「だから、盆もバイトが忙しいんだって。正月には帰るからさ」

「ゴールデンウィークの時も『バイトが忙しいから盆に帰る』って言っとったたい。そもそも、なんのバイトしとっと?」

 電話の向こうから聞こえてきた声は怒るというより戸惑っていた。ここで怒ってくれれば僕だって強く出れるのだけど曖昧な言葉は僕の態度も曖昧にさせる。別に実家に帰るか帰らないかなんてバイトを理由にしなくてもいいはずなのに、都合のいい言い訳を求めてしまう。

「デリバリーだよ。バイクで宅配してるの」

「宅配って、バイク乗ったり危なくないとね?」

「バイクって言っても原付だから心配ないよ。じゃ、切るから」

「あっ、ちょっと。悠人っ!」

 それ以上話を聞かずに電話を切り、そのままスマホの電源も切ってしまう。たった数分の電話のはずなのに思った以上に気力を消耗していた。別に親子仲が特別悪いとは思わないけど、反抗期とはまた違った気まずさが僕たち家族には居座り続けている。
 小さく首を振って息をつく。とにもかくにも伝えておくべきことは伝えたし、次にやるべきことは。
 夏休みで人気が少なくなった大学のキャンパスの一角にある掲示板。そこにはバイト募集の張り紙がいくつも張り付けられている。ネットのバイト情報誌なんかも参考にしてるけど掲示板に張り付けられているのはこの辺りで本当に学生を必要としているお店が多くて、夏休み前まで働いていたバイトもこの掲示板で見つけたものだった。

「わあ、悠人君。こんなところでどうしたの?」

 後ろから呼びかけられて振り返えると、夏希さんが不思議そうな表情を浮かべて僕を見ていた。肩越しで切りそろえられた髪が夏の熱気を含んだ風にサワサワと揺れている。

「ちょっとバイト探してまして」

「あれ。悠人君、お弁当屋さんで宅配のバイトしてなかったっけ?」

 夏希さんは前期の教養の講義で知り合った一学年上の先輩だった。学部関係なく受講できる地域の地名について学ぶ講義で、夏希さんとはフィールドワークで同じ班だった。フィールドワーク中にバイトの話とかした気もするけど、よく覚えてるなあ。ああ、でも、夏希さんもあの弁当屋を時々利用してたんだっけ。

「それが店主のおじさんが入院しちゃって。しばらく休業なんですよ」

「えっ、あのおじさん!? 入院って大丈夫なの?」

「あっ、はい。命に別状はないとかで。ただ、しばらく経過観察もかねて安静が必要みたいです」

 入学して早々に見つけた弁当のデリバリーのバイトは店主のおじさんもいい人だし賄いで夕飯代も浮くしでいいことづくめだったのだけど、店が再開するまで食いつなぐ先を探さなければいけない。デリバリーは自分に合っていた気がするし、繋ぎだとしても似たようなところがいいなとは思ってる。まあ、夏休みにバイトしていた実績を作っておきたいし、贅沢は言ってられない。
 ふうんと頷いた夏希さんはそれから意味ありげな笑みを浮かべる。その顔に少しだけ嫌な予感がした。フィールドワークの時も似たような表情を浮かべたときの夏希さんはあまりよからぬことを考えている――と言っても精々本来の目的を脇に置いて砂浜で1時間遊び倒したとかってレベルだけど。

「そんな悠人君におすすめのバイト先があるんだー。興味ある?」

「えっ? あ、いや、遠慮しておきます……」

 近年の色々と事件が起きている関係か大学からは「個人から持ち掛けられたバイトには気をつける」ようお達しが出ていた。いや、夏希さんのことは信頼してるけど、その辺りの線引きって難しいし。
 僕が後ずさるより先に夏希さんの手が伸びてきてパッと僕の手を取る。夏希さんは僕が生まれてから接してきた女性の中でもスゴイ綺麗な人で、そんな夏希さんに突然手を握られたことで頭の方に熱が昇ってくる。

「そんなこと言わないで、お願い。私たちには君の力が必要なの」

 ヒロインが主人公に投げかけるようなセリフにちょっと頭がクラクラとする。思わず頷いてしまいたくなる心を抑えつけて、手を引っ込めようとするけど夏希さんは離してはくれなかった。

「えっと、一応聞くだけですけどどんなバイトなんです?」

「デリバリー。ほら、悠人君にピッタリでしょ」

 確かにデリバリーのバイトを探していたけど、大学からのお達しのこともあって何かよろしくない運び屋のような想像をしてしまう。いや、こんな田舎の大学の周辺でそんな需要があるとは思えないけど。

「えっと、何を運ぶんですか?」

「言葉」

 当然のように笑って告げられた夏希さんの言葉に「ああ、言葉か」と普通に納得しそうになって、慌てて首を横に振る。言葉を運ぶってどういうことだろう。書籍を配送とかってことか。でも、それならそう言うだろうし、書籍の配送なら普通の配送会社の役割な気がする。やっぱり何か怪しいものを運ばされるんじゃ。

「なんか想像を膨らませてるみたいだけど、別にそんな変な仕事じゃなくて、お客さんがのオーダーに合わせた物語を朗読って形でお届けするの」

「なるほどですね。でも、それを僕が?」

「悠人君なら向いてると思うんだ」

「いやいやいや、ないですよ」

 小さく首をかしげる夏希さんに、僕は手を握られていることも忘れてブンブンと手の平を夏希さんに向けて左右に振る。

「朗読なんて無理です。親相手にすら自分の気持ちを伝えられないような僕が、知らない人のところに行って言葉を届けるなんて無理です」

 どうにか逃げ出そうと言葉を続けるけど、夏希さんは表情を変えずにじっと僕を見ている。

「そんなことないよ。悠人君はきっとこの仕事に向いてる」

 なぜだか自信満々に言い切る夏希さんに不思議な説得力を感じてしまった。もしかしたら本当に僕には自分でも気づいていない適性があるのかもしれない――って、いやいやいや。それができるなら親との電話で逃げるように電話なんて切っていない。声で自己表現っていうのは昔から苦手だった。

「ね、ね。どうかな。見学だけでもしてみない?」

 夏希さんは握りしめたままの僕の手をぎゅっと引く。一歩、二歩と夏希さんの方に引き寄せられて、得意げに笑う夏希さんの顔がすぐ目の前にあった。その表情がクルンと変わって小さく揺れた瞳が伏せられる。

「それにね、最近すごく忙しくなってきて、悠人君が手伝ってくれたら凄いお姉さん助かるなーって」

 演技だとわかっていても夏希さんの懇願するような声はグサグサと胸の奥の方に突き刺さってくる。悪いセールスに引っかかっているような自覚はありながらも、この状況から逃げ出したいという気持ちの方が段々と強くなってきた。

「とりあえず、見学だけなら……」

 足だけと言われてセールスと話したらそのまま建物内に入り込まれるって心理学の話は聞いたことがあるけど、今の僕にはどうしようもなかった。とにかくこの場をやり過ごしたくて小さく頷いてみる。

「ホント? 流石悠人君!」

 夏希さんの顔にパッと笑顔が咲く。ずっと閉じ切っていたドアをグイっと夏希さんにこじ開けられたような気がした。小さくため息をついてみるけど、それくらいじゃ夏希さんは全く動じる様子もなくて。

「それで、見学はいつ行けばいいですか?」

 握られっぱなしだった手がグイっと引かれた。ニッと笑った夏希さんがそのまま僕の手を引いて駆け出していく。

「今からっ!」



 意気揚々とした夏希さんの車に乗って連れていかれたのは大学から20分程の場所にある「片倉印刷」という町工場のような場所だった。弁当のデリバリーで何度も近くを通ったことはあったから存在は知っていたけど、中に入るのは初めてだった。砂利がひかれた駐車場で車がガタガタと揺れる。駐車場には何台か車が止まっていたけど、宅配をやっているような雰囲気はなかった。

「ここ、お父さんがやってる印刷所でね。ちょっとスペース借りてるの」

 ベージュ色の軽自動車から降りた夏希さんは敷地の縁を通るようにして印刷所の裏手の方へと歩いていく。そういえば普段は夏希さん呼びだからあまり意識を意識してなかったけど苗字は片倉だったっけ。
 夏希さんの後ろについていくと、建物のちょうど裏側に勝手口のようなアルミサッシの無骨なドアがあり、その横に『言の葉デリバリー』とカラフルに彩られたプレートが駆けられていた。

「鈴ちゃん、お疲れー」

 夏希さんが扉を開けるとそこには10畳程の空間に天井まで届くようなレターボックスが数多く並ぶ特徴的な部屋になっていた。レターボックスの取っ手部分には「切ない恋愛の物語」、「挽回の可能性を信じたくなる物語」、「ドキドキする物語」といったテープが張り付けられている。取っ手の面はプラスチックで中が透けて見えるようになっていて、ボックス毎に冊子が収められているようだった。

「鈴ちゃん。調子どう?」

 夏希さんが声をかけたのは、部屋の奥デスクでノートパソコンと向き合っている同い年くらいの女の子だった。タタタタッとキーを叩く小気味よい音が息をつく間もないくらいなり続けている。

「別に、普通」

 鈴と呼ばれた女の子が涼やかな声で答えながら夏希さんの方を見る。夏希さんがその名前の通り夏のような存在感を発する女性だとすれば、その女の子は冷たく透き通る冬のような眼差しが印象的だった。見た目だけの雰囲気でいえば夏希さんとは何もかも対照的に見える。夏希さんの服装が明るく爽やかなアザーブルーなのに対して、その女の子は落ち着きのあるスモークブルー。髪型も大人っぽく整えられた夏希さんと、幼さの残るショートヘアって感じ。何より、見に纏う雰囲気が夏と冬のように正反対に見えた。
 その瞳が夏希さんの一歩後ろにいた僕を見つけたのかすうっと細められる。動き続けてきた指がピタリと止まった。

「この前話してた悠人君。今日は見学だけどね」

「あ、えっと。田野瀬悠人、長部田大学の工学部の1年です」

 会釈をしてみるけど、特に反応は返ってこなかった。じっと僕の方を見ている気がするから無視されているわけではないと思うけど、何かを見透かすような瞳に見つめられていると何故だかザワザワと胸騒ぎがしてくる。ちらっと振り返った夏希さんの顔には苦笑いが浮かんでいた。

「悠人君、この子は雪乃鈴ちゃん。悠人君と同じ長部田大学の1年生で、ここでは届けるお話を執筆してもらっているの。お弁当屋さんでいえばキッチンスタッフってところかな」

 雪乃さんは微かに頷くような素振りを見せると、すぐにまたパソコンと向き合ってしまう。気づかないうちに緊張していたのか、視線がそれたことでふっと息が漏れた。夏希さんは雪乃さんのデスクに近づくと、デスクの上のホワイトボードにとめられていた伝票のような紙を手に取る。

「今日の依頼は16時に秋江さんのところね。オーダーは『家族の暖かみを感じる物語』かあ。まだストックあったっけ?」

 レターボックスの方に向かおうとした夏希さんの腕を雪乃さんの手がそっと掴んだ。反対側の手でノートパソコンの隣に置いてあった冊子を手に取り夏希さんへと差し出す。

「秋江さんのところはストックを使い切ってるから、さっき書き上げた」

「おー、流石鈴ちゃん! どれどれ……」

 白い無地の冊子を夏希さんは先頭から捲っていく。じっと黙って読み進めていくけど、その表情は豊かに動き回っていて、夏希さんが物語に惹き込まれているであろうことが伝わってきた。じっとそのまま3分程たったところで冊子の内容を捲り終わって、夏希さんの顔に改めて夏の花のような笑みが咲く。

「バッチリ! じゃあ、早速届けてくるね!」

 雪乃さんは無表情のままで――いや、ちょっと安心したのかな——首を縦に振る。夏希さんは冊子とコインケースらしきものを鞄に入れると、僕を手招きして事務所の外に出た。後を追って出る直前、ふと視線を感じた気がして振り返ってみるけど、既に雪乃さんはカタカタと執筆に戻っていた。気のせい、だったかな。

「悠人君、どうしたの?」

「あっ、今行きます」

 ここまで来た時と同じように再びベージュ色の軽自動車の助手席に乗り込む。ガタガタと揺れながら車は緩やかに印刷所を後にした。車にカーナビはついているけど、慣れているのか夏希さんは操作することなく車を走らせていく。この先には海辺の集落があるはずだ。

「……ごめんね。別に鈴ちゃんは悪い子じゃないんだけど」

 運転席の夏希さんは前を見ながらちょっと困ったような笑みを浮かべている。夏希さんとは言葉を交わした雪乃さんだったけど、結局僕に対しては一言も発しなかった。

「大丈夫です。思ったことをどう言葉に出したらいいかわからないこと、僕にもよくありますから」

 雪乃さんが僕を見る表情は硬かったけど、そこに含まれているのは敵意とかではなくて、戸惑いとか緊張とか不安とかそういった類のものに感じた。その表情を僕はよく知っている。実家のアルバムを捲ればそんな表情を浮かべる僕がいくらでもいるはずだ。
 夏希さんはポカンとした様子でちらっと僕を見て、それからカラカラと楽しそうに笑い出した。一瞬で変わってしまった表情に置いていかれてしまう。

「あの、夏希さん?」

「ううん、なんでもない。やっぱり君を選んだ私の目に狂いはなかったなって思っただけ」

 僕はまだ見学のはずで働くと決めたわけじゃないのだけど、夏希さんの中では既定路線になってしまっているような気がする。そんなことを考えているうちに夏希さんの表情はまた移ろっていて、少し目を細めて遠くの方を見ていた。

「鈴ちゃんは人のことが嫌いとかじゃなくて、むしろ、周りのことに人一倍敏感で。ただ、それをすぐに咀嚼して面に出すのが苦手なだけ。だからきっと、鈴ちゃんがゆっくりと噛みしめたものが含まれた物語には心を揺さぶる力がある」

 懐かしそうに語る夏希さんの様子に、さっき冊子を読みながらクルクルと変化していった夏希さんの表情を思い出した。

「初めて鈴ちゃんの書いた物語を読んだ時、色々あって悩んでた時期だったんだけど、それが嘘みたいに軽くなって。だから、きっと鈴ちゃんの物語で救われる人がいるんだろうなって言の葉デリバリーを始めたの。まあ、それだけじゃないんだけどね」

 夏希さんの視線が微かに揺れる。多分その先に映っているのは“色々あった”時のことなのだろうけど、それ以上にあの冊子に込められた力が気になってきた。人の心を動かす物語。

「その冊子、今のうちに読ませてもらってもいいですか?」

「うーん。今日だけは先読み禁止」

 快調に走ってきた軽自動車が赤信号で止まり、夏希さんは無邪気な笑みを浮かべて僕の方を向いた。

「今日は悠人君にも新鮮な気持ちで聞いてほしいんだ。鈴ちゃんが書いて、私が読む物語を」



 今回の依頼者は海辺の集落に一人で暮らす秋江さんという女性ということだった。軽自動車を集落の外れに佇む平屋の前に停めると、夏希さんは慣れた様子で玄関の方へと向かう。

「秋江さーん。言の葉デリバリーですー」

引き戸の横のインターホンは使わずにドンドンと戸を叩くと、家の中の方から「どうぞー」と朗らかな声が返ってきた。夏希さんは躊躇いなく引き戸に手をかけると、鍵のかけられていない戸がガラガラと開いた。
 古き良き、といっていいのかはわからないけど、この辺りでは家主が家にいるときは鍵をかけないことが多いというのはデリバリーで何となく知っていたからそこについての驚きはなかった。
 家にあがった夏希さんは勝手知ったる様子で居間に向かう。その後についていくと、年配の女性が奥の台所から飲み物やお茶菓子を持ってくるところだった。

「あー、もう。秋江さん、気をつかわないでっていつも言ってるのに」

「いいのいいの。孫が遊びに来たみたいなものだからね。あら、その子は?」

 秋江さんは夏希さんの後ろにいた僕を見ると柔らかく微笑んだ。小さく頭を下げると会釈を返してくれた秋江さんは居間の丸テーブルの上にお茶とお菓子を並べると、もう一つ必要ね、と台所へと戻っていく。

「ほら、この前話した話した悠人君。」

「そうだったね。悠人さん、よろしくね」

 秋江さんはもう一つお茶を持ってくると穏やかに笑ってもう一度会釈する。何だかバイトの見学に来たということを忘れてしまいそうな程のどかな世界が流れている。けど、雪乃さんにも秋江さんにも「この前話した」って、どれだけ僕に目をつけていたのだろう。
 一人暮らしには大きすぎる机に秋江さんと向かい合う形で夏希さんの隣に座る。お茶をいただきながら部屋の中を見渡すと、小さい子供向けのおもちゃなどが数多く目についた。

「先週まで娘と孫が来て賑やかでね。帰っちゃった後は、どうしても寂しくなっちゃって」

 秋江さんは手元に置いてあった小さなピアノのおもちゃをそっと撫でる。その風景だけで、見たこともない秋江さんの孫がそこでピアノを弾き、秋江さんが微笑みながらその光景を見守っている様子が思い浮かんだ。それと同時に、一人の生活に戻った秋江さんが抱えるもの寂しさも感じて胸の奥がギュッと締め付けられる。

「もう少しすれば元の暮らしに慣れて落ち着くんだけど、今だけはちょっと励ましてもらいたくって」

「お孫さんの代わりを務めさせてもらうと思うと、いつも気が引き締まります」

 きっちりとした言葉とは裏腹に夏希さんは楽しそうに笑ってて、その笑顔につられたように秋江さんも微笑みを浮かべた。

「あら、私は夏希ちゃんのことも孫娘のように思ってるのよ?」

「えへ、ありがとうございます。じゃあ、早速始めますね?」

「ええ、お願いするわ」

 夏希さんは事務所で雪乃さんから受け取った白い冊子を鞄から取り出すと、小さく咳払いして喉の調子を整える。冊子を開きスッと顔を上げた夏希さんの顔からそれまでの無邪気な表情が消えていた。代わりの表情が浮かぶわけではなく、それはまるで上から新しい色を付ける準備をしているようで。

「――朝からセミの鳴き声に混ざって孫の藍那の歓声が聞こえてくる。虫取り網片手に庭を駆けまわっている様子が手に取るように思い浮かび、部屋の空気を明るくした」

 夏希さんが歌うように朗読を始める。脳裏に夏休みの情景がパッと広がり、小さな女の子が無邪気に走り回る音が聞こえる。夏希さんが読み上げた一節だけで、僕の意識は夏の香りが漂う見知らぬ家の中にいた。
 その家を中心に祖母と藍那は限られた夏休みの期間を濃密に埋めていく。庭で虫を取り、夕方にはバーベキューをして、夜の散歩で海に出かけて貝殻を集めて砂浜を歩いた。そうやって日々を過ごし、思い出を積み上げていくほどに、祖母の心の内側には言いようのない寂しさが募っていく。あと少しで藍那たちは帰ってしまい、また広い家で一人過ごすことになってしまう。今の時間が濃密である程に、居なくなってしまった世界の空虚さが際立ってしまう。
 僕は思わず秋江さんの方を見る。あまりにも夏希さんが語る世界は今の秋江さんに近すぎる。夏希さんの言葉に聞き入る秋江さんの瞳が不安げに揺れ、小さく喉が動いた。
 そっと息を吸った夏希さんがパラリと冊子のページを捲る。

「藍那が帰ってしまう日の朝、それまで毎朝聞こえてきた庭を駆ける藍那の声が聞こえてこなかった。不思議に思って庭を探しても部屋を探しても誰の姿もない。何か休養があって朝早いうちに帰ってしまったのだろうか。それはいままで普通に存在していた日常のはずなのに、ぽっかりと大事なものが抜け落ちたようだった」

 夏希さんの紡ぐ言葉に息が詰まる。物語とわかっているのに、胸の奥がズキズキと疼く。これが本当に「家族の暖かみを感じる物語」なのだろうか。
 その時、大きく息を吸い込んだ夏希さんの顔にパッと鮮やかな笑みが咲いた。

「その時、ガラガラと入口が開く音がする。慌てて向かってみると、こっちに来た時よりすっかり日焼けした藍那が笑顔で何かを差し出してきた。庭に咲いていた綺麗な花、川で見つけた緑に輝く小石、砂浜で拾った色が変わる貝殻――夏の想い出を紐でつないで作られたネックレス。『足りない分をお母さんと探しに行ってたの! 今度は冬のネックレスを作りに来るね!』 藍那ごとネックレスを抱き寄せる。藍那が腕の中で動いてネックレスをかけてくれて、ここ数日募っていた寂しさは穏やかな小春日和のような温もりに変わっていた。『冬も綺麗なものがたくさんあるからね。全部探せるように元気でいらっしゃい』 藍那の笑顔がはじけて、冬の訪れを待ち遠しくさせる。」

 夏希さんがぱたりと冊子を閉じる。
 不思議な話だ、というのが最初に浮かんだ感想だった。穿った見方をすれば、孫が遊びに来て、思い出を作って帰っただけ。ラストシーンもどこかふわりとしている気がする。ストーリーだけを追ってみれば珍しいものではないだろう。
 けれど、今も胸の奥がじんわりとしている。見ると、秋江さんも両手をギュッと握りしめた状態のままにっこりと笑っていた。ほっこりとした余韻がずっと残っている。
 ああ、そうか。
 物語だけじゃないんだ。物語を必要とする人がいて、夏希さんが語る。その組み合わせの中で一番美しく響くように物語は調律されている。

「そうだねえ。私も今度の冬休み、あの子たちにどんな思い出を作ってあげられるか今から考えなきゃねえ」

 秋江さんがゆっくりと窓の外を見る。物語の欠片が残る静かな部屋に蝉の残響とともに夕暮れで染まる海の音が聞こえてきた。この町が描き出す冬がどんな世界なのか、今から待ち遠しくなっていた。



 マジックアワーで淡く揺らめく空模様を助手席の窓から眺めながら、ついさっきまで浸かっていた魔法のような時間を思い出す。
 夏希さんの朗読の後、少しだけお茶菓子をいただきながら談笑して、僕たちは秋江さんの家を辞した。僕らが家を出る時には秋江さんの顔に潜んでいた寂しさはすっかり消えていた。それは僕らの存在が一時の気分転換になったからではなくて、冬休みまでの4ヶ月間が秋江さんにとってただ待ち続けるだけの日々ではなくなったのだろう。

「ねえ、悠人君。どうだった?」

 事務所への帰り道、行きよりも気持ちゆっくりと運転している夏希さんが横目で僕を見る。今の気持ちを表す言葉は直ぐに浮かんでこなかった。でも、それはいつもの感情を言葉にしてはいけないといった追い詰められるような感じではなくて、ただ単に適切に言い表せる言葉が見当たらなかった。

「なんか、ぐちゃぐちゃにかき回されちゃって。どんな言葉にしたらいいのかわからないです」

 結局、ありのままを口にすることしかできなかった。雪乃さんが書いた物語の意味とか秋江さんが受け取ったものとか色々と考えるし、そういったものと関係ないはずの僕の境遇とも重ねてしまっていた。
 例えばこれから先、僕が結婚して子供ができたとき、僕の親はどんな風にその子を見るだろう。もしそれが“兄の子”と一緒にいた場合はどうだろうか。そんなことを考えていると、知らず知らずのうちにため息が溢れてくる。

「それでいいんだと思うよ。私もね、仕事が終わった後の感情を書けっていわれてもできないから。鈴ちゃんの物語って、なにか特別な言葉が使われてるわけでもないのに、いつの間にか読み上げた私の方まで知らなかった想いを突き付けられることがよくあるの」

 そうなのかもしれない。どの部分、ということは難しいけど、間違いなく僕も朗読に当てられている。雪乃さんが創った物語を夏希さんが語る。時折手に取る小説との違いはそれくらいのはずなのに、どうしてこんなにも胸の奥をぐちゃぐちゃとかき回されるんだろう。

「ねえ、悠人君。どうして私が君のことをバイトに誘ったと思う?」

「それは、僕が夏希さんの知り合いで……」

 夏希さんが小さく首を振るのが見えて、僕は言葉を途中で止める。

「何人もいる知り合いから、私は悠人君が一番向いてると思ったんだ。それはね、君が私の知ってる人の中で誰よりも、人の気持ちに寄り添うことができる人だから」

「気持ちに、寄り添う……」

 夏希さんの言葉はいまいちピンとは来なかった。普段そういったことを意識して生きているわけでもなければ、親との間の蟠りを見てみぬふりしてやり過ごしている僕はむしろ真逆のタイプな気さえする。

「鈴ちゃんがどういう人かすぐに感じ取って、受け入れてくれて。それに、気づいてる? さっき私が朗読してるとき、君はずっと秋江さんと同じ表情だったんだよ。私たちが秋江さんの為に書いた話を悠人君は自然と自分事として受け止めてた」

 夏希さんがニッと笑う。それは夏休みにおばあちゃんの家で宝物を見つけてキラキラと輝く少女の笑みのようにも見えた。

「そういったことを普通にできちゃう悠人君が、鈴ちゃんの物語にどんな色をつけるのか凄い楽しみなの」

「色、ですか?」

 夏希さんから少し視線を外して窓の外を見る。淡い色合いが映える黄昏時が徐々に夕闇の中に沈んでいた。西から東へのグラデーションは一か所たりとも同じ色はない。それどころか同じ場所でさえ時間とともにその色合いは移ろっていく。

「鈴ちゃんの物語には余白があって、依頼をくれた人が必要としているものが何か考えながら、私はそこに色を付けて読み上げてるんだけどね。悠人君ならどんな色が一番ふさわしいのか、私よりもずっとよく見えると思うから」

 誰かが必要なものを見つけて、僕なりの色を付けた物語を贈る。そんなことができる実感は全然ない。だけど、もし僕にそんなことができるなら、いつかは僕自身の言葉で想いを伝えることもできるようになるだろうか。

「夏希さん。僕にも誰かを励ましたり勇気づけたり、そんなことができるようになれますか?」

 夏希さんが車を路肩に停車させた。自信に満ちた笑みがじっと僕を見る。

「できるよ、悠人君なら」

 夏希さんが右手を差し出す。
 朗読なんてしたことないし、誰かが必要としている色が僕に本当に見えるかもわからない。それでも、手を伸ばしたかった。相手が変わるんじゃないかと期待して待っているだけじゃなくて、変えることができるということを確かめてみたかった。

「よろしくお願いします。夏希さん」

 重ねた夏希さんの右手は麗らかな陽だまりのように温かかった。夏希さんは今日一番の笑顔を浮かべる。ああ、そっか。僕が積み上げていくべきなのは、こういうものかもしれない。
 一つずつ積み上げていった先で、僕はもう一度家族と心の底から笑うことができるだろうか。