「……お恥ずかしいところをお見せして、大変申し訳ございません……」
恐らく、この魔法図書館を管理している司書さんが魔法の力でソファの座り心地をなんとかしてくれたのかもしれない。
「……先に手紙を読ませてもらったから」
「あ、お兄様が私の体質を説明してくださったんですね……」
魔法使いさんに支えられながら、ゆっくりと体を起こす。
辺りを見渡すと、そこには数えきれないほどの本で溢れ返って……溢れ返って……溢れ返って……?
「汚い……ですね……」
「こ……こう見えて、どこに何があるかは把握している……つもり……で……」
少し眠らせてもらったおかげと、夢の中で想いを寄せる魔法使い様に会えたおかげもあってか、気を失う直前の体調よりはだいぶ楽になった。
けれど、私を出迎えてくれた図書館には命が宿っているように感じなかった。
「……お客様がいらっしゃらない図書館……」
「あー、うん……まあ、辺境の地にある魔法図書館っていうこともあって……ね」
「……仕方ないですね。魔法は……滅びる一方なので……」
幼い頃に魔法使いさんと一緒に通った魔法図書館のような、そんな夢溢れる図書館の存在自体が昨今では否定されているのかもしれない。
私と魔法使いさんが心惹かれた魔法図書館のような素敵な場所を、今の子どもたちは知らないということなのかもしれない。
「リザ」
俯きかけた視線を呼び止めてくれた声。
この図書館で働く魔法使いさんにお会いするのは今日が初めてのはずなのに、どこか懐かしさを抱いてしまう理由が私には分からなくて思わず瞬きの回数が増えてしまったと思う。
「リザ? 大丈夫……」
「…………」
心が、痛い。
「リザ?」
「名前……」
心が、幸せを感じている。
「名前?」
「愛称で呼んでもらえるのが、凄く嬉しいです!」
リザベットという名前だけれど、親しい人たちは私のことをリザと呼んでくれた。
城を離れて間もないはずなのに、もう元の生活に戻りたいような気持ちを抱いてしまったのかもしれない。
それがきっと、懐かしさを抱いた理由かもしれない。
「あ……そっか、ごめん……許可も得ずに愛称で呼ぶとか……」
「もう1回、お願いします」
「え?」
「もう1回、呼んでください」
和やかに流れていく時間を心地よく感じるのは、私を深い眠りから救出してくれた魔法使いさんの優しさのおかげだと実感できる。
私の面倒を見てくれた魔法使い様は、女の子が外で眠ったらどういうことになるか分かっていますかって怒ってばかりだったから。
「…………リザ」
「はぁー」
「え、なんで溜め息……」
「感嘆の溜め息です」
私が魔法使いさんに見せている笑みは、あまりにも子どもっぽくて笑われてしまうかもしれない。
でも、この、嬉しいって感情を止めることができない。
「私、魔法使いさんの声が大好きみたいです」
「え、声?」
「はい、私、魔法使いさんに名前を呼んでもらえるのが、大好きみたいです!」
ここで魔法使いさんが、ほっとしたような安堵の笑みを浮かべてくれた。
私のことが心配で心配で仕方がないといった表情は消えてしまって、魔法使いさんも私と一緒に表情豊かな一面を見せてくれる。
「じゃあ、僕も自己紹介……」
「いえ、結構です」
「……ん?」
魔法使いさんの存在は、私の体に力を注いでくれているような気がした。
魔法使いさんの前でなら、もしかすると睡魔に打ち勝つことができるくらいの力を得ることができるようになるかもしれない。
「魔法使いさんは、魔法使いさんなので!」
「…………」
私と魔法使いさんの間に流れる優しい時間を、これから大切にしていきたい。
私がたくさんの人たちに愛されてきたように、この魔法図書館も愛で溢れる場所にしていきたいと強く思う。
「これから魔法使いさんには、お世話になってなってなって……」
「ちょっと言葉遣いが可笑しくなってるかなー……」
「とにかく私は教えを乞う身です」
「…………」
「なので、魔法使いさんは魔法使いさんということで、よろしくお願いいたします」
魔法使いさんは深く大きく頷いて、了承の言葉を動作で伝えてくれる。
「古書探索のお手伝い……頑張ります!」
出会って、まだたったの数分しか経過していない。
交わした言葉の数だって、まだ少ない。
それなのに、魔法使いさんが優しい人だろうなってことが分かる。伝わってくる。感じられる。
それだけ、魔法使いさんも多くの愛情を受けて育ってきたということなのかもしれない。
(それとも……魔法図書館が、人に何か影響を与えてくれているのかな……)
私には、どんなことができるのか。
先代の魔法司書さんと同じだけのものを、この村に残すことはできないかもしれない。
「こほん」
「リザ?」
「……声の調子を整えているときに名前を呼ぶのは禁止です」
「すみません……」
私には、何ができるのか。
「古書探索部門に勤務を希望している、リザベッド・クレマリーと申します」
私だけができることを考えること自体が、おこがましいかもしれないけれど。
それでも、私だけができることも探してみたい。
「これから、魔法使いさんの力を貸してください」
こんな言葉しか言えない。
「よろしくお願いいたします」
今はまだ、こんな社交辞令的な挨拶しかできない。
それでも……それでも、いつかはきっと。
「……リザの力を借りたいのは、僕の方だよ」
一国の姫ではなく、これからは古書探索部員としての、私の夢を語れるようになりたい。
「よろしく、リザ」
魔法使いさんが優しい笑みを向けてくれる。
魔法使いさんが笑ってくれているだけで、心の底から安心感のようなものが生まれてくる。
(恵まれすぎていますね……私は……)
私の国外逃亡に協力してくれた人たちから、私は想像もつかないほどの大きな宝物を贈ってもらった。
「ありがとうございます」
形には残らない、宝物。
だけど、そんな宝物を受け取った私は優しい世界を知ることができた。
それが恵みとなって、魔法使いさんという縁にまで繋がってくれた。
とある国の姫に呪いをかけた罪で、国外追放された魔法使い。
けれど、実際は円満に契約を終わらせたというだけの話。
「リザ、体調は大丈夫?」
「はい、おかげさまで」
国を出た僕を待っていたものは、亡くなった祖父母の遺産相続の手続きをお願いしたいという話。
「あ、でも、突然眠たくなってしまう体質で……」
「呪いの件は把握したから、いつでも眠って大丈夫だよ」
「とても心強い言葉をありがとうございます……」
物を持たない生き方が楽だと言っていた祖母だったから、これと言って形見と呼べる物も残らなかったと聞いていた。
「城の外に出るときは、いつ眠ってもいいように透明化の魔法とか防御の魔法とか……魔法使い様に教わっていたのですけど……」
けれど、血縁者の僕に唯一残していった物があった。
魔法図書館の管理権。
祖母が魔法図書館を管理していることすら知らなくて、最初は権利を放棄してしまおうかと思った。
だけど、姫の元を離れる良いきっかけになると信じ、僕は祖母からの遺産である魔法図書館を相続した。
「長旅の疲れもあって、魔法を維持することができなかったんだと思うよ」
「……私の中から魔法が失われたわけではないんですね」
いつか、魔法は世界から失われてしまう力。
そんな貴重な力を使ってまで、図書館を運営することはないと言われている昨今。
それでも魔法図書館が人気を博していることは事実。
「魔法を使えなくなったら、無職になってしまうところでした」
「もっと気を遣うところもあるんだけどね」
「改めて、これからご指導のほどよろしくお願いいたします」
僕が幼い頃に関わりのあった魔法使いだということを知らずに、彼女はこれからの……これから向かう未来の話を、昔と変わらぬ明るい笑みを浮かべながら話をしてくれる。
(はぁ……いつ、打ち明けるべきか……)
完全に、話をするタイミングを逃した。
リザは国外に追放された魔法使いの安否を確認するための旅に出ると言っていたから、僕の安否が確認できたら国に戻ることもできる。国に戻すこともできる。
(けど……)
呪いをかけた想い人が、素敵な笑顔を浮かべて生きる日々を見守りたい。
叶うなら、彼女を幸せにするのは自分でありたい。
「はぁ……」
「魔法使いさん?」
「あー……なんでもない。なんでもないよ」
彼女の穏やかな笑みと比べると、自分の笑みは可笑しなくらい歪んでいると思う。
さっきからため息が止まらない。
「頼りないかもしれませんが、これからはなんでもお話してくださいね!」
「……ありがとう、リザ」
「ふふっ、頑張ります!」
彼女と別れた数年の間に、彼女は随分とたくましく成長していた。
「私は、攻撃をするための魔法しか使うことができないところが悲しいですけどね……」
攻撃するための魔法に長けていることが、どんなに凄いことなのか。
それを理解していない彼女を励ましたいところだけど、目の前に用意された素晴らしく完璧な食事に涙を零しそうになる。
「この料理はリザが……」
「城の外では、自分のことはすべて自分で行うものだと教わったので」
好きな子の手料理を食べられる日が来るなんて、誰が想像していただろうか。
「お口に合うか分かりませんが……」
「いただきます!」
「はい、お召し上がりください」
手料理とは無縁な姫君が作った料理のはずなのに、味が完璧なところが末恐ろしい。
「……お味のほどは……」
「美味しい……」
「それは嬉しいです」
大人になると味覚は変わるというけれど、多分その味覚が成長していない。
幼い頃の僕の味覚情報を、事細かくリザに仕込んでくれた人がいたということだろう。
「魔法が失われたら……料理人を目指してみるのもいいかもしれませんね」
「確かに魔法が滅びる日が近づいているとは言われているけど、その日が来ることを心配する必要はないと思うな」
魔法を育てることができている人たちは、今も世界に多く存在する。
よって、魔法図書館はわざわざ僕に相続されなくてもよい場所。
それでも、リザと再会を果たした魔法図書館の管理は僕に任されることになった。
「リザにできることは、未来を心配する事じゃない」
「…………」
「リザにできることは、授けられた魔法を育てて開花させていくこと」
「…………」
この相続の件が、どう巡り巡って僕の元へやって来たのかを尋ねる手段は存在せず。
すべてが今日の日を迎えるために仕組まれたことだとしたら、リザのご家族には一生感謝してもしきれない。
「昔……私に教えを授けてくれた魔法使い様と同じ教えですね」
桜を思い起こすような淡い桃色の髪に合わせたカーディガンと、フリルが数段飾られたスカートを着こなしているリザ。
着こなし方もそうだけれど、人を満足させるだけの料理ができるようになったこと。
すべてが一般人として生きるために頑張った努力の成果だと思うと、本気で言葉というものをなくしそうになる。
「……魔法使いは、みんな似たり寄ったりのことを言うのかもしれない」
「なるほど……」
ここだったような気もする。
自分の正体を明かすなら、ここのタイミングだったんじゃないかなーと思わなくもない。
けれど、大切な姫君の人生を預かることになったのかと思うと、そう簡単に両想いになれないなって意気地なしの自分が現れる。
「リザ」
それでも、リザの笑顔を見続けていくにはどうしたらいいかってことは常に考えている。真剣に。大真面目に。
大好きな想い人を、どうやったら幸せにできるかってことを常に考えている。
「箒で空を飛んでみようか」
祖母が亡くなったあとの魔法図書館は、死を迎えた。
魔法図書館に携わらない人からすれば、本が死ぬって表現をするだけで笑いものになってしまうかもしれない。
でも、魔法図書館を管理する者が亡くなると、魔法図書館自体の命も一緒に亡くなってしまう。
管理人の死は、本の死を意味する。
「こほっ」
本以外の管理が行き届いていない図書館の中は埃塗れといっても過言ではなく、一国の姫だったリザはあまりの不衛生な環境に咳き込んでしまった。
「ごめん、至らない管理人で……」
「カーテンと窓、開けますか?」
「お願いします……」
リザは僕の了承を得ると、魔法図書館に入り込む光を遮っていたカーテンを魔法ではなく自分の力を使って開けていく。
魔法でできることとできないことを把握しているあたり、僕と別れたあともしっかり魔法の勉強をしていたんだろうなってことが窺える。
「空を飛ぶ魔法は、僕がコントロールするから」
「箒で空を飛ぶのは好きなのですが、自分の力では飛ぶことができないんです……」
宙を飛び交う本とぶつからないように高さある天井を楽々と飛んでいくリザの姿を見ていたら、魔法が滅びるなんてなんの冗談なのかと思ってしまう。
「思いっきり飛んでいいよ」
「楽しみます」
昔は、魔法使いが空を飛ぶ光景なんて珍しくもなんともなかった。
けれど、今は時代が違う。
飛行機のような大きな機体が空を飛ぶ時代。
今では逆に、魔女が箒を使って空を飛ぶ方が珍しくなってしまった。
(一国の姫様に、空を飛ばせるわけにはいかないからなー……)
箒で空を飛びながら、手では届かない高さの窓やカーテンを開いていく様子は魔法が使える僕から見ても圧巻だった。
「さてと……」
リザの空を飛ぶ技術に目を奪われながらも、次に自分がするべきことを見つけようと視線をさ迷わせる。
(この本たちの修復……あと何十年かかるんだろう……)
本来なら魔法図書館は、光り輝くような綺麗な感情を提供しなければいけない。
でも、この魔法図書館は時を止めてしまった。
辺境の地にある魔法図書館への来訪者もいないこともあって、祖母の命が終わると同時に図書館の命も止まってしまった。
そんな事実を痛感させられるような光景が、魔法図書館の運営を相続して数年が経過した今も目の前に広がっている。
「はぁ」
魔法図書館は、魔法の力で管理される図書館。
どんなに太陽光が差し込んできても、どんなに潮風が吹き付けてきたとしても、本は魔法の力によって守られる。
本が傷まないように、本が安心して人の元に渡っていけるように、魔法司書は本に対して気を配る。
(……祖母が亡くなってから、何年放置されたんだっけ……)
僕は、足元に落ちている1冊の本を拾い上げる。
床に散らばっている本は1冊だけでなく、それはもう数えきれないほどの量が散在している。
(……ごめんなさい……)
祖母が魔法図書館を運営していることを知っていたら、図書館がこんなに寂しい場所になってしまう前になんとかできたかもしれない。
(そんな、もしもの話を思い浮かべてはみるけれど……)
そもそも、祖母が魔法図書館を運営していたことを知らなかった。
そして、その事実を知ったところで、幼い日の僕はリザと別れることができたのか……。
(どっちにしても、自分のせいで呪い持ちになってしまったリザの傍を離れることはできなかったかもしれない……)
一国の姫に呪いをかけた魔法使いなんて死罪が妥当なところなのに、僕が国から突き放されることはなかった。
ちゃんと理由があってのことだったと、聞く耳を持ってくれた。
別れが来る最後の日まで、僕の手を離さないでくれた。
(その人たちのために、尽くしていきたかった……)
祖母が亡くなった日は、空に雲1つない晴天の日だったらしい。
(太陽の光で、本が焼けている……)
祖母が天国に旅立つ日が晴れた青空だったなんて、祖母はある意味祝福されていたのかもしれない。
だけど、残された本たちにとっては、あまりにも辛すぎる旅立ちだった。
(紙の質も……真新しい本とは、ほど遠い……か……)
カーテンが全開のまま、祖母は僕たちが生きる世界を離れていった。
それは、太陽光が容赦なく本たちを照らすことを意味する。
(リザと別れて、しばらく経つのに……未だ本の修復が終わらないとか……)
本が焼けてしまわないように、カーテンを閉めろって思うかもしれない。
でも、魔法図書館は他人が干渉してはいけない決まりがある。
この魔法図書館は祖母名義のものだったから、たとえ魔法司書の資格を持っていた人間が図書館にやってきたとしても本を守る力を行使することは禁じられている。
(国に仕えていたからって、僕は万能ではない……)
祖母が魔法図書館を運営していることを知らなかったおかげで、魔法図書館を相続するまでに時間がかかってしまった。
それはどうしようもない事実で、どう頑張っても変えようのない現実だけれど、結局は後悔という名前の塊として心に残ってしまう。
(……リザは大きく成長しているのに、僕は……)
リザと別れてから長い年月が経った今も散在している本は、僕の未熟さを訴えてくる。
(僕は未来に向かって、この本たちをどうにかしなければいけないのに……)
そして、僕はリザにかけられた呪いを時の流れではなく自分の力で解きたい。
「魔法使いさん」
本たちが、僕の暗くて後ろ向きがちな考えを断ち切りたかったのかもしれない。
図書館の換気をしてくれていたリザは空中飛行を既にやめてしまっていて、俯いてしまった視線をリザは掬い上げに現れてくれた。
「とっても楽しかったです」
特別、本が好きな人生を歩んできたわけではない。
小さい頃に読んだ絵本や童話の記憶は残っていても、それは今を生きる自分にとって特に大きな価値を見出せるものではない。
幼い頃に慣れ親しんだ本の内容を、今になって会話として楽しむこともない。
「攻撃魔法も応用すれば、空を飛べるようになるかもしれないですね」
年齢を重ねるにつれて、1つ1つ魔法が失われていった。
年齢を重ねるにつれて、便利なものが増えていった。
それと同時に、僕はリザから遠ざかっていくような気がした。