俺たち神無し中学校二年生は、基本的に全員仲がいい。
もっとも、よくある話というか、内部はいくつかのグループに分かれている。その中で比較的大きいのが、俺が所属している鮫島グループだ。
鮫島グループといえば、品行方正な優等生、涼子。体は弱いが、優しい性格の光莉。転校生でムードメーカーの都。そして、俺の四人を中心にそつなくまとまっている、というのが、周囲で囁かれる評価だろう。だが、内面は決して一枚岩でもない。
正直俺は、都のことが、あまり好きではないのだから。
◇
戻ってきた期末テストの答案用紙を眺め、机の上にため息が落ちる。
どれもこれも、他人様に自慢できる数字じゃない。赤点こそ免れたが、母親の顔が真っ赤になるのは免れないだろう。
来週からせっかく夏休みなのに。再び落ちそうになったため息を、ホームルーム終了を告げるチャイムがさらっていった。
歓声ともため息ともつかないもので満ちていた教室中の空気が、まあいいや、来週から夏休みだ、という解放感へと変わっていく。
紙きれほどの価値もない答案用紙を鞄に押し込むと、都の席に向かった。
「おーい、帰ろうぜ」と声をかけたそのとき、「ああ、そうだ」と先生の甲高い声が響いた。
「テストも終わったことだし、と気を抜くんじゃないぞ。もうすぐ夏休みに入るが、休みの期間中こそ、計画をちゃんと立てて勉強をしなくちゃダメだ」
へーい、とか、ハーイ、という気の無い返事がまばらに上がった。せっかく解放感に浸っていたのに、余計なこと言うなよな。
光莉の背中を押して廊下に出ていく涼子を見送り、「んじゃ帰ろっか」と応じてきた都と一緒に教室を出る。
雑談をしながら歩く道すがら、「昨日のドラマ観た?」「観た観た超泣けるー!」という女子たちの黄色い声が聞こえた。
「真人も観た?」
「観たよ。女子の会話に参加してーし」
「動機が不純! でも真人らしいや」
「だろ? それは俺に対する正しい解釈です」
「死ぬってさ、どういう感じなんかな? 苦しいとか、辛いとかって思うのかな?」
ストーリーは、イジメを苦に自殺した女子中学生が、幽霊になって戻ってくるというもの。そこで、自分が周囲の人から意外と愛されていた事実を知り涙するのだが、死者が戻ってくる内容といいヒロインの設定といい、この間の出来事を彷彿とさせてどこか心の座りが悪い。
「そりゃあ、思うんじゃね? でも、自殺はやっぱダメだよ。生きたくても生きられない人だってたくさんいるのにさ、どんな理由があっても自ら死を選ぶなんてもったいない」
「お、真人にしちゃいいこと言う」
「というのが俺のかーちゃんの口癖」
「なんだよ、がっかり」
この神無し島は、神が住む島なんて異名を持つせいか、天国に近い場所、という言われもある。そのせいなのか、わざわざやって来る自殺志願者もまた多いのだ。
つい先日も、郊外にある空き家のひとつで、練炭自殺をしていた三人の遺体がみつかったばかり。こうした物騒な事件が起こるたび、かーちゃんから口ずっぱく人生観を諭される。
「でも、僕もそう思うよ。不慮の死は誰も幸せにならない。どうせ死ぬのなら、たとえドブの中でも前のめりで死にたい――ってね」
「それは誰の言葉?」
「坂本龍馬。もっともこれは創作であり、龍馬はこんなこと言っていないという説もあるんだけど」
「ふーん。俺のかーちゃんのほうがいいこと言ってんな」
「そうかな」
都に釣られて、笑いながら昇降口をくぐる。
青空の下に出たとたん、容赦ない真夏の日差しに炙られた。俺は短髪なので、地肌までダイレクトに突き刺さる。
「あっちい……」
「だなあ」
「都。このまま俺ん家来てゲームやんね? この間買った、野球のゲームで対戦しよーぜ」
「お前って、ほんと、遊ぶことしか考えてないな」
テストの点数が脳裏を過り、胸のあたりがざわついた。
「そりゃそうだろ。もうすぐ夏休みなんだから」
「真人は夏休み関係なく、普段からそうじゃん」
「ははっ、まあな」
「褒めてねーし。というか今日はやめとく。それに、これから真人とあんま遊べなくなるかも」
「は? なんで」
湿っぽい話をしたあとだしな、と誘ったのに、なぜか都は乗ってこない。
「夏休みに入ったらさ、週二回、塾に通うことにしたんだよ」
「へ? 塾? せっかくの夏休みなのに?」
「むしろ夏休みだから、だよ。時間もいっぱいあることだしさ、受験に向けての準備だって、なるべく早いうちにしたほうがいいだろうって。そう爺ちゃんにも言われたからさ」
「そりゃ、そうだけど……。俺らまだ中二だぜ?」
「うん」と言いながら都が足を止める。視線が正面からかち合った。「僕だってさ、真人と遊ぶ時間が減るのは寂しいよ。でも、目標ができたんだ。僕、大人になったら、絶対医者になりたいから」
医者になるのがどれだけ大変なのか。俺には想像できなかったけれど、俺と都とで見えてる人生のレールがまったく違うんだ、ということだけは理解できた。二人の間にそびえ立つ、高い壁を感じた。
「じゃあ」と言って、陽炎のなか遠ざかっていく背中。俺はただ、見送ることしかできない。
なんだよお前まで。勉強、勉強って、親父たちとおんなじこと言いやがって。
「そういうとこ、なんだよ」
蝉の声が響くなか、自分でも虚しい呟きが落ちた。呟きを蹴とばすみたいに、小石を蹴った。
昔から、勉強があまり得意じゃなかった。めちゃめちゃ成績が悪いってほどではないが、学力で言えば間違いなく中の下。それでも俺には、スポーツという心の支えがあった。
体育の授業は、俺がヒーローになれる数少ない時間だ。なかでも得意なのが水泳。親に頼み込んで、小学校四年生の夏から島に唯一あるスイミングスクールに通わせてもらったし、中学進学後は水泳部に入った。
小さい学校だ。部員なんて殆どいない。
当然のごとく俺はエースだったし、県大会でもガンガン上位に入賞した。インターミドルへの出場権は惜しくも逃したが、神無し島ではそこそこ有名人だ。高校はスポーツ推薦で行くつもりだったし、泳ぎなら誰にも負けないぞ、という自負があった。
ところが、だ。
なけなしの俺のプライドを、ズタズタに踏みにじる存在が現れた。
高橋都。
昨年の冬。島に戻ってきた都が水泳部に入ると、今年最初の記録会であっさり俺のタイムを上回った。
その後行われた県大会でも、俺が五十メートル自由形で決勝八位に留まるなか、都は易々と表彰台に上がってみせた。
俺とのタイム差、二秒。
あまり詳しくない奴なら、たった二秒と思うかもしれない。だが俺からしてみれば、この一秒を削るために血が滲むような努力を積み重ねてきたんだ。
それをアイツは、たったの一度で易々と超えた。都が本土にいるとき、どんな努力をしてきたかなんて知らないし知りたくもない。俺にとっては、分かり易い敗北を突き付けられたという事実。それだけしかないから。
だが、鼻高々でいられるのも今のうち。お前が勉強に打ち込むならば、その隙に俺は出し抜くだけのこと。より一層、部活動に精を出すだけのこと。
本当であれば、家に帰ってゲームをしたかったし、もしくは勉強でもするべきなんだろうが、いまいちそんな気になれなかった。
ゲームなんて、そんなにしたくもなかったし。などと言い訳を脳内で垂れ流し、そのまま秘密基地へと向かう。住宅地の裏山、雑木林の中にぽつんと建っている木造りの小屋は、俺らが小学生の頃よく集まっていた場所だった。
俺ん家の小屋ではない。誰のものなのかも定かじゃないが、特に使っている気配もないし、ということで、俺らが勝手に忍び込んでいただけだ。
何冊も持ち込まれていた漫画は、粗方撤去されている。
やって来る仲間も、今となってはまずいない。
それでも俺は、たびたびここに足を運んでいた。隙間風の入る場所を塞いでいるので冬でも暖かいし、使い古しとはいえ絨毯が敷いてあるので、昼寝をするにも最適なのだ。
建てつけのあまり良くない引き戸を開けると、今日は先客がいた。
俺と同様、家に帰らず真っすぐ来たのだろう。通学鞄を床にほっぽりだして、セーラー服姿で寝そべり漫画を読んでいる女子が一人。
「やっぱりお前も来てたのか」とそいつ――涼子に話しかけた。
「うん。ここで待っていれば、真人が来るような気がしていたから」
「ふーん、そっか。まあ」
「まあ?」
「涼子が思った通りになっているのだけは、なんとなく釈然としない」
「案外、通じ合っているのかもよ? 私たち」
「どうだか」
よいしょ、と体を起こした涼子の隣に座ると、二の腕が密着するくらい体を寄せてくる。涼子はスレンダーな体型だけど、そこはやっぱり女の子。触れ合うと肌の白さと柔らかさにドギマギする。「しよっか」なんて言いながら指を絡めてくる。
「お前最近そればっかりな」
「とか言って、満更でもないんでしょ」
「まあね」
声は甘やかな響きだが、反面、向けられた瞳は気だるげだ。それには気づかない振りをして、お互いにしっかりと抱き合った。
琥珀色の瞳が閉じた。誘うように、上向きになった顎に手を添え唇を重ねると、瑞々しい赤で、ふっくらとしていて、ほんのり甘酸っぱい味がした。
こんな風に俺たちは、この場所で時々キスをしている。
長い髪を梳くように撫で、セーラー服の上から胸に触れると、くすぐったそうに涼子が身をよじった。
「ん。なんか、触り方が前よりエロくなったんじゃないの?」
「んなわけあるか」
「うわっ、なんか機嫌悪い。もしかして光莉にフラれた?」
「それこそ、んなわけない。光莉に告白する勇気があるなら、お前と抱き合ったりなんかしない」
「だよね」
余計なことばかり言ってうるさい唇を、再び塞いでやった。
子どもと大人の間。中学生である俺たちは、差し詰めそんなところだろう。大人のほどの分別はないが、かといって、何も知らない子どものように、今さら純真にもなれない。
こうして指先をこすり合わせていると、キスしたいって思う。しかし思うこの気持ちは、濾過した水のように澄んでなどいないのだし。
俺と涼子は付き合っている。
付き合ってはいるが、二人の間に愛は存在しない。
なぜならば、お互い好きな相手が別にいるから。
俺は光莉に。涼子は都に。想いを寄せつつも、気持ちを伝える勇気がないから。それが叶わぬ恋だと知っているから。
だからこうして、傷をなめ合うように唇を重ねる。ぽっかりと、心の真ん中に空いた隙間を埋め合うため、いつしかこんな関係になった。
俺たちの関係は誰も知らない。
知られるわけにはいかない。
この行為がどれほど歪んでいるかを、俺も涼子も自覚しているから。
「私に乗り換えたら、楽になるじゃん」
「じゃあ、お前も俺で妥協するってことか」
「うーん……」
言いだしっぺのくせに口ごもりやがった。
「でもさあ、真人消えちゃうかもしんないじゃん?」
「なんだそれ?」
飛躍していく話に頭がついていかなくなる。でも、心当たりはあった。
「この間の話か」
「そう。ドッペルゲンガーか何かなのか、そんなの私にはわからないけどさ、誰が増えたかわかんないってのも、なんとなく薄気味悪いよね」
先日、川遊びしている時に人数が合わなくなった件。
一晩寝て起きたら全てが元通りになってるんじゃないか、なんて、淡い期待を抱いていた。そんな単純じゃなかったとしても、学校に行って座席と全員の名前を照合したら、増えた奴があぶり出されて分かるんじゃないかとそう思っていた。
結論からいうと、そんなことはいっさいなかった。あのとき川にいた八人の席は全部あったし、顔も名前もわからない奴が混ざってるなんてこともなかった。それなのに、クラスの人数は、記憶の中にある数からやっぱり一人増えていて、しかし、それが誰なのか判然としないのだ。
いったい誰が、なんの目的を持って俺たちの中に紛れ込んだのか。喉元にナイフを突き付けられているような恐ろしさがある。
「少なくとも、俺が増えた奴ってことだけはないさ」
たぶん、な。どうなんだろう。自分の記憶ですら偽りのもの、なんてことがあるだろうか。
「どうかしら」
「だってよ。俺と過ごしてきたこの時間が、全部偽りだっていうのか? そんなこと、あると思う?」
んーと再び涼子が考え込む。
「ま、それはないかな」
「だろ?」
「でもさ」とそこで彼女の声のトーンが、ひどく真面目なものに変わる。「増えたのさ、なんとなく、光莉なんじゃないかなって。そんな気がするんだ」
「はあ!?」
一瞬だけ思考が途切れた。
「なんで光莉だって思うんだよ?」
「アハハ、真に受けないでよ。ただの冗談だってば。そう言ったら真人怒るかなあって」
意味わかんねえ。そう続けようとした不満の声は、今度は涼子から重ねられた唇で遮られてしまう。
そう言って彼女は誤魔化したが、正直心中は穏やかじゃなかった。
確かに涼子は、光莉をさほど快く思っていない。性格的にも二人は正反対で、かみ合うところが少ないのだし。だが、涼子がつまらない冗談を言うタイプじゃないことも、同時に知っていた。
それだけに、波打った心が凪ぐことは、しばらくなかった。
もっとも、よくある話というか、内部はいくつかのグループに分かれている。その中で比較的大きいのが、俺が所属している鮫島グループだ。
鮫島グループといえば、品行方正な優等生、涼子。体は弱いが、優しい性格の光莉。転校生でムードメーカーの都。そして、俺の四人を中心にそつなくまとまっている、というのが、周囲で囁かれる評価だろう。だが、内面は決して一枚岩でもない。
正直俺は、都のことが、あまり好きではないのだから。
◇
戻ってきた期末テストの答案用紙を眺め、机の上にため息が落ちる。
どれもこれも、他人様に自慢できる数字じゃない。赤点こそ免れたが、母親の顔が真っ赤になるのは免れないだろう。
来週からせっかく夏休みなのに。再び落ちそうになったため息を、ホームルーム終了を告げるチャイムがさらっていった。
歓声ともため息ともつかないもので満ちていた教室中の空気が、まあいいや、来週から夏休みだ、という解放感へと変わっていく。
紙きれほどの価値もない答案用紙を鞄に押し込むと、都の席に向かった。
「おーい、帰ろうぜ」と声をかけたそのとき、「ああ、そうだ」と先生の甲高い声が響いた。
「テストも終わったことだし、と気を抜くんじゃないぞ。もうすぐ夏休みに入るが、休みの期間中こそ、計画をちゃんと立てて勉強をしなくちゃダメだ」
へーい、とか、ハーイ、という気の無い返事がまばらに上がった。せっかく解放感に浸っていたのに、余計なこと言うなよな。
光莉の背中を押して廊下に出ていく涼子を見送り、「んじゃ帰ろっか」と応じてきた都と一緒に教室を出る。
雑談をしながら歩く道すがら、「昨日のドラマ観た?」「観た観た超泣けるー!」という女子たちの黄色い声が聞こえた。
「真人も観た?」
「観たよ。女子の会話に参加してーし」
「動機が不純! でも真人らしいや」
「だろ? それは俺に対する正しい解釈です」
「死ぬってさ、どういう感じなんかな? 苦しいとか、辛いとかって思うのかな?」
ストーリーは、イジメを苦に自殺した女子中学生が、幽霊になって戻ってくるというもの。そこで、自分が周囲の人から意外と愛されていた事実を知り涙するのだが、死者が戻ってくる内容といいヒロインの設定といい、この間の出来事を彷彿とさせてどこか心の座りが悪い。
「そりゃあ、思うんじゃね? でも、自殺はやっぱダメだよ。生きたくても生きられない人だってたくさんいるのにさ、どんな理由があっても自ら死を選ぶなんてもったいない」
「お、真人にしちゃいいこと言う」
「というのが俺のかーちゃんの口癖」
「なんだよ、がっかり」
この神無し島は、神が住む島なんて異名を持つせいか、天国に近い場所、という言われもある。そのせいなのか、わざわざやって来る自殺志願者もまた多いのだ。
つい先日も、郊外にある空き家のひとつで、練炭自殺をしていた三人の遺体がみつかったばかり。こうした物騒な事件が起こるたび、かーちゃんから口ずっぱく人生観を諭される。
「でも、僕もそう思うよ。不慮の死は誰も幸せにならない。どうせ死ぬのなら、たとえドブの中でも前のめりで死にたい――ってね」
「それは誰の言葉?」
「坂本龍馬。もっともこれは創作であり、龍馬はこんなこと言っていないという説もあるんだけど」
「ふーん。俺のかーちゃんのほうがいいこと言ってんな」
「そうかな」
都に釣られて、笑いながら昇降口をくぐる。
青空の下に出たとたん、容赦ない真夏の日差しに炙られた。俺は短髪なので、地肌までダイレクトに突き刺さる。
「あっちい……」
「だなあ」
「都。このまま俺ん家来てゲームやんね? この間買った、野球のゲームで対戦しよーぜ」
「お前って、ほんと、遊ぶことしか考えてないな」
テストの点数が脳裏を過り、胸のあたりがざわついた。
「そりゃそうだろ。もうすぐ夏休みなんだから」
「真人は夏休み関係なく、普段からそうじゃん」
「ははっ、まあな」
「褒めてねーし。というか今日はやめとく。それに、これから真人とあんま遊べなくなるかも」
「は? なんで」
湿っぽい話をしたあとだしな、と誘ったのに、なぜか都は乗ってこない。
「夏休みに入ったらさ、週二回、塾に通うことにしたんだよ」
「へ? 塾? せっかくの夏休みなのに?」
「むしろ夏休みだから、だよ。時間もいっぱいあることだしさ、受験に向けての準備だって、なるべく早いうちにしたほうがいいだろうって。そう爺ちゃんにも言われたからさ」
「そりゃ、そうだけど……。俺らまだ中二だぜ?」
「うん」と言いながら都が足を止める。視線が正面からかち合った。「僕だってさ、真人と遊ぶ時間が減るのは寂しいよ。でも、目標ができたんだ。僕、大人になったら、絶対医者になりたいから」
医者になるのがどれだけ大変なのか。俺には想像できなかったけれど、俺と都とで見えてる人生のレールがまったく違うんだ、ということだけは理解できた。二人の間にそびえ立つ、高い壁を感じた。
「じゃあ」と言って、陽炎のなか遠ざかっていく背中。俺はただ、見送ることしかできない。
なんだよお前まで。勉強、勉強って、親父たちとおんなじこと言いやがって。
「そういうとこ、なんだよ」
蝉の声が響くなか、自分でも虚しい呟きが落ちた。呟きを蹴とばすみたいに、小石を蹴った。
昔から、勉強があまり得意じゃなかった。めちゃめちゃ成績が悪いってほどではないが、学力で言えば間違いなく中の下。それでも俺には、スポーツという心の支えがあった。
体育の授業は、俺がヒーローになれる数少ない時間だ。なかでも得意なのが水泳。親に頼み込んで、小学校四年生の夏から島に唯一あるスイミングスクールに通わせてもらったし、中学進学後は水泳部に入った。
小さい学校だ。部員なんて殆どいない。
当然のごとく俺はエースだったし、県大会でもガンガン上位に入賞した。インターミドルへの出場権は惜しくも逃したが、神無し島ではそこそこ有名人だ。高校はスポーツ推薦で行くつもりだったし、泳ぎなら誰にも負けないぞ、という自負があった。
ところが、だ。
なけなしの俺のプライドを、ズタズタに踏みにじる存在が現れた。
高橋都。
昨年の冬。島に戻ってきた都が水泳部に入ると、今年最初の記録会であっさり俺のタイムを上回った。
その後行われた県大会でも、俺が五十メートル自由形で決勝八位に留まるなか、都は易々と表彰台に上がってみせた。
俺とのタイム差、二秒。
あまり詳しくない奴なら、たった二秒と思うかもしれない。だが俺からしてみれば、この一秒を削るために血が滲むような努力を積み重ねてきたんだ。
それをアイツは、たったの一度で易々と超えた。都が本土にいるとき、どんな努力をしてきたかなんて知らないし知りたくもない。俺にとっては、分かり易い敗北を突き付けられたという事実。それだけしかないから。
だが、鼻高々でいられるのも今のうち。お前が勉強に打ち込むならば、その隙に俺は出し抜くだけのこと。より一層、部活動に精を出すだけのこと。
本当であれば、家に帰ってゲームをしたかったし、もしくは勉強でもするべきなんだろうが、いまいちそんな気になれなかった。
ゲームなんて、そんなにしたくもなかったし。などと言い訳を脳内で垂れ流し、そのまま秘密基地へと向かう。住宅地の裏山、雑木林の中にぽつんと建っている木造りの小屋は、俺らが小学生の頃よく集まっていた場所だった。
俺ん家の小屋ではない。誰のものなのかも定かじゃないが、特に使っている気配もないし、ということで、俺らが勝手に忍び込んでいただけだ。
何冊も持ち込まれていた漫画は、粗方撤去されている。
やって来る仲間も、今となってはまずいない。
それでも俺は、たびたびここに足を運んでいた。隙間風の入る場所を塞いでいるので冬でも暖かいし、使い古しとはいえ絨毯が敷いてあるので、昼寝をするにも最適なのだ。
建てつけのあまり良くない引き戸を開けると、今日は先客がいた。
俺と同様、家に帰らず真っすぐ来たのだろう。通学鞄を床にほっぽりだして、セーラー服姿で寝そべり漫画を読んでいる女子が一人。
「やっぱりお前も来てたのか」とそいつ――涼子に話しかけた。
「うん。ここで待っていれば、真人が来るような気がしていたから」
「ふーん、そっか。まあ」
「まあ?」
「涼子が思った通りになっているのだけは、なんとなく釈然としない」
「案外、通じ合っているのかもよ? 私たち」
「どうだか」
よいしょ、と体を起こした涼子の隣に座ると、二の腕が密着するくらい体を寄せてくる。涼子はスレンダーな体型だけど、そこはやっぱり女の子。触れ合うと肌の白さと柔らかさにドギマギする。「しよっか」なんて言いながら指を絡めてくる。
「お前最近そればっかりな」
「とか言って、満更でもないんでしょ」
「まあね」
声は甘やかな響きだが、反面、向けられた瞳は気だるげだ。それには気づかない振りをして、お互いにしっかりと抱き合った。
琥珀色の瞳が閉じた。誘うように、上向きになった顎に手を添え唇を重ねると、瑞々しい赤で、ふっくらとしていて、ほんのり甘酸っぱい味がした。
こんな風に俺たちは、この場所で時々キスをしている。
長い髪を梳くように撫で、セーラー服の上から胸に触れると、くすぐったそうに涼子が身をよじった。
「ん。なんか、触り方が前よりエロくなったんじゃないの?」
「んなわけあるか」
「うわっ、なんか機嫌悪い。もしかして光莉にフラれた?」
「それこそ、んなわけない。光莉に告白する勇気があるなら、お前と抱き合ったりなんかしない」
「だよね」
余計なことばかり言ってうるさい唇を、再び塞いでやった。
子どもと大人の間。中学生である俺たちは、差し詰めそんなところだろう。大人のほどの分別はないが、かといって、何も知らない子どものように、今さら純真にもなれない。
こうして指先をこすり合わせていると、キスしたいって思う。しかし思うこの気持ちは、濾過した水のように澄んでなどいないのだし。
俺と涼子は付き合っている。
付き合ってはいるが、二人の間に愛は存在しない。
なぜならば、お互い好きな相手が別にいるから。
俺は光莉に。涼子は都に。想いを寄せつつも、気持ちを伝える勇気がないから。それが叶わぬ恋だと知っているから。
だからこうして、傷をなめ合うように唇を重ねる。ぽっかりと、心の真ん中に空いた隙間を埋め合うため、いつしかこんな関係になった。
俺たちの関係は誰も知らない。
知られるわけにはいかない。
この行為がどれほど歪んでいるかを、俺も涼子も自覚しているから。
「私に乗り換えたら、楽になるじゃん」
「じゃあ、お前も俺で妥協するってことか」
「うーん……」
言いだしっぺのくせに口ごもりやがった。
「でもさあ、真人消えちゃうかもしんないじゃん?」
「なんだそれ?」
飛躍していく話に頭がついていかなくなる。でも、心当たりはあった。
「この間の話か」
「そう。ドッペルゲンガーか何かなのか、そんなの私にはわからないけどさ、誰が増えたかわかんないってのも、なんとなく薄気味悪いよね」
先日、川遊びしている時に人数が合わなくなった件。
一晩寝て起きたら全てが元通りになってるんじゃないか、なんて、淡い期待を抱いていた。そんな単純じゃなかったとしても、学校に行って座席と全員の名前を照合したら、増えた奴があぶり出されて分かるんじゃないかとそう思っていた。
結論からいうと、そんなことはいっさいなかった。あのとき川にいた八人の席は全部あったし、顔も名前もわからない奴が混ざってるなんてこともなかった。それなのに、クラスの人数は、記憶の中にある数からやっぱり一人増えていて、しかし、それが誰なのか判然としないのだ。
いったい誰が、なんの目的を持って俺たちの中に紛れ込んだのか。喉元にナイフを突き付けられているような恐ろしさがある。
「少なくとも、俺が増えた奴ってことだけはないさ」
たぶん、な。どうなんだろう。自分の記憶ですら偽りのもの、なんてことがあるだろうか。
「どうかしら」
「だってよ。俺と過ごしてきたこの時間が、全部偽りだっていうのか? そんなこと、あると思う?」
んーと再び涼子が考え込む。
「ま、それはないかな」
「だろ?」
「でもさ」とそこで彼女の声のトーンが、ひどく真面目なものに変わる。「増えたのさ、なんとなく、光莉なんじゃないかなって。そんな気がするんだ」
「はあ!?」
一瞬だけ思考が途切れた。
「なんで光莉だって思うんだよ?」
「アハハ、真に受けないでよ。ただの冗談だってば。そう言ったら真人怒るかなあって」
意味わかんねえ。そう続けようとした不満の声は、今度は涼子から重ねられた唇で遮られてしまう。
そう言って彼女は誤魔化したが、正直心中は穏やかじゃなかった。
確かに涼子は、光莉をさほど快く思っていない。性格的にも二人は正反対で、かみ合うところが少ないのだし。だが、涼子がつまらない冗談を言うタイプじゃないことも、同時に知っていた。
それだけに、波打った心が凪ぐことは、しばらくなかった。