影響やらで開花が遅れているらしい。
「実笠! おはよう!」
後ろから強めに肩を叩かれる。多分、こうやって朝っぱらに声をかけられることも、この先しばらくないのだろう。
振り向くと、僕の唯一の幼馴染と唯一の親友が距離感近く立っている。
「痛いんだけど、愛衣」
「いや、叩いたのは幸田くんね。コンビ技ってやつ?」
「実笠は絶対に引っかかると思った。だよな、愛衣」
「うん!」
なんだろう。朝から恋人同士の無邪気すぎる悪戯に付き合わされるこの惨めな感じ。
「……いいのかよ。高校生最後の登校だよ? 二人きりで行かなくて」
「何言ってるんだ?」
幸田が僕の肩に腕を回す。
「最後だからこそ、親友とも彼女とも一緒に登校したいだろ!」
「同感ー! 実笠が心配しなくても、帰りは二人っきりの予定だから大丈夫!」
愛衣が態とらしく胸を張る。
「なんか、変わったよね愛衣」
「変わった? 何が?」
愛衣は首を傾げる。どうやら、本人は気づいていないようだ。
「いやさ、前までだったら幸田を前にしたらすっかりおとなしくなってたのに」
「うっ……。あれは、ほら、そういう時期じゃん? 恋する乙女的な? いや、今ももちろん恋してるわけだけど……」
視線をちらちらと幸田に向けながら、若干恥ずかしそうにする彼女を見ると、さっきの悪戯の仕返しを少しだけ果たせた気がした。
しかし、視線を向けられている男は相変わらず鈍感だ。彼女の熱い視線に気づいていない。
きっと、二人はこうやってぎこちなく歩みを進めていくのだろう。ゆっくり、時には駆け足に関係を繋げていくはずだ。
「おっ! 一本だけ桜が咲いてるぞ!」
幸田が指さす方に目を向けると、蕾だらけの木に囲まれて、一本の桜が桃色の花びらを満開にして僕らを迎えていた。
「すごーい! なんで一本だけ!? いや、もう奇跡じゃん! 写真撮ろ! 写真!」
愛衣はスマートフォンをセルティーカメラに切り替えて、構える。
「ほら、二人とももうちょっとかがんで?」
愛衣は唸りながらひとしきり写真を撮ると、満足そうに息をつく。
「じゃ、今度は僕が二人を撮ってあげるよ」
「おいおい、ありがたいけど遅刻しちまうぞ?」
「あの担任なら少しくらい大丈夫だよ。それに、どうしても僕が撮りたいんだよ」
花びら舞う大きな桜の木と二人を画角に捉える。
なぜか、ちょっとだけ涙が出そうになって、奥歯を噛み締めた。
シャッターを切る瞬間の愛衣と幸田は、眩しいくらいの笑みだった。
卒業式を終え、最後まで変わらず眠そうに締まりのない言葉を投げかける担任の話が締め括られると、早いもので、僕の高校生活最後の放課後になる。
教室では、卒アルに寄せ書きをし合ったり、この後の打ち上げの話で盛り上がったりと、各々が学校と友人との別れを惜しむように、長いこと教室に居座って時間を使う。
「実笠は夜のクラスパーティーどうする?」
身支度をする僕に幸田が声をかける。
「いや、遠慮しておくよ。ちょっと用事もあるし」
どうしてか、こんな時ばっかり幸田は僕の言わんとしていることを察したようだ。にやっと笑い、僕の背中を力強く叩いた。
「よっしゃ! 言ってこい!」
親友の力強い言葉に背中を押され、僕は教室を飛び出す。逸る気持ちに思わず廊下を駆けた。のらりくらりと歩く担任を追い越す。
「おーい、廊下は走るん……まぁ、いっか」
なんていう退屈そうな言葉を尻目に走った。
そして、いつもの馴染みあるドアを勢いよく開ける。その瞬間、紙と暖かな陽だまりの香りが鼻の奥を刺激した。
ドアを閉めると、そこは静寂の空間。様々な音が、反響する。一歩ずつゆっくりと床を鳴らす足音。走って上がった息遣い。行き場のない両手を動かした制服の衣擦れ。一定間隔でリズムを刻む振り子時計。
そして、彼女が本をめくる音。
一目見た瞬間、もう、止められなかった。
彼女が本を静かに閉じ、僕を見つめる。
「桜坂琴音! ……僕は、君が好きだ! その澄んだ瞳も、美しい髪も、好奇心旺盛な性格も、全てが好きだ!」
胸が締め付けられる。走ったせいか、緊張のせいか、鼓動が早すぎて、彼女にまで聞こえてしまいそうだ。
恐る恐る顔を上げると、彼女は瞳にうっすら涙を溜め、偽りない笑顔で僕を迎えてくれた。
『目を閉じて』
彼女が命じるままに目を閉じる。
僕の右手に彼女の熱が伝わる。その熱は手の甲から、手のひら、そして小指に向かってゆっくりと移動する。
やがて、彼女の手がゆっくりと僕から離れる。
目を開けると、僕の小指に赤い糸が巻き付けられていた。赤い糸は緩やかな湾曲を描き、彼女の小指へと繋がる。
『篠原実笠くん、私もあなたのことが好きよ』
掲げたフリップに書かれた文字に、彼女の確かな感情を見た。
『手紙を書いてきたの。フリップ越しじゃ、伝えるのに時間かかっちゃうからね』
彼女は手紙を差し出す。
『篠原実笠くん、私はあなたと出会えて本当によかった。
まずは、ちゃんと伝えておきます。
最初は新手のナンパかな? と思いました。だって、急に運命って信じる? なんて真面目な顔で言われるものだから、変な人という印象でした。でも、当時の私は悪い意味で運命を信じるタイプの人間です。だから、思わず信じるよと返してしまいました。
私の病気も、運命だと決めつけていたからです。まあ、その通りではあるのですが、あの時の篠原くんが信じるか質問した運命とは、若干違っていたことは事実です。
でも、私は篠原くんにあの時、声をかけられたのも運命だと今では感じます。
赤い糸が見える。篠原くんの言っていることは嘘じゃないとすぐに分かりました。前にも言った通り、私は篠原くん以外にも、特別な力を持った人を知っていたからです。
私は興味が湧きました。赤い糸が見えるという特別な力を持った君ではなく、そのことを赤の他人である私に話してくれた篠原実笠という人物に興味が湧いたのです。
実際に会話を交わし、日々を過ごす中で、篠原くんの人物像が見えてきました。友人を思いやる優しさ、そして脆く、弱い心。普通の人だなと思いました。
でも、夏祭りの日、私の中で篠原くんの見方が変わりました。弱いながらも運命に必死に抗う姿、そしてまっすぐに自分の意思を露呈できる強さ。どちらも私にはないものです。
だから私は、君に救われた。隠して、取り繕って、偽り続けた私が漏らした弱さを、君は拾い上げて、救ってくれた。文化祭の日、ステージに立つ君に、私は救われたのです。運命なんてクソ食らえって、言ってもらえた気がしました。
篠原くんにもらった強さで、私も自分の運命に少しだけ抗ってみようと思います。
篠原くんには見届けてほしい。君は私の英雄なのだから』
彼女が大きく深呼吸をする。
『五秒間、私に時間をください』
僕は黙って頷く。
時計の音が、二人の間を通り抜ける。
「篠原実笠くん、私を救ってくれてありがとう!」
図書室に彼女の大きな声が響いた。