運命の赤い糸を信じている人は、果たしてこの世界にどれだけいるのだろうか。将来を共にする人は生まれながらにして決まっており、恋愛において運命の人とのつながりは、しばしば赤い糸と表現される。
そんな話馬鹿馬鹿しいと、大抵の人は受け流すような夢見な迷信を、僕も信じていない。いや、信じたくないという方が適切だろうか。
ただ、赤い糸で繋がった者同士が、実際に家庭を築いて幸せそうに生活する様子をこれまで何度もたまたま見て来た。そう、ただの偶然。僕にだけ見えるそれが繋がった者同士が結ばれる。それだけの話だ。
僕には、人と人の間に揺れる赤い糸が見える。信じたくはないのだが、いわゆる運命の赤い糸というやつだ。
赤い糸は、人は胸の中心からほつれた毛糸のように垂れていて、どこかの誰かと一本の線として繋がっている。そして、将来的には赤い糸同士で繋がった人たちは、結婚や子供の有無等は差があれど、幸せな関係を持つ。
放課後の校内を歩いて見渡しても、やはり皆、赤い糸を垂らしている。それが、どこへ繋がっているのか分からない人だったり、はたまた目の前で話している人と繋がっている人も存在する。
だからこそ、僕は運命なんて言葉を信じたくないのだ。
喧騒に塗れた廊下を抜け、突き当たりの教室に入ると、それまでの賑やかな空気は一変し、思わず緊張してしまうほどの静寂の場が広がる。圧迫感すら感じるぎっしりと並んだ本。目的は違えど、黙々と視線を落として作業をする人たち。時折、本のページが擦れる音や、カリカリとペンを走らせる音がより一層、空気を重くしている。
でも、重たい空気は別に嫌な雰囲気ではなく、確かに透き通っていて、静まり返っているはずなのにそこには心地よい重厚なメロディーが存在しているのだ。
学校という静寂が訪れない場所で、唯一音から隔離された空間。それが図書室だ。
静寂という音符の群れをすり抜け、誰も座っていない丸机にカバンを下ろす。いつもの席だ。この席は、彼女がよく見える。
一般生徒が座るテリトリーからは少し離れた、カウンターの向こうの席で彼女は静かに本を読んでいる。
僕は教科書を広げて勉強しているふりをして、彼女をそっと見つめた。すらっと背中まである黒髪を強調するような控えめな顔立ち――とはいっても、彼女の澄んだ瞳にはどこか吸い込まれるような不思議な力強さが宿っている。ブレザーの袖から見える白い指が本のページをめくるたびに、視線が左右に揺れる。その様子に僕は見入っていた。
我ながら、気持ち悪い。
不意に彼女が顔を上げて、図書室を見渡した。見渡すというより、一息つくように顔を上げるに過ぎないその動作のはずなのに、なぜか目が合いそうになり、慌てて視線を下げる。
そして、また彼女の方を見る。
何度見つめても、その様は変わらないし、何か減るわけでも、増えるわけでもない。そんなことくらい、分かっている。人は一日では変わらないし、ふとした瞬間に運命が変わることはない。
自分の胸に視線を落とす。胸の中心からは毛糸のような赤い糸がゆるっと垂れ、どこかへと導かれるようになびいている。手を当てて、触れてみようとすると、手は糸を通り抜けて空を掴む。何度も試した動作に思わずため息が漏れる。
瞬間、彼女の視線が僕に向けられていることに気が付いた。細い唇をキュッと結び、ガラス玉のような透き通る双眸を向けて僕をじっと見つめている。
胸がズキッと鈍い悲鳴をあげる。
僕の赤い糸は、彼女には繋がっていない。別に繋がっていて欲しいなんて思ってもいないけど、もし、僕と彼女が赤い糸で結ばれていたとしたら、この状況はきっと運命だって言えるはずだ。でも、事実、僕と彼女の間には何の隔たりも糸も存在しない。
彼女を見つめていた理由は、好きだからとか、恋したから、なんて僕には無縁の感情からではない。ただ、気になっただけ。僕の生活する上で、ごくたまに抱く疑問に彼女が分類されるから、本当にただそれだけだ。
図書室は赤い糸が何本も漂っている。僕からも、周りにいる生徒からも。
でも、やっぱり何度見ても、彼女から赤い糸は見えなかった。
痛いくらい眩しい朝の日差しが、川の水に反射して僕の顔を照らす。時折、頬を撫でる風は、まだ少し冷たい。
すっかり緑葉に染まった桜並木を背中を丸めて歩く。月曜日は憂鬱だ。周りを歩く生徒たちも、どこか暗い顔をしているような気がする。僕の思い込みかもしれないけど。
春は出会いの季節というけれど、高校三年生の僕たちには新しい人とのふれあいなどなく、都会から離れた小さな街で、今までと同じ人間関係を続ける。別に悪いことじゃない。むしろ、僕は積極的に新しい関係を持つのが苦手だ。
ふと、一組の男女とすれ違った。学校は間違いなく僕が歩く方向に存在するので、彼らは制服に身を包んでいるにも関わらず、学校とは正反対へと進んでいることになる。
大方、二人でサボって青春を謳歌するのだろう。悪いことなんだろうけど、それで灰色の日々に色が塗られるのであれば、僕もどこかの誰かと学校をサボってみたいものだ。
でも、僕にはそんなことをする予定は一切ない。運命は決まっている。見えてしまう運命ほどつまらないものはない。
ある意味、僕は部分的に未来が見えていると言っても過言ではない。
振り返る。仲睦まじく手を繋いで歩いている二人の赤い糸は、まるで磁石のS極とN極のように真反対に向かって伸びている。
ほら、つまらない。
赤い糸が見えて、よかったことなんて一つもない。人生における一つの楽しみを奪われているのだ。
恋愛なんて、僕には無関係。これまでも、これから先も――。
肩を強く叩かれ、落としていた視線を上げた。僕の胸から伸びる赤い糸がやけに短く、緩やかなの軌跡を描いて、目の前の彼女と繋がっている。
「おはよう! 実笠!」
うるさいくらい大きな声で挨拶をした彼女は佐野倉愛衣。幼少の頃から家が近く、腐れ縁。いわゆる幼馴染というやつだ。
幼馴染が運命の相手なんて、ドラマとか漫画でありがちな人生。せめて、まだ出会っていない人と赤い糸が繋がっていると、どんな人なのか想像しながら、多少はワクワクしながら生活できたのだろう。だけど、僕は運命の相手をわずか七歳にして察してしまった。
「月曜日の朝からテンション低いねー。いつものことなんだけど。ってか、私も月曜日は嫌いだけどね。やっぱり、なんかこうぶち上がらないというか、気分が乗らないってやつ?」
「それだけ喋れててぶち上がってないのが異常なだけだから、大丈夫だよ」
「マジ? 実笠は大人しいから、私なりにこれでもセーブしてあげてるつもりなんだけどね」
愛衣はブレザーの下に着込んだ桃色パーカーのフードを取る。肩ほど丈のある金色混じりの茶髪が、空気に乗ってふわっと揺れた。スカートは規定より随分と短く、化粧もしている。
校則違反のオンパレードな彼女と将来結ばれる気が僕は全くしないし、きっと周りの人たちも、僕らがくっつくとは微塵も思わないだろう。
他愛もない会話を広げ――実際は愛衣がほぼ一人で喋って、僕が適当に相槌を打ちながら学校へと向かう。
学校に着くと、始業まで五分を切っており、狭い下駄箱には朝練終わりの生徒も入り混じり、多くの生徒で混み合っていた。
下を向きながら歩いていると、いつまでもべらべらと口が止まらなかった愛衣が急に押し黙った。それを合図に、僕は前に視線を向ける。
「おっす、実笠。おはよう」
愛衣が静かになる理由なんて、この男くらいだ。
「おはようさん、幸田。今日も相変わらずカッコいいな」
「何バカなこと言ってんだよ。佐野倉もおはよう」
「お、おはよう。雲宮くん……」
先ほどまでギャル全開だった愛衣が、まるで預かった猫のように大人しくなる。毎朝のことではあるのだが、何度見ても奇妙だ。
髪先を指で弄ぶ愛衣を横目で流し、下駄箱に靴を入れる。
「今日も朝練?」
「そーそー、今週末に大会があるからさ。コーチが絶対に来いってうるさいんだよ」
「言われなくても幸田は行くだろ」
幸田の肩に背負われた大きなテニスバッグをボスッと殴る。
「もちろんなー。何なら、実笠にもらったラケットで試合に出てやろうか?」
「いらん、いらん。見に行かないんだから、使われたって分からないよ」
僕と幸田は並んで教室までの廊下を歩く。
愛衣はしばらく後ろを黙って付いてきていたが、友達を見つけたようで、僕たちを追い抜いて小走りでさっさと先に行ってしまった。すれ違いざま、ちらっと向けられた愛衣の視線に、幸田は全く気づく様子が無い。気づかれても、愛衣的には困るのだろうけど。
「実笠もテニス続けてればよかったのに」
「中学は部活強制だったから入ってただけだよ。僕は運動嫌いだし」
「どうせ放課後はまた図書室に行くんだろ? 最近、毎日行ってるよな。何しに行ってんの?」
「勉強に決まってんだろ。それか本読む以外にすることないでしょ」
半分、嘘だ。
「ふーん。ま、暇なら大会見にこいよ。大きな会場だから、レクリエーションで選手じゃなくても試合できるコートあるしさ」
「……まあ、考えとく」
教室に入り、人気者の幸田はさっさと人だかりに埋もれてしまった。僕は窓際の自分の席に座り、ぼーっと教師が来るのを待つ。別に、友達がいないとか、クラスで浮いているとかそういう訳ではない。黙っていれば、空気になれる程度だ。本当に、友達がいないわけじゃない。決して。
一人で空気を演じていると、その空気を全く読めない愛衣がギャル集団のグループを抜け出して駆け寄ってくる。
ギャル集団の視線が一斉に僕へと向き、大変居心地が悪い。
「ねえ、幸田くん次の試合いつだって?」
「今週末だとさ。聞かなくても自分から話してきたよ。ってか、それくらい自分で聞けよな」
「できないから、いつも実笠に頼んでんじゃん。ありがとね!」
聞きたかったことはそれだけだったようで、愛衣はさっさと集団に戻って行った。
僕はとても残酷なことをしているのかもしれない。結ばれるはずのない人と人の恋愛を手伝っているのだから。
たくさんいる友達の中で、唯一気兼ねなく話せる二人には、もちろん幸せになってもらいたい。だからこそ、愛衣の頼みを無下に断れないわけでもあるのだけれど……。
でも、僕のやっている行為は結果的に彼女を傷つけるかもしれない。場合によっては幸田すらも悲しい気持ちにさせてしまう行為だ。
今すぐにでも、僕の赤い糸をちょん切って幸田の赤い糸にくっつけてあげたい。もちろん、赤い糸が見えるというだけで、それを自在に操ったり、干渉できる神様じゃないわけだから、本当に迷惑な能力だ。
ハサミを取り出し、ゆるゆると愛衣に向かって伸びる赤い糸を切ってみる。もちろん、刃は空気を切るのみで、糸は繋がったままだ。
切れるわけがないと分かっていても、何度かちょきちょきとハサミを動かしてみる。
「おーい、篠原。何物騒なもん出してるんだ。早くしまえー」
聞き慣れた声で意識を引き戻される。気がつくと、担任の教師が僕の名を呼び、クラスメイトの視線が集まっていた。くすくすという笑い声が聞こえて、冷や汗がドバッと出た。
担任が来ていたのなら、さっさと教えてくれればいいのに。全く、薄情な友達たちだ。
何の変哲も無い退屈な授業が終わり、僕はいつものごとく図書室のドアを開ける。やたらと響くガラッという音に、数人の生徒の視線が集まる。
背中の喧騒に押されるように一歩を踏み入れ、ドアを閉めると、突然の静けさが訪れる。緊張という言葉は少し語弊があるのだろうけど、歩くのですらなるべく音を立てないように歩こうと意識してしまうような、不思議な感覚。
紙が擦り合う音と、ペンを走らせる規則的な音が空間を支配して、心地よい息の詰まりを感じた。
いつもの席に座り、適当に持って来た参考書とノートを開いて、それらに目もくれず頬杖を付いてカウンターを眺める。
もちろん、今日も彼女はそこにいた。すらっと長い髪を片耳にかけ、今にも吸い込まれてしまいそうな瞳を本に這わせている。
今日もまた、自然と見惚れていた。
鼓動が早くなるとか、ときめくとか、そういう類の感情はないのだけれど、なぜか彼女に見入ってしまうのだ。もう、赤い糸が見えないからなんていう理由だけで、彼女を観察しているわけじゃないような気がする。自分の事なのに理解しがたい感情だ。
不意に彼女が顔を上げた。いつも以上にぼんやりしていたことも合間って、目をそらすのが間に合わず、彼女と視線が交わる。
硝子のような瞳に気圧され、すぐさま目をそらして机に突っ伏した。
まずい……変な奴だと思われたかもしれない。けれど、どうせすぐに忘れてくれるだろう。なんたって、僕は空気なのだから。
言い訳がましくなるが、別に彼女を観察するためだけに、わざわざ放課後に図書室に来ている訳じゃない。単純に家に帰りたくないだけだ。あとは、まあ一応勉強も兼ねている……つもり。
何となく、そんなわけがないのに、彼女がまだ僕を見ている気がして、しばらく顔を上げる気になれなかった。
どれくらい時間が経っただろうか。微睡む意識が肩を揺らされることで覚醒する。
勢いよく身体を起こすと、目の前には藍色の制服と、その奥に覗くクリーム色のセーター。妙な汗を垂らしながら視線を上げると、数冊の本を片手に感情の読めない表情で僕を見下ろす彼女がそこにいた。
「もう、図書室閉めますよ」
思えば彼女の声を初めて聞いた。小さくつぶやくような声だったのに、どうしてか強く鼓膜を揺らす。一言で言えば、力強い声だ。
周りを見ると、他の生徒は誰もおらず、図書室にいるのは僕と彼女だけだった。
時計に目を向けると十九時をちょうど回ったところで、同時に校内中を甲高い鐘が鳴り響く。どうやら、突っ伏してそのまま寝てしまっていたようだ。
彼女は僕が起きたことを確認すると、背を向けて手に持った本を棚に戻し始めた。
僕はまだ飛び跳ねている心臓の音に急かされるように、急いで教科書をカバンに押し込む。
「おーい、もう下校時間だぞ。早く帰れよー」
開けっ放しにされたドアの向こうから見回りの教師の声が聞こえてくる。
僕も彼女も返事はしなかった。そういうタイプの人間なのだ。少なくとも僕は。
不意に、彼女がこちらを向き直る。
「そういうわけだから、急いで篠原くん」
「えっ、なんで名前……」
ゆっくりと近づいてくる彼女にどぎまぎしてしまう。そんな僕を余所目に、彼女は机の下に落ちていた教科書を拾って、僕に手渡す。
「ずっと落ちてたわよ」
「あっ、ごめん。死角で気がつかなかった」
「忘れ物していかないでね」
それだけ言い残すと、彼女はカウンターに戻っていった。
その後ろ姿を見ながら、だらしなく開いた口が無意識に動いていた。
「ねぇ――」
彼女が振り向く。
「運命って信じる?」
言葉が零れ落ちるとはこういうことを言うのかと、強く思った。
自分でも不思議だった。どうして、呼び止めたのか。どうして、見ず知らずの人に対してこんな質問をしているのか。
彼女の口元が少しだけ綻ぶ。
「なにそれ。もしかして、口説いてるの?」
顔がものすごい勢いで火照るのがわかった。
「あ、いや……そうじゃなくて! えっと、ごめん。忘れて。ほんと、変な意味はないから」
手に持った教科書を握りしめたまま、カバンを持って逃げるようにドアの方へと足早に向かう。恥ずかしすぎて顔から火が出そうだ。
「信じるよ」
廊下に半身を晒したその時、彼女は言った。
思わず足を止める。彼女は僕をじっと、淀みない瞳で見つめていた。
二人の間を穿つように隙間風が通り抜ける。
校庭から野球部の声が微かに聞こえてきた。
静黙する僕から、彼女は目をそらさない。
彼女も僕も一歩も動かない。彼女は僕の次の言葉を待っている。そして、僕は次の言葉を用意できないでいた。
奇妙な空気を破るように、僕は半ば無意識につぶやいた。
「じゃあ、赤い糸って信じる?」
「信じるよ」
「僕がその赤い糸を見れるって言ったら?」
僕は何を言っているんだろうか。
彼女は口元だけ作り笑いをして、意地悪そうに口を開く。
「なんだ、やっぱり口説いていたのね」
こうして、僕と彼女の奇妙で最悪なファーストコンタクトが終了した。
*
「じゃ、これでホームルーム終わりだ。お前らー寄り道しないで帰れよー。部活のやつはほどほどに頑張れ」
気怠そうな担任がそそくさと教室を出ると、それまで静かだった教室が途端に騒がしくなる。特に喋る予定がある友達は、今日はいなかったので、賑やかに会話に花を咲かせるいくつかのグループを縫って廊下に出る。
大人しく帰ることにした。流石に昨日の今日で、図書室に行く気にはなれない。
冷静になって考えると、どう考えても昨日の僕は変人だ。突然、口説きまがいのセリフを吐き、そしてあろうことか、重ねたのだから、きっと、名も知らない彼女の僕への印象は最底辺に振り分けられただろう。
かと言って、一人で寄り道をするような気の利いた場所が、この小さな街にあるかと言われれば、思わず唸ってしまう。
「おーい、実笠! お前にお客さんだぞー!」
不意に幸田に呼び止められ、振り向く。爽やかフェイスに似合わないニヤついた表情で手を振っている幸田の横には、昨日最悪な出会い方をしてしまった彼女がポツンと立っていた。
「じゃ、俺は部活行くからなー」
僕の肩をわざとらしく小突き、幸田はそそくさと去っていく。恥ずかしさと気まずさで、できることなら見なかったことにしてそのまま帰りたかったが、流石にそうはいかない。
図書室以外で見る彼女は、まるで僕と同じように空気を演じているように感じた。極力、人から距離をとるようにしているというか、自分は元からそこにある石ころですよ、とでも言わんばかりの仕草。
それでも、やはり整った顔立ちとすらっとしたスタイルに何人もの男子生徒の目線が向いている。
半空気な彼女が、完全空気である僕に一体何の用なのだろう。まさか、昨日の出来事が本当に口説く行為と勘違いでもされてしまったのだろうか。
「えっと、僕に用でも……?」
彼女は小さく頷く。
「昨日の話、詳しく聞きたくて」
立ち眩みがした。僕の予想通り、昨日の出来事の続きだった。
「いや、あれは本当に口説くとかじゃなくて、なんていうのかな、できれば気にしないでいただけると助かるんだけど」
彼女は僕の必死の抵抗などまるで聞いていないようで、周囲を見回し、踵を返した。
「場所、変えましょう。ここじゃ、人が多くて落ち着いて話せないもの」
てっきり、校内で人気の少ない場所に移動するだけだと思ったが、彼女は校門を出て、街の中心部に向かっているようだ。その少し後ろを僕は黙って付いて行く。
一度も振り向かないし、言葉も発さないので、僕と話したことなど忘れてしまって、ただ単純に帰路についているだけなんじゃないかと不安になる。
この街でもっとも人が多く滞留する駅を通り過ぎると、人とすれ違う回数が極端に減る。行き交う人の数に比例しない妙におしゃれで、だだっ広い通りに存在する、一軒の古びたカフェの扉を彼女は開けた。
カランコロンという木板の心地よい音と共に、豆を挽く香ばしい香りが鼻孔を刺激する。
「おや、琴音ちゃん。いらっしゃい」
マスターと思しき白髪のおじいさんに彼女は一礼すると、促されるわけでもなく、自ら一番奥の席に腰を据えた。
向かいに座ると、彼女と取り巻く空間に少しだけ息がつまる。僕らとマスターしかいない、アンティーク調の雰囲気で揃えられた狭い店内に、びっくりするくらい彼女は溶け込んでいた。まるで違う世界のように感じるこの場所は、彼女がいることで完璧な空間になっているのではないかとさえ思う。
「琴音ちゃんがお友達を連れてくるなんて珍しいねぇ。琴音ちゃんはいつものでいいね? お友達は何にする?」
彼女に一瞥をくれる。しかし、彼女はマスターに小さく頷くのみで、一言も発さない。
「じゃあ、同じもので」
マスターは柔和な笑顔で注文を受け取ると、カウンターの奥へと戻って行く。
「篠原くんって、本当に赤い糸というものが眼に見えるの?」
何の前触れもなく、彼女は唐突に切り出した。彼女的にはここまで来て、ようやく話せる状況になったということだろうか。それとも、人前であまりこの話をしたくないという僕の意を汲んでくれたのだろうか。
どちらにせよ、僕が本当に口説いたわけではないと、彼女は判断してくれたということだ。
彼女の好奇心と疑心の眼差しから目を背け、テーブルの木目に視線を這わせながら答える。
「見えるよ。大抵の人は胸元から一本の赤い糸が伸びているんだ」
「そして、その糸がどこかの誰かさんと繋がっているというわけね」
「そういうこと。信じてもらえそうなことは語れないけどね」
胸元に目線を送る。僕からは一本の糸が、窓ガラスをすり抜けて外へと伸びている。
「それで、どうしてその話を突然私にしたの?」
その言葉に僕は無言を貫いた。正確にはどう返したものか分からずに沈黙を招いてしまった。
「まぁ、考えられるとすれば三つね。一つ目は、実は赤い糸が見えるなんてのは全くの嘘で本当に口説くため、二つ目は、篠原くんの糸と私の糸が繋がっているから、三つ目は、私がその赤い糸関係で他人と違う何かを持ち合わせているか、もしくは糸が見えないか」
それまで表情という表情はつくらないでいた彼女が、いたずらに微笑む。
「そうだね。正解は二番。僕の糸は君と繋がっている」
彼女の的確すぎる推理に、僕は迷わず返す。結果的に見れば、やっぱりただの告白みたいな感じになってしまったが、これが彼女を傷つけずに済む回答だと思った。
「嘘ね」
そして彼女もまた、迷わずに僕の意見を否定したのだった。
「どうして嘘だと思うの?」
彼女は僕の胸の中心を指差し、ゆっくりとその指を上にあげて行く。胸から肩へ、口へ、そして目まであげると、ピタッと止めた。
「さっき、私が篠原くんと私の糸が繋がっているからと仮説を言った時、篠原くんは一瞬だけ窓の外を見た。つまり、篠原くんの糸は私に向かってじゃなくて、ここにいない誰かさんと繋がっているんじゃないかと思ったの」
「うわぁ、凄すぎて何も言い返せない」
「ということは、正解は三番目ね」
「そういうことになるね……」
少しばかりの申し訳なさを感じる僕とは裏腹に、彼女は表情一つ変えずに「そう」とだけ呟いた。
「辛くないの? いや、辛いと言うか不安じゃないの? 運命の糸に問題があるってことは、将来そういうことで他人と違うってことになるんだけど」
「そういうことって?」
「それは……恋愛とか、結婚とか」
「それなら、別に怖くない。私、恋愛とかしないと思うし。たぶん、結婚もしない。というか、無理」
彼女は視線を下げ、小さく咳払いをする。
「それは、男性恐怖症とかそういうやつ?」
「だとしたら、篠原くんと話してないよ」
何となく、これ以上は踏み込んではいけないと感じた。少なくとも、会話をするのが二回目の相手に、誰しも自分の恋愛観など語りたくはないだろう。
「まぁ、もう言ってしまうけど、君からは赤い糸が見えないんだ。他の人はほぼ全員糸があるのに、君は糸を持っていない。糸を持たない人は年に一人見かけるか、どうかなんだ。だから気になって無意識に声をかけてしまった。本当にただの好奇心で、申し訳ないとは思ってる」
彼女は不思議そうに少しだけ首を傾げた。
「でも、それだと運命の相手がこの世にいない人の糸はどうなるのかしら。例えば、もう亡くなっているとか、まだ生まれていないとか」
僕は先ほどの彼女を真似て、指を使ってその答えを示した。
「なるほど、天に向かって伸びてるのね。なんだか、ロマンチックね。人は皆、天から授けられて、天に戻って行くってことになるものね。もちろん、この話が篠原くんの妄想でないのだとしたらのお話だけどね」
「どうして、妄想じゃないって思えるの? きっと、僕が君の立場なら頭のおかしいやつだなって思うはずだけど」
彼女は少し考えるように視線を彷徨わせる。
「うまく言えないけど、信じた方が退屈じゃなさそうでしょ? ネッシーとか宇宙人とかも、いないって頭ごなしに否定するよりも、本当にいるかもしれないと思った方が絶対に楽しいよ」
「納得できるような、できないような……」
少し意外だった。図書室での彼女は、静かで、妙に態度も大人びているように見えるから、先ほどのロマンチック発言もそうだが、実は思ったよりも好奇心旺盛なのかもしれない。
「それに、篠原くんみたいに特別な能力みたいなものを持った人の話、他にも聞いたことあるよ。一生に一度だけ、五秒間どんな願いも叶えることができるって能力。面白そうでしょ?」
「うーん、どうだろう。五秒間だけって、何ができるのかな。しかも、一度きりなんて」
「確かに五秒間だけっていうのがポイントよね。そんな能力を持った人はきっと、いつまでも使いどきを悩んでしまいそうね」
沈黙が流れる。きっと彼女も僕と同じく、五秒間の使い道を考えているのだろう。
漂う静寂を破るように、白いシャツに黒ベストのカチッとした服装のマスターが、曲がった腰でティーカップを二つ盆に乗せて来た。
「はい、お待たせ。ゆっくりしていってね」
年配の方特有の暖かい表情を浮かべて去って行くマスターを目線で追う。
視線を卓に戻すと、高級そうに見えるアンティークのティーカップに注がれた白い湯気が立ち上る珈琲が二つ。どう見ても、高校生という立場には似つかない代物だ。
彼女は角砂糖を三つティーカップの中に溶かす。
僕が見ていることに気が付いたのか、彼女は自ら告白する。
「私、甘党なの」
そして、僕の返事を待つこともなく続けた。
「私に赤い糸が無いのはきっと、人を愛することも、愛されることも、完全に諦めているからだと思う」
「それって……」
「よく、私もう独身でいいとか、人なんて絶対に好きにならないって言ってる人いるけど、そういう人たちにも赤い糸は見えるのよね?」
一つ、小さく頷く。
「そういう人たちって、口では愛する人をつくりませんとか言ってるけど、結局心のどこかでは少なからず、人を愛することへの関心とか、愛される期待を持っているから赤い糸があるんじゃないかしら。でも、私は違う。私は人を心から愛することは今後一度たりとも無いだろうし、愛されてはいけない人間だと思ってるから」
彼女の無表情がやけに刺々しい。嫌悪感を発しているというよりは、まるで自分を守る為にバリアを張っているように見える。
「人を愛せれば、愛されれば、砂糖なんてなくても珈琲は苦く感じなくなるのかしら」
胸元の赤い糸がふわりと揺れる。
「それは、どうだろう」
僕は角砂糖を四つ手に取り、ティーカップに落とし込んだ。
「僕も甘党だからね」
*
春にしては冷たい夜風に身を縮め、街灯のない道を一人歩く。
真っ暗な世界に一人取り残された気分だ。もちろん、周囲の建物からは温かみのある光が漏れ出しているため、完全に視界が黒というわけではない。しかし、こうして一本の道に前にも後ろにも人が見えないと、この明るい建物の中にも、実は人がいないんではないんだろうかと思う。
普段はこんな馬鹿げた妄想はしないのだけれど、今日は珍しくテンションが高いようだ。
胸のつっかえが取れたとまでは言わないが、秘密を共有する人ができたということだけで、暗闇に赤外線レーザーのように交錯する赤い糸もさほど気にならなくなった。
なぜ、彼女に本当のことを話そうと思ったのか、自分でも分からない。ただ、彼女が僕の話を信じてくれそうな気がした。きっと、それだけのことだ。
客がおらず、暇を持て余して眠そうな店員がいるコンビニを曲がると、すぐに自分の家が見えてくる。
玄関のドアをそっと開けると、途端に気分が悪くなった。気持ちを逆撫でするような母親の罵声が、身体の芯を貫く。
でも、母親が罵りを吐き出した相手は僕ではない。
続いて、今度は父親の反論する大声が聞こえてきて、僕はそっとドアを閉めた。外では、猫の喧嘩するけたたましい鳴き声が響いているが、家の中よりはましだ。
ため息を一つ吐き出し、来た道を戻る。そして、三軒隣の玄関のインターホンをためらいもなく押した。
「はーい! どなたですか?」
インターホン越しにノイズ混じりの高い声が聞こえて来る。
「あの、実笠ですけど……」
「実笠くん!? 今、開けるわね。ちょっと、待ってて」
随分と急いでくれたようで、すぐに玄関のドアが開き、エプロン姿の女性が姿を表す。随分、こわばった表情で、申し訳ない気持ちが強くなる。
彼女は僕の顔を見るなり、一つ息をつき、安堵の表情を浮かべた。そして、僕の頭をぽんぽんと軽く触ると、何も聞かずに家にあげてくれた。
「ありがとうございます。……お邪魔します」
リビングに入ると、四人がけのソファーに寝転がりスマートフォンをいじる同級生と目があった。
「おー、実笠。また逃げて来たのー?」
「……愛衣。急に来たのは僕だけど、もう少し恥じらえよ」
愛衣は不思議そうに自分の姿を見直す。ショートパンツに薄いTシャツ。細い四肢が大胆に覗き、Tシャツは少しめくれてへそが見えている。男子高校生が喉を鳴らすには十分すぎる服装だ。
「何言ってんの。昔は一緒にお風呂も入ったじゃん」
「いつの話してんだよ。ったく、幸田にこの姿を見せてやりたいよ」
「ちょっと、幸田くんに変なこと言ったら、本気で怒るからね!」
ソファーを陣取る愛衣の足を押しやり、開けたスペースに座る。
「冗談だよ。あいつ、日曜の試合は九時からだってさ」
「九時かー。早いなぁ。私、あんま朝早いと化粧馴染まないんだよね」
「学校より遅いだろ」
「あ、それもそうか。なんか、九時って聞くと早く感じるけど、学校って言われるといつも通りか、って感じだよね。ってか、なんで学校ってあんな早いんだろ。ウチの家、お父さんの方が家出るの遅いんだけど」
本当、外でも内でもよく喋る幼馴染だ。
ずらずらと止まらない語りにあーとか、それなーとか、適当に相槌を打つ。はたから見れば失礼極まりない態度も、僕と愛衣の間ではこれが普通なのだ。
別に僕は愛衣の話を聞いていないわけじゃないし、聞きたくないわけじゃない。そして、愛衣も僕の話を聞きたいわけじゃなく、話を聞いてもらえればいい。互いの性格を分かっているからこその会話の形だ。
自分の家に帰らず、愛衣の家にお邪魔するのは週に二回くらいの頻度だ。前までは頻繁に訪れるのは申し訳ないと感じて、こういった夜は通学路にある土手に座ったり、コンビニで時間を潰していたのだが、一度警察に補導されてしまってからは、愛衣の母親にウチに来るように強く言いつけられてしまった。実の親には何とも言われなかったのに、変な話だ。
愛衣の家族も僕の家庭状況は重々理解してくれているため、快く歓迎してくれる。
「ほら、二人ともご飯できたから、早く来なさい」
当たり前のように僕の分まで用意してくれる愛衣の母親には、本当に頭が上がらない。
テーブルを三人で囲み、手を合わせた時、愛衣の父親が帰って来た。額に深くシワが刻まれた堅物な顔で、他人を寄せ付けにくい人ではあるが、僕は愛衣の父親を見ると心が安らいだ。
「おや、実笠。来てたのか」
「お邪魔してます」
「ゆっくりしていけ。ここは、お前の家でもあるんだ」
愛衣の父親はそれだけ言い残すと、着替えるためにリビングを後にした。
夕食を食べ終わると、風呂に入らされ、愛衣の部屋にいつものように押し込められた。しばらくすると、愛衣の母親が僕用の布団を持ってきた。
「朝ごはんはどうする?」
「一度、家に戻って着替えるんで大丈夫です。ありがとうございます」
「そう、分かったわ。ゆっくり休みなさい。おやすみ」
「おやすみなさい」
愛衣の母親は僕の頭をぽんぽんと軽く触って、部屋を後にした。
撫でられたところが、やけに暖かい。
しばらくすると、風呂を上がった愛衣が部屋に戻って来る。その後は、互いにくだらない会話を繰り広げ、二十三時を回ると、愛衣が電気を消す。
いつも通りの流れで、いつも通りの生活。しかし、いつもであればすぐ睡魔が襲って来て、そのまま身を委ねるのだが、今日はなぜかなかなか寝付けなかった。
ふいに、愛衣の寝息が小さく聞こえて来た。
幼馴染と言えど、年頃の男女が一緒の部屋で横になっている状況は、人によっては羨ましいと感じるのだろうか。
部屋に漂う一本の赤い糸に目を奪われる。
愛ってなんだろう。
父親は僕を苛立ちのはけ口として利用し、母親は父親に利を取るために表面では僕に優しくする。僕が――僕の人生そのものが、赤い糸で繋がっていない者同士から生まれた存在だ。
僕の家庭が極端で、必ずしもこういった結末になることはないと分かっている。それでも、愛っていうものは、人の人生でとても大事で、重要なものなんだろう。
愛衣の家族は、僕に確かな愛を注いでくれているだろう。当たり前のように接してくれる母親も、寡黙ながらも我が子のように受け入れてくれる父親も、僕を愛してくれている。
でも、これは本物の愛ではない。なぜなら、僕が彼らの愛を素直に受け入れられずにいるからだ。申し訳なさと、本来の僕の家庭状況が、愛を妨げるのだ。
愛は片道では成り立たない。
だから、僕はまだ本当の愛を知らないでいる。
(心のどこかでは少なからず、人を愛することへの関心とか、愛される期待を持っているから赤い糸があるんじゃないかしら)
脳裏に桜坂琴音の言葉が響いた。
背後でかすかにパコーンッというゴムゴールを弾く軽快な音が聞こえて来た。
ここ最近の肌寒さはどこに行ったのか、まだ朝の八時半だというのに、立っているだけで額に汗がじんわりと滲む。まだ眠い目を擦り、雲ひとつない前方の空を眺めていると、肩を軽く叩かれる。
視線を下ろすと、ストライプシャツにネイビーの花柄ロングスカートに身を包んだ女性が、表情薄くいつの間にか隣に立っていた。
彼女は不自然に小さく咳払いをする。
「お待たせ」
小さくつぶやくように発された挨拶に、踵を返すことで応対する。
しばらく、無言で歩くと、先ほどから聞こえていたボールを弾く音が徐々に大きくなっていく。
隣を歩く彼女からちらっと視線を感じる。
「褒めてもいいのよ?」
「時間に遅れなかったことを?」
「……服装を」
「あぁ、似合ってるね。落ち着いた清楚感が綺麗な黒髪に良く映えてる」
「ちゃんとできるじゃない。物語の中だと、こういうシーンはお門違いなところを褒めて、女性に幻滅されるのが定番よ」
彼女に視線を向ける。どうやら、学校じゃないと彼女は空気を演じる真似はしないみたいだ。正確には、制服という平等に縛られた服装じゃないせいで、空気を演じることは到底できていない。
周辺男性からの好色にも近しい視線が集まっていることに、彼女は気づいているのだろうか。
隣を歩いていて居心地の良いものではない。
「口説いた相手と休日に隣を歩くのって、どんな気分かしら」
「優越感でたまらない気持ちだね」
「ええ、そうね。私もよ」
そもそも、どうして貴重な休日に僕は桜坂琴音と一緒にテニスコートになんか来ているのだろうか。
「ところで、あなたの赤い糸の繋がる先の相手は、テニス部なの? 違うと私は予想しているのだけれど」
「もしかして、心を読める特殊能力とか持ってたりする?」
「そんなの持っていたら、会話なんて必要なさそうで便利ね。本当に喉から手が出るほど欲しいわ」
表情をつくらない彼女が、今日初めて口元に小さく笑みを浮かべた。
あの喫茶店での一件以来、僕と彼女は放課後、図書室で少しの間会話を交わすようになっていた。ほとんどは彼女が質問して、僕が答えるだけなのだけど。
彼女は予想以上に好奇心が旺盛のようで、次の休日に、もう一度あの喫茶店で話を聞きたいと言われてしまった。正直、これ以上話すようなことも特にないので、テニス部の友人の試合を見に行くと嘘をついて断ろうとしたところ、なぜか彼女も行くと言い出した。そして、奇妙な状況の今に至る。
そんなわけでわざわざ休日に出会って間もない彼女と共に、普段であれば絶対にしないであろう、親友の試合の応援に来てしまったというわけだ。
「私、テニス場なんて来たの初めて」
「まあ、名の通りテニスをやってなければ、特に縁のない場所だからね。かくいう僕も中学生ぶり」
「篠原くんは中学はテニス部だったのね」
「なんとなくで入ってただけだよ」
時計に目を向けると、幸田の試合予定時刻まで十分を切っていた。本来であれば、すでにコート内に入っていてもおかしくない時間だ。
「実笠は強かったんだぜ。彼女さん」
不意に肩にべたついた肌がずしっとのしかかる。形容しがたい不快感に眉に力が入った。
「桜坂琴音です。篠原くんとはただの知り合いですよ」
「そっか、そっか。俺は雲宮幸田。実笠の数少ない友達。なんでか分からないけど、こいつを連れて来てくれてありがとうね。いつ誘っても来てくれないからさー」
「おい、幸田。重いし、汗臭いから早くどけ。あと、僕は友達が少なくない」
無駄に筋肉質な腕を振り払い、わざとらしく肩を払う。
「そんな邪険にすんなってー。あ、俺十一番コートね」
幸田はそれだけを言い残すと、試合前だというのにものすごい速さで走って行ってしまった。嵐のように訪れ、雷のように去って行く友達に、僕はただただため息しか出ない。
「かっこいいだろ? 185センチ、68kg、運動神経抜群でおまけにあの気さくな性格。ちなみにめちゃくちゃモテる」
幸田の走り去って行った方向に指を向ける。
「一般的な価値観だとかっこいいってことになるのかしら」
「間違いなく、そうだろ。三年になって、もう三回告白されている」
「ふーん……」
十一番コートに到着すると、ちょうど試合が始まったところのようで、僕たちは手頃な席に腰を下ろした。
「桜坂さんから見て、幸田はかっこいいと思わない?」
「八百屋にこの魚鮮度いいでしょ? って聞くようなものだと思う」
「面白い言い回しだね。でも、よかった」
一瞬、彼女は僕に視線を向けたものの、物珍しいテニスの試合が気になるのか、すぐにコートに目を戻す。
「よかったって、どういうこと?」
「桜坂さんみたいな美人が幸田を好きになっちゃったら、僕の幼馴染じゃ歯が立たないからね。ほら、あそこにいる、いかにも幸田にベタ惚れですっていう表情している女」
コートに一番近い前方で、まるで転げ落ちるんじゃないかと思うほど前のめりで試合を見つめる愛衣を指差す。
「彼女、十分可愛いと思うのだけれど」
「そう? 昔から一緒にいすぎて、よく分からないけどね」
「恋とか愛なんて知らない私より、よっぽど美人で可愛いと思うわ」
そう言った彼女の瞳は、少しだけ悲しげに見えた。
「好きなの? 彼女のこと」
しばらく試合を見守っていると、彼女が唐突に切り込んだ。
「恋愛的な好きな抱いてないよ。僕は愛衣の幼馴染で、幸田は親友。二人には幸せになってほしいと思ってるよ。心の底からね」
「あなたと彼女が糸で繋がっているとしても?」
思わず、彼女を見た。強く脈を打った心臓が、まだ大きく震えている。
「本当に心の声聞こえてるんじゃない?」
「ただのハッタリだったのだけど、当たってたみたいね」
彼女が微笑む。
僕が苦い顔をする。
「全く、勘が鋭い八百屋だ」
*
最近、図書室は放課後が一番騒がしいかもしれない。
騒がしいと言っても、図書室なので他の教室や校庭のような大声が飛び交うのではなく、ただひたすら本と本の間を二人の会話が絶えずすり抜けて行く程度だ。
「篠原くん、本当にテニス上手だったのね」
もう二人以外誰もいない図書室で、桜坂さんがカウンターを挟んでノートに何かを書きながら言った。
「だから、あれは相手がそんな上手くなかったのと、幸田のおかげだよ」
僕と愛衣が糸で繋がっているのが彼女にバレた日、幸田は無事に試合には勝ったものの、物足りなかったようで、なぜかテニス場の端で行われている誰でも参加できるレクリエーション試合に、勝手に僕とダブルスで応募してしまった。
その流れで、中学生ぶりに一試合だけテニスをやらされた。おかげで、二日経った今でもまだ腕が筋肉痛だ。
「相手だって本大会で勝ち進んでいた人たちだったじゃない。私、篠原くんは運動が苦手そうって思っていたから、少しだけ感心したわ」
「だったら、せめて少しじゃなくてすごく感心してほしかったところだね」
喉を痛めているのか、不自然に小さく一つ咳をして、彼女は書き終わったノートを掲げて見せてきた。ノートにはみみずのようなぶれぶれの線で描かれた絵。
「これ、もしかして僕と幸田?」
「そっ、この前の試合」
最初は堪えていたものの、彼女が自信満々に言うものだから、思わず吹き出してしまった。
「ははっ、桜坂さん絵が苦手なんだ」
「む、そんなに変かしら。……いや、確かに下手くそね」
二人には広すぎる図書室に小さく二つの笑い声が流れる。
彼女――桜坂琴音は話せば話すほど、印象が最初と変わっていく。
物静かで表情が乏しいと思えば、二人ではよく喋るし、普通に笑いもする。思いの外ロマンチストで、今しがた発覚した絵が苦手。
普段は僕と同じように空気を演じている彼女の、みんなが知らない一面を垣間見れていることにちょっとした優越感を覚える。空気を演じているといっても、演じきれていないわけだが。
「桜坂さん、今日昼休みに告白されてたでしょ」
「えっ……?」
驚いたように固まる彼女。
「僕が見たわけじゃないけど、幸田が偶然見かけちゃったって。あれ、うちのクラスの男子」
彼女は空気になろうと努めている。しかし、優れすぎた容姿がそれを許さないのだ。
彼女と知り合い分かったことがある。彼女は結構モテるのだ。一緒に歩いてたりすると、彼女に視線を向ける男子がちらほらいることに気が付いた。
彼女本人が気が付いているのかは謎だが、意外とこういうのは自分では気づきにくいことだ。
「ああいうのは、よくあるから。ちょっとひどいけど、日常茶飯事だと思うことにしてるの」
OKしたいとは思わないの? と喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。詳しく理由は聞いていないが、恋愛やそういう類のことに対してある種の嫌悪感に近いものを抱いている彼女にとって、この言葉は地雷そのものだろう。
「ちなみに三年になって、何人に告白された?」
彼女は目線を宙に彷徨わせる。そして、少し照れたようにノートで口元を隠す。
「……四人」
「わお、幸田越え」
「本当にたまたまよ。最近はなぜかそういうのが多いだけ」
「まあ、確かに新学期でこの高校ともあと一年だからね。みんな、最後の青春がしたいんでしょ」
「だからって、話したこともない人に突然告白するというのは、どう考えても無謀そのものじゃないかしら」
ふっと、窓から差し込む西日が沈み、教室が一層暗くなった。最近は、これが下校の目安になる。日が沈むと、先生たちが最終の下校を促しに教室を見回りに来るのだ。
「桜坂さんは、どうして僕にこうやって構ってくれるの? 僕はただ、家になるべく早く帰りたくないからこうしているんだけど」
教室の電気が届きにくい薄暗いカウンターの向こうで、彼女の表情が固くなった気がした。
数秒の沈黙が、図書室に本来の姿を取り戻させる。
「おーい、まだ残っているのか。もう、下校の時間だぞー。早く帰れー!」
ドアから半身出した体育教師が、静寂を破って、すぐに去っていった。
「私がこうやって、篠原くんと話しているのは、私が話したいからよ。もちろん、分かると思うけど篠原くんのことが気になってるからとか、そういうのじゃなくてね。篠原くんって、私の話をしっかり聞いてくれるでしょ? 聞き上手って言うのかしら」
「人と話したいから、僕に付き合ってくれてるってこと?」
「ちょっと違うかな。会話する時間って私にとって貴重だから、どうでもいい人とはむしろ話したくないの。篠原くんは、なんでか分からないけど話しやすいのよ。出会いがナンパだったからなのかしら」
そう言って、彼女は意地悪く笑った。
「よく分からないけど、とりあえず今日は帰ろっか。あの先生、二回目は怒って来るし」
図書室の電気を消し、ドアに手をかける。締め切ったはずの部屋にふわりと風が吹き込んだ気がした。
「私の夢はね、ここで大きな声で叫ぶことなの」
開けかけたドアから、手が離れた。
「あ、こっち向かないでね」
彼女の小さくも透き通る声が鼓膜を揺らす。
僕はドアを凝視したまま、問いかける。
「別に図書室だからって、大声を出せないわけじゃなくない? 例えば、別に誰もいない今叫んでもいいわけだし。もちろん、モラルというか、そういうのを考えると、ちょっとできないかなってなるけど」
返事は帰ってこない。
本当に今ここで叫んでやろうかと考えた瞬間、彼女の小さく息を吸い込む音が聞こえた。
「私、一年後には喋れなくなるの」
嘘ではない。その力強い声が、それを物語っている。
思わず振り向いてしまった。
そこには、暗闇でひどく悲しそうな顔をしている彼女が立っていた。
「喋れなくなるって……卒業するから、僕ともう喋れなくなるって意味じゃない……よね?」
先程までの怯えたような悲しげな表情に真顔の仮面をした彼女は、静かに頷いた。
なぜだろうか。彼女と会話ができなくなることに恐怖を覚える自分がいる。まだ、それこそ出会って間もない、言ってしまえば他人のことのはずなのに、どうして僕はこんなに怯えているのだろうか。
「病気ってこと? あまり知らないけど失声病とか……」
「少し違うのだけど、まあ似たような病気ね。徐々に声が掠れていって、最終的には一切声が出せなくなるらしいわ。ほら、私よく咳払いみたいなのするでしょ?」
見本を見せるように、彼女はわざとらしく咳き込む。
思い返すと、確かに彼女は不自然なタイミングで、小さくではあるが咳をする癖があると思っていた。しかし、まさかその癖だと思っていた行為が病気のせいだなんて、全くの予想外だ。
「昔から医者には言われてたのだけど、最近喉に何かがつっかえてるみたいな感覚になるの。医者曰く、これから徐々にひどくなるって」
「治らない……の?」
鼓動が、痛いくらいに胸を内から叩いて鳴りやまない。
「今の医学では無理だってはっきり言われたわ」
彼女はお手上げと言ったように肩をくすめる。
繋げる言葉が見つからない。
せっかく、彼女が仮面を着けてまで重い空気にならないように努めてくれているのは分かっているのに、あまりの衝撃に脳の回転が追いつかない。
必死に言葉を振り絞ろうとする僕に、彼女は優しく微笑んだ。
「篠原くんって、他人に興味ないように見えて、すごく気を使って色々考えてくれるのね」
「……そうかな? 自分では分からないや」
「そうよ。私が聞かれたくないことはちゃんと言葉を飲み込むし、かけて欲しい時にちゃんとふさわしい言葉をくれる。それこそまるで心を読まれてるみたいだわ」
「そんなの……」
微妙に開けられたドアの隙間から、廊下のひんやりとした空気が足を撫でる。開きかけた口を閉じると、無意識に喉が小さく悲鳴を上げた。
「持っていたら、会話なんて必要なさそうで便利ね。本当に喉から手が出るほど欲しいわって、私が過去に言ったセリフを使って笑いを誘おうとするのも、その言葉の意味が今になってちゃんと分かってしまったから、私が嫌な思いをしないように飲み込むのも、ちゃんとその人のことを考えているからできることよ」
「僕は……そんなできた人間じゃないよ。ただ、昔からこの煩わしい赤い糸が見えてしまうから、人と関わることに怖がっているだけ」
放課後の図書室に一本の赤い糸。この赤い糸さえ見えなければ、きっと僕は彼女に恋をしていたんじゃないかと思う。
でも、僕と彼女の間には虚空が存在するだけで、僕の赤い糸は彼女と逆方向に向かってなびいている。
だから、僕はまた自分の気持ちに蓋をする。
彼女も僕も運命という牢屋に閉じ込められた無罪の囚人だ。
自由が奪われた狭い籠の中で、檻越しに会話をする関係。
「おらっ! お前らもう下校時刻だと言っただろ! いつまで残ってるんだ!」
廊下から怒声が響いてくる。でも、僕はそんなことを気にしてはいなかった。
「もう、私はあんな風に叫べないの。大きな声で、神様の馬鹿野郎って叫んで、暴れたいのだけれど……。だからね、私の夢は静かなこの空間で大きな声で叫ぶこと。悪いことしたいだけの変な女なのよ」
いつの間にか、僕の手は赤い糸を掴むように胸の前で握りしめられていた。その無意識が、また僕を苦しめる。
「さっ、もう帰りましょ。今日は少し喋りすぎたわ」
彼女は固く握りしめた僕の手を優しい手つきで解くと、そのまま手を取って背を向けた。
僕は、ただ引っ張られるようについて行くことしかできなかった。
これは弱みの見せ合いだろうか。それとも、運命を恨み合う会だろうか。
違う。
これは、傷の舐め合いだ。