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 環境の変化のせいか、それとも残された高校生活が僅かという意識が時の流れを早く感じさせているのか、どちらにせよ、僕たち高校三年生にとって、一日は非常に貴重だ。
 だからこそ、彼女との一日もまた、決して軽んじてはいけない。
 セミの鳴き声が聞こえ始める頃、彼女は以前のように長く話すことができなくなった。とはいえ、普通に会話はできるし、日常的な会話であれば何の問題もない。
 それでも、やはり一時間と話していると彼女は苦しそうに喉を摩さするのだ。それを見るのがどうしようもなく苦痛で、言葉には出来ないもどかしさを感じてしまう。一番苦しくて、悲しいのは彼女のはずなのに。
 放課後の図書室。彼女はひとしきり咳き込んだ後、何事もなかったかのように会話を再開した。
 
「それで篠原くんは大学、どうするの?」

「桜坂、今日はもう帰ろう?」

 彼女は一つ喉を鳴らした。

「あと、少しだけ。付き合って」

「じゃあ、帰りながら話そう」

 彼女は嬉しそうに微笑むと、カバンを持って立ち上がった。
 最近の彼女は出会ったばかりの時よりも、ほんの少しだけ幼く見える。僕が彼女のことを理解しだしたこともあるし、彼女が多少なりとも心を開いてくれているおかげだと思う。多分、今の彼女が素の彼女なのだろう。
 誰もいない図書室に別れを告げ、鍵を返しに職員室に向かった彼女より一足先に下駄箱に向かう。すると、下駄箱を出たところ――屋根付きでグランドを上から見下ろせるため、生徒からはバルコニーと呼ばれている場所に見慣れた姿があった。

「まだ帰ってなかったの?」

 野球部と陸部がグラウンドを整備している様子を頬杖をついて眺めていた愛衣は、ばっと振り向き、声をかけた主が僕だと分かると、あからさまに肩の力を抜いた。

「なんだ、実笠か。それ、私のセリフでもあると思うんだよね」

「まあ、それもそうか。誰待ってるの? 幸田?」

 彼女は露骨に顔を逸らし、小さく頷いた。

「へえ、頑張ってるじゃん」

 無意識に言った自分の言葉に、胸が針で刺されたようにチクっと痛んだ。

「もう、そんなに時間もないじゃん? だから、ちょっと頑張ろうと思って。毎日はしつこいだろうから、金曜日だけ」

 女子が一緒に帰るように誘っている時点で、何となく察しがつきそうなもんだけど。幸田は人一倍そういった感情に疎いから、果たして愛衣の誠意が伝わっているかは不明だ。それが分かっているから、愛衣も以前より積極的にしているのだろう。
 最近では普通にメッセージのやりとりもしているらしいし、映画の一件以降、二人の仲は順調に進んでいると言えるだろう。
 だからこそ、胸が痛んだ。まるで、彼女と繋がっている赤い糸に自分の胸が貫かれているようで、無意識に胸の前で掴めもしない運命という名の鎖を握りしめた。

「実笠は? 琴音と帰るの?」

「えっ、まあ……そうだけど」

 もう一つ変わった点と言えば、愛衣と桜坂が話すようになったことだろうか。元々、愛衣は誰に対しても社交的だし、きっかけさえあれば誰とも仲良くなるから、そんなに驚くことでもないけど。

「あんたたち、仲良いよね。もう、付き合っちゃいなよ。琴音のこと、好きでしょ?」

「……違うよ。僕と桜坂の関係は、恋愛的なものじゃないんだよ」

「ふーん。なんか、難しいね。でも、琴音といるときの実笠は楽しそうだよ。それは琴音も一緒のことだけどね。あっ、やばい幸田くん来た!」

 部室から幸田が出て来たのを発見すると、彼女は頬杖をやめて、丸めていた背をすっと伸ばして、とたんにそわそわしだした。
 幸田が僕たち二人を見つけ、混じり気のない笑顔で手を振ってくる。それと同時に桜坂が校舎から出て来た。

「じゃ、僕は行くから、頑張りなよ」

 胸が痛い。本当は邪魔してやりたい。そんな思いを飲み込んで、桜坂の元に足早に向かう。

「あ、また明日ね! 琴音もー! ばいばーい!」

 桜坂は小さく手を振り返していた。

「良かったの? 佐野倉さん」

 急坂をゆっくりと下る最中、話を切り出したのは彼女だ。時間が開いたおかげか、先ほどみたいに苦しそうじゃなくて、少しだけ安堵する。

「幸田と帰るんだってさ。最近、仲良いんだよあの二人。幸田は愛衣の気持ちなんて気づいてなさそうだけどね」

 彼女の視線が僕に向いた。

「篠原くんはそれでいいの?」

「正直、僕にも分からない。これでいいのか。二人をけしかけたことが正解なのか、間違いなのか分からないんだよ」

 もう癖になってしまって、胸に突き刺さる鎖を握る。

「そこに赤い糸があるの?」

「そうだよ。今、後ろの学校に向かって伸びてる」

「ふーん……」

 彼女は握りしめる僕の手のすぐ近くで、同じように手を握ったり開いたりする。その位置に糸がないことは、まあ言わなくてもいいだろう。どうせ、僕以外には見えやしないのだから。

「やっぱり、見えないし触れもしないのね」

「僕も触れはしないよ。見えるだけ。だから、もどかしい」

「そうね。決まっていて、変えられない運命なんて、本当にもどかしいだけよね」

 彼女の言葉を聞いて、僕は失態に気が付いた。

「ごめん。軽率だった……」

 何が、なんて言わなくても彼女は分かるだろう。彼女は面白おかしく笑い出した。

「篠原くんって、察しが良かったり、妙に大人びた性格のせいで色々損してそうよね」

「変なものが見えるおかげで、空気を読む癖がついちゃっただけだよ」

 僕と彼女が一緒にいるのは、好きだとか、気になっているみたいな青春っぽいものじゃない。もっと、重く、それこそ鎖のような運命を互いに認知し合う存在だからだ。
 そんないびつな関係でも、唯一弱みを見せることのできる彼女といる時間は、辛い日常の中の安息だ。
 人によっては、それは恋だと、恋愛だと言う人もいるかもしれない。
 それでも、僕は彼女に恋はしないし、彼女は僕と恋愛をしない。そういう()()なのだ。


「実笠、お願い! 夏祭り一緒に行こ!」

 そんなお願いを愛衣にされたのは、夏休みに入る直前のことだった。

「頼む相手、間違ってない? 確かに小さい頃はよく一緒に行ったけど」

「そうじゃなくて、いや、そうなんだけど。何としても夏休みに決着をつけたいんだよ」

「何の?」

 そこまで話して、幸田が友達と談笑しながら教室に入って来た。僕の視線が明後日の方向に向いていることを察し、彼女も幸田の存在に気が付いたようだ。

「やっぱり、あとで話す! ついでに琴音も誘っておいて!」

 ちらちらと幸田に視線を向けながら、愛衣はいつものギャルグループに戻って行った。
 なるほどなぁ、と思った反面、少しめんどくさくて、とんでもなく憂鬱な祭りになりそうだと感じた。

 それでも、僕には二人の行方を見届ける義務があると勝手に思っている。ここまでくるとただのお節介な気もするが、やっぱり気になるのは事実だ。

 それに、桜坂と夏休みに会う口実になるという邪な思いも若干あったりする。今の様子を見るに、夏休み明けの二学期が始まった頃には、今以上に話すことが困難になってしまうはずだ。
 夏休みとは言え、受験生の僕たちは補習などで学校に来るものの、それでもやっぱり会う回数は減ってしまうだろう。一日でも、一分でも長く彼女と話したいという思いが、愛衣の願いを断るという選択肢をさっぱり消し去ってしまった。

 放課後、夏祭りの件を伝えると、彼女は存外あっさりと承諾した。

「私、友達とお祭りに行くのなんて初めてで、今からワクワクしてるわ」

「この街、祭りの花火だけが有名だもんなぁ」

「機を見計らって佐野倉さんと雲宮くんを二人っきりにしてあげましょ。付き合ってない男女が二人で花火を見るなんて、結構ロマンチックでドキドキするわね」

「……そうだね」

 我ながら、つまらない意地を張っているなと思う。うじうじ悩んで、それを隠そうともせず、こうして進んで行く周りの関係が、時間が、止まってしまえばいいと願っている。

「ここまで来てしまったら、あとは遠巻きに眺めているしかできることはないわよ」

「やっぱり、そう思う?」

 参考書の一ページを眺めて十分。書いてある内容は全く頭に入ってこないし、もはや飾りと化したその行為があほらしく感じて参考書を閉じる。

「言ってはいけないことかもしれないけど、ただの高校生の恋愛よ。もちろん、学生のうちから付き合って、そのまま結婚する人だっているのかもしれないけれど、そうならない方が可能性的には高いんだから、あまり自分を追い詰めない方がいいわ」

 参考書を閉じると、行き場のない視線は自然と目の前の彼女に注がれる。彼女は話しながらもノートにペンを走らせて、次々と参考書の問題を解いている。
 視線が下を向く時に覗く長いまつげも、すらすらとペンを動かす細い指先も、もう僕には見慣れた光景になってしまった。なんだか、すごい贅沢な思いをしている気がしなくもない。

「それとも、佐野倉さんを自分のものにしておきたい欲がまだあるの?」

「そんなの最初から無いよ。僕は恋愛なんて見通しのつかない青春は出来ないんだから」

「でも、篠原くんは表面上そう思っているだけで、きっと心のどこかでは恋をしたいと思っているはずよ」

 ノートの端に彼女はいびつなハートを描いた。きっと、彼女は綺麗なハートを描いたつもりなのだろうけど、今はそんな不恰好なハートが僕の恋愛観を表しているような気がした。

「それは、僕自身にも赤い糸があるから?」

「そうよ。だって、本当に恋をしないと誓っているのなら、私みたいに赤い糸は見えないはずでしょ? それとも、私にも赤い糸が見えるようになったかしら?」

 両手を軽く広げて見せた彼女の胸元に赤い糸なんて鎖は見えない。

「本当に恋愛がしたいなんて気持ちは一ミリもないんだけどなぁ。赤い糸が見える能力を持つ人自身が、赤い糸を持ってないなんておかしすぎるから、神様が特別に付けたんじゃないかな」

「その説も否定は出来ないわね。何しろ、科学的には絶対的に証明出来ないものなんだから」

「僕はいまだに自分の痛々しい妄想だと思っているけどね」

「そうであるなら、篠原くんはとんでもない予知能力者ってことになるわね」

 グラウンドからかすかにホイッスルの音が聞こえてきた。サッカー部の部活終了を合図するものだ。このホイッスルが聞こえて来ると、もうすぐ下校時間なのだと最近になって気が付いた。
 彼女もそれを知っているのか、ホイッスルの音を聞くと参考書を閉じて大きく伸びをした。夕焼けに照らされた彼女は、まるで今にも消えて無くなってしまいそうな儚さと、それをかき消してしまわんとする圧倒的な美しさを感じさせる。

 きっと、彼女みたいな人を本当の美少女とか美女とかいうのだと思う。
 でも、僕は彼女の本当に美しい部分を知っている。彼女と話さないと絶対に分からない、その内面と価値観こそが、彼女の真に美しく輝きを放つものなんだと。

「恋愛なんて僕はするつもりはないんだけど、桜坂になら恋してもいいかなって思うよ」

 開いた窓から、強い風が吹き込み、カーテンを大きくなびかせた。
 彼女は表情を変えることもなく、僕を見つめる。

「それは告白と受け取っていいのかしら?」

「違うよ。ただ、赤い糸が見えなかったら、今の僕はきっとこう言うだろうなって思った」

「……駄目。私は人を愛しない。恋はしないんだから」

「知ってるよ。桜坂に赤い糸はないよ」

 彼女は少し安心したようにうっすらと口角を上げた。

「帰りましょ。たまには先生に言われる前に職員室に行って鍵返したいの」

 こうして、また残り少ない彼女との一日が終わる。僕はあと何日、彼女とこうやって話をすることができるんだろう。
 最後の日に、僕は彼女と何を語るんだろう。