娘から受け取った紙幣は、例えようもなく重く感じた。
同時に授かった娘と息子は、自分には勿体ないくらいに出来のいい子供達だ。
例えば娘は、無能の自分と異なり霊力に目覚めた。しかし伯父達や伯母達、そして姉が通っていた学校への進学は
「え?式神の姿で他の子をランク付けして自分の方が凄いって威張って誰かを馬鹿にするような生徒しかいない雰囲気最悪の学校に行くなんて、絶対に嫌だ」
と断固として拒否した。母の蹊子は娘に対し
「兄さん達も姉さん達も桃子も皆白峰を卒業したのよ!恥ずかしくないの!?」
と非難を浴びせたが、
「何でそこで親戚の皆の事が出てくるのさ。高校なんだし、自分が行きたい学校を選んで何が恥ずかしいの?恥ずかしいって言うなら、女学校をまともに卒業してすらいない祖母さんの方が、遥かに恥ずかしいよね?」
蹊子は口篭った。
「あ…あたしはただ、勉強が面白くなかったから…」
「そりゃ勉強についていけなきゃ面白くないよね。勉強についていけないから中退したんだって、大お祖母様と瑛子伯母様から聞いたよ」
「………」
このように、蹊子をこてんぱんにやり込めていた。
誤解が無いように書いておくが、彼女は何も学校を中退した人を蔑んでいる訳では、決してない。蹊子のように、自分が成してもいない事に対して偉そうな物言いをしたり、誰かの選択を否定したり馬鹿にしたりする事を嫌っているだけだ。
話を戻そう。
蹊子の言葉が無くても、蹊子の言う通りの学校にしか進ませてもらえず、蹊子が望む成績を取らなければ「何で桃子みたいにできないの!」と姉の桃子と比較され数時間にも渡る、場合によっては深夜にまで及ぶ説教を受けてきた李子は、娘には好きな学校に行って欲しいと思った。なので全面的に娘の味方をした。娘は名を言えば「ああ。あの」と感心される、知らぬ者はいない有数の進学校に通っている。
娘は学業の傍ら、陰陽師の組織で高校生であるにも関わらず大切な仕事をしている。李子が何かを言った訳ではないのだが、アルバイトの実入りのほとんどを家計や息子の薬代に回してくれる。
「折角働けるようになったんだし、お母さんにも元輝にも、少しでも楽をして欲しいんだよ」
と言って。誠によくできた娘である。
息子は自分と同じ無能力者だった。しかも、病弱に生まれ付いてしまった。だが
「俺がこの身体に生まれたのは、何も母ちゃんのせいじゃないだろ。自分のせいだと思わなくていいって」
と、李子を責めるような事は何一つ言わなかった優しい子だ。
同時に李子は危惧した。息子は自分と同様に蹊子に「無能は卯上の恥」と言われるのではないかと。その思いとは裏腹に『男の子であるから』という一点で、蹊子は息子の存在を喜んだ。むしろ、病弱さを不憫がって甘やかされそうになったが、李子はどうにか阻止した。その甲斐があってか、あるいは
「俺、グレたくてもグレたら生きていけないし」
という、反抗期を迎えても反抗する体力すらも無い事も手伝ったのかもしれないものの、息子もいい子に育った。独学で大学に合格した勤勉な努力家で、これまた自慢の子だ。
そんな子供達、特に娘に苦労をかけてしまっている。
伯母の瑛子が、李子達3人を卯上邸に造った離れに住まわせてくれた事は良かった。
「お父さんは何か嫌だ。気持ち悪いんだもん。知らない女の人と何処に行ってるの?」
娘の『目』により不倫が露見した元夫。賀茂慎吾(しんご)は娘を気味悪がり、離婚を言い出してきた。亡き祖母である華子は瑛子と共に、霊力が目覚めた娘を目が届く所に置いておきたいと言って、李子達を呼び寄せてくれたのだ。
だが、父である成一郎が亡くなり瑛子が施設に入ってから、色々な事がおかしくなり始めた。
ある日、蹊子が母屋に泊めてくれとやって来た。屋敷の規模は相当に縮小したと言えど、卯上邸は蹊子の実家でもある。構わないと、李子と子供達は了承した。しかし数日が経過しても、蹊子は帰る様子が無い。帰らなくていいのかと問うと、蹊子は言った。
「あたしの部屋は人に貸してるの」
「賃貸を又貸しなんてできないでしょ?」
「…お母さん。祖母さん、家賃を払えなくて出てきたっぽい」
娘の『目』は、蹊子の嘘とその背景まで見抜いていた。
慌てて問い合わせると、家賃を滞納しているからすぐに支払って欲しい、支払えないのなら退去して欲しいとの事だった。蹊子は、その矢のような催促に耐え切れずに実家に逃げ込んできたのである。蹊子がもらっている年金や、遡れば成一郎や桃子の保険金はどうしたのだと問うと、使い切ってしまったのだと言う。
「だって、年金が少ないんだもの」
「何言ってるの。大卒の初任給より多いでしょ」
「一人暮らしには十分な額だと思うが」
するとお祖父様、つまり成一郎がろくに働かず出世もしなかったせいでお金が無いのだと、成一郎の悪口をひたすら並べ立てる。
「いや祖父さんは銀行の財務部で定年まで勤め上げたって、お母さんから聞いてるよ?少なくとも勤め人としては、立派なエリートじゃないのさ」
華子と慈朗の「蹊子は一般人として幸せに暮らせばいい」という考えの元、蹊子は豪商の跡取り息子であった成一郎と見合い結婚した。尤も「自分は跡取りの器ではないから」と、成一郎は弟の仁平に家督を譲ったが。以来、成一郎は望月家の勧めで就いた仕事と言えど、銀行員として堅実に働いてきた。
「祖父さんがしっかり真っ当に働いてくれたから祖母さんは年金で暮らせるのに、そうやって悪し様に言うとかひどくない?」
しかし「お祖父様はひどい」の一点張りで埒が明かない。急遽、賀茂一家で家族会議を開く事になった。
「問題は、これまでの家賃とこれからの家賃の支払いだよね?そもそもの話、祖母さんのあの調子で、お母さんの実家を維持できると思う?」
「…思えない」
「…俺、退去の事とかはよくわからないけど、住み続けるにしても部屋を片付けたりするにしても、どっちにしろお金がかかるよな?」
「…どうしよう。お母さんは貯金が無いし、お父さんからの養育費にもそんな余裕は無いし、伯母ちゃんに頼るのも何か違うし…」
遡れば子供達の出産祝いを慎吾が使い込んだ関係で、李子は自分の独身時代の貯金を切り崩すしかなかった。なので貯えは皆無だ。
娘は苦々しく口を開いた。
「…昔、大お祖母様が私に譲って下さったアクセサリーがあるでしょ。お母さんに管理を任せてる奴」
「お姉ちゃん。まさか…」
娘は、重い重い溜め息をついた。
「あれを換金すれば、家賃から片付け代から払える金額になると思うよ」
「あれは大お祖母様が貴方にくれた物で…!」
「大お祖母様の気持ちを無碍にするような真似は、私だってしたくないよ。でも、背に腹はかえられないでしょ」
娘を気にかけていた華子は、遺産以外に自分の貴金属を形見として娘に譲ってくれた。遺産について蹊子がごねる事を見越していた事も大きいが。実際、遺産の取り分が減ったら暮らしていけなくなると蹊子はごねた。華子が雇っていた弁護士は非常に親切で誠実だったので、幼い娘に遺産の事を噛み砕いて説明してくれた。
「まあ私も当時は純粋だったからね。私が遺産を受け取る事で祖母さんがお金に困ったらいけないと思って、相続放棄を選んだ訳だけど」
なお貴金属を娘に譲る事についても蹊子はごねたが、幼い曾孫への母の思いやりを踏み躙る気かと瑛子に一喝されておとなしくなった。
「これ、本当に私がもらっちゃっていいの?私には早すぎない?」
「大お祖母様は、これが似合う大人になりなさいって、貴方に言いたいんだよ」
彼女は幼いながらも、華子から譲られた物は子供の玩具にして良い物ではないと理解していた。李子の「貴方が大人になるまで、これはお母さんが預かるからね」という言葉に、安堵したように頷いた。
その一幕が、昨日の事のように李子の脳裏をよぎった。
「私が自分の財産を…大お祖母様が下さった物だから、自分の財産って言うけど。財産を出すのは、この問題を放置する事でお母さんや元輝に悪影響が及ばないようにする為です。信頼できるお店に鑑定してもらうのだとかは全部お母さん任せになってしまうけど、お金は実質私が負担します」
「…お姉ちゃん。ごめん」
「…使わせてもらいます」
結果として、アクセサリーはかなりの金額になった。滞納していた家賃は無論、既にごみ屋敷の有り様と化していた実家を引き払うに十分に足りる金額だった。
今思えばだが、蹊子に頼まれた訳でも何でもないのに、娘の財産を使って立て替えるという判断が良くなかった。言い出してくれたのは娘だが、母の自分が止めるべきだったと、李子は思う。
蹊子は「何かあっても李子が何とかしてくれる」と、味をしめてしまった。後は先述の通りだ。母屋に住み着いている事に苦言を呈すると「ここはあたしの実家よ!」と怒り出す。李子にお金を無心し、無理なのだと言うと、これまた怒り出す。しまいには
「本当は桃子に面倒見てもらいたいけど、あんたしかいないんだから仕方ないじゃない!」
と暴言を吐く。
「いやだったらもうあんな人の面倒見るのやめようよ」
「だって…親だし面倒見なきゃ」
「いやその考えで行くと、私や元輝にも当てはめて言うって事になるけど。自分の老後の面倒要員としてくそおやじを産んだ、賀茂の方の祖母さんでもあるまいし」
そう。『賀茂の方の祖母さん』こと賀茂フヨは、『くそおやじ』こと一人息子である慎吾に「老後の面倒を見てもらう為にあんたを産んだ」と、面と向かって言ったのだ。
「全く、自分の子供が何の問題も無く健やかに生まれ、これまた何の問題も無く健やかに育ち、年を取った自分の面倒を当たり前のよう見てくれるなんて、何故疑いもしないでそう思えるのか」
「古い時代の人だから…」
つまり『子供は親の面倒を見るもの』という考えこそが当たり前の時代だ。
「でも、貴方達は私の老後の面倒を見る必要は無いよ?貴方達には貴方達の人生があるんだから」
「それはお母さんもそうだと思うけど。あんな我が儘で嘘つきの年寄りに振り回される事は無いでしょ」
「お祖母ちゃんを放り出す訳にもいかないから…」
娘は「結局そうなるか」と呻いた。
誤解が無いように書いておくが、彼女は何も、お年寄りを馬鹿にしている訳ではない。『年寄り嗤うな行く道だ』は、誠にその通りだと思っているからだ。自分の祖母が馬鹿だと思ってはいるが。
話を戻そう。
姉の桃子が生きていれば違ったのかもしれないと、李子は思う事がある。人型の式神を作れる程に高い霊力を持っていた姉。5段階評価の通知表はいつも全てが『5』で、何でもできた美人の姉。蹊子がまるで頭が上がらない、お気に入りの姉。
しかし同時に考える。蹊子と一緒になって李子を「役立たずの無能」「愚図な不細工」「うちの子じゃない」「あんたなんかに嫁の貰い手はいない」と散々蔑んでいた姉が病気で急逝しなかった所で、姉妹で協力し合える事など無いのではないかと。
自分はこれからもこうして、娘に迷惑をかけて生きるしかないのだろうか。例えば、娘の大切なお金を当の娘に無断で持ち出すなんて泥棒紛いの行為だし、自分はまるで毒親ではないか。
「いや本当に毒親だったら『自分は毒親かも』って自分を顧みる事すらしないからね?うちの祖母さんのように無自覚なものだよ?」
「え?お祖母ちゃんって、毒親なの?」
娘は「まあお母さんは蔑ろにされるのが当たり前だったから、気付かないよね」と嘆息した。
「例えばさ。私が祖母さんに『馬鹿』だの『ブス』だの言われて、元輝と明らかに差を付けられた扱いをされていたら『それはそうされても仕方ない当たり前の扱いだ』って思う?」
「絶対に許さないよ!そんなの!」
「自分の子供にされたら許さない行為なんだから、それは虐待で親としてしちゃいけない事だよ」
「私は虐待されていたんだ…」
「桃子伯母さんが下にも置かれぬ『愛玩子』とするなら、お母さんはどんなに蔑ろにしてもいい『搾取子』だね」
「愛玩子?搾取子?そう言うの?…私も貴方を搾取してるね…。ごめんね…」
「いやだから本当に搾取していたら、『搾取しているかも』って自分を顧みる事すら無いってば」
そう言ってくれる娘は、顔を顰め溜め息をつきながらもお金を出してくれるので、つい甘えてしまう。親として情けなく、我が子に申し訳なかった。