声にならないくらい、赤が見えない恋を君と



 愛衣と幸田と別れた時には、まだ白んでいた空はすっかり橙黄色に染まっていた。

「佐野倉さん、やっぱり告白したのね」

「お似合いに見えるから、良いんじゃない?」

 彼女は意外そうな顔で僕を見る。それもそうだ。昨日までずっとぐちぐちと彼女に不満と悩みをばらまいていた男が、さっぱり気にしていないのだから、いかに心を読める彼女でも驚きものだろう。

「あの二人、幸せになれるかしら?」

 彼女はまだ小さく見えている二人の背中を見て、意地悪そうに問いた。

「さあ、どうだろうね。二人の頑張り次第じゃないかな? ってか、幸田は愛衣を幸せにしないと許さない」

「篠原くん、佐野倉さんのお父さんみたいね」

「実際の愛衣の父親は、僕とは比べ物にならないくらい怖いよ」

「それは、雲宮くんも大変ね」

 遠くで、二人が振り向く。僕と桜坂の話でもしていたのだろうか。

「さあ、僕たちも帰ろうか」

 僕は二人に背を向けた。歩き出して数歩、後ろから小さな、小さな、今にも消えてしまいそうな声が聞こえて来た。

「――羨ましい」

 僕は聞こえないふりをした。
 思えば、この選択は間違いだったかもしれない。
 この日以降、彼女とは会わずに夏休みが終わった。
 何度、僕は繰り返すのだろう。
 二学期初日、僕は自分の過ちに気づき、激しく後悔した。
 あの時、もし聞こえないふりをしなかったら、何か変わっていたかもしれない。僕にもできることがあったかもしれない。もっと、良い思い出にできたかもしれない。

 桜坂琴音は声を出せなくなっていた。
 夏休み明けの教室はいつもより賑やかで、一ヶ月後には学園祭も控えているせいか、三年とはいえ、受験ムードはやや薄れている。
 ホームルームの真っ只中、なぜこんなにも騒がしいのかというと、学園祭で行う劇についての議論で白熱しているからだ。
 全員が一丸となって、とはいかない。僕のように興味なさそうにぼーっとしている人もいれば、周りに構わず参考書を開いて勉強をしている人もいる。受験生だから、一概に協調性のない悪い奴だとは言えないんだけど。
 学園祭で三年生が披露する劇は、既存の物語でも、オリジナルストーリーでもいいことになっている。大抵の場合は完全オリジナルか、既存の物語に突拍子もない設定を加えたものを選ぶクラスが多い。僕たちのクラスもどうやらオリジナルの作品を劇としてやるみたいだ。
 黒板前ではクラスの陽の者たちとでもいうべきだろう協調性のある人々と演劇部が、多種多様な意見を出し合っている。
 もちろん、僕はそんな輪の中に入っていけるはずもなく、昼休みに起きた図書室での出来事で頭がいっぱいだった。
 
「えっ……?」

 そんな間抜けな小さな声は、静まり返った図書室では大きな声に変わり、一同に視線を集めた。しかし、周りの目など意識の外に置き去りにして、僕は彼女とその手元にしか目がいかなかった。
 フリップボードにマジックで書かれた『久しぶり』の文字。そして、それを手に持ったいつも通りの表情をした彼女。

「桜坂……。もしかして、声……」

 彼女はフリップボードを書き直し、僕に提示する。

『声、出せなくなっちゃった』

 周囲が霞んだ。目の前の彼女がぼやける。
 いつか来てしまうことは分かっていた。近いうちに来る。そんなこと、ずっと前から知っていて、覚悟もしていたつもりだ。それでも、いざ声を発しない彼女を目の当たりにすると、何を言うべきか、僕はどういう反応をするべきなのか、何一つとして分からなくなった。

「いつ……?」

 彼女は表情一つ崩さない。ずっと、小さく口元に笑みを浮かべ、ペンを走らせる。まるで、ずっと昔からそうして来たとでも言うようにごく自然な動作に見えた。

『篠原くんと最後にあった次の日』

 あの日が最後。
 僕が聞いた彼女の最後の言葉は「羨ましい」。

「そんなのって……そんなのってありかよ!」

 握った拳に爪がめり込んで、皮膚を裂いてしまいそうだ。行き場のない、誰に向けてかも分からない怒りが、胸中をどす黒く塗りつぶす。

『篠原くん、静かにね』

 彼女の指摘でようやく、自分が周りからの視線を集めていることに気が付いた。気味悪そうに見る人、関わるまいとしつつもチラチラと見る人。
 赤い糸のない世界は、人の表情が鮮明に見えて余計に息苦しい。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。視線を向けていた人々は、一斉に興味を失ったように僕から視線を外し、足早に教室へと戻っていく。

『じゃあ、また放課後』

 彼女もそんなフリップを見せて、図書室を出ていった。
 取り残された僕は静まり返る図書室から動けず、結局、五限目をサボった。
 静かな空間でぐちゃぐちゃな頭の中を整理したかったのだが、結局机で伏せているうちに授業の終わりを合図するチャイムが鳴ってしまった。
 六限目はかろうじて教室に戻り、授業に出席したものの、内容なんて入って来るはずもなく、ひたすら外を眺めた。

「おーい、実笠。聞いてる?」

 幸田に肩を揺すぶられ、意識が引き戻される。やけに心配そうな顔をして僕を覗き込む幸田は、桜坂のことをまだ知らないのだろう。

「劇の役、何にする? 実笠、普段自分のやりたいもの言わないから、俺がこっそり斡旋してやるよ」

 どうやら劇の内容はすでに決まり、役決めに入っているようだ。

「なんでもいいんだけど。そもそも、なんの劇やるの?」

「おーい、話聞いててくれよなー」

 そう言いつつも幸田は律儀に前の席に腰を着き、劇の内容を教えてくれた。
 簡単に劇の内容を要約すると、魔王に連れ去られた王女を勇者が、お供と一緒に助け出しに行くというものらしい。
 正直、聞いただけだと子供っぽくて面白くなりそうな気配なんて全くしないが、脚本を担当する文芸部の人は張り切っているっぽいし、僕のようなクラスの隅っこ族には劇の内容なんてどうでもいい話だ。
 それより、周囲から突き刺さる幸田を早く解放しろと言う視線がやけに痛い。それもそのはずだ。黒板にでかでかと書かれた主役という文字の横には、幸田の名前がこれまた大きく書かれている。

「で、なんの役をやるよ?」

「いや、僕は裏方でいいよ。別にやりたいものとかもないし」

「裏方はもう埋まってるぞ。実笠がぼーっとしてる間に」

 何ということだろう。僕と同じように外を眺めて退屈そうにしていた人も、空気読まずに勉強していた人も、実はちゃっかり話を聞いていて、裏方を決めるときに我先にと手をあげたらしい。
 どうやら、本当に話を聞いていなかったのは僕だけだったようだ。

「じゃあ、なるべく台詞の少ない役がいいかな」

「おーけー! じゃあ、お供の一人に完全無口な傀儡って設定の役があるから、それにしよう! 俺、黒板に書いて来るよ」

 何だその役と思ったが、それを口に出すとまた幸田を引き止めてしまい、周りの視線がより一層怖いものになるので、黙ってうなずいておいた。
 話し合い、早く終わらないだろうか。
 一刻も早く、桜坂に会いたい。
 会って、話を聞きたい。

「……あれ? 何を聞けばいいんだろう?」

 こんなつぶやきさえ、声に出ている。
 今、僕と話すことは彼女にとって苦痛なんじゃないだろうか。
 きっと、僕なら喋っている人がみんな疎ましく感じてしまうと思う。もちろん、彼女が僕と同じ感情を抱いているとは思わないし、きっと会えば、何事もなかったかのようにフリップ越しでも僕と話をしてくれるはずだ。
 それでも、僕は彼女にかける言葉が見つからないままでいた。


 夏休み明け一ヶ月ほどで学園祭が開かれるというのは無理がある。毎年のことだが、休み明けテストが終わった途端、校内は学園祭で使うダンボールやら装飾品が雑に積まれだす。
 一、二年は各クラスごとに出店を催す。食べ物系でも良いし、アトラクション系でも、とにかく利益が出なければ何でも良いようだ。
 一年の時はクラスでお化け屋敷をやり、僕はひたすら裏でBGMやSEの操作。二年の時はクレープ屋。食材の下準備を行うだけで役目を終えてしまったので、学園祭のほとんどを首からダンボールの看板をぶら下げて校内を徘徊しているだけで終わった。

 そして、高校生活最後の学園祭。今年も地味な役回りで終わるのだろうと考えていたが、どうやら僕に与えられた役は、序盤から終盤までほとんど出っ放しという、随分と人の目を引くものだった。
 幸田の演じる勇者のお供三人衆の一人で、勇者と契約したミイラ人形という設定らしい。人形だから、言葉を話すことはできず、台詞は一つもない。それゆえか、僕に渡された台本には最初から赤字で、動きは大胆かつ滑稽にと書かれていた。
 ちなみに王女役は愛衣がやるらしい。最初は違う人が立候補していたのだが、役が決まった次の日、クラス中に幸田と愛衣の付き合っているという情報が流れ、王女役だった人が辞退してしまったのだ。
 愛衣は心底、やりたくなさそうにしていたが、よくよく考えて他の人が劇で寸止めとはいえ、キスのシーンをすることは容認できなかったのだろう。今ではギャルな立場に似合わず、文芸部の人とよく話している。

「じゃあ、今から二時間は体育館を貸し切ってあるから、演者と照明の人は体育館に来てね」

 委員長の呼びかけにもちろん返事することはなく、誰それ構わず一人で廊下に出る。

「おーい、実笠一緒に行こうぜ!」

 聞き馴染みのある声に呼び止められ、振り向くと案の定、主役の二人がそこにいた。

「二人で行けばいいだろ」

「そんなこと言うなって。行き先は一緒なんだから、構わないだろ」

 上からのしかかる肩の重圧と男臭さをため息と一緒に受け入れ、愛衣を盗み見る。しかし、彼女も僕を見ていたようで、目が合ってしまい、僕の言わんとしていることがバレたようだ。

「あのねぇ、実笠は私とこ、幸田くんが付き合ったからって、遠慮して引くことはないよ。ただでさえ、実笠は友達が少ないんだから、本当にひとりぼっちになるでしょ?」

「そうだぞ~。遠慮されたら、それはそれで気持ち悪いしなぁ」

 互いに視線を交わし、微笑み会う二人の間を僕は凝視する。どんなに頑張っても、もう赤い糸は見えない。
 もしかしたら、僕が見えなくなった日から二人の赤い糸に変化があって、今は見えないところで繋がっているかもしれない。前例などないけど、二人を見ていると実際に繋がっているようにしか思えないくらい仲睦まじく、お似合いに見える。

「そういえば、五組の劇って琴音が主役なんでしょ?」

 愛衣の言葉に思わず胸が軋む音が聞こえた。彼女とは、夏休み明けのあの日以降、会う機会がなく、顔すら合わせていない。

「そ、それ本当?」

「ん? 実笠知ってたんじゃないの?」

「初耳だよ。なんで、桜坂が……?」

 愛衣は困ったように眉をひそめた。その様子を見てか、幸田が話に割り込んで来た。

「なんでも、五組の劇は声が出せない主人公の話らしい。詳しくは知らないけどさ。たぶん、それで桜坂に決まったんだと思う」

「な、なんで桜坂なんだよ! 別に誰でもいいだろ?」

 この数日で、彼女が声を出せなくなったことはクラスを離れた僕たちの耳にまで届いていた。噂はたちまち広まり、彼女は一気に最悪の形で避けていた注目を浴びることになってしまった。

「琴音は美人で、キャラも立つし、なにより……」

「主人公の気持ちがより分かるとか、そんな感じの理由だろうな。ふざけた話だ」

 普段は温厚な幸田の声色が、この時は少し怒りの感情を含んでいた。

「桜坂も断ればいいのに。いや、断れなかったって言った方が正しいか……」

「どうして?」

「フリップ越しだと、自分の感情をうまく伝えられないだろうし、周りの声が揃えば揃うほど、声に出せない桜坂は断りづらくなる」

 それに、彼女は明確な理由がないと断らない。彼女がどれだけお人好しかは、僕が一番分かっている。

「ひっど……なにその理由。やりたくないことをやらせるなんて、そんなのいじめじゃん!」

「まあ、でも割と仲良くやってるみたいだぜ? ほら」

 体育館に着き、幸田が顎で差す方を見ると、五組の人たちが一箇所に固まって談笑をしている。その中には桜坂の姿もあった。フリップ越しで会話する彼女に対して、周りの人たちは嫌悪を抱いていないようだ。随分とリラックスした態度で会話をしている。
 案外、彼女は劇に乗り気なのかもしれない。だとすれば、僕たちのここまでの話は杞憂なものだ。

「五組ー! 早く撤収してよ! 次は私たちの組の順番なんだから!」

 委員長は早く練習がしたいようで、体育館に着くなり僕たちの前の番だった五組を追い出そうとする。僕たちのクラスの委員長と五組の委員長は仲が悪く、互いに舌を出し合って牽制しあう。
 五組の面々がぞろぞろと体育館を出ていく最中、桜坂が不意に振り向いた。彼女は僕たちに目を向けると、裏返しにしていたフリップを表にした。そこには『頑張れ!』という文字が書かれている。
 彼女はすぐにフリップをひっくり返し、軽く手を振って体育館を出ていった。

「なにあれ、かっこいい……」

 隣で幸田のつぶやきが聞こえた。愛衣は素早く首を縦に振って共感している。
 
「琴音、ちゃんとうまくやってるっぽいね」

「そうだな。じゃ、俺らも負けてらんないなー」

 桜坂はクラスの人たちと頑張っている。僕たちも彼女を見習わなければいけない。

「むきーっ! 絶対に五組には負けないよ! みんな、早く準備する!」

 委員長は壇上にあがり、台本をメガホンがわりにして各所にやる気を振りまく。
 学校の空気は、学園祭モード一色だ。
 僕も、最後の学園祭くらい頑張ろう。せめて、自分の変な役ぐらい完璧に演じてみせよう。
 秋のひんやりとした夕風が頬を撫でる。
 学園祭まで、残り二十日。


「卑怯な魔王め! 彼女を解放しろ!」

 演技だと分かっていても思わずほくそ笑んでしまいそうな厨二病全開の台詞を、恥ずかしげもなく次々と並べる幸田の隣で、僕は野次を飛ばすような動作をする。もちろん、無言で。
 劇の練習が始まり十日。最初はロボット集団のようだった演者達もそれなりに様になってきたように思える。
 僕は元々、台詞が無い役なので、ひたすらに動作を大げさにこなすだけだ。

「はーい、カット!」

 一区切り演技をしては、演劇部と脚本担当の人から指導を受け、もう一度流す。これを繰り返して、徐々に形を作っていく。

「篠原くんは野次飛ばす時、バミりからはみ出していいよ。本番はバミり無いから、今のうちに感覚を掴んでおこう。思いっきり前のめりくらいでちょうどいいから」

 口調や台詞回しのような指導は無いので、僕へのアドバイスは大抵こんな感じだ。
 壁を背に座り込み、他の人への指導が終わるのを待つ。
 クラスを引っ張る人たちは随分と張り切っているが、正直劇の内容はいまいちだ。決して僕が悲観的な性格だからというわけでもないと思う。なんというか、高校生向きではないのだ。勇者が連れ去られた姫を助けるために魔王と戦うという超王道ファンタジーの設定は、付け焼き刃程度の素人集団が演じると、すごくチープなものに見える。こういうのは本当のプロがやってこそ映える内容だと舞台上に立ちながら思った。
 脚本を書いた人も演技を見るたびに首をひねっているところを見ると、どうやら自分の想像との差異が引っかかるようだ。委員長と二人で随分と話し合いをしている。

「ちょっといい?」

 休憩も終わりというところで、委員長が皆の注目を集めた。

「少し台本を変えたいんだけど、いいかな?」

 クラスがざわつく。

「正直に手を挙げてね。この内容で五組に勝てると思う人?」

 五組を名指しな件は完全に私怨だと思う。でも、やはり手を挙げるものは少ない。

「よし、じゃあ、みんなで会議しよう」

 そんなわけで、今日の練習は終了し、小一時間クラスで話し合いをした。もちろん、僕は隅っこで行き交う意見に耳を傾けていただけだ。別にこういった熱臭いのは嫌いじゃないが、自らその中に飛び込む勇気も、飛び込みたいという欲も、僕は持ち合わせていない。
 結局、ド王道だった内容は、主人公は不治の病を患っていて、戦いの半ば挫折して王女の救出を諦めてしまうという設定が追加された。

「それで、他の仲間たちはやられたり、離れていったりするんですが、契約を交わしたミイラ人形だけがずっと勇者の側に寄り添い続けて、無言で彼を見守るんですよ! そして、その献身的な姿に勇者はもう一度立ち上がるわけです! どうですか? いいでしょ!?」

 脚本担当の人のエンジンがかかってしまったようで、普段物静かな人物が鼻息を荒くしてみんなの前で自論を撒き散らす。
 正直、それも王道な内容の気がするのだが、最初よりかは物語に波ができたのは確かだ。

「実笠の出番増えちまったな」

「マジで勘弁してほしい。ってか、それは幸田も一緒だろ? 泣く演技とか出来んのかよ」

「んー、できないかも……。困った、どうしよう」

 確かに幸田が膝を折って泣いてる姿なんて見たこともないし、一ミリも想像できない。

「演劇部の人にコツでも聞いてくれば? それか愛衣にフラれるシーンでも想像してみろ」

「うーわ、なんか一気に泣けてきた。今なら泣けそう」

「ごめん、言った手前あれだけど、ちょっとキモいわ」

 無言で飛んでくる手刀を受け止める。蒸し暑い体育館の中で、男二人が隅で何をしているんだろうか。

「あー、それにしても……やっぱり納得いかねぇな」

 だるそうに足を投げ出し、天井を仰ぎながら幸田が呟く。

「何が?」

「桜坂だよ。実笠は病気のこと知ってたんだろ? 彼女、劇の主役やる人間には見えなかったんだけど」

「本人はクラスの人たちと仲良さそうにやってるっぽいし、いいんじゃない?」

 しかし、確かに彼女は好んで目立とうとはしない人だ。人の目を惹く容姿を持ちながら、なるべく日の目を浴びないように過ごしてきた彼女だ。クラスの連中に持ち上げられていることは間違いないはずだ。

「桜坂はああ見えて、結構好奇心旺盛でロマンチストだからさ、もしかしたら結構ノリ気なんじゃないかな」

「うーん。まあ、実笠の方が桜坂のことは俺の何倍も知ってる訳だしな」

「愛衣のことも、幸田の何十倍も知ってるよ」

 今度はグーでパンチが飛んでくる。結構、強めに打ったのか、受け止めた手のひらがじんわり痛みを帯びた。

「お前、またそういうこと言い出すのか」

 幸田は拗ねたように口を尖らせる。
 愛衣の方を見ると、彼女もこちらに気が付いたのか、大きく手を振っている。

「幸田、愛衣のこと傷つけたら許さないからな」

 彼女に向けて手を振る幸田は、照れ臭いのか僕を見ない。

「言われるまでもないね」

「そっか。ならいいや」

「実笠は愛衣の父親みたいだな」

「それ、桜坂にも言われたよ。でもって、愛衣の父親は僕の数百倍は怖いよって教えてあげた」

「……まじか」

「まじだ」

 少し顔色が悪くなった幸田を見て、思わず笑みがこぼれた。
 委員長が集合の合図をかける。長い休憩も終わり、また練習の再開だ。

「実笠、最高の劇にしような!」

 幸田は立ち上がり、手を差し伸べてくる。

「よくそういう臭い台詞を恥ずかしげもなく吐けるよね」

「実笠も桜坂に見てもらいたいもんな」

「どうしてそこで桜坂の名前が出るんだよ」

 幸田の手をきつく握り、立ち上がる。

「そりゃ、実笠にも桜坂にも幸せになってもらいたいからな」

「なんだそれ、意味わかんない」

 僕は自然と笑みが浮かんでいることに、少し遅れて気が付いた。


 学園祭二日前になると、普段は十九時までしか開いていない校舎が二十一時半まで解放される。機材の最終チェックや装飾、設営などやることは山ほどある。そのため、大半の生徒が学校に遅くまでいるため、すっかり外は闇に包まれたというのに、校舎内は昼間より賑やかだ。

「お前たち、遅くなりすぎる前に帰れよ〜。俺は早く帰りたいんだからな」

 教師とは思えない言葉を発しながら体育館に来たのは、僕たちの担任だ。ヨレたジャージにサンダルは、テレビの中の日曜日昼下がりの父親を想像させる。

「いえ、時間ギリギリまでやります」

 委員長は当たり前というように担任を言い退け、すぐにステージ上に意識を戻す。とはいえ、委員長だけが先走りしているわけでは無い。体育館には裏方やすでにやることがない人も含め、クラスのほとんどが集まっている。皆、学園祭が近づいているという高揚感と、普段は残れない時間まで学校にいるという少しの背徳感で謎に高テンションなのだ。

「まあ、そういうと思ってな。ほれ、差し入れだ」

 さっきまで誰も担任のことに目を向けていなかったのに、差し入れという単語を聞いた瞬間、視線が一同に集中する。

「お前たち、露骨すぎるだろ……。ま、いいか。それじゃ、俺は職員室に戻るけど、怪我だけはしないでくれよ」

 手のひらを返した皆の威勢の良い返事に、担任は頬を掻きながら去っていった。
 差し入れに群がるクラスメート。その様子を遠巻きに眺める。最近はクラスの人と話すことも増えたし、混ざろうと思えば、自らその輪の中に入ることもできなくは無いと思う。
 でも、少し人間として成長したせいか、分かったことがある。僕はどうしようもなく冷静な人間だ。いや、そんなかっこいいものじゃ無い。ただ、臆病な人間だ。
 普段は感情の起伏が少なく、少しのことであれば我慢してしまう。だから、溜めに溜め込んで爆発する。夏祭りの時のように。
 我ながら、大きな事件なんか起こしそうなタイプだなと思う。
 そんなビビリな僕は、みんなが差し入れを取って散らばったあとから、余り物をこそっと取るのだ。
 差し入れを持って、体育館を出る。休憩後しばらくは、僕の出番が無いシーンだ。少しくらい体育館にいなくても大丈夫だろう。

 体育館から旧校舎に繋がる渡り廊下の横から、屋上へ繋がる古びた階段を登る。この階段はすでに使われていないもので、決して綺麗とは言えないため人が寄り付かない。最近の僕専用の休憩場所だ。
 しかし、今日は先客がいた。
 校舎で言えば四階の外階段で、町灯りに照らされた風景を眺める女性。ぼんやりと町を眺める表情とは裏腹に強く拳が握られている。

「桜坂……?」

 僕が名前を呼ぶと、彼女は身体を振るわせながら慌てて振り向く。そして、僕の顔を見ると心底安堵した様子で胸をなでおろした。

『ここ、進入禁止のところだよ?』

 彼女が急いでフリップを笑顔で掲げる。

「それ言うなら、桜坂もでしょ? 人が誰も来ないからたまに休憩で使ってるんだよ」

『そうなんだ。いい場所だね』

 彼女は手すりに腕を預ける。僕も横で真似して、そこから見える景色に意識を向けた。山の上にある校舎から見える町は暗闇に飲まれ、至る所で点いている灯りが小さな丸の集合になってイルミネーションのように輝いている。

「そうだ。これ、担任からの差し入れなんだけど、半分食べない?」

 僕は手に持ったドーナッツを二つに割り、半分を彼女に差し出す。

『私、篠原くんのクラスじゃないから受け取りづらいな』

「いいんだって。飲み物もないんだから、一人じゃ食べきれないよ」

 押し付けるように彼女にドーナッツを渡す。

『じゃあ、いただきます』

 そこからは、僕も彼女も無言で景色を見ながら、ドーナッツを食べた。というか、桜坂は手がふさがっているから文字が書けないので、会話のしようがない。だから、僕も黙っていた。
 沈黙。
 言葉の響きは重いけど、彼女といるときの静けさは嫌いじゃない。今、彼女は何を思って、何を考えているのだろう。
 僕といる空間が心地よいと感じてくれていたら、嬉しいのだけれど。そんなこと、分かりっこない。
 そのまま五分くらいだろうか、体育館から聞こえる小さな声に耳を傾けていた。

「そういえばさ、桜坂のクラスは劇の調子どう?」

 彼女は少し迷ったようにペンを宙に彷徨わせ、それからフリップに書いた。

『順調かな。あとは最終調整だけだと思う』

「そっか……。僕のクラスはギリギリまで時間を使って、ようやく形になるかなぁってとこ」

 桜坂はクスッと笑う。僕が首をかしげると、彼女は笑顔をつくったままペンを走らせた。

『こうやって篠原くんと過ごすの、久々だなって』

「あぁ、確かに久しぶりだね。最近は僕も桜坂も劇の練習で、放課後は図書室行けてないからね」

 彼女はペンを動かさない。本当に心を読まれているんじゃないかって錯覚するくらいだ。
 臆病な僕は少し困った。

「いや、本当はさ、ちょっと怖かったんだ。何が怖いっていうのはうまく言えないんだけど。現実を受け止められないっていうか、変化を見るのが怖いっていうの? ……ごめん。桜坂は受け入れて、前を向いてるって言うのに」

 また、彼女はペンを悩ませる。そして、僕に見せないように書いた文字を見つめ、消した。新しく書かれた文章には、『私は毎日楽しいよ。クラスのみんなで劇の練習をするのも、篠原くんとこうやっているのも』と書かれていた。

 会話ができないって、不便だ。声色から判断できることだってあるはずなのに、今は彼女の表情とフリップに書かれた文字からしか判断がつかない。

「……そっか。良かった」

 結局、僕はこう返すしかなかった。

『篠原くんは赤い糸が見えなくなって良かった? それとも、不便?』

 唐突な質問に、僕は言葉を詰まらせる。

「どっち、かな。見えなくなって良かったと思うことの方が多いけど、見えてほしいなって思う時もあるよ」

 今、僕の糸はどこの誰と繋がっているのだろう。体育館にいる愛衣だろうか、それとも隣の彼女だろうか、それとも見知らぬ誰かかもしれない。

『そっか。私も話せなくなって不便だなって思うこともあるし、良かったって思うこともある』

「良かったこと?」

 そんなことあるのだろうか。話せなくなって良いことなんて思いつかない。むしろ、不便なことしかないと思うのだけれど。

『私、休憩が終わるからもう行くね』

 彼女は笑顔で小さく手を振って、階段を降りていった。
 一人になった空間は、とても広く、そして静かに感じた。さっきまでだって声を出していたのは自分だけのはずなのに、彼女がいなくなった瞬間、僕の言葉は泡のようにすぐに弾ける。そんな気がした。二人でいた時の僕の言葉は黒板に書かれた文字で、今は曇りガラスに文字を書いたときのように、発してもすぐに見えなくなってしまう。

「糸が見えないと一歩踏み出すのも勇気がいるなんて、知らなかったよ」

 僕の言葉は空気に溶けて消え去った。
 本校の文化祭は二日間に渡って行われる。一日目は全校生徒が体育館に集合し、部活や有志でのステージ上の演目や周辺地域とのちょっとお堅いタイアップ企画などが催される。
 一日目は一般人への開放はなく、在籍学生だけの日だ。本番は二日目という意味を考えると、前昼祭みたいなものだ。太陽が傾き出す前には全ての行程が終了し、文化祭一日目は幕を閉じる。しかし、どのクラスも最終準備などで遅くまで残るところがほとんどだ。
 そして、二日目。朝早くから一、二年生は出店の準備でバタバタしていた。その様子を遠巻きに眺めながら、教室にいつも通りの時間に到着する。普段はまばらにしか登校していないが、今日に限っては既にほとんどのクラスメートが教室にいた。普段はホームルームが始まるぎりぎりにこっそり入ってくる隅っこ仲間の人も、今日はすでに登校して、いつも通り机に伏せている光景はなんとも奇妙だ。
 文化祭といっても、朝のホームルームはちゃんとあるわけで、チャイムが鳴って少し経ってから気怠そうに担任が教室のドアを開く。

「えーみんな怪我しないように。最後なわけだし、ちゃんと楽しめよ。俺みたいなおっさんになったら忘れちまうんだから、今だけでもちゃんと騒いで記憶に刻んどけよ。あ、ただ問題は起こすんじゃねえぞ。言うて受験生だからな、お前ら。っていうのは建前で、事後処理する俺の身になってくれ。じゃ、解散〜」

 本当、この担任はなんで教師になろうと思ったんだろうか。でも、こんな教師でも生徒たちの評判は悪くない。よく聞けば、今の話もちょっと良い話だった気がしなくもない。いや、そうでもないか。
 九時になると一、二年生の出店が一斉に開く。それに合わせて一般客の入場が開始される。人の少ない町ではあるが、例年、老人から卒業生、中学生など結構たくさんの人が訪れる。娯楽が少ない町ならではの光景かもしれない。
 たちまち校舎内は人で入り乱れ、ようやく文化祭が始まったという気分になる。
 ちなみに三年生の劇は、十三時から事前にくじで決まった順に体育館で行われる。今年から、音声は各教室のスピーカーを介して校舎全体に流れる。体育館に出向いて見るもよし、持ち場がある人は音声だけでも楽しんでもらおうという実行委員の策略らしい。
 ちなみに僕たちのクラスの順番は五組の次で、かつ大トリとなった。くじを引いた委員長はガッツポーズをしていたが、僕たちからしたらとんでもないプレッシャーを背負ってしまったことになる。

「じゃ、悪いが出店回ってくるな」

「おー、行ってこい」

 少し残念そうにも見える幸田を手で追っ払う。此の期に及んで愛衣と僕、そして幸田、あわよくば桜坂の四人で自由時間を過ごそうと言い出したので、早々に断った。夏祭りの時のようにしてはダメじゃないけど、ダメだということくらい、恋愛感に疎い僕でも分かることだ。
 唯一の誘いを断り、教室を見渡すと、見事に勝手に同族だと思っている人しか残っていない。隅っこ族数人と、こんな時でも参考書を開いて勉強している人以外は皆、各々友達と出店回りに出払っている。
 ふと、廊下に目を移すと見知った顔の人物が窓越しに教室を覗いていた。その人物は僕を見つけると、躊躇なくカオスな空間に繋がるドアを開ける。静まり返った空間に引き戸の音はけたたましいと言っても過言ではない。
 皆の意識が音のする方へ集中する。
 その人物は僕の方を見て、フリップを掲げた。

『一緒に出店回りましょ?』

 どこからともなく、小さな舌打ちが聞こえてくる。気まずさと恥ずかしさが合間って、僕は特に頷くでも、返事をするでもなく立ち上がり、教室を出る。

「あー、びっくりした」

 彼女はいそいそとペンを動かす。

『佐野倉さんと雲宮くんが、篠原くんは教室にいるって言うから』

「まあ、友達いないしね。一人で回っても虚しいだけでしょ」

 彼女は首をひねる。

『私と篠原くんは友達でしょ? いるじゃない』

「桜坂はクラスの人と回るもんだと思ってたから」

『確かに断ってきたんだけれど』

「え? どうして?」

 僕の声だけがこだまする廊下に、下の階から喧騒が聞こえてくる。

『最後の文化祭くらい、ちゃんと友達と回りたいじゃない』

 その言葉が何を意味するのか、どう受け取れば良いのか分からない。

『あとは、ちょっと緊張をほぐしたくて。素の私を見せられるのって、篠原くんくらいしかいないから』

 彼女は階段を指差して歩き出す。多少の違和感を抱きつつ、僕は後を追いかけた。
 不意に彼女が振り向き、フリップを掲げる。

『内心、喜んでいるんでしょ?』

 意地悪そうな顔で笑う彼女。
 思わず、素直な感想が口からこぼれそうになって、彼女から目を離す。

「まあ、そりゃ……友達と回れるんだから、悪くはないよ」

 三年生の教室がある四階を除き、一階から三階は下級生の出店で賑わっていた。定番とも言える飲食関連や、これまたど定番のお化け屋敷などの遊戯関連など、様々な催しが立ち並んでいる。
 僕と桜坂は一階からしらみつぶしに出店を見て回った。賑やかな校内をいつもよりだいぶ遅めに歩き、気になった店があれば入る。一人で永遠と徘徊していただけの昨年までとは大違いだ。
 小一時間ほど文化祭を味わった時、聞き覚えのある声が後方から聞こえてきた。

「お姉ちゃーん! お兄ちゃーん!」

 僕と桜坂をそう呼ぶのは、一人しかいない。

「なぎちゃん!? 来ていたんだ」

 無垢な笑顔を浮かべて走り寄ってくる少女。まさか、夏祭りの時の彼女が文化祭に来ているとは思わず、文字通り驚いた。桜坂もいつもより少し目を大きくしているところを見るに、とても驚いているのだろう。

「うん! お母さんとお父さんがね、お姉ちゃんとお兄ちゃんはこの学校にいるんじゃないかって」

 顔を上げると、なぎの両親が後方で小さく頭を下げる。

「お母さんとお父さんね、夏祭りの時からすっごく仲良しさんになったの! なんでだろうね?」

 確かになぎの両親の間には以前のようなぴりぴりとした様子はなく、むしろ距離は夫婦のそれより恋人を思わせる。
 あの時の僕の行動で赤い糸が変化したのか、それとも他の原因が存在するのか。そもそも、赤い糸の相手が変わるなんていうことはありえるのだろうか。赤い糸が見えなくなった世界で、それを確かめる術はない。
 桜坂の双眸が僕を捉える。

「そっか、良かったね」

 つつみこめてしまいそうな小さな頭に手を置き、軽く撫でるとなぎは満面の笑みで返す。

「お姉ちゃんも元気?」

 話を振られた桜坂の表情は変わらず、口元に笑みを携え、軽く頷く。
 声を発しない桜坂になぎは首を傾ける。

「あー、その……お姉ちゃんは今ちょっと喉が傷ついちゃってね。声出すとすごい痛いみたいだから。……でも、すごく元気だよ!」

 とっさに出たフォローとはいえ、最悪の繕いをしてしまった。

「……そうなんだ。お姉ちゃん、早く良くなってね! なぎもお姉ちゃんとお話ししたいから!」

 なぎの母親が彼女を呼ぶ。

「じゃ、なぎ行くね! ばいばい! お姉ちゃん、お兄ちゃん!」

 無垢そのものな少女を見送り、彼女へかける言葉を選ぶ。

「……その、ごめんね。変な嘘ついちゃって」

 横で、彼女がゆっくりと首を振る。気にしないで。そう言われている気がした。
 でも、彼女の顔を見ることは憚られた。

『あれが最善の選択よ。ありがとう』

 僕の目の前にかざされた感情を持たない文字。やっぱり、分からない。文字はどこまでいっても文字だ。そこに感情を乗せることは難しいし、その意思を読み取ることもまた、困難だ。

『そろそろ、行きましょう。衣装合わせとか、打ち合わせもあるし』

「……そうだね。劇、頑張らなくちゃ」

『私たち二人とも、一言も喋らないけどね』
 
 彼女の顔を見る。
 口元をほのかに潤した淡い笑み。
 ずっと、彼女の表情は変わらない。


 体育館に響き渡る幻想的な音楽に乗せ、演者の台詞が聞こえてくる。
 三組目の劇が始まると同時に、僕たちのクラスは舞台裏に移動して衣装合わせを始める。一組約三十分の時間制なので、一時間後にはあのスポットライトの下にいると思うと、胃が痛くなって来た。
 桜坂の五組は既に衣装を身にまとい、舞台袖で待機している。

「いやぁ、流石に緊張して来たな」

 横でクラスの男子にゴテゴテのマントを着せられている幸田が、言葉に反する緊張感のない声でぼやく。
 同じように両手を広げ、全身にボロボロの包帯を巻きつけられる僕はそれこそ緊張で声も出ない。台詞のない役で本当に良かった。
 下半身は肌が見えないように足の先までぐるぐる巻きにされ、上半身は包帯が少しの隙間から、肌が見える程度に巻かれる。適度に覗く肌は腐敗したような薄汚い化粧が施されており、髪は整髪料でボサボサに形作られる。
 細身の身体に血色悪く見せた肌。包帯の隙間から覗く眠そうな目。我ながら、悲しいことに良く似合ってしまっている。
 演者全員が衣装に身を包んだところで、三組目の劇が幕を閉じて舞台の垂れ幕が下がった。
 五組と入れ替わりで舞台横に移動する。

「琴音、なんでも似合っちゃうね」

 某有名ゲームの姫を想像させるふわっとしたピンクのドレスに身を包んだ愛衣が、舞台上に目を向けながら呟く。
 降りた分厚いカーテンの前で、四人の演者が幕が上がるのを待っている。その中の一人が桜坂だ。
 全員、中世ヨーロッパを想像させる肩から膝までのラピスラズリ色のショールに、その下から覗く白い衣服。髪は後ろ一つで束ねられ、足はサンダルのような革靴だ。しかし、他の三人に比べ、桜坂の衣服は同じものにも関わらず薄汚れている。よく見ると、桜坂を囲むようにして立つ三人は化粧も施しているようだ。

「シンデレラみたいな感じかな?」

「まさにシンデレラみたいな格好の愛衣がそれ言う? いや、確かにそんな感じだとは思うけど」

「でも、あれだね、素材を殺しきれてないよね」

 愛衣の言う通り、周りとの身なりの差は大きくあれど、中央に立つ彼女は一輪の華を思わせる。

「それも織り込んでの役選びだろうね」

 高めの開演ブザーが鳴り響く。静まり返る会場に思わず息を飲む。
 ゆっくりと上がる垂れ幕に合わせ、ナレーションの声が体育館中を響き渡る。
 愛衣と僕の予想通り、桜坂の役はシンデレラを想起させるものだった。

 四人姉妹の末っ子に生まれ、小悪を重ねる姉たちに虐げられる主人公。彼女が一人除け者にされる理由は末っ子ということに加え、生まれつき声が出せないということにあった。ある日、荷物持ちとして姉たちと街に繰り出した主人公は、旅芸人が行う街劇を目の当たりにして大きな感動を得る。そして、その日から主人公は劇団のパフォーマーを目指す、というのが大まかなストーリー。

 随所で主人公の心情を表すような歌が奏でられ、それに合わせてステージ場でダンサーが踊るミュージカルチックな劇のようだ。
 舞台上で一言も発さない彼女は、紛れもなく主人公そのものだった。毅然とした演技、台詞がないという難題を感じさせない豊かな表情と動き。
 気がつくと、僕は彼女から目が離せなくなっていた。他の役者やダンサーは目に入らず、ただひたすらに彼女を目で追いかける。
 しかし、これは僕が彼女に恋しているだとか、見知った関係であるからという理由ではない。きっと、観客も彼女しか目に入らない。
 舞台上の彼女は桜坂琴音ではなく、完全に役に染まりきっている。仮面を被っただけではない。その人物そのものになっていた。
 そして、物語は終盤。長い年月を経て劇団に入団した主人公は、声を使わず動きだけで大衆を一人残らず魅了し、これからの偉大な活躍を予期させるパフォーマンスをする。

「今流れている曲ね、琴音が作詞したんだって」

「えっ? そうなの?」

「うん。他は脚本の人が考えたらしいけど、最後のこの曲は主人公である琴音に考えてもらった方が良いんじゃないかってクラスでなったらしいよ」

 流れる曲に合わせて舞台上を蝶のように彼女が舞う。ダンサーをくぐり抜け、まばゆい笑顔を携えて踊り回る。煌々と降り注ぐスポットライトさえ霞む輝きが、彼女を包み込んだ。
 その様子に僕は声が出なかった。

「ちょっと実笠? ……口から血が出てる」

 愛衣に指摘され、初めて強く唇を噛み締めていることを自覚した。

「まあ、それもミイラっぽくていいかもね」

 愛衣の声が遠くに聞こえた。隣にいるはずなのに、意識が丸ごと身体から抜け落ちてしまうような。
 前三組とは比べ物にならない盛大な歓声と大きな拍手で、五組の劇は幕を閉じた。舞台から演者がぞろぞろと、僕たちとは反対の袖にはけていく。

 不意に彼女が振り向いた。その瞬間、周りがスローモーションのようにゆっくりになる。まるで僕と桜坂だけが時間に取り残されたように――。
 彼女の視線はまっすぐに僕を捉えている。役に染まりきっていた時のような、きらびやかな表情ではなく、幾度と見た薄い微笑み。
 多分、僕は彼女を睨みつけていた。
 凍った彼女の表情が、じわっと溶け出す。
 それは瞬きと同時に弾け、一筋の粒となって頬を伝う。
 一度こぼれてしまうと、そのあとはぽろぽろととめどなく溢れ出した。
 先ほどの曲が脳裏をこだまする。

 ――小さな檻にはいたくない
 ――声なんていらない私にはこの腕と足があるのだから
 ――みんなとの毎日が楽しいの
 ――つくり笑いなんて必要ない
 ――さあ私を見て
 ――今の私は輝いているでしょ?
 ――この気持ちあなたにはわかるはず
 ――特別なの
 ――普通なんて平凡なんてつまらないじゃない?
 ――だから私は今幸せなの

 こんなの全部、嘘だ。

         *

 彼女は嘘を演じた。
 別にそのことについて怒っているんじゃない。そもそも、胸中を渦巻く泥々としたこの気持ちは確かに負の感情ではあるが、果たして僕は怒っているのだろうか。それとも悲しんでいるのだろうか。
 人の心を読める力が、僕にあればいいのに。
 今、たとえ赤い糸が見えたとしても、何の役にも立たない。それとも桜坂が言っていた、五秒間だけどんなことでも願いが叶う力なら、何かできるだろうか。

「できっこないよなぁ……」

 天井から降り注ぐ照明が眩しいくらい明るく、降ろした垂れ幕の隙間から、薄暗い体育館に微かな光を漏らしているだろう。
 暗い中でその僅かな灯りを完全に隠すことはできない。なぜなら、ステージの輝きを隠す垂れ幕はただの分厚い布だ。床との微かな境目には、少しの隙間が生まれるのは当たり前。周囲が一面の闇の中で、きらきらと覗く輝きを見れば、誰だってそこに目を奪われずにはいられない。
 きっと彼女の涙を見た大半の人は、輝きが漏れたのだと思っただろう。薄暗いステージと袖の境で、半分だけ顔をスポットライトに照らした少女が涙を流す光景に、目を向けないものはいない。

「――綺麗」

 誰かが呟いた言葉に周りが同調する。感極まって泣いちゃったんだよ、でもその様子すら美しいね、とでも言い合いたいのだろうか。
 確かに彼女を知らない人から見れば、そう見えるに極まっている。あれだけ完璧な演技を披露した人が、たくさんの拍手と歓声に思わず感動して涙を流したと解釈するのは当然だ。僕だってその人物が桜坂琴音でなければ、同じような感想を抱いていたに違いない。
 でも、彼女のそれは決して感動とか、安堵じゃない。むしろ、彼女が必死に取り繕って、隠し続けてきた陰りが隙間から見えてしまったのだ。
 影は光のあるところでしか見えない。周りが暗ければ、影もそれに溶け込んで姿を隠す。
 予期せぬ輝きから漏れ出した涙。それは僕にとっても彼女にとっても予想外のものだった。だから、僕は行き場のない怒りを隠せず、彼女は慌てて本音の雨をよそ行きのような笑顔で隠そうとする。
 彼女はどんな時でも冷静で、僕なんかよりずっと大人で完璧な人間だと思っていた。いや、思い込んでいた。
 だから、普段であれば絶対にやらないであろう舞台の主役をやることになった今回も、さほど疑問や心配はしていなかった。
 なんだかんだいってそつなくこなし、思ってたより楽しかったみたいなことをいつも通りフリップに書いて僕に見せる。そう信じて疑わなかった。
 でも、桜坂琴音は僕と同じはぐれもので、誰よりも普通を望んでいた。

「桜坂さん、病気で声出せないのに周りとの連携すごかったよね」

 誰かが言った。頷く声も聞こえてくる。
 それだよ。その特別扱いが、はぐれものには刺さるんだ。
 普通を望む人間に、特別という箔を押し付けるのはあまりにも残酷だ。
 でも彼女は大人だから、他の人からすればなんてことのないその言葉に対して口を出さないし、僕と違って同じ過ちは繰り返さない。また、いつも通りの淡白な笑みで、ボロボロの心と涙を隠すのだろう。

「おい、実笠。何ぼーっとしてるんだ? 始まるぞ?」

 幸田に声をかけられ、我に帰る。
 ステージ上はすでに大トリである僕たちのクラスの装飾が運ばれていた。

「じゃ、行ってくるな」

「あ、うん……頑張って」

 最初のシーンは勇者役である幸田と姫役の愛衣、あとは魔王役の三人だけだ。

「なんか他人事だなぁ。実笠も出番までにその呆け面どうにかしろよ。包帯越しでも丸わかりだぞ?」

 自分でも思う。心ここに在らず。さっきまで高鳴っていた鼓動も、今は静かすぎて不気味だ。緊張なんて、彼女の涙を見た瞬間に吹き飛んでしまった。
 僕たちのクラスの劇は、クラスの――いや学年の人気者である幸田の覇気ある一声から始まった。
 魔王に連れ去られる姫を救う王道ファンタジーチックな作品。正直、前の彼女たちの作品と比べると、見劣りすることは確かだが、もとより他のクラスと競っているのは委員長くらいなので、誰かの演技が萎縮するようなこともない。

 序盤、姫を連れ去られた勇者は魔王城への道すがら仲間を集める。一人目は僕の演じるミイラ男。感情を持たず、喋ることもできない。ただ、ひたすら主人と認識した人物に付いて行く、所謂操り人形のような役だ。
 二人目は離れ村の魔法使いで、三人目がゴロツキ崩れの盗賊。
 勇者のパーティーとして魔法使い以外はどうなんだろうかと思ってしまうが、口には出さない。

「ほら、実笠の番だよ」

 愛衣に背中を押され、つんのめるように舞台へとおどり出る。シーンチェンジの最中なので、ステージ上は暗転し、薄暗い。
 なんだか、全てが数倍速で動いているみたいだ。一瞬前に始まったと思えば、すぐに出番が来て、こうやって考えているうちに照明がパッと光を放つ。

「王国の墓地を彷徨い続ける亡霊よ。どうか私に力を貸してくれ」

 幸田と視線が交わる。びっくりするくらい役に入りきっている彼を見てか、それともしこたま練習したおかげか、自然と身体が動いていた。
 無口なミイラ男の大きな動作に観客の視線が突き刺さる。しかし、やっぱり何も思わなかった。ある意味、僕も役に入れている。感情を持たない人形。ひたすらに勇者の横を献身的に付いて行く存在。
 物語は終盤、何人かの細かな台詞間違いはあれど、大きなミスはなく順調に劇が進む。ここからは、勇者が背負っていた不治の病が悪化し、塞ぎ込んでしまう場面だ。
 決して治ることのない病気に蝕まれ、心身共にボロ布のように擦り切れた勇者は一人殻にこもってしまう。見かねた盗賊は勇者を見放してパーティーを去り、そして魔法使いもしばらくして勇者の元を出た。
 そんな状況の中、ミイラ男だけが何日もそばに居続ける。魔王の手先が迫りくれば勇者を守るために戦い、何もないときはすぐ横でじっとうつむいて顔を隠す勇者を見守る。そして、そのミイラ男の様子を見て勇者はもう一度立ち上がることを決意する。

 そういうシーンの予定だった。

 うずくまる勇者を横で見守る僕の視界に、彼女が入り込んでしまった。客席のさらに奥の体育館の壁際に、一人ぽつんと立っている彼女と確かに目が合う。
 その瞬間、僕の中の何かが崩れた。
 彼女から目が離せない。まるで磁石のように吸い寄せられて、反発することも叶わない。

「……実笠?」

 幸田の心配そうな小声が聞こえてくる。でも、僕の動きは固まったままだ。
 舞台の空気が止まる。それは確かなトラブルで、緊急事態だ。視界の端で、クラスメイトたちが不安そうに僕を見るのが分かった。観客はこういう演出だと思っている人もいれば、不審そうに首をひねる人もいる。
 全部見えているのに、僕の意識は彼女にしか向けられていない。
 その彼女の頬の涙が伝った痕跡に気づいた瞬間、周りが真っ白になった。
 まるで夏祭りの時と同じ感覚。僕の悪い癖。

 ――あ、ダメだ。

「…………ふざけんなよ」

 無口で無心のミイラ男から、感情が漏れた。


 小さい頃、僕は周りの同年代を少しだけ見下していたと思う。だって、すぐにわがままを言うし、後先考えずに行動するし、みんな子供だなぁ。そんなことを自分も子供のくせに思っていた。
 周りの大人からはしっかりした子とか言われていたが、それは少し違う。実際、僕みたいな、子供にしては達観した人はちらほらいたし、さして珍しいわけではない。
 子供みたいに感情のままに喋り、そして叫ぶ。
 この行為を子供の頃の僕であれば、確かに馬鹿みたいで子供らしいと感じていただろう。でも、子供と大人の狭間に立った今、この行為が悪なのか、善なのか分からない。
 我慢することは美徳なのか。隠して偽ることは悪徳なのか。
 言いたいことを言わずに口を閉ざしたあの頃は本当に大人だったのか。
 感情を抑えられなくなった今の僕は、大人と子供――どっちなんだろうか?

 僕があまりに小さく呟くものだから、会場が音を無くしたように静まり返った。観客は僕の台詞を聞き逃さないように、そしてクラスメイトは単純に予定外のことをした僕に言葉を失っているだけだろう。
 幸田も呆気からんとした表情で僕を見る。それどころか小さく「……え?」なんていう素の声が出ていた。
 それでも、一度言葉を発してしまったら、ストーリー上も僕の本音自体も、一言では収まりがつくわけがなかった。

「どうして一人で抱え込むんだよ。友達だって……ありのままを見せれるのはあなただけって言っただろ! だったら、隠さないでよ。辛いことがあるなら、全部吐き出してよ!」

 どこを見て良いのか分からず、天を仰いだ。

「僕だって、話したくても迷惑になるかなって思って話せないこともあったよ。君は心でも読んでるんじゃないかと思うくらい察してくるから、だから僕は話さなくても救われたんだ。でも、僕はそんな力持ってない。だから、話してくれよ! 言えないことがあるなら、僕が代わりに叫んであげるから! 一緒に背負わせてくれよ! ……僕は君の特別でいたいんだよ!」

 体育館中に僕の声が響き、こだまする。
 同時に襲ってくるやってしまったという思いと、言ってやったという両感情。
 人は往々にして間違いを繰り返す生き物。まさにその通りだ。
 怖くて天を仰いだまま静止する。頭から湯気を出してる委員長が目に浮かぶ。いや、それどころかクラス全員がブチ切れててもおかしくない。
 でも僕の数少ない友達は、こういう時だってイケメンだ。

「もしかして、我が親友グランなのか……? ミイラ男……君は、三年前病気で死んでしまった私の親友グランだったのか!?」

 グランという名前がきっとミイラ男の僕を指すのだろう。とっさに機転を利かして、ミイラ男の生前と勇者が親友だったという設定でアドリブを利かせてくれているのだ。
 これに乗らなければ作品は崩壊する。助け舟を出してくれた勇者の親友に感謝しつつ、僕はもう一度口を開いた。

「あぁ、そうだよ。本当は最初から口だってきけるし、ちゃんと理性もある。身体は正真正銘のミイラだけどね」

 目で幸田に謝る。伝わったのか、伝わらなかったのか、幸田は面白くなってきたと言わんばかりにニヤつく。

「そうか、君はずっと私の側で見守っていてくれたのだな……。ならばこそ、私はここで臥して天命が尽きるのを待っている姿を見せるわけにはいかない!」

 舞台袖をちらりと見ると、ぐったりとしている委員長と、その横で何やら慌ただしげに皆に指示を飛ばしている愛衣の姿があった。
 愛衣は僕の視線に気づくと、なぜか親指を立てて、魔法使い役の人と盗賊役の人をステージ上に強引に押し出す。
 とっさに出てきた二人に観客の視線は集まる。

「あー、その……なんつーか」

 かろうじて役の口ぶりにはなっている盗賊だが、突然のことすぎて言葉が出てこないようだ。それを見て、魔法使いが割り込む。

「薬を――勇者の病に効く薬を持って参りました!」

 魔法使いが杖で盗賊の脇を突く。

「あ、えっと……そうそう! てめーがいないと魔王なんざ倒せないからな。ま、俺は魔王とか勇者とか? そんなのどうでもいいんだけどよ」

「何言っているんですか。あなたが一番に飛び出して行ったではありませんか」

「ばっ! ちげーよ! 本当に抜けてやるつもりだったっての」

 二人ともどうにか話を取り繋げてくれている。愛衣が早急に動いてくれたおかげだ。

「おぉ! 二人とも、私のために! これで魔王に挑むことができる!」

 この後は大半がアドリブだった。なにせ、本当の台本ではこの先は勇者と喋らないミイラ男の二人が魔王と戦うはずなのに、魔法使いと盗賊が戻ってきて、なおかつミイラ男が喋れるようになるという大改編が起きているのだから。
 結果的に幕が下りる時、会場は拍手で包まれた。前のクラスの大歓声には程遠いものであったが、一応は作品として成り立ったと言っても良いだろう。
 もちろん、終わった後は委員長に殴りかかられる勢いで怒られたものの、脚本担当の人にはなぜか絶賛されてしまった。他のクラスメートも僕の暴走については忘れてしまったかのように、わいわいと騒いでおり、僕の元に賛辞はあれど、詰め寄ってくる人はいなかった。

「おーう、お前ら。お疲れさん。この後はもう少し暗くなったら校庭でキャンプファイヤーだぞー。女子と手繋いで踊りたい男子はしっかり手洗っとけよ」

 のっそりとやってきた担任は右手にたこ焼きを持って、諸事項だけ気だるそうに伝えるとすぐに身を翻す。

「キャンプファイヤーかぁ。実笠はどうする? 俺は愛衣と行ってくるけど、一緒にくるか?」

「だから、今日くらい僕に気を使うなって。それに、僕はちょっと行きたいところあるし」

 幸田は首を傾げる。

「どこに?」

「……言わない」

 人がまばらになった体育館を見渡す。
 そこに彼女の姿はなかった。