「よお、久しぶりだな。悠人」
電話の向こうから聞こえてくる弁当屋の店主の声は入院していた頃よりずっと元気そうだった。その声に安心しつつ、ちょっとだけ緊張している自分がいた。
「お久しぶりです。元気そうですね」
「おお。お医者さんからも経過は順調って言われれてな。12月になったら少しずつ弁当屋も再開しようと思うんだ」
その言葉に緊張感がすっと高まる。元々言の葉デリバリーで働き始めたのは、それまでのバイト先であった弁当屋が休業状態になってしまったことも一つの理由だった。今はほとんど毎日言の葉デリバリーで働いてるけど、弁当屋が再開したらどうするか決め切れていなかった。
「まあ、いきなり無理すんなって口酸っぱく言われててな。まずは店頭でやれる分だけにしようと思ってる。だから、バイクはまだしばらく使ってていいぞ」
店主の言葉と気遣いに強張っていた体から力が抜ける。別に問題が解決したわけじゃなくて、弁当屋の宅配が再開すれば身の振り方を考えなければいけないけど、とりあえずは明日からもこれまで同様言の葉デリバリーで働ける。
「むしろ、バイク使ってくれてて感謝してんだ。お前、うちの弁当屋のロゴそのままで乗っててくれてるだろ。それで、休業しててもそれを見かけて連絡してくれている常連さんがいてな。とっとと元気にならなきゃなってやってこられた」
言の葉デリバリーの宅配手段として弁当屋のバイクを借りていたけど、荷台部分の弁当屋のロゴはそのままにしていた。その効果とかを考えていたわけじゃなくて、借りているバイクのロゴを隠したりするのは違うだろうと思ったからだけど、期せずして宣伝になっていたのか。
「言の葉デリバリー、だっけ。俺もそのうち頼んでみっかな」
「是非。心を込めてお届けしますよ?」
「おう。楽しみにしてる」
ガハハと豪快に笑った店主に改めてバイクを借りてるお礼を伝え、電話を終える。
顔をあげると、不安と緊張が入り混じった目で夏希さんと雪乃さんがこちらを見ていた。今日の宅配を終えてそろそろ解散というときに店主からかかってきた電話にいつの間にか事務所の空気が張り詰めていた。
「弁当屋は再開するけど、しばらくは店頭だけで販売するようなのでバイクは借りてていいそうです」
二人とも僕がどうなるかを気にしてくれているんだろうけど、ちょっと気恥しくてバイクのことにして伝える。夏希さんが安堵の息をついて、部屋の空気が緩んだ。
「よかったあ。ね、鈴ちゃん?」
「なんで私に振るの?」
「別にー。ただ、心配そうにじっと見てたから気になってるのかなって」
「最近注文増えてるし、夏希一人だと宅配が大変だなって思っただけだから」
雪乃さんの言葉に夏希さんがニッと笑う。とととっと僕の傍に寄ってくるとわざとらしく僕の手を取った。
「ふうん。私は“悠人君”がまだまだ残ってくれしいけどなー」
僕の名前をそれらしく呼びながら僕の手を握る夏希さんに対し、雪乃さんはムッとした視線をなぜか僕の方に向けるとプイっと顔を背けてしまう。
言の葉デリバリーの夏休みから一ヶ月ほどがたち11月になると、しつこく残っていた暑さも鳴りを潜め、一気に冬の気配を漂わせるようになっていた。
雪乃さんの言う通り、僕が入った頃より宅配の注文は増えていた。元々新規よりは常連の人のリピートの方がメインだったけど、最近はそのリピートの頻度も高くなっている。理由をちゃんと聞いたことはないけど、もしかしたら雪乃さんの物語の変化もあるのかもしれない。
「わわっ、鈴ちゃん。拗ねないでよー」
「拗ねてないっ!」
夏希さんはパッと僕の手を離すと、今度は雪乃さんを後ろからギュッと抱きしめる。雪乃さんは迷惑そうな顔をしつつも抵抗せずに夏希さんにされるがままにされていた。
夏休み以降、物語も雪乃さん自身もどこか柔らかくなったと思う。元々夏希さんと雪乃さんの間には通じているようなものを感じていたけど、最近は更に親密な感じになったと思うし、僕と雪乃さんの間も――。
「悠人君。顔がだらしない」
雪乃さんからピシャリと言葉が飛んでくる。雪乃さんが僕に張っていた壁みたいなものがなくなったと思うと同時に、なんだか容赦もなくなったような気がする。だけど、それさえも何だか信頼されているように感じられた。
「なんで、さらにだらしなくなるの」
いけない。ペチペチと頬を叩いて真面目な顔を作ってみる。だけど、雪乃さんから向けられたのはどことなくじとっとした視線だった。
そんな僕らを夏希さんがニコニコと眺めたりしながら、今日もいつものように仕事を終えた。
*
バイトを終えて家に戻ると、部屋の前に誰かが立っていた。アパートの共用通路部分でスマホを眺めていた男性は僕に気づくと気安い感じで手を振ってくる。
「やっ。久しぶりだね、悠人」
「……碧兄?」
そこに立っていたのは、田野瀬碧。紛れもなく僕の兄だった。
大学までは実家にいた兄も就職を機に家を出た。正月には顔を合わせてるから最後に会ってから約1年といったところだけど、大学に入ってから色々あったせいか随分久しぶりに会ったような気がする。
「どうしてここに?」
「最近悠人と連絡がつかないって、母さんが」
「それだけでここまで? あー、とりあえず上がってく?」
「ん、悪いね」
部屋は以前よりちゃんと片付けるようにしているとはいえ雑然としているけど、どうせ兄だからと気にせず部屋に案内する。学生用の手狭なワンルームの中心のテーブルにとりあえず腰掛けてもらい、インスタントコーヒー二つを手に向かい合って座る。
スーパーで買い置きしていた安物のコーヒーだけど、兄はそれを美味しそうに飲んでいく。
「大学生活は順調? 弁当屋が休みになって、言葉を届けるバイトしてるんだっけ」
「うん、新しいバイトもそれなりに上手くやってるよ」
「そっか、よかった」
兄がホッと笑顔を零す。本当に僕の様子を見に来ただけなのだろうか。でも、そのために夜にわざわざこうして尋ねてくるだろうか。
「それを聞くためだけだったら電話でもよかったのに。来るにしたって、事前に言ってくれれば待たせることもなかったし」
「事前に知らせて、逃げられたらいやだなって」
「なんで碧兄から逃げなきゃいけないのさ」
僕が兄から逃げるような人間だと思われてるならそれは少し心外だった。家族の中では色々あるけど、兄のことは信頼してるし兄弟として仲のいい方だとも感じている。
だけど、兄は僕の言葉に曖昧に笑って頷くだけだった。やっぱり、近況を聞く以外に目的があるのだろうか。それも、僕にとってあまりよくない類の。兄はインスタントコーヒーを飲み終えると軽く息をついた。
「結婚式、来月だろ?」
「うん。流石にそこには顔出すよ」
兄は来月結婚式を挙げる。相手は彩香さんという兄の職場の同僚の人。顔合わせで会った時には明るく活発そうな人だった。結婚式に向けて色々準備とかあるかと思ってたけど、兄からは参加するだけでいいからと言われていた。衣装も当日会場で借りれるらしく、僕がするのは地元までの交通手段を確保することくらいだった。
「そこでさ、悠人に親族代表としてスピーチしてほしいんだ」
兄は思わぬ爆弾を放り込んできた。
「いや、でも。結婚式にはただ出るだけでいいって」
「そのつもりだったんだけどさ。せっかくの機会だから」
「せっかくの機会って……」
兄の人柄を話そうと思えば話すことはできると思う。
だけど、それを語るにあたって兄が山村留学した時のことを触れざるを得ない。事前に原稿を作れば上手くやり過ごせるかもしれないけど――だけど、家族がそろった場面でその話を出すことには抵抗があった。せっかくのおめでたい場で空気を乱すようなことはしたくない。
「ごめん、碧兄。僕にはできない」
「……そっか」
兄はしばらく空になったマグカップの底を見つめてから、ポツリと頷いた。わざわざ遠くから僕の家までやってきたくらいだからもう少し説得されるかと思ったから、あっさり引き下がってくれたのはちょっと拍子抜けだった。
「いいの?」
「無理やりやらせるものでもないからさ。でも、気が変わったら教えてくれよ。さっきも言ったけど、こんな機会、滅多にないと思うからさ」
兄の言葉に釈然としない思いを抱えながら曖昧に頷く。こんな機会って結婚式のことを指しているのなら二度も三度もあるものではない。兄は何を考えて僕にスピーチなんて提案してきたのだろう。別に僕はそういった舞台で人前に立つのが好きなわけではないし、そもそも人前でスピーチなんて機会がほとんどない。
別に嫌がらせのためというわけではないだろうけど、僕にスピーチをさせたいと考えた理由は見当もつかなかった。
色々と考えを巡らせている間に兄はマグカップにごちそうさまと手を合わせると立ち上がる。
「じゃ、そろそろお暇するよ。明日は実家に帰って色々結婚式の打ち合わせだから。母さんにも悠人は元気にやってるって伝えとく」
「こんな時間だし、泊ってけば?」
「いや、朝一の電車で行くから駅の傍にホテル取ってるんだ。それに、悠人に彼女でもいたら迷惑かかるかと思ったし」
「別に、彼女とかいないから」
「そうなの? 部屋が綺麗だったからてっきり」
「一人暮らし始めてからは整理整頓するようにしてるの!」
楽しそうに笑う兄の背を押して玄関に向かわせる。別に見られて困るようなことはないけど、何となく詮索されるのは嫌だった。別に先月位から部屋をちゃんと片付けるようになったのはバイトとかとは一切関係ない。急に部屋に呼ぶことがあってもいいようにとかは全然考えてないから。
「じゃあ、また。スピーチの件、無理強いするつもりはないけど、もうちょっと考えてみてくれよ」
「わかった。気が変わったら連絡する」
わざわざ訪ねてきてくれた兄への礼儀としてせめて前向きな言葉で見送る。だけど、自分の気が変わるとは思えなかった。
ごめん。碧兄。
ギリギリまで兄の背中を見送って部屋の中に戻ると、罪悪感がしくしくと湧き上がってきた。せっかくの兄の晴れ舞台なのだから希望はできるだけ叶えたいけど、それで結婚式の雰囲気を崩してしまう可能性があるなら、僕はそれを請けるわけにはいかない。
*
「あ、悠人君」
兄が来た翌日、普通に大学には行ったけど午前中の講義には殆ど集中できなかった。習慣のように食堂へと向かう途中の廊下で聞き慣れた声に後ろから話しかけられる。
「雪乃さん」
「お疲れ。今からご飯?」
「うん、そのつもり」
すると雪乃さんは廊下のあちこちをそわそわと見渡した後、もう一度僕を見上げる。
「それなら、一緒にどう?」
雪乃さんの言葉が一拍遅れて頭に届く。
「僕と、ご飯に?」
雪乃さんはギュッと唇を結んだ状態でコクリと頷く。一瞬だけ、悩みとか全部どこかに吹き飛んでいった。
「学食混んでるし、ノースポールでどう?」
学食だとのんびりおしゃべりという感じならないし、せっかくなら雰囲気がいいところで食べたかった。雪乃さんは特に迷うことなく頷いてくれて、二人で学食に向かう列から外れて校内のカフェレストランであるノースポールの方に向かう。
流石に昼時でノースポールも人が多かったけど、テラス席が一つ空いていた。日が照ってるおかげで特に肌寒さも気にならなさそうだ。
「そういえば、学内で雪乃さんと会うのって初めてかも?」
道尾さんの依頼の時にも一度ノースポールで会っていたけど、あれは約束したから別として講義の合間に偶然会うみたいなことはなかったと思う。とりあえず話題づくりのつもりだったけど、雪乃さんは気まずそうに視線を逸らした。
「実は、見かけたことは時々あって」
「え」
「その時は友達と一緒にいたりするから声かけにくくて。それに、私と一緒にいるところ見られたくなかったらって」
雪女。クラスの中で雪乃さんが陰でそう呼ばれているらしいということは恭太から聞いていた。そんなこと僕は気にしない。だけど、僕がどう感じるかよりも雪乃さんがどう感じる方かの方が重要だ。
だから、今日こうやって声をかけてくれたのは雪乃さんが自分を認めることができたとともに、僕のことも認めてくれたということだろう。
「また顔がだらしなくなってる」
「あ、ごめんごめん」
パチンと両手で自分の頬を挟む。いけない。何か雪乃さんの変化の一面を見ると自分のことのように嬉しくなってしまう。だけどあんまりだるんだるんの顔を雪乃さんに見られるわけにもいかないし気をつけよう。
そんな会話をしている間に頼んでいた食事が届けられる。雪乃さんは野菜多めのサンドイッチで僕はシーフードパスタ。これまで飲んだコーヒーの美味しさで期待していたけど、パスタの味も間違いなかった。自然とフォークが進んでいく。
「……それで、何か悩んでるの?」
パスタをある程度食べ進めたところで、不意に雪乃さんが尋ねてきた。何気なく尋ねるというよりは、確信を持って聞いてきている感じ。ノースポールに来てからは雪乃さんとの会話に集中していたつもりだったから、急に核心を突かれたようでドキリとする。
「話し方の間の取り方や表情の動き、言葉の選び方が何かに悩んでいる時と同じ」
雪乃さんは感情を感じるのではなく読み取っているというけど、その一端を垣間見た気がして息を呑むと同時にぐうの音もでないくらいにお手上げだった。
「実は、昨日兄貴が急に訪ねてきてさ。兄貴、来月結婚式を挙げるんだけど、そこでスピーチしてほしいって言われて」
パスタの最後を飲み込んでしまう。さっきまで美味しく感じていたはずがあまり味がしなくなっていた。
「僕がスピーチすると場の空気を壊しかねないから断ったけど、どうして兄貴が急にそんなこと頼んできたのかわからなくて」
兄は思い付きで急にスピーチを頼むようなタイプではない。僕にスピーチを頼んできた理由があるはずだけど、それがわからなかった。兄が何を考えたのか、本当に断ってよかったのか。漠然とした考えがグルグルと巡っている。
「……もしかしたら」
雪乃さんがポツリと呟く。その声は半信半疑といったところだったけど、一瞬空をさ迷った視線がすぐにまた僕のところで焦点を合わせる。
「悠人君。その話、受けた方がいいかもしれない」
「え?」
「お兄さんはもしかしたら、これがいい機会になると思ってるのかも」
いい機会。昨日、兄も「こんな機会」と言っていた。でも、兄の結婚式が僕にとって何の機会になるというのだろう。最後に彼女がどうこうって話もしたけどまさか出会いの場とか言い出すわけじゃないだろうし。
「悠人君たちの家族の歪をなくす機会」
「なっ――」
雪乃さんの言葉をすぐには飲み込めなかった。兄だって当然僕らの家族の間の歪には気づいているし、どうにかしたいとは思っているだろうけど。でも、それをせっかくの晴れ舞台である自分の結婚式でやるなんて。それも、スピーチという形で僕に託そうとしている。俄かには信じられなかった。
「悠人君のお兄さんのこと、悠人君から聞いた範囲でしか知らないけど。でも、誰かのためなら自分の大事なものを差し出すことを躊躇わないタイプだと思うから」
確かに、雪乃さんの言う通りかもしれない。でも、そうだとしてもそれは僕が幼い頃、山村留学に行くということで兄の中に育まれた性質じゃないだろうか。ここでもそれに甘えるのは何か違うのではないか。
「また兄貴を犠牲にすることなんてできない」
「お兄さんは犠牲だなんて思ってはいなさそうだけど」
雪乃さんの声はどこまでも冷静で。その真剣な眼差しに見据えられると、それ以上の反論ができなくなってしまう。小さく頷くと雪乃さんの透明な瞳が微かな熱を帯びた。
「それに、今の悠人君ならお兄さんの想いを叶えることができると思う。言の葉デリバリーで変わったのは、私だけじゃないはずだから」
*
昼よりも激しく思考がグルグルと行き交う感覚を抱えながらバイクを走らせる。雪乃さんの言葉でスピーチを起きるかどうか大きく揺らいだ。揺らいだけれども結論を出すことはできなかった。
思えば、いつもこうやって先送りにしてばかりだったのかもしれない。弁当屋が本格的に再会したらバイトをどうするかとか、家族とのこととか。無意識のうちにアクセルを強く握りしめていてバイクがググっと加速する。風を切る感覚はモヤモヤとしたものを後ろに置いていけるような気がするけど、それでは何も解決にはなっていない。
スピードが上がり過ぎそうになってアクセルを緩める。弁当屋と言の葉デリバリーの二つの看板を背負っておいて、事故とか交通違反を起こすわけにいかない。
深呼吸をする。先送りかどうかはともかく、今はバイトに集中しなければ。今日は秋江さんのところへの配達だった。
「ん、あれって……」
前方からウィンドブレーカーを着た人が走ってくる。その人は僕に気づくと片手をあげた。アクセルを緩めるとその人――道尾さんも近くで足を止める。
「よお、今から仕事か?」
「はい。道尾さんは練習中ですか?」
「今日はオフ日で。LSDっていって長くゆっくり走ってるところだ」
「オフなのに走るんですか?」
「体を全く動かさないより、この方が疲労が抜けるんだよ」
道尾さんは得意げに笑いながら軽く足を振ってみせる。それから急にソワソワと視線を辺りに動かし始めた。つられて周囲を見渡してみるけど、田畑の広がる田舎道にはポツリポツリと車が走っているくらいで僕ら以外には誰もいない。
「あのさ。ちゃんと伝えられてなかったけど……ありがとな」
「えっと……?」
「冬の駅伝、無事に選手に内定したんだ。夏頃にはこんなこと絶対に考えられなかった。お前の朗読を聞いてから、エースとかそういうのいったん全部隅っこに投げ捨てて、昔みたいに好きに走ってみようと思って、それがしっかりハマったんだ。お前がいなかったら、俺はまだ思うように走れないままだったはずだ」
右手で頭の後ろを書きながら道尾さんが笑う。そういえば、恭太も冬の駅伝を走れることになったと言っていた。夏の駅伝の時の二人の約束はきちんと果たされたようで、昨日からずっと不安定だった意識がじんわりと温かくなった。
「御礼なら僕じゃなくて木下さんに伝えてあげてください。僕たちは木下さんからの依頼を受けただけですから」
「あー、それなんだけどさ」
道尾さんは照れくさそうに頬をかく。またキョロキョロと誰もいない周囲を見回した。
「お前は気づいてるだろうから言うけど、冬の駅伝が終わったら、ちゃんと照乃に全部伝えようと思う。昔からずっと気になってたのに、幼馴染だからってうじうじしてる間にあいつに彼氏ができちまって」
自分自身に向けたような呆れ顔を浮かべる道尾さんに僕は一つ頷きを返す。
「色々悩んで、幼馴染兼チームメイトでいいやって思って一度は割り切って。でも、照乃が陸上部を辞めるってなって自分でも驚くくらいダメージ受けて。あいつがどんどん離れていく感じが嫌でたまらなくなって」
道尾さんがふっと一つ息をつく。
「照乃が彼氏を別れた時、もう一度自分の気持ちを自覚した。手を伸ばせばいいんじゃねえかって思ったけど、チームに迷惑をかけてる状態でそんなこと許されないって思うと何もできなくなって、ますます調子が悪くなる悪循環で。今回はお前らのおかげで好きにやろうと思えたけど」
道尾さんはもう一回息をついて、力の抜けて落ち着いた笑みを浮かべる。
「いつかまたそんな風になっちまうくらいなら、今蹴りをつけちまおうと思って。駅伝終わった後ならチームにもそんなに迷惑かけないだろうし。って、突然こんな話しちまって悪いな。誰かに伝えて安心したかったのかも」
「いえ、応援してます」
傍目から見れば木下さんと道尾さんの相性は抜群のように見えるけど、恋愛とかそういう話になれば外側からだけでは見えないものもあるだろう。だけど、二人は一緒にいればお互いに必要とするものを補い合えるんじゃないかと思う。
「もしダメだったら、今度はちゃんと俺から慰めろって依頼するからよろしくな」
そんなことはないと思うけど、断言までは出来なくて同意でも否定でもない曖昧な頷きを返す。
「物語がこんなに何かを変える力をもってるなんて思ってなかった。信じてないやつを変えちまうんだから大したものだよ」
「変われたのは道尾さん自身の力ですよ」
道尾さんを変えたはずの僕は自分を変えられないでいるんです。そんな言葉は飲み込んだ。
「ありがとな。でも、一番難しいのは止まっているところから動き出すところだと思うんだ。現実と一緒でそこが一番エネルギーが必要でさ。だから、背中を押してくれたことは本当に感謝してる」
そこまで言って道尾さんはまた照れくさそうに頭をかいた。
「仕事中に引き留めて悪いな。この前は照乃がいたから話しにくかったけど、いつかちゃんとお礼を言いたかったんだ」
じゃあ、と軽く手を振って道尾さんは再び走り出した。ゆっくり走ると言いながらあっという間に小さくなる道尾さんをしばらく見送って、僕もアクセルを握りしめる。
動き出すところが一番エネルギーがいる。本当にその通りだ。何かを先送りにするということはそれだけのエネルギーがないか、エネルギーをかけても徒労に終わることを恐れるってことなのかもしれない。
アクセルを回すと緩やかにバイクが走り出す。雪乃さんの言うことがその通りなら、兄からの提案は紛れもないきっかけだ。だけど、僕は走り出していいのか未だに怖がったままでいる。
*
「こんにちは、言の葉デリバリーです」
秋江さんの家のドアをノックして声をかけると、どうぞ、というおなじみの声が返ってくる。この数か月ですっかり勝手を知った家の中を居間へと向かうと、ローテーブルのいつもの位置に秋江さんが座っていた。
だけど、少し部屋に違和感を覚える。心なしかいつもより部屋が雑然としているような気がした。別に散らかっているって程ではないけど、普段はお孫さんの遊具を除けば綺麗に片付けられている部屋のちょっとした変化は何だかとても大きく感じた。
思わず立ち止まったまま部屋をジロジロと見てしまっていて、ハッと我に返って秋江さんを見ると目を丸くして僕を見ていた。それから、困ったようにしながらくしゃりと表情を崩す。
「さすがだねえ。悠人さんにはバレちゃう気はしてたけど」
「何か、あったんですか?」
秋江さんは軽く目を閉じるとゆっくりと息を吐き出す。
「別に大したことはないんだけどね。また娘と喧嘩して」
娘とは時々喧嘩する、ということをかつて秋江さんは語っていた。これまで秋江さんの家に来て寂しそうにしていることはあってもこんな風に元気が無いのは初めてだった。もちろん言の葉デリバリーに依頼する人はどこかしら心の不調を抱えていたりするのだけど、常連の秋江さんのいつもと違う不調は心配になる。
「娘さんからなんて言われたんですか?」
朗読に入る前にその原因を探る。それによって物語の読み方に変化をつけたり、物語が噛み合っていなければ出直すこともある。その点においては、僕は夏希さんより感度がいいらしい。最もその評価をしたのは夏希さんだからお世辞込みだろうけど。
でも、少なからず僕にそんな能力があるとすれば。それは雪乃さんが生きていく手段としてその能力を会得したように、僕は兄に気をつかう親の様子を探り続けることで身に着けてしまった力なのかもしれない。
「今年の正月はもう帰らない、なんて言われちゃってね」
秋江さんが力なく息をつく。ああ、それは。
年末にお孫さんと会うことを生きがいにしてきた秋江さんにとってそれは大きすぎる言葉だろう。物語で一時的に気持ちを持ち直してもらうことはできるかもしれないけど、対処療法にしかならないかも。それよりは根本の原因をどうにかした方がいいだろう。
「娘さんとの喧嘩はいつですか?」
「三日前くらいかしら」
「一体何が原因で喧嘩を」
「それは……」
それまでサクサクと答えていた秋江さんが言いよどむ。部外者には話しにくいことなのだろうか。家族の中の問題を他人に知られたくないという気持ちは僕自身よくわかっているつもりだけど、それでもなんとかできる可能性がある以上、どうにか教えてほしい。
説得すべく口を開きかけたところで、玄関の方からガタガタと音がする。そのままスパーンとドアが開かれバタバタと誰かが上がってくる気配。とっさに身構えて振り返ると、秋江さんによく似た女性が立っていた。最も、秋江さんより二回りほど若く見える。
「お母さん!」
「晴美じゃないかい。どうしてここに?」
「どうしてって、お母さんが三日間うんともすんとも連絡返さないからでしょ!」
入ってきた女性――晴美さんは激しい剣幕で言い返す。でもそれは怒っているわけではなくて、乱れた髪だったり荒れた息だったり、急いで駆けつけてきたことが見るからにわかった。
「だって、それは晴美が……」
「正月に帰ってこないなんて、本当にできるわけないに決まってるじゃない! 月華がおばあちゃんに会うの楽しみってずっと言い続けてるのに、つまらない意地はって帰らないわけないじゃない……!」
晴美さんの言葉の最後は胸の奥の方から絞り出すようだった。
秋江さんは目を丸くして晴美さんを見つめ、それからクスクスと堪えるようにしながら笑い出す。
「そう、そうかい」
「ちょっと、何笑ってるの! 私がどんな思いでここまで来たか……」
「ねえ、晴美。そういえば私たちなんで喧嘩したんだっけ」
「なんでってそりゃあ……」
そこまで言いかけて、晴美さんが言葉に詰まった。その様子をみた秋江さんがいよいよ大きな声で笑い始める。
「ねえ、おかしいでしょう、悠人さん。私たち、二人して喧嘩の理由を覚えてないんだよ」
そんなまさか。だけど、晴美さんは戸惑った顔のまま秋江さんの言葉を否定しない。どうやら秋江さんの言っていることは本当らしい。喧嘩した理由を忘れるって、それだけ些細なことだったのか。逆に理由が気になってくるけど、いずれにしても楽しそうに笑う秋江さんの様子にほっと息をつく。
そこで初めて晴美さんは僕の存在を意識したようだった。
「そういえば、どちら様?」
「この前電話で話したけど、近くの学生さんで時々お話をしてもらいに来ているの」
「あらあら、それは。母がお世話になっています」
おもむろに我に返ったように晴美さんが膝をついて、慌てて僕も正座で頭を下げる。
「ああ、そうだ。せっかくだから晴美も聞いていきなさいよ。すごいんだから」
「なんでお母さんが得意げなのよ……。すみませんね。でも、お願いできるかしら?」
母娘のやり取りに若干気圧されつつも、促されるまま僕は冊子を取り出す。今日持ってきた物語は家族の再会に関する話だった。今の秋江さん達にピッタリかもしれない。そして、それ以上にそれは雪乃さんから僕へのメッセージのようにも感じた。
*
バイトを終えて家に帰ると、壁に背を預けてしゃがみ込みゆっくりと息を吐き出す。
秋江さんの家での朗読は無事に終わった。朗読する頃には問題は解決していたわけだけど、秋江さんも晴美さんも朗読を喜んでくれて充実感とともに帰ってきた。
だけど、先延ばししてきたものといい加減向き合わなければならない。僕の僕自身の家族のこと。
――一番難しいのは、止まっているところから動き出すことだ。
それは道尾さんが自分自身に向けて言ったであろう言葉。だけど、その言葉は深く耳の中に残っていた。
それならば僕はいつから立ち止まってしまっているのだろう。どれだけの間目をつぶり膝を抱えてしゃがみ込んでいたのだろう。
秋江さん母娘みたいにあっけらかんと仲直りする道もずっと昔にあったはずなのに。
雪乃さんの言う通り兄が僕にスピーチを頼んだことが僕の背を押しているのだとしても、ドロドロの深い沼に沈み込んでいる足を引き抜くにはもう一押しが必要だった。
ゆっくりと深呼吸をして、スマホを手に取る。今度は躊躇いなく発信ボタンをタップする。
「もしもし?」
少し夜遅い時間だったけど、雪乃さんは直ぐに電話に出てくれた。電話の向こうから小さくカタカタと音がするけど何か作業中なのだろうか。
「こんな時間にごめん。一つお願いがあるんだ」
「何?」
もう一度息を吸う。
「僕の為に物語を書いてほしいんだ。兄貴の結婚式でスピーチするための話を」
自分の兄弟の結婚式で話す内容を人に書いてもらう。傍から見たらそれはおかしいことだろう。だけど、不思議と断られる気はしなかった。
雪乃さんからすぐに返事はない。やがて少し呆れたように息をつく音が聞こえた。
「もう書いてる」
カタカタカタカタ。
雪乃さんの声に続いて聞こえてきたのはすっかり耳に馴染んだ小気味のいい音。
体からゆるゆると力が抜ける。スマホを持つのと反対の手で頭を覆う。
もう書いてる。雪乃さんのことを傍で支えるとか偉そうなこと言ったけど、まるで敵いっこない。
「悠人君なら、きっとそうするだろうって」
泥沼の真ん中で座り込む僕を、ぐっと雪乃さんが引き上げてくれる。雪乃さんが物語を書いてくれているのに、今更後になんて退けっこない。小気味のいいタイプ音は僕の手を引くとともに、やや荒っぽく僕の背中を押してくれた。
「ありがとう」
「お礼を言われるのはまだ早いから」
「それでも、ありがとう。雪乃さんがいてくれてよかった」
ピタリとタイプ音が止まる。それと同時に時間が止まったかのような沈黙。
少し浅い息遣いだけが雪乃さんが変わらず電話の向こうにいることを感じさせてくれる。
しばらく待ってみたけど、雪乃さんからの返事はなかった。
「雪乃さん?」
尋ねてみると、時が動き出したようにバタバタと音が聞こえる。
「と、とにかく。今日中に書き上げるから、また明日のお昼にノースポールで」
雪乃さんはどこか慌てた様子でそう言い切ると電話を切ってしまった。
胸の奥に溜まっていた息を吐き出し、スマホをギュッと握りしめる。これでもう大丈夫。
籠った熱が消えていくまで祈るように握り続けてから、もう一度画面に触れる。
さっきとは違う番号に電話をかけると、こちらもすぐに出てくれた。
「もしもし、碧兄。結婚式のスピーチのことだけどさ――」
*
人生で初めて結婚式というものに出たけど、兄と新婦――彩香さん――は同じ職場ということもあって披露宴は新郎新婦の友人や同僚が来客のメインという感じで、僕は会場端の親族席で初めて食べるようなお洒落な料理に舌鼓を打ちながら進行を見守っていた。
噂には聞いていたけど本当に三つの袋の話をするんだとなんだか感心したり、フォトムービーでは兄と彩香さんの生い立ちから、出会ってから婚約までの様子に僕の知らない兄の表情を数多く見つけた。彩香さんと一緒にいる時の兄の顔は真面目を繕ってるけど完全に蕩けている。
職場の同僚の人たちの余興やケーキ入刀を終えると、いよいよ僕の出番が近づいてくる。大学の入学式振りに来たスーツの内ポケットを確かめる。スピーチの原稿に指が触れると少しだけ落ち着いた。
「さて、それではご親族の方たちからのメッセージです! まずは新郎のご家族から弟の悠人さんから兄の碧さんへ、よろしくお願いします!」
司会進行とともに会場が暗くなり、スポットライトが僕を照らした。スタッフが椅子を引いてくれたのと合わせて立ち上がり、事前に聞いていた場所へと向かう。会場中の人たちの視線が集中して胃の辺りがぎゅうっと絞られる。これだけの人に注目される機会なんてこれまでなかったからか、緊張で今度は胃がせり上がってきそうだった。
落ち着け。一番態度が悪かった時の道尾さんを思い出せ。ほら、それに比べれば今日は皆味方だ。小さく息をついて兄を見ると、兄はゆっくりと笑みを浮かべて大きく頷いた。
「碧兄、彩香さん。結婚おめでとうございます。また、会場の皆さん、本日は盛大なお祝いをありがとうございます。今日はこの場をお借りして皆さんに少しだけ僕たちの家族のことを紹介したいと思います」
そこまでを話すと、内ポケットからこれまで何度も手に取ってきた白い無地の冊子を取り出す。
「僕は今、言の葉デリバリーというところで言葉を運ぶアルバイトをしています。そこで、今日はその朗読の形で家族の紹介と、碧兄へのメッセージを伝えます」
それまで見守っていた視線に戸惑いが混ざりざわめきが起こる。わかっていたことだけど、それに気圧されそうになりつつ冊子を開く。
――頑張れ。
冊子の1ページ目の裏側に手書きでかきこまれた一言。思えば、僕の朗読は雪乃さんのその言葉から始まった。
その文字を撫でると不思議といつもの言の葉デリバリーの事務所にいるような温かな気配に満たされた。軽く目を閉じその物語のイメージを脳裏に浮かべる。
「僕の記憶の古い部分に残っているのは、大きくなった兄の姿への驚き」
その一言ですっと会場が静かになる。言葉が染みていくのを待ってからゆっくりと言葉を紡いでいく。
「昔は泣き虫だった、と聞いたのは後になってからだったけど、最後に見た時より大きく強くなっていた。今振り返れば、大人になった、というのがぴったりだったのかもしれない。2年間の山村留学から帰ってきた兄はまるで別人にも見えた」
雪乃さんが書き上げたのは在りし日の僕の物語。滝を見た日に話したことを元に雪乃さんが書いたものを二人でギリギリまで練り上げた。
かつて見上げた兄の背中を今でもよく覚えている。僕のせいで2年間も知らない場所で過ごすことになったと怒られるかと不安だった僕の頭を、笑いながらくしゃりと撫でた兄の姿も。
「『元気になってよかった』と兄は僕の頭を撫でる。『ごめんね』ようやく口から出てきた言葉に兄は首を横に振った。『僕が見た広く綺麗な世界をいつか悠人にも見せてあげる』混じりっ気のない表情で兄はニコニコと笑っていた」
冊子から顔をあげて兄を見る。兄は少し照れくさそうにしながらあの日笑みを浮かべていた。
「それが僕の原点だった。兄に付き合って登山にも行ったし、大学に入って弁当屋でバイトもしてみた。登山は肌に合わなかったし、弁当屋は料理が上手くいかなくてデリバリーの担当になったけど」
それが巡り廻って僕を言の葉デリバリーに導いてくれるのだから、本当に何がどこに繋がっているのかわからない。
冊子のページをめくり、一度目を閉じて深呼吸。さあ、ここからが本番だ。
「兄のようになりたいと思うほど、兄との違いを思い知った。登山とか料理だけじゃなく、何をやっても兄のように上手くできない。そのことに気づくと、家の中が急に息苦しくなった」
ザワリ、と会場の雰囲気がまた蠢く。その気配は僕の背中側にいる親族――父と母からも感じた。
「2年間の山村留学に兄を行かせたことを両親が罪悪感を抱いていることにはいつの頃からか気づいていた。いつからか、そのこともまた僕の精神を少しずつ蝕んでいた。いつまでも届かない兄の大きさと、僕が原因で兄を知らない土地に追いやった罪悪感。息苦しさに耐えられなくなった僕は実家から遠い大学を選び高校卒業とともに家を出た」
9ヶ月ほど前に家を離れたその日、ずっと背中にこべりついた重みが剥がれ落ちたような気がした。これで息苦しさから解き放たれたと安堵していた。
「家から遠く離れた大学に入学した僕はこれで何かが変わると漠然と考えていた。だけど、僕がどれだけ恵まれていたのか思い知らされただけだった。一人暮らしして、大学に行って、バイトをして。自分の面倒を見るだけでもいっぱいいっぱいで。兄はそれに加えて僕の面倒を見てくれていたし、両親は仕事でどれだけ忙しくても病気がちの僕に愚痴一つ零さなかった」
僕が感じていた息苦しさは、結局僕に注がれていた愛情を上手く処理できていなかったのだと、今になってようやく気付いた。木下さんは物語を通じて自分の感情を受け入れたように。
僕が目指すべきは兄でも誰でもなく僕自身でいいのだと信じることができた。道尾さんが自分の好きに走って調子を取り戻していったように。
秋江さん母娘みたいに気安い関係であり続けたいと、願えるようになった。
「自分が目を背けてきたものにようやく気付いた時には遅かった。今更どうやってあの頃に帰ってやり直せばいいのかわからなくなっていた。ありがとうとかごめんとか、それだけの言葉ですらとてつもない重荷になっていた」
かつて感じていた息苦しさや兄を追いかけた自分がいたから今の僕がいる。だから、僕は雪乃さんの書いた冊子を持って今ここにいる。
冊子を閉じる。ここからは僕の想いが色づいた言の葉。
「一人身動きをとれなくなった僕を引き上げてくれたのは、碧兄でした。碧兄のおかげで僕はいまここで想いを言の葉に託すことができました。やっぱり碧兄は僕にとっては手が届かないほど大きくて、自慢の兄です」
視界の先の兄が滲む。声が震える。
「改めて、結婚おめでとう。彩香さん、兄は時折頑張りすぎることがあるので、その時は引っ叩いてでも止めてあげてください。二人の幸せな未来を祈念して、僕からのメッセージとします」
兄と彩香さんに向かって一礼する。
会場はしんと静まりかえっていた。それくらい無茶なスピーチをしたと思う。結婚式にはてんでふさわしくない内容だった。
――パチパチパチ。
拍手の音。兄が手を叩きながら立ち上がる。その顔には笑み。
「ありがとう、悠人」
よく通る声で語り掛けた兄はそれからマイクを手に取った。
「悠人が話してくれた通り、僕は二年間山村留学に行っていました。そこで出会ったのが彩香です」
兄は隣に座る彩香さんの手を差し出し、彩香さんは兄に寄り添うように立ち上がった。
「悠人に少しでも旨いものを食べさせてやりたくて、弁当屋のキッチンスタッフのバイトをしました。そのおかげで同僚になった彩香の胃袋を掴むことができました」
兄はちらっと隣の彩香さんを見てからニッと笑う。そんな兄を彩香さんが慌てて止めようとするけど、兄は小さく舌を出してやり過ごした。
「父さんや母さん、悠人が負い目を持っていたことに気づいていながら、どうすることもできませんでした。だから、今日悠人に話してもらうことで僕からも伝えたかったんです」
兄はマイクを置いて僕のすぐ前まで歩いてくる。僕よりずっと高いと思っていた兄の顔がすぐ目の前にあった。
「悠人がいてくれたから、今の僕はここにいる。悠人にそんなつもりはなかったかもしれないけど、僕は悠人がいるから頑張ってこれた。だから、僕の弟でいてくれてありがとう。父さん、母さん、悠人と僕をここまで育ててくれてありがとう」
兄の最後の声は微かに震えていた。でも、そんな兄の姿は滲んで全然よく見えなくて、次の瞬間にはその胸に抱き寄せられた。
「ありがとう。それからおめでとう。これからは碧兄自身の為に幸せになって」
頭の上に兄の手が置かれる。久しぶりの温かくて大きな手。
「ありがとう、悠人」
電話の向こうから聞こえてくる弁当屋の店主の声は入院していた頃よりずっと元気そうだった。その声に安心しつつ、ちょっとだけ緊張している自分がいた。
「お久しぶりです。元気そうですね」
「おお。お医者さんからも経過は順調って言われれてな。12月になったら少しずつ弁当屋も再開しようと思うんだ」
その言葉に緊張感がすっと高まる。元々言の葉デリバリーで働き始めたのは、それまでのバイト先であった弁当屋が休業状態になってしまったことも一つの理由だった。今はほとんど毎日言の葉デリバリーで働いてるけど、弁当屋が再開したらどうするか決め切れていなかった。
「まあ、いきなり無理すんなって口酸っぱく言われててな。まずは店頭でやれる分だけにしようと思ってる。だから、バイクはまだしばらく使ってていいぞ」
店主の言葉と気遣いに強張っていた体から力が抜ける。別に問題が解決したわけじゃなくて、弁当屋の宅配が再開すれば身の振り方を考えなければいけないけど、とりあえずは明日からもこれまで同様言の葉デリバリーで働ける。
「むしろ、バイク使ってくれてて感謝してんだ。お前、うちの弁当屋のロゴそのままで乗っててくれてるだろ。それで、休業しててもそれを見かけて連絡してくれている常連さんがいてな。とっとと元気にならなきゃなってやってこられた」
言の葉デリバリーの宅配手段として弁当屋のバイクを借りていたけど、荷台部分の弁当屋のロゴはそのままにしていた。その効果とかを考えていたわけじゃなくて、借りているバイクのロゴを隠したりするのは違うだろうと思ったからだけど、期せずして宣伝になっていたのか。
「言の葉デリバリー、だっけ。俺もそのうち頼んでみっかな」
「是非。心を込めてお届けしますよ?」
「おう。楽しみにしてる」
ガハハと豪快に笑った店主に改めてバイクを借りてるお礼を伝え、電話を終える。
顔をあげると、不安と緊張が入り混じった目で夏希さんと雪乃さんがこちらを見ていた。今日の宅配を終えてそろそろ解散というときに店主からかかってきた電話にいつの間にか事務所の空気が張り詰めていた。
「弁当屋は再開するけど、しばらくは店頭だけで販売するようなのでバイクは借りてていいそうです」
二人とも僕がどうなるかを気にしてくれているんだろうけど、ちょっと気恥しくてバイクのことにして伝える。夏希さんが安堵の息をついて、部屋の空気が緩んだ。
「よかったあ。ね、鈴ちゃん?」
「なんで私に振るの?」
「別にー。ただ、心配そうにじっと見てたから気になってるのかなって」
「最近注文増えてるし、夏希一人だと宅配が大変だなって思っただけだから」
雪乃さんの言葉に夏希さんがニッと笑う。とととっと僕の傍に寄ってくるとわざとらしく僕の手を取った。
「ふうん。私は“悠人君”がまだまだ残ってくれしいけどなー」
僕の名前をそれらしく呼びながら僕の手を握る夏希さんに対し、雪乃さんはムッとした視線をなぜか僕の方に向けるとプイっと顔を背けてしまう。
言の葉デリバリーの夏休みから一ヶ月ほどがたち11月になると、しつこく残っていた暑さも鳴りを潜め、一気に冬の気配を漂わせるようになっていた。
雪乃さんの言う通り、僕が入った頃より宅配の注文は増えていた。元々新規よりは常連の人のリピートの方がメインだったけど、最近はそのリピートの頻度も高くなっている。理由をちゃんと聞いたことはないけど、もしかしたら雪乃さんの物語の変化もあるのかもしれない。
「わわっ、鈴ちゃん。拗ねないでよー」
「拗ねてないっ!」
夏希さんはパッと僕の手を離すと、今度は雪乃さんを後ろからギュッと抱きしめる。雪乃さんは迷惑そうな顔をしつつも抵抗せずに夏希さんにされるがままにされていた。
夏休み以降、物語も雪乃さん自身もどこか柔らかくなったと思う。元々夏希さんと雪乃さんの間には通じているようなものを感じていたけど、最近は更に親密な感じになったと思うし、僕と雪乃さんの間も――。
「悠人君。顔がだらしない」
雪乃さんからピシャリと言葉が飛んでくる。雪乃さんが僕に張っていた壁みたいなものがなくなったと思うと同時に、なんだか容赦もなくなったような気がする。だけど、それさえも何だか信頼されているように感じられた。
「なんで、さらにだらしなくなるの」
いけない。ペチペチと頬を叩いて真面目な顔を作ってみる。だけど、雪乃さんから向けられたのはどことなくじとっとした視線だった。
そんな僕らを夏希さんがニコニコと眺めたりしながら、今日もいつものように仕事を終えた。
*
バイトを終えて家に戻ると、部屋の前に誰かが立っていた。アパートの共用通路部分でスマホを眺めていた男性は僕に気づくと気安い感じで手を振ってくる。
「やっ。久しぶりだね、悠人」
「……碧兄?」
そこに立っていたのは、田野瀬碧。紛れもなく僕の兄だった。
大学までは実家にいた兄も就職を機に家を出た。正月には顔を合わせてるから最後に会ってから約1年といったところだけど、大学に入ってから色々あったせいか随分久しぶりに会ったような気がする。
「どうしてここに?」
「最近悠人と連絡がつかないって、母さんが」
「それだけでここまで? あー、とりあえず上がってく?」
「ん、悪いね」
部屋は以前よりちゃんと片付けるようにしているとはいえ雑然としているけど、どうせ兄だからと気にせず部屋に案内する。学生用の手狭なワンルームの中心のテーブルにとりあえず腰掛けてもらい、インスタントコーヒー二つを手に向かい合って座る。
スーパーで買い置きしていた安物のコーヒーだけど、兄はそれを美味しそうに飲んでいく。
「大学生活は順調? 弁当屋が休みになって、言葉を届けるバイトしてるんだっけ」
「うん、新しいバイトもそれなりに上手くやってるよ」
「そっか、よかった」
兄がホッと笑顔を零す。本当に僕の様子を見に来ただけなのだろうか。でも、そのために夜にわざわざこうして尋ねてくるだろうか。
「それを聞くためだけだったら電話でもよかったのに。来るにしたって、事前に言ってくれれば待たせることもなかったし」
「事前に知らせて、逃げられたらいやだなって」
「なんで碧兄から逃げなきゃいけないのさ」
僕が兄から逃げるような人間だと思われてるならそれは少し心外だった。家族の中では色々あるけど、兄のことは信頼してるし兄弟として仲のいい方だとも感じている。
だけど、兄は僕の言葉に曖昧に笑って頷くだけだった。やっぱり、近況を聞く以外に目的があるのだろうか。それも、僕にとってあまりよくない類の。兄はインスタントコーヒーを飲み終えると軽く息をついた。
「結婚式、来月だろ?」
「うん。流石にそこには顔出すよ」
兄は来月結婚式を挙げる。相手は彩香さんという兄の職場の同僚の人。顔合わせで会った時には明るく活発そうな人だった。結婚式に向けて色々準備とかあるかと思ってたけど、兄からは参加するだけでいいからと言われていた。衣装も当日会場で借りれるらしく、僕がするのは地元までの交通手段を確保することくらいだった。
「そこでさ、悠人に親族代表としてスピーチしてほしいんだ」
兄は思わぬ爆弾を放り込んできた。
「いや、でも。結婚式にはただ出るだけでいいって」
「そのつもりだったんだけどさ。せっかくの機会だから」
「せっかくの機会って……」
兄の人柄を話そうと思えば話すことはできると思う。
だけど、それを語るにあたって兄が山村留学した時のことを触れざるを得ない。事前に原稿を作れば上手くやり過ごせるかもしれないけど――だけど、家族がそろった場面でその話を出すことには抵抗があった。せっかくのおめでたい場で空気を乱すようなことはしたくない。
「ごめん、碧兄。僕にはできない」
「……そっか」
兄はしばらく空になったマグカップの底を見つめてから、ポツリと頷いた。わざわざ遠くから僕の家までやってきたくらいだからもう少し説得されるかと思ったから、あっさり引き下がってくれたのはちょっと拍子抜けだった。
「いいの?」
「無理やりやらせるものでもないからさ。でも、気が変わったら教えてくれよ。さっきも言ったけど、こんな機会、滅多にないと思うからさ」
兄の言葉に釈然としない思いを抱えながら曖昧に頷く。こんな機会って結婚式のことを指しているのなら二度も三度もあるものではない。兄は何を考えて僕にスピーチなんて提案してきたのだろう。別に僕はそういった舞台で人前に立つのが好きなわけではないし、そもそも人前でスピーチなんて機会がほとんどない。
別に嫌がらせのためというわけではないだろうけど、僕にスピーチをさせたいと考えた理由は見当もつかなかった。
色々と考えを巡らせている間に兄はマグカップにごちそうさまと手を合わせると立ち上がる。
「じゃ、そろそろお暇するよ。明日は実家に帰って色々結婚式の打ち合わせだから。母さんにも悠人は元気にやってるって伝えとく」
「こんな時間だし、泊ってけば?」
「いや、朝一の電車で行くから駅の傍にホテル取ってるんだ。それに、悠人に彼女でもいたら迷惑かかるかと思ったし」
「別に、彼女とかいないから」
「そうなの? 部屋が綺麗だったからてっきり」
「一人暮らし始めてからは整理整頓するようにしてるの!」
楽しそうに笑う兄の背を押して玄関に向かわせる。別に見られて困るようなことはないけど、何となく詮索されるのは嫌だった。別に先月位から部屋をちゃんと片付けるようになったのはバイトとかとは一切関係ない。急に部屋に呼ぶことがあってもいいようにとかは全然考えてないから。
「じゃあ、また。スピーチの件、無理強いするつもりはないけど、もうちょっと考えてみてくれよ」
「わかった。気が変わったら連絡する」
わざわざ訪ねてきてくれた兄への礼儀としてせめて前向きな言葉で見送る。だけど、自分の気が変わるとは思えなかった。
ごめん。碧兄。
ギリギリまで兄の背中を見送って部屋の中に戻ると、罪悪感がしくしくと湧き上がってきた。せっかくの兄の晴れ舞台なのだから希望はできるだけ叶えたいけど、それで結婚式の雰囲気を崩してしまう可能性があるなら、僕はそれを請けるわけにはいかない。
*
「あ、悠人君」
兄が来た翌日、普通に大学には行ったけど午前中の講義には殆ど集中できなかった。習慣のように食堂へと向かう途中の廊下で聞き慣れた声に後ろから話しかけられる。
「雪乃さん」
「お疲れ。今からご飯?」
「うん、そのつもり」
すると雪乃さんは廊下のあちこちをそわそわと見渡した後、もう一度僕を見上げる。
「それなら、一緒にどう?」
雪乃さんの言葉が一拍遅れて頭に届く。
「僕と、ご飯に?」
雪乃さんはギュッと唇を結んだ状態でコクリと頷く。一瞬だけ、悩みとか全部どこかに吹き飛んでいった。
「学食混んでるし、ノースポールでどう?」
学食だとのんびりおしゃべりという感じならないし、せっかくなら雰囲気がいいところで食べたかった。雪乃さんは特に迷うことなく頷いてくれて、二人で学食に向かう列から外れて校内のカフェレストランであるノースポールの方に向かう。
流石に昼時でノースポールも人が多かったけど、テラス席が一つ空いていた。日が照ってるおかげで特に肌寒さも気にならなさそうだ。
「そういえば、学内で雪乃さんと会うのって初めてかも?」
道尾さんの依頼の時にも一度ノースポールで会っていたけど、あれは約束したから別として講義の合間に偶然会うみたいなことはなかったと思う。とりあえず話題づくりのつもりだったけど、雪乃さんは気まずそうに視線を逸らした。
「実は、見かけたことは時々あって」
「え」
「その時は友達と一緒にいたりするから声かけにくくて。それに、私と一緒にいるところ見られたくなかったらって」
雪女。クラスの中で雪乃さんが陰でそう呼ばれているらしいということは恭太から聞いていた。そんなこと僕は気にしない。だけど、僕がどう感じるかよりも雪乃さんがどう感じる方かの方が重要だ。
だから、今日こうやって声をかけてくれたのは雪乃さんが自分を認めることができたとともに、僕のことも認めてくれたということだろう。
「また顔がだらしなくなってる」
「あ、ごめんごめん」
パチンと両手で自分の頬を挟む。いけない。何か雪乃さんの変化の一面を見ると自分のことのように嬉しくなってしまう。だけどあんまりだるんだるんの顔を雪乃さんに見られるわけにもいかないし気をつけよう。
そんな会話をしている間に頼んでいた食事が届けられる。雪乃さんは野菜多めのサンドイッチで僕はシーフードパスタ。これまで飲んだコーヒーの美味しさで期待していたけど、パスタの味も間違いなかった。自然とフォークが進んでいく。
「……それで、何か悩んでるの?」
パスタをある程度食べ進めたところで、不意に雪乃さんが尋ねてきた。何気なく尋ねるというよりは、確信を持って聞いてきている感じ。ノースポールに来てからは雪乃さんとの会話に集中していたつもりだったから、急に核心を突かれたようでドキリとする。
「話し方の間の取り方や表情の動き、言葉の選び方が何かに悩んでいる時と同じ」
雪乃さんは感情を感じるのではなく読み取っているというけど、その一端を垣間見た気がして息を呑むと同時にぐうの音もでないくらいにお手上げだった。
「実は、昨日兄貴が急に訪ねてきてさ。兄貴、来月結婚式を挙げるんだけど、そこでスピーチしてほしいって言われて」
パスタの最後を飲み込んでしまう。さっきまで美味しく感じていたはずがあまり味がしなくなっていた。
「僕がスピーチすると場の空気を壊しかねないから断ったけど、どうして兄貴が急にそんなこと頼んできたのかわからなくて」
兄は思い付きで急にスピーチを頼むようなタイプではない。僕にスピーチを頼んできた理由があるはずだけど、それがわからなかった。兄が何を考えたのか、本当に断ってよかったのか。漠然とした考えがグルグルと巡っている。
「……もしかしたら」
雪乃さんがポツリと呟く。その声は半信半疑といったところだったけど、一瞬空をさ迷った視線がすぐにまた僕のところで焦点を合わせる。
「悠人君。その話、受けた方がいいかもしれない」
「え?」
「お兄さんはもしかしたら、これがいい機会になると思ってるのかも」
いい機会。昨日、兄も「こんな機会」と言っていた。でも、兄の結婚式が僕にとって何の機会になるというのだろう。最後に彼女がどうこうって話もしたけどまさか出会いの場とか言い出すわけじゃないだろうし。
「悠人君たちの家族の歪をなくす機会」
「なっ――」
雪乃さんの言葉をすぐには飲み込めなかった。兄だって当然僕らの家族の間の歪には気づいているし、どうにかしたいとは思っているだろうけど。でも、それをせっかくの晴れ舞台である自分の結婚式でやるなんて。それも、スピーチという形で僕に託そうとしている。俄かには信じられなかった。
「悠人君のお兄さんのこと、悠人君から聞いた範囲でしか知らないけど。でも、誰かのためなら自分の大事なものを差し出すことを躊躇わないタイプだと思うから」
確かに、雪乃さんの言う通りかもしれない。でも、そうだとしてもそれは僕が幼い頃、山村留学に行くということで兄の中に育まれた性質じゃないだろうか。ここでもそれに甘えるのは何か違うのではないか。
「また兄貴を犠牲にすることなんてできない」
「お兄さんは犠牲だなんて思ってはいなさそうだけど」
雪乃さんの声はどこまでも冷静で。その真剣な眼差しに見据えられると、それ以上の反論ができなくなってしまう。小さく頷くと雪乃さんの透明な瞳が微かな熱を帯びた。
「それに、今の悠人君ならお兄さんの想いを叶えることができると思う。言の葉デリバリーで変わったのは、私だけじゃないはずだから」
*
昼よりも激しく思考がグルグルと行き交う感覚を抱えながらバイクを走らせる。雪乃さんの言葉でスピーチを起きるかどうか大きく揺らいだ。揺らいだけれども結論を出すことはできなかった。
思えば、いつもこうやって先送りにしてばかりだったのかもしれない。弁当屋が本格的に再会したらバイトをどうするかとか、家族とのこととか。無意識のうちにアクセルを強く握りしめていてバイクがググっと加速する。風を切る感覚はモヤモヤとしたものを後ろに置いていけるような気がするけど、それでは何も解決にはなっていない。
スピードが上がり過ぎそうになってアクセルを緩める。弁当屋と言の葉デリバリーの二つの看板を背負っておいて、事故とか交通違反を起こすわけにいかない。
深呼吸をする。先送りかどうかはともかく、今はバイトに集中しなければ。今日は秋江さんのところへの配達だった。
「ん、あれって……」
前方からウィンドブレーカーを着た人が走ってくる。その人は僕に気づくと片手をあげた。アクセルを緩めるとその人――道尾さんも近くで足を止める。
「よお、今から仕事か?」
「はい。道尾さんは練習中ですか?」
「今日はオフ日で。LSDっていって長くゆっくり走ってるところだ」
「オフなのに走るんですか?」
「体を全く動かさないより、この方が疲労が抜けるんだよ」
道尾さんは得意げに笑いながら軽く足を振ってみせる。それから急にソワソワと視線を辺りに動かし始めた。つられて周囲を見渡してみるけど、田畑の広がる田舎道にはポツリポツリと車が走っているくらいで僕ら以外には誰もいない。
「あのさ。ちゃんと伝えられてなかったけど……ありがとな」
「えっと……?」
「冬の駅伝、無事に選手に内定したんだ。夏頃にはこんなこと絶対に考えられなかった。お前の朗読を聞いてから、エースとかそういうのいったん全部隅っこに投げ捨てて、昔みたいに好きに走ってみようと思って、それがしっかりハマったんだ。お前がいなかったら、俺はまだ思うように走れないままだったはずだ」
右手で頭の後ろを書きながら道尾さんが笑う。そういえば、恭太も冬の駅伝を走れることになったと言っていた。夏の駅伝の時の二人の約束はきちんと果たされたようで、昨日からずっと不安定だった意識がじんわりと温かくなった。
「御礼なら僕じゃなくて木下さんに伝えてあげてください。僕たちは木下さんからの依頼を受けただけですから」
「あー、それなんだけどさ」
道尾さんは照れくさそうに頬をかく。またキョロキョロと誰もいない周囲を見回した。
「お前は気づいてるだろうから言うけど、冬の駅伝が終わったら、ちゃんと照乃に全部伝えようと思う。昔からずっと気になってたのに、幼馴染だからってうじうじしてる間にあいつに彼氏ができちまって」
自分自身に向けたような呆れ顔を浮かべる道尾さんに僕は一つ頷きを返す。
「色々悩んで、幼馴染兼チームメイトでいいやって思って一度は割り切って。でも、照乃が陸上部を辞めるってなって自分でも驚くくらいダメージ受けて。あいつがどんどん離れていく感じが嫌でたまらなくなって」
道尾さんがふっと一つ息をつく。
「照乃が彼氏を別れた時、もう一度自分の気持ちを自覚した。手を伸ばせばいいんじゃねえかって思ったけど、チームに迷惑をかけてる状態でそんなこと許されないって思うと何もできなくなって、ますます調子が悪くなる悪循環で。今回はお前らのおかげで好きにやろうと思えたけど」
道尾さんはもう一回息をついて、力の抜けて落ち着いた笑みを浮かべる。
「いつかまたそんな風になっちまうくらいなら、今蹴りをつけちまおうと思って。駅伝終わった後ならチームにもそんなに迷惑かけないだろうし。って、突然こんな話しちまって悪いな。誰かに伝えて安心したかったのかも」
「いえ、応援してます」
傍目から見れば木下さんと道尾さんの相性は抜群のように見えるけど、恋愛とかそういう話になれば外側からだけでは見えないものもあるだろう。だけど、二人は一緒にいればお互いに必要とするものを補い合えるんじゃないかと思う。
「もしダメだったら、今度はちゃんと俺から慰めろって依頼するからよろしくな」
そんなことはないと思うけど、断言までは出来なくて同意でも否定でもない曖昧な頷きを返す。
「物語がこんなに何かを変える力をもってるなんて思ってなかった。信じてないやつを変えちまうんだから大したものだよ」
「変われたのは道尾さん自身の力ですよ」
道尾さんを変えたはずの僕は自分を変えられないでいるんです。そんな言葉は飲み込んだ。
「ありがとな。でも、一番難しいのは止まっているところから動き出すところだと思うんだ。現実と一緒でそこが一番エネルギーが必要でさ。だから、背中を押してくれたことは本当に感謝してる」
そこまで言って道尾さんはまた照れくさそうに頭をかいた。
「仕事中に引き留めて悪いな。この前は照乃がいたから話しにくかったけど、いつかちゃんとお礼を言いたかったんだ」
じゃあ、と軽く手を振って道尾さんは再び走り出した。ゆっくり走ると言いながらあっという間に小さくなる道尾さんをしばらく見送って、僕もアクセルを握りしめる。
動き出すところが一番エネルギーがいる。本当にその通りだ。何かを先送りにするということはそれだけのエネルギーがないか、エネルギーをかけても徒労に終わることを恐れるってことなのかもしれない。
アクセルを回すと緩やかにバイクが走り出す。雪乃さんの言うことがその通りなら、兄からの提案は紛れもないきっかけだ。だけど、僕は走り出していいのか未だに怖がったままでいる。
*
「こんにちは、言の葉デリバリーです」
秋江さんの家のドアをノックして声をかけると、どうぞ、というおなじみの声が返ってくる。この数か月ですっかり勝手を知った家の中を居間へと向かうと、ローテーブルのいつもの位置に秋江さんが座っていた。
だけど、少し部屋に違和感を覚える。心なしかいつもより部屋が雑然としているような気がした。別に散らかっているって程ではないけど、普段はお孫さんの遊具を除けば綺麗に片付けられている部屋のちょっとした変化は何だかとても大きく感じた。
思わず立ち止まったまま部屋をジロジロと見てしまっていて、ハッと我に返って秋江さんを見ると目を丸くして僕を見ていた。それから、困ったようにしながらくしゃりと表情を崩す。
「さすがだねえ。悠人さんにはバレちゃう気はしてたけど」
「何か、あったんですか?」
秋江さんは軽く目を閉じるとゆっくりと息を吐き出す。
「別に大したことはないんだけどね。また娘と喧嘩して」
娘とは時々喧嘩する、ということをかつて秋江さんは語っていた。これまで秋江さんの家に来て寂しそうにしていることはあってもこんな風に元気が無いのは初めてだった。もちろん言の葉デリバリーに依頼する人はどこかしら心の不調を抱えていたりするのだけど、常連の秋江さんのいつもと違う不調は心配になる。
「娘さんからなんて言われたんですか?」
朗読に入る前にその原因を探る。それによって物語の読み方に変化をつけたり、物語が噛み合っていなければ出直すこともある。その点においては、僕は夏希さんより感度がいいらしい。最もその評価をしたのは夏希さんだからお世辞込みだろうけど。
でも、少なからず僕にそんな能力があるとすれば。それは雪乃さんが生きていく手段としてその能力を会得したように、僕は兄に気をつかう親の様子を探り続けることで身に着けてしまった力なのかもしれない。
「今年の正月はもう帰らない、なんて言われちゃってね」
秋江さんが力なく息をつく。ああ、それは。
年末にお孫さんと会うことを生きがいにしてきた秋江さんにとってそれは大きすぎる言葉だろう。物語で一時的に気持ちを持ち直してもらうことはできるかもしれないけど、対処療法にしかならないかも。それよりは根本の原因をどうにかした方がいいだろう。
「娘さんとの喧嘩はいつですか?」
「三日前くらいかしら」
「一体何が原因で喧嘩を」
「それは……」
それまでサクサクと答えていた秋江さんが言いよどむ。部外者には話しにくいことなのだろうか。家族の中の問題を他人に知られたくないという気持ちは僕自身よくわかっているつもりだけど、それでもなんとかできる可能性がある以上、どうにか教えてほしい。
説得すべく口を開きかけたところで、玄関の方からガタガタと音がする。そのままスパーンとドアが開かれバタバタと誰かが上がってくる気配。とっさに身構えて振り返ると、秋江さんによく似た女性が立っていた。最も、秋江さんより二回りほど若く見える。
「お母さん!」
「晴美じゃないかい。どうしてここに?」
「どうしてって、お母さんが三日間うんともすんとも連絡返さないからでしょ!」
入ってきた女性――晴美さんは激しい剣幕で言い返す。でもそれは怒っているわけではなくて、乱れた髪だったり荒れた息だったり、急いで駆けつけてきたことが見るからにわかった。
「だって、それは晴美が……」
「正月に帰ってこないなんて、本当にできるわけないに決まってるじゃない! 月華がおばあちゃんに会うの楽しみってずっと言い続けてるのに、つまらない意地はって帰らないわけないじゃない……!」
晴美さんの言葉の最後は胸の奥の方から絞り出すようだった。
秋江さんは目を丸くして晴美さんを見つめ、それからクスクスと堪えるようにしながら笑い出す。
「そう、そうかい」
「ちょっと、何笑ってるの! 私がどんな思いでここまで来たか……」
「ねえ、晴美。そういえば私たちなんで喧嘩したんだっけ」
「なんでってそりゃあ……」
そこまで言いかけて、晴美さんが言葉に詰まった。その様子をみた秋江さんがいよいよ大きな声で笑い始める。
「ねえ、おかしいでしょう、悠人さん。私たち、二人して喧嘩の理由を覚えてないんだよ」
そんなまさか。だけど、晴美さんは戸惑った顔のまま秋江さんの言葉を否定しない。どうやら秋江さんの言っていることは本当らしい。喧嘩した理由を忘れるって、それだけ些細なことだったのか。逆に理由が気になってくるけど、いずれにしても楽しそうに笑う秋江さんの様子にほっと息をつく。
そこで初めて晴美さんは僕の存在を意識したようだった。
「そういえば、どちら様?」
「この前電話で話したけど、近くの学生さんで時々お話をしてもらいに来ているの」
「あらあら、それは。母がお世話になっています」
おもむろに我に返ったように晴美さんが膝をついて、慌てて僕も正座で頭を下げる。
「ああ、そうだ。せっかくだから晴美も聞いていきなさいよ。すごいんだから」
「なんでお母さんが得意げなのよ……。すみませんね。でも、お願いできるかしら?」
母娘のやり取りに若干気圧されつつも、促されるまま僕は冊子を取り出す。今日持ってきた物語は家族の再会に関する話だった。今の秋江さん達にピッタリかもしれない。そして、それ以上にそれは雪乃さんから僕へのメッセージのようにも感じた。
*
バイトを終えて家に帰ると、壁に背を預けてしゃがみ込みゆっくりと息を吐き出す。
秋江さんの家での朗読は無事に終わった。朗読する頃には問題は解決していたわけだけど、秋江さんも晴美さんも朗読を喜んでくれて充実感とともに帰ってきた。
だけど、先延ばししてきたものといい加減向き合わなければならない。僕の僕自身の家族のこと。
――一番難しいのは、止まっているところから動き出すことだ。
それは道尾さんが自分自身に向けて言ったであろう言葉。だけど、その言葉は深く耳の中に残っていた。
それならば僕はいつから立ち止まってしまっているのだろう。どれだけの間目をつぶり膝を抱えてしゃがみ込んでいたのだろう。
秋江さん母娘みたいにあっけらかんと仲直りする道もずっと昔にあったはずなのに。
雪乃さんの言う通り兄が僕にスピーチを頼んだことが僕の背を押しているのだとしても、ドロドロの深い沼に沈み込んでいる足を引き抜くにはもう一押しが必要だった。
ゆっくりと深呼吸をして、スマホを手に取る。今度は躊躇いなく発信ボタンをタップする。
「もしもし?」
少し夜遅い時間だったけど、雪乃さんは直ぐに電話に出てくれた。電話の向こうから小さくカタカタと音がするけど何か作業中なのだろうか。
「こんな時間にごめん。一つお願いがあるんだ」
「何?」
もう一度息を吸う。
「僕の為に物語を書いてほしいんだ。兄貴の結婚式でスピーチするための話を」
自分の兄弟の結婚式で話す内容を人に書いてもらう。傍から見たらそれはおかしいことだろう。だけど、不思議と断られる気はしなかった。
雪乃さんからすぐに返事はない。やがて少し呆れたように息をつく音が聞こえた。
「もう書いてる」
カタカタカタカタ。
雪乃さんの声に続いて聞こえてきたのはすっかり耳に馴染んだ小気味のいい音。
体からゆるゆると力が抜ける。スマホを持つのと反対の手で頭を覆う。
もう書いてる。雪乃さんのことを傍で支えるとか偉そうなこと言ったけど、まるで敵いっこない。
「悠人君なら、きっとそうするだろうって」
泥沼の真ん中で座り込む僕を、ぐっと雪乃さんが引き上げてくれる。雪乃さんが物語を書いてくれているのに、今更後になんて退けっこない。小気味のいいタイプ音は僕の手を引くとともに、やや荒っぽく僕の背中を押してくれた。
「ありがとう」
「お礼を言われるのはまだ早いから」
「それでも、ありがとう。雪乃さんがいてくれてよかった」
ピタリとタイプ音が止まる。それと同時に時間が止まったかのような沈黙。
少し浅い息遣いだけが雪乃さんが変わらず電話の向こうにいることを感じさせてくれる。
しばらく待ってみたけど、雪乃さんからの返事はなかった。
「雪乃さん?」
尋ねてみると、時が動き出したようにバタバタと音が聞こえる。
「と、とにかく。今日中に書き上げるから、また明日のお昼にノースポールで」
雪乃さんはどこか慌てた様子でそう言い切ると電話を切ってしまった。
胸の奥に溜まっていた息を吐き出し、スマホをギュッと握りしめる。これでもう大丈夫。
籠った熱が消えていくまで祈るように握り続けてから、もう一度画面に触れる。
さっきとは違う番号に電話をかけると、こちらもすぐに出てくれた。
「もしもし、碧兄。結婚式のスピーチのことだけどさ――」
*
人生で初めて結婚式というものに出たけど、兄と新婦――彩香さん――は同じ職場ということもあって披露宴は新郎新婦の友人や同僚が来客のメインという感じで、僕は会場端の親族席で初めて食べるようなお洒落な料理に舌鼓を打ちながら進行を見守っていた。
噂には聞いていたけど本当に三つの袋の話をするんだとなんだか感心したり、フォトムービーでは兄と彩香さんの生い立ちから、出会ってから婚約までの様子に僕の知らない兄の表情を数多く見つけた。彩香さんと一緒にいる時の兄の顔は真面目を繕ってるけど完全に蕩けている。
職場の同僚の人たちの余興やケーキ入刀を終えると、いよいよ僕の出番が近づいてくる。大学の入学式振りに来たスーツの内ポケットを確かめる。スピーチの原稿に指が触れると少しだけ落ち着いた。
「さて、それではご親族の方たちからのメッセージです! まずは新郎のご家族から弟の悠人さんから兄の碧さんへ、よろしくお願いします!」
司会進行とともに会場が暗くなり、スポットライトが僕を照らした。スタッフが椅子を引いてくれたのと合わせて立ち上がり、事前に聞いていた場所へと向かう。会場中の人たちの視線が集中して胃の辺りがぎゅうっと絞られる。これだけの人に注目される機会なんてこれまでなかったからか、緊張で今度は胃がせり上がってきそうだった。
落ち着け。一番態度が悪かった時の道尾さんを思い出せ。ほら、それに比べれば今日は皆味方だ。小さく息をついて兄を見ると、兄はゆっくりと笑みを浮かべて大きく頷いた。
「碧兄、彩香さん。結婚おめでとうございます。また、会場の皆さん、本日は盛大なお祝いをありがとうございます。今日はこの場をお借りして皆さんに少しだけ僕たちの家族のことを紹介したいと思います」
そこまでを話すと、内ポケットからこれまで何度も手に取ってきた白い無地の冊子を取り出す。
「僕は今、言の葉デリバリーというところで言葉を運ぶアルバイトをしています。そこで、今日はその朗読の形で家族の紹介と、碧兄へのメッセージを伝えます」
それまで見守っていた視線に戸惑いが混ざりざわめきが起こる。わかっていたことだけど、それに気圧されそうになりつつ冊子を開く。
――頑張れ。
冊子の1ページ目の裏側に手書きでかきこまれた一言。思えば、僕の朗読は雪乃さんのその言葉から始まった。
その文字を撫でると不思議といつもの言の葉デリバリーの事務所にいるような温かな気配に満たされた。軽く目を閉じその物語のイメージを脳裏に浮かべる。
「僕の記憶の古い部分に残っているのは、大きくなった兄の姿への驚き」
その一言ですっと会場が静かになる。言葉が染みていくのを待ってからゆっくりと言葉を紡いでいく。
「昔は泣き虫だった、と聞いたのは後になってからだったけど、最後に見た時より大きく強くなっていた。今振り返れば、大人になった、というのがぴったりだったのかもしれない。2年間の山村留学から帰ってきた兄はまるで別人にも見えた」
雪乃さんが書き上げたのは在りし日の僕の物語。滝を見た日に話したことを元に雪乃さんが書いたものを二人でギリギリまで練り上げた。
かつて見上げた兄の背中を今でもよく覚えている。僕のせいで2年間も知らない場所で過ごすことになったと怒られるかと不安だった僕の頭を、笑いながらくしゃりと撫でた兄の姿も。
「『元気になってよかった』と兄は僕の頭を撫でる。『ごめんね』ようやく口から出てきた言葉に兄は首を横に振った。『僕が見た広く綺麗な世界をいつか悠人にも見せてあげる』混じりっ気のない表情で兄はニコニコと笑っていた」
冊子から顔をあげて兄を見る。兄は少し照れくさそうにしながらあの日笑みを浮かべていた。
「それが僕の原点だった。兄に付き合って登山にも行ったし、大学に入って弁当屋でバイトもしてみた。登山は肌に合わなかったし、弁当屋は料理が上手くいかなくてデリバリーの担当になったけど」
それが巡り廻って僕を言の葉デリバリーに導いてくれるのだから、本当に何がどこに繋がっているのかわからない。
冊子のページをめくり、一度目を閉じて深呼吸。さあ、ここからが本番だ。
「兄のようになりたいと思うほど、兄との違いを思い知った。登山とか料理だけじゃなく、何をやっても兄のように上手くできない。そのことに気づくと、家の中が急に息苦しくなった」
ザワリ、と会場の雰囲気がまた蠢く。その気配は僕の背中側にいる親族――父と母からも感じた。
「2年間の山村留学に兄を行かせたことを両親が罪悪感を抱いていることにはいつの頃からか気づいていた。いつからか、そのこともまた僕の精神を少しずつ蝕んでいた。いつまでも届かない兄の大きさと、僕が原因で兄を知らない土地に追いやった罪悪感。息苦しさに耐えられなくなった僕は実家から遠い大学を選び高校卒業とともに家を出た」
9ヶ月ほど前に家を離れたその日、ずっと背中にこべりついた重みが剥がれ落ちたような気がした。これで息苦しさから解き放たれたと安堵していた。
「家から遠く離れた大学に入学した僕はこれで何かが変わると漠然と考えていた。だけど、僕がどれだけ恵まれていたのか思い知らされただけだった。一人暮らしして、大学に行って、バイトをして。自分の面倒を見るだけでもいっぱいいっぱいで。兄はそれに加えて僕の面倒を見てくれていたし、両親は仕事でどれだけ忙しくても病気がちの僕に愚痴一つ零さなかった」
僕が感じていた息苦しさは、結局僕に注がれていた愛情を上手く処理できていなかったのだと、今になってようやく気付いた。木下さんは物語を通じて自分の感情を受け入れたように。
僕が目指すべきは兄でも誰でもなく僕自身でいいのだと信じることができた。道尾さんが自分の好きに走って調子を取り戻していったように。
秋江さん母娘みたいに気安い関係であり続けたいと、願えるようになった。
「自分が目を背けてきたものにようやく気付いた時には遅かった。今更どうやってあの頃に帰ってやり直せばいいのかわからなくなっていた。ありがとうとかごめんとか、それだけの言葉ですらとてつもない重荷になっていた」
かつて感じていた息苦しさや兄を追いかけた自分がいたから今の僕がいる。だから、僕は雪乃さんの書いた冊子を持って今ここにいる。
冊子を閉じる。ここからは僕の想いが色づいた言の葉。
「一人身動きをとれなくなった僕を引き上げてくれたのは、碧兄でした。碧兄のおかげで僕はいまここで想いを言の葉に託すことができました。やっぱり碧兄は僕にとっては手が届かないほど大きくて、自慢の兄です」
視界の先の兄が滲む。声が震える。
「改めて、結婚おめでとう。彩香さん、兄は時折頑張りすぎることがあるので、その時は引っ叩いてでも止めてあげてください。二人の幸せな未来を祈念して、僕からのメッセージとします」
兄と彩香さんに向かって一礼する。
会場はしんと静まりかえっていた。それくらい無茶なスピーチをしたと思う。結婚式にはてんでふさわしくない内容だった。
――パチパチパチ。
拍手の音。兄が手を叩きながら立ち上がる。その顔には笑み。
「ありがとう、悠人」
よく通る声で語り掛けた兄はそれからマイクを手に取った。
「悠人が話してくれた通り、僕は二年間山村留学に行っていました。そこで出会ったのが彩香です」
兄は隣に座る彩香さんの手を差し出し、彩香さんは兄に寄り添うように立ち上がった。
「悠人に少しでも旨いものを食べさせてやりたくて、弁当屋のキッチンスタッフのバイトをしました。そのおかげで同僚になった彩香の胃袋を掴むことができました」
兄はちらっと隣の彩香さんを見てからニッと笑う。そんな兄を彩香さんが慌てて止めようとするけど、兄は小さく舌を出してやり過ごした。
「父さんや母さん、悠人が負い目を持っていたことに気づいていながら、どうすることもできませんでした。だから、今日悠人に話してもらうことで僕からも伝えたかったんです」
兄はマイクを置いて僕のすぐ前まで歩いてくる。僕よりずっと高いと思っていた兄の顔がすぐ目の前にあった。
「悠人がいてくれたから、今の僕はここにいる。悠人にそんなつもりはなかったかもしれないけど、僕は悠人がいるから頑張ってこれた。だから、僕の弟でいてくれてありがとう。父さん、母さん、悠人と僕をここまで育ててくれてありがとう」
兄の最後の声は微かに震えていた。でも、そんな兄の姿は滲んで全然よく見えなくて、次の瞬間にはその胸に抱き寄せられた。
「ありがとう。それからおめでとう。これからは碧兄自身の為に幸せになって」
頭の上に兄の手が置かれる。久しぶりの温かくて大きな手。
「ありがとう、悠人」