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彼女は嘘を演じた。
別にそのことについて怒っているんじゃない。そもそも、胸中を渦巻く泥々としたこの気持ちは確かに負の感情ではあるが、果たして僕は怒っているのだろうか。それとも悲しんでいるのだろうか。
人の心を読める力が、僕にあればいいのに。
今、たとえ赤い糸が見えたとしても、何の役にも立たない。それとも桜坂が言っていた、五秒間だけどんなことでも願いが叶う力なら、何かできるだろうか。
「できっこないよなぁ……」
天井から降り注ぐ照明が眩しいくらい明るく、降ろした垂れ幕の隙間から、薄暗い体育館に微かな光を漏らしているだろう。
暗い中でその僅かな灯りを完全に隠すことはできない。なぜなら、ステージの輝きを隠す垂れ幕はただの分厚い布だ。床との微かな境目には、少しの隙間が生まれるのは当たり前。周囲が一面の闇の中で、きらきらと覗く輝きを見れば、誰だってそこに目を奪われずにはいられない。
きっと彼女の涙を見た大半の人は、輝きが漏れたのだと思っただろう。薄暗いステージと袖の境で、半分だけ顔をスポットライトに照らした少女が涙を流す光景に、目を向けないものはいない。
「――綺麗」
誰かが呟いた言葉に周りが同調する。感極まって泣いちゃったんだよ、でもその様子すら美しいね、とでも言い合いたいのだろうか。
確かに彼女を知らない人から見れば、そう見えるに極まっている。あれだけ完璧な演技を披露した人が、たくさんの拍手と歓声に思わず感動して涙を流したと解釈するのは当然だ。僕だってその人物が桜坂琴音でなければ、同じような感想を抱いていたに違いない。
でも、彼女のそれは決して感動とか、安堵じゃない。むしろ、彼女が必死に取り繕って、隠し続けてきた陰りが隙間から見えてしまったのだ。
影は光のあるところでしか見えない。周りが暗ければ、影もそれに溶け込んで姿を隠す。
予期せぬ輝きから漏れ出した涙。それは僕にとっても彼女にとっても予想外のものだった。だから、僕は行き場のない怒りを隠せず、彼女は慌てて本音の雨をよそ行きのような笑顔で隠そうとする。
彼女はどんな時でも冷静で、僕なんかよりずっと大人で完璧な人間だと思っていた。いや、思い込んでいた。
だから、普段であれば絶対にやらないであろう舞台の主役をやることになった今回も、さほど疑問や心配はしていなかった。
なんだかんだいってそつなくこなし、思ってたより楽しかったみたいなことをいつも通りフリップに書いて僕に見せる。そう信じて疑わなかった。
でも、桜坂琴音は僕と同じはぐれもので、誰よりも普通を望んでいた。
「桜坂さん、病気で声出せないのに周りとの連携すごかったよね」
誰かが言った。頷く声も聞こえてくる。
それだよ。その特別扱いが、はぐれものには刺さるんだ。
普通を望む人間に、特別という箔を押し付けるのはあまりにも残酷だ。
でも彼女は大人だから、他の人からすればなんてことのないその言葉に対して口を出さないし、僕と違って同じ過ちは繰り返さない。また、いつも通りの淡白な笑みで、ボロボロの心と涙を隠すのだろう。
「おい、実笠。何ぼーっとしてるんだ? 始まるぞ?」
幸田に声をかけられ、我に帰る。
ステージ上はすでに大トリである僕たちのクラスの装飾が運ばれていた。
「じゃ、行ってくるな」
「あ、うん……頑張って」
最初のシーンは勇者役である幸田と姫役の愛衣、あとは魔王役の三人だけだ。
「なんか他人事だなぁ。実笠も出番までにその呆け面どうにかしろよ。包帯越しでも丸わかりだぞ?」
自分でも思う。心ここに在らず。さっきまで高鳴っていた鼓動も、今は静かすぎて不気味だ。緊張なんて、彼女の涙を見た瞬間に吹き飛んでしまった。
僕たちのクラスの劇は、クラスの――いや学年の人気者である幸田の覇気ある一声から始まった。
魔王に連れ去られる姫を救う王道ファンタジーチックな作品。正直、前の彼女たちの作品と比べると、見劣りすることは確かだが、もとより他のクラスと競っているのは委員長くらいなので、誰かの演技が萎縮するようなこともない。
序盤、姫を連れ去られた勇者は魔王城への道すがら仲間を集める。一人目は僕の演じるミイラ男。感情を持たず、喋ることもできない。ただ、ひたすら主人と認識した人物に付いて行く、所謂操り人形のような役だ。
二人目は離れ村の魔法使いで、三人目がゴロツキ崩れの盗賊。
勇者のパーティーとして魔法使い以外はどうなんだろうかと思ってしまうが、口には出さない。
「ほら、実笠の番だよ」
愛衣に背中を押され、つんのめるように舞台へとおどり出る。シーンチェンジの最中なので、ステージ上は暗転し、薄暗い。
なんだか、全てが数倍速で動いているみたいだ。一瞬前に始まったと思えば、すぐに出番が来て、こうやって考えているうちに照明がパッと光を放つ。
「王国の墓地を彷徨い続ける亡霊よ。どうか私に力を貸してくれ」
幸田と視線が交わる。びっくりするくらい役に入りきっている彼を見てか、それともしこたま練習したおかげか、自然と身体が動いていた。
無口なミイラ男の大きな動作に観客の視線が突き刺さる。しかし、やっぱり何も思わなかった。ある意味、僕も役に入れている。感情を持たない人形。ひたすらに勇者の横を献身的に付いて行く存在。
物語は終盤、何人かの細かな台詞間違いはあれど、大きなミスはなく順調に劇が進む。ここからは、勇者が背負っていた不治の病が悪化し、塞ぎ込んでしまう場面だ。
決して治ることのない病気に蝕まれ、心身共にボロ布のように擦り切れた勇者は一人殻にこもってしまう。見かねた盗賊は勇者を見放してパーティーを去り、そして魔法使いもしばらくして勇者の元を出た。
そんな状況の中、ミイラ男だけが何日もそばに居続ける。魔王の手先が迫りくれば勇者を守るために戦い、何もないときはすぐ横でじっとうつむいて顔を隠す勇者を見守る。そして、そのミイラ男の様子を見て勇者はもう一度立ち上がることを決意する。
そういうシーンの予定だった。
うずくまる勇者を横で見守る僕の視界に、彼女が入り込んでしまった。客席のさらに奥の体育館の壁際に、一人ぽつんと立っている彼女と確かに目が合う。
その瞬間、僕の中の何かが崩れた。
彼女から目が離せない。まるで磁石のように吸い寄せられて、反発することも叶わない。
「……実笠?」
幸田の心配そうな小声が聞こえてくる。でも、僕の動きは固まったままだ。
舞台の空気が止まる。それは確かなトラブルで、緊急事態だ。視界の端で、クラスメイトたちが不安そうに僕を見るのが分かった。観客はこういう演出だと思っている人もいれば、不審そうに首をひねる人もいる。
全部見えているのに、僕の意識は彼女にしか向けられていない。
その彼女の頬の涙が伝った痕跡に気づいた瞬間、周りが真っ白になった。
まるで夏祭りの時と同じ感覚。僕の悪い癖。
――あ、ダメだ。
「…………ふざけんなよ」
無口で無心のミイラ男から、感情が漏れた。