夏休み明けの教室はいつもより賑やかで、一ヶ月後には学園祭も控えているせいか、三年とはいえ、受験ムードはやや薄れている。
 ホームルームの真っ只中、なぜこんなにも騒がしいのかというと、学園祭で行う劇についての議論で白熱しているからだ。
 全員が一丸となって、とはいかない。僕のように興味なさそうにぼーっとしている人もいれば、周りに構わず参考書を開いて勉強をしている人もいる。受験生だから、一概に協調性のない悪い奴だとは言えないんだけど。
 学園祭で三年生が披露する劇は、既存の物語でも、オリジナルストーリーでもいいことになっている。大抵の場合は完全オリジナルか、既存の物語に突拍子もない設定を加えたものを選ぶクラスが多い。僕たちのクラスもどうやらオリジナルの作品を劇としてやるみたいだ。
 黒板前ではクラスの陽の者たちとでもいうべきだろう協調性のある人々と演劇部が、多種多様な意見を出し合っている。
 もちろん、僕はそんな輪の中に入っていけるはずもなく、昼休みに起きた図書室での出来事で頭がいっぱいだった。
 
「えっ……?」

 そんな間抜けな小さな声は、静まり返った図書室では大きな声に変わり、一同に視線を集めた。しかし、周りの目など意識の外に置き去りにして、僕は彼女とその手元にしか目がいかなかった。
 フリップボードにマジックで書かれた『久しぶり』の文字。そして、それを手に持ったいつも通りの表情をした彼女。

「桜坂……。もしかして、声……」

 彼女はフリップボードを書き直し、僕に提示する。

『声、出せなくなっちゃった』

 周囲が霞んだ。目の前の彼女がぼやける。
 いつか来てしまうことは分かっていた。近いうちに来る。そんなこと、ずっと前から知っていて、覚悟もしていたつもりだ。それでも、いざ声を発しない彼女を目の当たりにすると、何を言うべきか、僕はどういう反応をするべきなのか、何一つとして分からなくなった。

「いつ……?」

 彼女は表情一つ崩さない。ずっと、小さく口元に笑みを浮かべ、ペンを走らせる。まるで、ずっと昔からそうして来たとでも言うようにごく自然な動作に見えた。

『篠原くんと最後にあった次の日』

 あの日が最後。
 僕が聞いた彼女の最後の言葉は「羨ましい」。

「そんなのって……そんなのってありかよ!」

 握った拳に爪がめり込んで、皮膚を裂いてしまいそうだ。行き場のない、誰に向けてかも分からない怒りが、胸中をどす黒く塗りつぶす。

『篠原くん、静かにね』

 彼女の指摘でようやく、自分が周りからの視線を集めていることに気が付いた。気味悪そうに見る人、関わるまいとしつつもチラチラと見る人。
 赤い糸のない世界は、人の表情が鮮明に見えて余計に息苦しい。
 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。視線を向けていた人々は、一斉に興味を失ったように僕から視線を外し、足早に教室へと戻っていく。

『じゃあ、また放課後』

 彼女もそんなフリップを見せて、図書室を出ていった。
 取り残された僕は静まり返る図書室から動けず、結局、五限目をサボった。
 静かな空間でぐちゃぐちゃな頭の中を整理したかったのだが、結局机で伏せているうちに授業の終わりを合図するチャイムが鳴ってしまった。
 六限目はかろうじて教室に戻り、授業に出席したものの、内容なんて入って来るはずもなく、ひたすら外を眺めた。

「おーい、実笠。聞いてる?」

 幸田に肩を揺すぶられ、意識が引き戻される。やけに心配そうな顔をして僕を覗き込む幸田は、桜坂のことをまだ知らないのだろう。

「劇の役、何にする? 実笠、普段自分のやりたいもの言わないから、俺がこっそり斡旋してやるよ」

 どうやら劇の内容はすでに決まり、役決めに入っているようだ。

「なんでもいいんだけど。そもそも、なんの劇やるの?」

「おーい、話聞いててくれよなー」

 そう言いつつも幸田は律儀に前の席に腰を着き、劇の内容を教えてくれた。
 簡単に劇の内容を要約すると、魔王に連れ去られた王女を勇者が、お供と一緒に助け出しに行くというものらしい。
 正直、聞いただけだと子供っぽくて面白くなりそうな気配なんて全くしないが、脚本を担当する文芸部の人は張り切っているっぽいし、僕のようなクラスの隅っこ族には劇の内容なんてどうでもいい話だ。
 それより、周囲から突き刺さる幸田を早く解放しろと言う視線がやけに痛い。それもそのはずだ。黒板にでかでかと書かれた主役という文字の横には、幸田の名前がこれまた大きく書かれている。

「で、なんの役をやるよ?」

「いや、僕は裏方でいいよ。別にやりたいものとかもないし」

「裏方はもう埋まってるぞ。実笠がぼーっとしてる間に」

 何ということだろう。僕と同じように外を眺めて退屈そうにしていた人も、空気読まずに勉強していた人も、実はちゃっかり話を聞いていて、裏方を決めるときに我先にと手をあげたらしい。
 どうやら、本当に話を聞いていなかったのは僕だけだったようだ。

「じゃあ、なるべく台詞の少ない役がいいかな」

「おーけー! じゃあ、お供の一人に完全無口な傀儡って設定の役があるから、それにしよう! 俺、黒板に書いて来るよ」

 何だその役と思ったが、それを口に出すとまた幸田を引き止めてしまい、周りの視線がより一層怖いものになるので、黙ってうなずいておいた。
 話し合い、早く終わらないだろうか。
 一刻も早く、桜坂に会いたい。
 会って、話を聞きたい。

「……あれ? 何を聞けばいいんだろう?」

 こんなつぶやきさえ、声に出ている。
 今、僕と話すことは彼女にとって苦痛なんじゃないだろうか。
 きっと、僕なら喋っている人がみんな疎ましく感じてしまうと思う。もちろん、彼女が僕と同じ感情を抱いているとは思わないし、きっと会えば、何事もなかったかのようにフリップ越しでも僕と話をしてくれるはずだ。
 それでも、僕は彼女にかける言葉が見つからないままでいた。