「何だよ悠人、夏休みなのに浮かない顔してんな」
クーラーがガンガンに効いたファミレスで日替わりランチのハンバーグにフォークを伸ばしながら、恭太は怪訝そうな顔で僕を見る。こんがりと小麦色に日焼けした恭太は午前中に陸上部の練習を終えてきたはずなのに、僕の生気を吸い取ったかのように溌溂としていた。
「いやあ、バイトの調子がいまいちよくなくてさ……」
恭太は高校時代のクラスメイトで今は同じ大学の文学部に所属している。それでこうして時々昼食を一緒に食べたりするのだけど、色々と愚痴やらなんやら吐き出せる貴重な気の置けない友人だった。
「そういえば新しくバイト始めたんだっけ。でも、またデリバリーなんだろ? 悠人なら慣れっこじゃん」
「まあ、前は弁当運ぶだけでよかったんだけど、今回はキッチンスタッフ兼ねてる……というか出張調理するみたいな?」
気の置けない間柄、ではあるのだけど『言の葉デリバリー』の詳細までは伝えていない。言葉を届けるというバイトをすんなりと理解してもらえるとは思えなかったし、万が一理解されたとして興味本位で注文されたら目も当てられない。
「ふうん、よくわかんないけど大変そうだな。盆もずっとバイトすんの?」
「まずはバイトの内容覚えちゃいたいし。それに、そもそも奨学金だけだと学費きついしさ」
「すげえな、悠人は。俺も一応バイトはしてるけど殆ど走ってばっかりだからなあ」
「僕からすればこの凄い暑い中で練習してる恭太の方が凄いけど」
窓の外では痛そうなくらいの陽射しがジリジリとコンクリートを焼いていた。走るのなんてもってのほかで自転車でバイト先に向かうのすら億劫になる。
「実はさ、9月の駅伝の選手に選ばれてさ。めちゃめちゃ気合入ってんだよ」
「へえ、凄いじゃん」
「まあ、エースの先輩が不調でその枠に滑り込んだ感じだから素直に喜べないんだけどな。もし俺がブレーキになったらその先輩に申し訳が立たないし」
そう言いながらも恭太の顔はキラキラと輝いていた。高校時代から恭太はギラギラと燃えていて、どんな壁も真っすぐ突き破っていく感じで、近くで見ていると少しばかり眩しかった。それでも、その明るさに救われることも少なくなくて、高校時代に恭太に出会えていなければこうして大学に進んでいたかもわからない。
「話戻るけどさ、悠人、前のバイトは上手いことやってたじゃん。昔から器用なタイプだと思ってたんだけどな」
「そんなに器用だったっけ。自覚ないなあ」
「いやいや、文化祭とかで殺伐としたグループがあったとしても悠人を放り込んでおけばどうにかなるって委員長とか感謝してたぜ」
「それは器用っていうか、都合よくつかわれてる気がする」
ドリンクバーの少し薄めのメロンソーダをズルズルと吸う。そういえば高校時代は不和のあるグループによく放り込まれてた。当時は運が悪いくらいに思っていたけど、今思えば調整役とみなされていたのか。
「それで、そんな器用な悠人君は何に苦労してるんだ?」
バイトを始めてから一週間、僕は夏希さんの仕事を見学しながら朗読の練習をしていた。朗読の練習は夏希さんと雪乃さんを相手に行うのだけど、その反応は芳しくない。雪乃さんから反応がないっていうのは予想がついていたけど、夏希さんも腕を抱えて悩まし気な表情を浮かべてしまう有様だった。
思い返すだけでため息が溢れてくる。やっぱり僕に才能なんてないんじゃないだろうか。読んでいるのは同じ雪乃さんの物語のはずなのに、夏希さんが朗読するように上手くいかない。
「あー、やっぱいいや。なんか大変そうってことだけは理解した」
言いよどんでいるうちに恭太が続ける。恭太はグラスに残るウーロン茶を飲み干しながら苦笑を浮かべていた。朗読のことを話さずに苦労を伝えることが難しいのでありがたく頷いて話題を終わらせる。
元々自分の朗読力なんて信じてなかったわけだけど、それにしたって予想以上だった。そういえば恭太は文学部なのだし、朗読のコツとかも知っているのかな。まあ、文学部が朗読の練習をするなんて聞いたことないけど。ああ、でも文章を読むコツみたいなのは知ってるのかな。そういえば、雪乃さんも文学部だったっけ。
「あのさ、恭太。雪乃さんって知ってる?」
「ああ、わかるけど……もしかしてだけどさ、悠人。悪いこと言わないから雪乃さんはやめとけ?」
恭太は本気で心配するような視線を僕の方に向ける。大いに誤解されているようで慌てて掌をブンブン横に振る。
「いやいやいや、そういうのじゃないから。バイト先で一緒になったからどんな子なのかなって」
「どんな子っていっても、俺も殆ど話したことないからなあ。というか、女子同士とかで話しているのもほとんど見たことないし」
恭太は軽く天井の方を見て記憶をたどる仕草をするけど、すぐに困り顔になってしまった。何となくわかる気がする。この一週間、業務連絡のような会話は何度か交わす機会があったけど、感情を面に出すことは一切なかった。
「ああ、そうだ。ちょっと気分よくない話なんだけどさ」
「うん?」
恭太は少し身を伏せるようにして声のトーンを落とす。
「他の女子とかは雪乃さんのこと、陰で『雪女』って呼んでるらしいんだ」
*
どことなく沈んだ気分でバイト先に向かうと、いつものように雪乃さんがノートパソコンと向き合っていた。夏休みで他にやることもないからバイトには毎回顔を出していたけど、雪乃さんは決まって僕より先に事務所にいて物語を書いている。バイトが終わってからも事務所を出るのは三人一緒で、夏希さんが雪乃さんを車で送っていくことから雪乃さんがいない事務所を僕は知らない。
今日はまだ夏希さんは来ていないらしい。その日のオーダーを留めるホワイトボードには一枚の伝票と冊子。伝票には依頼者の住所とどういった物語を聞きたいか、あるいは悩みなんかが記されている。
木下照乃、長部田大学の3年生。今回が一回目の注文で、依頼内容は「失恋を忘れられるような恋の話」だった。これだと僕は同席を断られるかもしれない。
言の葉デリバリーの仕事の特徴から、基本的には相手の希望を最優先する。僕が同席していいかは当日の事前連絡で夏希さんが先方に確認し、了解が得られた所だけ僕がついていくという形をとっていた。この一週間でも恋愛絡みのオーダーが二件あって――いずれも依頼者は女性だった――どちらも僕は同席NGとなっていた。
伝票と一緒にとめられていた小冊子の方を手に取る。収められているのは二人の高校生がお互いの気持ちに気づいていく過程の物語。物語を書くためにその経験が必要ではないという話はよくするけど、雪乃さんが恋愛小説を書いているイメージがイマイチわかない。
それに、逆の立場に置き換えてみて自分が書いた恋愛小説を目の前で誰かに読まれたら気が気でなくなりそうだけど、雪乃さんは平然とキーボードをたたき続けている。まあ、僕がバイトを始める前から夏希さんは何度も雪乃さんの前で物語を読んできただろうからとっくに慣れているのかもしれないけど。
冊子に一通り目を通して息をつく。もし同席を断られたら今日はこの冊子で練習してみよう。恋愛の話を朗読するのは気恥しい気もするけど、いいトレーニングになるだろう。
と、ポケットに入れていたスマホがブーブー震える。夏希さんからの着信だった。
「もしもし、田野瀬です」
「もしもし、悠人君。もう事務所にいる?」
受話器から聞こえる夏希さんの向こう側の音は雑然としている。何だろう、その気配と夏希さんの声色から少し嫌な予感がした。
「はい、ちょうど今日の宅配用の冊子に目を通したところです」
「あ、よかった。実はちょっと街中の方に用事があって出かけてたんだけど、事故があったみたいで車が全く動かなくなっちゃってさー」
壁にかかる時計に目を向ける。どこで渋滞に引っかかっているかはわからないけど、オーダーの時間まではあと30分くらい。家に向かう時間まで含めると間に合わせるのは厳しそうだ。
「遅れてもいいか日をずらすか確認しましょうか?」
「ううん、木下さんには先に電話して確認したんだけどね」
何気ないやり取りのはずなのに、夏希さんの声に含みがある。何か言いにくそうにしているけど、なんだろう。遅れるにせよ別日になるにせよ僕はそんなに気にしないんだけど。
夏希さんが息を吸う音が受話器越しでもはっきり聞こえた。
「新人でも男子でも構わないから、予定通りやって欲しいって」
「は?」
予想外の内容に思考が一瞬停止した。新人でも男子でもってことは、朗読を、僕が。すぐに血の気が引く音がしてきた。スマホを落としそうになって慌てて握り直す。
「いやいやいや、無理ですよ!」
「大丈夫。この一週間、悠人君の朗読はどんどん上達してたよ」
「でもっ……」
でも、夏希さんは一度も納得した顔をしてくれなかったじゃないですか。そう思ったけど言葉が出てこない。それを言えば夏希さんは僕に幻滅するかもしれない。いつもそうだ。言わなければならないと思った言葉が喉元で竦んでしまう。
「悠人君。この一週間練習を見てきて、大丈夫だと思ったから木下さんの希望を受け入れたの。私が悠人君をこの仕事に誘った理由を忘れなければ大丈夫」
夏希さんの声は優しい。人の気持ちに寄り添えること――それが、夏希さんが僕に声をかけた理由。そう言われても相変わらず僕にその自覚は全然なくて、その言葉を受けても自信はまるで浮かんでこない。
「わかり、ました」
それでも頷く。もし本当に夏希さんが僕に期待してくれているなら、それに応えたいと思った。バクバクと騒がしい胸に手を当てて、ゆっくりと息を吐く。
「ありがとう。頑張ってね」
電話が切れると情けないくらいに足がガクガク震えてくる。前の弁当屋のバイトの時はこんなことなかった。ただ運べば終わるというのはやっぱり僕の性に合っていたらしい。できるだろうか、僕に夏希さんのような朗読が。
「これ、木下さんの家の場所」
無造作に横から一枚の紙が手渡される。それは住宅地図を拡大したもので、駅近くの学生向けのマンションに印が入っていた。それを差し出した雪乃さんは無表情のままだけど、どうやら電話の内容から状況を察したらしい。
「ありがとう。でも、本当に僕でいいのかな……」
「どうして?」
「どうしてって、僕は夏希さんみたいに上手く朗読できるわけじゃないし」
相手にガッカリされたらどうしよう。僕が期待外れだと思われるだけならいいけど、この言の葉デリバリーが、雪乃さんの物語の評価を下げるのは嫌だった。だけど雪乃さんは興味を失ったようにノートパソコンの前に戻ってしまう。
「朗読が上手いか下手かはそんなに大事じゃない」
雪乃さんの視線はノートパソコンの画面をのぞいているけど、その手はキーを打つ姿勢のままで固まっている。無表情だけど、何かを考えているように見えた。
「朗読の練習は技術的な話。大事なのは届けたいって気持ちだって、夏希はいつも言ってる」
届けたい気持ち。上手くいくとか失敗するとかじゃなくて、困っている人に物語を届ける。不思議と気分が軽くなった気がした。状況は何一つ変わらないけど、うまくやれなくてもいいんだという言葉はするりと胸の隙間に入ってきた。
「この一週間の練習で貴方はそれができると思う。だけど、もし自分のことが信じられないなら」
雪乃さんがもう一度僕の方を見る。透明だと思っていた瞳に確かに色を感じた。雪女だなんてとんでもなくて、海のような深くて落ち着いた蒼。その色に思わず息を呑み込んだ。
「その代わりに私が書いた物語を信じてほしい」
*
駐輪場に自転車を止めて汗を拭う。言の葉デリバリーでバイトを始めてからはずっと夏希さんの同席だったから、移動は夏希さんの車の助手席に乗せてもらっていたけど、一人で配達に行くことを考えると移動手段も考えなければいけない。原付を買えたらいいのだけどそれだけの余裕はない。
とにもかくにも、今は目の前の仕事だ。タオルで一通り汗を拭うとエントランスを通り、エレベーターに乗る。お役御免になった住宅地図のコピーをしまおうとして、裏側に何か書かれているのに気づいた。
「これって……」
――頑張れ。
とても小さく気づくか気づかないかの大きさで一言書き込まれていた。
私が書いた物語を信じてほしい。事務所を出る前の一言を思い出して胸の奥の方が不規則な跳ね方をした。息が詰まって、慌てて深呼吸をする。早鐘のようになりかけた心臓を落ち着かせる。いや、これはここまで全力で自転車を漕いできたからで。
グルグルと混乱したまま木下さんの部屋の前に着いてしまった。約束の時間も迫っているし、落ち着くための時間もない。インターホンを押すかどうか躊躇っていると、先にドアの方がガチャリと開いた。オレンジ色のTシャツを着た女性が迷いがちに僕を見ている。
「あの、もしかして」
「は、はい。お待たせしました。言の葉デリバリーです!」
弁当屋のバイトで体に浸み込んだ反射で頭を下げる。そっと顔を挙げて様子を伺うと、その女性はニカッと笑みを浮かべた。顔や腕が仄かに日に焼けているけど、何かスポーツでもやっているのかもしれない。
「来てくれてありがとう。木下です」
本当に男がきたら躊躇いが生じてドタキャンしてくれないかなと思ったけど、木下さんは躊躇いなく僕を部屋にあげた。ワンルームのリビングにはあまり物がなく白を基調としてシンプルにまとめられている。
木下さんに促されてリビングの中央に置かれた小さめのテーブルに向かい合うように座る。窓からは西の方に傾いた黄昏色の陽射しが柔らかく差し込んできていた。
「この度はご注文ありがとうございます。言の葉デリバリーの田野瀬です。あー、えっと。長部田大学の1年です」
「あ、後輩君なんだね。私、経済学部の3年生なんだ」
僕が後輩とわかったからか、木下さんの緊張感がほどけて綻ぶ。一方で僕は少しだけそんな木下さんの雰囲気に戸惑っていた。依頼の内容から線の細い人を思い浮かべていたけど、木下さんはラフな格好と少し日に焼けた肌だったり、短く切りそろえられた髪だったりとアクティブな人という印象だった。
「夏希は教養部の頃に知り合ったんだけど、今日は無理してきてもらっちゃってごめんね。私、昔からせっかちで予定が遅れたりすると落ち着かなくなっちゃってさー」
「いえ、むしろこちらこそ、僕みたいな新人ですみません」
テーブルに向かい合って頭を下げあって、小さく息をつく。部屋に入るまでは凄い緊張していたけど、今は思っていたより落ち着いていた。もし木下さんが想像していた通りの線が細いタイプで失恋に追い詰められているのであれば責任を感じていたかもしれないけど、あっけらかんとした雰囲気にそのプレッシャーは薄れていた。
「それで、本日のご注文ですが『失恋を忘れられるような恋の話』でよかったですね」
「うん、合ってるよ」
木下さんは苦笑を浮かべながら頬をかく。
「高校3年の終わり位から付き合いだしたんだけどね。ほら、さっきも言ったけど私せっかちで。それが負担だったみたいで、先月スパッとフラれちゃって」
木下さんは小さく窓の方を振り返って、部屋に入り込む夕日に目を細める。
「自分でもびっくりなんだけど、結構長いこと付き合ってたからかな。意外なほどショック受けててさ。これから就活も本格化してくるし、夏休みの間には切り替えたくって」
「わかりました。それでは、始めてよろしいですか?」
「うん、お願い」
鞄から白い冊子を取り出す。不思議と冊子を開くと心が落ち着いた。難しいことは考えなくていい。ただ、この物語を木下さんに届ける。そっと目を閉じて小さく息を吸う。瞼の裏に事前に読んだ物語の情景が浮かび上がる。
「一年の中でも海がとびきり蒼く光るある夏の日、夏休みの高校のグラウンドに一人佇む村野美咲を見つけた――」
思っていたよりもずっとスムーズに物語に入ることができた。読み上げながら世界に足を踏み入れていく感じ。それまではただのクラスメイトだった主人公と村野美咲は夏休みのある日グラウンドで顔を合わせる。何をしているのかと問いかける主人公に実咲は「青を探している」と儚げに笑うのだった。
「『青だって?』不可思議な行動をとる実咲は暑さで頭がやられたかのようにも思えたけど、いたって真面目な顔をしている。『夏休みの間にとびっきりの青を見つけたい』触れてしまえば壊れそうな程にその声は震えていて、実咲の存在自体が夏の日の陽炎が描き出した幻なんじゃないかと思うほど希薄だった」
そんな実咲を見ていると居ても立ってもいられなくなって、主人公は実咲の青探しを手伝うことにした。青く佇む海、空色が濃ゆく色めく山の上、水が煌めくプール、夏祭りのブルーハワイのかき氷など青に関係しそうな場所を巡るが、中々実咲が求める青は見つからない。
結局街中のどこにも青を見いだせないまま、夏休みは最終日を迎えてしまう。
「夏休み最終日、実咲から呼び出されたのは何の変哲もない高校の屋上だった。約束の時間に訪れてみると、実咲は汚れるのもいとわず屋上に寝転がってゆっくりと雲が流れる夏空を見上げていた」
物語の架橋。ゆっくりと呼吸を整える。一瞬だけ意識が現実に帰ってきて、じっと聞き入る木下さんが見えた。目を閉じる。パチリと意識が物語の世界を泳ぎ始める。
「『青探しは諦めたのかよ』実咲に促されるまま横に寝転がると、出会った時と何も変わらない青空が俺たちを見下ろしていた。『見つけたよ』隣で笑う実咲の指が微かに触れる。あの日、希薄に感じた実咲の存在を今はありありと感じていた。『海も山も、プールも夏祭りの花火も私にとって最高の夏の思い出』」
ほうっと息が漏れた。それは俺の息ではなくて、木下さんの音だった。
「『ずっと物語の世界みたいな青春に憧れてた。いてもたってもいられなくなってバカみたいに学校に探しに行ってみたら、君が来てくれた』はにかむ実咲が俺を見ている。朧気に触れていた指先がするりと絡んだ。『ありがとう。今日はお礼を言いたかっただけ。これ以上は――多分、迷惑になっちゃうから』絡んでいた指先がするりと解けて実咲が立ち上がる。その手が逃れていかない様に、とっさにつかんでいた。ハッと息を吸う実咲の声がはっきり聞こえた」
遠くから蝉の残響が聞こえてきた気がした。それは物語にそっと夏の色を添える。
「『迷惑なんて今更だって』こんな時でも俺の声はぶっきらぼうで、でもその手は決して離さない。『これで終わりなんて寂しすぎるだろ。俺はもっと実咲と二人で、色々な青を探していきたい』」
小冊子を閉じる頃には日は殆ど暮れかけていた。テーブル越しの木下さんを西日が緩やかに照らす。角度の関係で木下さんの半分が明るく染まり、もう半分は陰に落ちていた。
朗読しているときは何も感じなかったのに、今更のように震えが湧き上がってきた。僕はちゃんとできただろうか。急に緊張してまともに木下さんのことを見られなくなる。
大丈夫だろうか。物語は直接的な恋の話は少ない。二人の間の空気をちゃんと表現できたかな。段々と指まで震えてきたところで、木下さんのゆっくり長い息が聞こえた。
「あー、いいなあ。私もこんな恋愛してみたかったなあ」
そんな言葉を漏らした木下さんは泣き笑いのような表情を浮かべている。すっと瞳を閉じて、自分に言い聞かせるように首を軽く横に振る。
「ううん。今からだって遅くないよね。ありがと、後輩君。私もこの夏にもうちょっと『青』を探してみるよ」
夕日に照らされている方の木下さんがニカッと勝気な笑みを浮かべた。
*
日が暮れた道を辿って事務所に戻ると、出る前と同じように雪乃さんが一人でパソコンと向き合っていた。戻ってきた僕を一瞥して、すぐに作業に戻ってしまう。
「ただいま。夏希さんは?」
「ずっと待ってたけど、さっき親から呼び出されて印刷所にいる」
ああ、そっか。ここは夏希さんの親の会社の一角だから、そんなこともあるのか。どれくらいで戻ってくるだろうか。事務所に戻ってくるとどっと疲れが込み上げてきて、今日は早く帰りたかった。
まあ、しばらく待つしかないか。伝票を片付けるためにデスクの傍のホワイトボードに近づいて、小さな違和感に気づいた。思い違いかもしれないけど、心なしかキーを叩く雪乃さんの指が上擦っている気がする。なんというか、そこはかとなくそわそわしているような。
「……多分、ちゃんとできたと思う」
「そう」
雪乃さんの言葉は素っ気ないけど、しっかりと返事は聞こえた。物語の内容を考えているのか、その指がキーボードの上で止まっている。
「あ、そうだ。これ、直前に見てすごい勇気出た。ありがとう」
丁寧に折りたたんでしまっていた住宅地図のコピーを取り出すと、雪乃さんの顔が僕と反対側に逸らされた。ん、と微かに頷く声が聞こえた気がする。
恭太の話では雪乃さんのことを雪女だなんて呼ぶ人がいるらしいけど、その人は多分雪乃さんの表面しか見ていない。いや、僕だって何を知ってるんだってレベルだけど。
「やっぱりさ、上手くいったのは雪乃さんの物語のおかげだと思う」
雪乃さんの物語を信じて、冊子を開いたらぐっと勇気が湧いてきた。だから、僕はすっと物語の世界に入って、内側からその世界を紡ぐことができたと思う。
ん、とさっきと同じように微かな声。雪乃さんが小さく顎を引いたように見えた。
「ほんと、凄いなって。僕みたいに空っぽな人間でも、物語の想いを届けられるんだってやっとちょっと自信を持てた」
夏希さんは僕のことを人の想いに寄り添えると評してくれたけど、それは単に僕が人の顔色をうかがいながら生きていることへの裏返しではないのか。
それでも、そんな僕にでもできることがある。凄い疲れてはいたけど、心地のいい疲労感だった。弁当屋でデリバリーをしていた時はもっとこなしているような感じが強くて、こんな風に思えたことはない。
やっと、本当に夏希さんに声をかけてもらえてよかったと心の底から思えた気がする――
「やめて」
はっきりとした声に意識が現実に引き戻された。
雪乃さんは座ったまま僕の方に向き合っていて、険しい顔で僕を見ている。
「軽々しく空っぽだなんて言わないで」
突然のことに雪乃さんが何を言っているのかすぐには飲み込めなかった。声のトーンは変わらないけど、怒ってる気がする。でも、そうだとして何がそんなに雪乃さんの心に触れてしまったかがわからない。
「えっと、ごめん」
「……何に謝っているかわからないなら、謝らないでほしい」
雪乃さんの言葉は図星過ぎて、返事が何も浮かんでこない。
雪乃さんはしばらくじっと僕を見上げて、それからやがてため息をつくとノートパソコンの前へと戻った。
僕の存在など忘れたかのようにカタタタタと猛スピードでキーが叩かれていく。
「貴方は全然空っぽなんかじゃないから。そんな風に卑下されると余計に傷つく人がいるってこと、知っていた方がいい」
それが雪乃さんの最後の言葉で、後はもうノートパソコンの画面から視線を逸らす気配もなかった。
結局、夏希さんが戻ってくるまで僕と雪乃さんは一言も交わすことはなくて。事務所内には苛立たしげなタイプ音がひたすらに響き続けた。
*
木下さんの依頼を終えてから一週間がたった。
あの日を境に僕は少しずつ朗読の依頼を受け持つようになり、一つ一つ配達人としての自分と向き合いながらこなしてきた。弁当屋のバイトの時はいかに早く確実に届けるかというのが腕の見せ所だったけど、今は到着してからが本番となる。まだまだ戸惑うことも多いけど、一歩一歩成長していく実感はそのままやりがいとなった。
一方で、雪乃さんとはあの日以来殆ど話していない。もちろん、元々話していたわけでもないのだけど、木下さんの依頼の日に一歩近づいたと思った距離は即座に数歩離れてしまったように感じる。
別に仲良くしたいとかそういうのじゃない。ただ、同僚として困らないくらいの関係にはなっておく必要があるだろうっていう使命感であって――自分にそう言い聞かせると知らず知らずのうちに息が溢れだしてきた。
「田野瀬さん、手続きは以上です。お疲れさまでした」
名前を呼ばれてハッと顔をあげると、大学の事務職員さんは次の学生の名前を呼んでいた。既に僕の方を向いていない職員さんに頭を下げて事務室を出る。奨学金の手続きの為に夏休み中の大学に出てきたけど、思っていたより早く終わった。
バイトまでまだしばらく時間があるし一度帰って軽く休もうか。そんなことを考えながら事務室から外に出るとまだ昼間の太陽がギラギラと路面を照らして存在感を主張している。そんなキャンパスの木陰に設けられた木製のテーブルに数人の女子学生の姿が見えた。その他には蝉の鳴き声くらいしかしないから、自然とその声が聞こえてくる。
「照乃、どうする? この後どこか遊び行く?」
「あー、今日はいいや。午前中のゼミだけでなんかちょっと疲れちゃった」
「大丈夫? 照乃さ、まだあの事引きずってるんじゃないの?」
「まさか! もうしっかり切り替えてるよ。ほら、私のことはいいから行って行って!」
そのグループの中の一人は木下さんだった。他の学生がテーブルから離れていく中、木下さんは笑顔で手を振って見送って、その姿が見えなくなったところで表情が暗く沈み重い息をつく。テーブルに肘をつきぼんやりと空を見上げる。その姿は“切り替えた”ようには見えなかった。
「……木下さん」
仕事で一回会っただけの人に声をかけるのはあまりよくないかなと思ったけど、物憂げな雰囲気を漂わせる木下さんを放っておくことができなかった。僕が声をかけると木下さんはきょとんとした様子で顔を上げて、それからバツが悪そうに微笑んだ。
「や、後輩君! この前はありがとね。おかげですっかり切り替えられたよ」
慌てて笑ってみせる木下さんの言葉はどこか乾いていて、それが本心でないことはすぐにわかった。僕が気づいたことに木下さんも気づいたようで、力のない笑みを浮かべる。
「あーあ。見られたくないとこ、見られちゃったなあ。これじゃ元気になったって言っても信じてもらえないよね」
あの日、成功したと思った仕事は僕の勝手な思い違いだったのだろうか。でも、朗読を終えた後の木下さんは確かにいい方向に変わって見えた。だとしたら、その後に何かあったのだろうか。
「色々考え込んでるみたいだけど、君が失敗したとかじゃなくてね。君が物語を運んでくれた時はスパッと切り替えられたのはホントにホント。だけど、段々とまたズルズルと引きずられるように戻っちゃって」
木下さんは声のトーンとは裏腹におどけたように両手をうんと空に向けて伸びをする。顔も笑っているけど、やりきれない思いが見え隠れしている。
僕が思っていたよりもずっと、木下さんが背負っていた傷は深かった。だから、たとえその表面を覆ったとしても、それがはがれてしまえばすぐにまた傷が顔を出す。
やっぱり、僕じゃダメなのか。夏希さんみたいに困った人を勇気づけて、背中を押すことはできないんだろうか。
「ほら、後輩君。表情硬くなってるよ!」
無意識のうちに奥歯をグッと噛みしめていた。木下さんの言葉に力を抜いて笑ってみたつもりだったけど、表情が上手く作れた自信はない。そんな僕を見て、木下さんは困ったように笑う。
「一回じゃ足りなかっただけなら、後何回かすれば本当に全部切り替えられる気がするの。もしかしたらまたお願いするかもしれないけど、その時はよろしくね、後輩君!」
「あ、木下さんっ――」
木下さんは明るい調子でそう言うと立ち上がって、僕が返事をするより先に歩いていってしまう。追いかけても何を伝えればいいのかわからなくて、じっと黙ってその背中を見送る。一人木陰のテーブルに残された僕に聞こえてくるのは飽きることなく鳴き続ける蝉の声。
木下さんは繰り返すうちによくなるかもしれないと言ったけど、それは深い傷の上の覆いをただ取り換えるだけにならないだろうか。本当に切り替えるためには、もっと根元から手当しないといけないんじゃないか。でも、そこにピタリとはまるものがわからない。僕には木下さんみたいな経験がなくて、その傷の深さも形も想像することしかできなかった。
自分の手に負えない時はどうすべきか、それは前のバイトでも散々教え込まれた。今の僕にわからないことは仕方ないことだと自分に言い聞かせてみる。そんなことをしてみても、バイト先に向かう足はずっしりと重かった。
*
言の葉デリバリーに着いてもまだ頭の中がグルグルしていた。まだ注文が入ったわけでもないのに、木下さんに届けるべき物語をずっと考えてしまっている。前回とは違った恋愛系の話。でも、どれだけ甘い恋愛の話も一時的に傷を塞ぐばっかりで同じことの繰り返しにしかならないのかもしれない。
モヤモヤとした意識のまま、すっかりなじんできた言の葉デリバリーの事務所のドアを開ける。そこにはいつも通りノートパソコンに向き合う雪乃さんと伝票の整理をする夏希さんの姿があった。
「あ、悠人君お疲れー。たった今お客さんからキャンセルの連絡あって、今日暇になっちゃったー……って」
夏希さんが怪訝そうな顔を浮かべて近づいてくる。何を思ったのか、その手がすっと額に当てられた。完全に意表を突かれて考えていたことが全部吹き飛ぶ。思わず後ずさり、首をかしげている夏希さんから距離をとる。ひんやりとした夏希さんの手の感触に遅れて顔が熱くなってきた。
「んー、熱はないか」
「なな、何してるんですか夏希さん!?」
「だって悠人君、凄い顔してるよ。しかめ面っていうか、顔のありとあらゆるパーツが険しくなってる」
ギュッと夏希さんが顔をしかめてみせる。それが僕の表情を再現しているとしたら相当に酷い顔をしている。流石にオーバーにしてると思うけど、急いで顔をもみほぐしてみる。あまり効き目はなかったみたいで夏希さんは変わらず心配そうな顔を浮かべていた。
「何かあったの?」
依頼を受けたわけでもないことを話していいか少し悩んで、それでも夏希さんと、それからキーを叩いている雪乃さんに聞こえるようにさっき見た木下さんの様子を伝える。自分で抱えきれない問題が起きたら他の人を頼るしかない。
夏希さんはじっと僕の話を聞いて、僕の頭の上に手を置く。それからニッと微笑んでその手をくしゃりと動かした。
「大丈夫だよ」
話を聞き終わった夏希さんのたった一言で、思いつめていた気持ちがふっと軽くなる気がした。
「その人の傷が深すぎると物語が届いても一回じゃ足りなかったり、実は必要とする物語が違うってことはこれまでもあったの。だから、この前私が対応していても照乃さんの状況は変わらなかったと思う」
「木下さんはまだお願いするかもって言ってましたけど、その時はまた同じような物語を届けるんですか?」
今日の木下さんの感じだと、もう一度同じ内容で依頼をしてくることになる気がする。それをそのまま受けていいんだろうか。僕にはそれを判断できるだけの経験がないけど、同じことを繰り返しても根本的な解決にはならない気がする。夏希さんは顎に手を当てて難しい顔をして考え込んでいた。
「悠人君の話だと、照乃さんに必要な物語はもっと違うものな気がするね。でもそれがなんなんのか……」
「依頼の時も今日も、木下さんはすごい気丈に振る舞っていて。でもそれって、僕に気をつかってくれてるってだけじゃなくて、自分にも言い聞かせてるような気がしたんです」
――昔からせっかちで予定が遅れたりすると落ち着かなくなっちゃってさー。
初めての依頼の時の木下さんの言葉を思い出す。せっかちで、予定が変わることが嫌い。就活が本格化する前に新しい恋を探したい。ちょっとずつパズルがはめ込まれていくような感じ。
「そう、なんだか失恋を急いで忘れようとしている感じなんです。だから、忘れることを忘れて次の恋を探そうとしてるというか……。まるで、失恋というイレギュラーな状態から早く抜け出すことを強いられているような」
パッと夏希さんが顔を上げる。だけど、その表情はいまいち冴えない。
スッと目を細めて何かを考えるような素振りの後、こくりと誰に向かってでもなく首を縦に振った。
「ありがと、悠人君。だいたいわかったかも」
いいことのはずなのに、夏希さんの顔色は優れない。
「だから、ここから先は私が引き継ぐね」
夏希さんから放たれた言葉は予想外だった。いや、予想していないわけではなかったけど、聞きたくない言葉だった。だってそれは。
「やっぱり、僕じゃ力不足なんですね」
ハッとした夏希さんが慌てたように首を横に振る。
「そんなことないよ。だけどこれはちょっと特殊なケースというか、今まで悠人君にお願いしていた仕事とはちょっとやり方が違うから」
夏希さんは言い方を変えてくれたけど、結局意味するところは同じ気がした。
当然僕はまだまだこの仕事に慣れていなくて、僕の手に負えない仕事はベテランである夏希さんが担うべきだ。特に、人の内面に触れるからこそ中途半端なことは許されない。
わかってる。わかってるからこそ、悔しかった。また僕は途中で諦めてしまうのかと、遠い昔に押し込めた感情にジリジリと責め立てられるようだった。
「わかりました。ここ数日上手くいってたせいで僕は自分の立ち位置を見失ってたみたいです」
初心者だ、と奥歯を噛みしめながらもう一度自分に言い聞かせる。自分に責任を持てる範囲の仕事だけをするべきだ、と。夏希さんが僕にはまだ早いと判断したなら、深入りするべきじゃない。力が入った奥歯からギリリと音が聞こえてくるのはグッと無視する。
「今日は仕事ないって言ってましたよね。他にすることがなければ僕はこれであがろうと思います」
「待って、悠人君……」
夏希さんの口が開きかけては閉じるという動きを何度か繰り返す。言いたいことがあるのにどんな言葉にすればいいのかわからない、そんな感じ。夏希さんにそんな顔をさせたいわけじゃなくて、ただ僕は自分の力不足が悔しくて。結局それで夏希さんを困らせてしまっている自分がなおさらやるせなくなっていく。
「メスで人を斬るという行為は見方によっては治療にも傷害にもなる」
僕と夏希さんの間に割って入ったのは、雪乃さんの冷ややかな声だった。そんな声であっても雪乃さんが僕に向けて話す言葉は久しぶりで、胸の奥がそっと騒ぎ立てる。
「そして、医師がどれだけ治療だと思っても、斬られる方がそれをどう判断するかはわからない」
雪乃さんは夏希さんの方を一瞥すると小さく息をついた。
「言葉は人を癒す薬にも、傷口を抉る毒にもなる。だけど、傷口は時には抉り出して綺麗にしないと治療ができないこともある。夏希がやろうとしているのはそういうもの」
夏希さんの表情は硬くて、それが雪乃さんの話していることが間違っていないことを裏付ける。
雪乃さんの言葉で、朧気だけど何をしようとしているのか僕にもわかってきた。きっとそれは荒療治で、うまくいかなければただ木下さんを傷つけるだけになりかねない。
そこまでする必要があるのか。自然と時が癒してくれるのを待った方がいいんじゃないだろうか。
だけど、木下さんはそれだけの時を待てるだろうか。
「だから夏希は貴方にやらせたくないんだろうけど。でも、もし貴方に木下さんの傷と向き合う覚悟があるのなら」
雪乃さんは僕の顔をまっすぐと見る。その透明な瞳に心の奥底まで見透かされるような気がした。だけど、僕はその雪乃さんの視線をまっすぐに受け止める。木下さんの痛みを近くで感じ取ってしまったからこそ、ここで逃げ出したくなかった。
「それなら、私は貴方が読むための物語を書くけど。どうする?」
雪乃さんの問いに対する返事は迷わなかった。これは僕が始めた仕事だって思いもあるにはあるけど、何よりも力なく笑う木下さんを助けることができるなら。
僕が頷くと、雪乃さんは小さく顎を引いてノートパソコンと向き合った。
*
予定時刻の5分前、インターホンを押す指が震えた。
ギリギリまで気持ちを落ち着けようかとも思ったけど、どうせ変わらないからやめた。それならば少しでも早い方が相手のニーズに合っている気もする。
初めてこの部屋を訪れた時とは違う種類の緊張。胃の辺りがヒュルヒュルとする感じ。
インターホンを押してすぐ、ガチャリと応答する気配。
「お世話になります。言の葉デリバリーです」
タタタっと部屋の中から足音が聞こえて、すっとドアが開く。部屋の中から顔を出した木下さんはちょっと疲れたような笑みを浮かべていた。
「や、後輩君。本当に呼んじゃってゴメンね」
「いえ、今日もよろしくお願いします」
木下さんに案内されて部屋の中に入ると、一週間と変わらぬ物の少ない白い部屋。だけど、今日はそこに1つだけ異物があった。部屋の隅に真新しいリクルートスーツが脱ぎ捨てられている。僕の視線に気づいたのか、木下さんが慌ててハンガー片手に拾い上げる。
「ごめんごめん、後輩君が来るのに散らかったままにしちゃってた」
「いえ、そんな」
これで散らかっているとしたら、雑然とした僕の部屋はゴミ屋敷になってしまうんじゃないだろうか。でも、そんな違和感が昨日の今日で急に依頼してきた理由なのかもしれない。
木下さんとキャンパスで話した翌日の夕方、できるだけ早くという希望で言の葉デリバリーに依頼があった。その時僕は別の注文に向かう準備をしていたところだったけど、そちらには夏希さんに行ってもらうことになり、僕が木下さんの注文を請けることとなった。
一週間前と同じ位置にぺたりと座り込んだ木下さんが力なく笑う。
「午前中、企業の合同説明会っていうのに行ってきたんだけどさ。たまたまそこに前の彼氏がいてね。アイツ、友達と来てたみたいですごいニコニコしてて、そんなの見ちゃったら説明会どころじゃなくなっちゃって」
木下さんはテーブルに両肘をつき顎を乗せる。
「バカみたいじゃん、私ばっかり引きずってて。」
だからさ、と木下さんが両手をパチンと叩き、それを合図にパッと笑みを浮かべた。でも、気丈な笑みはその分どこか痛々しくて。緊張とは違った苦しさに僕の方まで縛り付けられそうになる。
「私も早く上書きしなきゃいけないから。だから、そのためのエネルギー欲しくなっちゃって。今日もよろしくね、後輩君!」
一つ頷いて鞄から冊子を取りだす。雪乃さんが一日で書き上げた作品を事前に読んだ時には頭をガツンと殴られたようになって。傷口を抉り出すという言葉の意味を理解して、それを読み上げるのが僕だということに改めて震えてしまった。
だけど、僕が読むと言ったから雪乃さんが書いてくれたのだ。今更、夏希さんに泣きつくことはできなかった。
小さく息を吸う。思い描くのは、終わりかけの夏の夕暮れ。
「約束はいつもの場所。10年近く前に卒業した高校の正門にいくと浴衣を着た千絵が待っていた。このところお互い忙しかったから久しぶりに会えたことに胸が弾む。千絵は少し疲れているのかぼうっとしていたけど、俺に気づくとふわりと微笑んでくれた」
ちらりと冊子から顔をあげると、木下さんはワクワクとした様子で聞き入ってくれていた。ズキリと胸に痛みが走って慌てて冊子に視線を戻す。
「千絵の手を取って薄暗くなっていく街中を歩いていく。目指すはお城の上の広場の夏祭り会場。特別な夜の気配に街中は浮足立っていた。会った時は少し浮かない様子だった千絵も今はいつも通りの千絵だった」
今は夏希さんと雪乃さんのことを信じて読み上げるだけだ。意識を夏祭りに染まる街並みに溶け込ませていく。
主人公の斗真と千絵は幼なじみで、大学を卒業したタイミングで晴れて付き合い始めた関係だった。だけど、ここ最近はお互いの仕事が忙しくてなかなか会うことができていない。千絵は医学部を卒業して研究の道に進んでいて、今が一つの正念場だ――そういったことが二人のやり取りのなかで自然に交わされていく。
「『思い出すよな。初めてのデート』城の広場に向かう坂を上っていくと高校時代に初めて二人で来た夏祭りを思い出す。当時はまだ付き合ってなかったけど、高校最後の夏休みということで意を決して誘ってみたんだった。幼馴染相手なのに馬鹿みたいに緊張して、あの時のドキドキは今でも覚えている。あの時は結局手すら繋げなかったんだ」
そして、二人は夏祭りのメイン会場の広場に着く。メインイベントの花火まではまだ少し時間があった。そこで二人は屋台を見て回ることにする。かつて繋げなかった手を今はしっかりと握りしめて。
「『あ、りんご飴』千絵の声の先では屋台の光で紅く輝くりんご飴が並んでいた。『懐かしいな』そういえば、初めて二人で来た時に買ったのもりんご飴だった。食べるか尋ねると千絵が小さく頷いて二人で屋台に並ぶ。まるであの時をトレースしているみたいで、年甲斐もなく胸が高まっていった」
ページをめくるのに合わせて、もう一度木下さんを見る。目がキラキラするってこういうことを言えばいいんだろうか。この先の展開を期待して、続きを聞くために耳を澄ませている感じがした。また一つ、ズキリとした感触。
「夏祭りのメインの花火。そこでプロポーズをするつもりだ。忙しくて会えない日々が続くたびに、もっと傍にいたいという思いが募っていった。告白するなら思い出の場所で――だから今日は必死の思いで時間を作った」
そしてついにメインの花火が始まった。りんご飴を舐めながら、二人は黙って夜空に描かれる色とりどりの光を見つめる。ドンドンと大玉が空に打ち上げられるリズムに合わせて胸の鼓動も早まっていく。
やがて花火の勢いは増していき、クライマックスが近づく。一斉に打ち上げられた花火が紅掛花色の空を明るく染める。斗真は小さく絡めていた千絵の指を解き、その掌をギュッと握りしめた。
「『あのさ』その言葉を発したのは同時だった。千絵は何かをグッと決意するような目で俺を見ている。トクンと一つ鼓動が跳ねる。もし、俺と同じことを千絵が考えてたらそれは凄い運命的だ。『言いたいことがあるの』『俺もだよ』『……私に先に言わせてほしい』」
脳裏に描くのは花火で染め上げられた満点の夜空。斗真と千絵は向かい合い、千絵の言葉に斗真はゆっくりと頷いた。そして、千絵が口を開く。
「『私たち、もう別れよう?』」
ひうっと息を吸う音が聞こえた。木下さんの瞳からすっと色が落ちるのがわかった。
「『今、なんて?』『私ね、研究の関係で来年から海外に行くことになったの。だから、別れよう』」
千絵の言葉に斗真は頭の中が真っ白になった。帰ってくるまで待ち続ける、と答えた斗真に千絵は首を横に振る。
「『斗真のことは大好きだけど、だからこそ私が重荷になりたくないの。いつ戻ってくるかもわからないし、いつまでも斗真のこと待たせらんないから』」
「違うよ」
物語の中に割り込んできた木下さんの声。その声は震えていて、痛くて、か細くて。
「違うよ。そうじゃないよ」
口からポロポロと零れ落ちるように吐き出された声を耳から追い出す。違うという言葉が指しているのが注文した内容と話が違うということなのか、物語の中の千絵の言葉を否定しているのかはわからないけど、その声を聴き続けてしまったら僕は物語を続けられなくなる。
「『私たちは気が合う幼馴染でいた方がきっとお互い幸せだから。今までありがとう、斗真』最後に残されていったのは、唇に残るりんご飴の甘さと柔らかい感触、それからさっきまで隣にいた人の温もりだけだった。失ったものの大きさにヒリヒリと胸を焼かれる。それでも止めることはできなかった。千絵の瞳が既に海外を――自分の夢を見ていることに気づいてしまったから。『頑張れよ』誰にも届かないその声は花火に紛れて消えていった」
そこで、冊子は終わりを迎える。
斗真の視点から読み上げると、理不尽な別れの話だ。どれだけ最後に斗真が千絵のことを応援したとしても、それがどれだけの救いになるのだろう。幸せをあと一歩で掴み取るつもりだった斗真はこれからどうやって生きていくのだろう。
目を閉じて、深呼吸をする。
物語はこれで終わり。だけど僕はこれから木下さんに向き合わなければならない。注文と違うことを届けたことに怒られるかもしれない。それならそれでいい。もし傷つけてはいけない部分を貫いていたら、僕に何ができるだろうか。
目を開けると、木下さんは泣いていた。僕の方をじっと見ながら、泣いていることに気づいていないかのように見開かれた瞳から涙の線が伝っていく。ハッとした木下さんが戸惑いながら目元を拭った。
「嘘、私、泣いて。フラれてからも一度も泣かなかったのに」
「泣いても、いいんですよ」
できるだけゆっくり、けれどはっきりと伝える。
「泣いてもいいんです。急がなくていいんです。多分、木下さんは強い人だから、一生懸命前を向こうとしてますけど、ゆっくりと気持ちを整理してからでも大丈夫なんです」
せっかちだ。木下さんは自分のことをそう自称してるし、大なり小なりそんなところはあるのだろう。でも、木下さんがせっかちだとしても急ぐことが本人にとって幸せなこととは限らない。あるいは、急いでしまうために見落としていたものとじっくりと向き合う時間も必要なんじゃないだろうか。
「ごめん。ちょっとあっち向いてて」
言われた通りに木下さんに背を向ける。スンと鼻を鳴らす音がきっかけとなって、溜まりにたまったものが一気に溢れだしてきた。僕はただ空気になりきって木下さんの嗚咽を受け止める。その時間は僕にとっても痛々しいものかと思っていたけど、不思議と木下さんの部屋に来てから一番落ち着いた時間だった。
*
「ヒドいなあ、後輩君は」
目を真っ赤に腫らした木下さんがおどけて笑う。もういいよ、と言われて木下さんに向き直る頃には涙はすっかりおさまっていて、いつも通りの木下さんがそこにいた。
「注文、間違ってるじゃん」
「すみません、まだ不慣れなので取り違えちゃったかもしれません」
「むう、君は案外ふてぶてしいね。まあ、今日は許してあげよう」
床についた手に体を預ける木下さんは何だか自然体に見えた。少しだけ天井を見上げて、それからゆっくりと軽い息をつく。
「後輩君の言う通りでね。なんで急にフラれたんだろう、とか、私が悪かったのかな、とか。実はアイツの勝手だったんじゃないかとか、思い浮かんできたものに全部蓋をして、前に進もうとしてた」
でもさ、と木下さんは苦笑を浮かべる。
「就活が本格化する前に彼氏を、なんて失礼な話だよね。ただ私が癒してほしいから付き合うとか身勝手甚だしいじゃん。だから、新しい恋とかいうのは一回全部忘れて、自然と前に踏み出せるまでゆっくり自分と向き合ってみようと思うよ」
「大丈夫ですよ。木下さんは素敵な方ですし、きっといい出会いが待ってると思います」
自然と口に出た言葉に木下さんがきょとんと口を開けて、しばらくしてからニシシと含みのある笑みを浮かべた。
「ありがとね、後輩君。でも、お客さん相手に口説くのは感心しないなー。夏希も悲しむんじゃない?」
「え、あ、いや。今のは決してそういう意味じゃ」
本当に思い浮かんだ言葉をそのまま口にしただけなのだけど。あれ、でもその方がヤバいのかな。夏希さんにチクられるとせっかくバイト先を見つけたのにまた1から探しなおしになりかねない。
言い訳の言葉を探しているうちに木下さんの含み笑いは大笑いになって、再び目尻を軽く拭いながら立ち上がった。
「冗談だよ、冗談。恩人を売るような真似しないって。それに、新しい恋人に癒しを求める作戦を辞めたから、また注文するかもしれないしね」
「はい、いつでも」
「あ、今度はもう注文間違えないでね」
木下さんの言葉に僕は首をすくめるしかなかった。
立ち上がった木下さんに促されて僕も席を立ち、玄関へと向かう。
「ありがとね、後輩君。君にとっては仕事だったかもしれないけど、もし困ったときは相談してね。一応先輩だし、全力でサポートしたげる」
そう言って笑った木下さんの顔は今日一番明るいものだった。まるで花火みたいだな、と思いながら僕は木下さんの家を後にした。
*
久しぶりに乗った原付バイクの調子は悪くない。
木下さんの仕事を終えてから一週間、いい加減炎天下の中自転車を漕ぐのが嫌になって、前のバイト先だった弁当屋のおじさんに店が再開するまで宅配用のバイクを借りていいか聞いてみたら、二つ返事でOKを貰えた。
というわけでしばらく置きっぱなしにされていたバイクが無事かどうか試運転の為にとりあえず大学まで来てみたのだけど、今思えば他に行き先が無いのが少しだけ切ない。
とにもかくにも、荷台に宅配用のボックスのついたデリバリー用のバイクをしばらく使えることになった。雪乃さんが書いた冊子を入れるには少し過剰な設備かもしれないけど。
バイクの調子は確認できたし、このまま職場に向かおうかな。キャンパスの出口に向かってUターンしたところで見慣れた人影が目に入る。
木下さんが誰かと歩いているところだった。バレない程度に速度を落として追い抜きざまに様子を伺う。一緒に歩いているのは男子学生で「TRACK AND FIELD」と印字されたTシャツを纏っていた。
もしかして早速新しい彼氏が、なんて思い浮かんだけど、そんなことは直ぐにどうでもよくなった。男子学生が何かを口にすると木下さんはお腹を抱えて笑っている。その仕草はとても自然に見えた。
どうやら、僕の初めての仕事は無事に終わったようだった。
「――ということがあってですね。木下さん、元気そうでした」
言の葉デリバリーの事務所には夏希さんと雪乃さんがそろっている。注文が入っていたけどまだ時間には余裕があったから、大学で見かけた一部始終を報告すると夏希さんにパッと笑顔の花が咲いた。
「よかったね、悠人君。これでもう一人前だよ」
「いや、僕はまだそんな。僕はただ雪乃さんの物語を読んだだけなので」
今日は珍しく雪乃さんも手を止めて僕の話を聞いていた。木下さん用の物語を一日でしたためた雪乃さんとしても顛末が気になっていたのかもしれない。
木下さんへの二度目の宅配を終えてから、雪乃さんともそれまでのように話ができるようになった。といっても元々が元々だから、殆ど仕事の話だけど。
「雪乃さんの物語なしに僕が何を言ったって、多分木下さんには響かなかったと思います」
弁当でいえば、僕がやったのは雪乃さんが作った弁当をお客さんの家で温めただけだ。だから、おいしいお弁当の評価は雪乃さんが受けるべきだと思う。その雪乃さんは黙ったまま僕の方をじっと見ている。その視線に初めてバイトを終えた後のことを思いだした。
――そんな風に卑下されると余計に傷つく人がいるって気づいた方がいい。
「……でも、僕が届けたことにも何か意味があったなら嬉しいなって。そう思います」
雪乃さんに向かって口にしたつもりだったけど、雪乃さんはすっとノートパソコンと向き合ってしまった。うーん、また気に障ることを言ってしまったんだろうか。
少しずつ出発の時間が近づいている。夏希さんと仕事の話に戻ろうとしたところで、もう一度ちらっと雪乃さんの方を見てドキリとした。
雪乃さんの口元が本当に微かにだけど笑っているように見えた。でも、今の雪乃さんに浮かんでいるのはいつも通りの表情だった。気のせい、だったのだろうか。
「あ、そうだ。悠人君に1つだけ確認だけど」
「はい?」
笑顔の夏希さんに小さく影が差したように見えた。何か少し嫌な予感がする。
「悠人君がどれだけ頑張ってるかは知ってるけど、仕事が終わってすぐナンパはお姉さん感心しないなー」
それが何のことを指しているかすぐに気づいた。
――普通にチクってるじゃないですか!
心の中で木下さんにツッコミを入れていると、冷やりとした気配を感じた。ノートパソコンに視線を戻した雪乃さんが再び僕を見ている。透明感のある零度の視線が今は絶対零度になっている。じとっとしているというか、汚いものでも見るような。
「じゃあ、宅配行ってきます!」
「あ、ちょっと!」
夏希さんの声から逃げるように伝票と冊子をとると事務所の外に出る。あれ、でも弁明しないと本当に僕が木下さんをナンパしたようになってしまうんじゃ。だけど今から事務所内に戻る勇気はなかった。
いや、夏希さんは冗談だとわかってるんだろうけど、雪乃さんの方が心配だった。あとはもう夏希さんが上手くフォローしてくれることを願うしかない。
「雪乃さんと、もう少し話せるようになれるのかな」
物語を読んだ後、雪乃さんが何を考えているのか無性に気になる時がある。もっと言葉を交わせれば、雪乃さんが何を思って物語を紡いでいるかわかる日が来るのだろうか。
いや、焦る必要はない。雪乃さんの物語を読んでいけば何かわかるかもしれない。今はただ目の前の仕事に集中しよう。まだ僕は雪乃さんの物語につける色を見つけられていない。
深呼吸をしてバイクのエンジンをかけるとドッドッドッドと心地いい振動が返ってきた。
ゆっくりでいい。でも、家族とのこともゆっくりでも向き合っていかなければならない。木下さんに偉そうなことを言ったからには、自分の言葉に責任を持ちたかった。
遠くから吹いてきた夕暮れの夏の潮風の温さに包まれながら、バイクはトコトコと走り出した。
クーラーがガンガンに効いたファミレスで日替わりランチのハンバーグにフォークを伸ばしながら、恭太は怪訝そうな顔で僕を見る。こんがりと小麦色に日焼けした恭太は午前中に陸上部の練習を終えてきたはずなのに、僕の生気を吸い取ったかのように溌溂としていた。
「いやあ、バイトの調子がいまいちよくなくてさ……」
恭太は高校時代のクラスメイトで今は同じ大学の文学部に所属している。それでこうして時々昼食を一緒に食べたりするのだけど、色々と愚痴やらなんやら吐き出せる貴重な気の置けない友人だった。
「そういえば新しくバイト始めたんだっけ。でも、またデリバリーなんだろ? 悠人なら慣れっこじゃん」
「まあ、前は弁当運ぶだけでよかったんだけど、今回はキッチンスタッフ兼ねてる……というか出張調理するみたいな?」
気の置けない間柄、ではあるのだけど『言の葉デリバリー』の詳細までは伝えていない。言葉を届けるというバイトをすんなりと理解してもらえるとは思えなかったし、万が一理解されたとして興味本位で注文されたら目も当てられない。
「ふうん、よくわかんないけど大変そうだな。盆もずっとバイトすんの?」
「まずはバイトの内容覚えちゃいたいし。それに、そもそも奨学金だけだと学費きついしさ」
「すげえな、悠人は。俺も一応バイトはしてるけど殆ど走ってばっかりだからなあ」
「僕からすればこの凄い暑い中で練習してる恭太の方が凄いけど」
窓の外では痛そうなくらいの陽射しがジリジリとコンクリートを焼いていた。走るのなんてもってのほかで自転車でバイト先に向かうのすら億劫になる。
「実はさ、9月の駅伝の選手に選ばれてさ。めちゃめちゃ気合入ってんだよ」
「へえ、凄いじゃん」
「まあ、エースの先輩が不調でその枠に滑り込んだ感じだから素直に喜べないんだけどな。もし俺がブレーキになったらその先輩に申し訳が立たないし」
そう言いながらも恭太の顔はキラキラと輝いていた。高校時代から恭太はギラギラと燃えていて、どんな壁も真っすぐ突き破っていく感じで、近くで見ていると少しばかり眩しかった。それでも、その明るさに救われることも少なくなくて、高校時代に恭太に出会えていなければこうして大学に進んでいたかもわからない。
「話戻るけどさ、悠人、前のバイトは上手いことやってたじゃん。昔から器用なタイプだと思ってたんだけどな」
「そんなに器用だったっけ。自覚ないなあ」
「いやいや、文化祭とかで殺伐としたグループがあったとしても悠人を放り込んでおけばどうにかなるって委員長とか感謝してたぜ」
「それは器用っていうか、都合よくつかわれてる気がする」
ドリンクバーの少し薄めのメロンソーダをズルズルと吸う。そういえば高校時代は不和のあるグループによく放り込まれてた。当時は運が悪いくらいに思っていたけど、今思えば調整役とみなされていたのか。
「それで、そんな器用な悠人君は何に苦労してるんだ?」
バイトを始めてから一週間、僕は夏希さんの仕事を見学しながら朗読の練習をしていた。朗読の練習は夏希さんと雪乃さんを相手に行うのだけど、その反応は芳しくない。雪乃さんから反応がないっていうのは予想がついていたけど、夏希さんも腕を抱えて悩まし気な表情を浮かべてしまう有様だった。
思い返すだけでため息が溢れてくる。やっぱり僕に才能なんてないんじゃないだろうか。読んでいるのは同じ雪乃さんの物語のはずなのに、夏希さんが朗読するように上手くいかない。
「あー、やっぱいいや。なんか大変そうってことだけは理解した」
言いよどんでいるうちに恭太が続ける。恭太はグラスに残るウーロン茶を飲み干しながら苦笑を浮かべていた。朗読のことを話さずに苦労を伝えることが難しいのでありがたく頷いて話題を終わらせる。
元々自分の朗読力なんて信じてなかったわけだけど、それにしたって予想以上だった。そういえば恭太は文学部なのだし、朗読のコツとかも知っているのかな。まあ、文学部が朗読の練習をするなんて聞いたことないけど。ああ、でも文章を読むコツみたいなのは知ってるのかな。そういえば、雪乃さんも文学部だったっけ。
「あのさ、恭太。雪乃さんって知ってる?」
「ああ、わかるけど……もしかしてだけどさ、悠人。悪いこと言わないから雪乃さんはやめとけ?」
恭太は本気で心配するような視線を僕の方に向ける。大いに誤解されているようで慌てて掌をブンブン横に振る。
「いやいやいや、そういうのじゃないから。バイト先で一緒になったからどんな子なのかなって」
「どんな子っていっても、俺も殆ど話したことないからなあ。というか、女子同士とかで話しているのもほとんど見たことないし」
恭太は軽く天井の方を見て記憶をたどる仕草をするけど、すぐに困り顔になってしまった。何となくわかる気がする。この一週間、業務連絡のような会話は何度か交わす機会があったけど、感情を面に出すことは一切なかった。
「ああ、そうだ。ちょっと気分よくない話なんだけどさ」
「うん?」
恭太は少し身を伏せるようにして声のトーンを落とす。
「他の女子とかは雪乃さんのこと、陰で『雪女』って呼んでるらしいんだ」
*
どことなく沈んだ気分でバイト先に向かうと、いつものように雪乃さんがノートパソコンと向き合っていた。夏休みで他にやることもないからバイトには毎回顔を出していたけど、雪乃さんは決まって僕より先に事務所にいて物語を書いている。バイトが終わってからも事務所を出るのは三人一緒で、夏希さんが雪乃さんを車で送っていくことから雪乃さんがいない事務所を僕は知らない。
今日はまだ夏希さんは来ていないらしい。その日のオーダーを留めるホワイトボードには一枚の伝票と冊子。伝票には依頼者の住所とどういった物語を聞きたいか、あるいは悩みなんかが記されている。
木下照乃、長部田大学の3年生。今回が一回目の注文で、依頼内容は「失恋を忘れられるような恋の話」だった。これだと僕は同席を断られるかもしれない。
言の葉デリバリーの仕事の特徴から、基本的には相手の希望を最優先する。僕が同席していいかは当日の事前連絡で夏希さんが先方に確認し、了解が得られた所だけ僕がついていくという形をとっていた。この一週間でも恋愛絡みのオーダーが二件あって――いずれも依頼者は女性だった――どちらも僕は同席NGとなっていた。
伝票と一緒にとめられていた小冊子の方を手に取る。収められているのは二人の高校生がお互いの気持ちに気づいていく過程の物語。物語を書くためにその経験が必要ではないという話はよくするけど、雪乃さんが恋愛小説を書いているイメージがイマイチわかない。
それに、逆の立場に置き換えてみて自分が書いた恋愛小説を目の前で誰かに読まれたら気が気でなくなりそうだけど、雪乃さんは平然とキーボードをたたき続けている。まあ、僕がバイトを始める前から夏希さんは何度も雪乃さんの前で物語を読んできただろうからとっくに慣れているのかもしれないけど。
冊子に一通り目を通して息をつく。もし同席を断られたら今日はこの冊子で練習してみよう。恋愛の話を朗読するのは気恥しい気もするけど、いいトレーニングになるだろう。
と、ポケットに入れていたスマホがブーブー震える。夏希さんからの着信だった。
「もしもし、田野瀬です」
「もしもし、悠人君。もう事務所にいる?」
受話器から聞こえる夏希さんの向こう側の音は雑然としている。何だろう、その気配と夏希さんの声色から少し嫌な予感がした。
「はい、ちょうど今日の宅配用の冊子に目を通したところです」
「あ、よかった。実はちょっと街中の方に用事があって出かけてたんだけど、事故があったみたいで車が全く動かなくなっちゃってさー」
壁にかかる時計に目を向ける。どこで渋滞に引っかかっているかはわからないけど、オーダーの時間まではあと30分くらい。家に向かう時間まで含めると間に合わせるのは厳しそうだ。
「遅れてもいいか日をずらすか確認しましょうか?」
「ううん、木下さんには先に電話して確認したんだけどね」
何気ないやり取りのはずなのに、夏希さんの声に含みがある。何か言いにくそうにしているけど、なんだろう。遅れるにせよ別日になるにせよ僕はそんなに気にしないんだけど。
夏希さんが息を吸う音が受話器越しでもはっきり聞こえた。
「新人でも男子でも構わないから、予定通りやって欲しいって」
「は?」
予想外の内容に思考が一瞬停止した。新人でも男子でもってことは、朗読を、僕が。すぐに血の気が引く音がしてきた。スマホを落としそうになって慌てて握り直す。
「いやいやいや、無理ですよ!」
「大丈夫。この一週間、悠人君の朗読はどんどん上達してたよ」
「でもっ……」
でも、夏希さんは一度も納得した顔をしてくれなかったじゃないですか。そう思ったけど言葉が出てこない。それを言えば夏希さんは僕に幻滅するかもしれない。いつもそうだ。言わなければならないと思った言葉が喉元で竦んでしまう。
「悠人君。この一週間練習を見てきて、大丈夫だと思ったから木下さんの希望を受け入れたの。私が悠人君をこの仕事に誘った理由を忘れなければ大丈夫」
夏希さんの声は優しい。人の気持ちに寄り添えること――それが、夏希さんが僕に声をかけた理由。そう言われても相変わらず僕にその自覚は全然なくて、その言葉を受けても自信はまるで浮かんでこない。
「わかり、ました」
それでも頷く。もし本当に夏希さんが僕に期待してくれているなら、それに応えたいと思った。バクバクと騒がしい胸に手を当てて、ゆっくりと息を吐く。
「ありがとう。頑張ってね」
電話が切れると情けないくらいに足がガクガク震えてくる。前の弁当屋のバイトの時はこんなことなかった。ただ運べば終わるというのはやっぱり僕の性に合っていたらしい。できるだろうか、僕に夏希さんのような朗読が。
「これ、木下さんの家の場所」
無造作に横から一枚の紙が手渡される。それは住宅地図を拡大したもので、駅近くの学生向けのマンションに印が入っていた。それを差し出した雪乃さんは無表情のままだけど、どうやら電話の内容から状況を察したらしい。
「ありがとう。でも、本当に僕でいいのかな……」
「どうして?」
「どうしてって、僕は夏希さんみたいに上手く朗読できるわけじゃないし」
相手にガッカリされたらどうしよう。僕が期待外れだと思われるだけならいいけど、この言の葉デリバリーが、雪乃さんの物語の評価を下げるのは嫌だった。だけど雪乃さんは興味を失ったようにノートパソコンの前に戻ってしまう。
「朗読が上手いか下手かはそんなに大事じゃない」
雪乃さんの視線はノートパソコンの画面をのぞいているけど、その手はキーを打つ姿勢のままで固まっている。無表情だけど、何かを考えているように見えた。
「朗読の練習は技術的な話。大事なのは届けたいって気持ちだって、夏希はいつも言ってる」
届けたい気持ち。上手くいくとか失敗するとかじゃなくて、困っている人に物語を届ける。不思議と気分が軽くなった気がした。状況は何一つ変わらないけど、うまくやれなくてもいいんだという言葉はするりと胸の隙間に入ってきた。
「この一週間の練習で貴方はそれができると思う。だけど、もし自分のことが信じられないなら」
雪乃さんがもう一度僕の方を見る。透明だと思っていた瞳に確かに色を感じた。雪女だなんてとんでもなくて、海のような深くて落ち着いた蒼。その色に思わず息を呑み込んだ。
「その代わりに私が書いた物語を信じてほしい」
*
駐輪場に自転車を止めて汗を拭う。言の葉デリバリーでバイトを始めてからはずっと夏希さんの同席だったから、移動は夏希さんの車の助手席に乗せてもらっていたけど、一人で配達に行くことを考えると移動手段も考えなければいけない。原付を買えたらいいのだけどそれだけの余裕はない。
とにもかくにも、今は目の前の仕事だ。タオルで一通り汗を拭うとエントランスを通り、エレベーターに乗る。お役御免になった住宅地図のコピーをしまおうとして、裏側に何か書かれているのに気づいた。
「これって……」
――頑張れ。
とても小さく気づくか気づかないかの大きさで一言書き込まれていた。
私が書いた物語を信じてほしい。事務所を出る前の一言を思い出して胸の奥の方が不規則な跳ね方をした。息が詰まって、慌てて深呼吸をする。早鐘のようになりかけた心臓を落ち着かせる。いや、これはここまで全力で自転車を漕いできたからで。
グルグルと混乱したまま木下さんの部屋の前に着いてしまった。約束の時間も迫っているし、落ち着くための時間もない。インターホンを押すかどうか躊躇っていると、先にドアの方がガチャリと開いた。オレンジ色のTシャツを着た女性が迷いがちに僕を見ている。
「あの、もしかして」
「は、はい。お待たせしました。言の葉デリバリーです!」
弁当屋のバイトで体に浸み込んだ反射で頭を下げる。そっと顔を挙げて様子を伺うと、その女性はニカッと笑みを浮かべた。顔や腕が仄かに日に焼けているけど、何かスポーツでもやっているのかもしれない。
「来てくれてありがとう。木下です」
本当に男がきたら躊躇いが生じてドタキャンしてくれないかなと思ったけど、木下さんは躊躇いなく僕を部屋にあげた。ワンルームのリビングにはあまり物がなく白を基調としてシンプルにまとめられている。
木下さんに促されてリビングの中央に置かれた小さめのテーブルに向かい合うように座る。窓からは西の方に傾いた黄昏色の陽射しが柔らかく差し込んできていた。
「この度はご注文ありがとうございます。言の葉デリバリーの田野瀬です。あー、えっと。長部田大学の1年です」
「あ、後輩君なんだね。私、経済学部の3年生なんだ」
僕が後輩とわかったからか、木下さんの緊張感がほどけて綻ぶ。一方で僕は少しだけそんな木下さんの雰囲気に戸惑っていた。依頼の内容から線の細い人を思い浮かべていたけど、木下さんはラフな格好と少し日に焼けた肌だったり、短く切りそろえられた髪だったりとアクティブな人という印象だった。
「夏希は教養部の頃に知り合ったんだけど、今日は無理してきてもらっちゃってごめんね。私、昔からせっかちで予定が遅れたりすると落ち着かなくなっちゃってさー」
「いえ、むしろこちらこそ、僕みたいな新人ですみません」
テーブルに向かい合って頭を下げあって、小さく息をつく。部屋に入るまでは凄い緊張していたけど、今は思っていたより落ち着いていた。もし木下さんが想像していた通りの線が細いタイプで失恋に追い詰められているのであれば責任を感じていたかもしれないけど、あっけらかんとした雰囲気にそのプレッシャーは薄れていた。
「それで、本日のご注文ですが『失恋を忘れられるような恋の話』でよかったですね」
「うん、合ってるよ」
木下さんは苦笑を浮かべながら頬をかく。
「高校3年の終わり位から付き合いだしたんだけどね。ほら、さっきも言ったけど私せっかちで。それが負担だったみたいで、先月スパッとフラれちゃって」
木下さんは小さく窓の方を振り返って、部屋に入り込む夕日に目を細める。
「自分でもびっくりなんだけど、結構長いこと付き合ってたからかな。意外なほどショック受けててさ。これから就活も本格化してくるし、夏休みの間には切り替えたくって」
「わかりました。それでは、始めてよろしいですか?」
「うん、お願い」
鞄から白い冊子を取り出す。不思議と冊子を開くと心が落ち着いた。難しいことは考えなくていい。ただ、この物語を木下さんに届ける。そっと目を閉じて小さく息を吸う。瞼の裏に事前に読んだ物語の情景が浮かび上がる。
「一年の中でも海がとびきり蒼く光るある夏の日、夏休みの高校のグラウンドに一人佇む村野美咲を見つけた――」
思っていたよりもずっとスムーズに物語に入ることができた。読み上げながら世界に足を踏み入れていく感じ。それまではただのクラスメイトだった主人公と村野美咲は夏休みのある日グラウンドで顔を合わせる。何をしているのかと問いかける主人公に実咲は「青を探している」と儚げに笑うのだった。
「『青だって?』不可思議な行動をとる実咲は暑さで頭がやられたかのようにも思えたけど、いたって真面目な顔をしている。『夏休みの間にとびっきりの青を見つけたい』触れてしまえば壊れそうな程にその声は震えていて、実咲の存在自体が夏の日の陽炎が描き出した幻なんじゃないかと思うほど希薄だった」
そんな実咲を見ていると居ても立ってもいられなくなって、主人公は実咲の青探しを手伝うことにした。青く佇む海、空色が濃ゆく色めく山の上、水が煌めくプール、夏祭りのブルーハワイのかき氷など青に関係しそうな場所を巡るが、中々実咲が求める青は見つからない。
結局街中のどこにも青を見いだせないまま、夏休みは最終日を迎えてしまう。
「夏休み最終日、実咲から呼び出されたのは何の変哲もない高校の屋上だった。約束の時間に訪れてみると、実咲は汚れるのもいとわず屋上に寝転がってゆっくりと雲が流れる夏空を見上げていた」
物語の架橋。ゆっくりと呼吸を整える。一瞬だけ意識が現実に帰ってきて、じっと聞き入る木下さんが見えた。目を閉じる。パチリと意識が物語の世界を泳ぎ始める。
「『青探しは諦めたのかよ』実咲に促されるまま横に寝転がると、出会った時と何も変わらない青空が俺たちを見下ろしていた。『見つけたよ』隣で笑う実咲の指が微かに触れる。あの日、希薄に感じた実咲の存在を今はありありと感じていた。『海も山も、プールも夏祭りの花火も私にとって最高の夏の思い出』」
ほうっと息が漏れた。それは俺の息ではなくて、木下さんの音だった。
「『ずっと物語の世界みたいな青春に憧れてた。いてもたってもいられなくなってバカみたいに学校に探しに行ってみたら、君が来てくれた』はにかむ実咲が俺を見ている。朧気に触れていた指先がするりと絡んだ。『ありがとう。今日はお礼を言いたかっただけ。これ以上は――多分、迷惑になっちゃうから』絡んでいた指先がするりと解けて実咲が立ち上がる。その手が逃れていかない様に、とっさにつかんでいた。ハッと息を吸う実咲の声がはっきり聞こえた」
遠くから蝉の残響が聞こえてきた気がした。それは物語にそっと夏の色を添える。
「『迷惑なんて今更だって』こんな時でも俺の声はぶっきらぼうで、でもその手は決して離さない。『これで終わりなんて寂しすぎるだろ。俺はもっと実咲と二人で、色々な青を探していきたい』」
小冊子を閉じる頃には日は殆ど暮れかけていた。テーブル越しの木下さんを西日が緩やかに照らす。角度の関係で木下さんの半分が明るく染まり、もう半分は陰に落ちていた。
朗読しているときは何も感じなかったのに、今更のように震えが湧き上がってきた。僕はちゃんとできただろうか。急に緊張してまともに木下さんのことを見られなくなる。
大丈夫だろうか。物語は直接的な恋の話は少ない。二人の間の空気をちゃんと表現できたかな。段々と指まで震えてきたところで、木下さんのゆっくり長い息が聞こえた。
「あー、いいなあ。私もこんな恋愛してみたかったなあ」
そんな言葉を漏らした木下さんは泣き笑いのような表情を浮かべている。すっと瞳を閉じて、自分に言い聞かせるように首を軽く横に振る。
「ううん。今からだって遅くないよね。ありがと、後輩君。私もこの夏にもうちょっと『青』を探してみるよ」
夕日に照らされている方の木下さんがニカッと勝気な笑みを浮かべた。
*
日が暮れた道を辿って事務所に戻ると、出る前と同じように雪乃さんが一人でパソコンと向き合っていた。戻ってきた僕を一瞥して、すぐに作業に戻ってしまう。
「ただいま。夏希さんは?」
「ずっと待ってたけど、さっき親から呼び出されて印刷所にいる」
ああ、そっか。ここは夏希さんの親の会社の一角だから、そんなこともあるのか。どれくらいで戻ってくるだろうか。事務所に戻ってくるとどっと疲れが込み上げてきて、今日は早く帰りたかった。
まあ、しばらく待つしかないか。伝票を片付けるためにデスクの傍のホワイトボードに近づいて、小さな違和感に気づいた。思い違いかもしれないけど、心なしかキーを叩く雪乃さんの指が上擦っている気がする。なんというか、そこはかとなくそわそわしているような。
「……多分、ちゃんとできたと思う」
「そう」
雪乃さんの言葉は素っ気ないけど、しっかりと返事は聞こえた。物語の内容を考えているのか、その指がキーボードの上で止まっている。
「あ、そうだ。これ、直前に見てすごい勇気出た。ありがとう」
丁寧に折りたたんでしまっていた住宅地図のコピーを取り出すと、雪乃さんの顔が僕と反対側に逸らされた。ん、と微かに頷く声が聞こえた気がする。
恭太の話では雪乃さんのことを雪女だなんて呼ぶ人がいるらしいけど、その人は多分雪乃さんの表面しか見ていない。いや、僕だって何を知ってるんだってレベルだけど。
「やっぱりさ、上手くいったのは雪乃さんの物語のおかげだと思う」
雪乃さんの物語を信じて、冊子を開いたらぐっと勇気が湧いてきた。だから、僕はすっと物語の世界に入って、内側からその世界を紡ぐことができたと思う。
ん、とさっきと同じように微かな声。雪乃さんが小さく顎を引いたように見えた。
「ほんと、凄いなって。僕みたいに空っぽな人間でも、物語の想いを届けられるんだってやっとちょっと自信を持てた」
夏希さんは僕のことを人の想いに寄り添えると評してくれたけど、それは単に僕が人の顔色をうかがいながら生きていることへの裏返しではないのか。
それでも、そんな僕にでもできることがある。凄い疲れてはいたけど、心地のいい疲労感だった。弁当屋でデリバリーをしていた時はもっとこなしているような感じが強くて、こんな風に思えたことはない。
やっと、本当に夏希さんに声をかけてもらえてよかったと心の底から思えた気がする――
「やめて」
はっきりとした声に意識が現実に引き戻された。
雪乃さんは座ったまま僕の方に向き合っていて、険しい顔で僕を見ている。
「軽々しく空っぽだなんて言わないで」
突然のことに雪乃さんが何を言っているのかすぐには飲み込めなかった。声のトーンは変わらないけど、怒ってる気がする。でも、そうだとして何がそんなに雪乃さんの心に触れてしまったかがわからない。
「えっと、ごめん」
「……何に謝っているかわからないなら、謝らないでほしい」
雪乃さんの言葉は図星過ぎて、返事が何も浮かんでこない。
雪乃さんはしばらくじっと僕を見上げて、それからやがてため息をつくとノートパソコンの前へと戻った。
僕の存在など忘れたかのようにカタタタタと猛スピードでキーが叩かれていく。
「貴方は全然空っぽなんかじゃないから。そんな風に卑下されると余計に傷つく人がいるってこと、知っていた方がいい」
それが雪乃さんの最後の言葉で、後はもうノートパソコンの画面から視線を逸らす気配もなかった。
結局、夏希さんが戻ってくるまで僕と雪乃さんは一言も交わすことはなくて。事務所内には苛立たしげなタイプ音がひたすらに響き続けた。
*
木下さんの依頼を終えてから一週間がたった。
あの日を境に僕は少しずつ朗読の依頼を受け持つようになり、一つ一つ配達人としての自分と向き合いながらこなしてきた。弁当屋のバイトの時はいかに早く確実に届けるかというのが腕の見せ所だったけど、今は到着してからが本番となる。まだまだ戸惑うことも多いけど、一歩一歩成長していく実感はそのままやりがいとなった。
一方で、雪乃さんとはあの日以来殆ど話していない。もちろん、元々話していたわけでもないのだけど、木下さんの依頼の日に一歩近づいたと思った距離は即座に数歩離れてしまったように感じる。
別に仲良くしたいとかそういうのじゃない。ただ、同僚として困らないくらいの関係にはなっておく必要があるだろうっていう使命感であって――自分にそう言い聞かせると知らず知らずのうちに息が溢れだしてきた。
「田野瀬さん、手続きは以上です。お疲れさまでした」
名前を呼ばれてハッと顔をあげると、大学の事務職員さんは次の学生の名前を呼んでいた。既に僕の方を向いていない職員さんに頭を下げて事務室を出る。奨学金の手続きの為に夏休み中の大学に出てきたけど、思っていたより早く終わった。
バイトまでまだしばらく時間があるし一度帰って軽く休もうか。そんなことを考えながら事務室から外に出るとまだ昼間の太陽がギラギラと路面を照らして存在感を主張している。そんなキャンパスの木陰に設けられた木製のテーブルに数人の女子学生の姿が見えた。その他には蝉の鳴き声くらいしかしないから、自然とその声が聞こえてくる。
「照乃、どうする? この後どこか遊び行く?」
「あー、今日はいいや。午前中のゼミだけでなんかちょっと疲れちゃった」
「大丈夫? 照乃さ、まだあの事引きずってるんじゃないの?」
「まさか! もうしっかり切り替えてるよ。ほら、私のことはいいから行って行って!」
そのグループの中の一人は木下さんだった。他の学生がテーブルから離れていく中、木下さんは笑顔で手を振って見送って、その姿が見えなくなったところで表情が暗く沈み重い息をつく。テーブルに肘をつきぼんやりと空を見上げる。その姿は“切り替えた”ようには見えなかった。
「……木下さん」
仕事で一回会っただけの人に声をかけるのはあまりよくないかなと思ったけど、物憂げな雰囲気を漂わせる木下さんを放っておくことができなかった。僕が声をかけると木下さんはきょとんとした様子で顔を上げて、それからバツが悪そうに微笑んだ。
「や、後輩君! この前はありがとね。おかげですっかり切り替えられたよ」
慌てて笑ってみせる木下さんの言葉はどこか乾いていて、それが本心でないことはすぐにわかった。僕が気づいたことに木下さんも気づいたようで、力のない笑みを浮かべる。
「あーあ。見られたくないとこ、見られちゃったなあ。これじゃ元気になったって言っても信じてもらえないよね」
あの日、成功したと思った仕事は僕の勝手な思い違いだったのだろうか。でも、朗読を終えた後の木下さんは確かにいい方向に変わって見えた。だとしたら、その後に何かあったのだろうか。
「色々考え込んでるみたいだけど、君が失敗したとかじゃなくてね。君が物語を運んでくれた時はスパッと切り替えられたのはホントにホント。だけど、段々とまたズルズルと引きずられるように戻っちゃって」
木下さんは声のトーンとは裏腹におどけたように両手をうんと空に向けて伸びをする。顔も笑っているけど、やりきれない思いが見え隠れしている。
僕が思っていたよりもずっと、木下さんが背負っていた傷は深かった。だから、たとえその表面を覆ったとしても、それがはがれてしまえばすぐにまた傷が顔を出す。
やっぱり、僕じゃダメなのか。夏希さんみたいに困った人を勇気づけて、背中を押すことはできないんだろうか。
「ほら、後輩君。表情硬くなってるよ!」
無意識のうちに奥歯をグッと噛みしめていた。木下さんの言葉に力を抜いて笑ってみたつもりだったけど、表情が上手く作れた自信はない。そんな僕を見て、木下さんは困ったように笑う。
「一回じゃ足りなかっただけなら、後何回かすれば本当に全部切り替えられる気がするの。もしかしたらまたお願いするかもしれないけど、その時はよろしくね、後輩君!」
「あ、木下さんっ――」
木下さんは明るい調子でそう言うと立ち上がって、僕が返事をするより先に歩いていってしまう。追いかけても何を伝えればいいのかわからなくて、じっと黙ってその背中を見送る。一人木陰のテーブルに残された僕に聞こえてくるのは飽きることなく鳴き続ける蝉の声。
木下さんは繰り返すうちによくなるかもしれないと言ったけど、それは深い傷の上の覆いをただ取り換えるだけにならないだろうか。本当に切り替えるためには、もっと根元から手当しないといけないんじゃないか。でも、そこにピタリとはまるものがわからない。僕には木下さんみたいな経験がなくて、その傷の深さも形も想像することしかできなかった。
自分の手に負えない時はどうすべきか、それは前のバイトでも散々教え込まれた。今の僕にわからないことは仕方ないことだと自分に言い聞かせてみる。そんなことをしてみても、バイト先に向かう足はずっしりと重かった。
*
言の葉デリバリーに着いてもまだ頭の中がグルグルしていた。まだ注文が入ったわけでもないのに、木下さんに届けるべき物語をずっと考えてしまっている。前回とは違った恋愛系の話。でも、どれだけ甘い恋愛の話も一時的に傷を塞ぐばっかりで同じことの繰り返しにしかならないのかもしれない。
モヤモヤとした意識のまま、すっかりなじんできた言の葉デリバリーの事務所のドアを開ける。そこにはいつも通りノートパソコンに向き合う雪乃さんと伝票の整理をする夏希さんの姿があった。
「あ、悠人君お疲れー。たった今お客さんからキャンセルの連絡あって、今日暇になっちゃったー……って」
夏希さんが怪訝そうな顔を浮かべて近づいてくる。何を思ったのか、その手がすっと額に当てられた。完全に意表を突かれて考えていたことが全部吹き飛ぶ。思わず後ずさり、首をかしげている夏希さんから距離をとる。ひんやりとした夏希さんの手の感触に遅れて顔が熱くなってきた。
「んー、熱はないか」
「なな、何してるんですか夏希さん!?」
「だって悠人君、凄い顔してるよ。しかめ面っていうか、顔のありとあらゆるパーツが険しくなってる」
ギュッと夏希さんが顔をしかめてみせる。それが僕の表情を再現しているとしたら相当に酷い顔をしている。流石にオーバーにしてると思うけど、急いで顔をもみほぐしてみる。あまり効き目はなかったみたいで夏希さんは変わらず心配そうな顔を浮かべていた。
「何かあったの?」
依頼を受けたわけでもないことを話していいか少し悩んで、それでも夏希さんと、それからキーを叩いている雪乃さんに聞こえるようにさっき見た木下さんの様子を伝える。自分で抱えきれない問題が起きたら他の人を頼るしかない。
夏希さんはじっと僕の話を聞いて、僕の頭の上に手を置く。それからニッと微笑んでその手をくしゃりと動かした。
「大丈夫だよ」
話を聞き終わった夏希さんのたった一言で、思いつめていた気持ちがふっと軽くなる気がした。
「その人の傷が深すぎると物語が届いても一回じゃ足りなかったり、実は必要とする物語が違うってことはこれまでもあったの。だから、この前私が対応していても照乃さんの状況は変わらなかったと思う」
「木下さんはまだお願いするかもって言ってましたけど、その時はまた同じような物語を届けるんですか?」
今日の木下さんの感じだと、もう一度同じ内容で依頼をしてくることになる気がする。それをそのまま受けていいんだろうか。僕にはそれを判断できるだけの経験がないけど、同じことを繰り返しても根本的な解決にはならない気がする。夏希さんは顎に手を当てて難しい顔をして考え込んでいた。
「悠人君の話だと、照乃さんに必要な物語はもっと違うものな気がするね。でもそれがなんなんのか……」
「依頼の時も今日も、木下さんはすごい気丈に振る舞っていて。でもそれって、僕に気をつかってくれてるってだけじゃなくて、自分にも言い聞かせてるような気がしたんです」
――昔からせっかちで予定が遅れたりすると落ち着かなくなっちゃってさー。
初めての依頼の時の木下さんの言葉を思い出す。せっかちで、予定が変わることが嫌い。就活が本格化する前に新しい恋を探したい。ちょっとずつパズルがはめ込まれていくような感じ。
「そう、なんだか失恋を急いで忘れようとしている感じなんです。だから、忘れることを忘れて次の恋を探そうとしてるというか……。まるで、失恋というイレギュラーな状態から早く抜け出すことを強いられているような」
パッと夏希さんが顔を上げる。だけど、その表情はいまいち冴えない。
スッと目を細めて何かを考えるような素振りの後、こくりと誰に向かってでもなく首を縦に振った。
「ありがと、悠人君。だいたいわかったかも」
いいことのはずなのに、夏希さんの顔色は優れない。
「だから、ここから先は私が引き継ぐね」
夏希さんから放たれた言葉は予想外だった。いや、予想していないわけではなかったけど、聞きたくない言葉だった。だってそれは。
「やっぱり、僕じゃ力不足なんですね」
ハッとした夏希さんが慌てたように首を横に振る。
「そんなことないよ。だけどこれはちょっと特殊なケースというか、今まで悠人君にお願いしていた仕事とはちょっとやり方が違うから」
夏希さんは言い方を変えてくれたけど、結局意味するところは同じ気がした。
当然僕はまだまだこの仕事に慣れていなくて、僕の手に負えない仕事はベテランである夏希さんが担うべきだ。特に、人の内面に触れるからこそ中途半端なことは許されない。
わかってる。わかってるからこそ、悔しかった。また僕は途中で諦めてしまうのかと、遠い昔に押し込めた感情にジリジリと責め立てられるようだった。
「わかりました。ここ数日上手くいってたせいで僕は自分の立ち位置を見失ってたみたいです」
初心者だ、と奥歯を噛みしめながらもう一度自分に言い聞かせる。自分に責任を持てる範囲の仕事だけをするべきだ、と。夏希さんが僕にはまだ早いと判断したなら、深入りするべきじゃない。力が入った奥歯からギリリと音が聞こえてくるのはグッと無視する。
「今日は仕事ないって言ってましたよね。他にすることがなければ僕はこれであがろうと思います」
「待って、悠人君……」
夏希さんの口が開きかけては閉じるという動きを何度か繰り返す。言いたいことがあるのにどんな言葉にすればいいのかわからない、そんな感じ。夏希さんにそんな顔をさせたいわけじゃなくて、ただ僕は自分の力不足が悔しくて。結局それで夏希さんを困らせてしまっている自分がなおさらやるせなくなっていく。
「メスで人を斬るという行為は見方によっては治療にも傷害にもなる」
僕と夏希さんの間に割って入ったのは、雪乃さんの冷ややかな声だった。そんな声であっても雪乃さんが僕に向けて話す言葉は久しぶりで、胸の奥がそっと騒ぎ立てる。
「そして、医師がどれだけ治療だと思っても、斬られる方がそれをどう判断するかはわからない」
雪乃さんは夏希さんの方を一瞥すると小さく息をついた。
「言葉は人を癒す薬にも、傷口を抉る毒にもなる。だけど、傷口は時には抉り出して綺麗にしないと治療ができないこともある。夏希がやろうとしているのはそういうもの」
夏希さんの表情は硬くて、それが雪乃さんの話していることが間違っていないことを裏付ける。
雪乃さんの言葉で、朧気だけど何をしようとしているのか僕にもわかってきた。きっとそれは荒療治で、うまくいかなければただ木下さんを傷つけるだけになりかねない。
そこまでする必要があるのか。自然と時が癒してくれるのを待った方がいいんじゃないだろうか。
だけど、木下さんはそれだけの時を待てるだろうか。
「だから夏希は貴方にやらせたくないんだろうけど。でも、もし貴方に木下さんの傷と向き合う覚悟があるのなら」
雪乃さんは僕の顔をまっすぐと見る。その透明な瞳に心の奥底まで見透かされるような気がした。だけど、僕はその雪乃さんの視線をまっすぐに受け止める。木下さんの痛みを近くで感じ取ってしまったからこそ、ここで逃げ出したくなかった。
「それなら、私は貴方が読むための物語を書くけど。どうする?」
雪乃さんの問いに対する返事は迷わなかった。これは僕が始めた仕事だって思いもあるにはあるけど、何よりも力なく笑う木下さんを助けることができるなら。
僕が頷くと、雪乃さんは小さく顎を引いてノートパソコンと向き合った。
*
予定時刻の5分前、インターホンを押す指が震えた。
ギリギリまで気持ちを落ち着けようかとも思ったけど、どうせ変わらないからやめた。それならば少しでも早い方が相手のニーズに合っている気もする。
初めてこの部屋を訪れた時とは違う種類の緊張。胃の辺りがヒュルヒュルとする感じ。
インターホンを押してすぐ、ガチャリと応答する気配。
「お世話になります。言の葉デリバリーです」
タタタっと部屋の中から足音が聞こえて、すっとドアが開く。部屋の中から顔を出した木下さんはちょっと疲れたような笑みを浮かべていた。
「や、後輩君。本当に呼んじゃってゴメンね」
「いえ、今日もよろしくお願いします」
木下さんに案内されて部屋の中に入ると、一週間と変わらぬ物の少ない白い部屋。だけど、今日はそこに1つだけ異物があった。部屋の隅に真新しいリクルートスーツが脱ぎ捨てられている。僕の視線に気づいたのか、木下さんが慌ててハンガー片手に拾い上げる。
「ごめんごめん、後輩君が来るのに散らかったままにしちゃってた」
「いえ、そんな」
これで散らかっているとしたら、雑然とした僕の部屋はゴミ屋敷になってしまうんじゃないだろうか。でも、そんな違和感が昨日の今日で急に依頼してきた理由なのかもしれない。
木下さんとキャンパスで話した翌日の夕方、できるだけ早くという希望で言の葉デリバリーに依頼があった。その時僕は別の注文に向かう準備をしていたところだったけど、そちらには夏希さんに行ってもらうことになり、僕が木下さんの注文を請けることとなった。
一週間前と同じ位置にぺたりと座り込んだ木下さんが力なく笑う。
「午前中、企業の合同説明会っていうのに行ってきたんだけどさ。たまたまそこに前の彼氏がいてね。アイツ、友達と来てたみたいですごいニコニコしてて、そんなの見ちゃったら説明会どころじゃなくなっちゃって」
木下さんはテーブルに両肘をつき顎を乗せる。
「バカみたいじゃん、私ばっかり引きずってて。」
だからさ、と木下さんが両手をパチンと叩き、それを合図にパッと笑みを浮かべた。でも、気丈な笑みはその分どこか痛々しくて。緊張とは違った苦しさに僕の方まで縛り付けられそうになる。
「私も早く上書きしなきゃいけないから。だから、そのためのエネルギー欲しくなっちゃって。今日もよろしくね、後輩君!」
一つ頷いて鞄から冊子を取りだす。雪乃さんが一日で書き上げた作品を事前に読んだ時には頭をガツンと殴られたようになって。傷口を抉り出すという言葉の意味を理解して、それを読み上げるのが僕だということに改めて震えてしまった。
だけど、僕が読むと言ったから雪乃さんが書いてくれたのだ。今更、夏希さんに泣きつくことはできなかった。
小さく息を吸う。思い描くのは、終わりかけの夏の夕暮れ。
「約束はいつもの場所。10年近く前に卒業した高校の正門にいくと浴衣を着た千絵が待っていた。このところお互い忙しかったから久しぶりに会えたことに胸が弾む。千絵は少し疲れているのかぼうっとしていたけど、俺に気づくとふわりと微笑んでくれた」
ちらりと冊子から顔をあげると、木下さんはワクワクとした様子で聞き入ってくれていた。ズキリと胸に痛みが走って慌てて冊子に視線を戻す。
「千絵の手を取って薄暗くなっていく街中を歩いていく。目指すはお城の上の広場の夏祭り会場。特別な夜の気配に街中は浮足立っていた。会った時は少し浮かない様子だった千絵も今はいつも通りの千絵だった」
今は夏希さんと雪乃さんのことを信じて読み上げるだけだ。意識を夏祭りに染まる街並みに溶け込ませていく。
主人公の斗真と千絵は幼なじみで、大学を卒業したタイミングで晴れて付き合い始めた関係だった。だけど、ここ最近はお互いの仕事が忙しくてなかなか会うことができていない。千絵は医学部を卒業して研究の道に進んでいて、今が一つの正念場だ――そういったことが二人のやり取りのなかで自然に交わされていく。
「『思い出すよな。初めてのデート』城の広場に向かう坂を上っていくと高校時代に初めて二人で来た夏祭りを思い出す。当時はまだ付き合ってなかったけど、高校最後の夏休みということで意を決して誘ってみたんだった。幼馴染相手なのに馬鹿みたいに緊張して、あの時のドキドキは今でも覚えている。あの時は結局手すら繋げなかったんだ」
そして、二人は夏祭りのメイン会場の広場に着く。メインイベントの花火まではまだ少し時間があった。そこで二人は屋台を見て回ることにする。かつて繋げなかった手を今はしっかりと握りしめて。
「『あ、りんご飴』千絵の声の先では屋台の光で紅く輝くりんご飴が並んでいた。『懐かしいな』そういえば、初めて二人で来た時に買ったのもりんご飴だった。食べるか尋ねると千絵が小さく頷いて二人で屋台に並ぶ。まるであの時をトレースしているみたいで、年甲斐もなく胸が高まっていった」
ページをめくるのに合わせて、もう一度木下さんを見る。目がキラキラするってこういうことを言えばいいんだろうか。この先の展開を期待して、続きを聞くために耳を澄ませている感じがした。また一つ、ズキリとした感触。
「夏祭りのメインの花火。そこでプロポーズをするつもりだ。忙しくて会えない日々が続くたびに、もっと傍にいたいという思いが募っていった。告白するなら思い出の場所で――だから今日は必死の思いで時間を作った」
そしてついにメインの花火が始まった。りんご飴を舐めながら、二人は黙って夜空に描かれる色とりどりの光を見つめる。ドンドンと大玉が空に打ち上げられるリズムに合わせて胸の鼓動も早まっていく。
やがて花火の勢いは増していき、クライマックスが近づく。一斉に打ち上げられた花火が紅掛花色の空を明るく染める。斗真は小さく絡めていた千絵の指を解き、その掌をギュッと握りしめた。
「『あのさ』その言葉を発したのは同時だった。千絵は何かをグッと決意するような目で俺を見ている。トクンと一つ鼓動が跳ねる。もし、俺と同じことを千絵が考えてたらそれは凄い運命的だ。『言いたいことがあるの』『俺もだよ』『……私に先に言わせてほしい』」
脳裏に描くのは花火で染め上げられた満点の夜空。斗真と千絵は向かい合い、千絵の言葉に斗真はゆっくりと頷いた。そして、千絵が口を開く。
「『私たち、もう別れよう?』」
ひうっと息を吸う音が聞こえた。木下さんの瞳からすっと色が落ちるのがわかった。
「『今、なんて?』『私ね、研究の関係で来年から海外に行くことになったの。だから、別れよう』」
千絵の言葉に斗真は頭の中が真っ白になった。帰ってくるまで待ち続ける、と答えた斗真に千絵は首を横に振る。
「『斗真のことは大好きだけど、だからこそ私が重荷になりたくないの。いつ戻ってくるかもわからないし、いつまでも斗真のこと待たせらんないから』」
「違うよ」
物語の中に割り込んできた木下さんの声。その声は震えていて、痛くて、か細くて。
「違うよ。そうじゃないよ」
口からポロポロと零れ落ちるように吐き出された声を耳から追い出す。違うという言葉が指しているのが注文した内容と話が違うということなのか、物語の中の千絵の言葉を否定しているのかはわからないけど、その声を聴き続けてしまったら僕は物語を続けられなくなる。
「『私たちは気が合う幼馴染でいた方がきっとお互い幸せだから。今までありがとう、斗真』最後に残されていったのは、唇に残るりんご飴の甘さと柔らかい感触、それからさっきまで隣にいた人の温もりだけだった。失ったものの大きさにヒリヒリと胸を焼かれる。それでも止めることはできなかった。千絵の瞳が既に海外を――自分の夢を見ていることに気づいてしまったから。『頑張れよ』誰にも届かないその声は花火に紛れて消えていった」
そこで、冊子は終わりを迎える。
斗真の視点から読み上げると、理不尽な別れの話だ。どれだけ最後に斗真が千絵のことを応援したとしても、それがどれだけの救いになるのだろう。幸せをあと一歩で掴み取るつもりだった斗真はこれからどうやって生きていくのだろう。
目を閉じて、深呼吸をする。
物語はこれで終わり。だけど僕はこれから木下さんに向き合わなければならない。注文と違うことを届けたことに怒られるかもしれない。それならそれでいい。もし傷つけてはいけない部分を貫いていたら、僕に何ができるだろうか。
目を開けると、木下さんは泣いていた。僕の方をじっと見ながら、泣いていることに気づいていないかのように見開かれた瞳から涙の線が伝っていく。ハッとした木下さんが戸惑いながら目元を拭った。
「嘘、私、泣いて。フラれてからも一度も泣かなかったのに」
「泣いても、いいんですよ」
できるだけゆっくり、けれどはっきりと伝える。
「泣いてもいいんです。急がなくていいんです。多分、木下さんは強い人だから、一生懸命前を向こうとしてますけど、ゆっくりと気持ちを整理してからでも大丈夫なんです」
せっかちだ。木下さんは自分のことをそう自称してるし、大なり小なりそんなところはあるのだろう。でも、木下さんがせっかちだとしても急ぐことが本人にとって幸せなこととは限らない。あるいは、急いでしまうために見落としていたものとじっくりと向き合う時間も必要なんじゃないだろうか。
「ごめん。ちょっとあっち向いてて」
言われた通りに木下さんに背を向ける。スンと鼻を鳴らす音がきっかけとなって、溜まりにたまったものが一気に溢れだしてきた。僕はただ空気になりきって木下さんの嗚咽を受け止める。その時間は僕にとっても痛々しいものかと思っていたけど、不思議と木下さんの部屋に来てから一番落ち着いた時間だった。
*
「ヒドいなあ、後輩君は」
目を真っ赤に腫らした木下さんがおどけて笑う。もういいよ、と言われて木下さんに向き直る頃には涙はすっかりおさまっていて、いつも通りの木下さんがそこにいた。
「注文、間違ってるじゃん」
「すみません、まだ不慣れなので取り違えちゃったかもしれません」
「むう、君は案外ふてぶてしいね。まあ、今日は許してあげよう」
床についた手に体を預ける木下さんは何だか自然体に見えた。少しだけ天井を見上げて、それからゆっくりと軽い息をつく。
「後輩君の言う通りでね。なんで急にフラれたんだろう、とか、私が悪かったのかな、とか。実はアイツの勝手だったんじゃないかとか、思い浮かんできたものに全部蓋をして、前に進もうとしてた」
でもさ、と木下さんは苦笑を浮かべる。
「就活が本格化する前に彼氏を、なんて失礼な話だよね。ただ私が癒してほしいから付き合うとか身勝手甚だしいじゃん。だから、新しい恋とかいうのは一回全部忘れて、自然と前に踏み出せるまでゆっくり自分と向き合ってみようと思うよ」
「大丈夫ですよ。木下さんは素敵な方ですし、きっといい出会いが待ってると思います」
自然と口に出た言葉に木下さんがきょとんと口を開けて、しばらくしてからニシシと含みのある笑みを浮かべた。
「ありがとね、後輩君。でも、お客さん相手に口説くのは感心しないなー。夏希も悲しむんじゃない?」
「え、あ、いや。今のは決してそういう意味じゃ」
本当に思い浮かんだ言葉をそのまま口にしただけなのだけど。あれ、でもその方がヤバいのかな。夏希さんにチクられるとせっかくバイト先を見つけたのにまた1から探しなおしになりかねない。
言い訳の言葉を探しているうちに木下さんの含み笑いは大笑いになって、再び目尻を軽く拭いながら立ち上がった。
「冗談だよ、冗談。恩人を売るような真似しないって。それに、新しい恋人に癒しを求める作戦を辞めたから、また注文するかもしれないしね」
「はい、いつでも」
「あ、今度はもう注文間違えないでね」
木下さんの言葉に僕は首をすくめるしかなかった。
立ち上がった木下さんに促されて僕も席を立ち、玄関へと向かう。
「ありがとね、後輩君。君にとっては仕事だったかもしれないけど、もし困ったときは相談してね。一応先輩だし、全力でサポートしたげる」
そう言って笑った木下さんの顔は今日一番明るいものだった。まるで花火みたいだな、と思いながら僕は木下さんの家を後にした。
*
久しぶりに乗った原付バイクの調子は悪くない。
木下さんの仕事を終えてから一週間、いい加減炎天下の中自転車を漕ぐのが嫌になって、前のバイト先だった弁当屋のおじさんに店が再開するまで宅配用のバイクを借りていいか聞いてみたら、二つ返事でOKを貰えた。
というわけでしばらく置きっぱなしにされていたバイクが無事かどうか試運転の為にとりあえず大学まで来てみたのだけど、今思えば他に行き先が無いのが少しだけ切ない。
とにもかくにも、荷台に宅配用のボックスのついたデリバリー用のバイクをしばらく使えることになった。雪乃さんが書いた冊子を入れるには少し過剰な設備かもしれないけど。
バイクの調子は確認できたし、このまま職場に向かおうかな。キャンパスの出口に向かってUターンしたところで見慣れた人影が目に入る。
木下さんが誰かと歩いているところだった。バレない程度に速度を落として追い抜きざまに様子を伺う。一緒に歩いているのは男子学生で「TRACK AND FIELD」と印字されたTシャツを纏っていた。
もしかして早速新しい彼氏が、なんて思い浮かんだけど、そんなことは直ぐにどうでもよくなった。男子学生が何かを口にすると木下さんはお腹を抱えて笑っている。その仕草はとても自然に見えた。
どうやら、僕の初めての仕事は無事に終わったようだった。
「――ということがあってですね。木下さん、元気そうでした」
言の葉デリバリーの事務所には夏希さんと雪乃さんがそろっている。注文が入っていたけどまだ時間には余裕があったから、大学で見かけた一部始終を報告すると夏希さんにパッと笑顔の花が咲いた。
「よかったね、悠人君。これでもう一人前だよ」
「いや、僕はまだそんな。僕はただ雪乃さんの物語を読んだだけなので」
今日は珍しく雪乃さんも手を止めて僕の話を聞いていた。木下さん用の物語を一日でしたためた雪乃さんとしても顛末が気になっていたのかもしれない。
木下さんへの二度目の宅配を終えてから、雪乃さんともそれまでのように話ができるようになった。といっても元々が元々だから、殆ど仕事の話だけど。
「雪乃さんの物語なしに僕が何を言ったって、多分木下さんには響かなかったと思います」
弁当でいえば、僕がやったのは雪乃さんが作った弁当をお客さんの家で温めただけだ。だから、おいしいお弁当の評価は雪乃さんが受けるべきだと思う。その雪乃さんは黙ったまま僕の方をじっと見ている。その視線に初めてバイトを終えた後のことを思いだした。
――そんな風に卑下されると余計に傷つく人がいるって気づいた方がいい。
「……でも、僕が届けたことにも何か意味があったなら嬉しいなって。そう思います」
雪乃さんに向かって口にしたつもりだったけど、雪乃さんはすっとノートパソコンと向き合ってしまった。うーん、また気に障ることを言ってしまったんだろうか。
少しずつ出発の時間が近づいている。夏希さんと仕事の話に戻ろうとしたところで、もう一度ちらっと雪乃さんの方を見てドキリとした。
雪乃さんの口元が本当に微かにだけど笑っているように見えた。でも、今の雪乃さんに浮かんでいるのはいつも通りの表情だった。気のせい、だったのだろうか。
「あ、そうだ。悠人君に1つだけ確認だけど」
「はい?」
笑顔の夏希さんに小さく影が差したように見えた。何か少し嫌な予感がする。
「悠人君がどれだけ頑張ってるかは知ってるけど、仕事が終わってすぐナンパはお姉さん感心しないなー」
それが何のことを指しているかすぐに気づいた。
――普通にチクってるじゃないですか!
心の中で木下さんにツッコミを入れていると、冷やりとした気配を感じた。ノートパソコンに視線を戻した雪乃さんが再び僕を見ている。透明感のある零度の視線が今は絶対零度になっている。じとっとしているというか、汚いものでも見るような。
「じゃあ、宅配行ってきます!」
「あ、ちょっと!」
夏希さんの声から逃げるように伝票と冊子をとると事務所の外に出る。あれ、でも弁明しないと本当に僕が木下さんをナンパしたようになってしまうんじゃ。だけど今から事務所内に戻る勇気はなかった。
いや、夏希さんは冗談だとわかってるんだろうけど、雪乃さんの方が心配だった。あとはもう夏希さんが上手くフォローしてくれることを願うしかない。
「雪乃さんと、もう少し話せるようになれるのかな」
物語を読んだ後、雪乃さんが何を考えているのか無性に気になる時がある。もっと言葉を交わせれば、雪乃さんが何を思って物語を紡いでいるかわかる日が来るのだろうか。
いや、焦る必要はない。雪乃さんの物語を読んでいけば何かわかるかもしれない。今はただ目の前の仕事に集中しよう。まだ僕は雪乃さんの物語につける色を見つけられていない。
深呼吸をしてバイクのエンジンをかけるとドッドッドッドと心地いい振動が返ってきた。
ゆっくりでいい。でも、家族とのこともゆっくりでも向き合っていかなければならない。木下さんに偉そうなことを言ったからには、自分の言葉に責任を持ちたかった。
遠くから吹いてきた夕暮れの夏の潮風の温さに包まれながら、バイクはトコトコと走り出した。