20代も半ばを過ぎた。
俺は国立大学の工学部を出て、県内ではまあそこそこ良い土木関係の仕事につけた。
それなりに彼女も何人かは出来たが、なかなか長続きしないのが難点だ。
残業の多い職場だったが、業務内容自体にはそこそこ満足していた。
そろそろ今付き合ってる子と結婚かな、そう考えていたある日、俺宛に一通の手紙が届いた。
白い封筒には、桃色の便箋が入っていた。縦書きで文字が記載してある。その古風な書き方に既視感を感じた。
ひらりと一枚の写真が、封の中から落ちてくる。
その写真を手にした時、高校時代の甘苦しい想い出が蘇ってきた。
***
高校1年の途中、冬の最中に転校になった。
父親が海上自衛隊勤務であることも影響し、幼少期から転校は多かった。
人々からの好奇の目にはなれている。高校生にもなって、あからさまにそんな視線を送ってくる奴等もいなかったが。
転校初日。
クラスで気さくに話し掛けてきた同級生がいた。大体こういう奴が一人はいるから、転校のプレッシャーにもわりと耐えられる。
「天野くん?祐介くん?どっちで呼べばいい?」
明るい調子で声を掛けてきたのは、スポーツ刈りをしたいかにも運動部な男子だ。ちょっと吊った目をしている。そして締まった体つきで、ひょろりとした体型の俺は羨ましく感じた。
漠然と、こいつバスケとかしてそうだなと思った。
海川孝太郎と名乗ったその男からは、天野と呼ばれる事になった。『くん』が何処に行ったのかは分からない。
そして海川に、自分のとこの部活を見に来ないかと誘われた。
断って角が立つのも面倒だし、そいつの言う通り、俺は見学に向かうとした。
***
てっきり、バリバリの運動部に連れていかれると思っていた俺は拍子抜けした。
吹き抜けの道場。青々とした芝生は、今朝の雨粒を含んで瑞々しく輝いている。
芝生の先には、黒白の的が置いてあり、所々に矢が刺さっているのが見える。
一人の女性が、道場の入り口とおぼしき場所から入場してきた。
掲げられた神棚に向かい、彼女は一礼する。
ポニーテールの黒髪が揺れる。
顔を上げた彼女の凛とした表情。胸当ての上からでも分かる、なだらかな曲線が視界に入った。
俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
両足を交互にゆっくりと交わしながら、指定の場所に向かう。
足を真横に開き、一度構えた後、そのまま弓に矢をつがえる。
的へ視線を移した。
彼女の白い首筋が露になる。
そうして、ゆるりと弓を持ち上げた。
高く上げた腕はしなやかに弦を張り詰め始める。
しばらくの後、矢から手を離す。
両腕が一の字を描いた後、静寂が訪れた。
緊迫した空気が周囲を凪ぐ。
とても静かな競技の筈なのに、俺の心の内に何か突き上げてくるものがあった。
初めて見た時、なんて美しいんだろうと思った。
***
海川の話だと、彼女は才色兼備で有名な女子弓道部の部長らしい。
俺は先程の女性会いたさに、さっさと入部届けを書いて提出することにした。書く時に少しだけ震えが来た。
彼女にもう一度会えると言う期待があった。
同時に話し掛けて相手をしてもらえるのかという不安が同時に去来したまま、弓道場へと向かった。
遠目で見ている分には簡単に的に矢を当てていそうだと思っていたが、実際は運動初心者にはかなり難しい競技だった。
弓道部は、名目上は男女で別れていたが、実際には共同で練習を行っていた。
「千葉菜々子と言って、女子部長を任されています」
クールな見た目とは裏腹に、笑うとえくぼができて愛らしく、とても印象的だ。
自分の胸が壊れるんじゃないかと言うぐらい高鳴った。
しなるような指で握手を求められ、ますます緊張する。
彼女の手は少しひんやりとしていて繊細で、この手で矢をつがえたりしているのかと考えただけで、頭の中が沸騰した。
これが彼女との出会いだった。
***
それからは部員も少ない事もあり、彼女とはよく話す仲になった。
話すと言っても、部活の事や、他愛のない日常の話だった。
放課後、彼女と話せるかもしれないと思うと、憂鬱な授業もなんとなくやり過ごすことが出来た。
一月も終わる頃だろうか。彼女に憂い顔が増えてきた。
そんな中、彼女にはつい最近まで付き合っていた男性がいたことを知った。
相手は最近、県外の有名大学にある薬学部へと合格したそうだ。遠距離恋愛は無理だと言われ、一方的に別れを告げられたそうだ。
「彼も、私と同じ県内の医学部に行く予定だったの。だけど、浪人はしたくないんだって。後から、医学部に編入しようかなとか言ってね」
そう話す彼女の表情には、彼への失望も見え隠れしているように俺は感じた。そうして、彼女に誰か相手がいたのだと思うと、胸が軋んだ。
「なんだろう。天野くん、優しいから、つい甘えちゃうな」
そう言って首を傾げ、髪をかきあげる彼女の項。
胸当てを外して袴姿の襟元から覗く、透けるような白い肌。
俺は、彼女を直視できない。
季節は春を迎えていた。
***
俺は二年、千葉先輩は三年になる。
六月にある高総体では、団体準決勝敗退。
千葉先輩は惜しくも個人七位で、全国大会に行くことは叶わなかった。
気持ちに気づかれている海川から、「もう会えなくなるぞ」と脅しをかけられる。
振られても、今後そんなに顔を合わせることもない。
せっかく話せるようになったのに関係性が壊れるのも怖かったが、時折自分に向けてくる柔和な視線に、もしかしたらという想いが募っていた。
だから、思いきって告白することにした。
その前に、他の部員に先輩とのツーショットを取ってもらう。
その後、道場の裏手に呼び出し、ストレートに「好きです。付き合ってください!」と告げた。
先輩は、いつもの癖なのか少しだけ首を傾げていた。
ふっくらとした唇がゆっくりと開く。
「少し待ってくれる?」
そう伝えられ、どのくらい待てば良いのか分からないが、しばらく返事を待つことになった。
数日間、なかなか寝付けない。寝ても途中で目を覚ましたり、朝早く起きたりする。
気持ちが落ち着かず、早目に学校に行っては、校舎の周りの走り込みをおこなった。
そんなある日の早朝、千葉先輩とばったり出くわした。
「天野くん、この間の返事なんだけど……」
そう言われ、まさかこんな時にと頭が真っ白になる。
心臓の音で、周囲の雑踏も何もかもが聞こえない。
先輩の柔らかい声が耳に届く。
「良かったら、付き合ってください」
まさかの返事に、心の中でガッツポーズをした。
自分達が付き合う頃には初夏が訪れ、彼女は受験生活が始まった。
***
夏休み。
三年生は毎日学校に来て、夕方まで補講や自主学習をおこなっている。
彼女の帰りまで、弓を引いたり、課題をこなしたりして待つ。
付き合うと言っても高校生なので、他愛もない話をしたり、手を繋いだりするぐらいだ。
『ぐらい』と言っても、この間初めて手を繋いだ時には手汗がひどくて、先輩に嫌われないか心配した。
いつも笑顔の先輩だが、今日は少しだけため息をついていた。
「どうしたんですか?」
「天野くん、実は模試の結果がB判定で、両親から怒られちゃって……」
彼女の実家は整形外科を開業している。父親が医師で、母親は元看護師らしい。一人っ子の彼女は、両親からかなり厳しく育てられたそうだ。
「家に帰りたくなくて……」
そう言って、彼女は潤んだ瞳で俺を見上げてくる。
その視線に耐えられず、眼を反らしてしまった。
俺は空気を変えたい気持ちになって、大きな声で彼女に提案した。
「先輩!海!海行きましょうよ、夏だし!」
少しだけ驚いた様子だったが、彼女はこくりと頷いた。
***
海についた頃には、辺りは暗闇に包まれていた。
昼間はわりと晴れていたが、朧月夜だった。
波の穏やかに行きつ戻りつする音が聴こえる。
靴を脱いで素足で歩くと、柔らかい砂が足の裏に当たる。
先輩は「ざらざらする」と言って、少しだけ笑っていた。
波打ち際まで、二人で連なって歩く。
制服の裾が海で濡れた。
大きな波が来る。
咄嗟に対応出来なかった俺は、そのまま海に転がってしまった。
ひとしきり先輩が笑っていた。
「天野くん、おかしい」
(良かった、元気になって)
俺は少しだけ安堵する。
先輩が俺に手を差し伸べてきた。
その手をとって立ち上がろうとしたが、そのまま千葉先輩がしなだれかかってくる。また、海に尻餅を着いてしまった。
しばし見つめ合う。
なぜ、先輩がそんなことをしたのかは分からない。
やっぱり美人の先輩に視られるのは恥ずかしい。
夜だからバレてはいないと思うが、頬が火照ってしょうがない。
「ねぇ」
彼女の蠱惑的な唇が微かに動いた。
この人と出逢ってからは、俺の心臓はもたない。
「キスしても良い?」
「え?!」
驚く間もなく、彼女の方から、俺に近付いてきた。唇同士が重なる。しばらくした後、彼女の方から離れた。
と思いきや、また俺の唇に彼女のそれが重なった。
(初めてで、やり方が分からない)
頭の中が混乱してくる。
また彼女が離れる。
吐く息とともに、彼女が告げる。
「ねぇ、ゆっくりで……良いから」
そうしてまた、彼女からキスされる。
軽いキスを繰り返すうちに、次第に深くなっていき、自分からも彼女を求めるようになった。
***
秋になった。
あの夏の出来事以来、彼女は俺の部屋によく来るようになった。
美人で有名な先輩を、自分の手に入れたつもりになっていたのかもしれない。
それと同時に、なぜ彼女は俺を選んだのだろうかという疑問を抱くようになっていった。
一つ年上の先輩と付き合っていたと言ってたし、彼とも何かあっているのかもしれない。
たまたま告白したのが俺というだけで、それこそ先に海川に告白されていたら、あちらと付き合っていたのかもしれない。
有頂天な気持ちと疑心暗鬼が折り混ざっていく。
自分の事しか考えきれなくなった俺は、彼女の家庭環境の辛さなど全く考えたりもしていなかった。
彼女が一番辛い時期に何もしなかった。
どんどん、些細なことで喧嘩するようになっていく。
一度激しい口論になった。
「別に俺じゃなくても良かったんだろう?!」
彼女は愕然としていた。
しばらくして、彼女から言われた。
「勉強に集中したいから」
そう言って、どんどん距離が遠くなっていった。
彼女の試験日も差し迫っていた。
***
彼女の受験が終わった。
だが俺は、彼女がどこの学校を受けたのかさえ知らなかった。
県内の医学部を受験したいと話していたが、そこを受けたのだろうか。
何も分からないまま、時間だけが過ぎた。
そうして呼び出されたのは、国公立大学の前期試験の発表の後だった。
「県外の学校に?」
「県内は難しかったの。現役で、女でもとってくれる医学部に進路変更したら、運良く合格出来たの」
県内に留まれないのかという身勝手な希望も、俺は口に出した。
「今年受かったから、来年も受かる……そんな生半可な学部じゃないの。私は医師になりたい。父に言われたからじゃない」
浮かれすぎて、彼女がどれだけ医師になりたいのかなんて知ろうともしていなかった。
そうして彼女は、県外へと旅立って行った。
そう。
俺の届かない遠くへと――。
***
便箋には、希望通り整形外科に入局したこと、同僚の循環器医師と結婚する旨が記載されていた。
癖のある右上がりの字が、彼女本人だということを現している。
「『写真、お返しします』か、別に捨てて良かったけど。旦那さんが気にするのかな」
写真は、先輩が引退する際に撮ってもらったツーショット写真だった。
「まだ持ってたんだな」
苦笑いが出てきた。
どこまでも心を抉られる。
自分は彼女の邪魔にしかなっていなかった筈なのに。
写真を破ろうかと手に掛けた時、たまたま裏の白い面が目に留まる。
文字が見えた。
掠れた字と、消されかけの字が並んでいる。
「祐介くんと一緒に過ごせて幸せ」
昔の字のようだった。
消されかけの字にも目をやる。どうやら、こちらの方が実際に新しい文字のようだ。小さくて、眼を凝らさないと読めない。
「『誰でも良いわけじゃない。家族が支えにならなかったあの時、貴方を好きでなかったら、優しい貴方でなかったら、ここまでこれませんでした』……」
「『本当に、ありがとう』」
写真を胸に、彼女の優しさに、俺はひとしきり泣いたのだった。
そのまま写真を封にしまった。
空にはちょうど、あの時のように朧気な弓張り月がかかっていた。