【エピローグ】

 バスは深夜に出発するということで、僕はとっぷりと暮れた時間帯に、駅前の高速バス乗り場に足を運んでいた。
 周囲はすっかり静かなのに、ここの一角だけは、これから旅立とうとする、あるいは帰省しようとする人たちでにぎわっていて、旅立ち前のそわそわとした空気とか、帰省前のリラックスした雰囲気なんかが混じり合って、不思議な空間ができあがっていた。
「お待たせ、真崎君。切符売り場すっごい込んでたの」
「人、多いんですね」
「ねー。てっきり、がらがらだと思ってたんだけどなあ」
 四季宮さんは、大きなキャリーケースを転がしながら、指定のバス乗り場に歩を向けた。
 僕もゆっくりとその横を歩く。
「見送り、本当に僕だけでよかったんですか?」
 四季宮さんは今日、この街を立つ。
 母方の実家の祖父母の家に、住むことになったそうだ。
 彼女の家の状態を考えれば、それはある種、当然のことのようにも思えた。
 四季宮さんは少し、両親と離れた方が良いだろう。
「うん。クラスのみんなには、いーっぱい、お別れの言葉、言ってもらったから」
 彼女の祖父母の家は、少し遠いところにある。深夜バスで約六時間。都心からは大きく外れた場所だ。当然、もう学校には来られなくなる。
 卒業まで残り数か月。事情も事情だったので、四季宮さんは特例で、早期の卒業ということになったわけだけど、一緒に卒業式を迎えられなかったことにクラスのみんなが悲しんだ。 
 送別会は大々的に行われ、受験期であるにも関わらず多くのクラスメイトが参加し、彼女の人柄の良さを改めて知ることとなった。
 早期卒業の理由も、SNSで広がった動画の内容にも、クラスメイトたちは誰一人として触れなかった。本当に彼女のことを好きだったのだろうと、僕は思う。
「それにほら、真崎君とは個人的にお話したいこともあったから」
 どきりとして、僕は身構える。
 あれ以降、四季宮さんとゆっくり話をするタイミングはなかった。
 年末年始はもちろんのこと、その後も、四季宮さんは家庭の事情でばたばたしていたし、ようやく学校に顔を出せたと思ったら、クラスメイトにもみくちゃにされて、送迎会では僕はろくに彼女と話すことができなかった。
 四季宮さんと話したいことはたくさんあった。
 だけどそのどれもが、口にするにはためらわれて、かといってメッセージで済ませるには味気なくて。結局ここまで、ずるずると引っ張ってきてしまっていた。
 四季宮さんが口を開く。
「ねえ、真崎君。真崎君はどうしてあの時……私の名前を呼んでくれたの?」
「え?」
 あの時、というのはもちろん、僕が白昼堂々、四季宮さんに向けて自分の想いを叫んだ時のことだろう。あの話は、もうしばらく口にすることはないと思っていたのだけれど……。
 予想だにしていなかった質問に、僕は戸惑いつつも、答える。
「それはあの時たまたま、幻視が起こって」
「うん、どんな未来が視えたの?」
「えっとその……四季宮さんが……」
「私が?」
「ビルから飛び降りる、未来です」
 数拍、間が空いた。
 僕と四季宮さんの間を、バスステーション内のアナウンスが素通りしていく。
 四季宮さんは毛先をくるくるといじりながら「そっか……そうなんだ……」と小さくつぶやきながら、思案していた。
 やがて、何か変なことを言っただろうかと、僕が不安に感じ始めたころ、
「……うん、やっぱり真崎君は優しいね」
 四季宮さんは顔をあげて、笑顔で言った。
 その笑顔は、とても満ち足りていて、なんだかすごく幸せそうで。
 結局彼女が何を聞きたかったのか、その真意は分からなかったのだけど――僕はそれ以上深く聞くことをやめた。
 丁度その時、バスのコールがかかり、四季宮さんの乗る深夜バスがすーっと止まった。
 一人一人、ゆっくりと乗車していく。
 その列に背を向けて、四季宮さんは三本指を立てた。
「さて、真崎君! それでは本題です」
「は、はい」
「実は私は、君に聞きたいことが三つあります」
「どうぞ、なんでも聞いてください」
「一つ! 受験勉強は順調ですか?」
「じゅ、順調です」
 この数週間は四季宮さんのことで気もそぞろだったとはいえ、もともと合格ラインには達していた。当日に体調を壊さない限り、問題なく突破できるだろう。
「そっか、ならよかった。色々振り回しちゃったから、心配してたんだ」
「四季宮さんは、その……」
「ん。今年は受験しないつもり。身辺整理が忙しくなりそうだからね」
「……すみません」
 思わず聞いてしまったけれど、無遠慮な質問だったと、僕は頭を下げた。
 しかし四季宮さんは両手に腰を当てて、
「なんで謝るの? 私は真崎君に、感謝してもしたりないんですけどー」
「でも……」
「でももヘチマもありません。本当なら行けなかったはずの大学に、来年は挑戦できるんだよ? 夢みたいだよ。……そ、れ、に」
 ちょん、と人差し指で僕の鼻先に触れる。
「真崎君の入った大学に、私も挑戦できるわけだしね」
 瞬間、僕は未来を想像した。
 あらゆる障害や問題を無視した、理想だけを映した未来。
 僕と四季宮さんが同じ大学に入り、同じキャンパスの中を二人で歩く光景。
 それはとてもとても、幸せな未来だった。
「だから、先に行って待っててね。真崎君のこと先輩って呼べるの、楽しみにしてるから」
 僕は笑って頷いた。どんな激励の言葉よりも強烈な後押しだった。
 これは絶対……受からなくちゃいけないな。
「それでは二つ目。一年後に同じ大学に通うことになるとはいえ――」
 確定したことのように話しているのが、実に四季宮さんらしかった。
 明るくて、自由で、前向きで……何も取り繕うことなく彼女がそう成れていることが、そう、在れていることが、心から嬉しい。
「やはり一年間会えないと寂しいのです。だから……引っ越した後も、時々会ってくれますか?」
「はい」
 即答した。
 むしろ、僕の方からお願いしたいくらいだった。ここ数週間会えなかったのとはわけが違う。物理的に距離が離れるわけだから、僕も彼女とは出来得る限り会いたいと思っていた。
 そんな気持ちが先走り、僕は次々と言葉を発した。
「だ、大学が決まったら……多分一人暮らしをすることになると思うので、住所送ります。あ、べ、別にだからといって四季宮さんが来ないといけないってわけじゃないんですけど、もちろん僕も四季宮さんの家の近くまで行きますし、お互いにとって近い中間の場所みたいなのをみつけて、そこで会うっていうのでもいいと思いますし、と、とにかく四季宮さんとはできるだけ会いたいって僕も思ってるので――」
 そこまで言って、はっと口を閉じた。
「す、すみません、僕、また……。聞き取れなかった、ですよね」
 前のめりになりすぎて、つい早口になってしまった。
 けれど四季宮さんは、にへらと相貌を崩して、
「んーん、大丈夫。真崎君も私と同じ気持ちなんだなって伝わってきたから」
「あ、はは……。伝わって良かったです」
「えへへ、なんだか照れちゃうね。詳しいことは……またメッセで決めようね。約束だよ?」
「はい、約束です」
 僕が頷くと同時に、バスターミナル内にアナウンス音が流れた。
 零時に十分発、○○行き深夜バスは、まもなくの発車となります。まだ乗車がお済みでないかたは、七番停車口までお越しください――
「……時間、ですね」
「うん、こればっかりは仕方がないね」
 名残惜しいし、離れがたい。
 心残りがないと言えば、嘘になる。
 僕は彼女に自分の気持ちを十全に伝えきれてはいないし、これからしばらくの間は会えなくなるのかと思うと、胸の奥がきゅぅっと締め付けられたように痛む。
 だけど、これからのことも、一年後の約束も、今ここでかわすことが出来たから。
 いいことにしよう。
 そう自分を納得させて、僕はこの場の自分の気持ちを、綺麗に畳もうとした。
 けれど――
「ねえ、真崎君」
 四季宮さんは、話を続けた。
「これ覚えてる?」
 バッグから出したメモ帳に、さらさらと走り書きをして、僕に見せた。

【あなたが、好きです。】
【あなたが好き、です。】

 いつだったか、夕暮れ時の教室で、四季宮さんが僕に、句読点の意義を教えてくれた時の文章だった。
「前者は強い意志、後者は恥じらいを感じる、でしたっけ」
「その通り、よく覚えてるね」
 彼女とのやり取りは、記憶は、とても鮮烈で、色鮮やかで、美しくて。
 全て僕の脳内で、華やかに残っている。
 忘れるわけがなかった。
 そして――彼女が今、何を意図しているのかも、分かる。
 心が揺れる。
「さて、それでは三つ目、最後に真崎君に聞きたいことは、こちら」
 さらさらと、また一文書き足して、彼女は僕に見せた。

【あなたが好きです】

 それは、何の句読点もついていない、素の文章だった。
「真崎君はこれを、どう読むのかな? どんな風な気持ちを乗せて、読むのかな? 強い意志を乗せて? それとも少し、恥じらいながら? それとも……私が全く想像していない読み方をしてくれるのかな?」
 両手にメモを抱えて、四季宮さんは小首をかしげた。
 僕は――すぐには答えられなかった。
 なんというのが正解なのだろう、どういう言い方をすれば彼女は喜ぶだろう。
 ここまで散々引っ張っておいて、ミスは許されない。
 何か、完璧な答えを、彼女が望んでいる答えを返さなくては……。
 そんなことをうだうだと考えているうちに、バスの発車時刻になってしまった。
 四季宮さんの名前が呼ばれている。
 バスターミナルに残っていないか、最終確認を取られているようだ。
「残念、これは宿題かな」
 タイムリミットだった。もうこれ以上時間は延ばせない。
 四季宮さんはゆっくりと、バッグにメモ帳をしまった。
「次に会う時には、聞けるといいな」
「あの、四季宮さん――」
「焦らなくていいよ」
 彼女は小さく笑って、
「私は、ずっと待ってるから」
 そう言い残して、バスの方へと足を向けた。
 キャスターがアスファルトの上を滑る摩擦音を引いて、四季宮さんの背中が離れていく。
 僕の足は、縫い付けられたようにその場から動かない。
 四季宮さんは言った。
 私はずっと待ってるから、と。
 本当に……本当にそれでいいのだろうか?
 彼女の気持ちにすがって、彼女の優しさに甘えて、そうやってずるずると先延ばしにしていいのだろうか?
 伝えるべき気持ちが残っていることが分かりながら、僕は自分から踏み出そうとしなかった。
 四季宮さんが一歩踏み込んできてくれたのに、僕はそれに応えなかった。
 僕は。
 僕は――
「ばかやろう……っ!」
 何度、同じミスを繰り返すつもりなのだろうか。
 正解がないと走り出せないと、勇気をもって足を踏み出せないと、また同じことを言うのだろうか。
 とんだいくじなしだ。
 とんだ馬鹿野郎だ。
 四季宮さんは言っていたじゃやないか。
『僕が』どう読むのか。
 それを聞きたいのだと。
 僕が言葉に乗せる感情を知りたいのだと。
 だったら、今僕が取るべき行動は一つしかない。
 彼女に伝える言葉は一つしかない。
 
 四季宮さんの身体が、バスの中に消えていく。
 僕は駆けだした。

 正解なんてありやしない。
 解答なんて用意されちゃいない。
 それでいい。
 それでいいんだ。
 例えばそれが、カッコ悪くても、みっともなくても、傍から見れば滑稽に思えるくらいにむき出しの、青臭くて鼻白んでしまうような言葉だったとしても。
 ただ、僕が思うままに感情をこめて。
 彼女に向けた、素直な気持ちを伝えればいいんだ。
 だから今。
 勇気を持って、震える体を叱咤して、恥じらいなんてかき捨てて。
 彼女に伝えたいありのままの言葉を――

「四季宮さん! 僕は――っ!」

 叫べ、その句読点すら置き去りにして。