※※※
2週間前。
思い返すと、あのときの私は鈍臭かった。
音楽室へ移動する途中。
教科書、ファイル、それと筆記用具にアルトリコーダーを胸に抱えて、階段を上っていた。
その校舎で過ごして2年以上になる。階段1段分の高さも奥行きも、身体に染みついているはずだった。
それなのに、こともあろうに私は足を踏み外してしまったのだ。
そのまま後方に落ちていった。
胸に抱えていた音楽の授業用具一式を手放して、必死に何かをつかもうと腕を空中で振り回した。
でもその甲斐なく、何もつかめずに不格好に倒れた。
教科書やファイルはバサバサッと落下し、リコーダーはカツンッと音を立てた。
そして私は救急車で病院へ運ばれてしまったのだった。
学校に救急車が来ることだってあるんだろうけれど、私はその現場に居合わせたことがなかった。
私にとって初となる、学校に駆け付けた救急車。まさかそれに乗せてもらうのが私になるだなんて……。
階段から転落したときに頭を強く打っていた私は、病院に到着するとすぐに頭部のCT検査を受けることになった。
そして見つかったのが脳出血ではなく石灰化だったってわけ。
外傷はなかったから、ひとまずその日は家へ帰された。
あとから聞いた話では、私のCT画像について病院内で上を下への大騒ぎになったらしいけれど、当の本人である私は蚊帳の外だった。
学校に置いてきてしまった荷物は、ツムグがその日のうちに届けてくれた。
「大丈夫なのか?」
「入院とか手術にならなかったんだから、たぶん大丈夫ってことだと思う。しばらく通院しないといけないみたいなんだけど」
「でも大したことないんなら、よかった。心配したんだからな」
ツムグはほっとした笑顔を見せてくれた。
なーにが『たぶん大丈夫ってことだと思う』だ。
あのときの自分自身ののん気さに笑い過ぎて涙がでるわ。
遅い朝食をさらにのんびり食べてから、『今からそっち行く』とメッセを送り、私はツムグの家へ向かった。
小さい頃からもう何度も遊びに行ったツムグの部屋。
あと何回行けるのかな……。
ツムグの家に到着すると、ツムグが出迎えてくれた。
「おはよ。なんか元気ないんじゃない?」
「うーん、そうかも。おじゃましまーす」
靴を脱ぎ、ツムグの背中を眺めながら階段を上がった。
この背中にしがみつきたい……
階段から落ちるのは二度とゴメンだし、ましてやツムグを落とすわけにはいかないから、絶対にやらないけど。
ツムグに続いて部屋に入った途端、涙がボロボロボロボロこぼれた。
「その辺、適当に座っ……うおっ!? 何? どうした?」
ツムグがオロオロする。
「あはっ、ごめん。びっくりさせて」
ツムグがティッシュを差し出してくれた。
私は涙を拭き、力いっぱい鼻をかんだ。
ツムグが続けざまにゴミ箱も差し出してくれたから、その中に丸めたティッシュを放った。
「そんなショックなことがあった? もしかして昨日の病院? 状態がよくないのか?」
ツムグが本気で心配してくれていた。
2週間前に『大丈夫』なんて言って安心させてしまったことを後悔した。『はっきりしたことはまだ分からない』って答えればよかった。
「私ね、どうやら死んじゃうらしいよ」
「はあ? いつ?」
「分かんないけど……」
「そんなの、俺だっていつか必ず死ぬよ!」
どうやらツムグは怒っているみたいだった。眉間にそれが表れていた。
「ちがっ……そういうんじゃないの。あのね、お医者様でもはっきり余命がどれだけかは言えないんだって」
また涙が次から次へと落ちてきた。
ツムグはもうティッシュを差し出してくれなかった。
「よ……めい……?」
ツムグが今度は驚いた顔をした。
顔を赤くしたと思ったら青くして、大変だ。私のせいだけど。
ツムグが驚いたお陰で、なぜか私は少し落ち着いた。
「うん、余命。余命宣告っていうの、されちゃった」
私がそこまで話すと、ツムグの目からも涙が出た。私のとは違って、ひと筋スーッと流れた。
「私、やりたいこといっぱいあったのにな」
「やりたいこと?」
わざと明るい声を作った。
「デート。放課後デートと休日デートの両方!」
私の死ぬまでにやりたいことの中で、1番くだらないものを選んだ。ツムグが呆れて笑い飛ばしてくれたらいいな、と思って。
でもツムグの涙は止まらなかった。
「そんな、こと……?」
笑うどころか、悲しそうな顔をされてしまった。
「だって15で彼氏もできずに、ファーストキスもまだのままだったら成仏できないよ」
全然楽しくなかったけれど、ヘラヘラお道化てみせた。
女は女優って本当だ。私でもなれた。
「彼氏……」
「そう、彼氏とデート。青春してみたかったなー」
「ミイ、すぐに好きなやつに告れ! 俺がそいつを引きずってでもデートの待ち合せに連れていってやるから」
はあ!? な、何バカなことをそんな真剣な顔で言っちゃってるの?
「そんなことできるわけないでしょう? 向こうの気持ちを無視するなんて! それとも、『もうすぐ死んじゃうから付き合ってください』って頼むの? どっちにしろ、そんなの嫌だよ」
言いながら、どんどん惨めになってきた。
同情を引かないと、好きな人の彼女になれないし、デートもできない私……
ツムグはそんな私をじーっと見つめてきた。
「ミイ?」
「な、何よ?」
「俺は?」
「俺って? ツムグがどうしたのよ?」
「俺じゃダメか?」
「ダメって何が?」
「ミイの彼氏になるの」
「ええっ?」
心臓がバクバクする。驚きすぎて涙は完全に引っ込んた。
「そりゃ、ミイの好きなやつには敵わないだろうけど、俺でよかったらミイの彼氏になるし、ミイとデートもするよ。その……放課後デートでも、休日デートでも……」
「えっ、えっ!? だ、だけど、ツムグはいいの?」
「俺だって彼女いないし、別にいいよ。まずは放課後デートしてみるか?」
「ほ、本当にいいの?」
「いいって。放課後デートって、学校が終わったらそのままデートに行くのか?」
「うん。制服のままで。でもそれって、校則違反だよね?」
「いったん家に帰って着替えてからにするか?」
「そうすると放課後デートっぽくなくなるね」
「そうはいっても、初デートで見つかって怒られるのは嫌だろ。楽しい思い出になるデートをしたいよ」
乾いたはずの目がまた潤む。
声にならなくて、私はコクコクと頷くだけが精一杯だった。