爽汰と別れて玄関の扉を開くと煮物の匂いがする。「ただいま」と小さく声をかけると「おかえりー」と奥から声が聞こえてきた。
リビングまで向かうとやはりお母さんがキッチンで夕食の準備をしていた。
テレビは録画していた医療ドラマを流している、緊迫した手術のシーンだ。
「お母さんって一回辞めるまではオペ室の看護師だったんだっけ」
「そうそう」
「じゃあこんな風にメス!て言われて渡してたの?」
「そうよー」
「なんで病棟勤務になったの?」
まだ看護師についてまだ勉強を深めていない私でもオペ室と病棟の看護師は業務内容がまるで違うことを知っている。
「うーん。オペ看も好きだったけど、病棟もやってみたくなって」
対面キッチンの中にいるお母さんが包丁で沢庵を切り始めた、私が好きなものだ。トントンと規則的な音が始まる。
「小学校……低学年くらいだったかなあ?さくらが言ってくれたのよ。私もお母さんみたいになりたいって」
「私が?」
「うん。インフルエンザをこじらせてしばらく苦しいのが続いてたの。看病してたら『お母さんはやっぱりすごい看護師さんだ。入院してもお母さんがいたら安心。さくらもお母さんみたいな看護師さんになるって』って」
思い出したようにお母さんは微笑んだ。そういえばそんなこともあったような、なかったような。ほとんどない記憶だ。
「それ聞いて病棟も経験してみたいなあと思って。職場復帰した時はブランクもあったし、オペ看と病棟の違いもあるし、働く病院も違うから1からの経験で。それも今思えばいい経験だったけどね」
「その時、何歳?」
「えー40歳くらい?」
「すごい」
そうか、新しいことも、夢も、若者だけのものではないんだ。今すぐ探さなくてもいいんだ。突然ふと見つかったり、道が変わったりするものでもあるかもしれない。
「看護師って大変?」
「志す人に現実を教えるのもなあ」
「ふふ」
「今は高齢者が多い病棟だから力仕事は結構大変。でもおじいちゃんおばあちゃんって可愛いのよ」
お母さんとこんな風に仕事について話すのは初めてだ。話そうと、知ろうと思わなかっただけだ。
『さくらは頭でっかちに考えすぎ』爽汰の言葉が浮かんでくる。自分1人だけで考えていても結局ぐるぐるとその場にいるだけだったんだ。