とある出版社で働いている、私。
今、コンテストの優秀作品を決めているところだ。
しかしどれもこれも、ありきたりな文章ばかりで読む気がなくなりかけた私。
もう一作読んだら、今日は終わろう、そう思ってまた作品を手に取った。
作品名は気に入ったが、名前がいいだけの作品も見てきた。あまり期待はせずに読み始めた。
すると何万文字も並ぶ文字に目を通すたびに、私は驚きが増した。
なんで、こんなにこの物語にのめり込んでいくのだ。
何百、何千、何万と読み、時には書いてきた私。
でも、これほどまでに素晴らしい作品は見たことはなかった。
決して文章力がある訳でもない。
なのに、なんでここまで心が惹かれるのか。
読んだ本の数が三千冊を超えたあたりから、涙を流すことはなくなった私。
どんな作品も同じように見えた私の目からは、透明な涙がこぼれていた。
私は気になった。
どんな人が、この作品を書いたのか。
調べてみると、それはなんと高校二年生の男の子が書いたものだったんだ。
私は電話で彼に直接話を聞くことにした。
すると、彼は快く受け入れてくれた。
あの作品を作った経緯や書いていた時の彼の心情を事細かく聞いた。
そして、また驚かされたんだ。
この物語は、彼自身の経験をもとに作られた作品だと。
そして、最後に彼は言った。
「僕がまた作品を書くでしょう。しかしこれ以上の作品を書くことは、絶対にできないです」
と。
第一章
何事もない、平和な学校生活。
人間関係に悩みもなくいて、趣味もあって、思い描いた高校生活だった。
でも、僕は部活には入っていかった。
それは、僕の趣味である、小説を書くことが部活に入ると時間的にできなくなってしまうからだ。
誰にも、この趣味は言っていない。
親にも、先生にも、もちろん友達にも。
だって僕の作品を、知人に見られたくない。
単純に、恥ずかしいし。
だから僕はネットの中で、小説を書いて投稿している。
「…おっ」
学校の休み時間中、僕はスマホを開いた。
そして、小説がアップできるアプリを開く。
そこに、運営からの通知が来ていたんだ。
きっとこれは前に応募した、小説大賞の結果報告だろう。
少し震えた指先で、液晶画面をタップする。
徐々に映し出されていく画面。
「…くっそ」
思わず机に突っ伏してしまった。
結果は、落選。
これを含めて今まで四回応募したが、一度も一次審査すら通ったことがない。
やっぱり僕には才能がないのかな。
そんなことを頭の片隅で考えながら顔を上げる。
すると、僕の小説に何かコメントが付いていた。
名前は、Y。
随分適当な名前だなって思うけど、特に気にせずコメントの内容を見る。
『作品、読ませていただきました!!すごく感動したし、どんどん読み進められました!!きっとこれなら、大賞取れますね、頑張ってください!!』
このコメントを見て、少し心があったまった。
結果、落選してしまったが、一人でもこう言ってくれる人がいるのはうれしい。
僕はそのコメントにいいねマークを付けておいた。
すると、無意識に口角が上がった。
そんな僕の様子を見ていた、僕の前の席に座っている、柳雨音がこちらを冷たい目で見た。
「何にやにやしてるの?気持ち悪いよ」
「ご、ごめん」
丸眼鏡の奥からこちらに向けられる視線が、酷く冷たく、鋭かった。
彼女はこのクラスの中でもなかなかの美女で、狙っている人も多いとかなんとか。
まあ色恋沙汰は僕から一番遠い場所の話だ。
ましてやクラスの中心にいつもいる彼女。僕からしたら高嶺の花だな。
彼女は委員長も務めており、気の強い性格。成績も優秀らしい。非の打ちどころもないような彼女。
でも僕みたいに基本的に無気力な人間は嫌いなようで、よく怒られている。
彼女の性格的に許すことができないのだろう。
「一人でさっきから何見てるのよ」
席を立ちあがろうと、椅子を引いた彼女の様子を見てスマホの電源を消す。
彼女は僕のスマホの画面をのぞき込んできたが、何も映っていないのを見て少し怒ったように僕を見た。
「何隠してるのよ。もしかして、そういうサイト見てたの?やめてよ、こんな場所で」
「そんなもの見てないよ!!」
とんでもない誤解をされかけたせいで大声を出してしまった。
彼女は少し目を見開いて、僕のことを見ていた。
「夜宵くんって、そんな声出るんだね…」
僕の声がいつも小さいことは知っているが、そんなに驚くことだろうか?
「あられもない誤解されたらそりゃ焦るよ。あんな声も出るにきまってるじゃん」
「そうなんだ。てかこんな会話どうでもいいから、何見てたか教えなさいよ」
「…黙秘権を行使します」
「なんでそんなに見せたくないのよ」
呆れたようにため息をついた彼女。
丸眼鏡の奥の瞳は相変わらず、僕のことを冷たい目で見ている。さすがに僕でもそろそろ傷つきそうだ。
「なら別にいいわ。でもにやにやしないでね」
彼女はまた自分の席へと戻っていった。
別に僕が何見てようが、彼女には関係ないし、仮に言いふらされたりしたらめんどくさい。だから絶対に、学校の奴にも見せない。
「おい影虎~今日お前日直だぞ、黒板消せよ~」
クラスメイトにそう言われて、今思い出した。僕は今日、日直だ。
次の授業が始まるまで約二分。黒板にぎっしり書かれた数式。間に合うか微妙なラインだった。
すると、柳さんが立ち上がった僕の方を見た。
「あれだけの量、一人で消すの大変でしょ。私も手伝うから、早く消すわよ」
「うん…ありがと」
「どういたしまして」
彼女が人気な理由は、こういうところにもあるのかもしれない。
困っている人には、自分の利益など考えずに助けに行く。委員長としての責務を全うしているところ。
そんな彼女の勤勉さも、彼女が慕われる理由だろう。
そんなことを思いながら、二人で黒板を消していた。
もう太陽が西の空の低いところにいる時間帯。
それでも、夏の今は暑い。ただ帰宅するだけでも汗が出る。
べたべたと背中にくっつく肌着が不快で仕方がなかった。
僕の家は歩いて十分ほどの場所にあるが、今の時期はそれが長く感じる。
逃げ水が見えるようなコンクリートの道路が、林だったらもう少し涼しいのかな。
そんなあるはずもない妄想をしていた。
重い足を動かしながら歩いていると、ふと後ろから肩をたたかれた。
ゆっくりと後ろを向くと、そこにいたのは父親だった。
「よっ、影虎。お前も帰りか?」
スーツ姿の父親は制服の僕なんかより暑そうに見えた。
人に愛されるような笑顔をしている父親のことを、僕は覇気ない笑顔で見る。
「そうだよ…お父さんはこんな暑いのに、元気だね」
「お前は若いのに元気がないな」
また冗談のように僕に笑いかける。
二人肩を並べて帰路を歩く。僕の影の横に、もう一つ影ができた。その影は、僕たち自身の体の何倍も大きかった。
「ただいま~」
「ただいま」
二人一緒に玄関に入る。特に何の特徴もない一軒家の家。ここが僕の家だ。
奥からパタパタと走ってくる音が聞こえた。
そしてひょこっと、小柄な僕の母親が顔を出した。
「あら、二人一緒なんて珍しい。おかえりなさい」
「たまたま道で会ったんだよ。それより今日のご飯は何かな~?」
「今日はお父さんが大好きな、アジフライよ」
それを聞いた父親の目が、まるで子供かのように輝いた。
「やった!!急いで着替えてくる!!」
父親は革靴を脱いで、二階の自分の部屋へと駆けていった。
つくづく僕は、父親が子供みたいに感じる。
僕はゆっくりと母親へと視線を向けなおした。
「ねえ…あの話本当なの?」
僕がそう聞くと、母親は苦笑しながら口を開いた。
「確かに、あの様子を見ていると疑うのも仕方ないわよね。それでも本当なんだよ」
呆れたような笑顔をした母親。でも本当は父親のことを尊敬して、愛しているのだろう。
すると、キッチンからピピピっとタイマーの音が鳴り響いた。
その音に母親は急いでキッチンへと向かっていった。
なんだかんだ、二人とも似てるんだよな。だからこそ、夫婦なんだろうな。
僕も少し汚れている運動靴を脱いで、自分の部屋へと向かった。
とある日、母親は僕に告げたんだ。春先の風を感じるころ。なぜその時、その日だったのかは知らない。
父親は、小説家だったらしい。
小説の中の、ライトノベル。学生に向けての小説を書いていたらしい。
数作品、書籍化されているほどの小説家だったんだ。
若い年代の人たちの悩みに寄り添うことができるような物語が、多くのファンを集めた。
しかし、僕が生まれたと同時に、小説を書くことをやめたらしい。
母親がいくら問いただそうとも、父親はそのわけを言わなかった。
突然の電撃引退。ファンたちは驚きつつも、お疲れ様などの温かいメッセージを送った。
そんな父親が、僕が子供のころからよく言われたことがあったんだ。
「いいか、影虎。希望っていうのは、人から与えられるものだ。だからこそ、お前は希望を与えることができる人間になれ」
小さいころ、僕はその言葉を理解できなかった。でも、今ならなんとなくわかる。
小説家という、人の目に触れやすい文章を書く人間だからこそ、多くの人間に希望を与えてきた。だからこそ、僕にもそんな人間になってほしいと思っているのだろう。
同じように小説を書く立場になって分かったことだけど、思った以上に人の印象に残る文章を書くことは難しい。
大体の場合、その場で面白いって思われても、すぐに忘れてしまう。
それはただのその時の暇つぶしと大差ないのだ。
でも、父親が書いてって言われている文章は一生心に残り続けるものばかりだった。僕に人生の生き方を、人の気持ちを教えてくれたのは、その文章だった。
今だって、僕の心の中にある。
僕はこんな小説を書かないといけないのに、ただただ文章量だけ盛って長編作品を書くことしかできないんだ。
そんな僕が希望を与えられるわけがない。そう、何回自己嫌悪に陥ったことか。
それでも折れずに書いてこれたのは、僕の小説を読んでくれるファンがいたからだ。
さっきのYだってそのうちの一人だ。
たくさんの応援や慰めのコメントをしてくれて、僕の小説を毎回楽しみにしていてくれる。そんなファンがいるからこそ、僕はまだ書いているのだろう。
人に希望を与えることができる、ただそれを目指して。
翌朝、眠い目をこすりながらまた今日も登校していた。
大きく口を開けてあくびをして、新鮮な空気を肺の中に入れる。朝の綺麗な空気は、いつもよりほんの少しだけおいしく感じた。
基本的に僕は、朝早い時間に登校している。そのため学校の人会うことは少ない。
その分気楽に、ゆっくりと歩いていくことができるから好きだった。
東から上る太陽が、街を照らしている。夕焼けのように赤くはなく、白くて優しい日差しだ。
いくら日差しが優しいといえど、暑いことには変わりない。朝だから幾分かはましだが、歩いていると汗をかくくらいは気温が高い。
一度立ち止まって、カバンを開く。中から水色一色のタオルを取り出して、首筋やこめかみなどを拭く。やっぱりタオルを持ってきて正解だったな。
過去の自分の行動をたたえながら立ち上がる。
すると目の前に、見覚えのある制服の女子が立っていた。ピシッと着こなされた制服はしわ一つもない。この制服は、絶対に…
「…おはよう、柳さん」
「こんなところでしゃがみこんで、何怪しいことしてるのかって見に来たら夜宵くんか。おはよう、何してたの?」
「カバンからタオルを出してただけだよ」
彼女のメガネが、太陽の光を軽く反射している。いつも以上になんだか厳しそうな見た目だ。
僕は手に持っているタオルを見せつけると、興味なさそうに方向転換をした。
「そ。怪しいことしてないならいいわ。学校に行きますよ」
歩き始めた彼女の横を、僕も歩く。
こんなに制服をしっかり着て、暑くないのかな。汗もほとんどかいていないように見える。
すごいな、やっぱり優等生だと汗をかかないものなのか?
「…ねえ」
その言葉で、ハッとする。意識が現実に引き戻された。
「見るなとは言わないけど、そんなじろじろ見ないで」
「す、すいません」
不快そうな目で僕のことを見ていた彼女。
また怒られてしまったなって内心げんなりしていた。すると、彼女が少し長めの髪を指で掬い、耳にかけた。
「私の顔に、何かついてたの?」
心なしか、少しほほを赤らめていた。
もしかして、僕が彼女を見ていた理由は、何かついていたからだと思っているのか?意外とかわいいところもあるのだなと、驚いてしまう。
「いや…何もついてないよ」
「じゃあ何で見てたのよ」
「…黙秘権を行使します」
「昨日も聞いた!!」
少し声を荒げながら、僕の回答に文句を言う。
女子だから、僕よりか身長は小さい。ちょっとだけ上を見ながら怒っている姿はなんだか可愛らしかった。
「隠し事ばっかりしないでよ。秘密が多すぎるのはよくないよ」
「そうかな。別に僕はいいと思うけど...」
彼女は少し頬を膨らませた。
まるで漫画やアニメで見る、典型的な怒り顔のような感じだった。
「友達が秘密ばっかり持ってたら、気分が悪いの。別にそんな悪いことをしているんじゃないんだったら、言ってくれてもいいのにって私は思うの」
「そんな単純な話でもないんじゃないの?どうしても知られたくないこととかもあるでしょ」
すると彼女は僕のことをちらっと見た。
「そんなこと言うってことは何か知られたくないことがあるってこと?」
僕は墓穴を掘ってしまったらしい。
もしかすると彼女はここまで計算をして、話を進めていたのだろうか。それだとしたら、まんまと引っかかってしまった。
僕は答えることができないでしどろもどろしていると、彼女の視線が逸れた。
「まあ、私もあるから何にも言えないけどね」
その彼女の声色はいつもと違って、なんだか少し暗いというか、悲しげというか。
そんな彼女の声を聴いたことない僕は、彼女にどう声をかければいいかわからなかった。
ただ彼女のことを見つめて、歩くことしかできなかった僕は、臆病なのだろうか。そううじうじとまた考え込んでいると、背中をバシンと叩かれた。
「うおっ!?」
「そんな顔しないで。別に私は悲しんでるわけでも何でもないの!!いちいち女々しく考えなくていいから」
背中をバシバシたたく彼女は、酷くまぶしい笑顔だった。
いつも怒らしてばかりだったけど、人を慰めるときは、こんな顔するものなんだなって思った。表情をうまく使い分けれている彼女。様々な色が映し出される彼女の表情は、見ていて飽きないものだった。
「早く学校に行くわよ。今日は数学の小テストがあるんだから、勉強しないと」
「えっ!?そんなの言われてたっけ!?」
「言ってたわよ。今ならまだ間に合う、急ぐわよ!!」
そう言って駆けだした彼女の後ろを追いかける僕。
まだ暑さが本気を出していない街を、二人で走っていく。
今日はきれいな、晴天だった。
彼女が言うように、本当に数学の小テストが実施された。彼女に忠告されなければ、酷い点数を取っていたことだろう。感謝を伝えておくことは必要かな。
六限目が終わって、各々が帰る用意を始めているとき、僕は彼女の肩をたたいた。
すると少し不思議そうに振り返った彼女。
「どうしたの?」
「いや、今日の朝、小テストがあるって教えてくれてありがとうって言いたくてさ」
僕が少し視線を逸らしながらもそういうと、彼女は口元を抑えて笑った。
僕はその笑顔の意味がうまく汲み取ることができなかった。
「な、なんで笑ってるのさ」
「いや…ふふっ。変なところ真面目で、面白いなって思っただけだよ」
彼女はいまだに笑っていた。まるでそれは面白いものを見た時かのような笑顔だった。
するとまた、彼女が口を開いた。
「別にいいわよ。ていうか当たり前じゃない。教えることも、委員長としての役目でしょ」
今度の笑顔は少し、大人びてて艶めかしかった。
同じ笑顔でも、様々な笑顔を持っている彼女はすごいって思う。
たとえるなら、同じ青色でも、何百色とあるような感じだ。表情という名の色をたくさん持っている彼女。僕なんかせいぜい持っていても五色くらいだ。
笑顔、怒り、悲しみ、呆れ、喜び。
しかも彼女のように一つの表情ごとに、何色も持っているわけじゃない。
それだけたくさんの表情を使うことができる彼女に人気があるのは、必然なのかもしれないな。
「まあどうにしろ、助かりました」
「別に教えること自体に不満はないけどさ、しっかり覚えておいてもらわないと。いつでも教えれるわけでもないんだからね」
なんだかツンデレ味を感じる。
彼女のような人物をもとにして、小説を書いてみるのも悪くないのかもしれない。
いいネタが浮かんで、小説を書く気があふれだしてきた僕。
早く家に帰って、執筆を始めよう。そう思って、カバンを持ち上げた。
「それじゃ、柳さん。僕はこのあと少し用事があるので、帰ります」
「あっ...」
彼女は僕に向けて手を出しかけた。でも、すぐにひっこめた。
彼女からこぼれた小さい声を、僕の耳はしっかりととらえていた。
「どうしたの?」
僕がそう聞くと、彼女は少し視線を逸らしていた。でもはっきりと、呟いた。
「どうせなら、一緒に帰りましょ...」
「…え、僕と?」
こくりと頷く彼女。どうしよう、なんだか彼女に対してのイメージがつかめなくなってきた。
気が強くて委員長気質、様々な表情を使いこなすツンデレ…
なんだろう、ギャルゲーのヒロインみたいなイメージに変わりつつある彼女。
「別にいいですけど、なんで僕と帰りたいの?」
「いや…せっかく一緒にいるんだから、一人で帰りたくないじゃない」
いまだに視線が合わないままの彼女を見て、僕まで少し照れそうになる。
意外と彼女は乙女なんだな。今までずっと、一人で生きていける女性としか思っていなかったが、彼女も一応年頃の女の子だ。
勝手に僕が、侮りすぎただけなのかもしれない。
「いいですよ、帰りましょう」
そう答えると、彼女の表情はパッと明るくなった。そして、カバンを持ち上げた。
「さあ、帰るわよ!!」
「はいはい」
嬉しそうな彼女の横に、僕は彼女の思うままにいてあげようと思う。
そんなこと思いながらも、少しだけ楽しく思えてる僕も乙女だな。
「行きも帰りも人と一緒とか初めてかも」
「え、ほんとに?」
特段仲がいい友達もいずに、たまたまあったら一緒に行ったり帰ったりするくらいの関係性しかなかった。
だからこそ、おんなじ人が長い時間隣にいることは慣れていなかった。
「まあ、特別仲いい人もいないし」
「それは夜宵くんが全然人と関わろうとしないからでしょ。趣味とかないの?」
「なんで趣味を聞くのさ」
「それをきっかけに仲が良くなる人とか見つかるかもしれないでしょ」
「別にほしいとは言っていない」
「強がりだね。いいから答えなさい。ちなみに、黙秘権はないからね」
すでに黙秘権を使うことが読まれていたか。
まあ二回も使ったし彼女も学ぶことだろう。今は逃げるよりも、どう嘘をつくかを考える方が得策だな。
その時パッと目に入ったのは、ぎらぎらと燃えている夕陽。
それはあまりにもきれいで、いつまでも見ていられる。一瞬見えただけでもそう思えるくらいだった。
僕はゆっくりと夕陽を指さした。彼女は少し不思議そうに僕を見る。
「夕陽を、眺めることかな」
太陽を見つめたまま、僕はその場に立っていた。
なんか文句言われるかな、そう心のどこかで思っていた僕。でも、彼女の反応は僕の斜め上を行った。
「…うん、わかる。私も、よく一人で見つめてるよ」
その返事に、僕は思わず彼女の方を向く。
すると彼女は僕ではなく、夕陽を見つめていた。その目は少し、いやだいぶ感傷的に見えた。
僕はそれを見て思った。美しい、と。
彼女は夕陽に照らされていた。光を受けて輝く宝石のようだった。
「朝日じゃなくて、夕陽を見るのが好きかな…夕陽の方が、暖かい気がしてさ」
しみじみと呟く彼女。それは趣味なんかじゃなく、それがないといけない、そう感じさせるような言い方だった。
僕は思わず、彼女に一歩近づいた。
なんだか、彼女が泣いてしまいそうに見えたから。
でも、彼女はくるっと踵を返して、歩き出す。
「ちょ、待ってよ」
「夜宵くんにしては、いい趣味持ってるじゃん」
さっきの表情とはうって変わって、好感を持ったかのような笑顔。いつも彼女が教室でしているような笑顔だった。
こっちの方が彼女らしいとは思うけど、さっき見せた一面が忘れられなかった。
彼女の弱い部分のような。彼女の悲しそうな表情が。
なんでそんな顔するの、そう聞きたかったけど、踏み込んだらいけない気がした。
だから僕は、また彼女の横に並んで歩く、それが精いっぱいだった。
第二章
金曜日の夜。
明日からの休みを楽しみにして、夜更かしをする学生は多いだろう。
まあ僕もそのうちの一人だ。小説を書いて、日付を跨ぐなんてざらにあった。
今は小説を書くためのちょっとしたモチベーションがある。それが、僕が好きな出版社がやっている、小説大賞だった。
このコンテストで大賞を取れば、書籍化もされるらしい。
正直言って、大賞をとれる自信などないがゼロパーセントでもない。
もし書籍化なんてされたらという妄想に浸りながら、小説の構成を練っていた。
様々に浮かび上がるイメージはあるものの、それもありきたりなものばかりでいい作品が書けそうもなかった。
いったん考えることをやめて、ベットに仰向けになり、天井を仰ぐ。
読んでいて感動する本というものは、どうやって生み出されるのだろうか。突然天から降ってくるものなのか?そんなはずはない。
きっと自分の経験も織り交ぜて、自分が一番感動すると思うストーリーを小説にして書いているのだろう。僕はまだ経験したものの数も少ない、ただのしがない高校生だ。
その点、僕はハンデを背負っているような気がして不平等に感じた。
でも実際、僕より若くても書籍化を成功させている小説家たちもいるわけだ。
それはもう、才能なのだろうか。そんなこと考えてしまったら、もうどうすることもできないように感じてきた。
頭をぶんぶん振って、そんな考えを振り払った。
すると、スマホに何か通知が来ていることに気が付いた。液晶画面をタップし、開くとこの間の一万文字程度の短編小説にコメントが付いていた。
やはり、そのコメント主はYだった。
『今回も読ませていただきました!!すごく読みやすくて、物語に没頭できました!!今回も素晴らしい作品ありがとうございます!!次の投稿を楽しみに待っています』
やっぱりこの人のコメントを見るたびに、口角が上がってしまう。
いつでもこうやって感想を言ってくれる人がいるのは幸せなことだ。心があったかくなって、もっとたくさんの物語を届けたいと思う。
スマホを弄っていると、もう一つコメントが付いていることに気が付いた。
その送り主は見たことない名前の人だった。
『文章構成下手すぎ。小説を舐めるな』
それを見て、少しだけ落ち込む。
別に僕の小説を罵られたことはどうでもいいが、こうやって見に来た人のことを不快にするようなコメントはやめてほしかった。
何かコメントで反論してやろうかと思ったが、さらにその場の空気を乱したくないからやめた。それでもなんだかむしゃくしゃが止まらなかった。
だから小説のことなんか忘れて、ふて寝をした。どうしようもなく虚しい気持ちだけが残っていた。
そのままぐっすりと熟睡をしてしまい、金曜日の夜を超えて、土曜日の早朝に目を覚ました。まだ寝ぼけている眼で時計を見ると、午前五時の少し前を指していた。
二度寝することを考えたが、妙に目が冴えてしまう。
確か昨日寝たのは午後十時半ごろだ。
人間の睡眠循環時間として、一時間半ごとに一番眠りが深くなるらしい。だから、ちょうど眠りが浅くなってきたころに起きたから目がさえているのだろう。
どこで聞いた雑学だっけ、これ。忘れちゃった。
まあ今はそんなことどうでもいい。起きてしまったし、何かした方がいいのかな。
いつもこんな時間に起きることがないせいで、何をすればいいのかよくわからない。
まあよく小説にも出てくるし、散歩でもしてみようかな。
思い立ったが吉日だ。気の変わらないうちに服を着替えて行ってこよう。
今の時期は日中こそ暑いものの、朝となれば話は別だ。ひんやりとした風が頬を撫でる。
それが心地よくて、週に一回くらいこんなことをしてみるのもありだなとか、なぜか上から目線に考えていた。
いつも通る道でも、周りに誰もいなくて薄暗いと見たことがない道のように見えた。
カーブミラー、信号機、電柱、なんてことないものばかりのはずなのに、酷く新鮮で面白く感じた。
そんな風に周りに興味を持ったまま歩き回っていると、家から徒歩十分ほどの公園にいつの間にかついていた。
ブランコ、滑り台、ジャングルジムなどがある少し大きめの公園。僕はなんだか楽しそうに見えて、公園に足を踏み入れた。
犬の散歩をした老人が一人。それ以外は僕しかいない、と思った。
よく見ると、ベンチに誰か座っている。まあ別に変な事でもないし、スルーしようと思った。でも、横を通った時、気が付いたんだ。
「…柳さん?」
「え…なんでいるの?」
なんでいるの、は少し傷つくがまあ気持ちはわかる。
公園で、ましてや早朝だ。同級生と会うことなんて予測もしていなかっただろう。
まあ僕もそれは同じだったけど。
「なんだか早く目が覚めて、暇だったから散歩してた。そっちはなんでいるの?」
「私、は...」
彼女は少し俯く。僕はその行動に少し首をかしげる。
すると張り付けたような笑顔をして、顔を上げた。
「体づくりのために、ウォーキング!!毎週土曜日しているの」
なんだか僕はそれが嘘のようにしか見えなかった。質問をしたときのあの行動。
何か隠しているのだろうが、僕にそこまで踏み込む権利はない。
「暇なら少し話していこうよ」
彼女は体を横に動かして、ベンチの手前側に空間を作った。ここに座れという意味なんだろう。僕はそこに腰を下ろした。
歩くことに夢中になっていて気が付かなかったが、思っていた以上に足が疲れていた。
足の裏がじんじんとしていた。運動不足過ぎるかもしれないな。
「なんで散歩してみようって思ったの?」
「いや、早く起きたからって言ったけど」
「違うって。早く起きてもさ、運動が嫌いそうな夜宵くんなら家にいそうじゃん。なんで外に行こうと思ったの?」
なんか今失礼なことを言われた気がする。
悪びれる様子もなく言う彼女に若干ムッとしながらも、無視をする。
「別に。前読んだ小説で朝の散歩が気持ちいいって言ってたからだけだよ」
「へ~小説とか読むんだ。どんなジャンルのやつ読むの?」
「僕が好きなのは基本的にライトノベルかな。青春とか、純愛系の甘酸っぱいやつ」
「私もそういうの好きだよ。よく、スマホで読んだりするな~」
なぜだか少しうれしそうに笑っていた。
足を浮かして、ぶらぶら揺らしていた。そんな彼女のことを見てなぜ喜んでいるのか理解できなかった。
「なんか意外だな~夜宵くんがそういうの読むのって」
「意外とは何だ。僕だってそういう小説呼んでもいいでしょ」
「ダメとは言ってないし」
少し唇を尖らしている彼女は、酷く子供っぽかった。僕のイメージとはだいぶかけ離れた彼女の姿だった。
なんだかんだ最近彼女と関わる回数が増えてきた気がする。
それは何でなのだろうか。
別に不満であるわけではないが、不思議だった。
「夜宵くんも意外と普通の高校生なんだね。てっきりほかの人とは違うっ…とか思ってる人かと思ってた」
「え…僕ってそんな中二病みたいに見えてるの?」
彼女はからかうような笑顔を浮かべて、こちらを見ていた。
「まあね。教室では友達いるのに一人でいるし。眼鏡かけてるし」
「いや、眼鏡は偏見でしょ。それだったら柳さんもかけてるじゃないか」
「確かに…でもまあ、そんな風にみられてるんだよ」
それに関してはだいぶショックだった。
そりゃ中学生のころは僕は特別な存在とか思うこともあったが、今はない。なのに、そんな風にみられてたんだ…。
思わずその事実に項垂れてしまった。
そんな様子を見て、声を上げて笑っている彼女。
「あははっ!!そんな落ち込むことないって!!少なくとも私は今イメージが変わったんだからさ」
「まあ、そうだけどさ...」
それで言ったら、僕の中の柳さんのイメージもだいぶ変わった気がする。
品行方正で笑うとしても口を押えて上品に笑う。それがもともとのイメージだったのに。
確かに品行方正ではあるが、笑うときはほかの人と変わらないように笑う。思ったより普通の高校生、それは僕も同じ感想だったんだ。
「朝から面白かったなぁ。いい一日になりそうだね」
「僕をバカにしただけじゃないか。僕は朝からメランコリーな気分だよ」
鹿野城はベンチから立ち上がり、くるっとこっちに体を向けた。
「ありがと、元気出たよ。また学校でね」
そう言って僕の返事を待つこともなく、歩いて行ってしまった。
僕はそのベンチに座ったまま、少し空を見上げていた。彼女と話しているうちに、空は明るくなりきっていた。
彼女から感じた違和感は何だったんだろう。
最後に言っていた、元気が出たという言葉。それは逆に考えると、もともとは元気がなかったということにもとらえられる。
彼女と会って最初の質問。そのあとの彼女の行動といい、やっぱりなにかあったのか。
心のもやもやが晴れることはなく、鬱陶しく心に渦巻いていた。
月曜日、今日も今日とて学校に登校した。
何の代り映えもしない日々に飽き飽きする。欠伸をして始業を待ちながら、スマホを触っていた。
すると意外と早く時間が過ぎていたのか、担任が教室に入ってきた。
スマホをカバンにしまい、前を見る。すると、違和感を感じる。
その違和感の正体はすぐに分かった。目の前の席に、人がいないことだった。僕の前の席は、柳さん。土曜日の朝に出会った彼女だった。
「えー今日は柳さんは風邪のため休みとなります」
先生のその声に、クラスメイトがえ~と不満そうな声を上げた。
まあ人気者の彼女が休めばこんな声も出るだろう。僕には関係もない話だが。
それでもなんだかいつもよりも視界が広くて、落ち着かなかったのは何でだろう。
別に目の前の人がいないだけなんだ。それが落ち着かない理由にはならないのに。この胸の中の空虚感は何なのだろうか。
それを機に、彼女が学校に来ることはなくなってしまったんだ。
最初の方は風邪だと言っていた先生も、彼女について触れることすらなくなった。
クラスメイトだって、彼女の話をしていてばかりだった。
何かが原因で学校に来れないのだろうか。じゃあ、その原因って何だろう。
そんなの僕が知る由もなかった。
でも、なんでだろう。今までだって、学校に行くことは憂鬱だった。
それなのに、彼女がいない学校に行くとなると、今まで以上に足が言うことを聞かなくなった。
理由は単純だ。彼女と会話をすることがいつの間にか楽しみになっていたのだろう。
今まで人と関わることも少なかった分、依存しやすいだけなのかもしれないが彼女が僕と話してくれるのが嬉しかった。誰かと笑いあえる関係を持てていることが嬉しかったんだ。
だから、そんな楽しみもない学校に行くのがつらいんだ。
一度覚えてしまった嬉しさを忘れることは難しいんだ。
一度慣れてしまったいい環境から、悪い環境に戻ることは難しいように、僕は彼女と話す環境に慣れてしまったせいで今がひどくつまらなく感じる。
昔はこれが普通だったはずなのに。贅沢な心になってしまったな、僕も。
そんな少し恥ずかしいことを思いながら下校していたある日のことだった。
僕は見つけた。制服姿じゃない、私服姿の柳さんのことを。
嬉しかったんだ、彼女ともう一回会うことができて。僕は駆け寄ろうとした。でも、できなかったんだ。
彼女は俯いたまま、絶望と書かれたような顔をしていたんだ。
おもわず、伸ばしかけた手を引っ込めてしまった。
「や、柳、さん?」
上手く声も出ないで、詰まってしまった。
でもその声はしっかりと彼女のもとに届いた。彼女は足を止めてこちらに振り向いた。
そして少し目を見開いて、また前を向いて歩き出そうとする。
僕には何で彼女が僕から逃げようとしているかがわからなかった。でも、このまま一人にさせたらなんだかいけない気がした。
だから僕は足を踏み出して、彼女の腕をつかんだ。
「…何、触らないでよ」
彼女の声はひどく低くて、暗かった。そんな声に僕は一瞬手の力が緩みかけたが、もう一度ぎゅっとつかみなおした。
「そんな暗い顔してるのに、一人にできないよ」
「…何かっこつけてるの。気持ち悪いんだけど」
彼女は僕の心にわざと刺さるような言葉を選んで会話をしていた。
そこから僕はあからさまに拒絶しているさまが感じられた。関わりたくないという気持ちが十分に伝わってくる。
「何があったのさ。学校にも来ないで、そんな暗い顔をして」
彼女は深く俯いて、前髪で顔を隠していた。
「…なんでそんなに他人のプライベートに土足で踏み込んでくるのよ。失礼だと思わないの?」
「そ、それはさ...」
「何言い訳してるの。何も間違ったことを私は言ってないでしょ」
彼女は酷く苛立った様子だった。
酷く鋭い彼女の言葉は、矢のように僕の心に突き刺さる。
「だ、だって…辛そうな顔してるのに、ほっておけるわけがないでしょ!!」
「だからそれが迷惑なんだって!!」
顔を上げた彼女の目元は、赤く腫れていた。泣いていたのか?
彼女は目元に涙をためたまま、叫ぶ。
「別に私がつらそうな顔してたって関係ないじゃん!!なに、ヒーローぶってるつもりなの!?うざいし、いい迷惑なんだよ。私のことを…私の気持ちを何にも知らないくせに!!」
手を振り払って、歩き出そうとする彼女。
僕は思わずもう一度手を伸ばした。
「待って…!!」
でも彼女はその手をはたいた。
「だから触らないで!!もう、私と関わらないでよ!!」
僕はその叫びを聞いて、縫い付けられたかのようにそこから動くことができなくなってしまった。伸ばしかけた手は、情けなく空を切っていた。
家に帰った後、なんとなく僕は何もする気が起きなくてリビングのソファーで制服のまま転がっていた。
目の前で苦しんでいる人にすら手を差し伸べることができない自分が情けなくて、ダサくて。そのくせして、小説で人に希望を与えるなんて。できるはずがないんだ。
大体、僕一人でそんなことできるわけないんだよ。
なんだよ、人に希望を与えるなんて。そんなの一部の特別な才能を持った人たちができることだろ。多くの人に希望を持たせる物語を考えつけること自体、才能なんだ。
ただ小説家の息子である僕にできることじゃないんだ。
こんな子供っぽい夢は、叶えられない。叶えられるほどの力を持っていないんだ。
もう、諦めた方が―――。
その時、リビングにぱっと明かりが灯った。
「うおっ、影虎?いたのか。電気ぐらいつけろよ、びっくりした...」
仕事帰りの父親が胸に手を当てていた。
僕は向くりとソファーから起き上がった。父親はネクタイを緩めて横に座った。
そして、にやりと笑った。
「何か、悩んでるんだな」
さすが、父親だった。僕の顔をちらっと見ただけで悩んだことに気がつけることができるなんて。
僕はこの気持ちを伝えるべきか悩んだ。
どうせ父親のことだ、いつもみたいなテンションで軽く流される。
僕はまだ、認めていない。父親が、小説家だってことを。
嘘をつかれているだけなのかもしれない、いつだってそう思っていた。父親のものだって言われたあの文章だって、別の誰かのものなのかもしれない。
こんな能天気な父親の文章なわけがないんだ。
下唇を噛んだまま俯く。
「…何でもない、疲れただけだよ」
「…そうか」
ほら、やっぱり何も―――。
「疲れたんだな、心が」
「…えっ?」
僕は思わず顔を上げて父親の顔を見た。
その顔は笑顔だった。でもその笑顔はいつものような能天気なものではなく、人を愛おしむような笑顔だった。
「よく俺もそんな顔してたよ。小説のネタに悩んだり、何回もコンテストで落選した時はな」
懐かしそうに、思い出に耽る父親。
僕はそんな父親から視線が逸らせなくなった。
父親は優しい目つきで僕のことを見た。それは父親の目じゃない。誰かの悩みに寄り添う人の目だったんだ。
「どうしたんだ。何があったのか、教えてくれ」
「…僕には人に希望が与えられないんじゃないかって、思うんだよ」
父親は何も言わないで、僕を見つめているだけ。
それはまるで先を促すように。
「さっきさ、クラスメイトに会ったんだ。最近あんまり学校に来れないような子。そんな彼女がさ、暗くて、辛そうな顔をして歩いていたんだ」
思い出しただけで、苦しくなるようなあの顔。
何度も何度も見てきた彼女の笑顔と重ねてしまう僕。
どう考えてもわからなかった。どうやったら、もう一度彼女が笑ってくれるのかが。
「声をかけても、迷惑がられて。なんて言っても、彼女は笑ってくれなかった。目の前の一人すら希望を持たせることもできないのに、小説でたくさんの人に希望を持たせるなんて、できるわけないんだって、思うんだ」
その言葉に父親は眉をひそめた。
「僕はお父さんとは違う、才能のない人間なんだ…だから、希望を与えるなんてできなかったんだよ...」
だんだんとしぼんでいった声。ひどく情けなく、掠れたその声は二人しかいないリビングに弱々しく響いた。
すると、父親がようやく口を開いた。
「俺は、たくさんの人に希望を持たせろなんか言ったか?」
僕はその言葉が理解できなかった。
「言ったんじゃん。人に希望を与えることができる人間になれって」
「あぁ、俺はそう言ったんだ」
「だから、なにが…!!」
「別にたくさんの人に希望を与えられるようになれとは言ってないぞ」
僕はそれにハッとした。
それでもすぐにまた父を軽く睨む様な表情になる。父親をまっすぐ見る。
「でも、小説を書くってことはそういうことでしょ。多くの人に目に触れられるんだから、多くの人を救えるような物語を書かないと」
「…申し訳ないが、お前の考え方が、俺は大っ嫌いだ」
僕は少し驚いてしまった。
いつもニコニコ笑っている父親が、今は僕の顔を見て怒っていたんだ。
そんな初めてのことに、思わず喉に言葉が引っかかってしまう。
「お前のその考え方、それはただ有名になりたい、お金を稼ぎたいだけだという欲望の表れなだけだ」
「そ、そんなつもりは…」
「ないって思っていても、心の奥底ではそう思ってるんだ。多くの人に希望を与えることが目的になったらいけないんだよ」
父親はいつもの笑顔がどこに行ったのかわからないくらい、真面目な顔をしていた。
小説を書いていたっていうのは、本当、なのかな?
「俺が書いていた物語は、結果的に多くの人に希望を与えられたのかもしれない。でも、本当はあの物語は一部の人たちに向けての物語だったんだ」
「え?どういう...」
僕は困惑していた。
「別に多くの人の目に触れられようが、一人にしか届かなくたって関係ないんだ。たとえ一人でも、その一人が自分の小説で希望を持つことができたらな、十分なんだよ」
「なんで?たった一人よりも多くの人に...」
「だからお前はできないんだ」
父親の力強いその声にビクッとする。
こんな声、聴いたことない。
「自分の作品を気に入ってくれている一人すら大切にできないくせに、大人数を思うことなんてできるわけがないんだ」
父親のその言葉は、何か聞いたことがあるような、見たことがあるような。
僕は自分の記憶をたどっていた。すると、思い出したんだ。
昔に見せてもらった、父親が書いたといわれて見せられたあの本に書いてあったものだ。
誰にでも愛される、高校生アイドルの物語。
学校でも高嶺の花として扱われて、どちらかといえば孤立することが多かった彼女。
彼女自身もあくまでアイドル活動はお金稼ぎ、ファンはそのための財布としか思ってなかった。だからファンサービスもなく、可愛いけど性格の良くないアイドルだった。
そんな彼女だったからこそ、事務所で起きた不祥事がきっかけでアイドル活動ができない危険になった時、助けてくれるファンがいなかったんだ。
そのままアイドルをやめて、普通の高校生に戻った時彼女は虐められていたんだ。
アイドル時代の高圧的な態度を気に入らなかったクラスメイトなどが、グループになって彼女を追い詰めたんだ。
それでも助けてくれたのが、クラスメイトの不良の男の子だった。
彼女のことが好きなわけではない、ただ虐められている光景を見ているのが嫌だっただけだった。彼女はそんな彼に惹かれてアプローチを始める。
だけど彼女のアイドル時代を知っていた彼は、彼女など相手にしなかった。
少しずつ余裕がなくなっていく彼女に、彼が言った言葉。
「自分を愛してくれる人すら大切にできない奴に、俺は魅力を感じない」
彼女はその言葉で、自分が完全に拒絶されたことにひどく傷ついた。
それと同時に、自分がしていたことはどんなことだったかも彼自身を見たらわかった。
だからこそ、もう一度みんなに愛されるように、みんなを愛せるようになろうと思った。
これは父親が書いた小説の一部のシーン。
一言一句同じではない。でも、大体の意味は同じだった。
「自分の作品を気に入ってくれる人が一人でもいるんなら、愛してくれる人が一人でもいるんなら、その一人だけでもいいんだ。一人に希望を与えることができない人間に、大人数に希望を持たせることはできない」
父親はこういう心持ちで小説を書いてきたのだろうか。
確かに父親の小説が評価された点は、一人一人の気持ちが事細かく表現されていて、読者の人たちに寄り添えるような文章だった点だ。
でも、根本的に僕が悩んでいるのはそこじゃない。
僕が彼女を助けられなかったことだ。どうしたらもう一度、彼女のことを笑顔にできるのか。
それについて、悩んでいたんだ。今の話なんか、なんの関係も…。
「影虎。目の前の一人を笑顔にするには、どうしたらいいと思う?」
「…わかんないから、相談してるんだけど」
そんなのわかってたら、とっくに自分の中で解決できている。
できないからこそ、多くの人間の心に触れあってきた父親に聞いているのに。
僕は軽くイラっと来てしまった。
でもそんな僕をしり目に、父親は笑う。
「お前はきっと、その方法を知っているはずだ。俺から言えることは、それだけだ」
そう言ってソファーから立ち上がると、ゆっくりと自分の部屋へと歩いて行った。
そこまで言ったくせに、答えは教えてくれないのか。
でも、あの父親の意味深な笑顔。何か、僕が知っていると確信している顔だった。
僕も一度自分の部屋へと戻って、昔の記憶にもう一度遊泳してみようと思った。
第三章
自分の部屋へと戻って、ベットに突っ伏した。
父親の言っていた目の前の人を笑顔にする方法。それを僕は知っているらしい。
でも、いくら記憶をたどったところで、僕はわからなかった。
本当に僕が知っていることなのだろうか。そこすら疑問点であった。
昔、僕は泣いてばかりだった。
友達とけんかをして泣いて、転んで泣いて、ものをなくして泣いて。
だからいつも、慰められる方だったんだ。僕が人を慰めることなんかほとんどなかった。
それなのに、今目の前の彼女を笑わせるなんて無理な話なんだ。
仮に僕がその方法を知っていたとしても、初めてのことをそんなうまくできることできるわけない。
やっぱり僕には、人に希望を与えられることができないんだ。
彼女を笑顔にするのも、僕にはできないことなんだ。
小説を書くことなんか、もうやめよう。
その時間も勉学に当てた方が、きっと将来も安定する。僕みたいな人間は、こうやって地道に努力をしていかないと生きていけないんだ。
小説家みたいな、元から持っている才能を輝かせるような職業なんかには就けないんだ。
未練も、何もない。
僕は立ち上がって、自分のパソコンの前に立つ。
そしてわざとらしく荒々しく、パソコンを操作して自分の書いていた小説を全部消した。
これでいい、これでいいはずなんだ。
机に両手をついたまま、下を向く。少し、息が乱れる。
「はぁ…はぁ…僕は、何も間違えてない…」
ガタガタと震えている腕。なんで震えているのかすらわからないのに。
僕は正解を選んだ。そのはずなのに。
どうしてだろう。こんなに、心にぽっかりと穴が開いたような気分になるんだ。
数週間、彼女は学校に来ないままだった。
だんだん、彼女に関する話題もクラスの中では減っていっていた。
少しづつ忘れられていっている彼女。
どうでもいいって思っても、僕は気にしてしまうんだ。
僕が強くて、しっかりとした人間なら、彼女は今ここにいたのかもしれない。
彼女のことを考えないようにしても、ずっとここにまとわりついてくる。
学校での立場が、さらになくなった気がしたのは、自分の心の中だけだろうか。
だんだん自分に今まで以上に自信を持てなくなった。
すると、スマホに通知が来ていることに気が付いた。
それを開くと、小説を投稿していたアカウントにコメントが送られてきていた。
小説の原稿自体は消したけど、アカウントやネット上に投稿していた作品はまだ残ったままだった。
一番最後に更新した小説に、コメントが付いていた。
そのコメントは、またしてもYだった。
でも、Yのコメントを見るのはずいぶん久しぶりに感じた。
いつもは作品を出してから二日くらいでついていたコメントが、ここ一か月ほど止まっていたんだ。
その期間はまるで、柳さんが学校に来なくなった期間と被るように…。
偶然なのか、どうなのか。
何はどうあれ、僕はYのコメントを開いてみた。
するとそれはコメントというよりかは、手紙に近い文章だった。
『 宵の一時さんへ
いつも拝見させてもらっている、Yです。
ここ数週間、私の体調が優れずほとんど読めませんでした。
学校にも一か月ほど行けずに、ずっと家で寝たきりでした。
そして、私は病院で検診した結果、入院が決まりました。正直、小説すら読む気にもなれませんでした。
もう、私はあなたの作品を読むことはできません。今までたくさんの物語をありがとうございました。
あなたが大きな小説家になることを願っています。
Yより 』
僕はこれを見て、思ったんだ。
このYさんは、柳さんなのではないのか?
僕が投稿しているこのサイトは、スマホでも読むことができる。
そして何よりも、Yさんと柳さんは両方約一か月前から学校に来ていない。
仮に、あの土曜日にあった時が検査の日だとしたら。
あの質問に俯いた意味。去り際に言ったあの意味深な言葉。
すべてに説明が付く。
考えたくはない。だけど、僕の予想が間違っていないんだとしたら。
彼女の、学校に来れていない理由は病気なのか?
入院が決まって、その精神状態では学校に来れないのか。
僕が仮にそんな立場だったら、学校にはこれていないだろう。
考えうる、最悪のパターン。
それは、柳さんが病気で、入院することだ。
とある週末の日のことだった。
もう九月ももう終わりかけていた頃。僕は母親に頼まれて買い物に行った。
頼まれたものは、じゃがいも、にんじん、たまねぎ…。
今日の夜はカレーかな。そう思っていた。
でもメモのもっと下の方を見ていくと、みりん、酒、しょうゆなども書いてある。
これらはおそらくカレー用の調味料じゃないな。
だとしたら今日の夜はおそらく、肉じゃがじゃないかな。
そんな風に、頭の中で勝手に自分自身でクイズをしていた。
スーパーの中に入ると、一瞬身震いをした。
九月の終わりかけで、この冷房の設定温度は低すぎる。真夏だとしても少し寒いと感じるくらいじゃないか。
自分の肌をすりすりと撫でながら入り組んだスーパーを歩いていく。
じゃがいもなどの野菜たちは比較的に密集しているから、すぐに見つけられた。
問題は調味料たちだ。
置いてある場所が分かりにくいうえに、そのなかから家で使っている種類のやつを選ばないといけない。
これはなかなか骨が折れる。
しかし幸い時間帯は午後二時ごろ。
昼食が終わって一休みしている人が多いせいか、人は少なかった。
通路で混雑するということはなく、スルスルと通っていくことができた。
調味料コーナーにいて、たくさんある種類の中からメモで指定された種類のものをかごに入れていく。
調味料も全部入れると、かごはずっしりと重くなる。鍛えるという言葉から一番遠い場所にいる僕からしたら、このかごを持つだけで翌日筋肉痛になりそうで仕方がなかった。
レジに持っていき、店員さんに渡す。なかなかのおばさんに見える店員さんは軽々とそのかごを持っていた。少し鍛えないとな、とか思った今日この頃。
「合計で、1149円になります」
思ったよりも高いな…。
まあ調味料の酒はなかなかな値段がするっぽいし、野菜も少し高い。
財布の中から千円札二枚と四円を出す。
これで八百五十五円のはずだ。
「おつり八百五十五円となります」
ちょうど計算が合っていた。
心の中でガッツポーズをしながらも、表面には出さないようにおつりを受け取る。
ポケットにジャラジャラと小銭を入れる。
歩くたびに鳴る、金属同士がぶつかり合う音。
なんだかハッピーな気分になる。スキップでも始めてしまいそうな気分だった。
いつも通りの街並みを歩いていた時のこと。
病院の前を通るとき、ちらっと横目で見えた顔。僕はそれに思わず足を止めた。
忘れられることのない、暗い表情を張り付けたままの柳さんがそこにいた。
それでも僕は近づくことはできないで、そのまま見ていることしかできなくなっていた。
するとその視線に気が付いたのか、彼女がこっちをちらっと見る。
大きく目を見開くと共に、すぐに目を逸らして歩き出した。
僕はそれを見てようやく足を踏み出すことができた。病院の中に入っていき、あの時のように彼女の手首をつかんだ。
彼女はぎゅっと眉をひそめて、足を止める。こちらを向かないままで、口を開いた。
「…なに、前も言ったけど、触らな...」
「柳さんって、Yさんだよね」
僕は彼女の言葉にわざと被せる。僕の言葉を聞いた彼女の動きが固まる。
ちらっとこっちを見た彼女の目は、赤く腫れあがっていた。
「夜宵くん、何を言って...」
「僕だよ。宵の一時は僕だよ」
その言葉を聞いた彼女は、真っ赤に腫れた目をまた大きく見開いていた。
「柳さんだよね、僕の小説を好んでいてくれていたのは。いっつもあったかいコメントを書いていてくれたのは」
「……」
彼女は俯いた。つかんでいた手首から、彼女が震えていることが伝わって来た。
涙を流しているのだろうか。
僕はそれでも目を逸らさないまま、彼女のことを見つめていた。
「…って」
「え?…なんて...?」
「かえって!!」
顔を振りながら叫ぶ彼女。その周りを雨のように降っている、透明な涙。
必死に振り払おうとする彼女の力は、か細かった。
「前も言ったじゃん!!迷惑なんだって!!」
病院のロビーにもかかわらず、子供の様に泣き叫ぶ彼女。
周りから視線が集まりつつあった。その様子はまるで僕が彼女に嫌なことをしているように。
いや、でも実際彼女は嫌がっているんだ。
こんなにも取り乱して僕のことを拒否しているのだから。
「そうよ…私がYだよ…でも、そんなの関係ない。ただ一人、ファンが減っただけじゃん。どうでもいいよ、そんなこと...」
「どうでもよくないからこんなことしてるんでしょ!!」
彼女ばかりに叫ばすことはさせない。僕にだって、ため込んだ気持ちがあるんだ。
柳さんに会えなくなってから楽しくなくなって学校のこと。
いつまでも心に渦巻いて消えてくれない、柳さんの辛そうな表情。
そんな顔をしているのに助けることすらできない、僕自身の弱さ。
僕だって、文句しかないんだ。
こんなに弱い自分自身に、こんな残酷な運命に、文句がない方がおかしいんだ。
「たった一人でも、柳さんは大切なファンなんだ!!一人のファンすらも大切にできない人が、たくさんのファンを愛せるわけがないんだ!!」
父親が僕に教えてくれたこと。あの時はどうでもいいとか思っていたけど、やっぱり大切な事なんだ。
だって、この言葉は僕の心に残っていたから。
いつまでも心に残るっていうことはどうでもいいことなんかではない。忘れたらいけない大切な事っていうことなんだ。
「ねえ、前も言ったけどさ。そんな辛そうな顔をしているのに一人になんかできないよ。辛い気持ちがあるなら、僕にぶつけてよ」
柳さんはまたしてもあふれんばかりの涙をためていた。
苦しそうに漏れる嗚咽が妙にくっきりと聞こえた。その様子は酷く苦しそうで、見ていられないほどのものだった。
「もう、いいって…かえってよ、おねがい...」
物凄く弱い力で、押し返される。
普段ならびくともしないはずなのに。ふらふらと足が動いてしまって、彼女から離れてしまった。
その隙に、彼女は走っていってしまった。
まだ震えていたままの彼女の腕や背中。それが鮮明に目に焼き付いていて、何とも言えないような罪悪感と焦燥感に襲われてしまった。
足元でさっき買ってきた、野菜や調味料が死んだように落ちたまま動かなくなっていた。
僕は家に帰った後、リビングでソファーに座っていた。
キッチンではさっき僕が買ってきたものを使って母親が料理をしていた。
カチャカチャとカトラリーがぶつかり合うような音や、トントンと気持ちのいいリズムを刻みながら何かを切っている音。
そのすべてが心地いい音で、いつの間にかその音を聞くことに没頭していた。
すると今度は、コトコトと何かを煮込むような音が聞こえてきた。それと同時に、こちらに近づいてくる足音。
ふと見上げると、母親がそこに立っていた。小柄だから、少し上に首を傾けただけだった。
「いつもはさっさと部屋に行っちゃうのに。ここにいるなんて珍しいわね」
にこにこ笑いながら横に座る母親。
なんか前も似たようなことがあったな。その時は、父親だったけど。
「まあ…なんとなくだよ」
分かりやすく、無意識のうちに目を逸らした僕。そんな僕のその返事に、母親は少しだけ笑いをこぼした。
「影虎も、お父さんと一緒。うそが下手すぎるよ」
「えぇ…そんなことないと思うんだけどな...」
「知らず知らずのうちに目を逸らしてるわよ」
僕の目を指さしながらほほ笑んでいた。
さすが母親だというべきか、家族の癖をよく理解している。
隠すことができないと悟った僕は、母親の顔を見た。
「…お父さんが言ってたけどさ、目の前の人を笑顔にする方法を僕は知ってるって言ってたんだ。でも、僕には一向にわからないんだ」
それを聞いた母親は少し視線を空に向けた。それからフフッと笑った。
「私、分かっちゃったかも」
「え?なんでお母さんがわかるの?」
僕にだけ教えてくれたことではないのか?
母親は少しうれしそうというか、照れているような顔をしていた。
「実はね、私とお父さんが交際を始めるまで大変だったのよ」
「…は?」
思わずそんな声がこぼれてしまう。
何を言い出すかと思えば、過去の惚気話だった。
「私がお父さんにっていうか、恋愛の興味がなかったのよ。だからいくらお父さんがアプローチしてきても振り向かなかったのよ」
母親の顔はまるで、好きな子がいる女子高生のような顔をしていた。
それにしても驚いた。今では子供の目から見ても少し引いてしまうほど仲が良い夫婦に見えるのに。
しかも父親がぞっこんだったなんて。想像できなかった。
「でもね、お父さんは絶対に私のことをあきらめなかったのよ。何回も何回も諦めないで、ずっとずっと振り向いてもらうためにアプローチしてきたのよ」
母親は少し顔を赤らめていた。
正直親の惚気話を聞くのはあまり好きではない。気まずいし。
「お父さんが言いたいのは、そういうことなんじゃないの?」
「え?…どういう、こと?」
「たった一回であきらめたらいけないってことじゃない?」
僕はその言葉を聞いた瞬間に、頭に鋭い衝撃が襲った。
僕がまだ幼いころに聞いたことがある父親の言葉を、僕は思い出した。
「うぅ…もうやりたくない!!」
何度も何度も転んだ。自転車の練習をして、膝にも肘に怪我だらけでもうやる気もなかった。
自転車に乗るという行為すら怖くなっていた時。
父親は僕の肩をつかんで、言ったんだ。
「怖いのは、俺にもわかる。だけどな、いくら怖くても、いくらできないと思っていても、やり続けないといけないんだ。諦めたら、今まで以上につらいことになる」
「いままでいじょうに、つらいこと?」
まだ涙ぐんだままで、僕は父親のことを見つめる。
父親は少し険し目な顔をしたままだった。
「もう、それができなくなるっていうことだ」
まだ幼い僕には、少し難しくて、理解しがたかった。
「できなくなったら、つらいの?」
「考えてみろ。お前だけが自転車に乗れなかったら、どうなる。友達にもついていけない、どこにも一人で行くことはできなくなるんだ。どんなに惨めで、苦しいことだ」
その言葉を聞いた時、僕は初めてできないということがつらくて怖いということに気が付いたんだ。
僕は倒れた自転車を起こすとともに立ち上がった。
まだ目にたまったままだった涙を腕で拭う。
「ぼく、やる。できないのがつらいんだから、できるまでやる」
そうお父さんに宣言したことだった。
父親はにやりと笑って、立ち上がった。
「一回で、数回であきらめるな。自分の望みが叶うまで、それをし続けるんだ」
父親のまっすぐな目が、今になって僕は思い出した。
それとともに、本当は父親は僕にとって偉大な存在だったんだということに気が付いた。
正直言って、つい最近まで父親のことを疑っていた。
それでも、やっぱり僕に人生を教えてくれたのは父親のほかにいなかったんだ。
「…思い出したよ。お父さんが言ってたのは、これだったんだね」
「何があったかは聞かないけど、きっとこれよ。影虎ならきっとできるわよ。あなたは本当は、優しい子だっていうことを知っているから」
父親とは違う、それでも優しい笑顔を浮かべていた。
どちらかといえば安心させてくれるような、実家のような安心感というべきか。
僕に安心感と自信を与えてくれるような笑顔だった。
「うん。僕はもう逃げないし、諦めない。僕の望みが叶うまで、きっと諦めない」
僕は、その日から決意をしたんだ。
毎日彼女のもとに会いに行くことを。父親が僕に教えてくれたこと。
間違ってるかあってるかなんて、やってみてから確かめろ。
僕は僕の心のまま、動いていくんだ。
翌日、また彼女がいた病院に向かった。
受付にいた、看護婦さんに声をかける。
「あの…柳雨音さんのお見舞いなんですが、彼女は何号室でしょうか」
「柳さんは、三〇七号室ですね。三階の、一番奥の右手でございます」
「ありがとうございます」
看護婦さんはぺこりと頭を下げていた。僕も軽く会釈だけ返して、階段へと向かう。
綺麗な階段を上っていって三階に着くと、僕は奥の部屋を目指して足を踏み出す。
彼女が拒むことくらい、目に見えている。
それでも、無理やり彼女の心をこじ開けないといけないんだ。
僕は力む手のひらで、三〇七号室の扉を開いた。そして、いたんだ。
病院服を着て、ベットに横になって外を眺めている彼女の姿が。
「…柳さん」
ビクッと体を震わせて、恐る恐るこちらを振り向いてくる彼女に、柔らかい笑顔を向けてみた。
彼女は心底不快そうな顔をしていた。
「…何しに来たの。来ないでって言ったでしょ」
「ただのお見舞いだよ。来て何が悪いんだ」
悪びれる様子もなく、彼女のベットのそばに置いてあったパイプ椅子に腰を下ろした。
彼女は少し、僕から体を離した。
「なかなか質素なお部屋だね。退屈しちゃうね」
「......」
僕と目を合わせようとしないまま、そっぽを向いていた。
あくまで僕が来たことを認めていないようだった。
「いつもなにしてるの?」
「…別に何にもしてないから。なんでそんなこと教えないといけないの」
「いいじゃん。それくらい教えてくれても」
酷く不機嫌な彼女。まあこんな顔されるのも予想通りだった。
それを覚悟で、ここまで来たのだから。
「…ねえ。どうして一人で、抱え込むの」
さっきのような陽気な声ではない。
彼女の目をしっかりと見て、真面目な声で聞く。
彼女は俯いて、表情を見ることができなかった。
「僕は、君の笑顔が好きなんだ」
彼女は俯いたまま、ビクッと肩を震わせた。
「君の笑顔を見た時、僕まですごくうれしい気持ちになったんだ。君の笑顔が見れないって思うと、落ち込んだんだ」
今までずっと隠してきた、僕の本当の気持ち。
こんなこと、恥ずかしくていうことはないだろう。
それでも、言わないといけない気がした。僕の本当の気持ちを伝え続けないと、彼女は振り向いてくれる気がしなかったから。
「でも、今の君の表情は嫌いだ」
またしても、ビクッと肩を震わせていたのが見えた。
「小説を書いていて、君が読んでくれているのに笑顔にすることができない。その事実が僕のことを苦しめたんだ」
いつまでも、心に渦巻いて消えてくれないこの情けなさ。
何回反芻したところで、僕の悪いところしか見つからなかった。
なんであの時、僕は彼女の手を離してしまったのか。なんで僕は彼女のに思いをぶつけられなかったのか。
「ねえ、僕に教えてよ。僕は、君を笑顔にしたいんだ」
そう彼女に行っても、彼女は動いてくれなかった。
それを僕は見て、立ち上がる。
「今日はもう帰るね。でも、毎日来るから。あ、持ってきたゼリーよかったら食べて」
それだけ言い残して、僕は病室を出た。
柳さんは俯いたまま、動かなかった。
また次の日も、僕は彼女のもとへと向かった。
「おはよー。調子はどう?」
「っ!!まだ起きたばっかだから!!」
朝早くに行ってみると、彼女は起きたばかりのところで、髪の毛がいつもより乱れていた。
顔を赤くして、僕に叫びつけてきた。
「いや、別に大丈夫でしょ。僕の寝起きはもっとひどいから」
「そういうことじゃない!!ほんとに乙女心を分かってない!!」
ぷりぷりと怒っている彼女。昨日よりかは機嫌がいいのか。
「次からは気を付けるよ。はいこれお見舞い」
「…わざわざ持ってこなくていい」
そんなことを言いながらも、中身が気になっている様子が見受けられた。
僕は彼女に紙袋を渡した。
「これは駅前のクッキーだよ。お母さんが買ってきてたんだけど、あんまりクッキー好きじゃないからあげる」
「そこそこ高そうじゃない…申し訳ないわ」
「別にいいよ。柳さんが元気になってくれるなら」
彼女の表情が少し暗くなった。
あんまり触れてほしくない話題だったのだろうか。
話題を変えるために、少し昨日にも似たような話題を振る。
「ずっと一人で暇じゃないの?」
「そりゃ…暇だけど」
「いつも何してるの?」
「…前にさ、夜宵くんに趣味聞いたの覚えてる?」
なんだか前に聞かれたことがあったな。
あの時は必死に嘘を考えて、夕日を眺めることだとかなんとか言ったな。
「覚えてるよ。夕日を見ることって答えた奴だよね」
「そう…私も好きって、言ってたじゃん。あれの理由ってさ、本当はこれが理由なんだ」
彼女の視線は外を向いていた。
僕も彼女の向いている視線の先を見つめる。そこにあったのは西向きについてある窓だった。
まだ朝だからその方向に太陽は見えなかった。
「私さ、こんな病気になるの初めてじゃないんだよ」
「え…そうなんだ」
差し込んでくることのない日差しの代わりに、朝日が当たっている街の様子が窓から飛び込んでくるようだった。
その様子はキラキラとしてとてもきれいに僕は見えたんだ。
でも、彼女は違った。
「一番幼いころ、小学校低学年の頃に入院した病院の窓が、この窓と同じで西向きだったんだ。その時、私はこの景色が大っ嫌いだったんだ」
彼女の表情が歪む。
「私一人だけこんな目にあっているのに、街はこんなにきれいでキラキラ輝いている。それがどうしても憎くて、嫌いだったんだ」
今だけではない。
彼女が辛い思いをしていたのは、今だけじゃないんだ。
「でもね、夕暮れ時、夕日が窓から見えた時。私はよくわからないんだけど、涙がこぼれたんだ」
彼女の声が急に柔らかくなった。
心なしか、頬も緩んでいるようにも見えた。
「朝日とは違う、キラキラとしたまぶしさじゃなくて、暖かくて優しい光が私のことを包んだの。すっごく、安心したんだ」
「だから、夕日を見るのが好きなの?」
小さく頷いた彼女の表情。
それはまるで、子供が好きなものを意気揚々と話しているときのような表情だった。
僕はそんな彼女の表情が好きだった。
「うん。夕日の柔らかいオレンジ色が、私のことを落ち着かせてくれたの。それから毎日、その夕日を見ることが毎日私の楽しみだったんだ。また明日も見たい、そう思えば辛い治療だって乗り越えられたから」
あの時適当についてしまった嘘。
それでも彼女にとってはそれだけ深くて重い気持ちが孕まれていた。
「…そっか。そんな思い入れがあったんだね」
思わず僕の声は少し暗くなってしまう。
そんな僕をちらっと見て、目を逸らした。
「毎日、来ないでいいから。そっちにも迷惑でしょ」
「だから、言ってるじゃん。君の辛さを教えてくれるまで毎日来るって。別に迷惑でも何でもないんだから」
「......」
何も言わないまま、視線だけが外に向いていた。
僕はその様子を見て立ち上がった。すると、彼女は一瞬こちらに手を出すような仕草を見せた。
僕はそのしぐさに一度足を止めて、彼女の方に振り向いた。
しかし、彼女は手を引っ込めた。
「…また明日も、来るからね。明日はお昼過ぎに来るから」
それだけ言い残して、僕は病室を出ていった。
彼女の妙に寂しそうな目が、僕の脳裏に焼け付いていた。
「こんにちは。調子はどうかな」
「うん、大丈夫」
前のように嫌がるそぶりはしないで、普通に迎えてくれた。
いつも通りパイプ椅子に腰を下ろして、彼女に向かいあう。
「はい、これ。何買ってきたらいいかわかんなかったから適当にコンビニでスイーツを買ってきたんだけど」
「わざわざいいって言ってるじゃん…ありがと...」
口ではそう言いながらも、嬉しそうに頬を赤らめる彼女。これがツンデレってやつか。
コンビニの袋を渡すとちらっと中をのぞいていた。
「好きなやつあった?」
「…あ、これ好き」
彼女が手に取ったのは、プリンアラモード。
さすがに喫茶店ほどの豪華さはないものの、コンビニにしてはそこそこ上等なものだ。
「気にせず食べなよ。長いこと置いておくと味も落ちるし」
「…いただきます」
ぺりっと蓋を外して、コンビニでもらってきたプラスチックのスプーンでプリンをつついた。病室に充満する甘いにおい。
一口食べると、目を輝かせ始めた。
よく聞く話だが、病院食は味が薄いというのは本当なのだろうか。
「おいしい…」
「よかったよ。やっぱり病院食ってあんまりおいしくないの?」
「うーん。そりゃお母さんとかのご飯の方がおいしいけどさ、別においしくなくはないよ」
そうなんだ。
勝手な先入観を持ってしまっていたんだ。
「そうなんだね。良かったよ、そこそこおいしいご飯食べれてて」
「まあ…」
スイーツに集中をして、あまり僕の話に興味を持っていない。
まあ別に他愛もないような話だからどうでもいいが。
すると彼女は一度プリンを机に置いて、僕の顔を見た。僕はその行動に首を傾げた。
「どうしたの?」
「…何回もう言うけどさ、来なくていいんだって」
少し自分を嘲笑するかのような顔で、僕のことを見つめていた。
何も言わないまま、彼女のその顔を見ていた。
「私をファンとして大切にしてくれてるのは、よくわかったよ。でも、これ以上夜宵くんに迷惑をかけたくないんだ」
前のような暗い顔で言うのではなく、あくまで笑顔で言っていた。
自分のことを心配してくれているのを喜んでいるかのように。
「…僕は、明日もその次の日もその次の日も、僕はここに来るつもりだよ」
「だから、もうこないで...」
「君が一人で辛い思いをしている限りは、僕は毎日ここに来るつもりだよ」
言葉をかぶせて、彼女がそれより先を続けて言えないようにした。
来ないでいい、そう続くのは明らかだったから。
「前も言ったと思うけど、僕は君の辛そうな顔が大嫌いなんだ。君にはずっと、笑顔でいてほしいんだ」
スッと伏せられた目線。
それでも僕は視線を彼女から逸らすことはしなかった。
ここで逸らしたらいけない、なぜかそう思っていたんだ。
「ねえ、教えてよ。君の辛さを。僕にできることなら、何でもするから。僕はまた、君の心からの笑顔を見たいんだ」
徐々に上がり始めた彼女の視線。
僕の目をしっかりと見た時に、初めて気が付いた。彼女の瞳に、涙がたまっていたことに。
その涙がどういう心情か、彼女にしかわからない。
でも僕には、酷く透き通ったような涙に見えたんだ。
「…なら、聞いてよ…私の辛さと、過去と、今の思い、全部を」
弱々しく震えた彼女の声が鼓膜を揺らした。
僕は大きく一度頷いた。
「うん、聞かせて。君のすべてを、僕に教えて」
第四章
私が初めて病気を自覚した時、それは小学校一年生の入学したての頃だった。
入学式を終えて、家に帰ろうと母親の横を歩いた時のこと。
「…あれ」
ふらふらっとした足取り。そのまま前にぺたりと転んでしまった。
そんな私のことを見て、母親は顔を真っ青にして駆け寄って来た。
「ちょっと、雨音!!」
私の体を抱き上げて、顔を覗き込んだ。
一瞬ふらっとしただけで、それ以外に体に異常は見られなかった。
「うぅ…膝痛い…」
「ほかに変なとこない!?」
「うん…膝痛いだけ」
転んだ際に擦りむいた膝からは鮮やかな血が流れ出ていた。
ただの貧血といってもいいような症状だった。
だからこそ、母親もそこまで問題視はしなかったんだ。
でも、軽く見ていたこと自体が間違いだったんだ。
その日の夜、私はご飯を食べているときのことだった。お箸を握ってご飯を食べていた時。私の手からぽろっとお箸がこぼれた。
「あら、落としちゃった?」
母親がそう言いながらお箸を床から拾い上げた。でも、ただ落としただけじゃなかった。
手首に感じる、骨痛。それがなかなかにひどいせいで、握っていることなんてできなかったんだ。
私は手首を逆の手で押さえたまま、蹲っていたんだ。
母親は私のその様子に、首をかしげていた。
「雨音?どうしたの?」
母親の手が私に触れた瞬間、思わず母親は手を引いた。
「熱っ!!雨音!!」
私のあまりの体温の高さに驚いたんだ。
そしてすぐに救急車を呼んで、父親にも連絡をしていた。
高熱のあまりに虚ろな意識の中、私はどうしちゃったんだろうと思いながら痛む右手の手首を母親に向かって突き出した。
「たす…っけ、て...」
そうつぶやいたとともに、私の意識は闇に落ちてしまった。
次に私が目を覚ました時は、たくさんの点滴を繋がれた状態で病院のベットに寝かされていた。
スッと細く目を開けた時に、周りには誰もいなかった。空は暗くて、夜ということがうかがえた。暗い病室に一人取り残されている。
幼い私にはそれが心細くて、怖くて仕方がなかった。
すると近くにボタンがあることに気が付いた。私は何かを考えるよりも前に、それを押した。それはきっと、ナースコールだったんだろう。
部屋の外から徐々に大きく聞こえてきた足音。
病室の扉が開かれたとともに、部屋にぱっと明かりがついた。
「雨音ちゃん。目を覚ましたんだね」
おそらく二十代くらいの若い看護婦さんが私のことを見て、安心したように言った。
私はまだ状況をよく理解できないままの頭だった。
しばらくすると、白衣を着たお医者さんが入ってきた。
私の横の椅子に座ると色々質問をしてきた。
「手首が痛かったみたいだけど、今は痛くない?」
「少し、痛いかも」
「ふらふらしたりする?」
「うん…ふらふらする...」
お医者さんはほかに数個の質問を私にした。全部本当のことを伝えた。
するとお医者さんは少し頭を抱えたようなそぶりを見せた。
そして私のことを柔らかい目つきで見た。
「雨音ちゃん、よく聞いてね。今雨音ちゃんの体の中で悪者が悪さしてるんだ。だから僕たちでその悪者をやっつけるから、雨音ちゃんも協力してくれる?」
「…うん」
お医者さんの優しい笑顔に、私はどこか安堵して頷いた。
悪者をやっつける、その柔らかい表現に私は騙されていたんだ。そんなに辛いことではないんだと、思っていた。
病名も伝えられないまま、翌日から治療が始まったんだ。
あらかじめ飲まされた、何かの錠剤。どんなものかも教えてもらえずに、ただただ飲まされた。
そして、とある点滴が私の腕につながれた。
一応これは説明された。しかしその頃の私にはよくわからなかった。
もう一度今になって調べてみると、分子標的薬っていう特定のがん細胞とかにだけ攻撃するような薬らしい。
他にもたくさん投与されたんだ。
その日自体は少し体がだるいくらいで終わったんだ。でも本当の地獄は翌日からだったんだ。
朝起きた瞬間に襲った吐き気。
思わずベットの端に置かれていたゴミ箱に吐瀉物を吐き出した。
元々昨晩はほとんど何も食べていない状態で眠ったせいか、吐き出すものがなくなってしまう。そのせいで吐き気があるのにはけないという気持ち悪さだけが私のことを襲っていた。
嗚咽が漏れて、唾以外に出てくるものもなくて苦しかった。
それだけでなく、ものすごい高熱、下痢、数日すると髪の毛も抜けてきた。
それとともに、抗がん剤を投与すると白血球の量が減ってしまい、感染症にもかかりやすくなってしまうらしい。
重大な病気自体にはかからなかったものの、常に風邪のような症状が出ていた。
幼い子供の体にはあまりにも強すぎる苦痛のせいで、すごいストレスを抱えていた。
そのせいか、上手く声を出すこともままならなくなって、吃音もひどくなった。
そんな苦しみを、私の幼い体を犯した。
いつまでも続いているこの苦しみは、私の体だけでなく心までも衰弱させたんだ。
私が幼いということもあり、外部からウイルスを持ってこられることを絶対に防ぐため、無菌室に隔離されて親との面会も許されなかった。
どうやっても私の子の苦しさと恐怖は晴れることがなかったんだ。
怖くて怖くて震えが止まらない。布団を頭からかぶっていた時のこと。
ふと布団が温かさを帯びてきたことを感じたんだ。
明らかに私の体温ではないこの暖かさ。私は布団をどけてみた。
その時、私の顔を真っ赤に染めた夕陽が窓いっぱいに広がっていた。
何回も見てきたはずだった。
幼稚園の帰り道だって、お買い物を頼まれていった時も見たはずなのに。
なぜか、そこに夕陽があるということにひどく驚いて、すごくきれいに見えたんだ。
絶望や恐怖で塗りたくられていたはずの私の瞳に光を灯す、そのくらい煌々と輝いていて私の心を魅了したんだ。
「あっ…すごい…」
ストレスのあまり出にくくなり吃音気味だった私も、自然と止まることもなく呟きがこぼれた。
少しずつ沈むにつれ輝きを増していく夕陽。
私は目を逸らすこともせずに、ずっとそれを見ていた。
朝日のようなキラキラとした輝きではない。包み込まれるような暖かい日。
今まで心の中で、どうして私だけがこんなつらい思いをしないといけないのかと思っていた。周りの同級生は普通に学校に通って、友達がいて、楽しい毎日を送っているはずなのに。
そう文句を言っていた。
だけど、普通の生活を送っていたらこんなにきれいな夕陽を見ることはできなかったのだろう。
こんなにつらい思いをして、死にかけている心だからこそ私に響いたのだろう。
窓の外に輝く夕陽だけが私の中の唯一の特別だった。
それから私は夕陽を見ることを楽しみに、この苦痛に耐えてきたんだ。
何回嘔吐したって、何回高熱に魘されても私は耐えた。
そしてようやく、私は抗がん剤治療を乗り切ったんだ。
「お疲れ様、よく頑張ったね。一番つらい一セットをよく乗り切ったね」
お医者さんがにこにこ笑っていた。
でも私は聞き捨てならないことが聞こえてきたんだ。
「え…一セット?」
「うん、そうだよ。これからももう少し抗がん剤治療は続くけど、一番最初が一番つらいんだ」
私はその言葉を聞いて落胆してしまった。
もうこれで終わりではないんだなって。まだつらいことは続くんだなって。
これよりかは楽だって言われても、複雑な気分だった。
一度根付いた恐怖は、そう簡単に消えるものではない。
何とも言えないこの気持ちは、どう比喩すればいいかわからなかった。
そんな気持ちだからこそ、私は妙に夕陽を見たくなった。
期間は空けないといけないということで、一週間休みがあった。
その間は特に制限もなく、病院内なら何してもよかったので、屋上へと上った。
扉を開くと涼しい風が私の頬を撫でた。
誰もいない屋上は、閑散としていた。
ゆっくりと歩きながら、柵の近くまで歩いていく。
病院の屋上から見える街の姿はすごく小さくて、でもすごくきれいで。
私は頭にかぶっていた帽子を取って、風にさらした。
まだ生え切っていない髪の毛を隠すために、ずっと帽子をかぶっていたが、ここでは隠す必要もない。
ずっと蒸れていた頭に空気が触れて気持ちがいい。
私の顔どころか全身を照らしている夕陽。
想像の何倍も壮大なこの光景に、私は夕陽を見つめたまま立ち竦んでしまった。
その圧倒されるような夕陽の前では、私の不安なんてちっぽけなように感じて。
思わず笑みがこぼれてしまった。
すると後ろから屋上に誰か入ってくる音が聞こえてきた。
とっさに帽子をかぶり振り返った。扉が開いた先にいたのは、高校生くらいの女の子だった。私に気が付くと少し目を丸くして、笑った。
足が不自由なのか、左足を引きずりながら彼女は近づいてきた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは...」
人から話しかけられることすら慣れていない私は、言葉が詰まった。
それでも彼女はニコッと笑って、柵に手を置いた。
「私は楓。花宮楓。よろしくね」
「え、あ…私は、柳雨音です…よろしくおねがいします」
「雨音。いい名前じゃん」
私よりも高いところにある顔からのぞき込む楓の顔はさわやかだった。
「雨音は何で病院にいるの?服がそれってことは入院してるんだよね?」
私の病院服を見ながらそう聞いてきた。
私は少し目を伏せる。
「…よくわかんないけど、抗がん剤治療?をするために入院してる」
「抗がん剤治療?もしかしてガンとかなのかな?だとしたら私も同じだよ」
「ガン?私は教えてもらってないから...」
「そうなの?なんか不思議だね、それ」
そこで私は初めて知ったんだ。
病名を教えてもらえないということはおかしいということに。
「私は肺がんでさ、抗がん剤治療を受けたんだ。そしたらその副作用で左足の感覚が鈍っちゃってさ、今はほとんど動かないんだ」
「大丈夫なの?いつかは、治るの?」
「うん、いつか治るって言われてるよ。雨音こそ、その帽子。隠してるんでしょ?」
彼女に指摘されて、思わず帽子を手で押さえてしまう。
でも彼女もきっとこんな姿になったことがあったんだろう。
そう思って、帽子を取った。彼女は別に気にしない様子だった。
「私もそうだったよ。今はショートカットみたいだけどさ、これはただ単に髪の毛が伸びてないだけなの」
綺麗に切りそろえられているような彼女の髪の毛。
でも本当は、伸ばしたくてもできなかったんだろう。
お互い、辛いはずなのに、彼女の笑顔は透き通っていたんだ。
私はそんな彼女の笑顔に憧れてしまったんだ。
「…また明日も、ここに来る。だから楓も来てくれる?」
そんな彼女と一緒にいてみたい、そう思ったんだ。
彼女の表情が一瞬固まった。でもすぐにまた自然な笑顔に戻った。
「うん、いいよ。また明日も、一緒に話そうね」
夕焼けともう一つ、辛さを絶えることの意味を見出せた気がした。
私は病室に戻るために、階段へと歩いて行った。
扉を開いた後、後ろを振り返って彼女の姿を見た。
夕陽と重なって逆光となっていたが、笑顔で私に向かって手を振っている様子が見えた。
それから毎日、彼女のもとへ遊びに行くようになった。
だから彼女についてもっと情報を得ることができた。
花宮楓。年齢は十七歳の高校二年生。この地域の高校に通っていて生徒会にも入っていて、好きなことはお菓子作りだったらしい。
他には写真を撮ることが好きだったり、ごくごく普通な女の子だったらしい。
私からしたらだいぶ年上だけど、話を聞けば聞くほど彼女のような人になりたいなって思うようになっていった。
それと同時に、少し気になる点も増えていった。
最初であったときは、左足だけに違和感が見えたのに、今は左手もいつも力なくだらんとぶら下げている。
その左手の手首辺りには、たくさんの切り傷も見えた。
それと同時に彼女の笑顔は、張り付けたような笑顔ばかりのように見えた。
一番最初に出会った頃のような自然な笑顔には見えなかった。
彼女と出会って五日目、いつも通り彼女に会うために屋上に向かった。
扉を開くとすでに彼女はそこにいた。
私に気が付くと彼女は私のことを見て、ニコッと笑った。
その笑顔に、私は目を見張った。その笑顔は作っているような笑顔ではなかったから。
彼女の心の奥底から出てくる、本物の笑顔だった。
「雨音。今日は雨音に渡すものを持ってきたんだ」
彼女は病院服のポケットに手を突っ込んだ。
そして取り出したものは、紫の蝶が舞っている黒色の櫛だった。
少し使った痕のようなものがあるが、すごくきれいだった。
「これ、雨音にあげるよ。女の子は髪の毛が命だからね」
「で、でも、すごく高そうだし」
「何言ってんのよ!!遠慮せずにもらっておきなさい!!」
そう言って私の手に、その櫛を握らせた。
私の小さい手の中に夕日を反射させて黒く光る櫛。私はそれをぎゅっと握りしめた。
「…ありがとう。大切に使う」
彼女は嬉しそうに私の頭を撫でた。
左手、ではなく右手で。
そのあとは二人とも言葉を発することもなく、夕陽を眺めていた。
夕陽がほとんど沈みきって、私はそろそろ病室に帰ろうと階段に向かって歩き出す。
すると彼女がこちらに振り向いて、私を呼んだ。
「…ねえ」
こんなことは珍しくて、私は少し驚きながらも振り向いた。
彼女は心の底からの笑顔で私のことを見ていた。
「ありがとうね…また、あした」
それを聞いた私には、言葉に表すことができない違和感があった。
でもそれに確証があるわけでもなく、私は小さく頷いた。
「うん…また明日…櫛ありがとうね」
ひらひらと右手を振っていた。
小さく手を振り返して、私は階段を下りて行った。
今、彼女はどんな気持ちなのか、私にはわからなかった。
次の日の朝、妙に騒がしい足音にいつもよりも早い時間に目を覚ました。
私はベットから降りて、病室から出ると看護婦さんやお医者さんが慌ただしく走っていた。
何が起きたのかわからないまま、私がそこで立ち尽くしているといつも私にご飯を持ってきてくれる看護婦さんが私に気が付いた。
「あっ、雨音ちゃん、おはよう。今少しみんなバタバタしてるからお部屋の中にいてくれるかな?」
「うん…何があったの?」
私のその素朴な質問に、看護婦さんの表情が曇ってしまった。
私が首をかしげて見ていると、口を開いたんだ。
「…自殺をしちゃった人が、いたんだ」
「…楓」
「えっ…?」
なんでかなんて、わからない。
でも私の口からはそうぽろっとこぼれたんだ。看護婦さんの不安げに揺れる瞳が、私のことをじっと見つめていた。
「なんで、雨音ちゃんが彼女の名前を...」
「…戻る」
まだうまく状況を呑み込めていない看護婦さんをよそに、私は病室へと戻っていった。
私は看護婦さんの反応でわかった。
自殺をしたのは、楓なんだってことを。
病室に戻った私は、昨日彼女からもらった櫛を眺めていた。
明日自殺するから、私にくれたのかなとか思いつつもなんだか心が切なくて。
一つ楽しみを失ったとともに、一人の人生が幕を落とした。
その事実が何とも言えない気持ちで、私の心の中を独占した。
なぜ彼女は自殺をしたのか、どういう気持ちだったのか、想像することができても真実を知るということはできなかった。
なんとなく、私まで辛い気持ちになって来た。
だから彼女からもらった櫛で、まだ少ない私の髪の毛を梳いた。
それだけで少し暖かい気持ちになった気がした。なんでだろう。
お医者さんが言うように、二回目より後の治療はだいぶ楽だった。
それでも吐き気はしたし、熱も少し出た。
でも、そんな事よりも心がずっと沈んだままだった。
私の目の前で揺れ動いていた生と死で、軽く病んでしまった。
それは退院までずっと引きずってしまう。いや、退院した後でも私はずっと思い出してしまう。
最期に見た、彼女のあの笑顔を。
違和感を感じたとともに、夕陽を初めて見た時のような気持ちになった。
時間が止まったような感覚に陥り、私の不安を包み込んでくれるような暖かさがあった。
いつまでも見ていられるような彼女の笑顔は、もう見れない。
そう思うと虚しくて儚くて寂しくて。
この気持ちが色褪せて消えてしまうくらいなら、私が受け継ぐ。
私は彼女のように生きて、あの笑顔を皆に振り分ける。それが私の初めて持った、“夢”
だから私は小学校に通い始めた時も、誰にでも平等に笑顔を贈った。
皆が私のもとにいたら安心できるように、あの人を忘れないように。
その私の気持ちが功を奏したのか、クラスのみんなは私を慕い、笑顔でいてくれた。
「雨音ちゃんの笑顔素敵で好き!!」
「雨音ちゃん優しくて、いっつもにこにこしてる!!」
皆、私のことをそう言ってくれていた。
そのたびに私の心はぽかぽかと温かくなっていた。私が彼女から感じた思いを、みんなは感じてくれているんだって喜んでいた。
そのまま成長していって、高校一年生になった時。
私は、君の小説と出会ったの。
君の小説は、お世辞にもすごく上手だともいえないし、有名でもなかった。
それでも君の物語には、確かに温かい人の心情が含まれていて。どんな人に向けて書いているのか、どんな書き方をすれば伝わりやすいのかをしっかりと考えているように思えたの。
いつのまにか、君の小説にどっぷりはまっちゃってさ。
特に、夕方ごろ。
夕陽を浴びながら、公園で君の小説を読むと、感傷的で、思わず涙が出てしまうくらいだったの。
君の小説が更新されるたびに喜んで、泣いて、ほほ笑んで。
たくさんの感情を、私にくれたんだよ。
きっと君以外の小説だったらダメだった。君が必死に考えて、心情を移入している物語だからこそ、私はたくさんの感情をもらえた。
まあ、まさか学校にいる夜宵くんだとは思ってなかったけどさ。
でも、高校二年生の夏休み、私はいきなり吐血をしたんだ。
その日はまだ何もしていなかった。朝起きて、歯を磨いて顔を洗ったとき、喉から込み上げてくる液体をこらえられずに洗面台にぶちまけた。
真っ白な洗面台が、私の血で真っ赤に染まった。
「ごぼっ!!ごほっ!!おえっ!!」
私の嗚咽を聞きつけて兄が駆け寄ってきたんだ。
私の様子を見るとすぐに救急車を呼んで、私の肩を抱いた。
「おい!!雨音!!しっかりしろ!!」
すべて吐き終わった後、私は兄に体をゆだねて意識を失った。
次私が目を覚ましたのは、見覚えのある天井だった。
そこは、昔私が入院していた病室と全く一緒の部屋だった。
まだ何が起こったかもわからない状態の私。
あの時のように私は震えた手で、ナースコールを押した。
すると押した瞬間に病室の扉が開いた。そこにいたのは看護婦ではなく、兄の姿だった。
兄は私が目を覚ましたことに気が付くと、少し目を見開きゆっくりと近づいてきた。
「雨音…大丈夫か?」
少し震えた声で、私の鼓膜を揺らした。
大丈夫かと聞かれても、私はどうこたえればいいかもわかんなかった。
だから私は、嘘をついた。
「うん…元気」
それと同時に笑顔を浮かべた。
その笑顔は、あの時の楓のような張り付けた笑顔のような気がした。
体調は優れていたため、私はすぐに退院をすることができた。
ちゃんと学校に行くこともできたが、体にまだ残る。
それを母親に伝えると、今度の土曜日に検査をすることになった。
あんまり表には出していないけど、正直物凄く怖かった。
またあの治療を受けるかもしれないとしたら、今度こそ耐えられる気がしなかった。
だから当日の早朝、私は公園で一人座っていたんだ。
この先私は、彼女の笑顔を忘れないまま、またあの笑顔をできるのかな。
まず、私自身があの苦痛に耐えられるのだろうか。
そんな風に恐怖で震えていた時だった。
「…柳さん?」
君が、私に声をかけてきたんだよね。
あの後私は病院に検査しに行ったの。
「…柳さん。あなたは白血病が再発しています」
私はその時に初めて、白血病だったということを知った。
「普通なら五年以内に再発しないと、再発のリスクはものすごく下がるといわれています。でも、あなたの骨と骨髄の境界線付近で抗がん剤抵抗性を示した白血病幹細胞が残っていたと考えられます」
お医者さんから告げられた難しい話。
今の私なら理解する事はできるだろう。でも、理解をしたくなかったんだ。
「それと、非常に言いにくいのですが…白血球幹細胞の量が多く、状態としてはものすごく悪いです…覚悟も、必要でしょう」
私はその言葉を聞いた瞬間、私の中の何もかもが消えた気がした。
今まで彼女を忘れないようにしてきた思いも、夕陽が好きだという気持ちも。
今度こそは死んでしまうかもしれない、そんな思考がずっと頭の中をぐるぐるとめぐっていた。
それから何の気力もわかなくなってしまった私は、入院までの数週間は学校に行くこともしなかった。
ただただ君の小説を貪るように読んで、ただただ空想の物語に耽っていた。
でもとある日、私は思ったんだ。
いつの日か、君の物語が読めなくなる日が来る。そんな時、もし続きを望んでしまったら。
もう一話を読んでみたいという楽しみが心の中で芽生えてしまったら。
私は、死ぬことが怖くなってしまう気がした。
今だって怖くないわけじゃない。怖くないわけがない。
だけど、今以上に嫌になってしまう気がしたんだ。
だから私の読んだ最後の作品に、私のすべてを書き残したんだ。
もうこれで未練も何もない。私が死んだところで、どうってこともないって思った。
だけど、それを邪魔したのがまたしても君だったんだよね。
君が病室に来るようになってから、私はまたもう一度考えることを始めてしまったの。
君が毎日来る理由は、私の笑顔を見るため。
それを聞いた初日、私はまた楓のことを思い出したんだ。
毎日彼女のもとへ通っていたのは、彼女の笑顔に惹かれたから。
同じ理由を言った君のことが、忘れられなくなっていた。
いつのまにかまた明日も君は来るのかなって思い始めて、君が来ることを期待するようになっていった。
君になら教えてもいいかなって思って、この私の昔話を話したんだ。
君が知りたがっている辛さも、痛いほどよくわかったでしょ。
これを聞いて、君はどう思ったの?
それでも君は、私のことを助けようとしてくれるの?
第五章
小一時間ほど話し続けた彼女の話。
柳さんから伝えられた、彼女の過去のすべて。
僕の想像の何十倍も重くて暗くて、辛いものだった。
気安く僕が助けるなんて言ってもいいようなものではなかった。
彼女が本気で僕を拒絶していた理由というのはこれだったんだ。
他人の僕にはあまりにも荷が重すぎるんだ。甘い気持ちで踏み入れると、傷つくのは僕の方だと彼女は分かっているんだ。
話の重圧感が、僕のことを押しつぶそうとしてきた。
お前じゃ無理だ。お前なんかに解決できることじゃない。
もう彼女のことなど諦めて、忘れてしまえ。
僕の中の弱い部分がそう必死に語りかけてきた。
彼女を救うと決意したのに、僕はどうすればいいかすらわからない。ただただ、逃げれるのなら逃げてしまいたかった。
「…やっぱり、そうだよね」
彼女が自分にかかっている布団の上に寂しそうな視線を向けている。
少し自分のことを嘲笑うかのような笑みを浮かべて。
僕は彼女のことを見ていた。
「こんな暗い過去を持ってる人を、救いたくなんかないよね」
明るい声で、呟いていた。
でもその明るさは雑に塗りたくられた黄色のように、酷くはがれやすく、無理やり明るくふるまっていることが分かった。
諦めたように笑っている彼女の姿を見るとひどく胸が苦しくなって、僕の無力さが明らかになっていた。
「…ちょっと飲み物買ってくる」
僕はこの空間から一時的に逃げるために適当な嘘をついて、席を立った。
笑いながら頷いている彼女を横目に、僕は足早に扉に向かった。
扉に手を向けた瞬間、その扉が開いた。
そして現れたのは、僕より一回り身長が高くて、どことなく柳さんに雰囲気が似ている男の人だった。
「あ、お兄ちゃん」
「…おう」
この人が、柳さんが言っていたお兄さんなんだ。
僕が見上げていると、お兄さんの目が僕の方に向いた。
「誰?きみ」
「あ、柳さんの…ゆ、友人の夜宵影虎です」
友人といっていいのか少し迷ったが、艶な勘違いもされたくないしそう言っておいた。
するとお兄さんから向けられる視線が強くなった。
そして、彼は僕の腕をつかんだ。
「ちょっと来い」
そう言いながら病室の外へと引っ張られた。
僕はその力に抵抗しないままついていった。横目に柳さんの心配そうな目が見えた。
しばらく引っ張られて、待合ロビーまで連れていかれた。
腕を離されて、彼はこちらを向いた。相変わらず冷たくて鋭い目だった。
「…お前の話は雨音から聞いた。座れ」
彼はソファーに腰を下ろした。
僕も少し離れたところに、同じように腰を下ろす。
「小説を書いているんだよな、お前。雨音が昨日言ってた」
「あ、はい。書いてました」
「…ました?今は書いてないのか?」
「…まあ、書いてないですね」
その答えが気に入らなかったのか、僕の方に体を近づけてきた。
サラサラの前髪が揺れて、ちらちらと目を隠したりしている。
「あいつは、雨音はお前の小説が好きだって言ってた。お前の小説が好きなせいで、お前に会いたくないって言ってた。それなのに、書いてないだと?」
ガンガンと感じる威圧感。
鋭い目つきは、柳さんと似ているものを感じた。
「雨音に失礼だと思わねえのかよ。お前は、何のために小説を書いてるんだよ!!」
声を荒げて、大声で僕に叫びつける。
よく声を反射させる病院だからこそ、その声は僕の耳によく残った。
僕は彼に目を合わせないで俯いた。
「少なくともあいつがお前の小説を読んでいたことは知ってたんだろ!!それなのに、どういうつもりなんだよ!!」
「うるさい!!うるさいうるさいうるさい!!!」
僕は必死に頭を抱えながら叫んだ。
言葉すら浮かんでくることもなくて、同じ言葉を繰り返す子供のような怒り方。
それでもお兄さんを黙らせるのには十分だった。
「僕の思いなんか知らないくせに!!彼女からしたら僕の小説は足枷なんだ!!死んでしまうときに苦しめてしまう原因でしかないんだ!!」
彼は少し唖然したような顔で僕のことを見つめていた。
叫ぶことに慣れていない僕は、息を切らしていた。
それでも僕は言いたいことを言い切れていない。
「僕の小説を書いていた意味は、一人でも多くの人に希望を与えるためだ!!それでもできるわけないんだ!!才能も何にもない僕にできるようなことじゃないんだ!!」
お兄さんに叫びつけるような言い方。
こんなに感情をあらわにしたことはなかった。ここまで必死になることがなかったんだ。
すると、お兄さんはふっと笑うと八重歯が一瞬見えた。
「お前の話は雨音から耳に胼胝ができるくらい聞いた。小説を書いていて、にやにやしていることもあって、何事にも無気力だったってな」
面白そうに僕のことを見ているのが気に入らなかった。
僕がこんなに必死になっているのに。
必死に、なっている…?
僕はふと自分の手のひらを眺めた。
「…何事にも無気力、だった」
お兄さんが“だった”を強調するように言った。
僕は何で今、こんなに叫んでいたのか。
何のために、誰のために、僕は。
―――彼女の笑顔が見たい、ただその一心だった。
誰かのために本気になったのも、誰かのために叫んだのも初めてだった。
僕が本気でやろうとしていたのは、小説で人を救うことなんかじゃない。
彼女を、僕の手で笑わせることだったんだ。
僕が初めて無気力じゃなくなったとき、それは彼女の笑顔が見れなくなった時だ。
その時に初めて、僕は何かに本気になった。
見つめていた手のひらをぎゅっと握りしめた。
そして顔を上げて、お兄さんの方を向いた。
「…僕はもう、無気力なんかじゃない。僕は柳さんを笑顔にしないといけない。それが僕を本気にさせた理由なんだ」
にやりと笑ったお兄さんの顔。
今度は腹が立つこともなくて、ただただ僕の考えが通じたとしか思わなかった。
「ていうか、一応俺も柳さんだ。俺は柳海斗だ。海斗ってよべ」
「わかりましたよ、海斗さん」
「おっ、よくわかってんじゃん。呼び捨てしてたらぶん殴ってたわ」
きっといい人なんだろうけど、少し野蛮というか乱暴というか。
それでもまあ、柳さんのお兄さんっぽいなって思った。
するといきなり海斗さんは立ち上がった。そして僕の手をつかんで立ち上がらせて、背中を押した。
よろよろと数歩歩いて、振り返る。
「自分の気持ちを理解できたんなら、早くあいつのところに行ってやれ。今の思いの気持ちをぶつけて来い。俺はあいつの様子を覗きに来ただけだから」
そう言って彼は踵を返し歩き始めた。
僕はそんな背中を少しだけ眺めて、歩き出した。
彼女が待っている、病室へ。
扉を開くとすぐさま彼女が心配そうな顔で僕を見た。
今にもこちらに飛んできてしまいそうなほど。
「大丈夫…?大声も聞こえてきたよ?」
ここから僕が大声を出したところはそこそこ離れているはずなのに。
少し恥ずかしくなってしまう。それでも表情を崩すことなく彼女の前に立った。
「大丈夫だよ。ねえ、柳さん」
彼女は僕の呼びかけに首を傾げた。
僕は近づいて、彼女の両手を握った。
「へっ!?や、夜宵くん!?」
顔を少し赤らめて、僕のことを見つめている。
僕はそんなことにかまわないで、ぎゅっと握りしめる。
「僕、言ってなかったけど、もう小説を書いてないんだ」
彼女は少しの間僕のことを見つめて、俯いた。
「でも、やっぱり僕は君が愛してくれて、君にいろんな表情を与えることができた小説を手放すことなんかできないと思ったんだ」
いつでも世間の価値ばかりを考えていた僕。
でも、そんなことは二の次だ。
本当に大切にするべきだったのは、僕の物語を好んでくれている人の、僕の小説の必要性だったんだ。
僕の小説を読んでくれる人が、僕の小説から何を得て、何を好んでくれているのか。そして、僕の小説がその人にどんな影響を与えたのか。
それを考えて、大切にすることが必要だったんだ。
「だから、僕はずっと書き続ける。だから、お願いがあるんだ」
少し息を吸って、呼吸を整えた。
「僕の小説を、もう一度読んでほしい」
僕の言葉に顔が上がる。
その顔は、驚きの表情でいっぱいだった。
「君が生き続ける可能性が一パーセントでもあるのなら、僕が必ず希望を与えてみせる。明日も生きようと思わせるような小説を書くよ。だから、お願い。僕の小説を呼んでくれませんか?」
もう、誰にも無気力なんて言わせない。
もう、自分に弱虫だと思わせない。
彼女が明日を生きたいと思えるなら。彼女がまた、笑ってくれるなら。
僕はこの大嫌いな自分自身で、小説を書き続ける。
「…私、さ。どうしても忘れられなかった」
彼女はまた俯いた。小さく動いている彼女の顔。
「また期待しちゃうからってやめたのに。なんでだろうなぁ…やっぱり、読みたくなるんだよね...」
彼女の声に少しだけ鼻をすする音が聞こえた。
彼女が言っているのはきっと、僕の小説だろう。
「夜宵くんが最近書いていないことは知っていたよ…私のせいかなとか思ってたんだ。でもさ、でも…」
彼女の俯いた顔から涙が数滴ぽろぽろと落ちてきた。
布団の上に落ちて、染み込んだ。
「私のために書いてくれるって今聞いてさ…嬉しくて、嬉しくて…自分から読まないって決めたのに、すっごく楽しみになっちゃってさ...」
ゆっくりと顔を上げた彼女の頬には透明な涙が流れて、それでもものすごくきれいな笑顔をしていたんだ。
僕が、小説を書くといっただけでこんなに笑ってくれて。
なんだか僕まで泣いてしまいそうな気持ちになってしまった。
彼女は少し前のめりになり、僕に顔を近づけた。
「ねえ、お願い。私のために、小説を書いて」
彼女の横顔は夕陽に照らされて、涙が光を反射させてきらりと輝いていた。
笑顔は自然な笑顔で、僕が求めていた、僕が彼女に贈りたかった笑顔だったんだ。
僕は同じように、にこりと微笑み返す。
「うん、もちろん。僕の小説を読んで、笑って、泣いて、笑ってほしい」
今の僕なら、彼女の頬を流れる涙を拭うこともできるだろう。
でも、僕はそれをしなかった。
だって、その涙も含めて最高の笑顔だったから。
「お兄ちゃんとは、大丈夫だった?」
しばらく泣いた後、徐々に落ち着いていった彼女。
あの大声が相当忘れられなかったのだろう。心配そうに聞いてきた。
「うん、大丈夫。海斗さんはいい人だったよ」
「そうなんだ。なんだか夜宵くんとは合わないタイプだと思っていたけど、意外だね」
まああの人が何の関係もない同級生とかなら、おそらく何のかかわりも持たないままだっただろう。
でも、彼はきっと人の言っていたことをよく覚えていて、何のためにこの人がこう言っていたのか、そういうことを考えることができる人なんだと思う。
柳さんが言っていたことを正確に覚えて、必要に応じて言葉を抜粋する。
それは何も考えずに聞いたことを受け流しているような人にはできないことだ。
しっかり人の話を聞く。当たり前だけど、この難しいことを彼はできるんだ。
そんな人が悪い人のはずがない。
「まあね。でもやっぱり柳さんに似てた」
「え?そうかな?私あんなに怖くないと思うんだけど...」
「いや、柳さん自身が男だったらたぶんああなってた」
今の時代男だからとか女だからとかいうのはよくないが、本当にそう感じたんだ。
まっすぐとした性格。責任を重んじるところ。
そして言わないといけないことはしっかりというところ。
そのすべてが彼女の委員長時代と重なって見えたんだ。
「そうかな…お兄ちゃんだいぶ怖いのに」
口元を少し抑えて笑っている様子。
この当たり前の笑顔を見れるいつもの生活が、僕にとってはすごく大切だったんだ。
僕も思わず少し微笑んでしまう。
その笑顔を柳さんは見つめていた。
「…なんだか、いい笑顔するね」
なんだかすごくいろんな気持ちが合わさったような声だった。
いい笑顔って、何だろう。
彼女のその言葉に疑問を持った。
「いい笑顔って、何なの?」
僕は彼女に疑問を直接ぶつけてみた。
彼女は少し考えた後、口を開いた。
「いい笑顔ってさ、何も楽しいときに笑うときのものだけじゃないと思うの」
「そうなの?」
「うん。笑顔って心が明るくなるものと同時に、すごく怖いものなんだよ」
僕にはあまり想像できなかった。
笑顔が怖いってなんだろう。少し考えてみると、サイコパス映画とか見ると笑顔で人を殺しているが、そういうことだろうか?
「友達とお話しして楽しいとき。何かに成功して嬉しいとき、人は笑う。でも、辛くて死にたいとき。辛い思いをしているとき人前に立つと、人は笑顔を浮かべるんだ」
そう言った彼女の目の奥は、黒く濁ったものが見えたんだ。
僕は彼女が言いたかったことを瞬時に理解した。楓さんの存在だ。
過去の話に登場した、柳さんのお友達。
でも楓さんとの経験は幼い子供からしたらショッキングすぎるものだった。
だからこそ、忘れられないのだろう。
一生のトラウマとして彼女にまとわりついていくのだろう。
「私はさ、いつも人間の生死を触れ合うような場所で育ってきたからさ、どんな笑顔か見分けることはできるんだ。でもね、自分の辛さをうまく隠す人はさ、誰の目から見ても気が付けないんだよね」
さっきまでの笑顔をしまった彼女は酷く重い顔をしていた。
それほどまでに、彼女の言う“笑顔”は暗く、重いものなんだと気が付かされた。
「よく言うよね。『海の中で泣いている人に気が付ける人になれ』って。まさにこのことなんじゃないのかな」
その言葉は僕も聞いたことがあった。
よくSNSのショート動画のポエム集みたいなやつで見る。
意外とそういうのが好きで、様々な言葉は知っている気がする。
「辛さという名の海に溺れて笑顔という脆くて拙い糸でしか繋がれていないで泣いている人に気が付く。これがさっき言った言葉が示すことなんじゃないのかな」
彼女の考え方を仮に、インターネットに挙げたとしよう。
そうすると、そんなはずがないと叩く人は大勢いるだろう。でも、僕は彼女の考えに賛同するだろう。
彼女の過去の経験を知り、彼女自身がそこから考え出したものなのだから。
少なくとも、彼女の中では正解の回答なのだから。
僕はその時、改めて感じたんだ。
自分のことを分かっていない大勢に愛されるより、自分のことを知ってくれている一人に愛される方が幸せだということに。
これが、お父さんの言いたかったこと。
一人に希望を与えることができないのに、大勢に希望を持たせることなんかできない。
全くそうなんだ。僕が希望を持たせないといけない一人。
それは柳さん、君だけだ。
柳さんと分かれて、家に帰る。
病院を出た時にはすでに外は暗くなっていた。
真夏ならまだ少しは明るいこの時間帯。半袖だとだいぶ涼しいくらいの気候。
そのすべてが、今の僕にとっては気持ちいいものだった。
濃い藍色の空を見上げて、僕の頭にはとある思考がよぎった。
家に帰ったら、もう一度一から小説を勉強してみようって。
彼女は、僕の小説が大好きだって言ってくれていた。そんな彼女に対して、僕もしっかり答えないといけないんだ。
そう考えると、海斗さんが言っていた通りだったなって。
次あったら、海斗さんに謝っておこう。
そう考えながら僕は軽い足取りで家へと向かった。
「ただい…ん?」
家に帰って玄関に入ると、父親も母親もいるようだった。
それ自体は珍しいことでも何でもない。それでもリビングの方から小さい話声が聞こえてきたんだ。
いつも父親は母親の前では元気に明るい感じでふるまっている。
だからこそ小さい声で二人が話していることの方が少なくて驚いた。
僕は二人が何の話をしているのか聞くために、靴をこっそり脱いで足音を立てないようにしてリビングにつながる扉に耳をくっつけた。
すると二人の話し声は思ったよりちゃんと聞こえてきた。
「ふふっ、あの子ったらいつの間にあんなにかっこよくなったのかしら」
「近くで見ると成長は感じにくいものだね」
どうやら僕のことを話しているようだった。
僕は少し照れくさいが黙って聞き続ける。
「そうね。あの子の目、若いころのあなたにそっくりだったわよ」
「え~そうなんだな。自分じゃわからないよ」
「あなたは高校の時からこんな感じだったわよね。好きなこと以外には無関心。勉強だって全然してなかったし」
「それは自覚してるつもりだよ。だからこそ、夢を叶えられたんじゃないかなって思うし」
「ふふっ、そうね。でも何事もちょっとくらいはしないといけないわよ。特に勉強はしないといけなかったわね?」
「うっ…それはそうだね。君がいなかったら、まずかったかもね」
二人の会話を聞いて、僕はその場で初めて知った。
二人とも高校生からの付き合いということに。いや、もっと昔からなのかもしれないけど、少なくとも高校からは一緒にいたんだ。
「影虎は、その点で見ると俺よりひどかったのかもな。小説を書いているのはよかったけど、何事にもかける努力は中途半端だった。それはやらないよりもひどいものなのかもしれない」
僕はその言葉を聞いて俯いた。
そうだ、その通りなんだ。僕が悪いんだ。
何事にも無関心だって言われていた、僕が悪いんだ。
「でもな」
父親の、その暖かい声で僕は顔を上げた。
「今のあいつを見てると、何事にも中途半端だったのは、今のためにあるんじゃないかって思ったんだ」
僕はその言葉の意味がいまいち理解できなかった。
中途半端なことに理由なんて、あるわけないのに。
でも、母親も少し笑った後にそうね、と肯定していた。
「あいつは自分がやろうとしていることに実力が足りないんじゃないかって、いつの間にか逃げていたんだ。小説だってそうだ。人に希望を与えるには、自分の文章じゃできないって逃げる癖があったんだ」
「そうね。私にもまるわかりの顔で悩んでたもの。でもね、あの子は少し不器用なだけなんだと思うの。ちょっとヒントをあげただけですべて理解して、それを行動に移せる、そんなすごい子よ」
「あぁ。今のあいつを作っているのは過去のあいつなんだ。今までみたいに中途半端じゃ叶わない何かがあるんだ。だからこんなところで終わりたくない、あの頃のように途中でやめたくなんかない。そんな気持ちが、今のあいつの原動力だと思うんだ」
二人が話している内容は、全部僕自身の心を見透かしたようなものばかりだった。
すべて、二人の言うとおりだった。
僕の原動力。彼女の笑顔をもう一度見たい、それだった。
でも今のままの僕には、できない、だから頑張るしかない。そう思って今までやってきた。
父親も、母親もここまで先を見通していたのだろうか。
「ねえ、あなた。私があの子にあなたが小説家であることを伝えた日。それはね、3月20日なの。なんでこの日にしたか、分かるわよね?」
そう母親が聞くと、父親は軽く笑った。
「分からないわけないだろ。俺が、引退を発表した日。そうだろ?」
「よく覚えてるじゃない」
二人の仲のいい会話。
父親が続けて口を開いた。
「確か、お前にも言ってなかったよな。引退した理由を」
「ええ。いくら聞いても教えてくれなかったですよ」
「今なら、言ってもいいのかなって思うんだ…」
そう言って、おそらく父親が立った音が聞こえた。
「影虎、そこにいるんだろ」
そう言って、扉を開けたんだ。
父親のやっぱりなって顔と、母親の驚いた顔が見えた。
僕は少し照れくさくなり、頬をかいた。
「ばれてたんだ」
「当たり前だ。いいから入れ」
そう言われたので、僕はリビングに入って食卓のテーブルに座った。
母親が隣にいて、向かいに父親が座った。
「俺は理由も何も公表せずに、自分の小説家人生を終えた。でも、今なら二人に言ってもいいって思うんだ」
父親のいつになく真面目な顔に少し緊張する。
ぎゅっと握りしめた手には手汗がにじむ。
母親の表情も少しだけ堅いものだった。
「俺が小説をやめた理由、それは時代の移り変わりだった」
僕はその理由に少し驚いた。
てっきり僕が生まれて安定的な職業に就くなどという理由だと思っていたから。
「影虎が生まれたころから、だんだんと時代が移り変わってきていた。スマートフォンの普及やテクノロジー、科学技術の発展。きっと、これからの時代はもっと未来的なものになっていく。そんな時に、俺は思った。そんな時代を生きる若者と、俺たちと同じ時代を生きていた若者の悩みは一緒なのかって」
僕はその時点でほぼ察することができた。
父親になるためにやめたのではない。次世代の若者に寄り添えない、そんな小説家としての考えを尊重したんだと思うと父親らしいなって思った。
「きっと違う。そんな同じ時代を生きていっていない若者の悩みを俺の小説で軽減させることなんてできない。そう思ったんだ。だから俺は、お前に幼いころから俺の考え方をたくさん教えていったんだ」
「僕を、小説家にさせるために?」
そう聞くと、父親は首を横に振った。
少し僕は目を見張らした。予想が外れてしまったせいで。
「小説家だろうが、そうでなかろうが関係ない。人に笑顔を分け与えて、希望を与えられる。そしていろいろな悩みに寄り添える、そんな人間に育ってほしかったんだよ」
僕はその言葉にまたしても少し驚いてしまった。
父親は思ったよりも、父親として僕の将来を考えた教育をしてくれていたんだなって。
「俺がこれを言わなかったのは、お前に過度な期待をかけてしまうかもしれないと憂いていたからだったんだ。でも、今のお前なら大丈夫だ。誰かのために本気になれているのだからな」
僕は少し固まった後、ほほ笑んだ。
「…なんだか、嬉しいかも。ありがとう」
普段伝えることもないような感謝。
照れくさくて思わず少し視線はそらしがちになる。それでも二人に聞こえるような声で、しっかりといったつもりだった。
二人は顔を見合わせて、同時に破顔していた。
「なんだよ、照れるな…別に感謝の必要なんかないぞ」
「ふふふ。私も照れちゃうわ。感謝する分いい子に育ってくれればいいのよ」
やっぱり、僕の親はお互いに似ていると思った。
照れて顔を赤くしているのも、似たようなことを言っているのも。
でも、何よりも似ていると思ったもの。
それは、優しい笑顔と与えてくれる言葉の暖かさだった。
第六章
夜、僕は一人自分の部屋でパソコンの前に座っていた。
一度はすべてを白紙にした、僕の小説。
小説は、僕を許してくれるのだろうか。一度捨てようとした僕のことを許してくれるのか。
小説に人格も、性格もあるはずがない。
なのに、僕は小説に申し訳なくて、許してくれるかどうかすらわからなかった。
僕は震えを押し殺して、パソコンに電源を入れた。
そして、僕がいつも小説を書いていたノートアプリを開く。
するとやっぱり、そこは白紙で、僕がいた痕跡すらなかったんだ。
そりゃそうだよなとか思いながら設定を弄っていた。その時に、見つけた一つのメモ。
「ん?…なんだろう、これ」
書いた覚えどころか、見覚えもないようなこのメモ。
好奇心に駆られてしまって、僕はそのメモを開いてみた。
『2006年 5月8日
俺の子供、夜宵影虎が生まれた今日。このメモを、いつ、だれが見ているかもわからない。
だけどきっと、こんな過去を漁っているのなら、見ているあなたは悩んでいるのだろう。そんなあなたへ、過去を生きる俺からのアドバイス。
人間というのは、悩むと視野が勝手に狭くなってしまうものなんだ。
必死にその悩みの解決策を探す。そのせいで周りを見ることもできなくなってしまい、ただただむしゃくしゃした気持ちと態度が残るだけになる。
だから、悩みは無理に解決する必要はないんだ。
俺は小説家だから、いい小説を、感動して誰かに希望を与えられる小説が書けないと悩んでいた。いや、今も多分悩みとして心の奥底にたまっている。
だけど、結果的に俺は何冊も書籍化されて多くの人に知られる小説家になった。
ただ才能があったから、そういう人もいるだろうがそれはありえない。学生時代からずっと書いていたが、悩みに悩んで、もう俺には小説を書くことすらできないと思い一度諦めかけた。
でもな、そんな悩みも一緒に人生を歩く相棒として考えてみたら急に心が軽くなった気がしたんだ。
これは悩みなんかではない、俺の個性だって。
そして、俺の個性なら個性を変えることくらいできるはずなんだって思ったわけだ。
まあ個性を変えるというのもなかなか難しい話だが、それでも悩みを解決しないといけないという心苦しさからは解放された。
悩みを悩みととらえたらいけないんだ。
まああくまでも俺の考え方だ。
参考にするもしないも、あなた次第だ。
ここで俺の昔話を少しだけ書き起こしておく。興味ない人は無視して結構。
俺が小説を書き始めたのは中学二年生のころだ。
昔たまたま図書館で見つけたライトノベルを読んでみたことがきっかけだった。
その頃の俺は外部のクラブチームでサッカーをしていた。中学校の中でもだいぶ運動神経がずば抜けていて、期待もされていた。
そのクラブチームも地方に名を轟かせるレベルだった。
だから、そのチームに集まるのは天才ばかりだった。
そんな環境に俺は置いてきぼりにされていった。あれだけ好きだったはずのサッカーが嫌いになる程度にはボロボロにされた。
身体的にもついていくのがつらくなっていったとき、俺は心までも病んでしまった。
何の気力を持つこともなく、そのサッカーチームもやめた。
完全に無気力になって、学校でもずっとボーっと過ごしているだけ。
何も楽しくない、何の希望もないような中学生生活だった。
でもその時に見つけたのが、ライトノベルだったんだ。
特にすることもないから本を読んでみようとしか思っていなかった。
でも読み始めるとともに、書いてある文字が俺の頭の中に物語を与えた。
読んでいくとどんどんその沼にハマっていって、一冊読み終わったころにはもう一冊読んでみたいという気持ちになった。
何冊も、何冊も、いろいろな物語が知りたいと思いながら読んだ。
一つ一つの物語が俺の頭に入ってくるたびに、俺の頭の中は色づいていった気がしたんだ。
嬉しさの赤、悲しみの青、安らぎの緑。
すべての感情の色を、俺は改めて本から学んだんだ。
ただ、文字が羅列されているだけなのに。
五十音をただ色々な並べ方にして、言葉として書いてあるだけなのに。
どうしてこうも感情を敏感に反応されてしまうのだろうか。
これを書いている人たちはどんな気持ちで、どんなやり方でこれを書いているのか。
俺はそれが気になったんだ。
だから俺は自分で書く立場になればいい。そうしたら、どんな感情を持って小説を書くのかもわかると思ったんだ。
これが俺、夜宵雅人の小説家人生の始まりだ。
では、ここで終わっておこうと思う。
あなたの悩みが少しでも軽くなったんだったら嬉しい。 』
僕はすべてをしっかりと読んでそれを閉じた。
このパソコン自体、父親のおさがりだ。
だから父親のデータが残っていてもおかしいことではない。
でも父親は僕にくれる前に初期化したとは言っていた。
おそらく、初期化した後にわざわざ書いてくれたものなんだろうなと思い、少し心が温かくなった。
それで、父親が言っていたこと。
悩み事を悩み事としてとらえたらいけない。
そんな考え方、思いついたことすらなかった。
「小説がうまく書けないのは個性…個性、か」
僕はパソコンを起動させたまま、ベットに倒れた。
改めて考えると、僕の個性って何なのだろうかな。
案外自分の個性を理解する事は難しいことなのかもしれない。
ここ最近見ることが多くなった気がする、部屋の天井。
それだけ多く、悩んでいるということなのかもしれない。
でもそれと同時に、今までないくらいに充実した日々を送っている。
何かに対して本気になると、毎日が楽しくなるんだなって思う。
それでも僕は彼女に希望を与えないといけない。
楽しさを感じるためにこんな生活を送っているわけではない。
目的をしっかり忘れないようにしないと。
そんなことを頭の中で考えているウチに、猛烈な眠気が僕のことを襲ってきた。
慣れない大声を出したり、慣れない感謝をしたり。
いつもと違う生活を送っていたら、そりゃ疲れもたまるよね。
明日は学校でもあるし、今日はもうこのまま眠ってしまおう。
明日、またもう一度考えよう。
夜も深くなり始めているこの時間に、僕は眠りについた。
祝日明けの学校。
周りのみんなの顔は暗い。そりゃ連休明けはつらいだろう。
でも僕は不思議とその辛さを感じることはなかった。
かといって特にすることもないし、窓の外を眺めながらどんな小説を書こうかななんてのんきに考えていた。
すると廊下が妙にざわついていることに気が付いた。
なんだろう、野良猫でも入ってきたのかな。
そう思ってちらっと視線を廊下に向けてみると、そこには制服姿の柳さんがいた。
僕はそれを見た瞬間ガタンと音を立てて立ち上がった。
「柳さん…なんで...」
まだ状態が安定しきっていないはずの彼女。
僕は速足で彼女の近くに行った。
しかし、周りには多くの女子がいて近づくことはできなかった。
「柳さん!!学校これてなかったけど大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
彼女はいろいろな人から質問されても笑顔を崩さないまま答えていた。
すると彼女の視線が僕の方に向いた。
その瞬間、彼女は足を止めて僕の方に近づいてきた。
周りのみんなは不思議そうな目で見ていた。
「や、柳さん…おはよう」
「おはよう、夜宵くん」
僕には学校に来ていた頃のような真面目な顔で話していた。
「放課後に話あるんだけど、いい?」
「うん、大丈夫だよ...」
まだ少し困惑したままの僕に彼女はそうさらっと言って自分の席に向かっていった。
周りは何が起こったかわからないような目で僕のことを見つめていた。
僕はその視線がこそばゆくて、さっさと席に戻った。
僕の前の席に座っている柳さんは、僕が座っても振り返ったり話しかけたりはしない。
あくまでも何も関係が変わっていないような感じだった。
その様子に少し寂しさを覚えながら、僕は授業の準備を始める。
あまり授業の内容は頭の中には入ってこず、柳さんの様子を気にしているうちに学校は終わっていた。
僕はさっさと準備を終わらせて席に座ってそわそわしていると彼女が振り向く。
すると僕にしか聞こえない声で話す。
「今日、家まで送って。無理言って学校に来てるから、帰りは誰かに同行してもらわないといけないっていう条件が付いたの」
「あ、うん。いいけど」
「なら早く帰ろ」
彼女は立ち上がって、学校指定のカバンを肩にかけた。
僕も後を追うように立ち上がり、カバンを手に持つ。
僕の様子を見て彼女は歩き始めたから、僕もついていく。
下足室で下靴に履き替えて、外に出た。
「ねえ、驚いた?私が学校に来たこと」
外に出たとたんくすくす笑いながら茶化すように話しかけてくる。
僕は思わずため息をついてしまう。
「ほんとに心臓止まるかと思ったんだけど」
「心配しすぎでしょ。一応お医者さんの許可もとって来たんだよ」
「一応じゃなくてちゃんととってください」
僕の心配もよそに嬉しそうに笑っている彼女。
そんな笑顔をされていたら怒こるに怒れない
「病院のベットにいても退屈だし。学校にも行きたいなって思って」
「もう…柳さんは白血病患者なんですよ。少しは安静にしないと」
すると、彼女は少し俯いて立ち止まった。
僕は何事かと思いながら、彼女に目を向けた。
「…ねえ。質問させてよ。一生生き続けるか、一か月で死ぬか。夜宵くんならどっちを選ぶ?」
彼女の口から出た言葉は、よくインターネットに転がっているような質問だった。
何回か考えたけど、僕は毎回答えを出すことはしなかった。
でも今回ばかりは、答えを出さないといけない気がした。
一生を生きるか、一か月を生きるか。
父親や母親、海斗さん、そして柳さんのこと。
今までみんなからもらった考えから、僕は一つの答えを生み出した。
「僕は、一か月を選ぶ」
「どうして?」
「一生を生きていても、僕は何を目的に生きるかなんてわからない。ただ、無気力な僕が生まれるだけだ」
無気力という言葉に、柳さんは反応する。
「それに僕は腐っても小説家だ。一生生きていくのなら、時代もどんどん移り変わっていく。そしたら、その時代の人は何に悩んでいるのかきっとわからなくなる。そうしたら、もう小説を書くこともできない」
これは父親の言葉だ。
でも、それを聞いてから僕も共感を持つようになった。
僕が小説をもう一度書こうと思った理由は柳さんだ。
何の目的もなく、時代の移り変わりにもついていけないで僕は生きる必要はない。
それなら一か月で本気で一作の小説を書く方が僕はいいと思ったんだ。
「そうなんだね。夜宵くんらしいや」
寂しそうに笑いながらつぶやいた彼女。
「なんでいきなりこんなこと聞いてきたの?」
「…お母さんが、お医者さんと話していたんだ」
彼女はその寂しそうな笑顔を張り付けたまま俯く。
目元は見えずに、上がった口角だけが覗いていた。
彼女の声は雑に塗った黄色のような声。
「完璧にすべては聞こえなかったんだけどさ、余命とか、三か月とか、お母さんの泣く声とか。色々、聞こえてきたんだよねっ」
わざとらしく語尾をはねさせて、余裕をアピールしたがっている。
それでも、彼女が隠したがっている感情はスケスケだった。
「もう、長くないなって思ったら、じっとしてられなくて。だから今日も、学校に来たの。そして迷惑なこともわかって、家まで送ってもらおうとしてたんだ」
僕は両手をぎゅっと力強く握りしめる。
腕がプルプルと震えてしまうくらいに。
「ありがとうね、ここまでで十分だから。家族にはうまく言ってごまか...」
「下手くそ」
僕は彼女の言葉を遮る。
彼女がびくっと反応した。
「いきなり下手くそって、なに?」
「感情を隠すのが下手すぎるんだよ」
彼女は押し黙る。
「今すぐにでも泣きたいほど怖がってるくせに。もっと僕と一緒に居たいくせに」
自己中な言葉を吐き出す。
僕たちの間を風が横切った。
「泣きたいなら泣けばいいのに、自分の本当の思いを伝えたらいいのに。どうして、自分の気持ちを押し殺すんだよ!!」
僕自身も感情が抑えきれなくなっていた。
秋が近い季節の乾いた空気の静寂を切り裂くような叫び声が響く。
「君には時間がないんだって、自分でわかってるのに。どうして、どうしてなの!?」
僕の叫びに彼女は涙を流す。
唯一見えて上がっていた口角はぐちゃぐちゃに歪んで、小さな嗚咽が漏れている。
僕はそれを見てハッとする。
少し、言いすぎてしまったかも。彼女に怖い思いをさせたかもしれない。
僕は彼女に近寄ろうとした。
でもそれより早くに彼女は口を開いた。
「そんなの…私が一番わかってる…でも、無理だよ、怖くて怖くて仕方がないの...」
口元を抑えて、僕の視線を憚らずに泣き始める。
「夜宵くんと一緒に居たいよ…でも、そうしたら死んでしまうことが余計怖くなるの」
僕はこのセリフを見たことある。
昔に呼んだライトノベルに似たようなセリフを見たことがあった。
でも、いざ目の前で言われたら僕は何を言えばいいのかわからない。
小説家のくせに、言葉が浮かんでこなかったんだ。
「怖いよ…死んでしまったら、友達にも、家族にも、夜宵くんにも会えなくなるの...」
希望を与えるには、どうしたらいいのか。
また彼女に生きる勇気を持たせるにはどうしたらいいのだろうか。
父親だったら、このときどんな言葉をかけるのだろう。
父親ならきっと、この場面に適切な考えを持っているはずだ。
どんなことを考えて、目の前の人を慰めるのか。
僕は顔をゆがめて、歯を食いしばって考えていた。
すると彼女が近づいてきて、僕の手を握った。
「助けて…影虎くん…」
その瞬間、僕は大きな勘違いをしていることに気が付いた。
彼女が求めているのはこの場面に最適な答えじゃない。
僕の答えを、僕自身の救いを求めているんだ。
父親がこの場面でどういうとか関係ない。僕は僕として、彼女に希望を与えるんだ。
僕の手をつかんで俯いて泣いている彼女の手を僕から強く握りしめる。
「僕は君が希望を持てるような小説を書く。もう少し先になるかもしれない。それでも、必ず君が生きるための希望を持てる物語を書くから」
彼女は鼻をすすりながら顔を上げた。
酷くおびえた表情と、赤く膨らんだ目元が心を抉る。
「だから君は死ぬことを考えたらだめだ。生きて、どんなことをしたいか。どんなところに行きたいか。それを考えなよ。その願いも僕が叶えるから」
手を握ったまま必死に彼女に語り掛ける。
目をしっかり真正面から見て逸らさない。
もう僕は大切なものから、目を逸らしたくなかったんだ。
小説からも、辛そうな彼女からも目を逸らすことはもうない。
「だからお願い。そんなにつらそうな顔しないでよ」
僕のその懇願するような声に、彼女は複雑な表情を浮かべた。
僕を不安にさせたくない感情と、自分自身が感じている恐怖でいろいろな気持ちがぶつかり合っているのだろう。
様々な色の絵の具を混ぜたら複雑な色になるのと同じで、様々な感情が混ざり合ってこの表情を形作っているのだろう。
こういう時は、どうしたらいいのだろうか。
この状況をもう一度絵の具で考えてみたらどうなるか。
ぐちゃぐちゃな色になった絵の具。それで絵をかくことは不可能に近い。
それだったら、僕はもう一度絵の具を作り直すに違いない。
それと一緒なのかもしれない。彼女に違う感情を与えればいい。
この複雑な感情を捨ててしまえるくらいに、もっと綺麗な感情を。
綺麗な感情、それは一つしか思い浮かばなかった。
「ねえ、柳さん。見てて」
彼女は少し迷ったようなそぶりを見せてから、僕の方を向いた。
そんな彼女に向かって僕は思いっきり変顔してみた。
今までないくらいにふざけきったような顔をしていた。
すると彼女は少しの間固まって、少し鋭い目つきで僕を見た。
「…何してるの?」
その声は学校でよく怒られていた頃のものに似ていた。
少しその声に焦ってしまい、顔を元に戻す。
「え、えっと…笑ってほしいなって思って」
彼女の一番きれいな感情。
それは僕自身を変えてくれた、彼女の笑顔だった。
「そんな複雑な表情してるなら、笑顔の方がいいなって。その方がつらい気持ちも吹き飛ぶかなって思った…的な?」
僕の言葉にずっと表情を動かさない。
数秒の空白が僕たちの間に流れた。気まずいその状況を打破するための話題を頭の中でぐるぐると考えていた時。
「…ふふっ…あははははっ!!」
彼女が急に噴き出した。
僕はその様子に困惑していた。
「あははっ!!本当に夜宵くんっておかしな人!!」
腹を抱えて笑っている柳さんを見て、僕はただ立ち尽くしている。
それでもいまだに笑い続けている彼女。
「ふふっ。あんな真面目な雰囲気だったのに、変顔をいきなりするなんて。本当におかしな人だね」
確かにあの雰囲気でのいきなりの変顔はおかしかったのかもしれない。
はたから見たら完全に空気を理解していない人だろう。
「でも、すっごく優しい。私を、笑顔にしようとしてくれたんでしょ」
「よ、よくわかってるじゃん」
「当たり前でしょ、まったく…ありがとうね。なんだか少し怖さが吹っ飛んだかも」
ニコッと微笑む彼女のことを見て、僕の心はあったかくなる。
この笑顔が見たかったんだ。
僕からもぽろっと笑顔がこぼれた気がした。
ぎこちない笑顔なのかもしれないけど、僕ができる精いっぱいの笑顔だったつもりだ。
「やっぱり家まで送ってほしいな。いい?」
「もちろん。送らせてもらうよ」
そう答えると彼女は嬉しそうに笑いながら頷いた。
歩き出した彼女の影を追いかけるように僕も歩きだす。
僕たちは徐々に低くなる夕日に向かって、二人影を伸ばし歩いていく。
彼女の家は周りよりかは少し大きいくらいの一軒家。
綺麗な外装に、芝生が生えている小さな庭。
こんな家で育ったんなら、そりゃ柳さんみたいな上品な人が育つだろうと心の中で勝手に納得した。
僕はしっかりと彼女を家まで送り届けた。
これでミッションは完了だ。僕は一歩下がった。
「それじゃあまた明日ね」
そう言って踵を返す、瞬間だった。
「ねえ。家に上がっていきなよ」
彼女がそう言った。
僕は後ろに振り向こうとしていたことをやめて、彼女の方を向く。
「い、家に?どうして?」
「ただ暇なだけ。どんな事したいか考えなって言ったの夜宵くんでしょ?」
いたずらっ子のような表情を浮かべながら、僕を見る。
さっきそう言ってしまった手前、断ることもできない。
よって僕は彼女の提案を飲む以外の選択肢はなかった。
「はぁ、分かりましたよ。お邪魔します」
「うんうん、どうぞ~」
ウキウキしている彼女が扉を開く。
僕も彼女の後ろに続く。玄関は僕の家より広くて、とても清潔に保たれていた。
僕は靴を脱いで綺麗にそろえた。その時後ろから足音が近づいてきた。
「雨音、おかえりなさい。あら?お友達かしら?」
振り返ると、大人びた柳さんのような女性が立っていた。
おそらく柳さんの母親だろう。
「あ、ママ。ただいま。この人は今日家まで送ってくれた夜宵影虎くん。クラスメイトのお友達」
「こんにちは。夜宵影虎です。いつも柳さんと仲良くさせてもらってます」
「どうも、雨音の母の彩夢です。ありがとうね、わざわざ送ってもらって」
「いえ、やな…雨音さんの安全のためです」
柳さんといっても、目の前にいるのも柳さんだ。
だから途中で言い直して、名前を言った。
人の名前を呼ぶのは慣れていなくて、少し不自然だったかもしれない。
「ふふっ、ありがとうね。ゆっくりしていってちょうだい。お菓子と飲み物持っていくからリビングでのんびりしておいてちょうだい」
そう言ってパタパタと履いているスリッパを鳴らしてキッチンに戻っていく。
やはり母親も上品な人だ。
「さっ、こっちこっち」
僕のことを手招きしながら扉を開けた彼女。
その先に広がるのは、洋風でおしゃれなリビングだった。
清潔に保たれているそのリビングは日本ではなく、ヨーロッパのようだった。
僕はそんな綺麗な部屋に少し驚いていると、彼女はソファーに座る。
相当柔らかいのか、彼女の体がソファーに沈む。
彼女が横にスペースを作って、ポンポンと叩いた。
それは母親が子供を呼ぶときのように。
「ほら、こっちきなよ」
「う、うん...」
僕も彼女の横に腰を下ろす。
予想した通り、このソファーはものすごく柔らかくて、心地いい。
ふかふかなクッションに座っているような感覚。
それは空を浮かぶ雲の上ではねているような気分だった。
そんなことを思っていると彩夢さんがキッチンからお盆を持ってやってきた。
「飲み物とお菓子よ。ゆっくりしていってね」
「あ、ありがとうございます」
ニコッと微笑んだ柳さんの彩夢さんの顔は、柳さんと似たものを感じた。
やっぱり親子なのだなと思う。
横を見るとすでにオレンジジュースを飲んでいる柳さんがいた。
「やっぱりオレンジジュースが一番好き!!」
「そうなんだね」
子供のようなその様子にクスッと笑みがこぼれる。
僕も一口オレンジジュースに口をつける。
体中に広がってくる感覚を感じて、言葉に表せない爽快感を感じた。
「おいしいね」
「オレンジジュースってね、ビタミンCとかクエン酸っていうのが含まれてて、美味しいだけじゃなくて疲労回復とかにもいいんだよ」
「そうなんだ、初めて知った」
彼女が自慢げに話してきたことは、この先の人生にも有益な情報な気がする。
疲れたなって思うことがあればオレンジジュースを飲んだら疲労回復を促してくれる。
その知識があるだけでもなんだかつらいことも頑張れる気がした。
すると彩夢さんがエプロンを脱ぎながらこちらに来た。
「ふふっ、仲がいいわね。そういう関係なのかしら?」
「な、何言ってるの、ママ!!」
僕はいきなりそんなことを言われてしまい固まる。
決して僕と柳さんはそんな関係はない。
「冗談よ。ムキになっちゃって」
僕たちの反応を楽しむように笑っている彩夢さん。
そんな彩夢さんにジト目を送っている柳さん。
なんだかんだ言って仲がいいんだなって思う。
「ところで、影虎くん」
彩夢さんが真面目な顔をして僕の方を向いた。
僕は顔だけでなく体もそちらに向けて、彩夢さんを真正面から見つめた。
「あなたの話は雨音からよく聞いてるわ。雨音のために小説を書いてくれるらしいわね?」
「はい、そのつもりです」
「すごくうれしいわ。自分の娘のためにそこまでして勇気づけようとしてくれていて。でも、雨音の状態をあなたは知っている?」
少し圧をかけるような言い方。
僕に危険を知らせるように強く言い放つ。
「雨音の体の状態はすごく悪い。昨日雨音には言ったけど、余命は三か月ほどだって医者にも言われてるの」
僕はその時感じたのは驚きなんかじゃない。
だから何だというような、興味もないような感情だった。
「そんな雨音のそばにずっといるなんて、あなたの精神状態的にもよくないことよ。それでも雨音の横にいて、雨音のための小説を書くっていうの?」
「...僕だって不安はあります」
その僕の言葉に柳さんは小さく俯く。
そんな彼女の様子を横目に僕は言葉を続ける。
「それは僕自身が病んでしまう可能性の不安なんかじゃないです。雨音さんが喜んでくれるような物語が書けるかどうかという不安です。僕は雨音さんがどういう状態であろうと関係ないです。僕は彼女が生きる希望を持つまで、また笑顔になってくれるまでずっと横にいるつもりです」
一切ひるむこともなく、僕は真正面から言う。
「どうしてそこまでの決意を持っているの?」
今度は圧をかけるような感じではなかった。
ただ心の中で渦巻く疑問を晴らしたい。
そう感じさせるような言い方だったんだ。
「それは、ただの僕のエゴです。ただ僕がもう一度、雨音さんの笑顔が見たいと思っただけです」
柳さんは顔を上げて目元に涙をためる。
相変わらず涙脆いなってつくづく思う。
「...甘酸っぱいわね。ふふっ、ありがとうね。正直、心配だったのよ。あなたが雨音のせいで病んでしまうんじゃないかって」
「関係ないですよ。雨音さんを笑顔にさせる、それが僕を無気力じゃなくさせてくれたのですから」
僕たちの会話を横から見つめる柳さん。
その目は酷く温かくて、大切なものを見つめているような目だった。
暖かくて、心地いいこの空間。
あとこの空間がどれだけ続くのかと考えると、何とも言えない喪失感に襲われる。
安心したような顔をしている柳さんのことを見つめていた。
第七章
週末、僕は駅の前で待っていた。
柳さんに前日の夜に連絡が来た。
明日お出かけをしたいから朝の九時に〇〇駅前集合で、とメールが送られてきた。
特に用事もないから、僕は了承をした。
一応柳さんとのお出かけだし、女の子とのお出かけだし。
そういうわけで今自分が持っている服で一番おしゃれな服を着てるつもりだ。
九時集合と言われたからそれの述分前に着く予定で家を出る。
スマホを見ると、八時四十八分、ちょうどいい。
気温がころころ変わるこの時期。
今日は長そでがちょうどいいくらいの気温だ。
彼女が来るまでまだ少しあるだろうと思って、僕はスマホを触っていた。
するといきなり後ろからちょんちょんとつつかれる。
「おはよう、夜宵くん」
柳さんの声が聞こえてきて、彼女だと確信した。
僕はゆっくりと振り向きながら挨拶を返す。
「おはよう、柳さ...ん...」
僕は思わず声がだんだんしぼんでいってしまった。
目の前にいるのは、全体的に落ち着いたベージュ色のファッションを纏った柳さん。
その恰好はいつもよりも何倍も大人っぽくて、思わず見惚れてしまいそうになる。
じっと見つめる僕の視線がこそばゆいのか、少し顔を赤らめていた。
「そ、そんなみないでよ...」
「ご、ごめんね...」
少し気まずい空気が二人の間に流れた。
でもそんな空気を破ったのは、柳さんだつた。
「...それで、どうなの。この格好は」
両手を広げて、見ろと言わんばかりに見せつけてくる。
そんな恰好はしているものの、顔はまだ赤いままだった。
少し濃い栗のような茶色のひざ丈のスカートに、淡いベージュ色のブラウス。
頭にも柔らかく、灰色の帽子を乗っけている。
まさに女子高生、いや大人といっても差支えがないくらい綺麗だった。
何よりも服に着せられているわけではなく、彼女自体が服の美しさを引き立てていた。
「すっごく綺麗...似合ってるよ」
僕は思ったままの感想を伝える。
するとさらに顔を赤らめたが、口元を綻ばせた。
「ありがとっ。じゃあ行こっか!!」
「ちょ、ちょっと待って。どこに?」
僕の腕を引っ張って今にでも連れて行ってしまいそうなほど興奮している彼女のことを落ち着かせる。
彼女はちらっとこっちを向いて、また前を向いた。
「行ってからのお楽しみだよ!!」
そう言いながら僕は駅のホームに連れ込まれる。
ICカードを改札に当てて、とある方向の電車に乗る。
あまり普段は電車に乗ることはない僕からしたら、どこに着くかなんて見当もつかない。
駅のホームで数分待つと、電車がホームに入って着た。
扉が開くと中には多くの人が乗っている。
しかし彼女はそこに向けて手を引っ張っていく。
「ほら、これに乗るよ」
「え、これ?すごく混んでるんだけど...」
人混みに慣れていない僕からしたらだいぶ苦手な空間だ。
でも柳さんはずっとこちらを見つめていた。
その視線に僕は根負けして、その電車に乗り込んだ。
休日で若者がとても多いこの電車内は、足の踏み場が少なくてバランス感覚を取りにくい。
電車が発車すると慣性の法則によって、進む方向と逆側に力が加わる。
その時大きく体のバランスが崩れそうになるが、何とか手すりに摑まる。
だけど柳さんは体が小さいせいで手すりもつり革もつかむにつかめなかった。
バランスを必死に整えようとしている彼女を見て、僕は小さな声で言った。
「柳さん、僕につかまってください」
「え、でも...」
「あなたは病人だし、女性だよ。僕は男なんだからしっかりと柳さんのことを助けないと」
柄にもないようなかっこつけ方をしてしまった。
それでも彼女は小さく頷いて、俯きがちに僕の腕をぎゅっと握っていた。
その様子に僕は少し満足したとともに、バランスを崩さないようにしっかりしないとな、と心の中で密かに決意した。
6,7駅を過ぎたころ、服の袖をくいっと引っ張られた。
僕は柳さんのことを見る。
「次の駅で降りるよ」
「わかりました」
その会話の後数分電車に揺られて、扉が開く。
僕たちは人混みをかき分けて何とか電車を降りた。今の時点で僕はもうへとへとだった。
それでも柳さんは僕の様子に目もくれず、また歩き出す。
「ま、待って...」
「もう、しっかりしなよ」
少し呆れたようにしながらも、内心ワクワクしているのが体に出てしまっている。
いつもより一歩一歩が軽そうで、跳ねているようだ。
なんだかんだ楽しみにしているんだなって、僕も少しうれしくなった。
それを気力に、僕は柳さんの後ろをついていく。
駅のホームを出ると、慣れない潮のようなにおいがした。
まさかとは思うけど、ここって...
「海、なの?」
「正解!!さっ、もっと近くまで行くよ」
彼女は足を止めることもないまま、歩いていく。
彼女の行く方向に歩いていくにつれ、少しずつ潮のにおいが濃くなっていった。
見たこともないこの街の風景。たった数駅電車に乗っただけでこんなに見知らぬ光景になってしまうのだな。
いつも僕たちが見る光景より田舎で、自然が豊かだ。
しばらく歩くと真っ青に広がる海が見えてきた。
海は太陽の光を反射させてキラキラと光っている。
しかし夏も過ぎ去って今の時期だからこそ、人はあまりいなかった。
「すごい綺麗だね」
彼女がふとしみじみと呟いた。
その言葉には様々な感情が孕んでいるように僕は聞こえた。
僕は何も返事することもなく、ただただ歩いていた。
すると彼女は砂浜へとつながる階段を下り始めた。
コンクリートで作られたその階段は凸凹で、スニーカー越しでもその凹凸を感じてしまうくらい。
砂浜に足を下ろすと、シャリシャリと足元から砂を踏む音が聞こえてくる。
心地いいその足音は二人のそれぞれ異なるリズムを奏でている。
僕より少し早いリズムで刻む柳さん足音は僕より早く足を踏み出していることがわかる。
そしてその軽快なリズムが止まる。
僕は彼女の横に並ぶ。
目の前に広がる広大な海は、今だけは僕たち二人だけのためにある。
そう言っても過言ではないほど、僕の意識には僕たち二人しかいなかった。
今日は風がほとんどなくて、海は凪いでいた。
それでも足元までやってくる波。
特に珍しい光景でもないはずなのに、なんだか感傷的になってしまう。
ふと彼女の横顔を見て見た。
まっすぐと青い海を見ている彼女の横顔はなんだか儚げで、何を考えているのか、どんな気持ちで見ているかわからない。
ゆっくりと瞬きする様子がなんだか艶めかしくて、でも目は寂しそうで。
僕は何も言えないまま、海を眺める彼女を眺めていた。
「...本当は、夏に来たかった」
彼女がふと呟いた。
波の音にかき消されてしまいそうなほど小さくて、震えている声。
「でも、私にたぶん次の夏はない。ずっと、憧れてたんだ」
「憧れてた...?何に?」
「...私が好きだって胸を張って言うことができる、男の子と海に来ることに」
僕はその言葉に耳を疑った。
好きな男の子って、状況的に僕しかいない。
つまり柳さんは、僕のことを...。
「ずっと夢の中で、知らない私が知らない男の人と海でわいわい騒いでたの。外から見てわかるくらいに、明らかに惚れている様子でさ、現実の私は病気で苦しんでいたのに」
自惚れていた僕の思考を現実に引き戻すような言葉。
彼女自身が夢にまで見たようなシチュエーションに、僕は下心を持っていた。
そんな自分に少し嫌気がさす。
それと同時に彼女が欲しがっていたのは、僕しかいないんだと思うと勇気が出てくる。
僕は彼女の手を握った。
「なら、現実にしちゃおうよ」
子供っぽい笑顔を浮かべて僕は言った。
彼女は一瞬固まって満面の笑みを浮かべた。
「うん!!」
そう言って波打ち際まで手を繋いだまま近づいた。
さすがに今海に入るのは野暮だ。
寒すぎるし、着替えも持ってきていない。
それでも彼女の思うままに、希望するように僕は動いていきたいと思う。
波打ち際でぼおっと水平線を眺めている彼女。
これが彼女のしたかったことなのだろうか。
「...こうやってさ、海を眺めるの憧れてたの」
「...どうして?」
「夜宵くんの小説でさ、二人で海を眺めながら終わるっていう小説あったじゃん。それがすごく綺麗で、いいなって思ったんだ」
あくまで僕の小説を読んで持った羨望。
その事実に少し僕は嬉しくなった。
確かその小説はそのあとに二人で同じ家に帰るというものだった。
でもさすがに僕たちは同じ家に帰るなどということはできない。
「小説ってさ、うらやましいことばっかり書いてるよね。高嶺の花が自分のことが好きだとか、絶望から救い上げてくれる人がいるとか。実際はさ、そんなうまくいくはずもないのに」
確かにその通りだと思った。
もとから恵まれた才能や、容姿。
そんなものは僕は持っていない。
だけど僕は、一度たりとも小説がうらやましいとは思ったことはなかった。
「...確かに、そうだよね。でも、僕はこんな世界だからこそ好きなのかもしれない」
僕の彼女の考えとは逆の言葉を聞いて、彼女は僕を見た。
その視線は疑問が孕んでいるような感じだった。
「こんな何の才能も何もない人生だからこそ、自分色に染めていける。自分だけの思いで本気になれる。僕はそう思うんだ。うまくいかないかもって思うから、死に物狂いで努力できるんじゃないかなって思うんだ」
僕が言っていることはただのきれいごとにも聞こえるかも、いや聞こえるに違いない。
でも、実際そのきれいごとが今この僕の身に起きている。
才能もないただの小説家が本気になっている。
それがどんな事よりもちゃんとした証拠だったんだ。
「確かに、夜宵くんの言う通りかもね。こんな残酷な世界じゃなければ、今頃私は死んでいたかもしれないもんね」
「どうして?」
「夜宵くんに助けてもらえなかったからかなっ」
語尾をはねさせて、ふふっと笑う。
照れくさいそのセリフは、僕の頬を赤らめさせた。
少し熱くなった顔を海に向けた。潮風が僕の顔を冷やす。
でもいつまでも引いてくれないこの心のドキドキは何なのだろうか。
海辺から離れて、といっても海浜で見える範囲で僕たちは魚市場へといった。
普段見ることもないようなさまざまな魚がいて、正直見て回っているだけでも楽しい。
彼女も目をキラキラさせながら歩いている。
でもその気持ちも十分理解できる。
すると突然腕をクイっとひかれた。
「ねえねえ、あそこの海鮮丼おいしそう!!」
そう指さした方向を見ると、たっぷりと盛られた海の幸がどんぶりになっている海鮮丼。
いくら、うに、マグロ、サーモン、鯛、などなど選りすぐりの食材がキラキラと光っている。
僕も思わずつばを飲み込んでしまう。
その様子を見てニヤッと笑った彼女。
「よし、行こうか!!」
そう言って僕の腕をぐいぐいと引っ張っている。
「わ、分かったからそんなに引っ張らないで!!」
そう言ってはいるが、正直彼女に体を接触されている状態が落ち着かないだけ。
ふんふんと陽気に鼻歌を歌いながら席に座る。
僕も彼女の向かいに座る。
席に着いた途端に店員さんが僕たちにお水を持ってきた。
本来すぐに料理を頼むことなんてしないだろう。
でも僕たちの頭の中は海鮮丼でいっぱいだった。
「お水です、どうぞ」
「ありがとうございます。あっ、海鮮丼二個で!!」
「え、はい。以上でよろしいでしょうか」
「大丈夫です」
そう返事を返すと店員さんはすたすたと厨房へと戻っていった。
こんなにすぐに注文されるとは思っていなくて、少し驚いていた様子が頭に残り申し訳ないけど笑えてくる。
魚市場の食事処だから、普段のファミレスやファストフード店とは異なって雰囲気。
二人とも慣れていない雰囲気でそわそわしてしまっている。
「な、なんか緊張しちゃうね」
「同感だよ。何も緊張することがないはずなのに...」
水をコクリと飲んだ。
ほんの少しだけ緊張がほぐれた気がした。
「ていうか、あんまりこの服装には似合わないような場所に来ちゃったね」
「あははっ、そうだね」
どちらかといえばカフェとかに居そうな服装をしている。
魚の生臭さとか染み込んだらどうしようとか思ったり。
でも彼女と一緒ならいいなって思っている僕もいた。
「おまたせしました、海鮮丼二つです」
そうやって僕たちの前に置かれたそのどんぶりは、キラキラと光っている。
大きい切り身やいくら、うにが白ご飯を包み見えないようにしている。
その光景を見てから、急にさっきとは比べ物にならないような空腹感が襲ってきた。
それは僕だけではなく、彼女も同じだったらしい。
割り箸をもって早く食べたいといわんばかりの視線を向けてきている。
僕は苦笑いを浮かべながら、割り箸を持つ。
「じゃあ食べようか」
「うん!!いただきます!!」
わさびをといた醤油をかけて、僕はその存在感を放つサーモンの切り身をつかむ。
そして口の中に放り込むと、口の中で生きているかと錯覚させるほどの新鮮なサーモンの味。
思わず頬を緩めて、情けない顔でそれを味わってしまう。
目の前の彼女も舌鼓を打ちながら味わっている。
一噛みするたびに広がるその味を僕たちは長い時間をかけて味わった。
お店を出ると、少しだけげんなりした二人。
あれだけおいしいのだから相当な値段をすることは予想していた。
しかし、請求された値段はとても高校生が食べにくるようなものではなかった。
お会計の時思わず二人とも数秒フリーズしてしまった。
多めに持ってきてよかったと思いながらも、僕のお小遣いの三か月分くらいが吹き飛んだ。
財布の中が少し寂しい。
それでも彼女が少しでも喜んでくれていたのだから、よかったなって思う。
長い時間をかけて食べたので、今は昼の二時過ぎ。
まだどこか行くことは可能な時間だろう。
「ねえ、柳さん。次どこかに行きたいとか...」
そう聞きながら振り返った時、僕は彼女の異変に気が付いた。
俯いたまま上がらない頭。せっかくの洋服にしわが付いてしまうほど胸を強く抑えている。
息も荒く、苦しそうな声が僕の鼓膜を揺らす。
「や、柳さん?」
「かひゅ...かひゅ...たす、けて」
掠れた声を出したっきり、彼女は倒れ込んでしまう。
僕は急いで彼女に駆け寄る。
彼女の体は火傷するほど熱くて、思わず一瞬手を引いてしまうほど。
「柳さん!!」
僕は彼女に必死に呼びかけながら、救急車を呼んだ。
周りには明らかにただ事ではないような様子を見て人が集まって来た。
でもその時の僕にはそんなことに気が付く暇もない。
彼女のことを泣きそうな目で見つめながら、名前を呼ぶことしかできない。
海沿いの街に彼女の名前が木霊する。
彼女は至急近くの病院に運ばれた。
僕も付添人として一緒に救急車に乗った。
でも気が動転してしまっている僕からしたら、寝ている彼女が怖くて気が気でなかった。
このまま僕の目の前で彼女が死んでしまったら。
僕は何のために本気になったのか。それは僕が変わったといえるのか。
何もかもがわからなくて、僕はただただ涙をこぼしていた。
待合室のロビーでずっと待ち続けている僕のもとに、二つの足音が近づいてきた。
「おい、影虎」
その鋭い声を聞いただけで、僕は誰かわかった。
そしてその隣にいる人も大体予想が付いた。
のろのろと顔を上げると、僕の予想は当たっていた。
「海斗さん...彩夢さん...」
いつも通り鋭い目つきで僕を見下ろす海斗さんと、不安で瞳が揺らいでいる彩夢さんがいた。
海斗さんが口を開く。
「あいつに、雨音になにがあったんだ」
少しおびえたような声。
海斗さんも、きっと怖いのだろう。
自分の妹を失ってしまうのではないかという不安に駆られているのだろう。
「僕と一緒に、お昼ご飯を食べました。お昼の二時ごろ、お店を出ると柳さんが苦しみ始めて...僕はただただどうすることもできなくて...」
思い出すだけで、心が締め付けられる。
無力で何もできなかった僕。
「本当に情けないですよね、僕。一番苦しんでいるのは柳さんなのに、誰よりも泣いているのは僕で。僕は彼女のことを慰めないと、希望を与えないといけないのに...」
僕のその言葉に、海斗さんは舌打ちを一つ。
そしてそのまま胸ぐらをつかまれてふらふらと立ち上がらされた。
「マジで言ってるんだったら、俺はお前をここで殴る。雨音が、お前のことをどう思ってるか知らないくせに、勝手なことを言うんじゃねえよ」
叫びつけるような声ではない。
しかし明らかに低くて、脅すような声。
「俺にだって、母さんにだって、あいつはお前の話をしてる。何回も、何十回も聞いた。自分のために本気になってくれるなんて素敵だって、かっこいいって。あいつの気持ちも何にも知らないで、ふざけたこと言ってんじゃねえよ。誰であろうと雨音が好きになった人のことを悪く言うやつは許さねえ」
僕は驚きながら海斗さんの言葉を聞いていた。
彼女が僕のことを好んでくれていたことは、さっき知った。
それでも、そこまで僕に思いを寄せてくれていることに、僕のことを認めてくれていることに驚いたんだ。
すると彩夢さんが横から近づいてきた。
「あの子、君とお出かけするんだってオシャレしておかしくないかって何回も確認してきたわ。影虎くんに可愛いって思ってもらえるように」
僕は彩夢さんと海斗さんの顔を交互に見る。
海斗さんの言うとおりだった。
柳さんが好きな人のことを、僕はなぜ侮辱しているのか。
彼女が好きな人なのだから、きっと素敵な人のはずだ。
だって彼女は、何も考えずに人を好きになるような人ではない。
自分に笑い方を教えてくれた人のことを、忘れないような人だ。
その人から受けた暖かさを皆に分け与えるような優しくて、律儀な人なんだ。
僕は海斗さんの手を振りほどいた。
そして二人に背を向けて、彼女が眠っている部屋へと向かっていった。
二人が僕の後ろでどんな表情をしていたのか、わからない。
でも僕にはやることが、やらないといけないことがあるんだ。
彼女が僕のことを愛してくれているように、僕も彼女に返さないといけないものがあるんだ。
それが何なのか、それはもう分りきったことだ。
僕は彼女に贈らないといけないんだ。
僕が書ける、最高の物語を、小説を。
彼女の病室に入ると、彼女はお出かけの格好のまま病室のベットの上に寝ていた。
まだ意識は覚醒していない。
僕は彼女の横に置いてあったパイプ椅子に座ると、彼女の手を取った。
あの時感じたような熱さは感じない。
心地いい人間の体温だった。
透き通る白肌が、彼女の美しさを強調していた。
こんなきれいな人に好かれているって思うと、やっぱり変な気分になってしまう。
それでもやっぱり、彼女には今僕しかいないんだ。
何回も落ち込んで、何回も周りの人たちに助けてもらった。
僕は何て未熟な人間なのだろうなって何回自覚しただろうか。
僕じゃできない、僕のせいでみんなを、柳さんを傷つけるかもしれない。
そんな後ろ向きの気持ちばかり抱えて生きていた。
でも、今この彼女の姿を見て思ったんだ。
柳さんが今縋ることができるのは、僕なのだ。
いつものように慰められる側ではなく、慰める側にならないといけないんだ。
周りかけられた暖かい言葉の数々を、今度は僕が彼女に渡さないといけない。
やっぱり不安になる気持ちはある。
でも、彼女に時間はないんだ。
僕のことを好いてくれているのなら、僕のことを頼ってくれているのなら、今僕ができる本気を彼女に贈らないといけないんだ。
そう考えながらぎゅっと握りしめている彼女の手が、一瞬ぴくっと動いた。
僕はそれに気が付いて、彼女の方へと視線を向けた。
薄く開いた彼女の瞳。
少しずつ開かれていく彼女の瞼。
それはまるで、夜が明けていく朝焼けの夜空のような。
少しすると僕のことを認識したようで、手を握り返されるとともにニコッと微笑んだ。
「お、はよう...夜宵くん」
「おはよう、って言っても今は夜の八時だけどね」
僕も軽く微笑んでそう返した。
彼女がまた起きてくれたことに安堵していた。
まだ体がつらいのか、起き上がろうとはしなかった。
「そんなに、寝ちゃってたんだ」
「まあね。でも起きたんだし、いいじゃん」
「それも、そっか」
明らかに少し弱っているのがわかる。
拙い言葉を紡いでいて、手を握る力も弱い。
だんだん彼女の命の灯が消えかけているのを感じる。
「これからは、入院かなぁ...」
そうしみじみと呟いた彼女。
彼女は知っている。
入院した時に、社会と隔離される孤独感を。
僕が変わろうにも変わることができない苦痛なのだ。
だから僕にできることは、少しでもこの苦痛を減らしてあげることなんだ。
「入院しても、関係ないよ。毎日お見舞いしに行く。そして必ず、僕の小説を贈るから」
少しだけぽかんとした表情を浮かべてから、にこりと微笑んだ彼女。
僕には彼女のように正確にどんな意味を孕む笑顔かを読み取ることはできない。
でも、今の彼女の笑顔は僕にはよくわかったんだ。
薄暗い病室で、僕たちは顔を見合わせて微笑んでいた。
第八章
彼女は後日、家の近くのあの病院にまた移動されるらしい。
僕はその報告を聞いて安心して、病院を後にした。
外を出ると完全なる闇で、昼間はあんなに輝いていた海も真っ黒に染まっていた。
しかし音だけは昼間と変わらないで、波がひいては押される音が響いていた。
それでも、見た目が変わるだけでそれは明るくなるものではなく、魔物が住んでいそうなほど不気味で恐ろしく感じるような音に聞こえるんだ。
スッと海に目を向けると、真っ黒の海にぽっかりと穴が開いていた。
それは空に浮かんでいる月を反射したものだった。
その海に浮いている月は、ゆらゆらと歪みながらそこにあった。
それを見ているとなんだか僕は焦燥感に駆られてしまった。
なんでそんな気持ちがわいてきたのかはわからない。
その月は僕に時間がないと言っているようで、僕のことをせかしているようで。
でもなぜだか、僕はその海に近づいて行ってしまう。
お昼ごろに来たように、僕は階段を下りて砂浜に足を踏み出す。
そしてしばらく海に向かって歩く。
するとふと横眼に映った防波堤があった。
僕はそこへと向かい足を運んだ。
ざくざくとクッキーを踏みつけるような音が何もない、ただただ深淵が広がる砂浜に響く。
防波堤まで近づくと、その堅い壁に波がぶつかり水しぶきが上がっていた。
それに上り防波堤から足を下ろして座り込んだ。
足元ではじける波が、僕の足を少し濡らしている。
なにも視界を遮るものがないこの場所で眺める海は、ただただ広大で、僕がちっぽけな存在で。
そう考えると、この世にいる人は全員ちっぽけな存在なんだ。
僕だって、柳さんだって、父親だって、母親だって。
一人の人間の存在を知っている人より、存在を知らない人の方が多いんだ。
彼女が死んでしまったところで、悲しむ人なんて世界中にいる人に比べたらごくごく少数なんだ。
そう思うとなんだか悲しく感じてしまって。
僕からしたら彼女は、大きな存在なのに。
世界から見たらすごく小さい存在なんだ。
波がまた一つ、防波堤にぶつかって消えた。
ふと月を見上げる。
なんだかエモいなって他人事のように思っていた。
この暗闇を照らす唯一の存在が、この月。
その時、僕の頭に一つの思考がよぎった。
父親が言っていた言葉、自分の作品を気に入ってくれている一人を大切にする。
ならその一人が一番喜んでくれる作品って、その人が一番気に入ってくれる作品は。
僕は防波堤の上に立ち上がり、月に向かって手を突き出す。
いくら手を伸ばしても届きっこない。
それでも僕は高く、高くその手を突き上げた。
そうだ、僕にしか書けない小説は
”彼女に贈る、僕の気持ち”
他の誰もが持っていないこの気持ちを表せるのは、僕しかいないんだ。
僕が愛した彼女の笑顔を、彼女の性格を、彼女自身のことを表現できるのは僕しかいない。
それこそが彼女に僕が与えられる最大限の希望なんだ。
彼女がまた笑顔になってくれるのは、それしかないんだ。
僕はそのまま走り出した。
早く家に帰って、この気持ちを一刻も早く表したいと思った。
波打つ音を聞きながら、僕は夜空のもとを走り抜ける。
家に帰ったのは午後十一時過ぎ。
父親も母親も僕のことを心配していた様子だった。
「影虎!!遅いじゃない!!」
玄関を開けた瞬間、母親がリビングから飛び出してきた。
その表情は焦りが含んでいて、僕の心配をしていることがひしひしと伝わって来た。
父親も玄関の方へ顔を出した。
初めは父親も少し不安そうな表情をしていたが、僕の顔を見るとそれがなくなった。
それどころか笑みを浮かび始めたんだ。
「お前の、大切な人のことだろ?お前のその顔を見ればわかる」
笑いながらも、僕の瞳の奥を覗いているようだった。
僕も父親の瞳を見つめる。
「昔の俺みたいな顔をしてるな。何かにとりつかれたように必死になっている姿だ」
ほほ笑みながらも、真面目な声でつぶやいていた。
すると母親も口を開く。
「...確かに、似てるわね。一つのことに集中しちゃうと、周りを気にしないところとか特にね」
頬に手のひらを添えながら、母親は僕と父親の顔を交互に見ていた。
二人の発言を聞いて、僕はつくづくいい環境で育てられているのだなって思う。
子供の夢や大切なものを否定しない親。
それは案外いそうでいない親だと思う。
子供につらい人生を送ってほしくないと思うがあまり、自分の人生経験から子供の人生を親が決めてしまう、そんな子供すらもいると聞いたことがある。
でも、僕の親はそんなことはしない。
それどころか好きなものを諦めようとするたびに、僕を諭してくる。
そんな環境だからこそ、僕は彼女を好きになれたんだ。
「僕の、大切な人が今苦しんでいる。その人は、僕に笑顔を、初めて本気にさせてくれる笑顔を贈ってくれた」
僕は二人の前に立ち、堂々と言い放つ。
その姿を二人とも少し緊迫したような目で見つめていた。
「だから今度は、僕が彼女に笑顔を贈る番だ。彼女の最高の笑顔を無意識に引き出してしまう小説を、僕は書かないといけないんだ」
僕自身の笑顔を彼女に贈りたいのではない。
彼女がまた笑ってくれるような気持ちを贈ることが、僕にできる最初で最期の彼女へのプレゼントなんだ。
僕の決意を聞いた二人の口角が同じタイミングで上がる。
その角度までほとんど同じでなんだかおもしろい。
「やっぱりあなたの息子ね。バカなことを言っているようで、誰よりも情が深い子に育ったわね」
「お前がそう決めたんだったら、俺たちが止めることはしない。後悔が残らないように、本気で書くんだぞ」
やっぱり、親というのは偉大なのだ。
親に励まされただけで、僕はこんなにも勇気に満ち溢れるのだから。
僕はぎゅっと自分の手を握る。
夜が深いことも関係なく、僕はただひたすらに物語の構想を考え続けた。
彼女への思いをどうしたら伝えられるのか。
どうしたら彼女の希望を与えることができるような小説が書けるのか。
僕は頭を軽く抱えながらパソコンの前に座っていた。
すると一つの存在を思い出した。
それは『宵の一時』のアカウントの存在。
パソコンのデータからすべて消去された小説の数々は、まだインターネットの海をさまよっている。
パソコンでそのアカウントにログインすると、今まで投稿した小説が残っていた。
彼女が読んでくれた作品。
この作品たちに何か共通するものはないか、僕はすべてを読み直すことにした。
日付をすでに跨いでいたけど、その時の僕は気が付くはずがなかった。
ただただ貪るように過去の作品を読みなおしていた。
すべて読み終わったころには、すでに午前二時頃だった。
父親も母親も眠っているだろう。
そんなことは今の僕には関係ない。
今日自覚したこの気持ちが萎えてしまわないように、今のうちにやり切らないといけない。
僕の作品に共通する事。
それはすべて僕の経験をもとに書いたものばかりだったということだ。
僕が初めて山の上で今まで住んでいた街の景色を見下ろしたこと。
夕暮れ時の神社で、彼岸花を見つけたこと。
家族全員で手持ち花火をしたこと。
すべてそれをもとにして物語を膨らましていっていたんだ。
些細な日常から広がっていく、そんな物語。
もしかすると彼女が好きだったのはそういう物語なのかもしれない。
彼女自身普通の何気ない生活を送ること自体が難しかった。
だからこそ僕たちの日常が非日常に感じれていたのかもしれない。
僕の拙い小説であろうとも、彼女が好きになってくれた理由はそれなんだ。
だったら僕はどんな物語を書けばいい。
彼女が欲しがっていた、楽しみたかった生活。
それは、学校生活。そして、友達と遊びに行く。
そんなはたから見たらなんとも感じないようなただの思い出だろう。
だけどこれこそが僕が今書くべき、小説なんだ。
僕のことを誰よりも応援してくれていた彼女に贈るための小説は、これなんだ。
それをしっかりと自覚してすぐに、僕は小説を書き始めた。
タイトルはもうすでに決まっているが、あえて書かない。
彼女に対しての気持ちを綴って、物語の名前を吹き込む。
その時に初めてその小説は人の心を温める、生命として生まれるんだ。
だから僕は構想を考えながらも、ほとんど僕の今の気持ちだけで小説を書いていった。
「で、でき、た...」
僕がそうつぶやいたのは、午前十一時半頃だった。
すでに太陽は高い位置まで上ってきていて、一晩を越したことが理解できた。
何とも言い難い疲れがどっと押し寄せてきて、僕は机に突っ伏した。
それでも僕は最後の力を振り絞って、その小説を紙に印刷した。
約九万文字のこの小説を、約四十枚の紙の両面に印刷した。
リビングに置いてあるプリンターで印刷をしていると、母親が入ってきた。
「あら、何を印刷してるのかしら?」
そう言いながら印刷した紙に、手を伸ばした。
だけどそれを僕は静止させた。
「ごめん、お母さん。これは僕が大切な人に贈る小説なんだ。最初に見せるのは、彼女がいいんだ」
腕をぎゅっとつかみながら、母親のことを見つめた。
少し唖然としてから、目を細めて笑った。
「ごめんね。しっかりその子にを笑顔にさせてくるのよ」
「うん、ありがとう」
母親は手を引いて、ソファーに座った。
僕は印刷がすべて終わるのが今か今かと待っていた。
「...ほんとに、そんなに本気になって。すごくかっこいいわ。でもね」
僕はちらっと母親を振り返る。
真面目な顔をした母親がまっすぐ見つめていた。
「本気で頑張った後、絶対に何かしらの反動で自分自身が苦しくなるの。お父さんのそういう様子を見ていたから、私にはよくわかるの」
母親の言いたいことは痛いほどわかった。
僕の頭の片隅にもずっとあった。
僕が本気で彼女に希望を与えたところで、彼女は消えてしまう。
そうなったら僕は大切な人を失ってしまう。
その時の精神的ダメージは多大だろう。
絶対に苦しくなるし、死にたいとも思うかもしれない。
「分かってるよ。でもね、僕は絶対に途中で諦めたくなんかないんだ」
母親が僕のことを心配する気持ちもわかる。
だけど、僕にとっては逆だった。
「今ここで、本気で頑張ることをやめたら僕は一生の後悔だ。その気持ちこそが僕を絶対に苦しめると思うんだ。目の前にいる彼女のことを見殺しにするくらいなら、僕が死ぬほど苦しんだほうがマシなんだ。だから僕のことを心配するのは後でいい」
彼女はもう、そんな苦しみさえ感じられなくなるというのに、泣き言を言っている暇なんてない。
「...なんとなく予想してたわ。確認のために聞いただけよ」
母親は分かっていたといわんばかりの表情を浮かべる。
分かっていたのなら聞かなくてもいいと思うが、母親なりの親切心だろう。
どんなことも確認したがる母親の性だろう。
僕は印刷されたその小説をもって家を出ていこうとする。
一秒でも早く彼女に届けたかった。
「あっ、影虎!!待って!!」
すると後ろから母親の焦ったような声が聞こえてきていた。
僕は立ち止って掘り返る。
すると母親が印刷されたプリントを一枚持っていた。
「一枚落としてるわよ!!」
「ごめん、ありがとう!!」
僕は素早く母親からそのプリントを受け取って、走り出した。
母親は後ろから小さく手を振っていた。
「フフッ、あんな言葉、どこで覚えたのかしら」
愛した君の涙も、普段見せる何気ない表情もすべて。
そこに一滴の笑顔が加わるだけで、それが奇跡の笑顔と化す。
僕は君の笑顔を守るために、一生あなたに物語を贈る。
僕は無我夢中で走り続けた。
だんだんと額に現れる汗と上がった息。
運動不足のせいもあるし、一番寝ていないせいもある。
それでも僕は必死に走る。彼女に一秒でも早く、この物語を贈りたいんだ。
昼下がりの街は穏やかで、僕とは違った時間が流れているようだった。
その時間を逆走していくように、穏やかな街を必死に走り続ける。
毎日来ていたように感じる病院。
その中に飛び込むと、何度も通い続けたあの病室へと向かっていった。
そして荒々しく扉を開けた。
中でベットの上に寝ている人影がびくっと揺れた。
僕は近づく。
「柳さん...来たよ」
そう言いながら、僕は手に持っていた紙の束を彼女に渡した。
彼女はまだ少し唖然としたままだったが、それを受け取る。
そしてゆっくりと視線を下ろして、題名を見た。
その瞬間に見開かれる彼女の美しい瞳。
「...すごいなぁ」
彼女から放たれる声は酷くか細くて、微かに震えていた。
「うん、読んでみてよ」
僕は彼女の言いたかった言葉をくみ取って、読むように視線で促した。
彼女はしばらく愛おしそうに見つめた。
そして僕の方を見た。
「ねえ。今から私は、これを一人で読みたい。私がいつも楽しみにしていた君の小説を読む時みたいに、静かな部屋で、一人で読みたい」
相変わらずの細い声。
それでもその言葉には強く芯の通った意志が込められていた。
僕は頷く。
「もちろん、柳さんの好きなようにしなよ」
「ありがとう。また、三時間後くらいに来て」
九万文字の小説を読むには短すぎる時間のように聞こえるが、彼女の言うとおりにしようと思う。
僕は軽く手を振って、病室を出た。
その横眼で、一ページ目を開いていた彼女の横顔がほほ笑んでいたことに気が付いた。
なんとなくどこに行く気にもなれないまま、僕は病院のロビーで待っていた。
今考えると、不思議な出会いだったなって思う。
あんなに嫌われていたはずなのに、あんなに無関心だったのに。
たまたま出会ったあの公園。
たまたま出会ったあの朝の登校。
僕と彼女の関係は、このたまたまが起こした偶然の奇跡なのかもしれない。
彼女の笑顔が見れなくなって感じたあの孤独感。
あんな気持ちを抱えることなんて、今まで一度もなかった。
それを恋心だと自覚するのにどれだけ苦労しただろう。
何度挫折しただろう。
でも、恋心というのは不思議だ。
彼女のためだって思うんなら、その挫折を乗り越えるために必死になるんだ。
無関心な僕をここまで必死にさせる、その恋心とは何なのだろうか。
彼女とキスをしたい?彼女とハグをしたい?
いや、絶対にそんな不純な気持なんかじゃないんだ。
ただ彼女の笑顔を見たかった。
なんでそこまで僕は彼女の笑顔に執着するのだろうか。
今考えるとその答えは簡単だったんだ。
何百色とあった彼女の笑顔を、僕は見たことなかったんだ。
僕に対して笑いかけてくれた。
その笑顔が美しくて、僕は一瞬にして虜にされたんだ。
夕焼けのように暖かくて、僕の背中を照らしてくれるような存在だったんだ。
単純だって、みんなは僕を思うかもしれない。
だとしたら僕は、単純でいい。
僕の心の奥にあった本気の気持ちを、闘志を無理やり引き出したのは彼女なのだから。
ぎゅっと手を握っていた。
その時ふと外の空気を吸いたくなった。
確かこの病院は屋上が開いているはずだ。
椅子から立ち上がって僕は屋上に向かう階段を上っていった。
上の階に上るたびに人影が減っていった気がした。
そして屋上の扉の目の前には誰もいなかった。
扉を開くと、強く風が僕に向かって吹いてきた。
そのせいで反射的に目を瞑った。
でも僕は確実に一瞬、目にとらえたんだ。
それは僕たちとほぼ同い年ぐらいの、女の子の背中の姿が。
次に目を開いた時にはいなかったんだ。
誰かなんてわかりっこない、はずなのに。僕は、楓さんなのかなって思ったりしていた。
僕は屋上を歩いて行って、柵を手で握った。
体全体で感じる秋の風。
この少し涼しいくらいの風が、今の僕にはちょうど良かった。
今の僕の中の熱を沈めてくれて、冷静な思考が戻ってきていた。
すると後ろから屋上の扉が開く音。僕はちらっと振り返った。
そこにいたのは、おそらく小学生低学年くらいの病院服を着た女の子。
彼女も僕の存在に気が付いて、小さく頭を下げていた。
僕も頭を下げると、彼女は近づいてきた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは」
まだ幼いその声で、僕にしっかりとあいさつをしてきた。
行儀がよくていい子だなってすぐに思った。
「僕は、夜宵影虎っていうんだ。君は?」
「私は...花屋敷紗枝って言います」
「すごくきれいな名前だね」
彼女の顔から少しずつ緊張するような表情が消えていっている気がした。
「...最初、少し怖い人かと思った」
彼女は少し申し訳なさそうに呟いた。
「私のことをちらっと見た時の目が鋭くて、何か悪いことをしちゃったかなって」
「あ、そんなつもりじゃ...ごめんね」
幼い子からしたら怖かったのだろう。
いつも笑顔を浮かべているわけでもない僕の真顔は、無表情だ。
だから自然と相手からは少し威嚇しているような顔に見えてしまうのだろう。
「ううん。名前をほめてくれた時の顔が、優しかった。お兄さん、いい人」
幼いからこその素直さ。
相手を疑うことすら知らない純粋さ。
「そっか、ありがとう」
「お兄さんは、ここで何してるの?」
僕の横に立って、同じように風を浴びている彼女が僕を見上げてそう問いかけてきた。
長い髪の毛を風にたなびかせていた。
「僕はね...大切な人の大事な時間を待っているの」
幼い彼女からしたらだいぶ難しいことだろう。
案の定、紗枝ちゃんは首をかしげていた。
「大事な時間?」
「そう。その人はね、僕に笑顔と、感情を教えてくれたんだ」
ただ一人で語り続けているような感じだ。
それでも僕の話を聞いてくれる小さな存在が横にはいた。
「笑顔...あたしも教えれるよ!!」
そう言ってニコッと満面の笑みを浮かべていた。
僕はその笑顔をしばらく見つめた後、同じように破顔した。
幼くて、何の濁りもないそのきれいな笑顔。
「うん、ありがとう。紗枝ちゃんからもいい笑顔を教えてもらったよ」
「えへへ」
嬉しそうに笑い声をあげていた。
紗枝ちゃんを見ていると、柳さんの幼いころもこんな感じだったのかなって思う。
クラスのみんなを魅了するようなその笑顔。
きっとそうなのだろう。
「お兄さんの大切な人は、今何をしてるの?」
僕はその言葉に少し黙ってしまう。
でも、もう隠すつもりもなかった。
「僕が書いた小説を読んでくれてるんだよ」
「お兄さんが書いた小説?お兄さん、小説家なの!?」
少し興奮気味に聞いてくる彼女に、苦笑が漏れる。
「そんな有名じゃないし、いい小説家でもないけど一応そうなのかな」
僕の答えに彼女はぴょんぴょん跳ねながらすごいすごい、と言っている。
周りにはいない珍しい存在だからこそこんなに興奮しているのだろう。
「お兄さんの小説、あたしも読みたい!!」
「ん~紗枝ちゃんにはまだ少し早いかも。もっと大きくなったらね」
「わかった!!お兄さんよりも大きくなるから!!」
両手をいっぱいに伸ばして、満面の笑みで僕に宣言した。
そういうことじゃないんだけどな、とか思いながらもなんだかおもしろくて。
僕は紗枝ちゃんの頭を撫でた。
「うん。きっと、僕より大きくなってね。そうしたら、僕の小説をしっかりと読んで、ファンレターでも送ってよ」
「うん、書く!!」
心地よさそうに目を細めながらいっぱいにうなずいた。
屋上に取り付けられている時計を見ると、彼女の病室を出てから三時間と十分くらい過ぎていることに気が付く。
もう、彼女のもとへと行かないといけない。
「それじゃあ、僕はもう行かないと。大きくなってね、紗枝ちゃん」
「うん!!また会おうね、お兄さん!!」
手を振りながら、僕は屋上を後にした。
彼女がどんな病気か、けがかなにもわからない。
それでも彼女はきっと、元気になって大きくなってくれると信じていた。
彼女からのファンレターを、気長に待っていよう。
そして僕は、柳さんの病室の前に立った。
なぜだかわからないが、手足が震えてしまう。何かに緊張していたんだ。
でも、僕はその緊張を押し殺して扉を開けた。
すると最初に来たように一瞬ビクッと体を反応させてから、柳さんは僕の方を見た。
その手には僕の小説が強く握りしめられていた。
「...どう、だったかな?」
僕は近づきながら、少し震えた声で聞いた。
すると彼女は俯いてから、顔を上げた。
そこに浮かんでいたのは、紗枝ちゃんに負けないほどきれいで、純粋な笑顔だった。
「すごく、よかった...感動すると、言葉を失っちゃうんだね」
少し落ち始めている太陽が、彼女の顔を照らす。
オレンジ色に染まる準備をしている街を背景に笑う彼女は、絵の中にいるようだった。
なんだか今ここに僕がいる気がしなくて、不思議な感傷を感じる。
「私が欲しいものが、すべて込められてた」
彼女は、僕が込めた気持ちをしっかりとくみ取ってくれていたんだ。
僕はそれが嬉しくて、仕方がなかった。
「そっか...」
僕は特に何を言うわえでもなく、彼女のそばに座った。
すぐに彼女に手を取られて、握りしめられていた。
その力は弱くて、少し震えていて、冷たかった。
「私さ、自暴自棄になった時期もあったんだ」
彼女は布団に隠れて見えない彼女の足に視線を向けていた。
「一生こんな病気に付きまとわれてさ、何のために生まれてきたんだろうなって」
僕は彼女から発せられる言葉を否定しようとした。
でもそれよりも早く彼女が口を開いた。
「でもさ、意味のない人生なんてないだなって思ったんだ」
「...それって、どういう」
僕は言葉を話しきる前に、唇が塞がれた。
それが彼女の唇だと理解するのに、時間はかからなかった。
突然のことに驚きながらも、彼女のキスを受け止めた。
そしてどちらからともなく、唇を離した。
「私の初キス、あげる」
いたずらっ子のような顔をしながらも、頬を紅潮させていた。
きっと僕も今は情けない顔をしているだろう。
「私は、この小説とこの一瞬を感じるために生まれてきた。これだけでもう、十分だよ」
彼女の目には、決意がこもっていた。
僕はその眼を見て、少し安心した気がした。
「...最後に、一つ聞いてもいいかな?」
「うん、何でも聞いてよ」
僕は息を吸って、彼女を正面から見る。
「僕は、君に希望を贈れたかな?」
聞くことじゃないのかもしれないけど、僕は聞かないといけない。
「...十分すぎるくらいだよ。こんなにいい作品を私のため創ってくれたと思うと、凄くうれしいし暖かいよ」
儚げで、少し触れるだけで壊れてしまいそうなほどの繊細な笑顔。
あぁ、僕はこの笑顔が見たかったんだ。
僕がずっと求めていた笑顔が今、目の前にあるんだ。
僕が必死になっていたことは、無駄じゃなかったんだ。
「...ねえ、この小説をコンテストに出してほしい」
彼女はいきなり呟いた。
「私に贈ってくれた、こんな最高な小説を世に放たないのはもったいない」
「でも、僕は君のためだけに...」
でもその時に思い出したんだ。
紗枝ちゃんのように、幼くても病院にいないといけない子もいる。
そして過去の柳さんのように、心を病んでしまう人もいる。
そんな人々に寄り添える小説が、今目の前にあるんだ。
彼女に贈った物語なんだから、そのあとどうするかは彼女の自由だ。
だとしたら僕は、このお願いにうなずくしかないんだ。
「...柳さんがそう願うなら、そうする。必ず、コンテストに出すから」
「ありがとう」
それだけ呟くと、彼女はベットに体を預けた。
きっと起きあがっていることすら、辛いのだろう。
それでも僕の手は、離さなかった。
「...ねえ、影虎くん」
その声に僕はビクッと反応した。
そして、僕は返事を返す。
「どうしたの、雨音さん」
少しくすぐったそうに、それでもうれしそうに目を細めた。
「私、泣かない。影虎くんが好きでいてくれた、この笑顔のままでいたい」
「...すごくうれしいよ。雨音さんの笑顔を、僕は愛してるからね」
小さく頷いた彼女は、天井を見上げた。
その眼に孕まれている感情は何なのだろうか。
幸福?後悔?喜び?悲しみ?
正直、僕は薄々分かっていた。
こんな言葉で表すこともできないような、そんな気持ちだと。
「...ねえ影虎くん」
「どうしたの」
「そこのテーブルに置いてある櫛で髪の毛を梳いてほしいな」
そこには紫色の蝶が舞っている、黒い櫛。
夕陽で少しオレンジ掛かっていたが、それでもわかるほどの艶やかな黒色。
僕はそれを手に取って、雨音さんの髪の毛を梳き始めた。
「どうかな?」
「うん、上手」
すでに多くは語ることすらしなくなった彼女は、表情で物事を語っているようだった。
目を開けないで、ただただ僕に任せている様子。
この櫛は楓さんのものだろう。
最期の最期まで楓さんのことを忘れない彼女は、本当に立派だ。
僕はそう思うと、無意識に口を開いた。
「...僕も、雨音さんのことを忘れないよ」
一瞬目を開くと、またすぐに目を閉じた。
「...ありがとう」
少しずつ弱くなっていく握られた手の力。
それでも、ずっとずっと僕のことを握りしめている。
そんな彼女に、僕は一言の言葉をこぼした。
「僕に、笑顔を教えてくれてありがとう」
彼女からの直接的な返事はない。
だけどその言葉を言った瞬間、彼女の手の力が強くなった。
きっと受け取ってくれたんだって。
彼女が大好きだった夕陽に照らされながら、彼女の手の力は徐々に弱くなっていった。
それでも僕は彼女の髪を梳いて、頭を撫でていた。
それは彼女の手がストンと落ちるまで、続いた。
そして最期に僕は一つ、彼女の額にキスを落とした。
「愛してくれて、ありがとう」
十七時、一番強い夕陽に包まれて彼女は旅立った。
彼女のことしか考えずに生きていたせいで、やはり彼女が亡くなった時のショックは大きかった。
学校に行くことも少し、いやだいぶ辛くて数日休むこともあった。
彼女の笑顔を見ることももうないのだと思うと、心がつらくて、なんだか吐き気が止まらない。
でもその時思い出すのは、僕の小説で喜んでくれた時の彼女の笑顔だ。
あれこそが、僕の人生をかけて得た最高のご褒美だった。
他の人から見ればただの笑顔なんだろう。
それでも、僕からしたら人生をかけて引き出した彼女の笑顔なんだ。
僕がしたことは何にも無駄なんかじゃないんだ。
彼女を笑顔にできた、一人の大切なファンを笑顔にできた。
これほどに誇らしいことなんてないんだ。
だけどいくらそう思っても、苦しさが消えるわけでも無くて。
そんなことを思っていると、家に一通の手紙が送られてきた。
それは、柳さんのお葬式の案内。明日行われるらしい。
僕は一瞬、参加するかどうか悩んでしまった。
これに参加したら彼女への思いがあふれだしてしまいそうで怖かったんだ。
でも、最期の彼女の姿を僕は見送らないといけない。
僕の第一のファンとしても、僕の恋人としても、僕に人生のことを教えてくれた恩師としても。
感謝を伝えるために、僕はまた歩き出さないといけないんだ。
高校生だから、喪服ではなく学校の制服で参加する。
ウチの高校のブレザーも黒だからちょうどいいし。
僕が案内に書いてあった場所へと向かうと、受付に海斗さんと彩夢さんの姿が見えた。
そして二人も僕の存在にすぐに気が付いた様子だった。
「この度はご愁傷さまです。心からのお悔やみ申し上げます」
「...礼儀正しいのね。きっとあの子も来てくれて喜んでるわ」
よく見ると二人とも目が赤く腫れていた。
海斗さんに至っては、横に立っているだけで口を開こうともしていなかった。
「...僕は、雨音さんにお世話になりました。だから、最期の挨拶に伺いました」
「お世話になったって、あの子の方でしょ。あの子、もうすぐ死んでしまうっていうのに、影虎くんが来てくれるから大丈夫って、ずっと泣かなかったのよ」
僕はその時点で少し、ウルッと来てしまった。
それでも必死に涙を押し殺して、顔を上げた。
「そう、ですか」
少し不自然な返しをしたまま、僕は中に入っていった。
少し歩くと、彼女の写真の周りにたくさんのお花が置かれているのが目に入った。
写真の彼女は笑顔で、脳裏にフラッシュバックした。
棺桶に近づいて、僕は彼女の顔を見た。
綺麗な死に顔で、まるで生きているようだったんだ。
たくさんのお花に囲まれて、眠っている彼女。
何にも言えないまま、僕は少し離れて手を合わせた。
せめて彼女が天国で、楓さんと会えてたらいいなって思って。
するとトントンと肩をたたかれた。
振り返ると、そこにはやっぱり悲しそうな表情を浮かべた海斗さんがいた。
そして、僕に何か手渡してきた。
それは僕が贈った小説だったんだ。
「え…どうして」
「...お前のものだ」
それだけ言って、僕に押し付けてくる。
僕はおずおずと受け取って、海斗さんを見つめる。
すると海斗さんは踵を返した。そのまま歩いていくと、途中で止まった。
「...お前、小説家だろ。最後のページ、何かいてるかわかんなかったぞ」
少し涙ぐんだ声で、呟いてそのまま行ってしまった。
僕は何を言っているのかがわからなくて、最後のページを見返した。
すると、僕は大きく目を見開いてしまう。
そして地面に、ポタポタと涙がこぼれ始めた。
足にうまく力が入らなくなってしまって、おろおろと地面に膝をついた。
そのまま崩れ落ちて、涙を流し続けた。
泣いたら彼女が心配するかもしれないのに、どうしても止めることはできなかったんだ。
「うっ、うぅぅぅ...あぁぁぁぁぁ!!」
海斗さんが言いたかったことが、僕にはすぐわかった。
最後のページの最後のセリフ。
それが何かに濡れていて、紙がしおれてしまい何も見えなくなってしまっていた。
でもそれは、絶対にただの水なんかじゃない。
彼女が流した涙ということは、言うまでもなく分かったんだ。
その涙が染み込んで、文字が見えなかった。
なんでこんなに涙があふれるんだろう。
ただ彼女が涙を流して、僕の小説を読んでいただけなのに。
なんでこんなに何とも言えない苦しさと、どうしようもない幸福感に包まれるのだろうか。
どれだけ好きなのだろうか、彼女のことが。
たぶん、この気持ちは一生引きずるだろう。
それでも僕はもう後悔なんてしない。
彼女が遺してくれたこの小説を、僕は絶対に世界に広めるんだ。
これはもう、僕の作品ではない。
僕と彼女の、二人の作品なんだ。
「本当に、ありがとう...君の笑顔が、世界で一番大好きだよ」
僕は涙を流しながら、君が教えてくれた笑顔を浮かべた。
あれから約半年後、僕はコンテストを主催した出版社からの連絡を受けた。
僕が応募した作品が、見事大賞に輝いたらしい。
でもなんだか、この連絡が来る前から大賞を取るんじゃないかなって思っていた。
僕と雨音さんが作り出したこの物語より素晴らしい作品があるものなら見せてみろ。
それくらい僕たちの作品は素晴らしい奇跡の物語なんだ。
僕はそれを報告するために、彼女のお墓へと向かった。
その手には、彼女が読んでいた彼女に贈った小説が握られている。
晴天で、春を感じる暖かい陽気。
どこまでも澄み渡っていくこの青空が、なんだか彼女のようですごく心があったまる。
その下にある、彼女の墓石。
それに水をかけると、光を反射してピカピカと光りだす。
まるでそれは喜んでいるように。
そして線香をあげて、僕はお墓に向かって手を合わせ、目を瞑った。
しばらくして目を開ける。
「ねえ、雨音さん。この作品がさ、無事に大賞に選ばれたよ。さすが、君の小説の見る目は一流だね」
彼女が喜んでくれた作品はきっと、他の読者も喜んでくれるんだろう。
僕はあれから、彼女から受け取った勇気とともに小説についてよく勉強した。
どんな人がこの物語で喜んでくれて、こういう人にはどんな風な物語が必要なのか。
それを考えて、より一層小説に熱を注いできた。
「君が最後に残してくれてヒントのおかげかな。僕、いやたぶん誰にも思いつかないようなことを残してくれたよね」
正直彼女自身外として残したものではないんだろう。
それでも僕はこの表現がどうしても頭から離れてくれなかった。
「...なんだか、君がいなくなってからさ人生に楽しみが少なくなった気がしたんだ」
あんまりこういうことは言っちゃいけないんだろうけど、実際にそうなんだ。
「でもさ、君のおかげでさ楽しみを探す楽しみっていのが身についたんだ」
彼女と出会ったときのように、たまたまの出会いが僕の人生を変えるのかもしれない。
君と出会ったおかげで僕の人生はいい方向へと向かい始めたんだ。
君が好きでいてくれたから、また僕は小説を書こうと思えたんだ。
本当に雨音さんには感謝しかないなって。
僕は少しでも小説で感謝を返すことはできたかな。
多分、いやきっとできたんだと思う。
そう思わないと、雨音さんに失礼だもんね。
「雨音さん、見ててね。これから絶対に大物小説家になって、君の物語をもっと世界に広めていくから。安心して、空から眺めておいてよ」
僕は大きな空を見上げながら、両手を開いた。
きっと彼女がまた、僕に勇気を与えてくれる。
僕はそれを少し期待しながら、また小説を書いていこうと思う。
「また会いに行ったら、たくさん僕の小説を贈るね」
その言葉に、空から一つの雨粒が落ちてきた。
晴れているのに雨が降る天気雨。
天気雨の別称、それは
”涙雨”
私は彼の物語を、大賞に推薦した。
その結果無事大賞になったらしい。
『宵の一時』
それは一日の最後に心を安らがせる小説を書くという意思がよく伝わって来た。
彼の大切な人への向けた小説だけど、きっとこの小説は様々な人に寄り添える作品だろう。
彼の話を読んでから、私はもう一度しっかりと小説を学んでみようかなって思えた。
この時点で私自身も彼の小説に心を動かされたのかもしれないな。
高校生というまだ人生というものを理解しきれていない年齢でも、彼は自分の夢をかなえるために今必死になって小説を書いている。
それだけで、きっと天国にいる彼女さんも喜んでいるのだろう。
彼にはきっと、これからもお世話になるだろうね。
この出版社を通じて、彼が大物になってくれることを願っているよ。
さて、今日のところは私も帰ろうかな。
私は彼の小説の最後の言葉を心の中で反芻しながら、帰路へとついた。
愛した君の涙も、普段見せる何気ない表情もすべて。
そこに一滴の――が加わるだけで、それが奇跡の――と化す。
僕は君の――を守るために、一生あなたに物語を贈る。
今、コンテストの優秀作品を決めているところだ。
しかしどれもこれも、ありきたりな文章ばかりで読む気がなくなりかけた私。
もう一作読んだら、今日は終わろう、そう思ってまた作品を手に取った。
作品名は気に入ったが、名前がいいだけの作品も見てきた。あまり期待はせずに読み始めた。
すると何万文字も並ぶ文字に目を通すたびに、私は驚きが増した。
なんで、こんなにこの物語にのめり込んでいくのだ。
何百、何千、何万と読み、時には書いてきた私。
でも、これほどまでに素晴らしい作品は見たことはなかった。
決して文章力がある訳でもない。
なのに、なんでここまで心が惹かれるのか。
読んだ本の数が三千冊を超えたあたりから、涙を流すことはなくなった私。
どんな作品も同じように見えた私の目からは、透明な涙がこぼれていた。
私は気になった。
どんな人が、この作品を書いたのか。
調べてみると、それはなんと高校二年生の男の子が書いたものだったんだ。
私は電話で彼に直接話を聞くことにした。
すると、彼は快く受け入れてくれた。
あの作品を作った経緯や書いていた時の彼の心情を事細かく聞いた。
そして、また驚かされたんだ。
この物語は、彼自身の経験をもとに作られた作品だと。
そして、最後に彼は言った。
「僕がまた作品を書くでしょう。しかしこれ以上の作品を書くことは、絶対にできないです」
と。
第一章
何事もない、平和な学校生活。
人間関係に悩みもなくいて、趣味もあって、思い描いた高校生活だった。
でも、僕は部活には入っていかった。
それは、僕の趣味である、小説を書くことが部活に入ると時間的にできなくなってしまうからだ。
誰にも、この趣味は言っていない。
親にも、先生にも、もちろん友達にも。
だって僕の作品を、知人に見られたくない。
単純に、恥ずかしいし。
だから僕はネットの中で、小説を書いて投稿している。
「…おっ」
学校の休み時間中、僕はスマホを開いた。
そして、小説がアップできるアプリを開く。
そこに、運営からの通知が来ていたんだ。
きっとこれは前に応募した、小説大賞の結果報告だろう。
少し震えた指先で、液晶画面をタップする。
徐々に映し出されていく画面。
「…くっそ」
思わず机に突っ伏してしまった。
結果は、落選。
これを含めて今まで四回応募したが、一度も一次審査すら通ったことがない。
やっぱり僕には才能がないのかな。
そんなことを頭の片隅で考えながら顔を上げる。
すると、僕の小説に何かコメントが付いていた。
名前は、Y。
随分適当な名前だなって思うけど、特に気にせずコメントの内容を見る。
『作品、読ませていただきました!!すごく感動したし、どんどん読み進められました!!きっとこれなら、大賞取れますね、頑張ってください!!』
このコメントを見て、少し心があったまった。
結果、落選してしまったが、一人でもこう言ってくれる人がいるのはうれしい。
僕はそのコメントにいいねマークを付けておいた。
すると、無意識に口角が上がった。
そんな僕の様子を見ていた、僕の前の席に座っている、柳雨音がこちらを冷たい目で見た。
「何にやにやしてるの?気持ち悪いよ」
「ご、ごめん」
丸眼鏡の奥からこちらに向けられる視線が、酷く冷たく、鋭かった。
彼女はこのクラスの中でもなかなかの美女で、狙っている人も多いとかなんとか。
まあ色恋沙汰は僕から一番遠い場所の話だ。
ましてやクラスの中心にいつもいる彼女。僕からしたら高嶺の花だな。
彼女は委員長も務めており、気の強い性格。成績も優秀らしい。非の打ちどころもないような彼女。
でも僕みたいに基本的に無気力な人間は嫌いなようで、よく怒られている。
彼女の性格的に許すことができないのだろう。
「一人でさっきから何見てるのよ」
席を立ちあがろうと、椅子を引いた彼女の様子を見てスマホの電源を消す。
彼女は僕のスマホの画面をのぞき込んできたが、何も映っていないのを見て少し怒ったように僕を見た。
「何隠してるのよ。もしかして、そういうサイト見てたの?やめてよ、こんな場所で」
「そんなもの見てないよ!!」
とんでもない誤解をされかけたせいで大声を出してしまった。
彼女は少し目を見開いて、僕のことを見ていた。
「夜宵くんって、そんな声出るんだね…」
僕の声がいつも小さいことは知っているが、そんなに驚くことだろうか?
「あられもない誤解されたらそりゃ焦るよ。あんな声も出るにきまってるじゃん」
「そうなんだ。てかこんな会話どうでもいいから、何見てたか教えなさいよ」
「…黙秘権を行使します」
「なんでそんなに見せたくないのよ」
呆れたようにため息をついた彼女。
丸眼鏡の奥の瞳は相変わらず、僕のことを冷たい目で見ている。さすがに僕でもそろそろ傷つきそうだ。
「なら別にいいわ。でもにやにやしないでね」
彼女はまた自分の席へと戻っていった。
別に僕が何見てようが、彼女には関係ないし、仮に言いふらされたりしたらめんどくさい。だから絶対に、学校の奴にも見せない。
「おい影虎~今日お前日直だぞ、黒板消せよ~」
クラスメイトにそう言われて、今思い出した。僕は今日、日直だ。
次の授業が始まるまで約二分。黒板にぎっしり書かれた数式。間に合うか微妙なラインだった。
すると、柳さんが立ち上がった僕の方を見た。
「あれだけの量、一人で消すの大変でしょ。私も手伝うから、早く消すわよ」
「うん…ありがと」
「どういたしまして」
彼女が人気な理由は、こういうところにもあるのかもしれない。
困っている人には、自分の利益など考えずに助けに行く。委員長としての責務を全うしているところ。
そんな彼女の勤勉さも、彼女が慕われる理由だろう。
そんなことを思いながら、二人で黒板を消していた。
もう太陽が西の空の低いところにいる時間帯。
それでも、夏の今は暑い。ただ帰宅するだけでも汗が出る。
べたべたと背中にくっつく肌着が不快で仕方がなかった。
僕の家は歩いて十分ほどの場所にあるが、今の時期はそれが長く感じる。
逃げ水が見えるようなコンクリートの道路が、林だったらもう少し涼しいのかな。
そんなあるはずもない妄想をしていた。
重い足を動かしながら歩いていると、ふと後ろから肩をたたかれた。
ゆっくりと後ろを向くと、そこにいたのは父親だった。
「よっ、影虎。お前も帰りか?」
スーツ姿の父親は制服の僕なんかより暑そうに見えた。
人に愛されるような笑顔をしている父親のことを、僕は覇気ない笑顔で見る。
「そうだよ…お父さんはこんな暑いのに、元気だね」
「お前は若いのに元気がないな」
また冗談のように僕に笑いかける。
二人肩を並べて帰路を歩く。僕の影の横に、もう一つ影ができた。その影は、僕たち自身の体の何倍も大きかった。
「ただいま~」
「ただいま」
二人一緒に玄関に入る。特に何の特徴もない一軒家の家。ここが僕の家だ。
奥からパタパタと走ってくる音が聞こえた。
そしてひょこっと、小柄な僕の母親が顔を出した。
「あら、二人一緒なんて珍しい。おかえりなさい」
「たまたま道で会ったんだよ。それより今日のご飯は何かな~?」
「今日はお父さんが大好きな、アジフライよ」
それを聞いた父親の目が、まるで子供かのように輝いた。
「やった!!急いで着替えてくる!!」
父親は革靴を脱いで、二階の自分の部屋へと駆けていった。
つくづく僕は、父親が子供みたいに感じる。
僕はゆっくりと母親へと視線を向けなおした。
「ねえ…あの話本当なの?」
僕がそう聞くと、母親は苦笑しながら口を開いた。
「確かに、あの様子を見ていると疑うのも仕方ないわよね。それでも本当なんだよ」
呆れたような笑顔をした母親。でも本当は父親のことを尊敬して、愛しているのだろう。
すると、キッチンからピピピっとタイマーの音が鳴り響いた。
その音に母親は急いでキッチンへと向かっていった。
なんだかんだ、二人とも似てるんだよな。だからこそ、夫婦なんだろうな。
僕も少し汚れている運動靴を脱いで、自分の部屋へと向かった。
とある日、母親は僕に告げたんだ。春先の風を感じるころ。なぜその時、その日だったのかは知らない。
父親は、小説家だったらしい。
小説の中の、ライトノベル。学生に向けての小説を書いていたらしい。
数作品、書籍化されているほどの小説家だったんだ。
若い年代の人たちの悩みに寄り添うことができるような物語が、多くのファンを集めた。
しかし、僕が生まれたと同時に、小説を書くことをやめたらしい。
母親がいくら問いただそうとも、父親はそのわけを言わなかった。
突然の電撃引退。ファンたちは驚きつつも、お疲れ様などの温かいメッセージを送った。
そんな父親が、僕が子供のころからよく言われたことがあったんだ。
「いいか、影虎。希望っていうのは、人から与えられるものだ。だからこそ、お前は希望を与えることができる人間になれ」
小さいころ、僕はその言葉を理解できなかった。でも、今ならなんとなくわかる。
小説家という、人の目に触れやすい文章を書く人間だからこそ、多くの人間に希望を与えてきた。だからこそ、僕にもそんな人間になってほしいと思っているのだろう。
同じように小説を書く立場になって分かったことだけど、思った以上に人の印象に残る文章を書くことは難しい。
大体の場合、その場で面白いって思われても、すぐに忘れてしまう。
それはただのその時の暇つぶしと大差ないのだ。
でも、父親が書いてって言われている文章は一生心に残り続けるものばかりだった。僕に人生の生き方を、人の気持ちを教えてくれたのは、その文章だった。
今だって、僕の心の中にある。
僕はこんな小説を書かないといけないのに、ただただ文章量だけ盛って長編作品を書くことしかできないんだ。
そんな僕が希望を与えられるわけがない。そう、何回自己嫌悪に陥ったことか。
それでも折れずに書いてこれたのは、僕の小説を読んでくれるファンがいたからだ。
さっきのYだってそのうちの一人だ。
たくさんの応援や慰めのコメントをしてくれて、僕の小説を毎回楽しみにしていてくれる。そんなファンがいるからこそ、僕はまだ書いているのだろう。
人に希望を与えることができる、ただそれを目指して。
翌朝、眠い目をこすりながらまた今日も登校していた。
大きく口を開けてあくびをして、新鮮な空気を肺の中に入れる。朝の綺麗な空気は、いつもよりほんの少しだけおいしく感じた。
基本的に僕は、朝早い時間に登校している。そのため学校の人会うことは少ない。
その分気楽に、ゆっくりと歩いていくことができるから好きだった。
東から上る太陽が、街を照らしている。夕焼けのように赤くはなく、白くて優しい日差しだ。
いくら日差しが優しいといえど、暑いことには変わりない。朝だから幾分かはましだが、歩いていると汗をかくくらいは気温が高い。
一度立ち止まって、カバンを開く。中から水色一色のタオルを取り出して、首筋やこめかみなどを拭く。やっぱりタオルを持ってきて正解だったな。
過去の自分の行動をたたえながら立ち上がる。
すると目の前に、見覚えのある制服の女子が立っていた。ピシッと着こなされた制服はしわ一つもない。この制服は、絶対に…
「…おはよう、柳さん」
「こんなところでしゃがみこんで、何怪しいことしてるのかって見に来たら夜宵くんか。おはよう、何してたの?」
「カバンからタオルを出してただけだよ」
彼女のメガネが、太陽の光を軽く反射している。いつも以上になんだか厳しそうな見た目だ。
僕は手に持っているタオルを見せつけると、興味なさそうに方向転換をした。
「そ。怪しいことしてないならいいわ。学校に行きますよ」
歩き始めた彼女の横を、僕も歩く。
こんなに制服をしっかり着て、暑くないのかな。汗もほとんどかいていないように見える。
すごいな、やっぱり優等生だと汗をかかないものなのか?
「…ねえ」
その言葉で、ハッとする。意識が現実に引き戻された。
「見るなとは言わないけど、そんなじろじろ見ないで」
「す、すいません」
不快そうな目で僕のことを見ていた彼女。
また怒られてしまったなって内心げんなりしていた。すると、彼女が少し長めの髪を指で掬い、耳にかけた。
「私の顔に、何かついてたの?」
心なしか、少しほほを赤らめていた。
もしかして、僕が彼女を見ていた理由は、何かついていたからだと思っているのか?意外とかわいいところもあるのだなと、驚いてしまう。
「いや…何もついてないよ」
「じゃあ何で見てたのよ」
「…黙秘権を行使します」
「昨日も聞いた!!」
少し声を荒げながら、僕の回答に文句を言う。
女子だから、僕よりか身長は小さい。ちょっとだけ上を見ながら怒っている姿はなんだか可愛らしかった。
「隠し事ばっかりしないでよ。秘密が多すぎるのはよくないよ」
「そうかな。別に僕はいいと思うけど...」
彼女は少し頬を膨らませた。
まるで漫画やアニメで見る、典型的な怒り顔のような感じだった。
「友達が秘密ばっかり持ってたら、気分が悪いの。別にそんな悪いことをしているんじゃないんだったら、言ってくれてもいいのにって私は思うの」
「そんな単純な話でもないんじゃないの?どうしても知られたくないこととかもあるでしょ」
すると彼女は僕のことをちらっと見た。
「そんなこと言うってことは何か知られたくないことがあるってこと?」
僕は墓穴を掘ってしまったらしい。
もしかすると彼女はここまで計算をして、話を進めていたのだろうか。それだとしたら、まんまと引っかかってしまった。
僕は答えることができないでしどろもどろしていると、彼女の視線が逸れた。
「まあ、私もあるから何にも言えないけどね」
その彼女の声色はいつもと違って、なんだか少し暗いというか、悲しげというか。
そんな彼女の声を聴いたことない僕は、彼女にどう声をかければいいかわからなかった。
ただ彼女のことを見つめて、歩くことしかできなかった僕は、臆病なのだろうか。そううじうじとまた考え込んでいると、背中をバシンと叩かれた。
「うおっ!?」
「そんな顔しないで。別に私は悲しんでるわけでも何でもないの!!いちいち女々しく考えなくていいから」
背中をバシバシたたく彼女は、酷くまぶしい笑顔だった。
いつも怒らしてばかりだったけど、人を慰めるときは、こんな顔するものなんだなって思った。表情をうまく使い分けれている彼女。様々な色が映し出される彼女の表情は、見ていて飽きないものだった。
「早く学校に行くわよ。今日は数学の小テストがあるんだから、勉強しないと」
「えっ!?そんなの言われてたっけ!?」
「言ってたわよ。今ならまだ間に合う、急ぐわよ!!」
そう言って駆けだした彼女の後ろを追いかける僕。
まだ暑さが本気を出していない街を、二人で走っていく。
今日はきれいな、晴天だった。
彼女が言うように、本当に数学の小テストが実施された。彼女に忠告されなければ、酷い点数を取っていたことだろう。感謝を伝えておくことは必要かな。
六限目が終わって、各々が帰る用意を始めているとき、僕は彼女の肩をたたいた。
すると少し不思議そうに振り返った彼女。
「どうしたの?」
「いや、今日の朝、小テストがあるって教えてくれてありがとうって言いたくてさ」
僕が少し視線を逸らしながらもそういうと、彼女は口元を抑えて笑った。
僕はその笑顔の意味がうまく汲み取ることができなかった。
「な、なんで笑ってるのさ」
「いや…ふふっ。変なところ真面目で、面白いなって思っただけだよ」
彼女はいまだに笑っていた。まるでそれは面白いものを見た時かのような笑顔だった。
するとまた、彼女が口を開いた。
「別にいいわよ。ていうか当たり前じゃない。教えることも、委員長としての役目でしょ」
今度の笑顔は少し、大人びてて艶めかしかった。
同じ笑顔でも、様々な笑顔を持っている彼女はすごいって思う。
たとえるなら、同じ青色でも、何百色とあるような感じだ。表情という名の色をたくさん持っている彼女。僕なんかせいぜい持っていても五色くらいだ。
笑顔、怒り、悲しみ、呆れ、喜び。
しかも彼女のように一つの表情ごとに、何色も持っているわけじゃない。
それだけたくさんの表情を使うことができる彼女に人気があるのは、必然なのかもしれないな。
「まあどうにしろ、助かりました」
「別に教えること自体に不満はないけどさ、しっかり覚えておいてもらわないと。いつでも教えれるわけでもないんだからね」
なんだかツンデレ味を感じる。
彼女のような人物をもとにして、小説を書いてみるのも悪くないのかもしれない。
いいネタが浮かんで、小説を書く気があふれだしてきた僕。
早く家に帰って、執筆を始めよう。そう思って、カバンを持ち上げた。
「それじゃ、柳さん。僕はこのあと少し用事があるので、帰ります」
「あっ...」
彼女は僕に向けて手を出しかけた。でも、すぐにひっこめた。
彼女からこぼれた小さい声を、僕の耳はしっかりととらえていた。
「どうしたの?」
僕がそう聞くと、彼女は少し視線を逸らしていた。でもはっきりと、呟いた。
「どうせなら、一緒に帰りましょ...」
「…え、僕と?」
こくりと頷く彼女。どうしよう、なんだか彼女に対してのイメージがつかめなくなってきた。
気が強くて委員長気質、様々な表情を使いこなすツンデレ…
なんだろう、ギャルゲーのヒロインみたいなイメージに変わりつつある彼女。
「別にいいですけど、なんで僕と帰りたいの?」
「いや…せっかく一緒にいるんだから、一人で帰りたくないじゃない」
いまだに視線が合わないままの彼女を見て、僕まで少し照れそうになる。
意外と彼女は乙女なんだな。今までずっと、一人で生きていける女性としか思っていなかったが、彼女も一応年頃の女の子だ。
勝手に僕が、侮りすぎただけなのかもしれない。
「いいですよ、帰りましょう」
そう答えると、彼女の表情はパッと明るくなった。そして、カバンを持ち上げた。
「さあ、帰るわよ!!」
「はいはい」
嬉しそうな彼女の横に、僕は彼女の思うままにいてあげようと思う。
そんなこと思いながらも、少しだけ楽しく思えてる僕も乙女だな。
「行きも帰りも人と一緒とか初めてかも」
「え、ほんとに?」
特段仲がいい友達もいずに、たまたまあったら一緒に行ったり帰ったりするくらいの関係性しかなかった。
だからこそ、おんなじ人が長い時間隣にいることは慣れていなかった。
「まあ、特別仲いい人もいないし」
「それは夜宵くんが全然人と関わろうとしないからでしょ。趣味とかないの?」
「なんで趣味を聞くのさ」
「それをきっかけに仲が良くなる人とか見つかるかもしれないでしょ」
「別にほしいとは言っていない」
「強がりだね。いいから答えなさい。ちなみに、黙秘権はないからね」
すでに黙秘権を使うことが読まれていたか。
まあ二回も使ったし彼女も学ぶことだろう。今は逃げるよりも、どう嘘をつくかを考える方が得策だな。
その時パッと目に入ったのは、ぎらぎらと燃えている夕陽。
それはあまりにもきれいで、いつまでも見ていられる。一瞬見えただけでもそう思えるくらいだった。
僕はゆっくりと夕陽を指さした。彼女は少し不思議そうに僕を見る。
「夕陽を、眺めることかな」
太陽を見つめたまま、僕はその場に立っていた。
なんか文句言われるかな、そう心のどこかで思っていた僕。でも、彼女の反応は僕の斜め上を行った。
「…うん、わかる。私も、よく一人で見つめてるよ」
その返事に、僕は思わず彼女の方を向く。
すると彼女は僕ではなく、夕陽を見つめていた。その目は少し、いやだいぶ感傷的に見えた。
僕はそれを見て思った。美しい、と。
彼女は夕陽に照らされていた。光を受けて輝く宝石のようだった。
「朝日じゃなくて、夕陽を見るのが好きかな…夕陽の方が、暖かい気がしてさ」
しみじみと呟く彼女。それは趣味なんかじゃなく、それがないといけない、そう感じさせるような言い方だった。
僕は思わず、彼女に一歩近づいた。
なんだか、彼女が泣いてしまいそうに見えたから。
でも、彼女はくるっと踵を返して、歩き出す。
「ちょ、待ってよ」
「夜宵くんにしては、いい趣味持ってるじゃん」
さっきの表情とはうって変わって、好感を持ったかのような笑顔。いつも彼女が教室でしているような笑顔だった。
こっちの方が彼女らしいとは思うけど、さっき見せた一面が忘れられなかった。
彼女の弱い部分のような。彼女の悲しそうな表情が。
なんでそんな顔するの、そう聞きたかったけど、踏み込んだらいけない気がした。
だから僕は、また彼女の横に並んで歩く、それが精いっぱいだった。
第二章
金曜日の夜。
明日からの休みを楽しみにして、夜更かしをする学生は多いだろう。
まあ僕もそのうちの一人だ。小説を書いて、日付を跨ぐなんてざらにあった。
今は小説を書くためのちょっとしたモチベーションがある。それが、僕が好きな出版社がやっている、小説大賞だった。
このコンテストで大賞を取れば、書籍化もされるらしい。
正直言って、大賞をとれる自信などないがゼロパーセントでもない。
もし書籍化なんてされたらという妄想に浸りながら、小説の構成を練っていた。
様々に浮かび上がるイメージはあるものの、それもありきたりなものばかりでいい作品が書けそうもなかった。
いったん考えることをやめて、ベットに仰向けになり、天井を仰ぐ。
読んでいて感動する本というものは、どうやって生み出されるのだろうか。突然天から降ってくるものなのか?そんなはずはない。
きっと自分の経験も織り交ぜて、自分が一番感動すると思うストーリーを小説にして書いているのだろう。僕はまだ経験したものの数も少ない、ただのしがない高校生だ。
その点、僕はハンデを背負っているような気がして不平等に感じた。
でも実際、僕より若くても書籍化を成功させている小説家たちもいるわけだ。
それはもう、才能なのだろうか。そんなこと考えてしまったら、もうどうすることもできないように感じてきた。
頭をぶんぶん振って、そんな考えを振り払った。
すると、スマホに何か通知が来ていることに気が付いた。液晶画面をタップし、開くとこの間の一万文字程度の短編小説にコメントが付いていた。
やはり、そのコメント主はYだった。
『今回も読ませていただきました!!すごく読みやすくて、物語に没頭できました!!今回も素晴らしい作品ありがとうございます!!次の投稿を楽しみに待っています』
やっぱりこの人のコメントを見るたびに、口角が上がってしまう。
いつでもこうやって感想を言ってくれる人がいるのは幸せなことだ。心があったかくなって、もっとたくさんの物語を届けたいと思う。
スマホを弄っていると、もう一つコメントが付いていることに気が付いた。
その送り主は見たことない名前の人だった。
『文章構成下手すぎ。小説を舐めるな』
それを見て、少しだけ落ち込む。
別に僕の小説を罵られたことはどうでもいいが、こうやって見に来た人のことを不快にするようなコメントはやめてほしかった。
何かコメントで反論してやろうかと思ったが、さらにその場の空気を乱したくないからやめた。それでもなんだかむしゃくしゃが止まらなかった。
だから小説のことなんか忘れて、ふて寝をした。どうしようもなく虚しい気持ちだけが残っていた。
そのままぐっすりと熟睡をしてしまい、金曜日の夜を超えて、土曜日の早朝に目を覚ました。まだ寝ぼけている眼で時計を見ると、午前五時の少し前を指していた。
二度寝することを考えたが、妙に目が冴えてしまう。
確か昨日寝たのは午後十時半ごろだ。
人間の睡眠循環時間として、一時間半ごとに一番眠りが深くなるらしい。だから、ちょうど眠りが浅くなってきたころに起きたから目がさえているのだろう。
どこで聞いた雑学だっけ、これ。忘れちゃった。
まあ今はそんなことどうでもいい。起きてしまったし、何かした方がいいのかな。
いつもこんな時間に起きることがないせいで、何をすればいいのかよくわからない。
まあよく小説にも出てくるし、散歩でもしてみようかな。
思い立ったが吉日だ。気の変わらないうちに服を着替えて行ってこよう。
今の時期は日中こそ暑いものの、朝となれば話は別だ。ひんやりとした風が頬を撫でる。
それが心地よくて、週に一回くらいこんなことをしてみるのもありだなとか、なぜか上から目線に考えていた。
いつも通る道でも、周りに誰もいなくて薄暗いと見たことがない道のように見えた。
カーブミラー、信号機、電柱、なんてことないものばかりのはずなのに、酷く新鮮で面白く感じた。
そんな風に周りに興味を持ったまま歩き回っていると、家から徒歩十分ほどの公園にいつの間にかついていた。
ブランコ、滑り台、ジャングルジムなどがある少し大きめの公園。僕はなんだか楽しそうに見えて、公園に足を踏み入れた。
犬の散歩をした老人が一人。それ以外は僕しかいない、と思った。
よく見ると、ベンチに誰か座っている。まあ別に変な事でもないし、スルーしようと思った。でも、横を通った時、気が付いたんだ。
「…柳さん?」
「え…なんでいるの?」
なんでいるの、は少し傷つくがまあ気持ちはわかる。
公園で、ましてや早朝だ。同級生と会うことなんて予測もしていなかっただろう。
まあ僕もそれは同じだったけど。
「なんだか早く目が覚めて、暇だったから散歩してた。そっちはなんでいるの?」
「私、は...」
彼女は少し俯く。僕はその行動に少し首をかしげる。
すると張り付けたような笑顔をして、顔を上げた。
「体づくりのために、ウォーキング!!毎週土曜日しているの」
なんだか僕はそれが嘘のようにしか見えなかった。質問をしたときのあの行動。
何か隠しているのだろうが、僕にそこまで踏み込む権利はない。
「暇なら少し話していこうよ」
彼女は体を横に動かして、ベンチの手前側に空間を作った。ここに座れという意味なんだろう。僕はそこに腰を下ろした。
歩くことに夢中になっていて気が付かなかったが、思っていた以上に足が疲れていた。
足の裏がじんじんとしていた。運動不足過ぎるかもしれないな。
「なんで散歩してみようって思ったの?」
「いや、早く起きたからって言ったけど」
「違うって。早く起きてもさ、運動が嫌いそうな夜宵くんなら家にいそうじゃん。なんで外に行こうと思ったの?」
なんか今失礼なことを言われた気がする。
悪びれる様子もなく言う彼女に若干ムッとしながらも、無視をする。
「別に。前読んだ小説で朝の散歩が気持ちいいって言ってたからだけだよ」
「へ~小説とか読むんだ。どんなジャンルのやつ読むの?」
「僕が好きなのは基本的にライトノベルかな。青春とか、純愛系の甘酸っぱいやつ」
「私もそういうの好きだよ。よく、スマホで読んだりするな~」
なぜだか少しうれしそうに笑っていた。
足を浮かして、ぶらぶら揺らしていた。そんな彼女のことを見てなぜ喜んでいるのか理解できなかった。
「なんか意外だな~夜宵くんがそういうの読むのって」
「意外とは何だ。僕だってそういう小説呼んでもいいでしょ」
「ダメとは言ってないし」
少し唇を尖らしている彼女は、酷く子供っぽかった。僕のイメージとはだいぶかけ離れた彼女の姿だった。
なんだかんだ最近彼女と関わる回数が増えてきた気がする。
それは何でなのだろうか。
別に不満であるわけではないが、不思議だった。
「夜宵くんも意外と普通の高校生なんだね。てっきりほかの人とは違うっ…とか思ってる人かと思ってた」
「え…僕ってそんな中二病みたいに見えてるの?」
彼女はからかうような笑顔を浮かべて、こちらを見ていた。
「まあね。教室では友達いるのに一人でいるし。眼鏡かけてるし」
「いや、眼鏡は偏見でしょ。それだったら柳さんもかけてるじゃないか」
「確かに…でもまあ、そんな風にみられてるんだよ」
それに関してはだいぶショックだった。
そりゃ中学生のころは僕は特別な存在とか思うこともあったが、今はない。なのに、そんな風にみられてたんだ…。
思わずその事実に項垂れてしまった。
そんな様子を見て、声を上げて笑っている彼女。
「あははっ!!そんな落ち込むことないって!!少なくとも私は今イメージが変わったんだからさ」
「まあ、そうだけどさ...」
それで言ったら、僕の中の柳さんのイメージもだいぶ変わった気がする。
品行方正で笑うとしても口を押えて上品に笑う。それがもともとのイメージだったのに。
確かに品行方正ではあるが、笑うときはほかの人と変わらないように笑う。思ったより普通の高校生、それは僕も同じ感想だったんだ。
「朝から面白かったなぁ。いい一日になりそうだね」
「僕をバカにしただけじゃないか。僕は朝からメランコリーな気分だよ」
鹿野城はベンチから立ち上がり、くるっとこっちに体を向けた。
「ありがと、元気出たよ。また学校でね」
そう言って僕の返事を待つこともなく、歩いて行ってしまった。
僕はそのベンチに座ったまま、少し空を見上げていた。彼女と話しているうちに、空は明るくなりきっていた。
彼女から感じた違和感は何だったんだろう。
最後に言っていた、元気が出たという言葉。それは逆に考えると、もともとは元気がなかったということにもとらえられる。
彼女と会って最初の質問。そのあとの彼女の行動といい、やっぱりなにかあったのか。
心のもやもやが晴れることはなく、鬱陶しく心に渦巻いていた。
月曜日、今日も今日とて学校に登校した。
何の代り映えもしない日々に飽き飽きする。欠伸をして始業を待ちながら、スマホを触っていた。
すると意外と早く時間が過ぎていたのか、担任が教室に入ってきた。
スマホをカバンにしまい、前を見る。すると、違和感を感じる。
その違和感の正体はすぐに分かった。目の前の席に、人がいないことだった。僕の前の席は、柳さん。土曜日の朝に出会った彼女だった。
「えー今日は柳さんは風邪のため休みとなります」
先生のその声に、クラスメイトがえ~と不満そうな声を上げた。
まあ人気者の彼女が休めばこんな声も出るだろう。僕には関係もない話だが。
それでもなんだかいつもよりも視界が広くて、落ち着かなかったのは何でだろう。
別に目の前の人がいないだけなんだ。それが落ち着かない理由にはならないのに。この胸の中の空虚感は何なのだろうか。
それを機に、彼女が学校に来ることはなくなってしまったんだ。
最初の方は風邪だと言っていた先生も、彼女について触れることすらなくなった。
クラスメイトだって、彼女の話をしていてばかりだった。
何かが原因で学校に来れないのだろうか。じゃあ、その原因って何だろう。
そんなの僕が知る由もなかった。
でも、なんでだろう。今までだって、学校に行くことは憂鬱だった。
それなのに、彼女がいない学校に行くとなると、今まで以上に足が言うことを聞かなくなった。
理由は単純だ。彼女と会話をすることがいつの間にか楽しみになっていたのだろう。
今まで人と関わることも少なかった分、依存しやすいだけなのかもしれないが彼女が僕と話してくれるのが嬉しかった。誰かと笑いあえる関係を持てていることが嬉しかったんだ。
だから、そんな楽しみもない学校に行くのがつらいんだ。
一度覚えてしまった嬉しさを忘れることは難しいんだ。
一度慣れてしまったいい環境から、悪い環境に戻ることは難しいように、僕は彼女と話す環境に慣れてしまったせいで今がひどくつまらなく感じる。
昔はこれが普通だったはずなのに。贅沢な心になってしまったな、僕も。
そんな少し恥ずかしいことを思いながら下校していたある日のことだった。
僕は見つけた。制服姿じゃない、私服姿の柳さんのことを。
嬉しかったんだ、彼女ともう一回会うことができて。僕は駆け寄ろうとした。でも、できなかったんだ。
彼女は俯いたまま、絶望と書かれたような顔をしていたんだ。
おもわず、伸ばしかけた手を引っ込めてしまった。
「や、柳、さん?」
上手く声も出ないで、詰まってしまった。
でもその声はしっかりと彼女のもとに届いた。彼女は足を止めてこちらに振り向いた。
そして少し目を見開いて、また前を向いて歩き出そうとする。
僕には何で彼女が僕から逃げようとしているかがわからなかった。でも、このまま一人にさせたらなんだかいけない気がした。
だから僕は足を踏み出して、彼女の腕をつかんだ。
「…何、触らないでよ」
彼女の声はひどく低くて、暗かった。そんな声に僕は一瞬手の力が緩みかけたが、もう一度ぎゅっとつかみなおした。
「そんな暗い顔してるのに、一人にできないよ」
「…何かっこつけてるの。気持ち悪いんだけど」
彼女は僕の心にわざと刺さるような言葉を選んで会話をしていた。
そこから僕はあからさまに拒絶しているさまが感じられた。関わりたくないという気持ちが十分に伝わってくる。
「何があったのさ。学校にも来ないで、そんな暗い顔をして」
彼女は深く俯いて、前髪で顔を隠していた。
「…なんでそんなに他人のプライベートに土足で踏み込んでくるのよ。失礼だと思わないの?」
「そ、それはさ...」
「何言い訳してるの。何も間違ったことを私は言ってないでしょ」
彼女は酷く苛立った様子だった。
酷く鋭い彼女の言葉は、矢のように僕の心に突き刺さる。
「だ、だって…辛そうな顔してるのに、ほっておけるわけがないでしょ!!」
「だからそれが迷惑なんだって!!」
顔を上げた彼女の目元は、赤く腫れていた。泣いていたのか?
彼女は目元に涙をためたまま、叫ぶ。
「別に私がつらそうな顔してたって関係ないじゃん!!なに、ヒーローぶってるつもりなの!?うざいし、いい迷惑なんだよ。私のことを…私の気持ちを何にも知らないくせに!!」
手を振り払って、歩き出そうとする彼女。
僕は思わずもう一度手を伸ばした。
「待って…!!」
でも彼女はその手をはたいた。
「だから触らないで!!もう、私と関わらないでよ!!」
僕はその叫びを聞いて、縫い付けられたかのようにそこから動くことができなくなってしまった。伸ばしかけた手は、情けなく空を切っていた。
家に帰った後、なんとなく僕は何もする気が起きなくてリビングのソファーで制服のまま転がっていた。
目の前で苦しんでいる人にすら手を差し伸べることができない自分が情けなくて、ダサくて。そのくせして、小説で人に希望を与えるなんて。できるはずがないんだ。
大体、僕一人でそんなことできるわけないんだよ。
なんだよ、人に希望を与えるなんて。そんなの一部の特別な才能を持った人たちができることだろ。多くの人に希望を持たせる物語を考えつけること自体、才能なんだ。
ただ小説家の息子である僕にできることじゃないんだ。
こんな子供っぽい夢は、叶えられない。叶えられるほどの力を持っていないんだ。
もう、諦めた方が―――。
その時、リビングにぱっと明かりが灯った。
「うおっ、影虎?いたのか。電気ぐらいつけろよ、びっくりした...」
仕事帰りの父親が胸に手を当てていた。
僕は向くりとソファーから起き上がった。父親はネクタイを緩めて横に座った。
そして、にやりと笑った。
「何か、悩んでるんだな」
さすが、父親だった。僕の顔をちらっと見ただけで悩んだことに気がつけることができるなんて。
僕はこの気持ちを伝えるべきか悩んだ。
どうせ父親のことだ、いつもみたいなテンションで軽く流される。
僕はまだ、認めていない。父親が、小説家だってことを。
嘘をつかれているだけなのかもしれない、いつだってそう思っていた。父親のものだって言われたあの文章だって、別の誰かのものなのかもしれない。
こんな能天気な父親の文章なわけがないんだ。
下唇を噛んだまま俯く。
「…何でもない、疲れただけだよ」
「…そうか」
ほら、やっぱり何も―――。
「疲れたんだな、心が」
「…えっ?」
僕は思わず顔を上げて父親の顔を見た。
その顔は笑顔だった。でもその笑顔はいつものような能天気なものではなく、人を愛おしむような笑顔だった。
「よく俺もそんな顔してたよ。小説のネタに悩んだり、何回もコンテストで落選した時はな」
懐かしそうに、思い出に耽る父親。
僕はそんな父親から視線が逸らせなくなった。
父親は優しい目つきで僕のことを見た。それは父親の目じゃない。誰かの悩みに寄り添う人の目だったんだ。
「どうしたんだ。何があったのか、教えてくれ」
「…僕には人に希望が与えられないんじゃないかって、思うんだよ」
父親は何も言わないで、僕を見つめているだけ。
それはまるで先を促すように。
「さっきさ、クラスメイトに会ったんだ。最近あんまり学校に来れないような子。そんな彼女がさ、暗くて、辛そうな顔をして歩いていたんだ」
思い出しただけで、苦しくなるようなあの顔。
何度も何度も見てきた彼女の笑顔と重ねてしまう僕。
どう考えてもわからなかった。どうやったら、もう一度彼女が笑ってくれるのかが。
「声をかけても、迷惑がられて。なんて言っても、彼女は笑ってくれなかった。目の前の一人すら希望を持たせることもできないのに、小説でたくさんの人に希望を持たせるなんて、できるわけないんだって、思うんだ」
その言葉に父親は眉をひそめた。
「僕はお父さんとは違う、才能のない人間なんだ…だから、希望を与えるなんてできなかったんだよ...」
だんだんとしぼんでいった声。ひどく情けなく、掠れたその声は二人しかいないリビングに弱々しく響いた。
すると、父親がようやく口を開いた。
「俺は、たくさんの人に希望を持たせろなんか言ったか?」
僕はその言葉が理解できなかった。
「言ったんじゃん。人に希望を与えることができる人間になれって」
「あぁ、俺はそう言ったんだ」
「だから、なにが…!!」
「別にたくさんの人に希望を与えられるようになれとは言ってないぞ」
僕はそれにハッとした。
それでもすぐにまた父を軽く睨む様な表情になる。父親をまっすぐ見る。
「でも、小説を書くってことはそういうことでしょ。多くの人に目に触れられるんだから、多くの人を救えるような物語を書かないと」
「…申し訳ないが、お前の考え方が、俺は大っ嫌いだ」
僕は少し驚いてしまった。
いつもニコニコ笑っている父親が、今は僕の顔を見て怒っていたんだ。
そんな初めてのことに、思わず喉に言葉が引っかかってしまう。
「お前のその考え方、それはただ有名になりたい、お金を稼ぎたいだけだという欲望の表れなだけだ」
「そ、そんなつもりは…」
「ないって思っていても、心の奥底ではそう思ってるんだ。多くの人に希望を与えることが目的になったらいけないんだよ」
父親はいつもの笑顔がどこに行ったのかわからないくらい、真面目な顔をしていた。
小説を書いていたっていうのは、本当、なのかな?
「俺が書いていた物語は、結果的に多くの人に希望を与えられたのかもしれない。でも、本当はあの物語は一部の人たちに向けての物語だったんだ」
「え?どういう...」
僕は困惑していた。
「別に多くの人の目に触れられようが、一人にしか届かなくたって関係ないんだ。たとえ一人でも、その一人が自分の小説で希望を持つことができたらな、十分なんだよ」
「なんで?たった一人よりも多くの人に...」
「だからお前はできないんだ」
父親の力強いその声にビクッとする。
こんな声、聴いたことない。
「自分の作品を気に入ってくれている一人すら大切にできないくせに、大人数を思うことなんてできるわけがないんだ」
父親のその言葉は、何か聞いたことがあるような、見たことがあるような。
僕は自分の記憶をたどっていた。すると、思い出したんだ。
昔に見せてもらった、父親が書いたといわれて見せられたあの本に書いてあったものだ。
誰にでも愛される、高校生アイドルの物語。
学校でも高嶺の花として扱われて、どちらかといえば孤立することが多かった彼女。
彼女自身もあくまでアイドル活動はお金稼ぎ、ファンはそのための財布としか思ってなかった。だからファンサービスもなく、可愛いけど性格の良くないアイドルだった。
そんな彼女だったからこそ、事務所で起きた不祥事がきっかけでアイドル活動ができない危険になった時、助けてくれるファンがいなかったんだ。
そのままアイドルをやめて、普通の高校生に戻った時彼女は虐められていたんだ。
アイドル時代の高圧的な態度を気に入らなかったクラスメイトなどが、グループになって彼女を追い詰めたんだ。
それでも助けてくれたのが、クラスメイトの不良の男の子だった。
彼女のことが好きなわけではない、ただ虐められている光景を見ているのが嫌だっただけだった。彼女はそんな彼に惹かれてアプローチを始める。
だけど彼女のアイドル時代を知っていた彼は、彼女など相手にしなかった。
少しずつ余裕がなくなっていく彼女に、彼が言った言葉。
「自分を愛してくれる人すら大切にできない奴に、俺は魅力を感じない」
彼女はその言葉で、自分が完全に拒絶されたことにひどく傷ついた。
それと同時に、自分がしていたことはどんなことだったかも彼自身を見たらわかった。
だからこそ、もう一度みんなに愛されるように、みんなを愛せるようになろうと思った。
これは父親が書いた小説の一部のシーン。
一言一句同じではない。でも、大体の意味は同じだった。
「自分の作品を気に入ってくれる人が一人でもいるんなら、愛してくれる人が一人でもいるんなら、その一人だけでもいいんだ。一人に希望を与えることができない人間に、大人数に希望を持たせることはできない」
父親はこういう心持ちで小説を書いてきたのだろうか。
確かに父親の小説が評価された点は、一人一人の気持ちが事細かく表現されていて、読者の人たちに寄り添えるような文章だった点だ。
でも、根本的に僕が悩んでいるのはそこじゃない。
僕が彼女を助けられなかったことだ。どうしたらもう一度、彼女のことを笑顔にできるのか。
それについて、悩んでいたんだ。今の話なんか、なんの関係も…。
「影虎。目の前の一人を笑顔にするには、どうしたらいいと思う?」
「…わかんないから、相談してるんだけど」
そんなのわかってたら、とっくに自分の中で解決できている。
できないからこそ、多くの人間の心に触れあってきた父親に聞いているのに。
僕は軽くイラっと来てしまった。
でもそんな僕をしり目に、父親は笑う。
「お前はきっと、その方法を知っているはずだ。俺から言えることは、それだけだ」
そう言ってソファーから立ち上がると、ゆっくりと自分の部屋へと歩いて行った。
そこまで言ったくせに、答えは教えてくれないのか。
でも、あの父親の意味深な笑顔。何か、僕が知っていると確信している顔だった。
僕も一度自分の部屋へと戻って、昔の記憶にもう一度遊泳してみようと思った。
第三章
自分の部屋へと戻って、ベットに突っ伏した。
父親の言っていた目の前の人を笑顔にする方法。それを僕は知っているらしい。
でも、いくら記憶をたどったところで、僕はわからなかった。
本当に僕が知っていることなのだろうか。そこすら疑問点であった。
昔、僕は泣いてばかりだった。
友達とけんかをして泣いて、転んで泣いて、ものをなくして泣いて。
だからいつも、慰められる方だったんだ。僕が人を慰めることなんかほとんどなかった。
それなのに、今目の前の彼女を笑わせるなんて無理な話なんだ。
仮に僕がその方法を知っていたとしても、初めてのことをそんなうまくできることできるわけない。
やっぱり僕には、人に希望を与えられることができないんだ。
彼女を笑顔にするのも、僕にはできないことなんだ。
小説を書くことなんか、もうやめよう。
その時間も勉学に当てた方が、きっと将来も安定する。僕みたいな人間は、こうやって地道に努力をしていかないと生きていけないんだ。
小説家みたいな、元から持っている才能を輝かせるような職業なんかには就けないんだ。
未練も、何もない。
僕は立ち上がって、自分のパソコンの前に立つ。
そしてわざとらしく荒々しく、パソコンを操作して自分の書いていた小説を全部消した。
これでいい、これでいいはずなんだ。
机に両手をついたまま、下を向く。少し、息が乱れる。
「はぁ…はぁ…僕は、何も間違えてない…」
ガタガタと震えている腕。なんで震えているのかすらわからないのに。
僕は正解を選んだ。そのはずなのに。
どうしてだろう。こんなに、心にぽっかりと穴が開いたような気分になるんだ。
数週間、彼女は学校に来ないままだった。
だんだん、彼女に関する話題もクラスの中では減っていっていた。
少しづつ忘れられていっている彼女。
どうでもいいって思っても、僕は気にしてしまうんだ。
僕が強くて、しっかりとした人間なら、彼女は今ここにいたのかもしれない。
彼女のことを考えないようにしても、ずっとここにまとわりついてくる。
学校での立場が、さらになくなった気がしたのは、自分の心の中だけだろうか。
だんだん自分に今まで以上に自信を持てなくなった。
すると、スマホに通知が来ていることに気が付いた。
それを開くと、小説を投稿していたアカウントにコメントが送られてきていた。
小説の原稿自体は消したけど、アカウントやネット上に投稿していた作品はまだ残ったままだった。
一番最後に更新した小説に、コメントが付いていた。
そのコメントは、またしてもYだった。
でも、Yのコメントを見るのはずいぶん久しぶりに感じた。
いつもは作品を出してから二日くらいでついていたコメントが、ここ一か月ほど止まっていたんだ。
その期間はまるで、柳さんが学校に来なくなった期間と被るように…。
偶然なのか、どうなのか。
何はどうあれ、僕はYのコメントを開いてみた。
するとそれはコメントというよりかは、手紙に近い文章だった。
『 宵の一時さんへ
いつも拝見させてもらっている、Yです。
ここ数週間、私の体調が優れずほとんど読めませんでした。
学校にも一か月ほど行けずに、ずっと家で寝たきりでした。
そして、私は病院で検診した結果、入院が決まりました。正直、小説すら読む気にもなれませんでした。
もう、私はあなたの作品を読むことはできません。今までたくさんの物語をありがとうございました。
あなたが大きな小説家になることを願っています。
Yより 』
僕はこれを見て、思ったんだ。
このYさんは、柳さんなのではないのか?
僕が投稿しているこのサイトは、スマホでも読むことができる。
そして何よりも、Yさんと柳さんは両方約一か月前から学校に来ていない。
仮に、あの土曜日にあった時が検査の日だとしたら。
あの質問に俯いた意味。去り際に言ったあの意味深な言葉。
すべてに説明が付く。
考えたくはない。だけど、僕の予想が間違っていないんだとしたら。
彼女の、学校に来れていない理由は病気なのか?
入院が決まって、その精神状態では学校に来れないのか。
僕が仮にそんな立場だったら、学校にはこれていないだろう。
考えうる、最悪のパターン。
それは、柳さんが病気で、入院することだ。
とある週末の日のことだった。
もう九月ももう終わりかけていた頃。僕は母親に頼まれて買い物に行った。
頼まれたものは、じゃがいも、にんじん、たまねぎ…。
今日の夜はカレーかな。そう思っていた。
でもメモのもっと下の方を見ていくと、みりん、酒、しょうゆなども書いてある。
これらはおそらくカレー用の調味料じゃないな。
だとしたら今日の夜はおそらく、肉じゃがじゃないかな。
そんな風に、頭の中で勝手に自分自身でクイズをしていた。
スーパーの中に入ると、一瞬身震いをした。
九月の終わりかけで、この冷房の設定温度は低すぎる。真夏だとしても少し寒いと感じるくらいじゃないか。
自分の肌をすりすりと撫でながら入り組んだスーパーを歩いていく。
じゃがいもなどの野菜たちは比較的に密集しているから、すぐに見つけられた。
問題は調味料たちだ。
置いてある場所が分かりにくいうえに、そのなかから家で使っている種類のやつを選ばないといけない。
これはなかなか骨が折れる。
しかし幸い時間帯は午後二時ごろ。
昼食が終わって一休みしている人が多いせいか、人は少なかった。
通路で混雑するということはなく、スルスルと通っていくことができた。
調味料コーナーにいて、たくさんある種類の中からメモで指定された種類のものをかごに入れていく。
調味料も全部入れると、かごはずっしりと重くなる。鍛えるという言葉から一番遠い場所にいる僕からしたら、このかごを持つだけで翌日筋肉痛になりそうで仕方がなかった。
レジに持っていき、店員さんに渡す。なかなかのおばさんに見える店員さんは軽々とそのかごを持っていた。少し鍛えないとな、とか思った今日この頃。
「合計で、1149円になります」
思ったよりも高いな…。
まあ調味料の酒はなかなかな値段がするっぽいし、野菜も少し高い。
財布の中から千円札二枚と四円を出す。
これで八百五十五円のはずだ。
「おつり八百五十五円となります」
ちょうど計算が合っていた。
心の中でガッツポーズをしながらも、表面には出さないようにおつりを受け取る。
ポケットにジャラジャラと小銭を入れる。
歩くたびに鳴る、金属同士がぶつかり合う音。
なんだかハッピーな気分になる。スキップでも始めてしまいそうな気分だった。
いつも通りの街並みを歩いていた時のこと。
病院の前を通るとき、ちらっと横目で見えた顔。僕はそれに思わず足を止めた。
忘れられることのない、暗い表情を張り付けたままの柳さんがそこにいた。
それでも僕は近づくことはできないで、そのまま見ていることしかできなくなっていた。
するとその視線に気が付いたのか、彼女がこっちをちらっと見る。
大きく目を見開くと共に、すぐに目を逸らして歩き出した。
僕はそれを見てようやく足を踏み出すことができた。病院の中に入っていき、あの時のように彼女の手首をつかんだ。
彼女はぎゅっと眉をひそめて、足を止める。こちらを向かないままで、口を開いた。
「…なに、前も言ったけど、触らな...」
「柳さんって、Yさんだよね」
僕は彼女の言葉にわざと被せる。僕の言葉を聞いた彼女の動きが固まる。
ちらっとこっちを見た彼女の目は、赤く腫れあがっていた。
「夜宵くん、何を言って...」
「僕だよ。宵の一時は僕だよ」
その言葉を聞いた彼女は、真っ赤に腫れた目をまた大きく見開いていた。
「柳さんだよね、僕の小説を好んでいてくれていたのは。いっつもあったかいコメントを書いていてくれたのは」
「……」
彼女は俯いた。つかんでいた手首から、彼女が震えていることが伝わって来た。
涙を流しているのだろうか。
僕はそれでも目を逸らさないまま、彼女のことを見つめていた。
「…って」
「え?…なんて...?」
「かえって!!」
顔を振りながら叫ぶ彼女。その周りを雨のように降っている、透明な涙。
必死に振り払おうとする彼女の力は、か細かった。
「前も言ったじゃん!!迷惑なんだって!!」
病院のロビーにもかかわらず、子供の様に泣き叫ぶ彼女。
周りから視線が集まりつつあった。その様子はまるで僕が彼女に嫌なことをしているように。
いや、でも実際彼女は嫌がっているんだ。
こんなにも取り乱して僕のことを拒否しているのだから。
「そうよ…私がYだよ…でも、そんなの関係ない。ただ一人、ファンが減っただけじゃん。どうでもいいよ、そんなこと...」
「どうでもよくないからこんなことしてるんでしょ!!」
彼女ばかりに叫ばすことはさせない。僕にだって、ため込んだ気持ちがあるんだ。
柳さんに会えなくなってから楽しくなくなって学校のこと。
いつまでも心に渦巻いて消えてくれない、柳さんの辛そうな表情。
そんな顔をしているのに助けることすらできない、僕自身の弱さ。
僕だって、文句しかないんだ。
こんなに弱い自分自身に、こんな残酷な運命に、文句がない方がおかしいんだ。
「たった一人でも、柳さんは大切なファンなんだ!!一人のファンすらも大切にできない人が、たくさんのファンを愛せるわけがないんだ!!」
父親が僕に教えてくれたこと。あの時はどうでもいいとか思っていたけど、やっぱり大切な事なんだ。
だって、この言葉は僕の心に残っていたから。
いつまでも心に残るっていうことはどうでもいいことなんかではない。忘れたらいけない大切な事っていうことなんだ。
「ねえ、前も言ったけどさ。そんな辛そうな顔をしているのに一人になんかできないよ。辛い気持ちがあるなら、僕にぶつけてよ」
柳さんはまたしてもあふれんばかりの涙をためていた。
苦しそうに漏れる嗚咽が妙にくっきりと聞こえた。その様子は酷く苦しそうで、見ていられないほどのものだった。
「もう、いいって…かえってよ、おねがい...」
物凄く弱い力で、押し返される。
普段ならびくともしないはずなのに。ふらふらと足が動いてしまって、彼女から離れてしまった。
その隙に、彼女は走っていってしまった。
まだ震えていたままの彼女の腕や背中。それが鮮明に目に焼き付いていて、何とも言えないような罪悪感と焦燥感に襲われてしまった。
足元でさっき買ってきた、野菜や調味料が死んだように落ちたまま動かなくなっていた。
僕は家に帰った後、リビングでソファーに座っていた。
キッチンではさっき僕が買ってきたものを使って母親が料理をしていた。
カチャカチャとカトラリーがぶつかり合うような音や、トントンと気持ちのいいリズムを刻みながら何かを切っている音。
そのすべてが心地いい音で、いつの間にかその音を聞くことに没頭していた。
すると今度は、コトコトと何かを煮込むような音が聞こえてきた。それと同時に、こちらに近づいてくる足音。
ふと見上げると、母親がそこに立っていた。小柄だから、少し上に首を傾けただけだった。
「いつもはさっさと部屋に行っちゃうのに。ここにいるなんて珍しいわね」
にこにこ笑いながら横に座る母親。
なんか前も似たようなことがあったな。その時は、父親だったけど。
「まあ…なんとなくだよ」
分かりやすく、無意識のうちに目を逸らした僕。そんな僕のその返事に、母親は少しだけ笑いをこぼした。
「影虎も、お父さんと一緒。うそが下手すぎるよ」
「えぇ…そんなことないと思うんだけどな...」
「知らず知らずのうちに目を逸らしてるわよ」
僕の目を指さしながらほほ笑んでいた。
さすが母親だというべきか、家族の癖をよく理解している。
隠すことができないと悟った僕は、母親の顔を見た。
「…お父さんが言ってたけどさ、目の前の人を笑顔にする方法を僕は知ってるって言ってたんだ。でも、僕には一向にわからないんだ」
それを聞いた母親は少し視線を空に向けた。それからフフッと笑った。
「私、分かっちゃったかも」
「え?なんでお母さんがわかるの?」
僕にだけ教えてくれたことではないのか?
母親は少しうれしそうというか、照れているような顔をしていた。
「実はね、私とお父さんが交際を始めるまで大変だったのよ」
「…は?」
思わずそんな声がこぼれてしまう。
何を言い出すかと思えば、過去の惚気話だった。
「私がお父さんにっていうか、恋愛の興味がなかったのよ。だからいくらお父さんがアプローチしてきても振り向かなかったのよ」
母親の顔はまるで、好きな子がいる女子高生のような顔をしていた。
それにしても驚いた。今では子供の目から見ても少し引いてしまうほど仲が良い夫婦に見えるのに。
しかも父親がぞっこんだったなんて。想像できなかった。
「でもね、お父さんは絶対に私のことをあきらめなかったのよ。何回も何回も諦めないで、ずっとずっと振り向いてもらうためにアプローチしてきたのよ」
母親は少し顔を赤らめていた。
正直親の惚気話を聞くのはあまり好きではない。気まずいし。
「お父さんが言いたいのは、そういうことなんじゃないの?」
「え?…どういう、こと?」
「たった一回であきらめたらいけないってことじゃない?」
僕はその言葉を聞いた瞬間に、頭に鋭い衝撃が襲った。
僕がまだ幼いころに聞いたことがある父親の言葉を、僕は思い出した。
「うぅ…もうやりたくない!!」
何度も何度も転んだ。自転車の練習をして、膝にも肘に怪我だらけでもうやる気もなかった。
自転車に乗るという行為すら怖くなっていた時。
父親は僕の肩をつかんで、言ったんだ。
「怖いのは、俺にもわかる。だけどな、いくら怖くても、いくらできないと思っていても、やり続けないといけないんだ。諦めたら、今まで以上につらいことになる」
「いままでいじょうに、つらいこと?」
まだ涙ぐんだままで、僕は父親のことを見つめる。
父親は少し険し目な顔をしたままだった。
「もう、それができなくなるっていうことだ」
まだ幼い僕には、少し難しくて、理解しがたかった。
「できなくなったら、つらいの?」
「考えてみろ。お前だけが自転車に乗れなかったら、どうなる。友達にもついていけない、どこにも一人で行くことはできなくなるんだ。どんなに惨めで、苦しいことだ」
その言葉を聞いた時、僕は初めてできないということがつらくて怖いということに気が付いたんだ。
僕は倒れた自転車を起こすとともに立ち上がった。
まだ目にたまったままだった涙を腕で拭う。
「ぼく、やる。できないのがつらいんだから、できるまでやる」
そうお父さんに宣言したことだった。
父親はにやりと笑って、立ち上がった。
「一回で、数回であきらめるな。自分の望みが叶うまで、それをし続けるんだ」
父親のまっすぐな目が、今になって僕は思い出した。
それとともに、本当は父親は僕にとって偉大な存在だったんだということに気が付いた。
正直言って、つい最近まで父親のことを疑っていた。
それでも、やっぱり僕に人生を教えてくれたのは父親のほかにいなかったんだ。
「…思い出したよ。お父さんが言ってたのは、これだったんだね」
「何があったかは聞かないけど、きっとこれよ。影虎ならきっとできるわよ。あなたは本当は、優しい子だっていうことを知っているから」
父親とは違う、それでも優しい笑顔を浮かべていた。
どちらかといえば安心させてくれるような、実家のような安心感というべきか。
僕に安心感と自信を与えてくれるような笑顔だった。
「うん。僕はもう逃げないし、諦めない。僕の望みが叶うまで、きっと諦めない」
僕は、その日から決意をしたんだ。
毎日彼女のもとに会いに行くことを。父親が僕に教えてくれたこと。
間違ってるかあってるかなんて、やってみてから確かめろ。
僕は僕の心のまま、動いていくんだ。
翌日、また彼女がいた病院に向かった。
受付にいた、看護婦さんに声をかける。
「あの…柳雨音さんのお見舞いなんですが、彼女は何号室でしょうか」
「柳さんは、三〇七号室ですね。三階の、一番奥の右手でございます」
「ありがとうございます」
看護婦さんはぺこりと頭を下げていた。僕も軽く会釈だけ返して、階段へと向かう。
綺麗な階段を上っていって三階に着くと、僕は奥の部屋を目指して足を踏み出す。
彼女が拒むことくらい、目に見えている。
それでも、無理やり彼女の心をこじ開けないといけないんだ。
僕は力む手のひらで、三〇七号室の扉を開いた。そして、いたんだ。
病院服を着て、ベットに横になって外を眺めている彼女の姿が。
「…柳さん」
ビクッと体を震わせて、恐る恐るこちらを振り向いてくる彼女に、柔らかい笑顔を向けてみた。
彼女は心底不快そうな顔をしていた。
「…何しに来たの。来ないでって言ったでしょ」
「ただのお見舞いだよ。来て何が悪いんだ」
悪びれる様子もなく、彼女のベットのそばに置いてあったパイプ椅子に腰を下ろした。
彼女は少し、僕から体を離した。
「なかなか質素なお部屋だね。退屈しちゃうね」
「......」
僕と目を合わせようとしないまま、そっぽを向いていた。
あくまで僕が来たことを認めていないようだった。
「いつもなにしてるの?」
「…別に何にもしてないから。なんでそんなこと教えないといけないの」
「いいじゃん。それくらい教えてくれても」
酷く不機嫌な彼女。まあこんな顔されるのも予想通りだった。
それを覚悟で、ここまで来たのだから。
「…ねえ。どうして一人で、抱え込むの」
さっきのような陽気な声ではない。
彼女の目をしっかりと見て、真面目な声で聞く。
彼女は俯いて、表情を見ることができなかった。
「僕は、君の笑顔が好きなんだ」
彼女は俯いたまま、ビクッと肩を震わせた。
「君の笑顔を見た時、僕まですごくうれしい気持ちになったんだ。君の笑顔が見れないって思うと、落ち込んだんだ」
今までずっと隠してきた、僕の本当の気持ち。
こんなこと、恥ずかしくていうことはないだろう。
それでも、言わないといけない気がした。僕の本当の気持ちを伝え続けないと、彼女は振り向いてくれる気がしなかったから。
「でも、今の君の表情は嫌いだ」
またしても、ビクッと肩を震わせていたのが見えた。
「小説を書いていて、君が読んでくれているのに笑顔にすることができない。その事実が僕のことを苦しめたんだ」
いつまでも、心に渦巻いて消えてくれないこの情けなさ。
何回反芻したところで、僕の悪いところしか見つからなかった。
なんであの時、僕は彼女の手を離してしまったのか。なんで僕は彼女のに思いをぶつけられなかったのか。
「ねえ、僕に教えてよ。僕は、君を笑顔にしたいんだ」
そう彼女に行っても、彼女は動いてくれなかった。
それを僕は見て、立ち上がる。
「今日はもう帰るね。でも、毎日来るから。あ、持ってきたゼリーよかったら食べて」
それだけ言い残して、僕は病室を出た。
柳さんは俯いたまま、動かなかった。
また次の日も、僕は彼女のもとへと向かった。
「おはよー。調子はどう?」
「っ!!まだ起きたばっかだから!!」
朝早くに行ってみると、彼女は起きたばかりのところで、髪の毛がいつもより乱れていた。
顔を赤くして、僕に叫びつけてきた。
「いや、別に大丈夫でしょ。僕の寝起きはもっとひどいから」
「そういうことじゃない!!ほんとに乙女心を分かってない!!」
ぷりぷりと怒っている彼女。昨日よりかは機嫌がいいのか。
「次からは気を付けるよ。はいこれお見舞い」
「…わざわざ持ってこなくていい」
そんなことを言いながらも、中身が気になっている様子が見受けられた。
僕は彼女に紙袋を渡した。
「これは駅前のクッキーだよ。お母さんが買ってきてたんだけど、あんまりクッキー好きじゃないからあげる」
「そこそこ高そうじゃない…申し訳ないわ」
「別にいいよ。柳さんが元気になってくれるなら」
彼女の表情が少し暗くなった。
あんまり触れてほしくない話題だったのだろうか。
話題を変えるために、少し昨日にも似たような話題を振る。
「ずっと一人で暇じゃないの?」
「そりゃ…暇だけど」
「いつも何してるの?」
「…前にさ、夜宵くんに趣味聞いたの覚えてる?」
なんだか前に聞かれたことがあったな。
あの時は必死に嘘を考えて、夕日を眺めることだとかなんとか言ったな。
「覚えてるよ。夕日を見ることって答えた奴だよね」
「そう…私も好きって、言ってたじゃん。あれの理由ってさ、本当はこれが理由なんだ」
彼女の視線は外を向いていた。
僕も彼女の向いている視線の先を見つめる。そこにあったのは西向きについてある窓だった。
まだ朝だからその方向に太陽は見えなかった。
「私さ、こんな病気になるの初めてじゃないんだよ」
「え…そうなんだ」
差し込んでくることのない日差しの代わりに、朝日が当たっている街の様子が窓から飛び込んでくるようだった。
その様子はキラキラとしてとてもきれいに僕は見えたんだ。
でも、彼女は違った。
「一番幼いころ、小学校低学年の頃に入院した病院の窓が、この窓と同じで西向きだったんだ。その時、私はこの景色が大っ嫌いだったんだ」
彼女の表情が歪む。
「私一人だけこんな目にあっているのに、街はこんなにきれいでキラキラ輝いている。それがどうしても憎くて、嫌いだったんだ」
今だけではない。
彼女が辛い思いをしていたのは、今だけじゃないんだ。
「でもね、夕暮れ時、夕日が窓から見えた時。私はよくわからないんだけど、涙がこぼれたんだ」
彼女の声が急に柔らかくなった。
心なしか、頬も緩んでいるようにも見えた。
「朝日とは違う、キラキラとしたまぶしさじゃなくて、暖かくて優しい光が私のことを包んだの。すっごく、安心したんだ」
「だから、夕日を見るのが好きなの?」
小さく頷いた彼女の表情。
それはまるで、子供が好きなものを意気揚々と話しているときのような表情だった。
僕はそんな彼女の表情が好きだった。
「うん。夕日の柔らかいオレンジ色が、私のことを落ち着かせてくれたの。それから毎日、その夕日を見ることが毎日私の楽しみだったんだ。また明日も見たい、そう思えば辛い治療だって乗り越えられたから」
あの時適当についてしまった嘘。
それでも彼女にとってはそれだけ深くて重い気持ちが孕まれていた。
「…そっか。そんな思い入れがあったんだね」
思わず僕の声は少し暗くなってしまう。
そんな僕をちらっと見て、目を逸らした。
「毎日、来ないでいいから。そっちにも迷惑でしょ」
「だから、言ってるじゃん。君の辛さを教えてくれるまで毎日来るって。別に迷惑でも何でもないんだから」
「......」
何も言わないまま、視線だけが外に向いていた。
僕はその様子を見て立ち上がった。すると、彼女は一瞬こちらに手を出すような仕草を見せた。
僕はそのしぐさに一度足を止めて、彼女の方に振り向いた。
しかし、彼女は手を引っ込めた。
「…また明日も、来るからね。明日はお昼過ぎに来るから」
それだけ言い残して、僕は病室を出ていった。
彼女の妙に寂しそうな目が、僕の脳裏に焼け付いていた。
「こんにちは。調子はどうかな」
「うん、大丈夫」
前のように嫌がるそぶりはしないで、普通に迎えてくれた。
いつも通りパイプ椅子に腰を下ろして、彼女に向かいあう。
「はい、これ。何買ってきたらいいかわかんなかったから適当にコンビニでスイーツを買ってきたんだけど」
「わざわざいいって言ってるじゃん…ありがと...」
口ではそう言いながらも、嬉しそうに頬を赤らめる彼女。これがツンデレってやつか。
コンビニの袋を渡すとちらっと中をのぞいていた。
「好きなやつあった?」
「…あ、これ好き」
彼女が手に取ったのは、プリンアラモード。
さすがに喫茶店ほどの豪華さはないものの、コンビニにしてはそこそこ上等なものだ。
「気にせず食べなよ。長いこと置いておくと味も落ちるし」
「…いただきます」
ぺりっと蓋を外して、コンビニでもらってきたプラスチックのスプーンでプリンをつついた。病室に充満する甘いにおい。
一口食べると、目を輝かせ始めた。
よく聞く話だが、病院食は味が薄いというのは本当なのだろうか。
「おいしい…」
「よかったよ。やっぱり病院食ってあんまりおいしくないの?」
「うーん。そりゃお母さんとかのご飯の方がおいしいけどさ、別においしくなくはないよ」
そうなんだ。
勝手な先入観を持ってしまっていたんだ。
「そうなんだね。良かったよ、そこそこおいしいご飯食べれてて」
「まあ…」
スイーツに集中をして、あまり僕の話に興味を持っていない。
まあ別に他愛もないような話だからどうでもいいが。
すると彼女は一度プリンを机に置いて、僕の顔を見た。僕はその行動に首を傾げた。
「どうしたの?」
「…何回もう言うけどさ、来なくていいんだって」
少し自分を嘲笑するかのような顔で、僕のことを見つめていた。
何も言わないまま、彼女のその顔を見ていた。
「私をファンとして大切にしてくれてるのは、よくわかったよ。でも、これ以上夜宵くんに迷惑をかけたくないんだ」
前のような暗い顔で言うのではなく、あくまで笑顔で言っていた。
自分のことを心配してくれているのを喜んでいるかのように。
「…僕は、明日もその次の日もその次の日も、僕はここに来るつもりだよ」
「だから、もうこないで...」
「君が一人で辛い思いをしている限りは、僕は毎日ここに来るつもりだよ」
言葉をかぶせて、彼女がそれより先を続けて言えないようにした。
来ないでいい、そう続くのは明らかだったから。
「前も言ったと思うけど、僕は君の辛そうな顔が大嫌いなんだ。君にはずっと、笑顔でいてほしいんだ」
スッと伏せられた目線。
それでも僕は視線を彼女から逸らすことはしなかった。
ここで逸らしたらいけない、なぜかそう思っていたんだ。
「ねえ、教えてよ。君の辛さを。僕にできることなら、何でもするから。僕はまた、君の心からの笑顔を見たいんだ」
徐々に上がり始めた彼女の視線。
僕の目をしっかりと見た時に、初めて気が付いた。彼女の瞳に、涙がたまっていたことに。
その涙がどういう心情か、彼女にしかわからない。
でも僕には、酷く透き通ったような涙に見えたんだ。
「…なら、聞いてよ…私の辛さと、過去と、今の思い、全部を」
弱々しく震えた彼女の声が鼓膜を揺らした。
僕は大きく一度頷いた。
「うん、聞かせて。君のすべてを、僕に教えて」
第四章
私が初めて病気を自覚した時、それは小学校一年生の入学したての頃だった。
入学式を終えて、家に帰ろうと母親の横を歩いた時のこと。
「…あれ」
ふらふらっとした足取り。そのまま前にぺたりと転んでしまった。
そんな私のことを見て、母親は顔を真っ青にして駆け寄って来た。
「ちょっと、雨音!!」
私の体を抱き上げて、顔を覗き込んだ。
一瞬ふらっとしただけで、それ以外に体に異常は見られなかった。
「うぅ…膝痛い…」
「ほかに変なとこない!?」
「うん…膝痛いだけ」
転んだ際に擦りむいた膝からは鮮やかな血が流れ出ていた。
ただの貧血といってもいいような症状だった。
だからこそ、母親もそこまで問題視はしなかったんだ。
でも、軽く見ていたこと自体が間違いだったんだ。
その日の夜、私はご飯を食べているときのことだった。お箸を握ってご飯を食べていた時。私の手からぽろっとお箸がこぼれた。
「あら、落としちゃった?」
母親がそう言いながらお箸を床から拾い上げた。でも、ただ落としただけじゃなかった。
手首に感じる、骨痛。それがなかなかにひどいせいで、握っていることなんてできなかったんだ。
私は手首を逆の手で押さえたまま、蹲っていたんだ。
母親は私のその様子に、首をかしげていた。
「雨音?どうしたの?」
母親の手が私に触れた瞬間、思わず母親は手を引いた。
「熱っ!!雨音!!」
私のあまりの体温の高さに驚いたんだ。
そしてすぐに救急車を呼んで、父親にも連絡をしていた。
高熱のあまりに虚ろな意識の中、私はどうしちゃったんだろうと思いながら痛む右手の手首を母親に向かって突き出した。
「たす…っけ、て...」
そうつぶやいたとともに、私の意識は闇に落ちてしまった。
次に私が目を覚ました時は、たくさんの点滴を繋がれた状態で病院のベットに寝かされていた。
スッと細く目を開けた時に、周りには誰もいなかった。空は暗くて、夜ということがうかがえた。暗い病室に一人取り残されている。
幼い私にはそれが心細くて、怖くて仕方がなかった。
すると近くにボタンがあることに気が付いた。私は何かを考えるよりも前に、それを押した。それはきっと、ナースコールだったんだろう。
部屋の外から徐々に大きく聞こえてきた足音。
病室の扉が開かれたとともに、部屋にぱっと明かりがついた。
「雨音ちゃん。目を覚ましたんだね」
おそらく二十代くらいの若い看護婦さんが私のことを見て、安心したように言った。
私はまだ状況をよく理解できないままの頭だった。
しばらくすると、白衣を着たお医者さんが入ってきた。
私の横の椅子に座ると色々質問をしてきた。
「手首が痛かったみたいだけど、今は痛くない?」
「少し、痛いかも」
「ふらふらしたりする?」
「うん…ふらふらする...」
お医者さんはほかに数個の質問を私にした。全部本当のことを伝えた。
するとお医者さんは少し頭を抱えたようなそぶりを見せた。
そして私のことを柔らかい目つきで見た。
「雨音ちゃん、よく聞いてね。今雨音ちゃんの体の中で悪者が悪さしてるんだ。だから僕たちでその悪者をやっつけるから、雨音ちゃんも協力してくれる?」
「…うん」
お医者さんの優しい笑顔に、私はどこか安堵して頷いた。
悪者をやっつける、その柔らかい表現に私は騙されていたんだ。そんなに辛いことではないんだと、思っていた。
病名も伝えられないまま、翌日から治療が始まったんだ。
あらかじめ飲まされた、何かの錠剤。どんなものかも教えてもらえずに、ただただ飲まされた。
そして、とある点滴が私の腕につながれた。
一応これは説明された。しかしその頃の私にはよくわからなかった。
もう一度今になって調べてみると、分子標的薬っていう特定のがん細胞とかにだけ攻撃するような薬らしい。
他にもたくさん投与されたんだ。
その日自体は少し体がだるいくらいで終わったんだ。でも本当の地獄は翌日からだったんだ。
朝起きた瞬間に襲った吐き気。
思わずベットの端に置かれていたゴミ箱に吐瀉物を吐き出した。
元々昨晩はほとんど何も食べていない状態で眠ったせいか、吐き出すものがなくなってしまう。そのせいで吐き気があるのにはけないという気持ち悪さだけが私のことを襲っていた。
嗚咽が漏れて、唾以外に出てくるものもなくて苦しかった。
それだけでなく、ものすごい高熱、下痢、数日すると髪の毛も抜けてきた。
それとともに、抗がん剤を投与すると白血球の量が減ってしまい、感染症にもかかりやすくなってしまうらしい。
重大な病気自体にはかからなかったものの、常に風邪のような症状が出ていた。
幼い子供の体にはあまりにも強すぎる苦痛のせいで、すごいストレスを抱えていた。
そのせいか、上手く声を出すこともままならなくなって、吃音もひどくなった。
そんな苦しみを、私の幼い体を犯した。
いつまでも続いているこの苦しみは、私の体だけでなく心までも衰弱させたんだ。
私が幼いということもあり、外部からウイルスを持ってこられることを絶対に防ぐため、無菌室に隔離されて親との面会も許されなかった。
どうやっても私の子の苦しさと恐怖は晴れることがなかったんだ。
怖くて怖くて震えが止まらない。布団を頭からかぶっていた時のこと。
ふと布団が温かさを帯びてきたことを感じたんだ。
明らかに私の体温ではないこの暖かさ。私は布団をどけてみた。
その時、私の顔を真っ赤に染めた夕陽が窓いっぱいに広がっていた。
何回も見てきたはずだった。
幼稚園の帰り道だって、お買い物を頼まれていった時も見たはずなのに。
なぜか、そこに夕陽があるということにひどく驚いて、すごくきれいに見えたんだ。
絶望や恐怖で塗りたくられていたはずの私の瞳に光を灯す、そのくらい煌々と輝いていて私の心を魅了したんだ。
「あっ…すごい…」
ストレスのあまり出にくくなり吃音気味だった私も、自然と止まることもなく呟きがこぼれた。
少しずつ沈むにつれ輝きを増していく夕陽。
私は目を逸らすこともせずに、ずっとそれを見ていた。
朝日のようなキラキラとした輝きではない。包み込まれるような暖かい日。
今まで心の中で、どうして私だけがこんなつらい思いをしないといけないのかと思っていた。周りの同級生は普通に学校に通って、友達がいて、楽しい毎日を送っているはずなのに。
そう文句を言っていた。
だけど、普通の生活を送っていたらこんなにきれいな夕陽を見ることはできなかったのだろう。
こんなにつらい思いをして、死にかけている心だからこそ私に響いたのだろう。
窓の外に輝く夕陽だけが私の中の唯一の特別だった。
それから私は夕陽を見ることを楽しみに、この苦痛に耐えてきたんだ。
何回嘔吐したって、何回高熱に魘されても私は耐えた。
そしてようやく、私は抗がん剤治療を乗り切ったんだ。
「お疲れ様、よく頑張ったね。一番つらい一セットをよく乗り切ったね」
お医者さんがにこにこ笑っていた。
でも私は聞き捨てならないことが聞こえてきたんだ。
「え…一セット?」
「うん、そうだよ。これからももう少し抗がん剤治療は続くけど、一番最初が一番つらいんだ」
私はその言葉を聞いて落胆してしまった。
もうこれで終わりではないんだなって。まだつらいことは続くんだなって。
これよりかは楽だって言われても、複雑な気分だった。
一度根付いた恐怖は、そう簡単に消えるものではない。
何とも言えないこの気持ちは、どう比喩すればいいかわからなかった。
そんな気持ちだからこそ、私は妙に夕陽を見たくなった。
期間は空けないといけないということで、一週間休みがあった。
その間は特に制限もなく、病院内なら何してもよかったので、屋上へと上った。
扉を開くと涼しい風が私の頬を撫でた。
誰もいない屋上は、閑散としていた。
ゆっくりと歩きながら、柵の近くまで歩いていく。
病院の屋上から見える街の姿はすごく小さくて、でもすごくきれいで。
私は頭にかぶっていた帽子を取って、風にさらした。
まだ生え切っていない髪の毛を隠すために、ずっと帽子をかぶっていたが、ここでは隠す必要もない。
ずっと蒸れていた頭に空気が触れて気持ちがいい。
私の顔どころか全身を照らしている夕陽。
想像の何倍も壮大なこの光景に、私は夕陽を見つめたまま立ち竦んでしまった。
その圧倒されるような夕陽の前では、私の不安なんてちっぽけなように感じて。
思わず笑みがこぼれてしまった。
すると後ろから屋上に誰か入ってくる音が聞こえてきた。
とっさに帽子をかぶり振り返った。扉が開いた先にいたのは、高校生くらいの女の子だった。私に気が付くと少し目を丸くして、笑った。
足が不自由なのか、左足を引きずりながら彼女は近づいてきた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは...」
人から話しかけられることすら慣れていない私は、言葉が詰まった。
それでも彼女はニコッと笑って、柵に手を置いた。
「私は楓。花宮楓。よろしくね」
「え、あ…私は、柳雨音です…よろしくおねがいします」
「雨音。いい名前じゃん」
私よりも高いところにある顔からのぞき込む楓の顔はさわやかだった。
「雨音は何で病院にいるの?服がそれってことは入院してるんだよね?」
私の病院服を見ながらそう聞いてきた。
私は少し目を伏せる。
「…よくわかんないけど、抗がん剤治療?をするために入院してる」
「抗がん剤治療?もしかしてガンとかなのかな?だとしたら私も同じだよ」
「ガン?私は教えてもらってないから...」
「そうなの?なんか不思議だね、それ」
そこで私は初めて知ったんだ。
病名を教えてもらえないということはおかしいということに。
「私は肺がんでさ、抗がん剤治療を受けたんだ。そしたらその副作用で左足の感覚が鈍っちゃってさ、今はほとんど動かないんだ」
「大丈夫なの?いつかは、治るの?」
「うん、いつか治るって言われてるよ。雨音こそ、その帽子。隠してるんでしょ?」
彼女に指摘されて、思わず帽子を手で押さえてしまう。
でも彼女もきっとこんな姿になったことがあったんだろう。
そう思って、帽子を取った。彼女は別に気にしない様子だった。
「私もそうだったよ。今はショートカットみたいだけどさ、これはただ単に髪の毛が伸びてないだけなの」
綺麗に切りそろえられているような彼女の髪の毛。
でも本当は、伸ばしたくてもできなかったんだろう。
お互い、辛いはずなのに、彼女の笑顔は透き通っていたんだ。
私はそんな彼女の笑顔に憧れてしまったんだ。
「…また明日も、ここに来る。だから楓も来てくれる?」
そんな彼女と一緒にいてみたい、そう思ったんだ。
彼女の表情が一瞬固まった。でもすぐにまた自然な笑顔に戻った。
「うん、いいよ。また明日も、一緒に話そうね」
夕焼けともう一つ、辛さを絶えることの意味を見出せた気がした。
私は病室に戻るために、階段へと歩いて行った。
扉を開いた後、後ろを振り返って彼女の姿を見た。
夕陽と重なって逆光となっていたが、笑顔で私に向かって手を振っている様子が見えた。
それから毎日、彼女のもとへ遊びに行くようになった。
だから彼女についてもっと情報を得ることができた。
花宮楓。年齢は十七歳の高校二年生。この地域の高校に通っていて生徒会にも入っていて、好きなことはお菓子作りだったらしい。
他には写真を撮ることが好きだったり、ごくごく普通な女の子だったらしい。
私からしたらだいぶ年上だけど、話を聞けば聞くほど彼女のような人になりたいなって思うようになっていった。
それと同時に、少し気になる点も増えていった。
最初であったときは、左足だけに違和感が見えたのに、今は左手もいつも力なくだらんとぶら下げている。
その左手の手首辺りには、たくさんの切り傷も見えた。
それと同時に彼女の笑顔は、張り付けたような笑顔ばかりのように見えた。
一番最初に出会った頃のような自然な笑顔には見えなかった。
彼女と出会って五日目、いつも通り彼女に会うために屋上に向かった。
扉を開くとすでに彼女はそこにいた。
私に気が付くと彼女は私のことを見て、ニコッと笑った。
その笑顔に、私は目を見張った。その笑顔は作っているような笑顔ではなかったから。
彼女の心の奥底から出てくる、本物の笑顔だった。
「雨音。今日は雨音に渡すものを持ってきたんだ」
彼女は病院服のポケットに手を突っ込んだ。
そして取り出したものは、紫の蝶が舞っている黒色の櫛だった。
少し使った痕のようなものがあるが、すごくきれいだった。
「これ、雨音にあげるよ。女の子は髪の毛が命だからね」
「で、でも、すごく高そうだし」
「何言ってんのよ!!遠慮せずにもらっておきなさい!!」
そう言って私の手に、その櫛を握らせた。
私の小さい手の中に夕日を反射させて黒く光る櫛。私はそれをぎゅっと握りしめた。
「…ありがとう。大切に使う」
彼女は嬉しそうに私の頭を撫でた。
左手、ではなく右手で。
そのあとは二人とも言葉を発することもなく、夕陽を眺めていた。
夕陽がほとんど沈みきって、私はそろそろ病室に帰ろうと階段に向かって歩き出す。
すると彼女がこちらに振り向いて、私を呼んだ。
「…ねえ」
こんなことは珍しくて、私は少し驚きながらも振り向いた。
彼女は心の底からの笑顔で私のことを見ていた。
「ありがとうね…また、あした」
それを聞いた私には、言葉に表すことができない違和感があった。
でもそれに確証があるわけでもなく、私は小さく頷いた。
「うん…また明日…櫛ありがとうね」
ひらひらと右手を振っていた。
小さく手を振り返して、私は階段を下りて行った。
今、彼女はどんな気持ちなのか、私にはわからなかった。
次の日の朝、妙に騒がしい足音にいつもよりも早い時間に目を覚ました。
私はベットから降りて、病室から出ると看護婦さんやお医者さんが慌ただしく走っていた。
何が起きたのかわからないまま、私がそこで立ち尽くしているといつも私にご飯を持ってきてくれる看護婦さんが私に気が付いた。
「あっ、雨音ちゃん、おはよう。今少しみんなバタバタしてるからお部屋の中にいてくれるかな?」
「うん…何があったの?」
私のその素朴な質問に、看護婦さんの表情が曇ってしまった。
私が首をかしげて見ていると、口を開いたんだ。
「…自殺をしちゃった人が、いたんだ」
「…楓」
「えっ…?」
なんでかなんて、わからない。
でも私の口からはそうぽろっとこぼれたんだ。看護婦さんの不安げに揺れる瞳が、私のことをじっと見つめていた。
「なんで、雨音ちゃんが彼女の名前を...」
「…戻る」
まだうまく状況を呑み込めていない看護婦さんをよそに、私は病室へと戻っていった。
私は看護婦さんの反応でわかった。
自殺をしたのは、楓なんだってことを。
病室に戻った私は、昨日彼女からもらった櫛を眺めていた。
明日自殺するから、私にくれたのかなとか思いつつもなんだか心が切なくて。
一つ楽しみを失ったとともに、一人の人生が幕を落とした。
その事実が何とも言えない気持ちで、私の心の中を独占した。
なぜ彼女は自殺をしたのか、どういう気持ちだったのか、想像することができても真実を知るということはできなかった。
なんとなく、私まで辛い気持ちになって来た。
だから彼女からもらった櫛で、まだ少ない私の髪の毛を梳いた。
それだけで少し暖かい気持ちになった気がした。なんでだろう。
お医者さんが言うように、二回目より後の治療はだいぶ楽だった。
それでも吐き気はしたし、熱も少し出た。
でも、そんな事よりも心がずっと沈んだままだった。
私の目の前で揺れ動いていた生と死で、軽く病んでしまった。
それは退院までずっと引きずってしまう。いや、退院した後でも私はずっと思い出してしまう。
最期に見た、彼女のあの笑顔を。
違和感を感じたとともに、夕陽を初めて見た時のような気持ちになった。
時間が止まったような感覚に陥り、私の不安を包み込んでくれるような暖かさがあった。
いつまでも見ていられるような彼女の笑顔は、もう見れない。
そう思うと虚しくて儚くて寂しくて。
この気持ちが色褪せて消えてしまうくらいなら、私が受け継ぐ。
私は彼女のように生きて、あの笑顔を皆に振り分ける。それが私の初めて持った、“夢”
だから私は小学校に通い始めた時も、誰にでも平等に笑顔を贈った。
皆が私のもとにいたら安心できるように、あの人を忘れないように。
その私の気持ちが功を奏したのか、クラスのみんなは私を慕い、笑顔でいてくれた。
「雨音ちゃんの笑顔素敵で好き!!」
「雨音ちゃん優しくて、いっつもにこにこしてる!!」
皆、私のことをそう言ってくれていた。
そのたびに私の心はぽかぽかと温かくなっていた。私が彼女から感じた思いを、みんなは感じてくれているんだって喜んでいた。
そのまま成長していって、高校一年生になった時。
私は、君の小説と出会ったの。
君の小説は、お世辞にもすごく上手だともいえないし、有名でもなかった。
それでも君の物語には、確かに温かい人の心情が含まれていて。どんな人に向けて書いているのか、どんな書き方をすれば伝わりやすいのかをしっかりと考えているように思えたの。
いつのまにか、君の小説にどっぷりはまっちゃってさ。
特に、夕方ごろ。
夕陽を浴びながら、公園で君の小説を読むと、感傷的で、思わず涙が出てしまうくらいだったの。
君の小説が更新されるたびに喜んで、泣いて、ほほ笑んで。
たくさんの感情を、私にくれたんだよ。
きっと君以外の小説だったらダメだった。君が必死に考えて、心情を移入している物語だからこそ、私はたくさんの感情をもらえた。
まあ、まさか学校にいる夜宵くんだとは思ってなかったけどさ。
でも、高校二年生の夏休み、私はいきなり吐血をしたんだ。
その日はまだ何もしていなかった。朝起きて、歯を磨いて顔を洗ったとき、喉から込み上げてくる液体をこらえられずに洗面台にぶちまけた。
真っ白な洗面台が、私の血で真っ赤に染まった。
「ごぼっ!!ごほっ!!おえっ!!」
私の嗚咽を聞きつけて兄が駆け寄ってきたんだ。
私の様子を見るとすぐに救急車を呼んで、私の肩を抱いた。
「おい!!雨音!!しっかりしろ!!」
すべて吐き終わった後、私は兄に体をゆだねて意識を失った。
次私が目を覚ましたのは、見覚えのある天井だった。
そこは、昔私が入院していた病室と全く一緒の部屋だった。
まだ何が起こったかもわからない状態の私。
あの時のように私は震えた手で、ナースコールを押した。
すると押した瞬間に病室の扉が開いた。そこにいたのは看護婦ではなく、兄の姿だった。
兄は私が目を覚ましたことに気が付くと、少し目を見開きゆっくりと近づいてきた。
「雨音…大丈夫か?」
少し震えた声で、私の鼓膜を揺らした。
大丈夫かと聞かれても、私はどうこたえればいいかもわかんなかった。
だから私は、嘘をついた。
「うん…元気」
それと同時に笑顔を浮かべた。
その笑顔は、あの時の楓のような張り付けた笑顔のような気がした。
体調は優れていたため、私はすぐに退院をすることができた。
ちゃんと学校に行くこともできたが、体にまだ残る。
それを母親に伝えると、今度の土曜日に検査をすることになった。
あんまり表には出していないけど、正直物凄く怖かった。
またあの治療を受けるかもしれないとしたら、今度こそ耐えられる気がしなかった。
だから当日の早朝、私は公園で一人座っていたんだ。
この先私は、彼女の笑顔を忘れないまま、またあの笑顔をできるのかな。
まず、私自身があの苦痛に耐えられるのだろうか。
そんな風に恐怖で震えていた時だった。
「…柳さん?」
君が、私に声をかけてきたんだよね。
あの後私は病院に検査しに行ったの。
「…柳さん。あなたは白血病が再発しています」
私はその時に初めて、白血病だったということを知った。
「普通なら五年以内に再発しないと、再発のリスクはものすごく下がるといわれています。でも、あなたの骨と骨髄の境界線付近で抗がん剤抵抗性を示した白血病幹細胞が残っていたと考えられます」
お医者さんから告げられた難しい話。
今の私なら理解する事はできるだろう。でも、理解をしたくなかったんだ。
「それと、非常に言いにくいのですが…白血球幹細胞の量が多く、状態としてはものすごく悪いです…覚悟も、必要でしょう」
私はその言葉を聞いた瞬間、私の中の何もかもが消えた気がした。
今まで彼女を忘れないようにしてきた思いも、夕陽が好きだという気持ちも。
今度こそは死んでしまうかもしれない、そんな思考がずっと頭の中をぐるぐるとめぐっていた。
それから何の気力もわかなくなってしまった私は、入院までの数週間は学校に行くこともしなかった。
ただただ君の小説を貪るように読んで、ただただ空想の物語に耽っていた。
でもとある日、私は思ったんだ。
いつの日か、君の物語が読めなくなる日が来る。そんな時、もし続きを望んでしまったら。
もう一話を読んでみたいという楽しみが心の中で芽生えてしまったら。
私は、死ぬことが怖くなってしまう気がした。
今だって怖くないわけじゃない。怖くないわけがない。
だけど、今以上に嫌になってしまう気がしたんだ。
だから私の読んだ最後の作品に、私のすべてを書き残したんだ。
もうこれで未練も何もない。私が死んだところで、どうってこともないって思った。
だけど、それを邪魔したのがまたしても君だったんだよね。
君が病室に来るようになってから、私はまたもう一度考えることを始めてしまったの。
君が毎日来る理由は、私の笑顔を見るため。
それを聞いた初日、私はまた楓のことを思い出したんだ。
毎日彼女のもとへ通っていたのは、彼女の笑顔に惹かれたから。
同じ理由を言った君のことが、忘れられなくなっていた。
いつのまにかまた明日も君は来るのかなって思い始めて、君が来ることを期待するようになっていった。
君になら教えてもいいかなって思って、この私の昔話を話したんだ。
君が知りたがっている辛さも、痛いほどよくわかったでしょ。
これを聞いて、君はどう思ったの?
それでも君は、私のことを助けようとしてくれるの?
第五章
小一時間ほど話し続けた彼女の話。
柳さんから伝えられた、彼女の過去のすべて。
僕の想像の何十倍も重くて暗くて、辛いものだった。
気安く僕が助けるなんて言ってもいいようなものではなかった。
彼女が本気で僕を拒絶していた理由というのはこれだったんだ。
他人の僕にはあまりにも荷が重すぎるんだ。甘い気持ちで踏み入れると、傷つくのは僕の方だと彼女は分かっているんだ。
話の重圧感が、僕のことを押しつぶそうとしてきた。
お前じゃ無理だ。お前なんかに解決できることじゃない。
もう彼女のことなど諦めて、忘れてしまえ。
僕の中の弱い部分がそう必死に語りかけてきた。
彼女を救うと決意したのに、僕はどうすればいいかすらわからない。ただただ、逃げれるのなら逃げてしまいたかった。
「…やっぱり、そうだよね」
彼女が自分にかかっている布団の上に寂しそうな視線を向けている。
少し自分のことを嘲笑うかのような笑みを浮かべて。
僕は彼女のことを見ていた。
「こんな暗い過去を持ってる人を、救いたくなんかないよね」
明るい声で、呟いていた。
でもその明るさは雑に塗りたくられた黄色のように、酷くはがれやすく、無理やり明るくふるまっていることが分かった。
諦めたように笑っている彼女の姿を見るとひどく胸が苦しくなって、僕の無力さが明らかになっていた。
「…ちょっと飲み物買ってくる」
僕はこの空間から一時的に逃げるために適当な嘘をついて、席を立った。
笑いながら頷いている彼女を横目に、僕は足早に扉に向かった。
扉に手を向けた瞬間、その扉が開いた。
そして現れたのは、僕より一回り身長が高くて、どことなく柳さんに雰囲気が似ている男の人だった。
「あ、お兄ちゃん」
「…おう」
この人が、柳さんが言っていたお兄さんなんだ。
僕が見上げていると、お兄さんの目が僕の方に向いた。
「誰?きみ」
「あ、柳さんの…ゆ、友人の夜宵影虎です」
友人といっていいのか少し迷ったが、艶な勘違いもされたくないしそう言っておいた。
するとお兄さんから向けられる視線が強くなった。
そして、彼は僕の腕をつかんだ。
「ちょっと来い」
そう言いながら病室の外へと引っ張られた。
僕はその力に抵抗しないままついていった。横目に柳さんの心配そうな目が見えた。
しばらく引っ張られて、待合ロビーまで連れていかれた。
腕を離されて、彼はこちらを向いた。相変わらず冷たくて鋭い目だった。
「…お前の話は雨音から聞いた。座れ」
彼はソファーに腰を下ろした。
僕も少し離れたところに、同じように腰を下ろす。
「小説を書いているんだよな、お前。雨音が昨日言ってた」
「あ、はい。書いてました」
「…ました?今は書いてないのか?」
「…まあ、書いてないですね」
その答えが気に入らなかったのか、僕の方に体を近づけてきた。
サラサラの前髪が揺れて、ちらちらと目を隠したりしている。
「あいつは、雨音はお前の小説が好きだって言ってた。お前の小説が好きなせいで、お前に会いたくないって言ってた。それなのに、書いてないだと?」
ガンガンと感じる威圧感。
鋭い目つきは、柳さんと似ているものを感じた。
「雨音に失礼だと思わねえのかよ。お前は、何のために小説を書いてるんだよ!!」
声を荒げて、大声で僕に叫びつける。
よく声を反射させる病院だからこそ、その声は僕の耳によく残った。
僕は彼に目を合わせないで俯いた。
「少なくともあいつがお前の小説を読んでいたことは知ってたんだろ!!それなのに、どういうつもりなんだよ!!」
「うるさい!!うるさいうるさいうるさい!!!」
僕は必死に頭を抱えながら叫んだ。
言葉すら浮かんでくることもなくて、同じ言葉を繰り返す子供のような怒り方。
それでもお兄さんを黙らせるのには十分だった。
「僕の思いなんか知らないくせに!!彼女からしたら僕の小説は足枷なんだ!!死んでしまうときに苦しめてしまう原因でしかないんだ!!」
彼は少し唖然したような顔で僕のことを見つめていた。
叫ぶことに慣れていない僕は、息を切らしていた。
それでも僕は言いたいことを言い切れていない。
「僕の小説を書いていた意味は、一人でも多くの人に希望を与えるためだ!!それでもできるわけないんだ!!才能も何にもない僕にできるようなことじゃないんだ!!」
お兄さんに叫びつけるような言い方。
こんなに感情をあらわにしたことはなかった。ここまで必死になることがなかったんだ。
すると、お兄さんはふっと笑うと八重歯が一瞬見えた。
「お前の話は雨音から耳に胼胝ができるくらい聞いた。小説を書いていて、にやにやしていることもあって、何事にも無気力だったってな」
面白そうに僕のことを見ているのが気に入らなかった。
僕がこんなに必死になっているのに。
必死に、なっている…?
僕はふと自分の手のひらを眺めた。
「…何事にも無気力、だった」
お兄さんが“だった”を強調するように言った。
僕は何で今、こんなに叫んでいたのか。
何のために、誰のために、僕は。
―――彼女の笑顔が見たい、ただその一心だった。
誰かのために本気になったのも、誰かのために叫んだのも初めてだった。
僕が本気でやろうとしていたのは、小説で人を救うことなんかじゃない。
彼女を、僕の手で笑わせることだったんだ。
僕が初めて無気力じゃなくなったとき、それは彼女の笑顔が見れなくなった時だ。
その時に初めて、僕は何かに本気になった。
見つめていた手のひらをぎゅっと握りしめた。
そして顔を上げて、お兄さんの方を向いた。
「…僕はもう、無気力なんかじゃない。僕は柳さんを笑顔にしないといけない。それが僕を本気にさせた理由なんだ」
にやりと笑ったお兄さんの顔。
今度は腹が立つこともなくて、ただただ僕の考えが通じたとしか思わなかった。
「ていうか、一応俺も柳さんだ。俺は柳海斗だ。海斗ってよべ」
「わかりましたよ、海斗さん」
「おっ、よくわかってんじゃん。呼び捨てしてたらぶん殴ってたわ」
きっといい人なんだろうけど、少し野蛮というか乱暴というか。
それでもまあ、柳さんのお兄さんっぽいなって思った。
するといきなり海斗さんは立ち上がった。そして僕の手をつかんで立ち上がらせて、背中を押した。
よろよろと数歩歩いて、振り返る。
「自分の気持ちを理解できたんなら、早くあいつのところに行ってやれ。今の思いの気持ちをぶつけて来い。俺はあいつの様子を覗きに来ただけだから」
そう言って彼は踵を返し歩き始めた。
僕はそんな背中を少しだけ眺めて、歩き出した。
彼女が待っている、病室へ。
扉を開くとすぐさま彼女が心配そうな顔で僕を見た。
今にもこちらに飛んできてしまいそうなほど。
「大丈夫…?大声も聞こえてきたよ?」
ここから僕が大声を出したところはそこそこ離れているはずなのに。
少し恥ずかしくなってしまう。それでも表情を崩すことなく彼女の前に立った。
「大丈夫だよ。ねえ、柳さん」
彼女は僕の呼びかけに首を傾げた。
僕は近づいて、彼女の両手を握った。
「へっ!?や、夜宵くん!?」
顔を少し赤らめて、僕のことを見つめている。
僕はそんなことにかまわないで、ぎゅっと握りしめる。
「僕、言ってなかったけど、もう小説を書いてないんだ」
彼女は少しの間僕のことを見つめて、俯いた。
「でも、やっぱり僕は君が愛してくれて、君にいろんな表情を与えることができた小説を手放すことなんかできないと思ったんだ」
いつでも世間の価値ばかりを考えていた僕。
でも、そんなことは二の次だ。
本当に大切にするべきだったのは、僕の物語を好んでくれている人の、僕の小説の必要性だったんだ。
僕の小説を読んでくれる人が、僕の小説から何を得て、何を好んでくれているのか。そして、僕の小説がその人にどんな影響を与えたのか。
それを考えて、大切にすることが必要だったんだ。
「だから、僕はずっと書き続ける。だから、お願いがあるんだ」
少し息を吸って、呼吸を整えた。
「僕の小説を、もう一度読んでほしい」
僕の言葉に顔が上がる。
その顔は、驚きの表情でいっぱいだった。
「君が生き続ける可能性が一パーセントでもあるのなら、僕が必ず希望を与えてみせる。明日も生きようと思わせるような小説を書くよ。だから、お願い。僕の小説を呼んでくれませんか?」
もう、誰にも無気力なんて言わせない。
もう、自分に弱虫だと思わせない。
彼女が明日を生きたいと思えるなら。彼女がまた、笑ってくれるなら。
僕はこの大嫌いな自分自身で、小説を書き続ける。
「…私、さ。どうしても忘れられなかった」
彼女はまた俯いた。小さく動いている彼女の顔。
「また期待しちゃうからってやめたのに。なんでだろうなぁ…やっぱり、読みたくなるんだよね...」
彼女の声に少しだけ鼻をすする音が聞こえた。
彼女が言っているのはきっと、僕の小説だろう。
「夜宵くんが最近書いていないことは知っていたよ…私のせいかなとか思ってたんだ。でもさ、でも…」
彼女の俯いた顔から涙が数滴ぽろぽろと落ちてきた。
布団の上に落ちて、染み込んだ。
「私のために書いてくれるって今聞いてさ…嬉しくて、嬉しくて…自分から読まないって決めたのに、すっごく楽しみになっちゃってさ...」
ゆっくりと顔を上げた彼女の頬には透明な涙が流れて、それでもものすごくきれいな笑顔をしていたんだ。
僕が、小説を書くといっただけでこんなに笑ってくれて。
なんだか僕まで泣いてしまいそうな気持ちになってしまった。
彼女は少し前のめりになり、僕に顔を近づけた。
「ねえ、お願い。私のために、小説を書いて」
彼女の横顔は夕陽に照らされて、涙が光を反射させてきらりと輝いていた。
笑顔は自然な笑顔で、僕が求めていた、僕が彼女に贈りたかった笑顔だったんだ。
僕は同じように、にこりと微笑み返す。
「うん、もちろん。僕の小説を読んで、笑って、泣いて、笑ってほしい」
今の僕なら、彼女の頬を流れる涙を拭うこともできるだろう。
でも、僕はそれをしなかった。
だって、その涙も含めて最高の笑顔だったから。
「お兄ちゃんとは、大丈夫だった?」
しばらく泣いた後、徐々に落ち着いていった彼女。
あの大声が相当忘れられなかったのだろう。心配そうに聞いてきた。
「うん、大丈夫。海斗さんはいい人だったよ」
「そうなんだ。なんだか夜宵くんとは合わないタイプだと思っていたけど、意外だね」
まああの人が何の関係もない同級生とかなら、おそらく何のかかわりも持たないままだっただろう。
でも、彼はきっと人の言っていたことをよく覚えていて、何のためにこの人がこう言っていたのか、そういうことを考えることができる人なんだと思う。
柳さんが言っていたことを正確に覚えて、必要に応じて言葉を抜粋する。
それは何も考えずに聞いたことを受け流しているような人にはできないことだ。
しっかり人の話を聞く。当たり前だけど、この難しいことを彼はできるんだ。
そんな人が悪い人のはずがない。
「まあね。でもやっぱり柳さんに似てた」
「え?そうかな?私あんなに怖くないと思うんだけど...」
「いや、柳さん自身が男だったらたぶんああなってた」
今の時代男だからとか女だからとかいうのはよくないが、本当にそう感じたんだ。
まっすぐとした性格。責任を重んじるところ。
そして言わないといけないことはしっかりというところ。
そのすべてが彼女の委員長時代と重なって見えたんだ。
「そうかな…お兄ちゃんだいぶ怖いのに」
口元を少し抑えて笑っている様子。
この当たり前の笑顔を見れるいつもの生活が、僕にとってはすごく大切だったんだ。
僕も思わず少し微笑んでしまう。
その笑顔を柳さんは見つめていた。
「…なんだか、いい笑顔するね」
なんだかすごくいろんな気持ちが合わさったような声だった。
いい笑顔って、何だろう。
彼女のその言葉に疑問を持った。
「いい笑顔って、何なの?」
僕は彼女に疑問を直接ぶつけてみた。
彼女は少し考えた後、口を開いた。
「いい笑顔ってさ、何も楽しいときに笑うときのものだけじゃないと思うの」
「そうなの?」
「うん。笑顔って心が明るくなるものと同時に、すごく怖いものなんだよ」
僕にはあまり想像できなかった。
笑顔が怖いってなんだろう。少し考えてみると、サイコパス映画とか見ると笑顔で人を殺しているが、そういうことだろうか?
「友達とお話しして楽しいとき。何かに成功して嬉しいとき、人は笑う。でも、辛くて死にたいとき。辛い思いをしているとき人前に立つと、人は笑顔を浮かべるんだ」
そう言った彼女の目の奥は、黒く濁ったものが見えたんだ。
僕は彼女が言いたかったことを瞬時に理解した。楓さんの存在だ。
過去の話に登場した、柳さんのお友達。
でも楓さんとの経験は幼い子供からしたらショッキングすぎるものだった。
だからこそ、忘れられないのだろう。
一生のトラウマとして彼女にまとわりついていくのだろう。
「私はさ、いつも人間の生死を触れ合うような場所で育ってきたからさ、どんな笑顔か見分けることはできるんだ。でもね、自分の辛さをうまく隠す人はさ、誰の目から見ても気が付けないんだよね」
さっきまでの笑顔をしまった彼女は酷く重い顔をしていた。
それほどまでに、彼女の言う“笑顔”は暗く、重いものなんだと気が付かされた。
「よく言うよね。『海の中で泣いている人に気が付ける人になれ』って。まさにこのことなんじゃないのかな」
その言葉は僕も聞いたことがあった。
よくSNSのショート動画のポエム集みたいなやつで見る。
意外とそういうのが好きで、様々な言葉は知っている気がする。
「辛さという名の海に溺れて笑顔という脆くて拙い糸でしか繋がれていないで泣いている人に気が付く。これがさっき言った言葉が示すことなんじゃないのかな」
彼女の考え方を仮に、インターネットに挙げたとしよう。
そうすると、そんなはずがないと叩く人は大勢いるだろう。でも、僕は彼女の考えに賛同するだろう。
彼女の過去の経験を知り、彼女自身がそこから考え出したものなのだから。
少なくとも、彼女の中では正解の回答なのだから。
僕はその時、改めて感じたんだ。
自分のことを分かっていない大勢に愛されるより、自分のことを知ってくれている一人に愛される方が幸せだということに。
これが、お父さんの言いたかったこと。
一人に希望を与えることができないのに、大勢に希望を持たせることなんかできない。
全くそうなんだ。僕が希望を持たせないといけない一人。
それは柳さん、君だけだ。
柳さんと分かれて、家に帰る。
病院を出た時にはすでに外は暗くなっていた。
真夏ならまだ少しは明るいこの時間帯。半袖だとだいぶ涼しいくらいの気候。
そのすべてが、今の僕にとっては気持ちいいものだった。
濃い藍色の空を見上げて、僕の頭にはとある思考がよぎった。
家に帰ったら、もう一度一から小説を勉強してみようって。
彼女は、僕の小説が大好きだって言ってくれていた。そんな彼女に対して、僕もしっかり答えないといけないんだ。
そう考えると、海斗さんが言っていた通りだったなって。
次あったら、海斗さんに謝っておこう。
そう考えながら僕は軽い足取りで家へと向かった。
「ただい…ん?」
家に帰って玄関に入ると、父親も母親もいるようだった。
それ自体は珍しいことでも何でもない。それでもリビングの方から小さい話声が聞こえてきたんだ。
いつも父親は母親の前では元気に明るい感じでふるまっている。
だからこそ小さい声で二人が話していることの方が少なくて驚いた。
僕は二人が何の話をしているのか聞くために、靴をこっそり脱いで足音を立てないようにしてリビングにつながる扉に耳をくっつけた。
すると二人の話し声は思ったよりちゃんと聞こえてきた。
「ふふっ、あの子ったらいつの間にあんなにかっこよくなったのかしら」
「近くで見ると成長は感じにくいものだね」
どうやら僕のことを話しているようだった。
僕は少し照れくさいが黙って聞き続ける。
「そうね。あの子の目、若いころのあなたにそっくりだったわよ」
「え~そうなんだな。自分じゃわからないよ」
「あなたは高校の時からこんな感じだったわよね。好きなこと以外には無関心。勉強だって全然してなかったし」
「それは自覚してるつもりだよ。だからこそ、夢を叶えられたんじゃないかなって思うし」
「ふふっ、そうね。でも何事もちょっとくらいはしないといけないわよ。特に勉強はしないといけなかったわね?」
「うっ…それはそうだね。君がいなかったら、まずかったかもね」
二人の会話を聞いて、僕はその場で初めて知った。
二人とも高校生からの付き合いということに。いや、もっと昔からなのかもしれないけど、少なくとも高校からは一緒にいたんだ。
「影虎は、その点で見ると俺よりひどかったのかもな。小説を書いているのはよかったけど、何事にもかける努力は中途半端だった。それはやらないよりもひどいものなのかもしれない」
僕はその言葉を聞いて俯いた。
そうだ、その通りなんだ。僕が悪いんだ。
何事にも無関心だって言われていた、僕が悪いんだ。
「でもな」
父親の、その暖かい声で僕は顔を上げた。
「今のあいつを見てると、何事にも中途半端だったのは、今のためにあるんじゃないかって思ったんだ」
僕はその言葉の意味がいまいち理解できなかった。
中途半端なことに理由なんて、あるわけないのに。
でも、母親も少し笑った後にそうね、と肯定していた。
「あいつは自分がやろうとしていることに実力が足りないんじゃないかって、いつの間にか逃げていたんだ。小説だってそうだ。人に希望を与えるには、自分の文章じゃできないって逃げる癖があったんだ」
「そうね。私にもまるわかりの顔で悩んでたもの。でもね、あの子は少し不器用なだけなんだと思うの。ちょっとヒントをあげただけですべて理解して、それを行動に移せる、そんなすごい子よ」
「あぁ。今のあいつを作っているのは過去のあいつなんだ。今までみたいに中途半端じゃ叶わない何かがあるんだ。だからこんなところで終わりたくない、あの頃のように途中でやめたくなんかない。そんな気持ちが、今のあいつの原動力だと思うんだ」
二人が話している内容は、全部僕自身の心を見透かしたようなものばかりだった。
すべて、二人の言うとおりだった。
僕の原動力。彼女の笑顔をもう一度見たい、それだった。
でも今のままの僕には、できない、だから頑張るしかない。そう思って今までやってきた。
父親も、母親もここまで先を見通していたのだろうか。
「ねえ、あなた。私があの子にあなたが小説家であることを伝えた日。それはね、3月20日なの。なんでこの日にしたか、分かるわよね?」
そう母親が聞くと、父親は軽く笑った。
「分からないわけないだろ。俺が、引退を発表した日。そうだろ?」
「よく覚えてるじゃない」
二人の仲のいい会話。
父親が続けて口を開いた。
「確か、お前にも言ってなかったよな。引退した理由を」
「ええ。いくら聞いても教えてくれなかったですよ」
「今なら、言ってもいいのかなって思うんだ…」
そう言って、おそらく父親が立った音が聞こえた。
「影虎、そこにいるんだろ」
そう言って、扉を開けたんだ。
父親のやっぱりなって顔と、母親の驚いた顔が見えた。
僕は少し照れくさくなり、頬をかいた。
「ばれてたんだ」
「当たり前だ。いいから入れ」
そう言われたので、僕はリビングに入って食卓のテーブルに座った。
母親が隣にいて、向かいに父親が座った。
「俺は理由も何も公表せずに、自分の小説家人生を終えた。でも、今なら二人に言ってもいいって思うんだ」
父親のいつになく真面目な顔に少し緊張する。
ぎゅっと握りしめた手には手汗がにじむ。
母親の表情も少しだけ堅いものだった。
「俺が小説をやめた理由、それは時代の移り変わりだった」
僕はその理由に少し驚いた。
てっきり僕が生まれて安定的な職業に就くなどという理由だと思っていたから。
「影虎が生まれたころから、だんだんと時代が移り変わってきていた。スマートフォンの普及やテクノロジー、科学技術の発展。きっと、これからの時代はもっと未来的なものになっていく。そんな時に、俺は思った。そんな時代を生きる若者と、俺たちと同じ時代を生きていた若者の悩みは一緒なのかって」
僕はその時点でほぼ察することができた。
父親になるためにやめたのではない。次世代の若者に寄り添えない、そんな小説家としての考えを尊重したんだと思うと父親らしいなって思った。
「きっと違う。そんな同じ時代を生きていっていない若者の悩みを俺の小説で軽減させることなんてできない。そう思ったんだ。だから俺は、お前に幼いころから俺の考え方をたくさん教えていったんだ」
「僕を、小説家にさせるために?」
そう聞くと、父親は首を横に振った。
少し僕は目を見張らした。予想が外れてしまったせいで。
「小説家だろうが、そうでなかろうが関係ない。人に笑顔を分け与えて、希望を与えられる。そしていろいろな悩みに寄り添える、そんな人間に育ってほしかったんだよ」
僕はその言葉にまたしても少し驚いてしまった。
父親は思ったよりも、父親として僕の将来を考えた教育をしてくれていたんだなって。
「俺がこれを言わなかったのは、お前に過度な期待をかけてしまうかもしれないと憂いていたからだったんだ。でも、今のお前なら大丈夫だ。誰かのために本気になれているのだからな」
僕は少し固まった後、ほほ笑んだ。
「…なんだか、嬉しいかも。ありがとう」
普段伝えることもないような感謝。
照れくさくて思わず少し視線はそらしがちになる。それでも二人に聞こえるような声で、しっかりといったつもりだった。
二人は顔を見合わせて、同時に破顔していた。
「なんだよ、照れるな…別に感謝の必要なんかないぞ」
「ふふふ。私も照れちゃうわ。感謝する分いい子に育ってくれればいいのよ」
やっぱり、僕の親はお互いに似ていると思った。
照れて顔を赤くしているのも、似たようなことを言っているのも。
でも、何よりも似ていると思ったもの。
それは、優しい笑顔と与えてくれる言葉の暖かさだった。
第六章
夜、僕は一人自分の部屋でパソコンの前に座っていた。
一度はすべてを白紙にした、僕の小説。
小説は、僕を許してくれるのだろうか。一度捨てようとした僕のことを許してくれるのか。
小説に人格も、性格もあるはずがない。
なのに、僕は小説に申し訳なくて、許してくれるかどうかすらわからなかった。
僕は震えを押し殺して、パソコンに電源を入れた。
そして、僕がいつも小説を書いていたノートアプリを開く。
するとやっぱり、そこは白紙で、僕がいた痕跡すらなかったんだ。
そりゃそうだよなとか思いながら設定を弄っていた。その時に、見つけた一つのメモ。
「ん?…なんだろう、これ」
書いた覚えどころか、見覚えもないようなこのメモ。
好奇心に駆られてしまって、僕はそのメモを開いてみた。
『2006年 5月8日
俺の子供、夜宵影虎が生まれた今日。このメモを、いつ、だれが見ているかもわからない。
だけどきっと、こんな過去を漁っているのなら、見ているあなたは悩んでいるのだろう。そんなあなたへ、過去を生きる俺からのアドバイス。
人間というのは、悩むと視野が勝手に狭くなってしまうものなんだ。
必死にその悩みの解決策を探す。そのせいで周りを見ることもできなくなってしまい、ただただむしゃくしゃした気持ちと態度が残るだけになる。
だから、悩みは無理に解決する必要はないんだ。
俺は小説家だから、いい小説を、感動して誰かに希望を与えられる小説が書けないと悩んでいた。いや、今も多分悩みとして心の奥底にたまっている。
だけど、結果的に俺は何冊も書籍化されて多くの人に知られる小説家になった。
ただ才能があったから、そういう人もいるだろうがそれはありえない。学生時代からずっと書いていたが、悩みに悩んで、もう俺には小説を書くことすらできないと思い一度諦めかけた。
でもな、そんな悩みも一緒に人生を歩く相棒として考えてみたら急に心が軽くなった気がしたんだ。
これは悩みなんかではない、俺の個性だって。
そして、俺の個性なら個性を変えることくらいできるはずなんだって思ったわけだ。
まあ個性を変えるというのもなかなか難しい話だが、それでも悩みを解決しないといけないという心苦しさからは解放された。
悩みを悩みととらえたらいけないんだ。
まああくまでも俺の考え方だ。
参考にするもしないも、あなた次第だ。
ここで俺の昔話を少しだけ書き起こしておく。興味ない人は無視して結構。
俺が小説を書き始めたのは中学二年生のころだ。
昔たまたま図書館で見つけたライトノベルを読んでみたことがきっかけだった。
その頃の俺は外部のクラブチームでサッカーをしていた。中学校の中でもだいぶ運動神経がずば抜けていて、期待もされていた。
そのクラブチームも地方に名を轟かせるレベルだった。
だから、そのチームに集まるのは天才ばかりだった。
そんな環境に俺は置いてきぼりにされていった。あれだけ好きだったはずのサッカーが嫌いになる程度にはボロボロにされた。
身体的にもついていくのがつらくなっていったとき、俺は心までも病んでしまった。
何の気力を持つこともなく、そのサッカーチームもやめた。
完全に無気力になって、学校でもずっとボーっと過ごしているだけ。
何も楽しくない、何の希望もないような中学生生活だった。
でもその時に見つけたのが、ライトノベルだったんだ。
特にすることもないから本を読んでみようとしか思っていなかった。
でも読み始めるとともに、書いてある文字が俺の頭の中に物語を与えた。
読んでいくとどんどんその沼にハマっていって、一冊読み終わったころにはもう一冊読んでみたいという気持ちになった。
何冊も、何冊も、いろいろな物語が知りたいと思いながら読んだ。
一つ一つの物語が俺の頭に入ってくるたびに、俺の頭の中は色づいていった気がしたんだ。
嬉しさの赤、悲しみの青、安らぎの緑。
すべての感情の色を、俺は改めて本から学んだんだ。
ただ、文字が羅列されているだけなのに。
五十音をただ色々な並べ方にして、言葉として書いてあるだけなのに。
どうしてこうも感情を敏感に反応されてしまうのだろうか。
これを書いている人たちはどんな気持ちで、どんなやり方でこれを書いているのか。
俺はそれが気になったんだ。
だから俺は自分で書く立場になればいい。そうしたら、どんな感情を持って小説を書くのかもわかると思ったんだ。
これが俺、夜宵雅人の小説家人生の始まりだ。
では、ここで終わっておこうと思う。
あなたの悩みが少しでも軽くなったんだったら嬉しい。 』
僕はすべてをしっかりと読んでそれを閉じた。
このパソコン自体、父親のおさがりだ。
だから父親のデータが残っていてもおかしいことではない。
でも父親は僕にくれる前に初期化したとは言っていた。
おそらく、初期化した後にわざわざ書いてくれたものなんだろうなと思い、少し心が温かくなった。
それで、父親が言っていたこと。
悩み事を悩み事としてとらえたらいけない。
そんな考え方、思いついたことすらなかった。
「小説がうまく書けないのは個性…個性、か」
僕はパソコンを起動させたまま、ベットに倒れた。
改めて考えると、僕の個性って何なのだろうかな。
案外自分の個性を理解する事は難しいことなのかもしれない。
ここ最近見ることが多くなった気がする、部屋の天井。
それだけ多く、悩んでいるということなのかもしれない。
でもそれと同時に、今までないくらいに充実した日々を送っている。
何かに対して本気になると、毎日が楽しくなるんだなって思う。
それでも僕は彼女に希望を与えないといけない。
楽しさを感じるためにこんな生活を送っているわけではない。
目的をしっかり忘れないようにしないと。
そんなことを頭の中で考えているウチに、猛烈な眠気が僕のことを襲ってきた。
慣れない大声を出したり、慣れない感謝をしたり。
いつもと違う生活を送っていたら、そりゃ疲れもたまるよね。
明日は学校でもあるし、今日はもうこのまま眠ってしまおう。
明日、またもう一度考えよう。
夜も深くなり始めているこの時間に、僕は眠りについた。
祝日明けの学校。
周りのみんなの顔は暗い。そりゃ連休明けはつらいだろう。
でも僕は不思議とその辛さを感じることはなかった。
かといって特にすることもないし、窓の外を眺めながらどんな小説を書こうかななんてのんきに考えていた。
すると廊下が妙にざわついていることに気が付いた。
なんだろう、野良猫でも入ってきたのかな。
そう思ってちらっと視線を廊下に向けてみると、そこには制服姿の柳さんがいた。
僕はそれを見た瞬間ガタンと音を立てて立ち上がった。
「柳さん…なんで...」
まだ状態が安定しきっていないはずの彼女。
僕は速足で彼女の近くに行った。
しかし、周りには多くの女子がいて近づくことはできなかった。
「柳さん!!学校これてなかったけど大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
彼女はいろいろな人から質問されても笑顔を崩さないまま答えていた。
すると彼女の視線が僕の方に向いた。
その瞬間、彼女は足を止めて僕の方に近づいてきた。
周りのみんなは不思議そうな目で見ていた。
「や、柳さん…おはよう」
「おはよう、夜宵くん」
僕には学校に来ていた頃のような真面目な顔で話していた。
「放課後に話あるんだけど、いい?」
「うん、大丈夫だよ...」
まだ少し困惑したままの僕に彼女はそうさらっと言って自分の席に向かっていった。
周りは何が起こったかわからないような目で僕のことを見つめていた。
僕はその視線がこそばゆくて、さっさと席に戻った。
僕の前の席に座っている柳さんは、僕が座っても振り返ったり話しかけたりはしない。
あくまでも何も関係が変わっていないような感じだった。
その様子に少し寂しさを覚えながら、僕は授業の準備を始める。
あまり授業の内容は頭の中には入ってこず、柳さんの様子を気にしているうちに学校は終わっていた。
僕はさっさと準備を終わらせて席に座ってそわそわしていると彼女が振り向く。
すると僕にしか聞こえない声で話す。
「今日、家まで送って。無理言って学校に来てるから、帰りは誰かに同行してもらわないといけないっていう条件が付いたの」
「あ、うん。いいけど」
「なら早く帰ろ」
彼女は立ち上がって、学校指定のカバンを肩にかけた。
僕も後を追うように立ち上がり、カバンを手に持つ。
僕の様子を見て彼女は歩き始めたから、僕もついていく。
下足室で下靴に履き替えて、外に出た。
「ねえ、驚いた?私が学校に来たこと」
外に出たとたんくすくす笑いながら茶化すように話しかけてくる。
僕は思わずため息をついてしまう。
「ほんとに心臓止まるかと思ったんだけど」
「心配しすぎでしょ。一応お医者さんの許可もとって来たんだよ」
「一応じゃなくてちゃんととってください」
僕の心配もよそに嬉しそうに笑っている彼女。
そんな笑顔をされていたら怒こるに怒れない
「病院のベットにいても退屈だし。学校にも行きたいなって思って」
「もう…柳さんは白血病患者なんですよ。少しは安静にしないと」
すると、彼女は少し俯いて立ち止まった。
僕は何事かと思いながら、彼女に目を向けた。
「…ねえ。質問させてよ。一生生き続けるか、一か月で死ぬか。夜宵くんならどっちを選ぶ?」
彼女の口から出た言葉は、よくインターネットに転がっているような質問だった。
何回か考えたけど、僕は毎回答えを出すことはしなかった。
でも今回ばかりは、答えを出さないといけない気がした。
一生を生きるか、一か月を生きるか。
父親や母親、海斗さん、そして柳さんのこと。
今までみんなからもらった考えから、僕は一つの答えを生み出した。
「僕は、一か月を選ぶ」
「どうして?」
「一生を生きていても、僕は何を目的に生きるかなんてわからない。ただ、無気力な僕が生まれるだけだ」
無気力という言葉に、柳さんは反応する。
「それに僕は腐っても小説家だ。一生生きていくのなら、時代もどんどん移り変わっていく。そしたら、その時代の人は何に悩んでいるのかきっとわからなくなる。そうしたら、もう小説を書くこともできない」
これは父親の言葉だ。
でも、それを聞いてから僕も共感を持つようになった。
僕が小説をもう一度書こうと思った理由は柳さんだ。
何の目的もなく、時代の移り変わりにもついていけないで僕は生きる必要はない。
それなら一か月で本気で一作の小説を書く方が僕はいいと思ったんだ。
「そうなんだね。夜宵くんらしいや」
寂しそうに笑いながらつぶやいた彼女。
「なんでいきなりこんなこと聞いてきたの?」
「…お母さんが、お医者さんと話していたんだ」
彼女はその寂しそうな笑顔を張り付けたまま俯く。
目元は見えずに、上がった口角だけが覗いていた。
彼女の声は雑に塗った黄色のような声。
「完璧にすべては聞こえなかったんだけどさ、余命とか、三か月とか、お母さんの泣く声とか。色々、聞こえてきたんだよねっ」
わざとらしく語尾をはねさせて、余裕をアピールしたがっている。
それでも、彼女が隠したがっている感情はスケスケだった。
「もう、長くないなって思ったら、じっとしてられなくて。だから今日も、学校に来たの。そして迷惑なこともわかって、家まで送ってもらおうとしてたんだ」
僕は両手をぎゅっと力強く握りしめる。
腕がプルプルと震えてしまうくらいに。
「ありがとうね、ここまでで十分だから。家族にはうまく言ってごまか...」
「下手くそ」
僕は彼女の言葉を遮る。
彼女がびくっと反応した。
「いきなり下手くそって、なに?」
「感情を隠すのが下手すぎるんだよ」
彼女は押し黙る。
「今すぐにでも泣きたいほど怖がってるくせに。もっと僕と一緒に居たいくせに」
自己中な言葉を吐き出す。
僕たちの間を風が横切った。
「泣きたいなら泣けばいいのに、自分の本当の思いを伝えたらいいのに。どうして、自分の気持ちを押し殺すんだよ!!」
僕自身も感情が抑えきれなくなっていた。
秋が近い季節の乾いた空気の静寂を切り裂くような叫び声が響く。
「君には時間がないんだって、自分でわかってるのに。どうして、どうしてなの!?」
僕の叫びに彼女は涙を流す。
唯一見えて上がっていた口角はぐちゃぐちゃに歪んで、小さな嗚咽が漏れている。
僕はそれを見てハッとする。
少し、言いすぎてしまったかも。彼女に怖い思いをさせたかもしれない。
僕は彼女に近寄ろうとした。
でもそれより早くに彼女は口を開いた。
「そんなの…私が一番わかってる…でも、無理だよ、怖くて怖くて仕方がないの...」
口元を抑えて、僕の視線を憚らずに泣き始める。
「夜宵くんと一緒に居たいよ…でも、そうしたら死んでしまうことが余計怖くなるの」
僕はこのセリフを見たことある。
昔に呼んだライトノベルに似たようなセリフを見たことがあった。
でも、いざ目の前で言われたら僕は何を言えばいいのかわからない。
小説家のくせに、言葉が浮かんでこなかったんだ。
「怖いよ…死んでしまったら、友達にも、家族にも、夜宵くんにも会えなくなるの...」
希望を与えるには、どうしたらいいのか。
また彼女に生きる勇気を持たせるにはどうしたらいいのだろうか。
父親だったら、このときどんな言葉をかけるのだろう。
父親ならきっと、この場面に適切な考えを持っているはずだ。
どんなことを考えて、目の前の人を慰めるのか。
僕は顔をゆがめて、歯を食いしばって考えていた。
すると彼女が近づいてきて、僕の手を握った。
「助けて…影虎くん…」
その瞬間、僕は大きな勘違いをしていることに気が付いた。
彼女が求めているのはこの場面に最適な答えじゃない。
僕の答えを、僕自身の救いを求めているんだ。
父親がこの場面でどういうとか関係ない。僕は僕として、彼女に希望を与えるんだ。
僕の手をつかんで俯いて泣いている彼女の手を僕から強く握りしめる。
「僕は君が希望を持てるような小説を書く。もう少し先になるかもしれない。それでも、必ず君が生きるための希望を持てる物語を書くから」
彼女は鼻をすすりながら顔を上げた。
酷くおびえた表情と、赤く膨らんだ目元が心を抉る。
「だから君は死ぬことを考えたらだめだ。生きて、どんなことをしたいか。どんなところに行きたいか。それを考えなよ。その願いも僕が叶えるから」
手を握ったまま必死に彼女に語り掛ける。
目をしっかり真正面から見て逸らさない。
もう僕は大切なものから、目を逸らしたくなかったんだ。
小説からも、辛そうな彼女からも目を逸らすことはもうない。
「だからお願い。そんなにつらそうな顔しないでよ」
僕のその懇願するような声に、彼女は複雑な表情を浮かべた。
僕を不安にさせたくない感情と、自分自身が感じている恐怖でいろいろな気持ちがぶつかり合っているのだろう。
様々な色の絵の具を混ぜたら複雑な色になるのと同じで、様々な感情が混ざり合ってこの表情を形作っているのだろう。
こういう時は、どうしたらいいのだろうか。
この状況をもう一度絵の具で考えてみたらどうなるか。
ぐちゃぐちゃな色になった絵の具。それで絵をかくことは不可能に近い。
それだったら、僕はもう一度絵の具を作り直すに違いない。
それと一緒なのかもしれない。彼女に違う感情を与えればいい。
この複雑な感情を捨ててしまえるくらいに、もっと綺麗な感情を。
綺麗な感情、それは一つしか思い浮かばなかった。
「ねえ、柳さん。見てて」
彼女は少し迷ったようなそぶりを見せてから、僕の方を向いた。
そんな彼女に向かって僕は思いっきり変顔してみた。
今までないくらいにふざけきったような顔をしていた。
すると彼女は少しの間固まって、少し鋭い目つきで僕を見た。
「…何してるの?」
その声は学校でよく怒られていた頃のものに似ていた。
少しその声に焦ってしまい、顔を元に戻す。
「え、えっと…笑ってほしいなって思って」
彼女の一番きれいな感情。
それは僕自身を変えてくれた、彼女の笑顔だった。
「そんな複雑な表情してるなら、笑顔の方がいいなって。その方がつらい気持ちも吹き飛ぶかなって思った…的な?」
僕の言葉にずっと表情を動かさない。
数秒の空白が僕たちの間に流れた。気まずいその状況を打破するための話題を頭の中でぐるぐると考えていた時。
「…ふふっ…あははははっ!!」
彼女が急に噴き出した。
僕はその様子に困惑していた。
「あははっ!!本当に夜宵くんっておかしな人!!」
腹を抱えて笑っている柳さんを見て、僕はただ立ち尽くしている。
それでもいまだに笑い続けている彼女。
「ふふっ。あんな真面目な雰囲気だったのに、変顔をいきなりするなんて。本当におかしな人だね」
確かにあの雰囲気でのいきなりの変顔はおかしかったのかもしれない。
はたから見たら完全に空気を理解していない人だろう。
「でも、すっごく優しい。私を、笑顔にしようとしてくれたんでしょ」
「よ、よくわかってるじゃん」
「当たり前でしょ、まったく…ありがとうね。なんだか少し怖さが吹っ飛んだかも」
ニコッと微笑む彼女のことを見て、僕の心はあったかくなる。
この笑顔が見たかったんだ。
僕からもぽろっと笑顔がこぼれた気がした。
ぎこちない笑顔なのかもしれないけど、僕ができる精いっぱいの笑顔だったつもりだ。
「やっぱり家まで送ってほしいな。いい?」
「もちろん。送らせてもらうよ」
そう答えると彼女は嬉しそうに笑いながら頷いた。
歩き出した彼女の影を追いかけるように僕も歩きだす。
僕たちは徐々に低くなる夕日に向かって、二人影を伸ばし歩いていく。
彼女の家は周りよりかは少し大きいくらいの一軒家。
綺麗な外装に、芝生が生えている小さな庭。
こんな家で育ったんなら、そりゃ柳さんみたいな上品な人が育つだろうと心の中で勝手に納得した。
僕はしっかりと彼女を家まで送り届けた。
これでミッションは完了だ。僕は一歩下がった。
「それじゃあまた明日ね」
そう言って踵を返す、瞬間だった。
「ねえ。家に上がっていきなよ」
彼女がそう言った。
僕は後ろに振り向こうとしていたことをやめて、彼女の方を向く。
「い、家に?どうして?」
「ただ暇なだけ。どんな事したいか考えなって言ったの夜宵くんでしょ?」
いたずらっ子のような表情を浮かべながら、僕を見る。
さっきそう言ってしまった手前、断ることもできない。
よって僕は彼女の提案を飲む以外の選択肢はなかった。
「はぁ、分かりましたよ。お邪魔します」
「うんうん、どうぞ~」
ウキウキしている彼女が扉を開く。
僕も彼女の後ろに続く。玄関は僕の家より広くて、とても清潔に保たれていた。
僕は靴を脱いで綺麗にそろえた。その時後ろから足音が近づいてきた。
「雨音、おかえりなさい。あら?お友達かしら?」
振り返ると、大人びた柳さんのような女性が立っていた。
おそらく柳さんの母親だろう。
「あ、ママ。ただいま。この人は今日家まで送ってくれた夜宵影虎くん。クラスメイトのお友達」
「こんにちは。夜宵影虎です。いつも柳さんと仲良くさせてもらってます」
「どうも、雨音の母の彩夢です。ありがとうね、わざわざ送ってもらって」
「いえ、やな…雨音さんの安全のためです」
柳さんといっても、目の前にいるのも柳さんだ。
だから途中で言い直して、名前を言った。
人の名前を呼ぶのは慣れていなくて、少し不自然だったかもしれない。
「ふふっ、ありがとうね。ゆっくりしていってちょうだい。お菓子と飲み物持っていくからリビングでのんびりしておいてちょうだい」
そう言ってパタパタと履いているスリッパを鳴らしてキッチンに戻っていく。
やはり母親も上品な人だ。
「さっ、こっちこっち」
僕のことを手招きしながら扉を開けた彼女。
その先に広がるのは、洋風でおしゃれなリビングだった。
清潔に保たれているそのリビングは日本ではなく、ヨーロッパのようだった。
僕はそんな綺麗な部屋に少し驚いていると、彼女はソファーに座る。
相当柔らかいのか、彼女の体がソファーに沈む。
彼女が横にスペースを作って、ポンポンと叩いた。
それは母親が子供を呼ぶときのように。
「ほら、こっちきなよ」
「う、うん...」
僕も彼女の横に腰を下ろす。
予想した通り、このソファーはものすごく柔らかくて、心地いい。
ふかふかなクッションに座っているような感覚。
それは空を浮かぶ雲の上ではねているような気分だった。
そんなことを思っていると彩夢さんがキッチンからお盆を持ってやってきた。
「飲み物とお菓子よ。ゆっくりしていってね」
「あ、ありがとうございます」
ニコッと微笑んだ柳さんの彩夢さんの顔は、柳さんと似たものを感じた。
やっぱり親子なのだなと思う。
横を見るとすでにオレンジジュースを飲んでいる柳さんがいた。
「やっぱりオレンジジュースが一番好き!!」
「そうなんだね」
子供のようなその様子にクスッと笑みがこぼれる。
僕も一口オレンジジュースに口をつける。
体中に広がってくる感覚を感じて、言葉に表せない爽快感を感じた。
「おいしいね」
「オレンジジュースってね、ビタミンCとかクエン酸っていうのが含まれてて、美味しいだけじゃなくて疲労回復とかにもいいんだよ」
「そうなんだ、初めて知った」
彼女が自慢げに話してきたことは、この先の人生にも有益な情報な気がする。
疲れたなって思うことがあればオレンジジュースを飲んだら疲労回復を促してくれる。
その知識があるだけでもなんだかつらいことも頑張れる気がした。
すると彩夢さんがエプロンを脱ぎながらこちらに来た。
「ふふっ、仲がいいわね。そういう関係なのかしら?」
「な、何言ってるの、ママ!!」
僕はいきなりそんなことを言われてしまい固まる。
決して僕と柳さんはそんな関係はない。
「冗談よ。ムキになっちゃって」
僕たちの反応を楽しむように笑っている彩夢さん。
そんな彩夢さんにジト目を送っている柳さん。
なんだかんだ言って仲がいいんだなって思う。
「ところで、影虎くん」
彩夢さんが真面目な顔をして僕の方を向いた。
僕は顔だけでなく体もそちらに向けて、彩夢さんを真正面から見つめた。
「あなたの話は雨音からよく聞いてるわ。雨音のために小説を書いてくれるらしいわね?」
「はい、そのつもりです」
「すごくうれしいわ。自分の娘のためにそこまでして勇気づけようとしてくれていて。でも、雨音の状態をあなたは知っている?」
少し圧をかけるような言い方。
僕に危険を知らせるように強く言い放つ。
「雨音の体の状態はすごく悪い。昨日雨音には言ったけど、余命は三か月ほどだって医者にも言われてるの」
僕はその時感じたのは驚きなんかじゃない。
だから何だというような、興味もないような感情だった。
「そんな雨音のそばにずっといるなんて、あなたの精神状態的にもよくないことよ。それでも雨音の横にいて、雨音のための小説を書くっていうの?」
「...僕だって不安はあります」
その僕の言葉に柳さんは小さく俯く。
そんな彼女の様子を横目に僕は言葉を続ける。
「それは僕自身が病んでしまう可能性の不安なんかじゃないです。雨音さんが喜んでくれるような物語が書けるかどうかという不安です。僕は雨音さんがどういう状態であろうと関係ないです。僕は彼女が生きる希望を持つまで、また笑顔になってくれるまでずっと横にいるつもりです」
一切ひるむこともなく、僕は真正面から言う。
「どうしてそこまでの決意を持っているの?」
今度は圧をかけるような感じではなかった。
ただ心の中で渦巻く疑問を晴らしたい。
そう感じさせるような言い方だったんだ。
「それは、ただの僕のエゴです。ただ僕がもう一度、雨音さんの笑顔が見たいと思っただけです」
柳さんは顔を上げて目元に涙をためる。
相変わらず涙脆いなってつくづく思う。
「...甘酸っぱいわね。ふふっ、ありがとうね。正直、心配だったのよ。あなたが雨音のせいで病んでしまうんじゃないかって」
「関係ないですよ。雨音さんを笑顔にさせる、それが僕を無気力じゃなくさせてくれたのですから」
僕たちの会話を横から見つめる柳さん。
その目は酷く温かくて、大切なものを見つめているような目だった。
暖かくて、心地いいこの空間。
あとこの空間がどれだけ続くのかと考えると、何とも言えない喪失感に襲われる。
安心したような顔をしている柳さんのことを見つめていた。
第七章
週末、僕は駅の前で待っていた。
柳さんに前日の夜に連絡が来た。
明日お出かけをしたいから朝の九時に〇〇駅前集合で、とメールが送られてきた。
特に用事もないから、僕は了承をした。
一応柳さんとのお出かけだし、女の子とのお出かけだし。
そういうわけで今自分が持っている服で一番おしゃれな服を着てるつもりだ。
九時集合と言われたからそれの述分前に着く予定で家を出る。
スマホを見ると、八時四十八分、ちょうどいい。
気温がころころ変わるこの時期。
今日は長そでがちょうどいいくらいの気温だ。
彼女が来るまでまだ少しあるだろうと思って、僕はスマホを触っていた。
するといきなり後ろからちょんちょんとつつかれる。
「おはよう、夜宵くん」
柳さんの声が聞こえてきて、彼女だと確信した。
僕はゆっくりと振り向きながら挨拶を返す。
「おはよう、柳さ...ん...」
僕は思わず声がだんだんしぼんでいってしまった。
目の前にいるのは、全体的に落ち着いたベージュ色のファッションを纏った柳さん。
その恰好はいつもよりも何倍も大人っぽくて、思わず見惚れてしまいそうになる。
じっと見つめる僕の視線がこそばゆいのか、少し顔を赤らめていた。
「そ、そんなみないでよ...」
「ご、ごめんね...」
少し気まずい空気が二人の間に流れた。
でもそんな空気を破ったのは、柳さんだつた。
「...それで、どうなの。この格好は」
両手を広げて、見ろと言わんばかりに見せつけてくる。
そんな恰好はしているものの、顔はまだ赤いままだった。
少し濃い栗のような茶色のひざ丈のスカートに、淡いベージュ色のブラウス。
頭にも柔らかく、灰色の帽子を乗っけている。
まさに女子高生、いや大人といっても差支えがないくらい綺麗だった。
何よりも服に着せられているわけではなく、彼女自体が服の美しさを引き立てていた。
「すっごく綺麗...似合ってるよ」
僕は思ったままの感想を伝える。
するとさらに顔を赤らめたが、口元を綻ばせた。
「ありがとっ。じゃあ行こっか!!」
「ちょ、ちょっと待って。どこに?」
僕の腕を引っ張って今にでも連れて行ってしまいそうなほど興奮している彼女のことを落ち着かせる。
彼女はちらっとこっちを向いて、また前を向いた。
「行ってからのお楽しみだよ!!」
そう言いながら僕は駅のホームに連れ込まれる。
ICカードを改札に当てて、とある方向の電車に乗る。
あまり普段は電車に乗ることはない僕からしたら、どこに着くかなんて見当もつかない。
駅のホームで数分待つと、電車がホームに入って着た。
扉が開くと中には多くの人が乗っている。
しかし彼女はそこに向けて手を引っ張っていく。
「ほら、これに乗るよ」
「え、これ?すごく混んでるんだけど...」
人混みに慣れていない僕からしたらだいぶ苦手な空間だ。
でも柳さんはずっとこちらを見つめていた。
その視線に僕は根負けして、その電車に乗り込んだ。
休日で若者がとても多いこの電車内は、足の踏み場が少なくてバランス感覚を取りにくい。
電車が発車すると慣性の法則によって、進む方向と逆側に力が加わる。
その時大きく体のバランスが崩れそうになるが、何とか手すりに摑まる。
だけど柳さんは体が小さいせいで手すりもつり革もつかむにつかめなかった。
バランスを必死に整えようとしている彼女を見て、僕は小さな声で言った。
「柳さん、僕につかまってください」
「え、でも...」
「あなたは病人だし、女性だよ。僕は男なんだからしっかりと柳さんのことを助けないと」
柄にもないようなかっこつけ方をしてしまった。
それでも彼女は小さく頷いて、俯きがちに僕の腕をぎゅっと握っていた。
その様子に僕は少し満足したとともに、バランスを崩さないようにしっかりしないとな、と心の中で密かに決意した。
6,7駅を過ぎたころ、服の袖をくいっと引っ張られた。
僕は柳さんのことを見る。
「次の駅で降りるよ」
「わかりました」
その会話の後数分電車に揺られて、扉が開く。
僕たちは人混みをかき分けて何とか電車を降りた。今の時点で僕はもうへとへとだった。
それでも柳さんは僕の様子に目もくれず、また歩き出す。
「ま、待って...」
「もう、しっかりしなよ」
少し呆れたようにしながらも、内心ワクワクしているのが体に出てしまっている。
いつもより一歩一歩が軽そうで、跳ねているようだ。
なんだかんだ楽しみにしているんだなって、僕も少しうれしくなった。
それを気力に、僕は柳さんの後ろをついていく。
駅のホームを出ると、慣れない潮のようなにおいがした。
まさかとは思うけど、ここって...
「海、なの?」
「正解!!さっ、もっと近くまで行くよ」
彼女は足を止めることもないまま、歩いていく。
彼女の行く方向に歩いていくにつれ、少しずつ潮のにおいが濃くなっていった。
見たこともないこの街の風景。たった数駅電車に乗っただけでこんなに見知らぬ光景になってしまうのだな。
いつも僕たちが見る光景より田舎で、自然が豊かだ。
しばらく歩くと真っ青に広がる海が見えてきた。
海は太陽の光を反射させてキラキラと光っている。
しかし夏も過ぎ去って今の時期だからこそ、人はあまりいなかった。
「すごい綺麗だね」
彼女がふとしみじみと呟いた。
その言葉には様々な感情が孕んでいるように僕は聞こえた。
僕は何も返事することもなく、ただただ歩いていた。
すると彼女は砂浜へとつながる階段を下り始めた。
コンクリートで作られたその階段は凸凹で、スニーカー越しでもその凹凸を感じてしまうくらい。
砂浜に足を下ろすと、シャリシャリと足元から砂を踏む音が聞こえてくる。
心地いいその足音は二人のそれぞれ異なるリズムを奏でている。
僕より少し早いリズムで刻む柳さん足音は僕より早く足を踏み出していることがわかる。
そしてその軽快なリズムが止まる。
僕は彼女の横に並ぶ。
目の前に広がる広大な海は、今だけは僕たち二人だけのためにある。
そう言っても過言ではないほど、僕の意識には僕たち二人しかいなかった。
今日は風がほとんどなくて、海は凪いでいた。
それでも足元までやってくる波。
特に珍しい光景でもないはずなのに、なんだか感傷的になってしまう。
ふと彼女の横顔を見て見た。
まっすぐと青い海を見ている彼女の横顔はなんだか儚げで、何を考えているのか、どんな気持ちで見ているかわからない。
ゆっくりと瞬きする様子がなんだか艶めかしくて、でも目は寂しそうで。
僕は何も言えないまま、海を眺める彼女を眺めていた。
「...本当は、夏に来たかった」
彼女がふと呟いた。
波の音にかき消されてしまいそうなほど小さくて、震えている声。
「でも、私にたぶん次の夏はない。ずっと、憧れてたんだ」
「憧れてた...?何に?」
「...私が好きだって胸を張って言うことができる、男の子と海に来ることに」
僕はその言葉に耳を疑った。
好きな男の子って、状況的に僕しかいない。
つまり柳さんは、僕のことを...。
「ずっと夢の中で、知らない私が知らない男の人と海でわいわい騒いでたの。外から見てわかるくらいに、明らかに惚れている様子でさ、現実の私は病気で苦しんでいたのに」
自惚れていた僕の思考を現実に引き戻すような言葉。
彼女自身が夢にまで見たようなシチュエーションに、僕は下心を持っていた。
そんな自分に少し嫌気がさす。
それと同時に彼女が欲しがっていたのは、僕しかいないんだと思うと勇気が出てくる。
僕は彼女の手を握った。
「なら、現実にしちゃおうよ」
子供っぽい笑顔を浮かべて僕は言った。
彼女は一瞬固まって満面の笑みを浮かべた。
「うん!!」
そう言って波打ち際まで手を繋いだまま近づいた。
さすがに今海に入るのは野暮だ。
寒すぎるし、着替えも持ってきていない。
それでも彼女の思うままに、希望するように僕は動いていきたいと思う。
波打ち際でぼおっと水平線を眺めている彼女。
これが彼女のしたかったことなのだろうか。
「...こうやってさ、海を眺めるの憧れてたの」
「...どうして?」
「夜宵くんの小説でさ、二人で海を眺めながら終わるっていう小説あったじゃん。それがすごく綺麗で、いいなって思ったんだ」
あくまで僕の小説を読んで持った羨望。
その事実に少し僕は嬉しくなった。
確かその小説はそのあとに二人で同じ家に帰るというものだった。
でもさすがに僕たちは同じ家に帰るなどということはできない。
「小説ってさ、うらやましいことばっかり書いてるよね。高嶺の花が自分のことが好きだとか、絶望から救い上げてくれる人がいるとか。実際はさ、そんなうまくいくはずもないのに」
確かにその通りだと思った。
もとから恵まれた才能や、容姿。
そんなものは僕は持っていない。
だけど僕は、一度たりとも小説がうらやましいとは思ったことはなかった。
「...確かに、そうだよね。でも、僕はこんな世界だからこそ好きなのかもしれない」
僕の彼女の考えとは逆の言葉を聞いて、彼女は僕を見た。
その視線は疑問が孕んでいるような感じだった。
「こんな何の才能も何もない人生だからこそ、自分色に染めていける。自分だけの思いで本気になれる。僕はそう思うんだ。うまくいかないかもって思うから、死に物狂いで努力できるんじゃないかなって思うんだ」
僕が言っていることはただのきれいごとにも聞こえるかも、いや聞こえるに違いない。
でも、実際そのきれいごとが今この僕の身に起きている。
才能もないただの小説家が本気になっている。
それがどんな事よりもちゃんとした証拠だったんだ。
「確かに、夜宵くんの言う通りかもね。こんな残酷な世界じゃなければ、今頃私は死んでいたかもしれないもんね」
「どうして?」
「夜宵くんに助けてもらえなかったからかなっ」
語尾をはねさせて、ふふっと笑う。
照れくさいそのセリフは、僕の頬を赤らめさせた。
少し熱くなった顔を海に向けた。潮風が僕の顔を冷やす。
でもいつまでも引いてくれないこの心のドキドキは何なのだろうか。
海辺から離れて、といっても海浜で見える範囲で僕たちは魚市場へといった。
普段見ることもないようなさまざまな魚がいて、正直見て回っているだけでも楽しい。
彼女も目をキラキラさせながら歩いている。
でもその気持ちも十分理解できる。
すると突然腕をクイっとひかれた。
「ねえねえ、あそこの海鮮丼おいしそう!!」
そう指さした方向を見ると、たっぷりと盛られた海の幸がどんぶりになっている海鮮丼。
いくら、うに、マグロ、サーモン、鯛、などなど選りすぐりの食材がキラキラと光っている。
僕も思わずつばを飲み込んでしまう。
その様子を見てニヤッと笑った彼女。
「よし、行こうか!!」
そう言って僕の腕をぐいぐいと引っ張っている。
「わ、分かったからそんなに引っ張らないで!!」
そう言ってはいるが、正直彼女に体を接触されている状態が落ち着かないだけ。
ふんふんと陽気に鼻歌を歌いながら席に座る。
僕も彼女の向かいに座る。
席に着いた途端に店員さんが僕たちにお水を持ってきた。
本来すぐに料理を頼むことなんてしないだろう。
でも僕たちの頭の中は海鮮丼でいっぱいだった。
「お水です、どうぞ」
「ありがとうございます。あっ、海鮮丼二個で!!」
「え、はい。以上でよろしいでしょうか」
「大丈夫です」
そう返事を返すと店員さんはすたすたと厨房へと戻っていった。
こんなにすぐに注文されるとは思っていなくて、少し驚いていた様子が頭に残り申し訳ないけど笑えてくる。
魚市場の食事処だから、普段のファミレスやファストフード店とは異なって雰囲気。
二人とも慣れていない雰囲気でそわそわしてしまっている。
「な、なんか緊張しちゃうね」
「同感だよ。何も緊張することがないはずなのに...」
水をコクリと飲んだ。
ほんの少しだけ緊張がほぐれた気がした。
「ていうか、あんまりこの服装には似合わないような場所に来ちゃったね」
「あははっ、そうだね」
どちらかといえばカフェとかに居そうな服装をしている。
魚の生臭さとか染み込んだらどうしようとか思ったり。
でも彼女と一緒ならいいなって思っている僕もいた。
「おまたせしました、海鮮丼二つです」
そうやって僕たちの前に置かれたそのどんぶりは、キラキラと光っている。
大きい切り身やいくら、うにが白ご飯を包み見えないようにしている。
その光景を見てから、急にさっきとは比べ物にならないような空腹感が襲ってきた。
それは僕だけではなく、彼女も同じだったらしい。
割り箸をもって早く食べたいといわんばかりの視線を向けてきている。
僕は苦笑いを浮かべながら、割り箸を持つ。
「じゃあ食べようか」
「うん!!いただきます!!」
わさびをといた醤油をかけて、僕はその存在感を放つサーモンの切り身をつかむ。
そして口の中に放り込むと、口の中で生きているかと錯覚させるほどの新鮮なサーモンの味。
思わず頬を緩めて、情けない顔でそれを味わってしまう。
目の前の彼女も舌鼓を打ちながら味わっている。
一噛みするたびに広がるその味を僕たちは長い時間をかけて味わった。
お店を出ると、少しだけげんなりした二人。
あれだけおいしいのだから相当な値段をすることは予想していた。
しかし、請求された値段はとても高校生が食べにくるようなものではなかった。
お会計の時思わず二人とも数秒フリーズしてしまった。
多めに持ってきてよかったと思いながらも、僕のお小遣いの三か月分くらいが吹き飛んだ。
財布の中が少し寂しい。
それでも彼女が少しでも喜んでくれていたのだから、よかったなって思う。
長い時間をかけて食べたので、今は昼の二時過ぎ。
まだどこか行くことは可能な時間だろう。
「ねえ、柳さん。次どこかに行きたいとか...」
そう聞きながら振り返った時、僕は彼女の異変に気が付いた。
俯いたまま上がらない頭。せっかくの洋服にしわが付いてしまうほど胸を強く抑えている。
息も荒く、苦しそうな声が僕の鼓膜を揺らす。
「や、柳さん?」
「かひゅ...かひゅ...たす、けて」
掠れた声を出したっきり、彼女は倒れ込んでしまう。
僕は急いで彼女に駆け寄る。
彼女の体は火傷するほど熱くて、思わず一瞬手を引いてしまうほど。
「柳さん!!」
僕は彼女に必死に呼びかけながら、救急車を呼んだ。
周りには明らかにただ事ではないような様子を見て人が集まって来た。
でもその時の僕にはそんなことに気が付く暇もない。
彼女のことを泣きそうな目で見つめながら、名前を呼ぶことしかできない。
海沿いの街に彼女の名前が木霊する。
彼女は至急近くの病院に運ばれた。
僕も付添人として一緒に救急車に乗った。
でも気が動転してしまっている僕からしたら、寝ている彼女が怖くて気が気でなかった。
このまま僕の目の前で彼女が死んでしまったら。
僕は何のために本気になったのか。それは僕が変わったといえるのか。
何もかもがわからなくて、僕はただただ涙をこぼしていた。
待合室のロビーでずっと待ち続けている僕のもとに、二つの足音が近づいてきた。
「おい、影虎」
その鋭い声を聞いただけで、僕は誰かわかった。
そしてその隣にいる人も大体予想が付いた。
のろのろと顔を上げると、僕の予想は当たっていた。
「海斗さん...彩夢さん...」
いつも通り鋭い目つきで僕を見下ろす海斗さんと、不安で瞳が揺らいでいる彩夢さんがいた。
海斗さんが口を開く。
「あいつに、雨音になにがあったんだ」
少しおびえたような声。
海斗さんも、きっと怖いのだろう。
自分の妹を失ってしまうのではないかという不安に駆られているのだろう。
「僕と一緒に、お昼ご飯を食べました。お昼の二時ごろ、お店を出ると柳さんが苦しみ始めて...僕はただただどうすることもできなくて...」
思い出すだけで、心が締め付けられる。
無力で何もできなかった僕。
「本当に情けないですよね、僕。一番苦しんでいるのは柳さんなのに、誰よりも泣いているのは僕で。僕は彼女のことを慰めないと、希望を与えないといけないのに...」
僕のその言葉に、海斗さんは舌打ちを一つ。
そしてそのまま胸ぐらをつかまれてふらふらと立ち上がらされた。
「マジで言ってるんだったら、俺はお前をここで殴る。雨音が、お前のことをどう思ってるか知らないくせに、勝手なことを言うんじゃねえよ」
叫びつけるような声ではない。
しかし明らかに低くて、脅すような声。
「俺にだって、母さんにだって、あいつはお前の話をしてる。何回も、何十回も聞いた。自分のために本気になってくれるなんて素敵だって、かっこいいって。あいつの気持ちも何にも知らないで、ふざけたこと言ってんじゃねえよ。誰であろうと雨音が好きになった人のことを悪く言うやつは許さねえ」
僕は驚きながら海斗さんの言葉を聞いていた。
彼女が僕のことを好んでくれていたことは、さっき知った。
それでも、そこまで僕に思いを寄せてくれていることに、僕のことを認めてくれていることに驚いたんだ。
すると彩夢さんが横から近づいてきた。
「あの子、君とお出かけするんだってオシャレしておかしくないかって何回も確認してきたわ。影虎くんに可愛いって思ってもらえるように」
僕は彩夢さんと海斗さんの顔を交互に見る。
海斗さんの言うとおりだった。
柳さんが好きな人のことを、僕はなぜ侮辱しているのか。
彼女が好きな人なのだから、きっと素敵な人のはずだ。
だって彼女は、何も考えずに人を好きになるような人ではない。
自分に笑い方を教えてくれた人のことを、忘れないような人だ。
その人から受けた暖かさを皆に分け与えるような優しくて、律儀な人なんだ。
僕は海斗さんの手を振りほどいた。
そして二人に背を向けて、彼女が眠っている部屋へと向かっていった。
二人が僕の後ろでどんな表情をしていたのか、わからない。
でも僕にはやることが、やらないといけないことがあるんだ。
彼女が僕のことを愛してくれているように、僕も彼女に返さないといけないものがあるんだ。
それが何なのか、それはもう分りきったことだ。
僕は彼女に贈らないといけないんだ。
僕が書ける、最高の物語を、小説を。
彼女の病室に入ると、彼女はお出かけの格好のまま病室のベットの上に寝ていた。
まだ意識は覚醒していない。
僕は彼女の横に置いてあったパイプ椅子に座ると、彼女の手を取った。
あの時感じたような熱さは感じない。
心地いい人間の体温だった。
透き通る白肌が、彼女の美しさを強調していた。
こんなきれいな人に好かれているって思うと、やっぱり変な気分になってしまう。
それでもやっぱり、彼女には今僕しかいないんだ。
何回も落ち込んで、何回も周りの人たちに助けてもらった。
僕は何て未熟な人間なのだろうなって何回自覚しただろうか。
僕じゃできない、僕のせいでみんなを、柳さんを傷つけるかもしれない。
そんな後ろ向きの気持ちばかり抱えて生きていた。
でも、今この彼女の姿を見て思ったんだ。
柳さんが今縋ることができるのは、僕なのだ。
いつものように慰められる側ではなく、慰める側にならないといけないんだ。
周りかけられた暖かい言葉の数々を、今度は僕が彼女に渡さないといけない。
やっぱり不安になる気持ちはある。
でも、彼女に時間はないんだ。
僕のことを好いてくれているのなら、僕のことを頼ってくれているのなら、今僕ができる本気を彼女に贈らないといけないんだ。
そう考えながらぎゅっと握りしめている彼女の手が、一瞬ぴくっと動いた。
僕はそれに気が付いて、彼女の方へと視線を向けた。
薄く開いた彼女の瞳。
少しずつ開かれていく彼女の瞼。
それはまるで、夜が明けていく朝焼けの夜空のような。
少しすると僕のことを認識したようで、手を握り返されるとともにニコッと微笑んだ。
「お、はよう...夜宵くん」
「おはよう、って言っても今は夜の八時だけどね」
僕も軽く微笑んでそう返した。
彼女がまた起きてくれたことに安堵していた。
まだ体がつらいのか、起き上がろうとはしなかった。
「そんなに、寝ちゃってたんだ」
「まあね。でも起きたんだし、いいじゃん」
「それも、そっか」
明らかに少し弱っているのがわかる。
拙い言葉を紡いでいて、手を握る力も弱い。
だんだん彼女の命の灯が消えかけているのを感じる。
「これからは、入院かなぁ...」
そうしみじみと呟いた彼女。
彼女は知っている。
入院した時に、社会と隔離される孤独感を。
僕が変わろうにも変わることができない苦痛なのだ。
だから僕にできることは、少しでもこの苦痛を減らしてあげることなんだ。
「入院しても、関係ないよ。毎日お見舞いしに行く。そして必ず、僕の小説を贈るから」
少しだけぽかんとした表情を浮かべてから、にこりと微笑んだ彼女。
僕には彼女のように正確にどんな意味を孕む笑顔かを読み取ることはできない。
でも、今の彼女の笑顔は僕にはよくわかったんだ。
薄暗い病室で、僕たちは顔を見合わせて微笑んでいた。
第八章
彼女は後日、家の近くのあの病院にまた移動されるらしい。
僕はその報告を聞いて安心して、病院を後にした。
外を出ると完全なる闇で、昼間はあんなに輝いていた海も真っ黒に染まっていた。
しかし音だけは昼間と変わらないで、波がひいては押される音が響いていた。
それでも、見た目が変わるだけでそれは明るくなるものではなく、魔物が住んでいそうなほど不気味で恐ろしく感じるような音に聞こえるんだ。
スッと海に目を向けると、真っ黒の海にぽっかりと穴が開いていた。
それは空に浮かんでいる月を反射したものだった。
その海に浮いている月は、ゆらゆらと歪みながらそこにあった。
それを見ているとなんだか僕は焦燥感に駆られてしまった。
なんでそんな気持ちがわいてきたのかはわからない。
その月は僕に時間がないと言っているようで、僕のことをせかしているようで。
でもなぜだか、僕はその海に近づいて行ってしまう。
お昼ごろに来たように、僕は階段を下りて砂浜に足を踏み出す。
そしてしばらく海に向かって歩く。
するとふと横眼に映った防波堤があった。
僕はそこへと向かい足を運んだ。
ざくざくとクッキーを踏みつけるような音が何もない、ただただ深淵が広がる砂浜に響く。
防波堤まで近づくと、その堅い壁に波がぶつかり水しぶきが上がっていた。
それに上り防波堤から足を下ろして座り込んだ。
足元ではじける波が、僕の足を少し濡らしている。
なにも視界を遮るものがないこの場所で眺める海は、ただただ広大で、僕がちっぽけな存在で。
そう考えると、この世にいる人は全員ちっぽけな存在なんだ。
僕だって、柳さんだって、父親だって、母親だって。
一人の人間の存在を知っている人より、存在を知らない人の方が多いんだ。
彼女が死んでしまったところで、悲しむ人なんて世界中にいる人に比べたらごくごく少数なんだ。
そう思うとなんだか悲しく感じてしまって。
僕からしたら彼女は、大きな存在なのに。
世界から見たらすごく小さい存在なんだ。
波がまた一つ、防波堤にぶつかって消えた。
ふと月を見上げる。
なんだかエモいなって他人事のように思っていた。
この暗闇を照らす唯一の存在が、この月。
その時、僕の頭に一つの思考がよぎった。
父親が言っていた言葉、自分の作品を気に入ってくれている一人を大切にする。
ならその一人が一番喜んでくれる作品って、その人が一番気に入ってくれる作品は。
僕は防波堤の上に立ち上がり、月に向かって手を突き出す。
いくら手を伸ばしても届きっこない。
それでも僕は高く、高くその手を突き上げた。
そうだ、僕にしか書けない小説は
”彼女に贈る、僕の気持ち”
他の誰もが持っていないこの気持ちを表せるのは、僕しかいないんだ。
僕が愛した彼女の笑顔を、彼女の性格を、彼女自身のことを表現できるのは僕しかいない。
それこそが彼女に僕が与えられる最大限の希望なんだ。
彼女がまた笑顔になってくれるのは、それしかないんだ。
僕はそのまま走り出した。
早く家に帰って、この気持ちを一刻も早く表したいと思った。
波打つ音を聞きながら、僕は夜空のもとを走り抜ける。
家に帰ったのは午後十一時過ぎ。
父親も母親も僕のことを心配していた様子だった。
「影虎!!遅いじゃない!!」
玄関を開けた瞬間、母親がリビングから飛び出してきた。
その表情は焦りが含んでいて、僕の心配をしていることがひしひしと伝わって来た。
父親も玄関の方へ顔を出した。
初めは父親も少し不安そうな表情をしていたが、僕の顔を見るとそれがなくなった。
それどころか笑みを浮かび始めたんだ。
「お前の、大切な人のことだろ?お前のその顔を見ればわかる」
笑いながらも、僕の瞳の奥を覗いているようだった。
僕も父親の瞳を見つめる。
「昔の俺みたいな顔をしてるな。何かにとりつかれたように必死になっている姿だ」
ほほ笑みながらも、真面目な声でつぶやいていた。
すると母親も口を開く。
「...確かに、似てるわね。一つのことに集中しちゃうと、周りを気にしないところとか特にね」
頬に手のひらを添えながら、母親は僕と父親の顔を交互に見ていた。
二人の発言を聞いて、僕はつくづくいい環境で育てられているのだなって思う。
子供の夢や大切なものを否定しない親。
それは案外いそうでいない親だと思う。
子供につらい人生を送ってほしくないと思うがあまり、自分の人生経験から子供の人生を親が決めてしまう、そんな子供すらもいると聞いたことがある。
でも、僕の親はそんなことはしない。
それどころか好きなものを諦めようとするたびに、僕を諭してくる。
そんな環境だからこそ、僕は彼女を好きになれたんだ。
「僕の、大切な人が今苦しんでいる。その人は、僕に笑顔を、初めて本気にさせてくれる笑顔を贈ってくれた」
僕は二人の前に立ち、堂々と言い放つ。
その姿を二人とも少し緊迫したような目で見つめていた。
「だから今度は、僕が彼女に笑顔を贈る番だ。彼女の最高の笑顔を無意識に引き出してしまう小説を、僕は書かないといけないんだ」
僕自身の笑顔を彼女に贈りたいのではない。
彼女がまた笑ってくれるような気持ちを贈ることが、僕にできる最初で最期の彼女へのプレゼントなんだ。
僕の決意を聞いた二人の口角が同じタイミングで上がる。
その角度までほとんど同じでなんだかおもしろい。
「やっぱりあなたの息子ね。バカなことを言っているようで、誰よりも情が深い子に育ったわね」
「お前がそう決めたんだったら、俺たちが止めることはしない。後悔が残らないように、本気で書くんだぞ」
やっぱり、親というのは偉大なのだ。
親に励まされただけで、僕はこんなにも勇気に満ち溢れるのだから。
僕はぎゅっと自分の手を握る。
夜が深いことも関係なく、僕はただひたすらに物語の構想を考え続けた。
彼女への思いをどうしたら伝えられるのか。
どうしたら彼女の希望を与えることができるような小説が書けるのか。
僕は頭を軽く抱えながらパソコンの前に座っていた。
すると一つの存在を思い出した。
それは『宵の一時』のアカウントの存在。
パソコンのデータからすべて消去された小説の数々は、まだインターネットの海をさまよっている。
パソコンでそのアカウントにログインすると、今まで投稿した小説が残っていた。
彼女が読んでくれた作品。
この作品たちに何か共通するものはないか、僕はすべてを読み直すことにした。
日付をすでに跨いでいたけど、その時の僕は気が付くはずがなかった。
ただただ貪るように過去の作品を読みなおしていた。
すべて読み終わったころには、すでに午前二時頃だった。
父親も母親も眠っているだろう。
そんなことは今の僕には関係ない。
今日自覚したこの気持ちが萎えてしまわないように、今のうちにやり切らないといけない。
僕の作品に共通する事。
それはすべて僕の経験をもとに書いたものばかりだったということだ。
僕が初めて山の上で今まで住んでいた街の景色を見下ろしたこと。
夕暮れ時の神社で、彼岸花を見つけたこと。
家族全員で手持ち花火をしたこと。
すべてそれをもとにして物語を膨らましていっていたんだ。
些細な日常から広がっていく、そんな物語。
もしかすると彼女が好きだったのはそういう物語なのかもしれない。
彼女自身普通の何気ない生活を送ること自体が難しかった。
だからこそ僕たちの日常が非日常に感じれていたのかもしれない。
僕の拙い小説であろうとも、彼女が好きになってくれた理由はそれなんだ。
だったら僕はどんな物語を書けばいい。
彼女が欲しがっていた、楽しみたかった生活。
それは、学校生活。そして、友達と遊びに行く。
そんなはたから見たらなんとも感じないようなただの思い出だろう。
だけどこれこそが僕が今書くべき、小説なんだ。
僕のことを誰よりも応援してくれていた彼女に贈るための小説は、これなんだ。
それをしっかりと自覚してすぐに、僕は小説を書き始めた。
タイトルはもうすでに決まっているが、あえて書かない。
彼女に対しての気持ちを綴って、物語の名前を吹き込む。
その時に初めてその小説は人の心を温める、生命として生まれるんだ。
だから僕は構想を考えながらも、ほとんど僕の今の気持ちだけで小説を書いていった。
「で、でき、た...」
僕がそうつぶやいたのは、午前十一時半頃だった。
すでに太陽は高い位置まで上ってきていて、一晩を越したことが理解できた。
何とも言い難い疲れがどっと押し寄せてきて、僕は机に突っ伏した。
それでも僕は最後の力を振り絞って、その小説を紙に印刷した。
約九万文字のこの小説を、約四十枚の紙の両面に印刷した。
リビングに置いてあるプリンターで印刷をしていると、母親が入ってきた。
「あら、何を印刷してるのかしら?」
そう言いながら印刷した紙に、手を伸ばした。
だけどそれを僕は静止させた。
「ごめん、お母さん。これは僕が大切な人に贈る小説なんだ。最初に見せるのは、彼女がいいんだ」
腕をぎゅっとつかみながら、母親のことを見つめた。
少し唖然としてから、目を細めて笑った。
「ごめんね。しっかりその子にを笑顔にさせてくるのよ」
「うん、ありがとう」
母親は手を引いて、ソファーに座った。
僕は印刷がすべて終わるのが今か今かと待っていた。
「...ほんとに、そんなに本気になって。すごくかっこいいわ。でもね」
僕はちらっと母親を振り返る。
真面目な顔をした母親がまっすぐ見つめていた。
「本気で頑張った後、絶対に何かしらの反動で自分自身が苦しくなるの。お父さんのそういう様子を見ていたから、私にはよくわかるの」
母親の言いたいことは痛いほどわかった。
僕の頭の片隅にもずっとあった。
僕が本気で彼女に希望を与えたところで、彼女は消えてしまう。
そうなったら僕は大切な人を失ってしまう。
その時の精神的ダメージは多大だろう。
絶対に苦しくなるし、死にたいとも思うかもしれない。
「分かってるよ。でもね、僕は絶対に途中で諦めたくなんかないんだ」
母親が僕のことを心配する気持ちもわかる。
だけど、僕にとっては逆だった。
「今ここで、本気で頑張ることをやめたら僕は一生の後悔だ。その気持ちこそが僕を絶対に苦しめると思うんだ。目の前にいる彼女のことを見殺しにするくらいなら、僕が死ぬほど苦しんだほうがマシなんだ。だから僕のことを心配するのは後でいい」
彼女はもう、そんな苦しみさえ感じられなくなるというのに、泣き言を言っている暇なんてない。
「...なんとなく予想してたわ。確認のために聞いただけよ」
母親は分かっていたといわんばかりの表情を浮かべる。
分かっていたのなら聞かなくてもいいと思うが、母親なりの親切心だろう。
どんなことも確認したがる母親の性だろう。
僕は印刷されたその小説をもって家を出ていこうとする。
一秒でも早く彼女に届けたかった。
「あっ、影虎!!待って!!」
すると後ろから母親の焦ったような声が聞こえてきていた。
僕は立ち止って掘り返る。
すると母親が印刷されたプリントを一枚持っていた。
「一枚落としてるわよ!!」
「ごめん、ありがとう!!」
僕は素早く母親からそのプリントを受け取って、走り出した。
母親は後ろから小さく手を振っていた。
「フフッ、あんな言葉、どこで覚えたのかしら」
愛した君の涙も、普段見せる何気ない表情もすべて。
そこに一滴の笑顔が加わるだけで、それが奇跡の笑顔と化す。
僕は君の笑顔を守るために、一生あなたに物語を贈る。
僕は無我夢中で走り続けた。
だんだんと額に現れる汗と上がった息。
運動不足のせいもあるし、一番寝ていないせいもある。
それでも僕は必死に走る。彼女に一秒でも早く、この物語を贈りたいんだ。
昼下がりの街は穏やかで、僕とは違った時間が流れているようだった。
その時間を逆走していくように、穏やかな街を必死に走り続ける。
毎日来ていたように感じる病院。
その中に飛び込むと、何度も通い続けたあの病室へと向かっていった。
そして荒々しく扉を開けた。
中でベットの上に寝ている人影がびくっと揺れた。
僕は近づく。
「柳さん...来たよ」
そう言いながら、僕は手に持っていた紙の束を彼女に渡した。
彼女はまだ少し唖然としたままだったが、それを受け取る。
そしてゆっくりと視線を下ろして、題名を見た。
その瞬間に見開かれる彼女の美しい瞳。
「...すごいなぁ」
彼女から放たれる声は酷くか細くて、微かに震えていた。
「うん、読んでみてよ」
僕は彼女の言いたかった言葉をくみ取って、読むように視線で促した。
彼女はしばらく愛おしそうに見つめた。
そして僕の方を見た。
「ねえ。今から私は、これを一人で読みたい。私がいつも楽しみにしていた君の小説を読む時みたいに、静かな部屋で、一人で読みたい」
相変わらずの細い声。
それでもその言葉には強く芯の通った意志が込められていた。
僕は頷く。
「もちろん、柳さんの好きなようにしなよ」
「ありがとう。また、三時間後くらいに来て」
九万文字の小説を読むには短すぎる時間のように聞こえるが、彼女の言うとおりにしようと思う。
僕は軽く手を振って、病室を出た。
その横眼で、一ページ目を開いていた彼女の横顔がほほ笑んでいたことに気が付いた。
なんとなくどこに行く気にもなれないまま、僕は病院のロビーで待っていた。
今考えると、不思議な出会いだったなって思う。
あんなに嫌われていたはずなのに、あんなに無関心だったのに。
たまたま出会ったあの公園。
たまたま出会ったあの朝の登校。
僕と彼女の関係は、このたまたまが起こした偶然の奇跡なのかもしれない。
彼女の笑顔が見れなくなって感じたあの孤独感。
あんな気持ちを抱えることなんて、今まで一度もなかった。
それを恋心だと自覚するのにどれだけ苦労しただろう。
何度挫折しただろう。
でも、恋心というのは不思議だ。
彼女のためだって思うんなら、その挫折を乗り越えるために必死になるんだ。
無関心な僕をここまで必死にさせる、その恋心とは何なのだろうか。
彼女とキスをしたい?彼女とハグをしたい?
いや、絶対にそんな不純な気持なんかじゃないんだ。
ただ彼女の笑顔を見たかった。
なんでそこまで僕は彼女の笑顔に執着するのだろうか。
今考えるとその答えは簡単だったんだ。
何百色とあった彼女の笑顔を、僕は見たことなかったんだ。
僕に対して笑いかけてくれた。
その笑顔が美しくて、僕は一瞬にして虜にされたんだ。
夕焼けのように暖かくて、僕の背中を照らしてくれるような存在だったんだ。
単純だって、みんなは僕を思うかもしれない。
だとしたら僕は、単純でいい。
僕の心の奥にあった本気の気持ちを、闘志を無理やり引き出したのは彼女なのだから。
ぎゅっと手を握っていた。
その時ふと外の空気を吸いたくなった。
確かこの病院は屋上が開いているはずだ。
椅子から立ち上がって僕は屋上に向かう階段を上っていった。
上の階に上るたびに人影が減っていった気がした。
そして屋上の扉の目の前には誰もいなかった。
扉を開くと、強く風が僕に向かって吹いてきた。
そのせいで反射的に目を瞑った。
でも僕は確実に一瞬、目にとらえたんだ。
それは僕たちとほぼ同い年ぐらいの、女の子の背中の姿が。
次に目を開いた時にはいなかったんだ。
誰かなんてわかりっこない、はずなのに。僕は、楓さんなのかなって思ったりしていた。
僕は屋上を歩いて行って、柵を手で握った。
体全体で感じる秋の風。
この少し涼しいくらいの風が、今の僕にはちょうど良かった。
今の僕の中の熱を沈めてくれて、冷静な思考が戻ってきていた。
すると後ろから屋上の扉が開く音。僕はちらっと振り返った。
そこにいたのは、おそらく小学生低学年くらいの病院服を着た女の子。
彼女も僕の存在に気が付いて、小さく頭を下げていた。
僕も頭を下げると、彼女は近づいてきた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは」
まだ幼いその声で、僕にしっかりとあいさつをしてきた。
行儀がよくていい子だなってすぐに思った。
「僕は、夜宵影虎っていうんだ。君は?」
「私は...花屋敷紗枝って言います」
「すごくきれいな名前だね」
彼女の顔から少しずつ緊張するような表情が消えていっている気がした。
「...最初、少し怖い人かと思った」
彼女は少し申し訳なさそうに呟いた。
「私のことをちらっと見た時の目が鋭くて、何か悪いことをしちゃったかなって」
「あ、そんなつもりじゃ...ごめんね」
幼い子からしたら怖かったのだろう。
いつも笑顔を浮かべているわけでもない僕の真顔は、無表情だ。
だから自然と相手からは少し威嚇しているような顔に見えてしまうのだろう。
「ううん。名前をほめてくれた時の顔が、優しかった。お兄さん、いい人」
幼いからこその素直さ。
相手を疑うことすら知らない純粋さ。
「そっか、ありがとう」
「お兄さんは、ここで何してるの?」
僕の横に立って、同じように風を浴びている彼女が僕を見上げてそう問いかけてきた。
長い髪の毛を風にたなびかせていた。
「僕はね...大切な人の大事な時間を待っているの」
幼い彼女からしたらだいぶ難しいことだろう。
案の定、紗枝ちゃんは首をかしげていた。
「大事な時間?」
「そう。その人はね、僕に笑顔と、感情を教えてくれたんだ」
ただ一人で語り続けているような感じだ。
それでも僕の話を聞いてくれる小さな存在が横にはいた。
「笑顔...あたしも教えれるよ!!」
そう言ってニコッと満面の笑みを浮かべていた。
僕はその笑顔をしばらく見つめた後、同じように破顔した。
幼くて、何の濁りもないそのきれいな笑顔。
「うん、ありがとう。紗枝ちゃんからもいい笑顔を教えてもらったよ」
「えへへ」
嬉しそうに笑い声をあげていた。
紗枝ちゃんを見ていると、柳さんの幼いころもこんな感じだったのかなって思う。
クラスのみんなを魅了するようなその笑顔。
きっとそうなのだろう。
「お兄さんの大切な人は、今何をしてるの?」
僕はその言葉に少し黙ってしまう。
でも、もう隠すつもりもなかった。
「僕が書いた小説を読んでくれてるんだよ」
「お兄さんが書いた小説?お兄さん、小説家なの!?」
少し興奮気味に聞いてくる彼女に、苦笑が漏れる。
「そんな有名じゃないし、いい小説家でもないけど一応そうなのかな」
僕の答えに彼女はぴょんぴょん跳ねながらすごいすごい、と言っている。
周りにはいない珍しい存在だからこそこんなに興奮しているのだろう。
「お兄さんの小説、あたしも読みたい!!」
「ん~紗枝ちゃんにはまだ少し早いかも。もっと大きくなったらね」
「わかった!!お兄さんよりも大きくなるから!!」
両手をいっぱいに伸ばして、満面の笑みで僕に宣言した。
そういうことじゃないんだけどな、とか思いながらもなんだかおもしろくて。
僕は紗枝ちゃんの頭を撫でた。
「うん。きっと、僕より大きくなってね。そうしたら、僕の小説をしっかりと読んで、ファンレターでも送ってよ」
「うん、書く!!」
心地よさそうに目を細めながらいっぱいにうなずいた。
屋上に取り付けられている時計を見ると、彼女の病室を出てから三時間と十分くらい過ぎていることに気が付く。
もう、彼女のもとへと行かないといけない。
「それじゃあ、僕はもう行かないと。大きくなってね、紗枝ちゃん」
「うん!!また会おうね、お兄さん!!」
手を振りながら、僕は屋上を後にした。
彼女がどんな病気か、けがかなにもわからない。
それでも彼女はきっと、元気になって大きくなってくれると信じていた。
彼女からのファンレターを、気長に待っていよう。
そして僕は、柳さんの病室の前に立った。
なぜだかわからないが、手足が震えてしまう。何かに緊張していたんだ。
でも、僕はその緊張を押し殺して扉を開けた。
すると最初に来たように一瞬ビクッと体を反応させてから、柳さんは僕の方を見た。
その手には僕の小説が強く握りしめられていた。
「...どう、だったかな?」
僕は近づきながら、少し震えた声で聞いた。
すると彼女は俯いてから、顔を上げた。
そこに浮かんでいたのは、紗枝ちゃんに負けないほどきれいで、純粋な笑顔だった。
「すごく、よかった...感動すると、言葉を失っちゃうんだね」
少し落ち始めている太陽が、彼女の顔を照らす。
オレンジ色に染まる準備をしている街を背景に笑う彼女は、絵の中にいるようだった。
なんだか今ここに僕がいる気がしなくて、不思議な感傷を感じる。
「私が欲しいものが、すべて込められてた」
彼女は、僕が込めた気持ちをしっかりとくみ取ってくれていたんだ。
僕はそれが嬉しくて、仕方がなかった。
「そっか...」
僕は特に何を言うわえでもなく、彼女のそばに座った。
すぐに彼女に手を取られて、握りしめられていた。
その力は弱くて、少し震えていて、冷たかった。
「私さ、自暴自棄になった時期もあったんだ」
彼女は布団に隠れて見えない彼女の足に視線を向けていた。
「一生こんな病気に付きまとわれてさ、何のために生まれてきたんだろうなって」
僕は彼女から発せられる言葉を否定しようとした。
でもそれよりも早く彼女が口を開いた。
「でもさ、意味のない人生なんてないだなって思ったんだ」
「...それって、どういう」
僕は言葉を話しきる前に、唇が塞がれた。
それが彼女の唇だと理解するのに、時間はかからなかった。
突然のことに驚きながらも、彼女のキスを受け止めた。
そしてどちらからともなく、唇を離した。
「私の初キス、あげる」
いたずらっ子のような顔をしながらも、頬を紅潮させていた。
きっと僕も今は情けない顔をしているだろう。
「私は、この小説とこの一瞬を感じるために生まれてきた。これだけでもう、十分だよ」
彼女の目には、決意がこもっていた。
僕はその眼を見て、少し安心した気がした。
「...最後に、一つ聞いてもいいかな?」
「うん、何でも聞いてよ」
僕は息を吸って、彼女を正面から見る。
「僕は、君に希望を贈れたかな?」
聞くことじゃないのかもしれないけど、僕は聞かないといけない。
「...十分すぎるくらいだよ。こんなにいい作品を私のため創ってくれたと思うと、凄くうれしいし暖かいよ」
儚げで、少し触れるだけで壊れてしまいそうなほどの繊細な笑顔。
あぁ、僕はこの笑顔が見たかったんだ。
僕がずっと求めていた笑顔が今、目の前にあるんだ。
僕が必死になっていたことは、無駄じゃなかったんだ。
「...ねえ、この小説をコンテストに出してほしい」
彼女はいきなり呟いた。
「私に贈ってくれた、こんな最高な小説を世に放たないのはもったいない」
「でも、僕は君のためだけに...」
でもその時に思い出したんだ。
紗枝ちゃんのように、幼くても病院にいないといけない子もいる。
そして過去の柳さんのように、心を病んでしまう人もいる。
そんな人々に寄り添える小説が、今目の前にあるんだ。
彼女に贈った物語なんだから、そのあとどうするかは彼女の自由だ。
だとしたら僕は、このお願いにうなずくしかないんだ。
「...柳さんがそう願うなら、そうする。必ず、コンテストに出すから」
「ありがとう」
それだけ呟くと、彼女はベットに体を預けた。
きっと起きあがっていることすら、辛いのだろう。
それでも僕の手は、離さなかった。
「...ねえ、影虎くん」
その声に僕はビクッと反応した。
そして、僕は返事を返す。
「どうしたの、雨音さん」
少しくすぐったそうに、それでもうれしそうに目を細めた。
「私、泣かない。影虎くんが好きでいてくれた、この笑顔のままでいたい」
「...すごくうれしいよ。雨音さんの笑顔を、僕は愛してるからね」
小さく頷いた彼女は、天井を見上げた。
その眼に孕まれている感情は何なのだろうか。
幸福?後悔?喜び?悲しみ?
正直、僕は薄々分かっていた。
こんな言葉で表すこともできないような、そんな気持ちだと。
「...ねえ影虎くん」
「どうしたの」
「そこのテーブルに置いてある櫛で髪の毛を梳いてほしいな」
そこには紫色の蝶が舞っている、黒い櫛。
夕陽で少しオレンジ掛かっていたが、それでもわかるほどの艶やかな黒色。
僕はそれを手に取って、雨音さんの髪の毛を梳き始めた。
「どうかな?」
「うん、上手」
すでに多くは語ることすらしなくなった彼女は、表情で物事を語っているようだった。
目を開けないで、ただただ僕に任せている様子。
この櫛は楓さんのものだろう。
最期の最期まで楓さんのことを忘れない彼女は、本当に立派だ。
僕はそう思うと、無意識に口を開いた。
「...僕も、雨音さんのことを忘れないよ」
一瞬目を開くと、またすぐに目を閉じた。
「...ありがとう」
少しずつ弱くなっていく握られた手の力。
それでも、ずっとずっと僕のことを握りしめている。
そんな彼女に、僕は一言の言葉をこぼした。
「僕に、笑顔を教えてくれてありがとう」
彼女からの直接的な返事はない。
だけどその言葉を言った瞬間、彼女の手の力が強くなった。
きっと受け取ってくれたんだって。
彼女が大好きだった夕陽に照らされながら、彼女の手の力は徐々に弱くなっていった。
それでも僕は彼女の髪を梳いて、頭を撫でていた。
それは彼女の手がストンと落ちるまで、続いた。
そして最期に僕は一つ、彼女の額にキスを落とした。
「愛してくれて、ありがとう」
十七時、一番強い夕陽に包まれて彼女は旅立った。
彼女のことしか考えずに生きていたせいで、やはり彼女が亡くなった時のショックは大きかった。
学校に行くことも少し、いやだいぶ辛くて数日休むこともあった。
彼女の笑顔を見ることももうないのだと思うと、心がつらくて、なんだか吐き気が止まらない。
でもその時思い出すのは、僕の小説で喜んでくれた時の彼女の笑顔だ。
あれこそが、僕の人生をかけて得た最高のご褒美だった。
他の人から見ればただの笑顔なんだろう。
それでも、僕からしたら人生をかけて引き出した彼女の笑顔なんだ。
僕がしたことは何にも無駄なんかじゃないんだ。
彼女を笑顔にできた、一人の大切なファンを笑顔にできた。
これほどに誇らしいことなんてないんだ。
だけどいくらそう思っても、苦しさが消えるわけでも無くて。
そんなことを思っていると、家に一通の手紙が送られてきた。
それは、柳さんのお葬式の案内。明日行われるらしい。
僕は一瞬、参加するかどうか悩んでしまった。
これに参加したら彼女への思いがあふれだしてしまいそうで怖かったんだ。
でも、最期の彼女の姿を僕は見送らないといけない。
僕の第一のファンとしても、僕の恋人としても、僕に人生のことを教えてくれた恩師としても。
感謝を伝えるために、僕はまた歩き出さないといけないんだ。
高校生だから、喪服ではなく学校の制服で参加する。
ウチの高校のブレザーも黒だからちょうどいいし。
僕が案内に書いてあった場所へと向かうと、受付に海斗さんと彩夢さんの姿が見えた。
そして二人も僕の存在にすぐに気が付いた様子だった。
「この度はご愁傷さまです。心からのお悔やみ申し上げます」
「...礼儀正しいのね。きっとあの子も来てくれて喜んでるわ」
よく見ると二人とも目が赤く腫れていた。
海斗さんに至っては、横に立っているだけで口を開こうともしていなかった。
「...僕は、雨音さんにお世話になりました。だから、最期の挨拶に伺いました」
「お世話になったって、あの子の方でしょ。あの子、もうすぐ死んでしまうっていうのに、影虎くんが来てくれるから大丈夫って、ずっと泣かなかったのよ」
僕はその時点で少し、ウルッと来てしまった。
それでも必死に涙を押し殺して、顔を上げた。
「そう、ですか」
少し不自然な返しをしたまま、僕は中に入っていった。
少し歩くと、彼女の写真の周りにたくさんのお花が置かれているのが目に入った。
写真の彼女は笑顔で、脳裏にフラッシュバックした。
棺桶に近づいて、僕は彼女の顔を見た。
綺麗な死に顔で、まるで生きているようだったんだ。
たくさんのお花に囲まれて、眠っている彼女。
何にも言えないまま、僕は少し離れて手を合わせた。
せめて彼女が天国で、楓さんと会えてたらいいなって思って。
するとトントンと肩をたたかれた。
振り返ると、そこにはやっぱり悲しそうな表情を浮かべた海斗さんがいた。
そして、僕に何か手渡してきた。
それは僕が贈った小説だったんだ。
「え…どうして」
「...お前のものだ」
それだけ言って、僕に押し付けてくる。
僕はおずおずと受け取って、海斗さんを見つめる。
すると海斗さんは踵を返した。そのまま歩いていくと、途中で止まった。
「...お前、小説家だろ。最後のページ、何かいてるかわかんなかったぞ」
少し涙ぐんだ声で、呟いてそのまま行ってしまった。
僕は何を言っているのかがわからなくて、最後のページを見返した。
すると、僕は大きく目を見開いてしまう。
そして地面に、ポタポタと涙がこぼれ始めた。
足にうまく力が入らなくなってしまって、おろおろと地面に膝をついた。
そのまま崩れ落ちて、涙を流し続けた。
泣いたら彼女が心配するかもしれないのに、どうしても止めることはできなかったんだ。
「うっ、うぅぅぅ...あぁぁぁぁぁ!!」
海斗さんが言いたかったことが、僕にはすぐわかった。
最後のページの最後のセリフ。
それが何かに濡れていて、紙がしおれてしまい何も見えなくなってしまっていた。
でもそれは、絶対にただの水なんかじゃない。
彼女が流した涙ということは、言うまでもなく分かったんだ。
その涙が染み込んで、文字が見えなかった。
なんでこんなに涙があふれるんだろう。
ただ彼女が涙を流して、僕の小説を読んでいただけなのに。
なんでこんなに何とも言えない苦しさと、どうしようもない幸福感に包まれるのだろうか。
どれだけ好きなのだろうか、彼女のことが。
たぶん、この気持ちは一生引きずるだろう。
それでも僕はもう後悔なんてしない。
彼女が遺してくれたこの小説を、僕は絶対に世界に広めるんだ。
これはもう、僕の作品ではない。
僕と彼女の、二人の作品なんだ。
「本当に、ありがとう...君の笑顔が、世界で一番大好きだよ」
僕は涙を流しながら、君が教えてくれた笑顔を浮かべた。
あれから約半年後、僕はコンテストを主催した出版社からの連絡を受けた。
僕が応募した作品が、見事大賞に輝いたらしい。
でもなんだか、この連絡が来る前から大賞を取るんじゃないかなって思っていた。
僕と雨音さんが作り出したこの物語より素晴らしい作品があるものなら見せてみろ。
それくらい僕たちの作品は素晴らしい奇跡の物語なんだ。
僕はそれを報告するために、彼女のお墓へと向かった。
その手には、彼女が読んでいた彼女に贈った小説が握られている。
晴天で、春を感じる暖かい陽気。
どこまでも澄み渡っていくこの青空が、なんだか彼女のようですごく心があったまる。
その下にある、彼女の墓石。
それに水をかけると、光を反射してピカピカと光りだす。
まるでそれは喜んでいるように。
そして線香をあげて、僕はお墓に向かって手を合わせ、目を瞑った。
しばらくして目を開ける。
「ねえ、雨音さん。この作品がさ、無事に大賞に選ばれたよ。さすが、君の小説の見る目は一流だね」
彼女が喜んでくれた作品はきっと、他の読者も喜んでくれるんだろう。
僕はあれから、彼女から受け取った勇気とともに小説についてよく勉強した。
どんな人がこの物語で喜んでくれて、こういう人にはどんな風な物語が必要なのか。
それを考えて、より一層小説に熱を注いできた。
「君が最後に残してくれてヒントのおかげかな。僕、いやたぶん誰にも思いつかないようなことを残してくれたよね」
正直彼女自身外として残したものではないんだろう。
それでも僕はこの表現がどうしても頭から離れてくれなかった。
「...なんだか、君がいなくなってからさ人生に楽しみが少なくなった気がしたんだ」
あんまりこういうことは言っちゃいけないんだろうけど、実際にそうなんだ。
「でもさ、君のおかげでさ楽しみを探す楽しみっていのが身についたんだ」
彼女と出会ったときのように、たまたまの出会いが僕の人生を変えるのかもしれない。
君と出会ったおかげで僕の人生はいい方向へと向かい始めたんだ。
君が好きでいてくれたから、また僕は小説を書こうと思えたんだ。
本当に雨音さんには感謝しかないなって。
僕は少しでも小説で感謝を返すことはできたかな。
多分、いやきっとできたんだと思う。
そう思わないと、雨音さんに失礼だもんね。
「雨音さん、見ててね。これから絶対に大物小説家になって、君の物語をもっと世界に広めていくから。安心して、空から眺めておいてよ」
僕は大きな空を見上げながら、両手を開いた。
きっと彼女がまた、僕に勇気を与えてくれる。
僕はそれを少し期待しながら、また小説を書いていこうと思う。
「また会いに行ったら、たくさん僕の小説を贈るね」
その言葉に、空から一つの雨粒が落ちてきた。
晴れているのに雨が降る天気雨。
天気雨の別称、それは
”涙雨”
私は彼の物語を、大賞に推薦した。
その結果無事大賞になったらしい。
『宵の一時』
それは一日の最後に心を安らがせる小説を書くという意思がよく伝わって来た。
彼の大切な人への向けた小説だけど、きっとこの小説は様々な人に寄り添える作品だろう。
彼の話を読んでから、私はもう一度しっかりと小説を学んでみようかなって思えた。
この時点で私自身も彼の小説に心を動かされたのかもしれないな。
高校生というまだ人生というものを理解しきれていない年齢でも、彼は自分の夢をかなえるために今必死になって小説を書いている。
それだけで、きっと天国にいる彼女さんも喜んでいるのだろう。
彼にはきっと、これからもお世話になるだろうね。
この出版社を通じて、彼が大物になってくれることを願っているよ。
さて、今日のところは私も帰ろうかな。
私は彼の小説の最後の言葉を心の中で反芻しながら、帰路へとついた。
愛した君の涙も、普段見せる何気ない表情もすべて。
そこに一滴の――が加わるだけで、それが奇跡の――と化す。
僕は君の――を守るために、一生あなたに物語を贈る。