本校の文化祭は二日間に渡って行われる。一日目は全校生徒が体育館に集合し、部活や有志でのステージ上の演目や周辺地域とのちょっとお堅いタイアップ企画などが催される。
 一日目は一般人への開放はなく、在籍学生だけの日だ。本番は二日目という意味を考えると、前昼祭みたいなものだ。太陽が傾き出す前には全ての行程が終了し、文化祭一日目は幕を閉じる。しかし、どのクラスも最終準備などで遅くまで残るところがほとんどだ。
 そして、二日目。朝早くから一、二年生は出店の準備でバタバタしていた。その様子を遠巻きに眺めながら、教室にいつも通りの時間に到着する。普段はまばらにしか登校していないが、今日に限っては既にほとんどのクラスメートが教室にいた。普段はホームルームが始まるぎりぎりにこっそり入ってくる隅っこ仲間の人も、今日はすでに登校して、いつも通り机に伏せている光景はなんとも奇妙だ。
 文化祭といっても、朝のホームルームはちゃんとあるわけで、チャイムが鳴って少し経ってから気怠そうに担任が教室のドアを開く。

「えーみんな怪我しないように。最後なわけだし、ちゃんと楽しめよ。俺みたいなおっさんになったら忘れちまうんだから、今だけでもちゃんと騒いで記憶に刻んどけよ。あ、ただ問題は起こすんじゃねえぞ。言うて受験生だからな、お前ら。っていうのは建前で、事後処理する俺の身になってくれ。じゃ、解散〜」

 本当、この担任はなんで教師になろうと思ったんだろうか。でも、こんな教師でも生徒たちの評判は悪くない。よく聞けば、今の話もちょっと良い話だった気がしなくもない。いや、そうでもないか。
 九時になると一、二年生の出店が一斉に開く。それに合わせて一般客の入場が開始される。人の少ない町ではあるが、例年、老人から卒業生、中学生など結構たくさんの人が訪れる。娯楽が少ない町ならではの光景かもしれない。
 たちまち校舎内は人で入り乱れ、ようやく文化祭が始まったという気分になる。
 ちなみに三年生の劇は、十三時から事前にくじで決まった順に体育館で行われる。今年から、音声は各教室のスピーカーを介して校舎全体に流れる。体育館に出向いて見るもよし、持ち場がある人は音声だけでも楽しんでもらおうという実行委員の策略らしい。
 ちなみに僕たちのクラスの順番は五組の次で、かつ大トリとなった。くじを引いた委員長はガッツポーズをしていたが、僕たちからしたらとんでもないプレッシャーを背負ってしまったことになる。

「じゃ、悪いが出店回ってくるな」

「おー、行ってこい」

 少し残念そうにも見える幸田を手で追っ払う。此の期に及んで愛衣と僕、そして幸田、あわよくば桜坂の四人で自由時間を過ごそうと言い出したので、早々に断った。夏祭りの時のようにしてはダメじゃないけど、ダメだということくらい、恋愛感に疎い僕でも分かることだ。
 唯一の誘いを断り、教室を見渡すと、見事に勝手に同族だと思っている人しか残っていない。隅っこ族数人と、こんな時でも参考書を開いて勉強している人以外は皆、各々友達と出店回りに出払っている。
 ふと、廊下に目を移すと見知った顔の人物が窓越しに教室を覗いていた。その人物は僕を見つけると、躊躇なくカオスな空間に繋がるドアを開ける。静まり返った空間に引き戸の音はけたたましいと言っても過言ではない。
 皆の意識が音のする方へ集中する。
 その人物は僕の方を見て、フリップを掲げた。

『一緒に出店回りましょ?』

 どこからともなく、小さな舌打ちが聞こえてくる。気まずさと恥ずかしさが合間って、僕は特に頷くでも、返事をするでもなく立ち上がり、教室を出る。

「あー、びっくりした」

 彼女はいそいそとペンを動かす。

『佐野倉さんと雲宮くんが、篠原くんは教室にいるって言うから』

「まあ、友達いないしね。一人で回っても虚しいだけでしょ」

 彼女は首をひねる。

『私と篠原くんは友達でしょ? いるじゃない』

「桜坂はクラスの人と回るもんだと思ってたから」

『確かに断ってきたんだけれど』

「え? どうして?」

 僕の声だけがこだまする廊下に、下の階から喧騒が聞こえてくる。

『最後の文化祭くらい、ちゃんと友達と回りたいじゃない』

 その言葉が何を意味するのか、どう受け取れば良いのか分からない。

『あとは、ちょっと緊張をほぐしたくて。素の私を見せられるのって、篠原くんくらいしかいないから』

 彼女は階段を指差して歩き出す。多少の違和感を抱きつつ、僕は後を追いかけた。
 不意に彼女が振り向き、フリップを掲げる。

『内心、喜んでいるんでしょ?』

 意地悪そうな顔で笑う彼女。
 思わず、素直な感想が口からこぼれそうになって、彼女から目を離す。

「まあ、そりゃ……友達と回れるんだから、悪くはないよ」

 三年生の教室がある四階を除き、一階から三階は下級生の出店で賑わっていた。定番とも言える飲食関連や、これまたど定番のお化け屋敷などの遊戯関連など、様々な催しが立ち並んでいる。
 僕と桜坂は一階からしらみつぶしに出店を見て回った。賑やかな校内をいつもよりだいぶ遅めに歩き、気になった店があれば入る。一人で永遠と徘徊していただけの昨年までとは大違いだ。
 小一時間ほど文化祭を味わった時、聞き覚えのある声が後方から聞こえてきた。

「お姉ちゃーん! お兄ちゃーん!」

 僕と桜坂をそう呼ぶのは、一人しかいない。

「なぎちゃん!? 来ていたんだ」

 無垢な笑顔を浮かべて走り寄ってくる少女。まさか、夏祭りの時の彼女が文化祭に来ているとは思わず、文字通り驚いた。桜坂もいつもより少し目を大きくしているところを見るに、とても驚いているのだろう。

「うん! お母さんとお父さんがね、お姉ちゃんとお兄ちゃんはこの学校にいるんじゃないかって」

 顔を上げると、なぎの両親が後方で小さく頭を下げる。

「お母さんとお父さんね、夏祭りの時からすっごく仲良しさんになったの! なんでだろうね?」

 確かになぎの両親の間には以前のようなぴりぴりとした様子はなく、むしろ距離は夫婦のそれより恋人を思わせる。
 あの時の僕の行動で赤い糸が変化したのか、それとも他の原因が存在するのか。そもそも、赤い糸の相手が変わるなんていうことはありえるのだろうか。赤い糸が見えなくなった世界で、それを確かめる術はない。
 桜坂の双眸が僕を捉える。

「そっか、良かったね」

 つつみこめてしまいそうな小さな頭に手を置き、軽く撫でるとなぎは満面の笑みで返す。

「お姉ちゃんも元気?」

 話を振られた桜坂の表情は変わらず、口元に笑みを携え、軽く頷く。
 声を発しない桜坂になぎは首を傾ける。

「あー、その……お姉ちゃんは今ちょっと喉が傷ついちゃってね。声出すとすごい痛いみたいだから。……でも、すごく元気だよ!」

 とっさに出たフォローとはいえ、最悪の繕いをしてしまった。

「……そうなんだ。お姉ちゃん、早く良くなってね! なぎもお姉ちゃんとお話ししたいから!」

 なぎの母親が彼女を呼ぶ。

「じゃ、なぎ行くね! ばいばい! お姉ちゃん、お兄ちゃん!」

 無垢そのものな少女を見送り、彼女へかける言葉を選ぶ。

「……その、ごめんね。変な嘘ついちゃって」

 横で、彼女がゆっくりと首を振る。気にしないで。そう言われている気がした。
 でも、彼女の顔を見ることは憚られた。

『あれが最善の選択よ。ありがとう』

 僕の目の前にかざされた感情を持たない文字。やっぱり、分からない。文字はどこまでいっても文字だ。そこに感情を乗せることは難しいし、その意思を読み取ることもまた、困難だ。

『そろそろ、行きましょう。衣装合わせとか、打ち合わせもあるし』

「……そうだね。劇、頑張らなくちゃ」

『私たち二人とも、一言も喋らないけどね』
 
 彼女の顔を見る。
 口元をほのかに潤した淡い笑み。
 ずっと、彼女の表情は変わらない。