私は、ゆっくりと顔をあげた。
 こちらを真っ直ぐに見る彼は、今までにないほど悲壮な表情だった。
 しかし私はこみ上げてくる怒りを堪えることはできなかった。――いや、ただの怒りというには複雑すぎる感情だったけれど。

 だからか、私の口からは、予想外に冷ややかな声が飛び出した。

「……自分は何も話さないくせに、頼み事はするんだ?」
「ひな、」
「その頼み事だって……どうしてそうしてほしいのか、理由は言えないんでしょ?」

 彼がぐ、と言葉に詰まったのがわかった。……ほら、案の定。
 彼は私に何も話す気はないんだ。

「――もういいよ。」

 深い失望があった。胸の奥が冷たくて重い。
 ……こんなこと、言いたくない。
 でも、こう言うしかない。

「早く出てって。あなたが何者かは知らないけど、今すぐにこの家を出てくなら通報はしないであげるから。それから、あなたの頼みを聞く筋合いもないから、私はこのまま行く。」
「ひな!」
「――気安く呼ばないで!」

 茜くんでも、蒼でもないのに。本当のことを話す気もないのに。
 私のことなんて微塵も信用してないのに。

 胸の中がぐちゃぐちゃだった。言葉にできないようないくつもの勘定が心臓あたりに渦巻いて、冷静な思考を奪っていく。
 
 私は唖然と固まる彼をにらみつけると、吐き捨てるように言った。


「さよなら。」


 ――そして、そのまま足早に家を出た。
 呼び止める声を遮るように、バタンとわざと大きな音を立てて、玄関の扉を閉めて。
 ……頬をつう、と一筋何かが伝ったけれど、きっと汗か何かだろう。