黄昏時がいつしか終わろうとしていた。
 一般開放を終えた校舎内は未だにざわついているものの、昼間のような喧騒はない。売れ残った商品、剥がれかけたビラ、疲れの色が出る生徒。この様子は祭りの後のような、もの寂しげな湿っぽい雰囲気によく似ている。
 今、廊下を歩いている瞬間でさえ、外は徐々に暗くなり、生徒たちはグラウンドへと各々足を運ぶ。
 僕はその波に逆らうように歩みを進める。
 目的の場所にたどり着き、ドアの前で立ち止まった。電気は付いていない。でも、ドアを開ければそこに彼女がいると確信がある。
 正直、どんな顔をして会えばいいのか分からない。彼女はどう思っただろうか。賢い彼女は劇での僕の行動を、ただの演技だとは思わないだろう。ちゃんと、伝わっているはず。

 意を決して、教室に入る。
 まず最初に目に飛び込んでくるのは立ち並ぶ本棚。そして、ちょっと埃っぽい臭い。まるでドアを介して、異世界に潜り込んだかのような静けさ。
 桜坂琴音は図書室の中心に立って、天井を眺めていた。
 暗くて、表情は見えない。
 彼女は今、どんな感情でそこに立っているのだろうか。
 かける言葉に迷っていると、窓の外がぼんやりと明るくなった。開けられた窓から、歓声が聞こえてくる。
 すぐに軽快な音楽が入り込んで、本の群れをかいくぐって教室に響き渡る。
 キャンプファイヤーの灯りで、彼女の姿が露わになる。背中まで伸ばされた美しい艶髪、それに相反するような透明な白磁の肌、灯火が映り込むガラス玉のような双眸。

「綺麗だ……」

 自然と口をついて出た言葉は、すぐに溶けてしまう。
 彼女は恥ずかしいとでも言いたげな笑みを漏らし、僕を見た。その曇りなき瞳を向けられて、改めて理解する。
 僕は桜坂琴音のことが好きだ。
 彼女がフリップに文字を書こうとする。

「あっ……! ちょっと、待って」

 彼女の手が止まる。そして、僕がこれから言わんとしていることを理解したのか、一度書いた文字を消して、新しくペンを走らせた。
 彼女が書き終え、ペンを置くのを待って、口を開く。

「えっと……僕と踊りませんか?」

 差し出した僕の手に彼女の手が重なる。

『はい、喜んで!』

 教室の中で、僕と彼女の影がぎこちなく動き回る。
 フォークダンスの踊りなんて、正直ほとんど覚えていない。でも、なぜか自然と身体が動き、彼女がそれに合わせてくれる。
 二人とも、口を閉ざしたまま。ずっと見つめあって。
 この曲は何という曲だったろうか? 確か、オクラホマ・ミクサーだったっけ? さっきの曲は……きっと彼女なら知っているのだろう。

 僕は賢い彼女が好きだ。
 優しい彼女が好きだ。
 吸い込まれてしまいそうなその瞳が好きだ。
 桜坂琴音の全てが好きだ。

 僕のそばにずっといてくれた人。
 僕の世界を壊してくれた人。
 僕にたくさんの声を届けてくれた人。
 僕に――恋を教えてくれた人。

 鳴り止むことを知らない音楽の中を、愛する人と踊り回る。この幸せをいつまでも噛み締めていたい。叶うことなら、これから先もずっと彼女の隣にいたい。
 不意に彼女の瞳が滲んで、輝きが滴った。でも、彼女は踊る足を止めない。僕の手を握りしめたまま、笑顔で涙をこぼす。
 その涙さえ美しく、彼女をより一層引き立たせた。
 彼女が口を開き、声にならない思いを吐露する。
 そして、今までに見たことないくらい満面の笑みを僕にくれた。

「僕も、幸せだ」

 僕と彼女の影は、いつまでも図書室を駆け巡っていた。