「そういえば、手紙は渡せた?」
あまり深掘りされたらマズいので、話を転換させる。瑞來くんの俯いた表情に、アブラゼミの鳴き声が攻め立てるように響いた。
「……渡せてません」
「そっかぁ」
「男らしくないですか」
「なんで?」
「怖じ気づいて、告白できない男だから」
前よりも背丈がぐんと近づいた彼の弱音に、私はふっと笑みを零す。いつも淡々としている瑞來でもこんな風に悩むのか、と宛先の子が羨ましく思えた。
少なくとも、私にとっては瑞來が一番男の子だったよ。
「真剣なんですけど」
尖った唇にごめんと謝る。彼はリュックから水筒を取り出して、グビッと呷った。
そういえば、声は今の瑞來にほとんど近づいていて、ゴクリと上下する喉はもう大人の男性に近しい。
「心配しなくても大丈夫だよ」
「はい?」
「瑞來くんのこと、異性として好きになる女子は絶対いるから。たぶん、割りと近くに」
大きな瞳がさらに立体的に瞠目する。どうしてそんなことがわかるんだ、と言いたげだったのにその唇が動かなかったのは、彼の意識が私の背後に逸れたからだ。
振り向いて、私も瞠目した。同時に木の影に隠れて身を潜めた。
なぜなら、視線の先には瑞來くんと同級生の西山綺佐が居たからだ。彼女も夏期講習を終えて予備校から出てくるところ。しかし、その足取りは男子の集団に囲まれて停止していた。
……もしかしてこの日は——、
「すいません。ちょっと抜けます」
瑞來くんが横を通りすぎた瞬間、結露したペットボトルから滴がポタリと手首に溶ける。中学生の冴えない私の元へ、瑞來くんは駆け寄った。
「……やっぱり」
スポーツ飲料のお陰で少し冷えた脳内は、俯瞰している今の映像を当事者の記憶へと置き換える。
夏期講習のため予備校に通っていた私は、ある日他校の先輩方に囲まれ、とある誘いを受けていた。
男子校だという先輩方は、公立中学のセーラー服を纏った私にあるチケットを配った。彼らの文化祭の招待チケットで、それがあると他校でも入場可能になるらしい。とにかく、女子を誘って来てほしいという分かりやすいお誘いだった。
今でこそ気が弱いなんて思われはしないけど、この頃の私はいかにも頼みを断れなさそうなナリをしているし、それを狙って声を掛けたんだと思う。
話しかけられた直後のことは覚えていないけど、実際、出来ませんという言葉は内側でこんがらがり、唇をわなわな震わせているだけだった。
「嫌そうなので、止めてもらえませんか。他を当たってください」
格好悪くて、情けない。木の影から見える自分の姿に辟易して、同時に割って入る少年の声に胸が高鳴る。私と先輩方の間に隔たるように、手を広げて佇む頼もしい背中が映像となって脳裏に過る。
まるで、あちら側の私と今の私がリンクしているかのように、ドキドキと脈が荒いだ。
「はぁ?白けんなー」
「いいよ、違う子に頼も」
「だな。中の大人に見つかったらヤバイし」
年上の男子たちは束になって去っていく。横を通りすぎたときに一瞥を食らったけれど、私の視線は瑞來くん一点に注がれていた。
だって、あの時だもの。私が細谷瑞來という同級生を意識しだしたのは、あの時だもの。
「……じゃあ。気をつけて帰れよ」
少し無愛想で、足が速くて、目の大きい男の子。どこか取っ付きにくい印象だった同級生は、ただそう言い残して去っていく。お礼を言おうにも、放心していた私は声が上手く出てこず、その背を見送った。
確かその後も、予備校でお礼を言いたかったのに、瑞來はわざとらしく避けるように教室を去る毎日で、結局言う機会を逃したままだった。
“助けてくれて、ありがとう。格好良かったよ”
今まで忘れていたのに、真っ新な紙に炙り出されていくかのように少しずつ見えてくる後悔。
「——……っ」
急ぎ足で、軽い会釈で木陰を通り過ぎていった瑞來を、私は追う。アブラゼミの鳴き声が、まだ遅くないと背中を押しているような気がして、一心不乱に追い掛けた。
「おい、待て、速いな陸上部……!」
これまでも、きっと言えていないことが沢山あって。今思い出せないだけで、心の中から消えることは決してないんだ。
ブレザーとセーターと鞄とペットボトルを抱えて、不恰好に走る。
私はずっと、走らなくてもいい気がしてた。この頃はきっと、勇気を出せない弱さと劣等感を抱えて、立ち止まってた。それに、付き合うようになってからだって——私には抱えるものが多いのだからと、そういう理由を宛がっていた。言わなくても瑞來なら分かってくれると、いつから思うようになってしまったのだろう。
もし心残りを悔いてこんな風に走ったら、瑞來の背に追い付いたら、未来も少しは変わるのかな……。
「瑞來——!」
逃げるように灼熱を駆ける、まだ小さな背中に手を伸ばす。触れて、振り返り際の横顔が覗いた。
その瞬間、眩しいフラッシュが焚かれて、視界一面は白に染まる。瑞來に追い付き、触れた瞬間に私は再び白い海へ放られたのだ。
灼熱を経たせいか。後悔を炙り出したままの心は、ジリジリと焼けるように痛かった。