なぎは大きな袋に詰まった綿菓子をちぎって桜坂に差し出す。
「お姉ちゃんも食べる?」
彼女はまるで今までと別人のような笑みを浮かべ、綿菓子を受け取った。
「ありがとう、なぎちゃん。私、甘いもの大好きなの」
「なぎも! お揃いだね!」
僕の知らなかった彼女の一面。もしかしたら、世界中で僕だけが見たことのある姿なのかもしれない。学校での無口で、存在感をわざと無くそうと振る舞う彼女とは、まるで別人のように表情が豊かだ。
もしかしたら、僕は彼女を勘違いしていたのかもしれない。運命の赤い糸が見えない人間。それは僕が一年を通して視界に入る膨大な人の中で、ほんの数人しかいない希少な存在。だから、僕は無意識に彼女を特別な人と認識していた。
でも、彼女と話し、時間を共有し、様々な出来事を経て、得た感情は『普通』という言葉に尽きる。もちろん、悪い意味ではない。その容姿から受ける周りの眼差しを避けるように図書室でひっそりと本を読むことも、意外にもロマンチストなことも、子供相手には表情を砕き、目一杯膝を折って微笑みあうことも、いたって普通。年相応の女性に当てはまっていてもおかしくないことだ。
考えてみれば当たり前で、彼女はただ人とは違う病気を患っているだけで、それを除けばどこにでもいる、大人しそうに見えて好奇心は強い女子高生なのだ。
僕の視線に気が付いたのか、桜坂と目があう。
「どうしたの?」
「いや、桜坂もそういう表情するんだなと思って」
彼女はいまいちピンと来ていないのか、首を傾げる。
「私だって、感情はあるもの。楽しければ自然と笑うし、悲しければ泣くわ。もちろん、喜怒哀楽の怒と哀は人前では限界まで出さないけど」
「普通といえば、普通だな……」
彼女は再び首を横に倒す。
「難しい話してる?」
なぎは僕と桜坂を交互に見ながら言う。そして、何が分かったのか、綿菓子をちぎって僕に差し出した。
「分かった! お兄ちゃんも食べたかったんだね。はい、あげる!」
なぎの無邪気な笑顔に、僕はいつの間にか数時間前までの憂鬱な気持ちはすっかり無くなり、純粋に祭りを楽しみ始めていることに気が付いた。
その後、なぎの両親を探しながら小一時間、屋台を巡った。こんなにも祭りの屋台を一軒ずつじっくりと見てまわるのは始めてらしく、なぎも随分と満足したようだ。
桜坂がなぎの様子を見ながら耳打ちをしてくる。
「そろそろ、親御さんの元を離れてから時間が経つから、本格的に彼女の両親を探しましょう」
かき氷を必死に専用のストローで食べているなぎを見て、無言で頷く。花火の約束も迫って来ているので、できることならすんなり見つかってもらいたい。
なぎと別れることは少し寂しいが、彼女も両親と一緒にいるべきだ。なぎの両親も心配しているに決まっている。もう、なぎが去ってから一時間以上経っているのだから、きっと今頃探し回っているだろう。
なぎと出会った場所から、さらに彼女が走って来た方向へと向かう。アーケード街を抜け、海辺の公園まで歩く。
「なぎちゃん、お父さんとお母さんとはどこではぐれちゃったの?」
「はぐれたんじゃないんだよ。お父さんもお母さんもなぎを車の中に置いて、お外で喧嘩してたから、逃げちゃったの」
「そっか。じゃあ、なぎちゃんのお家の車はどこにあるのか教えてほしいな」
「んー、あそこの駐車場」
なぎが後ろを向き、ちょうど通り過ぎた公園に隣接する駐車場を指差す。駐車場は祭りのせいでぎっしりと車で埋め尽くされており、外からでは人影があるかは分からず、僕らは三人で駐車場に入る。
なぎがきょろきょろと周りを見ながら、僕と桜坂の手を引く。
正直、僕は駐車場になぎの両親はすでにいないと思っている。喧嘩といっても、外で一時間以上も我が子を車内に置き去りにしたままするはずがない。大方、今頃慌てて迷子センターに向かっているか、そこらへんを探しているはずだ。
しかし、迷子センターに両親が行っているのであれば、会場の至る所に設置されているスピーカーから迷子情報が流れるはずだが、この一時間、そのスピーカーからは、地方アナウンサーがだらだらと名産品について喋っているだけだ。
とはいえ、手っ取り早いのはやはり迷子センターで両親を呼んでもらうことだろう。
駐車場を出るように桜坂に声をかけようとした瞬間、乱立する車から、頭だけ抜きん出た二人の男女がいることに気が付いた。桜坂も気が付いたのか、僕と彼女は同時に足を止めた。
直感であるが、たぶん、なぎの両親だ。
遠く、周りの雑音もあるので会話の内容までは分からないが、どうやら口論しているように見える。その様子を見て、言葉にできない怒りが胸の底から湧き上がってくるのを感じた。
「どうしたの?」
不思議そうに首を傾げるなぎ。彼女の背では二人の姿は見えないのだろう。
頭の中で、いろんなことがぐるぐると渦巻く。焦点がたちまち定まらなくなり、視界はぼやけ、意識がスーッと、僕の身体の後ろへと引っ張られるように流れていく感覚に襲われた。
二人の赤い糸は、互いにいがみ合うように正反対の方向へ引っ張られている。
桜坂が一歩踏み出す。
僕は気がつくと、彼女の腕を掴んでいた。彼女は黙って僕を見据える。表情という表情は見えない。でも、そのガラスのように透き通る瞳には、確かに怒りが浮かび上がっているように感じた。きっと、彼女も僕と同じように憤りを覚えているに違いない。
それでも、僕は彼女を止めた。それは、面倒な争いを避けるためではなく、なぎに悲しい思いをさせないためという、善人ぶった理由でもない。ただ、自分を止められない。それだけの理由だ。
僕は単純で、不器用で、何より糸で繋がれていない二人と、その間にできた子供の末路を知っている。だから、きっと桜坂が彼らに食ってかかる様子に目を背けてなぎといることはできない。彼女であれば、きっと喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、なぎと一緒にいてくれるだろう。
だから、僕は彼女を止めた。
何秒、視線を交わしていたか分からない。しかし、彼女はそっと目を閉じ、膝を折った。
「なぎちゃん。何か飲み物買いに行こっか。お姉ちゃん、喉乾いちゃった」
呼吸が苦しい。いつの間にか、息を切らしている自分がいることに気づいた。
彼女がなぎの手を引き、歩き出す。
「お兄ちゃんは?」
なぎは何か察してか、少し不安そうに彼女を見上げる。
「お兄ちゃんは後から来るから大丈夫だよ」
もう少し。あとちょっとだけ、距離が空いたら……。
今にも叫び出しそうな喉を必死に締め、奥歯を食いしばる。
胸元の赤い糸が潮風になびいて視界に映りこむ。その刹那――
「ふざっけんなぁぁあ――ッ!」
僕は喉が張り裂けんばかりの声で、叫んだ。