何でもかんでも、上手くいかないことはある。
 例えば、卒業式の日に限って少しだけ寝坊してしまったり、三月中旬の窓からの景色に桜が咲いていなかったり、言ってしまえば些細なことだ。
 着るのが最後になるであろう制服に名残惜しさを感じる余裕すらなく、僕は慌ただしく階段を駆け下りる。
 電気のついていないリビングには、母親が最低限の義務と言わんばかりにつくった朝食が、ラップをかけて置かれている。
 日曜日の朝にも関わらず、両親の姿はない。仮にも一人息子の晴れ舞台だというのに、二人とも意中の相手のところへ足を運んでいるのだろう。

 僕の寝坊はとても些細な過ちだが、父親と母親は人生において大きな過ちを犯した。
 結局、僕の両親は離婚という形で話が進んでいる。でも、僕はそれが最良の選択だと感じた。
 もちろん、親が仲睦まじくあるに越したことはない。多少、亀裂が入っていたとしても、なぎの両親のようにちょっとした歯車の調整で修復されることもある。だけど僕の両親の間には手の施しようのないほどに大きな亀裂が入ってしまった。
 こうなった場合、色々考えたけどやっぱり離婚という形できっぱり終わりにしてしまうのが一番良いと思う。結局、長年の喧嘩の日々は、どちらが先に離婚という話を持ち出すかという駆け引きをしていたに過ぎないのだろう。
 僕も卒業して一人暮らしを始めるわけで、さして悲しいとか嬉しいという感情もない。まあ、いいんじゃん? くらいの心持ちだ。
 目には見えない二人の運命が引き合わなかった。引き合うように互いに努力をしなかった。それだけの話だ。

 冷めた朝食を片付け、足早に家を出る。春を待つ、冷たい空気が頬を撫でた。
 小さな川沿いを歩くことも、もう当分ないだろう。例年であれば、等間隔に並んだ桜の木が満開の花を咲かせている時期だが、どうも今年は寒波の影響やらで開花が遅れているらしい。

「実笠! おはよう!」

 後ろから強めに肩を叩かれる。多分、こうやって朝っぱらに声をかけられることも、この先しばらくないのだろう。
 振り向くと、僕の唯一の幼馴染と唯一の親友が距離感近く立っている。

「痛いんだけど、愛衣」

「いや、叩いたのは幸田くんね。コンビ技ってやつ?」

「実笠は絶対に引っかかると思った。だよな、愛衣」

「うん!」

 なんだろう。朝から恋人同士の無邪気すぎる悪戯に付き合わされるこの惨めな感じ。

「……いいのかよ。高校生最後の登校だよ? 二人きりで行かなくて」

「何言ってるんだ?」

 幸田が僕の肩に腕を回す。

「最後だからこそ、親友とも彼女とも一緒に登校したいだろ!」

「同感ー! 実笠が心配しなくても、帰りは二人っきりの予定だから大丈夫!」

 愛衣が態とらしく胸を張る。

「なんか、変わったよね愛衣」

「変わった? 何が?」

 愛衣は首を傾げる。どうやら、本人は気づいていないようだ。

「いやさ、前までだったら幸田を前にしたらすっかりおとなしくなってたのに」

「うっ……。あれは、ほら、そういう時期じゃん? 恋する乙女的な? いや、今ももちろん恋してるわけだけど……」

 視線をちらちらと幸田に向けながら、若干恥ずかしそうにする彼女を見ると、さっきの悪戯の仕返しを少しだけ果たせた気がした。
 しかし、視線を向けられている男は相変わらず鈍感だ。彼女の熱い視線に気づいていない。
 きっと、二人はこうやってぎこちなく歩みを進めていくのだろう。ゆっくり、時には駆け足に関係を繋げていくはずだ。

「おっ! 一本だけ桜が咲いてるぞ!」

 幸田が指さす方に目を向けると、蕾だらけの木に囲まれて、一本の桜が桃色の花びらを満開にして僕らを迎えていた。

「すごーい! なんで一本だけ!? いや、もう奇跡じゃん! 写真撮ろ! 写真!」

 愛衣はスマートフォンをセルティーカメラに切り替えて、構える。

「ほら、二人とももうちょっとかがんで?」

 愛衣は唸りながらひとしきり写真を撮ると、満足そうに息をつく。

「じゃ、今度は僕が二人を撮ってあげるよ」

「おいおい、ありがたいけど遅刻しちまうぞ?」

「あの担任なら少しくらい大丈夫だよ。それに、どうしても僕が撮りたいんだよ」

 花びら舞う大きな桜の木と二人を画角に捉える。
 なぜか、ちょっとだけ涙が出そうになって、奥歯を噛み締めた。
 シャッターを切る瞬間の愛衣と幸田は、眩しいくらいの笑みだった。

 
 卒業式を終え、最後まで変わらず眠そうに締まりのない言葉を投げかける担任の話が締め括られると、早いもので、僕の高校生活最後の放課後になる。
 教室では、卒アルに寄せ書きをし合ったり、この後の打ち上げの話で盛り上がったりと、各々が学校と友人との別れを惜しむように、長いこと教室に居座って時間を使う。

「実笠は夜のクラスパーティーどうする?」

 身支度をする僕に幸田が声をかける。

「いや、遠慮しておくよ。ちょっと用事もあるし」

 どうしてか、こんな時ばっかり幸田は僕の言わんとしていることを察したようだ。にやっと笑い、僕の背中を力強く叩いた。

「よっしゃ! 言ってこい!」

 親友の力強い言葉に背中を押され、僕は教室を飛び出す。逸る気持ちに思わず廊下を駆けた。のらりくらりと歩く担任を追い越す。

「おーい、廊下は走るん……まぁ、いっか」

 なんていう退屈そうな言葉を尻目に走った。
 そして、いつもの馴染みあるドアを勢いよく開ける。その瞬間、紙と暖かな陽だまりの香りが鼻の奥を刺激した。
 ドアを閉めると、そこは静寂の空間。様々な音が、反響する。一歩ずつゆっくりと床を鳴らす足音。走って上がった息遣い。行き場のない両手を動かした制服の衣擦れ。一定間隔でリズムを刻む振り子時計。
 そして、彼女が本をめくる音。
 一目見た瞬間、もう、止められなかった。
 彼女が本を静かに閉じ、僕を見つめる。

「桜坂琴音! ……僕は、君が好きだ! その澄んだ瞳も、美しい髪も、好奇心旺盛な性格も、全てが好きだ!」

 胸が締め付けられる。走ったせいか、緊張のせいか、鼓動が早すぎて、彼女にまで聞こえてしまいそうだ。
 恐る恐る顔を上げると、彼女は瞳にうっすら涙を溜め、偽りない笑顔で僕を迎えてくれた。

『目を閉じて』

 彼女が命じるままに目を閉じる。
 僕の右手に彼女の熱が伝わる。その熱は手の甲から、手のひら、そして小指に向かってゆっくりと移動する。
 やがて、彼女の手がゆっくりと僕から離れる。
 目を開けると、僕の小指に赤い糸が巻き付けられていた。赤い糸は緩やかな湾曲を描き、彼女の小指へと繋がる。

『篠原実笠くん、私もあなたのことが好きよ』

 掲げたフリップに書かれた文字に、彼女の確かな感情を見た。

『手紙を書いてきたの。フリップ越しじゃ、伝えるのに時間かかっちゃうからね』

 彼女は手紙を差し出す。

 
『篠原実笠くん、私はあなたと出会えて本当によかった。
 まずは、ちゃんと伝えておきます。

 最初は新手のナンパかな? と思いました。だって、急に運命って信じる? なんて真面目な顔で言われるものだから、変な人という印象でした。でも、当時の私は悪い意味で運命を信じるタイプの人間です。だから、思わず信じるよと返してしまいました。
 私の病気も、運命だと決めつけていたからです。まあ、その通りではあるのですが、あの時の篠原くんが信じるか質問した運命とは、若干違っていたことは事実です。
 でも、私は篠原くんにあの時、声をかけられたのも運命だと今では感じます。

 赤い糸が見える。篠原くんの言っていることは嘘じゃないとすぐに分かりました。前にも言った通り、私は篠原くん以外にも、特別な力を持った人を知っていたからです。
 私は興味が湧きました。赤い糸が見えるという特別な力を持った君ではなく、そのことを赤の他人である私に話してくれた篠原実笠という人物に興味が湧いたのです。
 実際に会話を交わし、日々を過ごす中で、篠原くんの人物像が見えてきました。友人を思いやる優しさ、そして脆く、弱い心。普通の人だなと思いました。

 でも、夏祭りの日、私の中で篠原くんの見方が変わりました。弱いながらも運命に必死に抗う姿、そしてまっすぐに自分の意思を露呈できる強さ。どちらも私にはないものです。
 だから私は、君に救われた。隠して、取り繕って、偽り続けた私が漏らした弱さを、君は拾い上げて、救ってくれた。文化祭の日、ステージに立つ君に、私は救われたのです。運命なんてクソ食らえって、言ってもらえた気がしました。

 篠原くんにもらった強さで、私も自分の運命に少しだけ抗ってみようと思います。

 篠原くんには見届けてほしい。君は私の英雄なのだから』


 彼女が大きく深呼吸をする。

『五秒間、私に時間をください』

 僕は黙って頷く。
 時計の音が、二人の間を通り抜ける。

「篠原実笠くん、私を救ってくれてありがとう!」

 図書室に彼女の大きな声が響いた。