聳えるのは、三階建ての四角い建物。高校に入ってからも通っていた時期はあるし、そもそも通学路の途中にあるので馴染みは深い。でも、広告塔として掲げられた “合格実績” は違和感満載だ。

 <令和○年度 ○○大学 321名!>

 夏期講習と受験対策で通っていた予備校は、なぜか数年前の実績を謳っていた。

「てか、あっつー」

 予備校脇の樹木に、じりじりと(はげ)しい太陽光から逃げるように潜り込む。卒業式は三月で、先ほどまで居た公園でも間違いなく春だったはずだけど、いまは明らかに春の陽気ではない。証拠に、予備校のあらゆる箇所に貼られた『夏期講習実施中』という広告が日に照らされていた。

「夏なの……嘘でしょ……」

 ブレザーを脱ぎ、セーターを脱ぎ、ワイシャツの袖を捲る。ネクタイの結び目を解けば、隙間から気休め程度の風が吹き込んだ。
 これは夢ではなくてタイムリープが濃厚?と茹だった脳みそで考える。頭痛を催すほど酷い暑さを体感させるのは、きっと夢じゃない。

「お姉さん?」

 木陰で唸っていると、横から声を掛けられた。半袖シャツを纏った、これまた馴染みのある顔だった。

「瑞來、くん!」
「こんにちは」

 そうだ。もしここが過去ならば、瑞來も同じ予備校に通っているはず。
 挨拶を返しながら、半袖に制服ズボンの身なりを隅々まで観察する。炎天下にも関わらず涼しげな空気を纏う彼は、べったりと染み付く私の視線に一歩退いた。

「ごめんごめん。あれから(・・・・)、ちょっと背伸びたなぁと思ってさ」
「まぁ、それなりに」

 まだ完成形でないということは、中二くらいだろうか。

「ねえ、いま中二?中二でしょ?」
「……そう、ですけど」
「ほらビンゴ!で、今夏休み?夏期講習行ってたんだ」
「はい……?」

 さっきが中一の春、今が中二の夏。ということは、この夏期講習で私は——、

「お姉さんは、また家出したんですか?」

 そういえば、そんな設定あったっけ。
 頬に苦笑を乗せて頷くと、ばつの悪さと熱が蔓延っているせいか少し目眩がして、こめかみのあたりを押さえた。

「え、大丈夫ですか?」
「平気平気。全然大丈夫だよ」
「今日暑いから、熱中症に注意って言ってましたよ、天気予報で」

 天気予報——。瑞來がやたら放っていた単語だ。海に行くなら快晴の日だとか、この日は予報で雨だから水族館に変えようとか、何かの宗教かと思うくらい天気にはうるさかった。
 あれは高校一年の夏、学校での講習が終わった後、そんな彼を強引に海へ連れ出したことがある。雲行きも怪しかったし、降水確率は七十パーセントだったので最後まで嫌がっていたけれど、互いに忙しかった部活の休みが被っていたことを理由に連れ出した。

 —— “別に、海じゃなくても良かっただろ”

 そんなことを言っていたら、海の賞味期限が切れちゃうでしょ。……でも、ごめんね。部内の先輩が彼氏と海デートしたって聞いて、羨ましくて。
 海岸沿いで拗ねていた瑞來に、私は謝りながらかき氷を分け合った。潮風が意外と冷たくて、二人で肩を竦めて、私は重ねて謝った。雨が降ってきたので、余計に居たたまれなくなった。

 —— “また来年、行けばいいじゃん”

 結局、写真だけを撮って海から引き上げ、瑞來の部屋に上がらせてもらった私は、彼が持ってきてくれたココアを身体に流し込んだ。初めて入る男の子の部屋は思っていたよりも片付いていて、洋服とコスメに塗れた自分の部屋を省みた。
 気遣いは要らないと言ったのに、リビングと部屋を何度も往復してお菓子を持ってきてくれる瑞來が可愛いくて、私は笑みを零す。なんで?と訊かれたから、だって可愛いんだもんと白状すれば、その途中でキスをされて、目の前に星が降った。外で打ち付ける雨が遠くに聴こえたことを、鮮明に覚えている。
 初めてのキスだった。


「お姉さん、これ飲んでください」

 火照った身体に差し出されたペットボトルには、青と白のツートンカラーが巻き付いている。どうやら海に浸っている間に、瑞來くんは自動販売機でスポーツ飲料を拵えてくれたらしい。

「ありがとう、ごめんね。飲み物持ってなかったから助かるよ。いくらだった?」
「百二十円です」

 財布を広げた後、ココアの温さをかき消すように冷たい飲料を流し込む。

「そんな格好してたら暑いですよ。寒がりなのか暑がりなのか分からない」

 瑞來くんは木陰の隅で私の抱えたブレザーを差す。春から来たんだから仕方ないでしょ、とは言えずに再び苦笑を浮かべた。