「ねえ、悠人さん。段々板についてきたんじゃない?」

 朗読を終えて冊子から顔をあげると秋江さんがにっかりと笑う。言の葉デリバリーで一番のお得意さんであり、夏希さんが言の葉デリバリーを立ち上げた当初からのお客さんである秋江さんからの言葉はじんわりとしみ込んできた。

「秋江さんからそう言ってもらえたら、凄い自信になります」

 秋江さんが持ってきたくれた冷たい麦茶をありがたくいただきながらホッと息をつく。9月に入ったけど残暑というよりは絶賛営業中というような暑さが続いていて、体の内側から冷やしてくれるような麦茶も染みわたってくる。
 言の葉デリバリーの依頼は先月の木下さんのようなものもあれば、物語を届けるついでのお茶飲み話の方に重きがあることもある。今日の秋江さんはまさにそんな感じだったけど、地域に伝わる昔話というのは聞いてみると意外と面白かったりする。

「夏希ちゃんもこの前悠人さんのこと褒めてたよ。『悠人君はすぐに私を超える』ってね」

 それまでグイグイ飲んでた麦茶が変なところに入って思いっきりむせてしまった。今も注文が入っていない日は夏希さんや雪乃さんの前で練習を続けていて、夏希さんはすごいよく褒めてくれる。けれど、僕の知らないところで褒めてくれるというのはまたそれとは違った気恥しさや嬉しさがあった。
 僕は今も夏希さんのように物語の世界を描ききることができていないと思う。その違いが読み方なのか物語への理解によるものなのかはわからないし、その差がどの程度あるのかもわかっていない。だけど、少しずつでも成長できる感覚というのは何だか部活にも似た充実感がある。その意味では、やっぱり僕はこのバイトに向いているのかも入れない。そこはかとなく夏希さんのドヤ顔が思い浮かぶようだけど。

「ところで悠人さん、8月の間殆ど働いてたみたいだけど、ご両親のところへは帰ったの?」

 不意打ち気味の質問に、とっさに言葉が出てこなかった。
 この夏、実家には帰っていない。そもそも帰らない言い訳にバイトを探していたくらいだし、言の葉デリバリーで働き始めてからはあっという間に日々が過ぎていくような感じで帰省という言葉自体頭から抜け落ちていた。

「あらあら。悠人さん、この春から一人暮らしだったでしょ。親御さん、心配されてるんじゃない?」

 帰っていないことは口にしなくてもバレてしまったようだ。まあ、帰っていれば素直にそう答えるだろうから当たり前か。
 心配。夏休みが始まった頃に母親と電話口で話した言葉は覚えている。宅配なんて危ないんじゃないか――あれは確かに心配だったのかもしれないけれど。

「……そう、でしょうか」

 正直、自信がなかった。だから僕は一人暮らしを始めてから一度も実家に帰っていない。

「僕には一人兄がいます。僕の親は兄に色々と気をつかっていて、文字通り僕のことは二の次でした」

 麦茶を飲み終えたグラスの氷がカランと音を立てる。氷だけが残って透明で隙間だらけのグラスに何故だか共感してしまう。

「僕が二の次になっていることは親もきっと気づいていて。だから、突然思い出したように心配されたりして、それがいたたまれなくなって。だから、僕が家に帰らない方が僕も親も生きやすいんじゃないかなって……」

 窓の外から響いてきたザブンという音でハッと我に返る。秋江さんはじっと僕の目を見て話を聞いていた。それはまるで朗読中みたいだったけど、口にしていたのはありのままの胸の内だった。

「すみません、こんな。僕の方が悩みを聞いてもらうみたいで……」

 僕の方が仕事で来ているのに、これじゃ立場が逆である。だけど秋江さんはゆっくりと首を横に振った。

「いいのよ。私だって悠人さんにお世話になっているから、おあいこ」

 秋江さんはふっと息を吐いて、困ったような笑み浮かべた。

「娘はね、私と性格が瓜二つで。だから反抗期が終わってもちょこちょこ喧嘩してね。お盆の前に電話で喧嘩した時なんかは、今年は帰ってこないかななんて思うんだけど」

 秋江さんが手元の麦茶をゆっくりと飲み干していく。

「でもね、娘は帰ってくるの。喧嘩が終わったわけじゃなくいからムスッとした顔で帰ってきて、相変わらず喧嘩したままなんだけど、そんなときでも『帰ってきてくれてよかったなあ』って思うの」

 僕は親と喧嘩をしているのだろうか。いや、違う。喧嘩さえしていない。もしかしたら僕たちは相手が考えていることをあーだこーだと勝手に想像して、すれ違っているだけなのかもしれない。
 だけど、僕にとってしてみればその紐は長い時間をかけてがんじがらめに絡まってしまっていて、どうすれば解けるのか見当もつかない。

「なんて、説教くさいかもしれないけど。子どもが帰ってきて嬉しくない親なんてめったにいるもんじゃないから。まあ、これは私の体験談だけどね」

 秋江さんがちょっぴりお茶目な笑みを浮かべたところで6時を告げるチャイムが鳴り響く。特に次の仕事が迫っているわけではないけど、ちょうどいい区切りかと思ったし、それは秋江さんも同じようだった。秋江さんは飲み終えたグラスを持って立ち上がり、僕もそれに倣う。

「亀の甲より年の功、なんていうからね。困ったことがあれば相談してちょうだい。これはお仕事とかじゃなくて、人と人との関係ね」

 僕は頷きと会釈が混ざったみたいに中途半端に頭を下げて、自分の飲み終えたグラスを秋江さんに手渡す。透明の氷は半分くらい溶けていて、カラカラという音はもうしなかった。



「あ、お疲れー、悠人君。ちょうどいいところに」

 言の葉デリバリーに戻るとスマホを片耳に挟んで伝票とペンをもつ夏希さんに迎えられる。ちょうどいいところというのは仕事の依頼なのだろうけど、少しばかり意味深な感じがする。なんて考えていたら、夏希さんはスマホの向こう側に何かを告げて僕の方にスマホを差し出した。

「悠人君に依頼だけど、直接話したいんだって」

 僕に指名が入ること自体珍しいし、注文から直接というのは初めてだった。少し緊張に高揚を混ぜ合わせた震えを覚えながら夏希さんのスマホを耳に当てる。

「やっほー、後輩君。久しぶりだね、元気にしてる?」

 電話の向こうから聞こえてきたのは聞き馴染みのある声。その元気な声にほっとして、ついでに納得した。

「木下さんもお元気そうで何よりです」

 僕に一番注文してくる可能性が高いのはよく考えるまでもなく木下さんだった。とにもかくにも元気そうでよかった。二度目の注文を終えた後の様子から大丈夫だとは思っていたけど、それ以降は見かけることもなかったから、ふとした弾みに落ち込んでいないか心配だった。

「後輩君、今少しガッカリしなかった?」

「いえ、緊張が解けただけですよ」

「むう、ちょっと釈然としないけど。まあいいや、それで後輩君にお願いしたいことがあるんだよね」

 癒しが欲しくなったらまた注文するかも、と言っていたからそれかなと思ったけど、それにしては声が元気そうだった。

「私の幼なじみに道尾翔っていう陸上部がいるんだけどね。ちょっと後輩君に励ましてあげてほしいんだよね」

「励ます、ですか」

 木下さんではなく、知り合いへの依頼。思い浮かべていた方向はどうやら違ったようだ。

「うん。うちの大学の陸上部で長距離のエースだったんだけど、今年に入ってからずっと不調で結局9月の駅伝にも出られなくなっちゃったらしくて」

 木下さんの声は親しい相手に対する気やすさと心配が入り混じっている。ふと、二回目の朗読を終えた後に見かけた木下さんと一緒に歩いていた男子学生を思い出した。それに、なんだろう。似たような話をどこかで聞いた気がする。

「この前までは特になんともなかったんだけど、駅伝が近づいてから露骨に気落ちしてる感じでさ。私がどうにかしようとしても、意地になるっていうか、弱いところ見せられないみたいな感じで」

 木下さんのちょっと困ったような笑み。親しい相手であるほど、さらけ出しにくい心の部分があるというのはわかる気がした。木下さんだって、一度目の依頼の後に僕の前ですら気丈に振る舞っていた。

「だからさ、翔のこと励ましてあげてほしいんだ。後輩君に」

「わかりました。やってみます」

 本当は任せてくださいと言いたかったけど、まだそこまでの自信はなかった。だけど、木下さんが僕を信頼してくれるというのならそれに応えたかった。それは、最終的に木下さんのためとはいえ依頼と真逆のような物語を届けた負い目もあるし、その依頼を通じて成長できたという感謝みたいな部分もある。

「細かい話は夏希に伝えてあるから、よろしくね、後輩君!」

 通話を終えたスマホを夏希さんに渡すと、少しいぶかしむような視線が返ってきた。

「照乃さんからご指名かー。悠人君、本当に照乃さんのこと口説いてない?」

「口説いてないです! 大体、今回の届け先は木下さんじゃないですし」

 依頼が終わった後、木下さんが夏希さんに何某かを告げたらしく、一応夏希さんと雪乃さんにはそれがナンパの類ではないことを説明していたけど、夏希さんからは時々蒸し返されるしその度に雪乃さんの瞳の温度が下がるのは勘弁してほしかった。

「まあ、それもそっか。今回のお届け先は道尾翔さん。長部田大学の3年生だから照乃さんの同期だね」

 今回はあっさりと引きさがってくれて、夏希さんは僕に伝票を渡した。綺麗な字で依頼に関する情報が書き込まれている。

「依頼は『元気が出る話』で不調で駅伝に出られなくなった幼馴染を励ましてほしい。道尾さんには照乃さんから依頼とか日時の話をしてくれているらしいけど、オーダーは明日の15時。部活が始まる前に終わらしてほしいって」

 伝票を見ながら夏希さんは事務所内に積み上げられたレターボックスに向かう。ここには雪乃さんが書き溜めた冊子が収められていて、依頼に応じた物語を選ぶことになっていた――木下さんの時みたいにオーダーメイドで雪乃さんが書くこともあるのだけど。

「今回の依頼だと、この辺りかな?」

 夏希さんがいくつか冊子を捲った後にそのうちの一つを渡してくれた。一通り読んでみると、怪我をした高校球児の復活の話だった。道尾さんの状況に重なるようなところも多いし、怪我から復帰した主人公が活躍するラストシーンは読んでいるだけで感情が重ね掛けするように高まっていく。
 それにしても、雪乃さんが書く物語は幅広い。ちらっと雪乃さんの方を見ると、僕らのやり取りには関心がないようでノートパソコンの画面とじっと向き合っていた。

「あれ、どうかした、悠人君?」

「あ、いえ。じゃあ、明日はこれで頑張ってきます」

 バイトの空き時間に小説や脚本について色々調べてみたけど、何かを書くのにその経験をする必要はないという。そうだとしても、雪乃さんはこれまでに一体どのような経験をしてきたのだろう。無意識のうちにまたじっと雪乃さんを見てしまっている自分に気づいて、慌てて視線を冊子に戻した。



「よ、悠人。調子はどうだ?」

 道尾さんへの依頼が入った翌日、僕は恭太とファミレスで昼ご飯を食べていた。元々約束していたわけじゃなくて、昨夜ふと思い出したことを確かめるために昼に会えないか相談して、ドリンクバーを僕が奢るという条件で来てもらった。

「まあまあ慣れてきたよ」

「だよな。前に会った時よりも顔色いいし」

「この前会ったときってそんなに死にかけてた?」

「ぼちぼちな」

 確かに前回恭太と会った頃はバイトを始めたばっかりでちょっと自信を無くしていた時期だったけど、そこまでひどいつもりはなかった。一応対面で仕事をするわけだし、気をつけた方がいいかもしれない。

「恭太は相変わらず練習に熱が入ってそうだね」

 以前会った時より恭太は日焼けが濃くなっている気がするし、体もさらに引き締まったんじゃないだろうか。

「もうすぐ駅伝だしな。冬の駅伝の方が本番っちゃ本番だけど、その前哨戦みたいなところあるからさ」

 恭太はニッと笑ってハンバーグを一かけ口に運ぶ。そう、駅伝だ。前回会った時、『エースの先輩が不調でその枠に滑り込んだ』と言っていたことを思いだした。それは今回の依頼と重なる部分が多くて、実際に道尾さんのところに宅配に行く前に参考になる情報がないか知りたくて恭太を呼び出した。

「あのさ、恭太。陸上部に道尾翔って人いる?」

「ん、翔先輩? 長距離にいるけど、なんで?」

「ああ、いや。お客さんと話したときに道尾さんの話になって。どんな人なのかなっていう興味本位」

 基本的に依頼に関する情報は他言無用だけど、ギリギリ嘘にならなさそうな聞き方をしてみる。じゃないと、僕が急に道尾さんのことを尋ねるのは不自然過ぎるし。

「どんな人っていってもなあ。とにもかくにもうちのエースだよ。入部した頃から部内じゃ圧倒的だったらしくて、翔先輩が入ってからうちの部は駅伝で勝負できるチームになったってくらいだし」

 幸い恭太は僕の説明にあまり疑問を抱かなかったようで、サラダを頬張りながら説明をしてくれる。

「入部した頃からってことは、かなりストイックな感じの人なの?」

「長距離選手は多かれ少なかれストイックな人が集まる種目だと思うけど。確かに翔先輩はその中でも自分に厳しい部分は強い気がするな」

 なるほど。自分に厳しい人だから不調になった自分を許せないという流れはあるのかもしれない。思い描いていた道尾さんの人物像を少しずつ切り替えていく。

「今も実力は部内じゃ頭一つ抜けてるんだけど、今年は春から調子悪くてさ。それで今度の駅伝メンバーに入れなくて」

 複雑そうな面持ちの恭太のフォークが鉄板の上の何もないところをカツカツと叩く。

「それで俺がメンバー枠に滑り込めたわけだけど、やっぱり本当は自分で勝ち取って出たかったよな。翔先輩の代わりは俺じゃまだまだ務まらないわけだし」

「なるほど。それじゃあ、流石の道尾さんも凹んでる感じなの?」

 何も刺さっていないフォークを口元に運びつつ、恭太はんー、と小さく天井の方を見る。

「いや。怪我をしたわけじゃないからずっと練習には来てるし、調子悪いなりに練習を引っ張ってくれたりするし、いつもの翔先輩って感じだな」

 おや、それだと木下さんから聞いている話と少し違う気がする。当然、後輩に見せる姿と幼馴染に見せる姿は違うだろうけど、恭太はその辺りの勘は鋭い。だからわざわざ事前に話を聞いておこうと思ったのだし。

「ああ、でも、最近は合練後に来て一人で練習するみたいなのが増えた気がするな。就活が忙しいのかもしれないけど。でも、次の長距離パート長は間違いなく翔さんなんだよな」

 最終的に恭太はフォークを皿の上に置いて、らしくないため息をついた。

「いつまでも翔さんに頼ってるんじゃなくて、翔さんを支えられるようにならないといけないんだろうな」



「こんにちは、言の葉デリバリーです」

 約束の15時、学生向けのアパートの二階で建物のインターホンを押す。結局、道尾翔がどういう人物なのかを理解することはできなかった。むしろ、思い描いていた人物像は恭太の話を聞いたことで揺らいでいる。

「どうも」

 ドアの向こうから顔を出したのは背が大きく、けれどその身体はギュッと引きしまった男子学生だった。長距離選手というのは恭太で見慣れているつもりだったけど、更に長くて細いという印象。だけど、弱々しさはまるでなく、纏う雰囲気からは鋭ささえ感じるくらいだった。

「入ってくれ」

 道尾さんに促されて部屋に入る。少し雑然とした印象もある部屋だけど、散らかっているわけではない。ワンルームの部屋のあちこちにランニング関係と思われる品々が存在を主張していた。それから、硝子戸のついた棚の中に賞状が無造作に積み重ねられ、その上に就活関係の本が積まれていた。
 その隣の金網ラックにはユニフォームなどが畳まれていて、TRACK AND FIELDと書かれたTシャツが一番上にある。パチンと電流が走ったように思い出す。やっぱり、この前木下さんと一緒に歩いていた人だ。

「改めまして、言の葉デリバリーの田野瀬です」

 あの時道尾さんはどんな表情をしていただろうか。記憶を手繰りたがる心を抑えつつ、促されてローテーブルに向かい合わせに座り、道尾さんに頭を下げる。

「道尾だ。悪いな、照乃が無理言ったみたいで」

「無理だなんて、そんな」

「いや、わかってんだ。アイツ、昔っからせっかちで思い込んだら突っ走ってく性格だから」

 道尾さんの顔に浮かんだのは苦笑だったけど、その声は穏やかだった。それは電話越しに聞いた木下さんの声色に似ていた。幼馴染という関係性がそこに現れている気がした。

「木下さんからの依頼ですが、元気が出る話、ということでよろしいですか」

「ん、頼む」

 鞄から冊子を取り出そうとして、道尾さんの返事にほんの少しの違和感を覚えた。木下さんのことを話すときとの落差がなければきっと気づかなかったと思う。どことなく投げやりな気配。開きかけた冊子を思わず閉じた。道尾さんの怪訝な視線が僕の手元を探る。

「今回は道尾さんから直接の依頼ではないので、木下さんからの依頼に齟齬がないか確認させてもらってもいいですか?」

「……構わないけど、どんな依頼したかは照乃から聞いてるし、特に補足も修正もするとこないぞ」

 道尾さんの視線がジロジロと僕の顔を伺う。本当はそんなルールないのだけど、引っかかる思いを抱えたまま朗読をはじめたくなかった。僕がそんな状態では、せっかくの雪乃さんの物語もきちんと届けることができないだろうから。

「道尾さんは今年に入って陸上の調子を落として、9月に開催される駅伝のメンバーから外れてしまった。ここまではいいですか?」

「ああ」

 直接的な言い方過ぎたのか微かに眉を寄せながらも道尾さんが軽く頷く。

「木下さんからの依頼は、最近道尾さんが気落ちしているようなので励ましてほしいというものでした」

「そうだよ。そんなつもりなかったけどアイツからみたらそう見えたらしい」

 投げやりな声色だったけど、アイツ、というときだけはそのトーンが少し緩くなる。幼馴染という存在がいない僕にはその肌触りを完璧には理解できない。小さい時から傍にいたという意味では兄がいるけど、兄弟と幼馴染ではまるで違うだろうしそもそも僕と兄は少しばかり複雑だった。

「どうして道尾さんはこの春から調子を落とされたのですか。陸上部の知り合いから道尾さんは入部からずっとエースだったと聞きました」

「あのなあ」

 できの悪い弟に言い聞かせるような声。そこに微かに苛立ちが混ざっていた。その気配に途端に気持ちがしゅるしゅると委縮しそうになるけど、小さく歯を噛みしめる。今のままでは雪乃さんの物語を読むことはできない。

「トップアスリートだって不調になることだってあるんだ。片田舎のうちの大学でエースだからって調子が悪くなることくらいあるに決まってるだろ」

「それは、そうですけど」

「それに、故障とか明らかに原因がある不調もあるけど、自分でも理由が……わからないスランプだって多いだろ」

「……はい」

 道尾さんが言うことは一般論として間違いないと思う。だけど、言葉の途中に不自然な間があった。違和感に違和感が重なって燻っていく。道尾さんが不調になって、最近になって気落ちしたと木下さんが感じた理由が何かあるはずだ。
 だけど、正面から聞いても教えてくれないだろう。それなら、今の僕にできることは。

「わかりました」

「ん?」

「出直させてください」

「はあ!?」

 さっきは眉を顰めるくらいだったが、今度は思い切り顔をしかめられる。

「本日お持ちした物語は道尾さんに必要なものではないと思います」

「別にさ、照乃に言われてきてるだけなんだろ? 何なら朗読してもらったってことで照乃に伝えておくから」

「ダメです」

 申し出をきっぱり断ると道尾さんの目がスッと細められる。
 でも、それを聞くわけにはいかない。これは仕事であって代金を貰っているということもあるけど、それだけじゃない。
 ともすれば睨むような道尾さんの視線をまっすぐ受け止める。

「木下さんから、道尾さんのことを励ましてほしいってお願いされたんです。それを叶える方法があるのなら、僕はもう見なかったことにはできません」



 啖呵を切って道尾さんの家を出てきたのはいいけど、原付に乗って事務所に戻る途中で徐々に胃の辺りがキリキリしてきた。あくまで道尾さんはお客さんなわけで色々好き勝手言ってしまったかもしれない。
 それに、これまで注文通りのことをしなかったのは木下さんの時だけだ。その時は夏希さんや雪乃さんと相談したうえで決めたことだったけど、今回は完全に僕の独断だ。
 やっぱり怒られるかなあ。弁当屋のバイト時代でいえば、お弁当を持っていったのに渡さずに帰ってきたみたいなものだ。流石にマズいというか、お前何しに行ったんだってなるんじゃないだろうか。
 戻りたくないなあと思っていたけど、あっさりと事務所に着いてしまう。砂利道の駐車場を慎重に進んでバイクを停める。

「戻りました」

「あ、お疲れ、悠人君。どうだったー?」

 レターボックスのところで冊子の整理をしていた夏希さんが顔を上げる。その顔は無事に仕事を終えたことを疑ってもいないようだった。

「あの、実は――」

 道尾さんとのやり取りを一通り伝えると夏希さんはじっと黙って僕を見る。もしかして怒るを通り越して呆れてしまってるのだろうか。ふっと息を吐いて夏希さんが目を閉じるといよいよギュッと胃が締め付けられた。

「悠人君、思ってたより熱いねえ」

 夏希さんはにっと口角をあげたかと思うとそのままカラカラと笑い始めた。

「あの、怒らないんですか? 勝手に朗読せずに帰ってきて」

「まあ、ちょっと相談してほしかったなーって気もするけど、現場じゃないとわからない感覚があるのは私も知ってるしね」

 夏希さんは手に持っていた冊子をレターボックスにしまうと、スタスタと僕の方に近づいてくる。そのままポンっと僕の頭に手を乗せてパッと笑った。

「それに、ただ朗読して帰ってくればいいってわけじゃなくて、お客さんのこととか鈴ちゃんの物語のこと、悠人君が真剣に考えてるってわかって鼻が高いかな」

 夏希さんの優しい言葉に目の奥がじんわりとする。それからどっと肩に入っていた力が抜けた。ほっと息が漏れて、自分の顔が綻んでいくのがわかった。

「でもどうしよっか。今のままだと道尾さんの不調の原因もわからないから、どんな物語を届ければいいか難しいね」

 夏希さんはちらっと雪乃さんの方を見てから腕を組みつつ人差し指を顎に当てる。それには一つだけ当てがあった。道尾さんと話す中でキーとなる人の目星はついている。

「木下さんから話を聞きたいんですけど、連絡してもらってもいいですか?」

「いいけど、照乃さんから話を聞くの?」

 道尾さんが木下さんのことを話すときだけ声のトーンが変わっていた。二人は幼馴染ということだったけど、木下さんからは依頼の表面的な話しか聞けていないし直接話をすれば何かヒントが得られる気がする。
 それを伝えると、夏希さんは早速木下さんに電話をかけてくれた。

「あ、照乃さん? はい、夏希です。実は悠人君が依頼のことで木下さんと話がしたいって。はい、ありがとうございます。悠人君に聞いてみるので少し待ってくださいね」

 夏希さんはマイク部分に手を当てる。

「明日の昼なら大学で時間とれるって。大丈夫?」

 僕が頷くと、夏希さんは再びスマホを耳に当てる。

「はい、大丈夫だそうです。じゃあ、“ノースポール”に12時ですね。ありがとうございます」

 夏希さんは電話を終えるとグッと親指を立てた。

「早速約束できたね。あ、でも明日のその時間はちょっと予定入ってて。悠人君一人で大丈夫?」

「はい、問題ないと思います」

 夏希さんがいてくれた方が心強いのは間違いないけど、道尾さんに啖呵を切ってしまったのは僕だ。それに相手は知らない相手ではなく木下さんだし、少人数の方が木下さんも話しやすいこともあるんじゃないかと思う。
 道尾さんとの会話の記憶もしっかり残っている今晩のうちに聞く内容を整理しておこうなんて考えているところに、事務所の奥からガタリと音がした。

「私も行く」

 僕が帰ってきてからもずっとノートパソコンと向き合っていた雪乃さんが立ち上がって僕らを見ていた。

「鈴ちゃん……?」

 驚いたのは僕だけじゃないようで、夏希さんが目を白黒させて雪乃さんを見つめる。バイトの時にしか会わないから当然かもしれないけど、事務所の外での雪乃さんの姿はおろか僕や夏希さん以外と話している姿も見たことがない。

「直接話を聞いた方が物語を書く時の参考になると思うから」

 雪乃さんはそんな僕らの視線を顔色一つ変えずに受け止めて、淡々と答える。夏希さんは僕に判断を任せることに決めたようで、びっくりした表情のままちらっと僕の方を向く。その途端、雪乃さんが僕を見る圧が強くなった気がした。
 断るなんて選択肢は浮かんでこなかったけど、僕の方もどうして突然雪乃さんがそんなことを言い出したののかわからなくて、戸惑ったまま頷いた。



 ノースポールは長部田大学のキャンパス中心付近にあるカフェレストランだ。学生向けをさほど意識していないのか店内はシックで落ち着いた雰囲気に包まれている。学食よりも価格設定が高めだし、席数も少ないから普段はあまり来ることはないけど、今は夏休み中ということもあってお客さんはまばらだった。
 木下さんは少し遅れてくるとのことらしく、アイスコーヒーを先に頼んでいたのだけど殆どなくなってしまっていた。普段飲むコーヒーより美味しいということもあったけど、隣に座る雪乃さんとの間が持たないという理由が強い。
 空色のチュニックを見に纏った雪乃さんは両手でアイスコーヒーのグラスを持ち、微かに傾けてコーヒーを飲んでいた。ノースポールで集合してから殆ど会話という話をしていない。
 知り合ってから1ヶ月ほどたっても僕は雪乃さんのことを殆ど知らない。口数が少なく透明な瞳から読み取れることは少ない。困った人の胸に浸み込む物語を書ける雪乃さんのことを、もっと知りたいと思う。小さく息を吸ってコーヒーよりも溶けた水の方が多くなったグラスを飲み干した。

「あのさ、雪乃さん」

 雪乃さんは声を出さずに視線だけをこちらに向けた。

「雪乃さんはさ、いつから物語を書いてるの?」

 僕の質問に雪乃さんはアイスコーヒーのグラスの氷をじっと見つめる。カラリと小さく氷とグラスがぶつかる音がした。

「ずっと前から」

 殆ど抑揚のない声。ふっと息を吐いて雪乃さんが再度僕を見る。

「私には、それしかなかったから」

――貴方は全然空っぽなんかじゃないから。そんな風に卑下されると余計に傷つく人がいるって気づいた方がいい。

 木下さんの一回目の依頼の後、雪乃さんから言われた言葉。雪乃さんが自分には物語しかないというのはその言葉に関係している気がした。今の雪乃さんにつながるルーツがそこにあるのかもしれない。そこに手を伸ばしたいと思った。

「それって――」

 その時、カランカランのお店の入口のドアに着いたベルが慌ただしい音を立てた。

「ごめんごめん! ゼミが長引いちゃってさー!」

 お店の入口の方からパンツタイプのリクルートスーツを着た木下さんが駆けてきた。僕たちの席の前に来ると小さく肩で息をしてから汗を拭う。スーツがそういう風にできているのかもしれないけど、すらっと長い脚が目に入った。
 雪乃さんは一息ついて僕を見て、それから隣の雪乃さんに視線を移すとすぐさまむむむっという表情を僕に向けた。

「……あれ、もしかして後輩君の彼女さん?」

「いやいやいや、言の葉デリバリーの同僚の雪乃さんです」

 雪乃さんが微かに会釈をすると、木下さんは何かを思い出したかのように手を打った。

「雪乃……鈴ちゃん! 夏希から話は聞いてるよー。物語書いてるんだよね!」

 雪乃さんが小さく頷くのを見ながら木下さんは僕らの正面に座ると、店員さんを呼んでコーヒーを頼む。喉が渇いていたのかすぐに運ばれてきたそれを半分くらい一気にあおった。グラスから口を話した木下さんが一息つく。

「お忙しい時にすみません。木下さん、この後就活ですか?」

「ちょっとした説明会だけだから大丈夫だよ。それに、翔のことお願いしたのは私だしね。翔とは一度会ってるんだよね。どうだった?」

 昨日の一部始終を木下さんに伝えると、木下さんは顎に手を当てて難しい顔を浮かべる。目を閉じて椅子の背もたれに体を預けると少し長めの息をついた。それからパッと目を開いてよしっという意気込みが口から漏れた。

「せっかく来てくれた後輩君にそんな態度をとるなんて、一回説教しないと……」

 よからぬ方向に情熱を燃やしていた。腰を少し浮かせて今にもスマホを取り出しそうな木下さんを慌てて止める。

「僕の聞き方がまずいところもありましたから。それで、今日は道尾さんに着いて教えてほしいことがあるんです」

 一拍間があって、木下さんは目をパチクリとさせてから座り直す。

「あー、ごめん。また早とちりしちゃった。そうだったね、うん。何でも答えちゃうよ?」

「道尾さんはこれまでも陸上の調子が悪くなることってありましたか?」

 木下さんは人差し指を顎に当てると、記憶を手繰る様に天井の方に視線を走らせる。

「基本的には翔って凄い安定したランナーなんだよねー。高校3年生の終わり位に一回調子崩した叶って時があったけど、そのあとすぐに引退だったから、どうしてスランプになったとかどうやって抜け出したかみたいなのはあんまりわからないんだよね」

 なるほど。残念だけど過去の似たような事例から探ることは難しそうだ。

「道尾さんの部活の様子にも詳しいんですね」

 いくら幼馴染といってもそんな部活のこと細かなところまでわかるものだろうか。それに、先日木下さんが言った通り道尾さんが自分の弱みみたいなものを隠すタイプだとしたらなおさら気づくのは難しい気もするけど。

「あれ、言ってなかったっけ。私、この春まで陸上部だったんだよ」

「……え?」

「400mハードルっていうのやっててね。っていっても翔みたいに凄い選手じゃなかったし、ゼミとか就活とか忙しくなるから3年生にあがるタイミングで一足先に引退しちゃったんだけど」

 思わず袖から覗く少し焼けた木下さんの手をじっと見てしまう。初めて木下さんを見た日に何かスポーツをやってるのかと思ったけど、まさか陸上部だったなんて。道尾さんの部屋と違って木下さんの部屋には陸上部だった気配もなかったし。ああ、でもそれでせっかちなんてことは――流石にないか。

「木下さんから見て道尾さんはどんな選手ですか?」

「強い選手、っていう感じかなあ。翔は高校の時も途中からチームのエースやってたけど、プレッシャーに感じるどころかむしろそれからさらに伸びて。だからうちの大学の環境も翔には合ってたと思うんだけどね」

 そういえば、恭太から聞いた話では道尾さんは入部してすぐにエースになったということだった。ますます不調の原因がわからなくなっていく。せめて今も木下さんが陸上部に残っていたら恭太とは違う視線で最近の道尾さんの様子がわかったかもしれないけど。
 いや、待てよ。
 木下さんが陸上部を辞めたのがこの春。それに、木下さんや恭太が道尾さんに違和感を覚えたのがここ二週間程度。その前に調子を崩したのは高校3年生の終わり位、ということは。
 思わず隣の雪乃さんを見ると、雪乃さんも僕の方をちらっと見返した。

「……ちなみに、道尾さんにお付き合いされてる方がいたこととかはあるんですか?」

「んー、いないんじゃないかなー。どっちかっていうと翔は陸上が恋人!みたいなタイプだし」

 道尾さんが不調になった原因が分かったかもしれない。だけど、これは物語でどうにかできるものなのだろうか。励ますことくらいはできるかもしれないけど、道尾さんに必要なのはそれではない気がする。

「あの」

 それまでじっと黙って話を聞いていた雪乃さんが口を開いた。

「木下さんからみて、道尾さんらしさって何だと思いますか?」

「難しいこと聞くね」

 木下さんは残ったアイスコーヒーを飲みながらじっと空を見つめる。僕も雪乃さんも黙ってその様子を見守って、木下さんはコーヒーを飲み終えたところで困ったような笑みを浮かべた。

「これ、っていうのはよくわからないけどね。でも、翔はいつも自分が何をすべきかっていうことを第一に考えて結果を残してきたと思うんだ。だから、翔らしいってそういうものかもしれないし、今の翔に必要なのもそんなのかもしれないね」

 不意に店内に軽快なメロディが鳴り響く。アンティーク調の時計を見るとちょうど13時を指していた。目の前の木下さんがバタバタと立ち上がって止める間もなく伝票を手に取った。

「ごめん、そろそろ行かなきゃ! 翔の予定はまた聞いとくから! あと、もし他にも聞きたいことあったら、電話でもアプリでもいいから連絡してね!」

 来た時と同じように木下さんはレジの方へと駆けていってサッと支払いを終えると僕たちに向かって大きく手を振る。

「翔のこと、よろしくねっ!」



 言の葉デリバリーの事務所では雪乃さんがキーを叩く音が絶え間なく響いていた。僕は半ばその音をBGMに目についた冊子を読み込んでいく。
 木下さんの話を聞いた後、僕らは解散して、いつものようにバイトの時間に事務所にやってきた。夏希さんはどうだったか聞きたそうにしていたけど、急な依頼が入ったことと事務所に着くや否や雪乃さんがノートパソコンと向き合って猛烈に執筆を始めたことから、何も聞かないままに配達に向かった。
 今日は夏希さん指名の仕事がいくつか入っていて、僕の方は夕方に一件宅配してからは特にやることもなく事務所の掃除や明日の依頼に向けた準備をしていた。
 夏希さんもそろそろ帰ってくるかなと思ったところで、スマホにメッセージが届く。

「今の依頼、ちょっと長引きそう。先に帰っててもいいから!」

 時計を見ると20時に近づいていた。これから依頼が入ることはないだろうから夏希さんの言う通り帰ってしまっても問題ないだろう。顔をあげると雪乃さんは珍しく指を留めてノートパソコンの画面をじっと見ていた。

「雪乃さん。夏希さんから遅くなりそうだから先に帰ってもいいって」

「そう」

 雪乃さんは一つ返事をしつつ微動だにしない。まだ帰るつもりはなさそうだった。別に僕だけ帰ってしまってもいいのだけど、そんな気分にはなれなかった。僕がいたって何の役にも立たないのだけど、頑張っている雪乃さんを置いて帰るのは何か違う気がした。大体、今こうやって雪乃さんが物語を書いている発端は僕なのだし。
 カタカタカタとどこか迷いがちなタイプの後、雪乃さんが僕の方を見た。

「……帰らないの?」

「もう少し涼んでから帰るよ」

 返事はなかったけど、雪乃さんは小さく顎を引いたようだった。
 静かで穏やかな時間が流れる。それは同時に雪乃さんの執筆が止まってしまっていることも意味していて、逆にそわそわしてしまうのだけど。あるいは、この小気味いいタイプ音に体が馴染んでしまったのかもしれない。

「……行き詰ってるの?」

 雪乃さんはノートパソコンの方を向いたまま目を閉じ、深く息を吐き出した。その仕草が僕の問いを肯定している。
 無理もないと思う。道尾さんが不調になるタイミングは全て木下さんの退部だったり失恋だったりそういったタイミングと連動している。程度はわからないけど、意識してないという方が無理がある。
 だからこそ、どんな物語なら道尾さんの背を押せるのか見当もつかなかった。いっそ、道尾さんがもっと弱みを見せた方が上手く話が進む気が進むのだけど。

「道尾さんだってありのままの姿を見せた方が、木下さんも色々気づくと思うんだけどなあ」

「……どうして」

 何気なく呟いた言葉に反応するように雪乃さんが僕を見ていた。

「どうして、そこで木下さんが出てくるの?」

 雪乃さんの透明な視線がじっと僕を見ている。

「どうしてって、道尾さんが不調に陥った原因って木下さん関係だと思うから……」

 それしかないと思っていたけど、真っすぐ問われると急に自信がなくなってくる。でも、今それを聞いてくるということは、雪乃さんは何を考えて物語を書いていたのだろう。雪乃さんは少し表情を険しくしながら右手の親指を口元に運ぶ。

「木下さんの話だと、道尾さんは与えられた役目にふさわしくなるために自分が何をすべきか考えて行動するタイプ。春先から調子を崩しているけど、道尾さんが長距離を纏める立場になるのは間違いないとされている」

 確かに次のパート長は道尾さんだって恭太が言っていた。

「私には道尾さんの不調のきっかけはわからなかったけど、多分今は自分で自分を締め付けてしまっていると思う。あるべき姿と今の自分の姿のギャップを埋められないでいる。一生懸命掴んできた自分の居場所を失ってしまったと思ってる」

 雪乃さんがちらっとノートパソコンの画面に視線を送り、それから再び僕を見た。

「どうすればそのギャップを埋めることができるのかわからなかったけど。そう、ありのままの自分……」

 雪乃さんはゆっくり長く息を吸う。そして、しばらく目を閉じて――力のこもった瞳が開くと、雪乃さんは書きかけていた物語を全て削除した。呆気に取られている間にパチパチパチと助走をつけるように雪乃さんの指が動き始める。
 そのまま流れるように指の動きが速くなる。次々と画面に描かれていくフレーズをただただ見つめる。春に染み出す雪水のようにこんこんと言葉が湧き上がっているようだった。

「ありがとう」

 タイプ音の中にポツリと雪乃さんの言葉が漏れた。僕が何かをしてあげた実感はなかったけど、一瞬だけこちらを向いた雪乃さんはふっと口元の表情を和らげた。

「貴方の言葉で、全部つながった」



「こんにちは、言の葉デリバリーです」

「おう」

 道尾さんの部屋を訪れたのはちょうど木下さんの話を聞いてから5日後だった。扉の向こうから顔を出した道尾さんは前回会ってから一週間も経ってないけど、心なしかやつれて見える。
 前回同様ローテーブルに向かい合って座る。向かいに座った道尾さんからすっと鋭い視線を向けられると、それだけで室内にピリッとした緊張感が走る。

「それで、俺に必要な物語ってのは出来たのか?」

「はい。できました」

 震えそうになる指先を握りしめて道尾さんの視線を受け止める。
 木下さんと話した日の夜、物語を書き直し始めた雪乃さんは一時間くらいで話を書き終えた。それから道尾さんの約束が取れるまでの間、僕はひたすらその物語を読み込んだ。それはなにか凄い突飛な物語というわけではない。だけど、雪乃さんはそこに道尾さんが必要とするものを詰めたはずだ。後はそれを信じるだけだった。

「まあ、別にどっちでもいいけどな」

 道尾さんの視線は少し冷めているように見えた。

「今回の話がどうであれ、照乃には上手くやってもらったと説明しておく。それでお互いあと腐れなく終わるだけだ」

 奥歯をぐっと噛みしめる。多分それじゃ終わらない。いや、僕らの役目は終わるのかもしれないけど、それでは道尾さんも木下さんも今の場所から動けない。鞄から冊子を取り出す。雪乃さんが物語に込めた想い。小さくその冊子の表紙を撫でると不思議と勇気が湧いてくる気がした。

「それでは、始めます」

 息を吸い込む。まず思い浮かべるのは少年時代。自信のない小学生くらいの男の子の姿。

「あの頃の僕には何もなかった。勉強もスポーツも誰よりもできなかったし、顔もパッとしない。優しいのが取り柄だなんていう人はいたけど、それは何もないことの同義だったと思う。友達といて時折感じるのは僕を見てほっと安心する姿。それは落ち着くとかそういうものじゃなくて、こいつよりはマシだという歪んだ安堵。唐突に飛んでくる嘲るような視線」

 少しだけ吐き捨てるように読み上げる。主人公の気持ちになり切ろうとすると胃袋の辺りをぐわりと締め付けられるような感じがする。だけど、それに抗わない。それが全ての原点だ。

「見下したような視線は嫌いだったけど、それで誰かの気が済むなら別にいいかと思っていた。それに、僕にはただ一人だけ傍にいてくれれば十分だった。幼馴染の遥奈、彼女だけは僕を自分が安心するためだけの道具には使わず、純粋に友達としての笑顔を僕に見せてくれた。『まーくんが優しいままだったら、大きくなってもずっと一緒にいる』幼い約束だったけど、遥奈のその言葉を思い浮かべるだけで他の何も必要なかった」

 陽だまりのような笑顔を浮かべる遥奈。それが、主人公が前を向いて生きるための全てだった。遥奈の存在が主人公を支えていて、それは一種の依存であり、変わらないままでいいという甘えでもあった。

「中学生になっても僕を取り巻く環境は変わらない。僕を見て安心する同級生たちと、僕を安心させてくれる遥奈の存在。このまま段々と大人になって、幼き日の約束のままいつか遥奈と一緒に生きていくのだろうと思ってた」

 そっと道尾さんの顔を見る。表情には何も変わらない。ただこの時間が流れ過ぎる事だけを待っているようだ。冊子に視線を戻してふっと息を吐く。転調。

「だけど、そんな願望にも近い約束はあっさりと暗転した。ある休日、遥奈が知らない男子と街中を歩いているのを見かけた。翌日学校に行くと、その相手が文武両道にイケメンと僕に足りないものを全て持ち合わせた校内でも有名な男子生徒だったと知った。遥奈とその男子生徒が付き合っているという噂とともに」

 道尾さんの目がスッと細められる。何かを見定めるように僕の口元と冊子を視線が行き来した。思わず竦みそうになってしまうけど、ちゃんと物語を聞いてくれているのだと前向きにとらえる。

「その日から、遥奈と話すことはなくなった。『まーくん』と明るく呼びかける彼女の声は記憶の中だけのものになった。唯一大切にしていたものを失って、僕からは何もなくなった」

 目を閉じて、深呼吸をする。それでも息苦しくなって、酸素の無くなった水中から顔を出すように目を開く。真っすぐと道尾さんのことを見る。

「不思議と僕の心に残ったのは寂しさでも切なさでもなく、見返してやりたいという気持ちだった。僕を下に見ることで安堵してきたクラスメイトたちを。あまりにも呆気なく僕から離れていってしまった遥奈を」

 その瞬間から主人公の色が変わる。ただ一色に染まればよかった白色から、何者にも染まらず周りのものを染めてしまう黒色へ。

「高校は地元から離れた場所を選んだ。僕のことを知る人がいない場所で僕は生まれ変わりを始めた。勉強もスポーツも苦手だからと遠ざけていたものに時間という時間をささげた。気にしたこともなかった身だしなみに気をつかうようにした。性格だけはすぐには変わらなかったけど、勉強やスポーツの結果が出てくると段々とそれに紐づくように太くなっていった」

 大学に進むころには、主人公からかつての「まーくん」の気配はなくなっていた。まるで遥奈の隣を歩いていた男子学生の影を追いかけるように自分を作り替えていく。何かに結果を出していくにつれ、在りし日のまーくんを一欠片ずつ捨てていく。

「大学を卒業して社会人になる頃には、自分が何のために頑張っていたのかも忘れていた。誰もが名前を知っているような大企業に就職したけど、地元にはもう何年も帰っていない。風の便りで中学の時の遥奈の噂は噂でしかなかったと聞いたけど、今の僕には関係なくなってしまっていた。目的の為に背負ってしまった役割にただ引きずられていく生きていく毎日」

 働くということがどういうことなのか、僕はまだよくわかっていない。働いた経験なんてバイトだけだし、今の言の葉デリバリーも一つ前の弁当の宅配も一番の新参者だからある意味では気楽だった。
 入部してすぐにエースとなった道尾さんがエースであり続けるためにどれだけの努力を積んできたのだろう。何がそれだけ道尾さんを頑張らせてきたのだろう。それは多分、不調の原因と表裏の関係なのだと思う。

「虚しさを埋めるように、僕は寄付だとか支援だとかにのめり込んだ。事業失敗とか倒産寸前とか、困っているベンチャーなんかを調べもせずに投資した。それはほとんど気まぐれで、利益なんてこれっぽっちも考えていない無茶な支援。ありのままで生きていただけで優しいと言われたあの頃を懐かしむための自己満足だった」

 ポツリポツリと言葉を吐き出していく。そんな言葉とともに重いため息が混じって溢れた。そして、自嘲的な笑みが浮かぶ。きっとこの時の主人公はそんな顔をしていたはずだ。
 冊子のページをめくる。再び転調――あるいは転落。

「そんな僕が全てを失うのは突然だった」

 しんとした部屋に言葉を落とす。

「交通事故、飲酒運転の車が歩道に突っ込んできて、どうすることもできなかった。病室で意識を取り戻したとき、僕の顔や体は事故の後遺症でボロボロになっていた。そして、僕が立ち上げた会社は、最近の僕の無茶な投資に反対していた人たちに乗っ取られていた。居場所はもう、どこにもなかった」

 道尾さんから表情がなくなっていた。それは、無表情という表情だった。
 僕はそこに色を付けなければいけない。何色を選ぶかは道尾さん次第だけど、きっと選んだ色がそのまま道標になるはずだから。
 
「ただ病室で生きているとも死んでいるともわからない日々を過ごしていた。そんな僕の元に一人の女性がやってきた。その女性の会社の事業拡大に合わせて僕を雇いたいということらしい。『今の僕には何もないんです』きっと女性は失望して帰っていくだろうなと思いながら自嘲気味に言い放つ。僕は資金も能力も事故で失っていた。」

 だけど、女性は帰らない。その女性の会社は主人公のかつての支援で倒産寸前のところから立ち直ったという。けれど、主人公は首を横に振る。所詮それはただの気まぐれで誰かを思いやった行為ではなくて、だから恩返しなど受ける理由がないと。

「『気まぐれでも何でも、その優しさがこれからの私に必要だから』それでも女性は食い下がる」

 ただ単に、困ってそうだからとろくに調べずに支援した会社のはずだった。だけど、その言葉で主人公はようやく女性が誰か気づく。ずっと優しいままだったら、かつて全てだった言葉。

「『まーくんはあの頃から何も変わってないんだね』」

 女性は――遥奈は泣き笑いのような表情でそっと主人公の手を取った。

「『気づいた時にはどんどんまーくんの存在が遠くなって、私じゃ追いつけないやって思ってたけど。私は昔の約束、ずっとずっと覚えてるよ?』」

 冊子を閉じる。
 その言葉で、雪乃さんの書いた冊子は終わりを迎える。
 どれだけ道尾さんに届けることができただろうか。冊子から顔をあげると道尾さんは痛そうな顔を浮かべていた。それがいいのか悪いのか、すぐには判断できなかった。ただじっと道尾さんの言葉を待つ。

「ご都合主義だな」

 ようやく口を開いた道尾さんの言葉は容赦なかった。痛そうな顔のまま道尾さんはそう言い放って、なおさら痛そうに脇腹の辺りを抑える。
 僕も雪乃さんも道尾さんの悩みに意識が向きすぎて、本来あるべき物語の形を見失ってしまっていただろうか。

「全てを失った主人公のところに颯爽と現れるヒロインなんて、夢物語だ」

 道尾さんの言葉に僕はなにも言い返せない。だって僕たちは夢物語を描いていた。それは決して、ピンチになったら訪れる王子様的なヒロインのことではないけれど。
 そのことを直接伝えるべきか迷っているうちに道尾さんは一つ息をついて立ち上がる。右手で首を抑えてゴキゴキと鳴らした。

「照乃には上手く言っておくから。仕事が終わったなら帰ってくれ」

 そのまま捲し立てられるように玄関の方へと追いやられる。物語を話しきってしまった以上、その言葉に従うしかなくてあっという間に玄関の外に追い出された。せっかく雪乃さんが書いてくれた物語だったけど、僕では力不足だったのか。

「……何もなかった昔のまま、か」

 ポツリと道尾さんの呟きが聞こえた。ハッとして振り返ると道尾さんは何かを考え込むかのように通路越しの空を見つめている。
 けれどすぐに我に返ったように詰まらなさそうな顔をその顔に浮かべてしまい、道尾さんが何を考えていたかはわからなかった。

「お前さ、恭太の友達なんだろ。来週の駅伝、ローカルだけど中継も入るからテレビででも応援してやってくれよ」

 ドアを閉める途中で道尾さんが放った言葉にぎくりとする。道尾さんの前で恭太の話をした記憶はないのだけど。

「あの、何で僕と恭太のことを……」

「この前の練習の時にさ、恭太が友達から俺のこと聞かれたって言いだすから。タイミング的に俺のことを聞きたがるやつなんてお前しかありえないだろうなって」

 そういえば、恭太に何の口止めもしてなかった。呆れたようにため息をついた道尾さんの顔に苦笑が浮かぶ。

「恭太の奴、陸上部の外にもいい友達をもってんだな」

 その言葉の意味を聞く前にドアが閉まり、西に傾き始めた夏の空に一人取り残された。



 道尾さんへの朗読を終えてから一週間がたった。結局あれ以降、道尾さんのことは見ていない。朗読の翌日に木下さんからお礼の連絡が来てそれっきりだった。
 僕の朗読の技術はまだまだ勉強することの方が多すぎると思うし、夏希さんだって毎回上手くいくわけではないという。それはわかっているけど、モヤモヤとしたものがずっと胸の奥の方に居座り続けていた。
 この日は午前中から言の葉デリバリーに出勤して、スマホでテレビを見ていた。道尾さんから言われた応援してやってくれという言葉。テレビ画面ではまだ残暑が居座る山道をランナーたちが襷をかけて走っている。これまで駅伝なんて正月の箱根駅伝しか見たことがなくて、9月の駅伝というのは何だか新鮮だった。

「うちの大学、どんな調子?」

 のんびりと事務所の片づけをしていた夏希さんが尋ねてくる。夏希さんも雪乃さんも今日は午前中から出勤してきたけど、特に駅伝の様子を見る事はなく普段通り過ごしていた。カタカタというタイプ音のBGMもいつものように響いている。

「あまり芳しくはないですね」

 長部田大学は全体の真ん中くらいの順位だった。実況を聞いているともう少し上位争いをしていてもおかしくなかったらしいが、やはり道尾さんが走れなかった穴は大きいらしい。それ自体をどうこう思うわけではない。例え道尾さんへの朗読がどれだけ上手くいったとしてもこの駅伝に道尾さんが走ることはなかったのだから。

「悠人君の友達はもう走ったの?」

「この次みたいです」

 恭太の走順はアンカーの一つ前。一番短い区間――それでも僕が走れと言われたらとても無理だけど――を走るようだった。ちょうど中継所の映像に切り替わる。続々と各大学のランナーが走り込んできて、襷を繋いでいった。

「長部田大学は3年生の秋浜大地から1年生の月代恭太への襷リレーです!」

 実況で自分の知り合いの名前が呼ばれるのはどことなくむず痒い。画面の中では襷を受け取った恭太がぐっと前を見据えて走り出した。そこで画面は再び先頭車へと切り替わる。頑張れ、と心の中で声援を送ってから画面から視線を外し、そっと雪乃さんの様子を伺う。
 道尾さんへの朗読の結果について、雪乃さんのコメントはなかった。僕の胸の中のモヤモヤ感の半分くらいは雪乃さんへの罪悪感だった。色々と手を尽くしてくれたのに、肝心なところで僕が役に立たなかった。いっそ怒ってもらえた方が僕の方もすっきりするのかもしれない。
 視線を感じたのか、ふと雪乃さんの手が止まってこちらを向いて目が合った。すぐに目を逸らされるかと思っていたけど、そのまま雪乃さんはじっと僕を見ている。何か言いたいことがあるのかなと首をかしげてみると、パチッと電源が入ったように視線を戻してパチパチとキーを叩く音が再開する。

「長部田大学の給水がエースの道尾翔から手渡されます! 昨年は過去最高順位を出した長部田大ですが、今年は道尾を欠き我慢のレースが続いています!」

 テレビから聞こえてきた声にサッと視線を戻す。走路の脇から駆け出した道尾さんが恭太にドリンクを手渡していた。BGMも歓声も少ないから、息遣いや足音まで聞こえてきそうだった。
 画面は切り替わることなく二人を映し続ける。ドリンクを口にする恭太のすぐ隣を走る道尾さんが声をかける。

「恭太、ここからだ!」

 道尾さんの声は中継越しでもよく聞こえた。恭太が小さく頷くのが見える。

「お前の走りを見せつけてやれ! それで、冬の駅伝は一緒に走るぞ!」

 その言葉に恭太の目がハッと見開かれるのが分かった。

「お前と走れるのは冬が最後かもしれないから。だから、月代恭太が駅伝に強いってところを見せてくれ!」

 道尾さんは恭太からドリンクを受け取るとニッと笑みを浮かべてみせる。

「やっぱり、俺はお前らと一緒に走りたいんだ!」

 道尾さんがスピードを緩めて恭太との距離が開いていく。やがて足を止めた道尾さんは恭太に向けて拳を突き上げる。
 
「だからっ! 死ぬ気で突っ走れ!」

 ドンっと背中に風を受けたように恭太が加速する。グングンと駆け抜けていく恭太に向けて道尾さんは声をかけ続けて、最後にまた拳を突き上げる。その道尾さんの顔は突き抜ける青空のように晴れやかだった。

「すごい……熱いね」

 いつの間にか僕のすぐ隣で夏希さんが画面に見入っていた。意外なことに僕と夏希さんの一歩後ろから雪乃さんもじっと画面を見つめている。
 その時、中継を映していたスマホに着信が入る。木下照乃という表示に僕は二人に小さく頭を下げて、スピーカーモードにしてからスマホをとる。

「ね、ね! 駅伝見てる!?」

 木下さんの声は何だか涙ぐんでいるようだった。電話の向こう側から実況の音声が流れてくる。

「見てます」

「あれっ、いつもの翔だよ! ただ走るのが楽しいって言ってた頃の翔! あんな姿、久しぶりに見た……」

 ほっと零れた息の音。

「本当にありがと……! やっぱり君に頼んでよかった。って、ごめんっ。また長部田大映った! ねえ、抜くよっ!」

 興奮した様子のままバタバタと電話が切れて、スマホには再び駅伝の中継が映る。木下さんが言っていた通り恭太が一つ前にいた選手を抜くところだった。恭太は苦しそうな顔で襷をギュッと握りしめて、ぐっと前を向くと抜いた相手を一気に突き放して更に加速していく。
 どっと息が溢れた。この一週間溜め込んできたモヤモヤが一気に零れ落ちていくようだった。ポンっと夏希さんの手が肩に置かれる。

「お疲れ、悠人君。頑張ったね」

 優しい声に思わず瞳に込み上げてくるものがあって、声が声にならなかった。ただ頷く。ちゃんと終わった。きっと道尾さんは自分の居場所を取り戻せる。
 夏希さんはポンポンと軽いリズムで僕の肩を叩いてから、後ろにいた雪乃さんを振り返る。

「鈴ちゃんも、ね。聞いたよ、途中まで書きかけた物語、一から全部書き直したんでしょ?」

「別に」

 淡々と答えた雪乃さんが小さくい眼を閉じて僕を見た。いつもは透明だと感じていた瞳にほんのりと温かな色が見えた気がした。

「私一人じゃ書けなかったから」

 あ、やばい。その一言で本当に泣きそうになる。ずっと失敗したと思ってたから、その反動もあってジンジンと来るものがあった。雪乃さんの視線を受け止めて、バクバクと胸の音が高鳴っていく。

「うそっ……」

 そんな声をポツリと零したのは僕の隣の夏希さんだった。わなわなとその目が見開かれていく。

「ウソウソウソっ! 私だって鈴ちゃんからそんなこと言ってもらえたことないよ!? ねえ、ねえねえ。鈴ちゃん、悠人君! どういうことっ!」

 混乱したように僕と雪乃さんを交互に見る夏希さんに思わず笑ってしまって、笑い泣きってことにして目元を擦る。雪乃さんはなんだかバツが悪そうにしながらノートパソコンの前に戻ってしまった。夏希さんはその後に着いていって雪乃さんに問い続けるけど、雪乃さんは黙って執筆を始める。
 そっとスマホの画面に視線を戻すと、更にもう一人前を抜いた恭太が襷をアンカーの選手に手渡すところだった。恭太はそのまま倒れ込みながら、拳を突き上げる。
 それは、道尾さんからのリレーだった。お疲れ、と小さく口ずさんでみる。それから、頑張れと。きっと冬に見られるであろう道尾さんから恭太への襷リレーのシーンを思い浮かべながらエールを送る。