久保さんがはっと我に返った顔になって、私から離れる。そして小さな声で「ちがうの、これは、」と呟くように言う。
しりもちをついた姿勢から急いで立ち上がると、直樹くんはいつの間にか電話を終えていたらしく、こちらに歩いてきていた。

「今の、ほんと? 僕とこのまま一緒にいれば、蒼への気持ちを忘れるって、僕を好きになれるかもって……。」
「……直樹くん?」 

――彼は、嬉しそうに笑っていた。
その目は私を真っ直ぐに見ている。すぐそばで真っ青になっている久保さんには目もくれず、私だけを。

なぜだか、背筋がゾッとした。
……この状況で、どうして久保さんについて何も言わずに、私の言葉を拾い上げる?

嫌な予感がした。
ざわりとした、得も言われぬ不快な感覚が、背中を這い上る。

「嬉しいな、蒼じゃなくて僕を選んでくれるなんてさ。ずっとアピールしてた甲斐があったよ。」
「あの、」
「付き合うことになったって報告したら蒼、なんて言うかな? おめでとうって言うよな、あいつのことだし。苦しそうな顔、必死にしないようにしてさ。あははっ。」

直樹くんはなおも笑っている。
久保さんが「……直樹?」と困惑したように彼を見ている。
彼ははあああ、と大きく息を吐き出した。ため息か、あるいは、感嘆の吐息か。

「……僕さあ、ずっとあいつのこと、ずるいなって思ってたんだよ。蒼は努力もしないでなんでもできる。勉強も、運動も、人望も僕より優れてる。好きな子もいて、想いも通じ合っててさあ……不公平だよなあ。そう思わない?」

彼は戸惑う私たちの横を上機嫌にすり抜けて、そのまま階段へ向かう。レストランのある方へ降りていく階段に。


「――だから、蒼の好きな人が僕を好きになってくれたらいいなって、ずっと思ってたんだ。」