そして出会えた君と、儚く壊れる夢の続きを。

 わたしが住む小梅ヶ原市は、少し変わった町おこしをしている。
 というのは、何と、ミュージカル。
 地域住民による、小梅ヶ原市を舞台にしたミュージカルを、毎年上演しているんだ。二幕形式で、公演時間は通しで三時間を超える。なかなか本格的なミュージカルだ。
 毎年オーディションから始めて、みっちり三ヶ月の稽古期間があって、公演は千人近く入る市民ホールでおこなわれる。

 ミュージカルだから、もちろん、台詞も身体表現も歌もダンスもある。出演者は、子どもを中心に五十人くらい。脚本や演出、照明や音響といった裏方さんや、指導や監督をしてくれるプロの劇団の皆さんを入れたら、座組の人数は百人を超える。
 こういうことを毎年やっているのが、我らが住む町、小梅ヶ原。
 ちなみに、この「我らが住む町、小梅ヶ原」というのは市歌のサビのフレーズだ。公演の終わりにみんなで歌うのが毎年の定番になっている。何気にノリのいい曲だから、何でもないときにまで「♪小梅ヶ原~」と口ずさんでしまう。

 なんてことを語っちゃうわたしは、当然ながら、市民ミュージカルの舞台に何度も立っている。
 初めて出たのは五歳のときだ。演劇を観るのが大好きな母が意を決して「親子出演」枠に応募したのがきっかけだった。母はわたしが小三のときに観客に戻ってしまったけれど、わたしは小学六年生のときまで毎年出ていた。
 中学に上がってからは、舞台に立つことより、裏方の仕事に興味が移っていた。だから、中学の三年間は、音響、小道具、照明、演出、そして脚本アレンジと、裏方のスタッフとしていろいろやらせてもらった。

 そんなわたしが高校で演劇部に入って裏方を担当するようになったのも、ごく自然な流れだった。
 演者五十人という大きなミュージカルしか知らなかったわたしには、部員十五人の演劇部は、新しい驚きの連続だった。何と言っても、とにかく人手が足りないんだ。
 ナレーションをしながら照明の操作をしたりとか、公演前日まで衣装や小道具の制作に追われたりとか、毎回バタバタしてしまう。
 だけど、トラブルや失敗も含めて本当に全部、演劇って楽しい。

   *

 四月は、我らが演劇部も新入部員の獲得のために奔走するシーズンだ。
 とはいえ、部活動紹介の集会でもらえる枠は、たったの十五分。
 そんなんじゃ全然物足りないってことで、ゴールデンウィーク直前の土曜日に、市民ホールで公演を打つのが毎年恒例になっている。こっちは上演時間が約六十分と、それなりにしっかりした造りの作品ができる。
 四月の公演は二つまとめて「わかば公演」と銘打たれている。集会でやる十五分が「わかば短編」、市民ホールのほうが「わかば本編」。短編を本編の予告みたいな造りにして、「続きは四月何日土曜日、市民ホールで!」とやるわけ。

 ところが。
 わたしは相変わらず、盛大に悩んでいる。もう新入生を迎えて、本編公演まで三週間を切っているのに、脚本と演出が固まらない。
 今日もまた、わたしは夜更かしをして、演出プランを書いたり消したりしている。

「ああ、つらい……これだっていう正解がわからない……」

 今回の公演は、わたしが原案から台本執筆、そして演出まで担当することになっている。先輩たちも「そよ香カラーにしちゃってね」と全面的に任せてくれた。
 そよ香は器用だからできるでしょ、という先輩たちの信頼が重い。
 この春休みには、シェイクスピアから現代演劇、歌舞伎やオペラや人形浄瑠璃まで、いろんなジャンルの恋物語の台本を読んだり映像を観たりした。どうにかして、恋の表現というものを理解したくて。
 でも、舞台の演出を学ぶのって、テスト勉強とは違うんだ。やればやるほど、知識だけは身につくけれど、たどり着くべき答えはわからなくなっていく。

「どうしよう? わかば本編まで、あと三週間ないのに」

 わかば短編は、入退場を含めて十五分という短さだし、内容的にも「これは予告編!」と割り切っているから、現三年生たちの演技力と勢いで乗り切ることができそうだけど。
 去年の八月公演と文化祭でも、わたしは一年生にもかかわらず、脚本と演出をやらせてもらった。わたしが中学卒業までずっと市民ミュージカルにずっと参加していたことは先輩たちも知っている。現三年生の一部は、市民ミュージカルで一緒の座組のメンバーだったし。

 ただ、あの台本を最終的にまとめたのはわたしだったけれど、原案は部員全員でアイディアを出し合った。一からわたしが作ったわけではなかったんだ。
 演目は、『ガリヴァー旅行記』を下敷きにしたファンタジー作品だった。
「私たちは、船医ガリヴァーがたどり着いた不思議な島の住人」
 そんな思いつきの一文から始まって、自分は島で唯一のぼったくり宿屋をやるとか、元船乗りの老人をやるとか、帽子屋とか裁判官とか女王とか、いやそれはアリス混ざってるじゃんとか、どうせなら鬼ヶ島と竜宮城も混ぜちゃえとか。
 部員がそれぞれ自由すぎる発想で奇妙な登場人物を次々と挙げていくのを、わたしが議事録にして、それをもとに台本に仕上げた。
 ちなみに、ガリヴァー役は舞台上にいなかった。客席いっぱいのお客さんたちをガリヴァーに見立てる構成だったんだ。アドリブでお客さんをいじり倒す役者がいたおかげもあって、すごく盛り上がった。

 でも、今回は原案からわたしが一人でやっている。いい台本がないかと訊かれたときに、何となく、こう答えてしまったんだ。
「わたしが書いた小説があるんだけど、これをもとに台本にするのはどうかな?」
 あのとき、どうしてそんな提案をしたんだろう? 自分で思い返してみても不思議だ。台本だけじゃなく実は小説も書いているなんて、演劇部のみんなに打ち明けるつもりはなかったのに。
 今までに書いたことがある小説は、ただ一作。短編連作形式の恋愛小説だ。
 小説の完成度は、各編でまちまちだ。全然詰めきれない話もある一方、今回舞台にする一万字くらいの話が、いちばんきれいにまとまっている。たぶん。自信があるわけではないけれど。一応、読んでくれた部員は「悪くない」って言ってくれたけれど。

 去年のガリヴァーはコメディタッチで話が進んでいって、最後に伏線が全部回収されると、ほろっとくる。そんなタイプの作品だった。
 今回のは、切ない恋愛ファンタジーだ。想い合っているのに結ばれず、輪廻転生を繰り返す恋人たちの話。全体が切ないトーンで進んでいって、それがパッと反転する希望のラスト、という構成になっている。
 でも。

「構成はいいけど、具体的な演出、どうしよう? ラストできれいなどんでん返しを決めるには何が必要?」

 ラストというのは、とうとう現代に転生した二人が出会うシーンだ。
 二人とも、前世の記憶を持っているわけではない。でも、目が合ったそのときに、二人は運命に気づく。
 そのシーンの演出に、わたしは頭を悩ませている。

「決まらないなぁ。インパクトがやっぱり弱い。でも、仕方ないよね。わからないんだもん、恋って。だいたい、あの小説だって、わたしの感情が入ってるわけじゃないし」

 ぐちぐちと言い訳をつぶやき続けてしまう。
 実際、わたしのことを子供の頃から知っている先輩たちからは、原案となる小説を見せたときに「珍しいな」って言われたんだ。
「そよが恋愛ものを書くとは、想定外だったな」
「まったくだ。細かいところまで行き届いた作品だが、どうやって設定を考えたんだ?」
 芸能人級に整った顔の先輩二人に冷静な分析の視線を向けられて、わたしは笑ってごまかした。
 確かに二人の言うとおり、奇妙なことなんだ。台本ありきの恋のシーンでさえ、照れたり戸惑ったりで表現が全然うまくいかなかったわたしが、自分から恋の物語の短編連作をみっちりと綴っているなんて。

 あの小説には秘密がある。
 わたしが自分の頭で考えてつくりだした物語ではないんだ。

「夢で見たままを書いてるだけだし。どうやって細かいところまで設定してるのかって、わたしにもわかんないよ」

 幼い頃からくり返し、ひとつらなりの同じ夢を見続けてきた。だから、すっかり覚えている。
 あの夢の登場人物が誰なのか、ハッキリとはわからない。なぜわたしがあの夢を見るのか、その理由もわからない。
 ため息。

「ああもう、考えなきゃ。ラストシーンのインパクト。ちゃんと伏線を張らなきゃ。回収したら『あっ』と声が上がるようなやつ……」

 小説と舞台では、印象に残る表現が違う。現代に転生した二人は、見つめ合ったその瞬間、運命に気づく――という小説版のラストは今のままで一応まとまっているとしても、舞台でやるとなると、このままじゃ地味すぎる。
 舞台の演出は、映像ともまた違って、役者の顔をアップにできない。だから、視線だけの表現だと、市民ホールいっぱいに入ったお客さんには伝わりにくい。もうひと工夫、あったほうがいい。

「見つめ合ったそのときに、か。いや、何か小道具が必要かな?」

 転生を繰り返す二人を確かにつなぐもの。
 たとえば、ありふれてるかもしれないけど、アクセサリー。いつも身につけている古めかしいペンダントとか。
 とりあえず思いついたそのアイディアをノートに書いてみて、はたと気づく。

「ダメだ。江戸時代にペンダントってないよね……ああ、どうしよう」

 物語のプロローグには、運命に翻弄される二人が初めて出会うエピソードを短い尺で入れている。それが江戸時代の話なんだ。二人が生きた明治時代だって、よっぽどのお金持ちじゃないと、ヨーロッパ風のアクセサリーなんて手に入らないはず。
 江戸時代でも明治時代でも現代でも同じように、運命の二人をつなぐ「何か」。
 一体、何があるだろう?
 江戸時代って、ざっと二百年前ってことでしょ? 身近にある、そんな古いものって……。
 あっ、と思わず声を上げた。

「お寺の玉之浦椿! 確か、樹齢が二百歳以上だって言ってた!」

 それと同時に、今朝のことを思い出した。
 冬の名残の椿の花を見上げて、うっかり転びそうになっていた男の子。目が合ったのをきっかけに、つい話しかけてしまった。だって、わたしもあの椿が好きで、同じように見とれてしまいがちだから。
 あのとき、胸がじんわり温かくなったんだ。くすぐったい気持ちになって、笑ってしまって、鼓動が走って。
 偶然の出会いに、ちょっと感謝したりして。

「そっか、これだ。そこにあることは変わらないまま、時間の経過も見せられる。白く縁取られた、赤い椿の花。これだ……!」

 気づけば、わたしはノートにペンを走らせていた。
 お気に入りのペンではないから、インクの出がいまいちで、たびたび紙に引っかかってしまう。それがじれったい。
 もっと速く、もっと確かに、ペンよ、走って。
 頭の中に浮かんだ大切なイメージを、逃して終わないように。
 じれったく思いながらも、真っ白だったページは、だんだんと埋まっていく。
 ノートに書きつけたアイディアをもとに、パソコンで作っている台本にアレンジを打ち込んで、できれば明日にはみんなに見せたい。早く印刷して、稽古に入れるように。

「いけるいける。台本、これで完成させられる!」

 ぱちん、とパズルのピースがはまったみたいだ。
 ずっと書きたかったのはこれだ、と心が叫んでいた。

***
 これは、わたしがいつも見る夢。
 幼い頃からくり返し、何度も見てきた夢の物語。
 主人公は、運命の二人。
 生まれ変わって何度も巡り会いながら、結ばれることのない二人だ。

 初めは、バラバラの物語だと思っていた。何組もの、報われない恋人たちなのだと。
 ひとつながりの物語だと気づいたのは、小学三年生のときだ。
 市民ミュージカルで、小梅ヶ原市の歴史をテーマにした作品をやった。そのとき、初めて意識したんだ。
 この世に時代の流れというものがあるんだってこと。
 わたしが生きている「今」という時代は、過去の歴史の積み重ねの上に存在しているんだってこと。

 過去は、忘れ去られたり記録されたりしながら、今につながっている。
 もしかしたらわたしが夢に見るあの二人の物語は、まったく別々の二人なのではなくて、あらゆる時代を生きる、同じ二人なんじゃないか。そんな気がした。
 この直感は、きっと間違っていない。根拠なんてないけれど。

 小学六年生の社会で日本の歴史を習って、中学でも歴史の授業があって、ふと気になったことを図書館で調べてみたりもした。そうやって勉強していくうちに、二人の時代背景が見えるようになった。
 髪型や着物、洋服の形や、町の様子。
 やっぱりそうだった。二人は、いろんな時代を生きている。時代の流れに翻弄されながら、生まれ変わってはすれ違って、恋はいつも悲劇に終わる。そしてまた生まれ変わって……。

 どうしてわたしがこんな夢を見るんだろう?
 もしかして、わたしがこの二人のどちらかだというの?
 まさか、と否定した。
 だって、恋をしている自分なんて、少しも想像できない。それに、もしもわたしがあの夢の続きを生きているのだとしたら、運命の恋人と出会ったとしても、結局は悲劇に終わるんでしょう?
 そんな恋なら、したくない。わたしは恋がわからないままでいい。

 でも、儚い運命を背負う二人の姿にどうしようもなく惹きつけられるのもまた事実だった。
 だから、わたしはその夢の物語をノートに書きつけていた。書き始めたのは、まだ歴史の勉強を始める前の、小学五年生の頃。
 初めはへたくそな日記に過ぎなかったそれも、繰り返し書いているうちに、だんだん形が整っていった。「小説」と呼べるようになっていったんだ。

   *

 これは、わたしが見る「運命の恋人たちの夢」だ。
 転生をくり返す、叶わない恋の物語。

   *

 二人が初めて出会ったのは、江戸時代。現代から数えて、約二百年もの昔。
 彼女は不治の病をわずらっていた。彼は若い医者だった。
 江戸の町の外れにある療養所で、彼女は最期のときを待つ身だった。
 もちろん彼は、どうにかして彼女の病を治そうと試みた。でも、彼の懸命な看病もむなしく、彼女は息を引き取ってしまった。

 ほんの五ヶ月、そばにいただけだった。想いを伝え合うどころか、その感情が何なのかさえ、答えを探せないままの関係。
 彼女が残した手紙には「生まれ変わって、また出会えたら、お話ししたいことがあります」とだけ書かれていた。

 遺された彼は、優しい笑顔の下に悲しみを隠して、独りで歳を重ねていった。やがて、時代は幕末の動乱へ。
 彼は、幕府の政治を批判したと噂され、禁書を隠し持っているという罪で、牢に入れられた。
 優しさと辛抱強さは牢の中でも変わることなく、彼は、流行り病で苦しむ囚人たちの手当てに奔走した。その病が彼にもうつって、暗い牢の中でひっそりと死んでしまった。

   *

 時が流れた。
 おそらく、半世紀ほどの時が。

   *

 明治時代の終わり近く。
 文明開化と盛んに謳われていたのも、一世代前のこと。
 貿易で栄える横浜の、成功した商家の息子と、どうにか体面を保っている下級華族の娘がいた。
 二人は許嫁(いいなずけ)同士だった。

 むろん、政略結婚だ。成り上がりと後ろ指差される商家は、由緒ある華族と親戚になりたかった。名ばかり立派な華族は、経済的援助をしてくれる商家と親しくしておきたかった。
 婚約当初はそんなふうだったけれど、実のところ、とてもうまくいっていた。許嫁同士の二人は互いを想い合っていて、両家の間を上手に取り持った。二人にとっても両家にとっても幸せな結婚が約束されているかに思えた。

 でも、大学に通う彼が血を吐いて倒れたことで、状況は一変。彼は結核をわずらっていた。その当時、結核を治療するための薬はまだ存在しなかった。
 不治の病である結核の患者は、人里離れたサナトリウムで過ごすことになる。彼は半年ほどサナトリウムで暮らしていたけれど、儚く逝った。彼を看取った彼女は病気がちになって、ほんの一年のうちに命を落とした。
 明治という、まだまだ古風で厳格な時代だったから、二人は手をつないだことさえなかった。

   *

 また、時が流れる。
 明治の終わりから数えて、三十年余りが過ぎた。

   *

 戦時中だった。
 太平洋戦争の終盤。
 軍は、日本の旗色が悪いのを隠している。けれど、父も兄も親戚も、男たちが次々と南方や満州へ送られて手紙ひとつ届かないとあっては、残された女たちが希望なんて持てるはずもない。
 彼女は女学生だった。『源氏物語』や『紅楼夢』のような恋物語が大好きだった。現代語訳されたものだけでは飽き足らず、くずし字で書かれた古文や、漢字で綴られた白話小説を読めるようになりたかった。
 だから、学び続けたいという夢を抱いていた。お嫁にも行かず女学校に残ってずっと学んでいられたら、と。

 彼女の夢は、戦争のせいで砕かれた。
 まだ中等学校の途中だというのに、その春からすべての授業がなくなって、隣町の飛行機工場に働きに行くことが決まったのだ。
 女学校のみんなと一緒だから、まだよかった。仕事でやけどをすることも、粗末な食事しか出ないことも、毎日のように空襲に見舞われることも、何とか耐えられた。
 当然ながら、恋にうつつを抜かしていられる状況ではなかった。
 でも、彼女は出会ってしまった。

 彼は、まわりの工員からも一目置かれる設計士だった。工場での立場はずっと上なのに、工員や女学生に交じって、遅れがちな作業のために手を動かしてくれる人。
 女学生たちがまとめて叱られて落ち込んでいたとき、彼はどこからともなく国語の教科書を調達してきて、授業をしてくれた。聞けば、大学では工学を勉強していたけれど、本当は国文学の研究をしてみたかったらしい。
 楽しそうに和歌の解説をする彼に、女学生たちはみんな憧れたけれど、彼女の想いは特別だった。
 どう説明しようもないけれど、彼女にはわかってしまったんだ。ずっと巡り会いたかったあの人だ、と。

 それからほどなくして、彼のもとに赤紙が届いた。彼は出征してしまい、二度と帰らなかった。
 彼女もまた、激しさを増す空襲の犠牲になった。
 季節が一つ巡って、晩夏。
 戦争が終わった。

   *

 そしてまた、時が流れる。
 戦争の足音はすっかり遠のいて、町の様子もだんだん現代に近くなってきた頃だ。

   *

 彼女は恋をしていた。友達にすら明かしたことのない、秘めた恋だ。
 図書館で見かける彼を、いつしか目で追うようになっていた。彼と目が合うこともあった。そんなとき、彼はほんの少し口元を微笑ませて、かすかに頭を下げてくれる。
 たったそれだけ。言葉も交わさないし、名前も知らない。
 わかるのは、彼が近所の男子校に通っているということ。中高一貫の進学校だ。同い年くらいに見えるが、本当は年上かもしれないし、年下かもしれない。

 話しかけてみる勇気などなかった。彼が返却するところを見た本を、こっそり借りるのが精いっぱい。坂口安吾や安部公房といった、少し難しい純文学ばかりだ。彼が読んでいるからという理由がなければ、きっと手に取ることもなかっただろう。
 渡せない手紙を、いつも革のカバンの奥に隠していた。何通も書いて、そのたびに、ただしまい込んで。

 彼は、あるときからふっつりと図書館に来なくなった。
 交通事故だったと、ずいぶん後になって、司書さんから聞かされた。顔なじみの司書さんは、何となく会釈を交わす彼と彼女を知り合いだと思っていたらしい。
 彼女は後悔した。どうして勇気を出して手紙を渡さなかったんだろう?
 二度と会えなくなる日がこんなに早く来るなんて、思ってもいなかった。
 彼女の心に突き刺さった後悔は、一生、どうしても消えなかった。

   *

 明かせなかった恋の痛みを感じたまま大人になった彼女は、ひょっとしたら、わたしの大叔母だったのかもしれない。
 大叔母は、父方の祖母の妹だ。おしゃれで博識なレディだった。ずっと独身だったらしい。大人になったら誰もが結婚するのだと思っていた幼いわたしに、大叔母は「世の中には、いろんな価値観を持つ人がいるのよ」と教えてくれた。
 わたしは、背筋を伸ばして生きている大叔母のことが好きだった。
 その大叔母が亡くなって、もう三年になる。

 大叔母は、わたしにとって人生でいちばん初めの読者だった。わたしの書いたものを読んでもらっていたんだ。くり返し見ているあの夢の物語も、背伸びして書いてみた舞台の台本も。
 自分の書いた物語を読んでもらうというのは、心の内側にある情景を見せるということだ。
 それは、秘密を明かすことにも似ている。
 だから、大叔母も教えてくれたんだ。わたしは運命の人に手紙を渡しそびれたのよ、と。

***
 翌日の放課後。
 アレンジした台本を演劇部のみんなにチェックしてもらったら、「すごくよくなった!」と誉められた。
 恋のインパクトっていう、苦手意識の強い描写で誉められたのは、照れくさくもあった。でも、この感じなら、手応え十分だ。

 わかば短編公演で舞台に立つメンバーが部室で稽古をしている間、わたしは一人で印刷室に詰めていた。出来上がったばかりの、わかば本編公演の台本を印刷するためだ。
 インクのにおいがする。コピー機がリズミカルに働いている。刷り上がったページはほんのり温かい。

「あと四分の一、か」

 幼馴染みで一つ年下の(とも)()が、半分ほどコピーが終わった時点で運んでいってくれた。
 友恵は背が高いしスタイルがいいし、大人びた顔つきの美人だし、度胸がよくてしっかり者で堂々としている。おかげで、とても新入生には見えない。すでに演劇部の部室にも出入りして、わかば公演に向けてバタバタしているわたしたちを助けてくれている。
 そうそう、友恵も市民ミュージカルで出会ったんだ。お互い幼稚園児だった頃からの、家族ぐるみの付き合いだ。

「あ、紙が切れた」

 補充しなきゃ。慣れたものだから、さほど手間もかからない。
 またリズミカルに働き始めたコピー機を前に、わたしはふと、奇妙な感じを覚えた。

「何だっけ、これ? わたし、この場面、何か知ってる……」

 デジャヴだ。
 近頃、変な夢を見ている。子供の頃から見ていた、運命の恋人たちの夢とは別のものだ。
 予知夢、というものだと思う。
 ものを落としたり壊したりする夢だ。
 この一ヶ月くらいのうちに、これで三回目。その場面が迫ってきているのはわかる。「あれ? この場面、何だか覚えがある」と思っているうちに、手にしていたものが壊れちゃったりして。
 今回もなのかな。何が起こるのか思い出せないまま、その場面に至ってしまうのかな。

「派手な失敗じゃなければいいなぁ……」

 昔から見ているほうの、報われない運命の恋人たちの夢のことは、友恵にも打ち明けてある。でも、今回の予知夢のことはまだ言っていない。
 だって、別に悩んでいるというほどのことでもないし。何だか気持ち悪くて、引っかかりはするけれど。

 そんなことをつらつらと考えているうちに、台本のコピーが終わった。
 印刷室の隅に、空の段ボール箱が積んである。プリントを運ぶときは自由に使っていい、という感じの紙が貼られている。
 わたしはその箱を一つ取って、印刷済みの紙の束を入れた。
「よいしょっと」
 部室に持って帰ったら製本しなきゃ。全員の流れ作業でやるから、そう時間はかからないはず。

 印刷室を施錠して、すぐ隣にある職員室に鍵を返して、四階の隅にある部室を目指して歩き出す。
 階段を上り始めてすぐだった。
 ピンときたんだ。あっ、この場面だ、と。
 でも、対策する間もなかった。踊り場に足をかけた瞬間、いきなり段ボール箱の底が抜けた。

「ああっ、やっぱり!」
 ざぁっとこぼれ落ちて、階下のほうへひらひら飛び散っていく紙の束。
 なす術もなくその光景を見ながら、これこそが「壊れものの予知夢」の場面だったと思い出した。
「嘘ぉ……ああもう、何なの?」

 不幸中の幸いは、人に見られていなかったこと。放課後はこの階段を使う人があんまりいないんだ。
 と思ったんだけど。

「だ、大丈夫ですか?」

 すぐ上の階段の手すりから、男の子が顔をのぞかせた。
 色白できれいな顔をした子だ。
 あっ、と、わたしは声を漏らした。その声が彼と重なった。

「椿の木の……」

 そう言った声も、ほとんど重なっていた。
 入学式の翌日の朝、お寺の椿を見上げていた彼だ。何となくの流れで話し始めたはいいものの、照れてしまったのか、困った様子を見せていた彼。
 彼はぎこちなく微笑むと、軽やかに階段を駆け下りてきた。

「ひ、拾うの、手伝いますね」
 早口で言うが早いか、リュックを踊り場に置いて、さっと階段を下りていった。下のほうから順に、散らばった紙を拾い始める。

「ありがとう!」
 わたしのほうが出遅れて、もたもたしてしまった。

 上から順に拾っていこうとしたんだけど、バランスを崩しかけて慌てた。下から行くほうが安全だ。
 彼と二人、左右で手分けしたら、案外すぐに全部を拾い集めることができた。

「助かりました。本当にありがとう」
 わたしは彼に頭を下げた。
 彼は慌てたそぶりで、首をぶんぶんと左右に振った。
「い、いえ、あの……お役に立てたなら、よかったです。ええと、これは、部活の……?」

 彼が差し出してくれた紙の束は、ラストシーンのページがいちばん上に載っていた。
 運命の恋人たちが現代に生まれ変わって、昔と同じ花畑の情景で巡り会うシーン。近くに立つ松の木は、樹齢に合わせて大きく育っている。
 ……椿の花にはしなかったんだ。だって、椿そのままはあんまり恥ずかしすぎるかな、と思って。わかば短編の公演は、新入生全員が観る。つまり、目の前にいる彼も観てくれるわけで。
 あの朝、彼と一緒に玉之浦椿を見上げたのがヒントになっていると気づかれたら、恥ずかしい上に申し訳ない。だから、花畑と松の木に変えた。
 わたしは、それでも何だか恥ずかしくなって、紙の束を受け取りながら顔を伏せた。

「これ、台本なんです。わたし、演劇部の二年で、脚本とか演出とかやってて」
「嘉田そよ香さん?」
「えっ?」
 思わず顔を上げる。

「あ……こ、ここに、書いてあるから。拾うときに、名前が見えたんです。い、いきなり、すみませんっ」
 彼は慌てた様子で、奥付の書かれた紙を指差した。「脚本/演出:嘉田そよ香」と、確かに書いてある。
「ああ、うん。わたしの名前です」

 何だろ。うまく言えないけど、何だかすごくくすぐったくて照れくさい。
 なのに、彼が思いがけず、言葉を重ねてきたんだ。

「そよ風のそよ、ですか」

 ドキッとしてしまった。

「はい。自己紹介のとき、そんなふうに自分でも言うんですよね。そよ風のそよ」
 でも、人に言われたことはなかった。この上ないほど聞き慣れた自分の名前が、なぜだか、とても美しいものに思えてしまった。

 彼はわたしに何かを告げようとした。でも、しゃべるのはあまり得意ではないみたいだ。パッと身をひるがえすと、踊り場の隅に置いていた自分のリュックを取ってきた。

「これ……」
 彼は、リュックに入っていたペンケースの中から、一本のペンを取り出した。
 青を基調にしたステンドグラスみたいな、凝ったデザインのボールペンだ。ノック式で、油性インクで、万年筆みたいな細字。「Soyoka」という、わたしの名前が刻んである。

「わたしのペン! なくしたと思ってた。どこで見つけたの?」
 大好きだった大叔母がわたしの十二歳の誕生日に贈ってくれたボールペンだ。一目で気に入って、それ以来、台本や小説を書くときはいつもこのペンを使っていた。

 彼は、ほっとした顔で微笑んだ。
「春休みに、市立図書館で。えっと、閲覧室です。広い机の上」
 わたしは肩の力が抜けた。

「やっぱり図書館だったんだ。よかった。ありがとう! 図書館でインクの詰め替えをしたところまでは覚えてたんだけど、その後、ちゃんとペンケースにしまったかどうか、自信がなかったんです」
「詰め替えのとき、ペン、落としてしまったでしょう?」
「えっ、見てたの?」
「と、隣の机にいたので。先輩がペンを落としたところも、たまたま目に入ってしまって……あの、すみません。気持ち悪いですよね……」

 首をすくめて弁明する彼は、ひどく気弱そうだ。おびえているようにさえ見える。
 わたしはつい、幼い子供を相手にするみたいに、うつむいた彼の顔をのぞき込んで微笑んでみせた。

「謝らないで。前の失敗も見られてたんですね。椿の木の下で転んだ話もしちゃったし、今もこうして紙をぶちまけちゃったし。お察しのとおり、けっこうドジなんです。実はそのペン、落としただけじゃなくて、そのはずみで壊しちゃって。それも見てました?」
「はい。すごくあせっているのがわかって、その……声を掛けようか、迷ったんです。ひょっとしたら直せるかもって思って。でも先輩、その後すぐに電話がかかってきて、図書館を出ましたよね」
「そうだった。母と待ち合わせをしてたんだけど、ペンを壊しちゃってあせってるうちに、約束の時間を過ぎてたんです」
 だから、急いで荷物をまとめて図書館を出た。そして間抜けなことに、大事なペンを机の上に置き忘れてしまっていたらしい。

 彼はわたしにペンを渡そうとして、あっと気づいた顔をした。
「両手、ふさがってますね」
「確かに。箱……は、底が抜けてるし。どうしようかな」
 彼はリュックから丈夫そうな紙袋を出した。市内にある書店の紙袋だ。
「どうぞ」
「もらっちゃっていいんですか?」
 彼はこくりとうなずいた。
「昨日の、教科書購入のときの袋なんです」
「じゃあ、ありがたく使わせてもらいます」

 彼が広げてくれた紙袋に、わたしは抱えていた紙の束を入れた。
 それから改めて、彼はペンをわたしに差し出した。

「壊れたところ、直せました。確認してください」
「直せた? ほんと?」

 ペンを受け取るとき、ほんの少し、指先が触れ合ってしまった。彼はやけどでもしたかのように、ビクッとして手を引っ込めた。
 そんな極端な動きをするから、むしろわたしは気になって、彼の手を見つめてしまった。
 指が長い。爪の形は正方形に近くて、わたしの指先とは全然違う。意外なくらい大きくて、関節がくっきり目立つ手だ。
 ……どうしてだろう? その手を、なぜだか懐かしく感じた。その手がとても器用なことも、冬でも温かいことも、知っている気がする。
 いや、そんなわけない。
 わたしはそっとかぶりを振って、ペンをノックしてみた。カチリ、と確かな手応えがある。

「ほんとだ、直ってる! カチッとやってもペン先が出なくなってたの。君が直してくれたんですね?」
「あ、はい」
「本当にありがとうございます!」
 わたしは勢いよく頭を下げた。顔を上げると、慌てた彼がわたわたと手を振った。

「そ、そんな、大げさですよ。こういうノック式のペンは、中にバネが仕込んであって、それが外れたり歪んだりすると、カチッとならないんです。僕がやったのは、そのバネをもとのとおりに戻しただけですから」
「君は大したことないように言うけど、わたしには直せなかったんですよ。それに、大事に保管しておいてくれたことも、わたしは嬉しいです」
「それはあの、先輩が小梅高の制服だったから、近いうちに会える気がして……あっ、でも、そのくせ、朝、あの椿のところで会ったときは、頭が回らなくなって、ペンのこと忘れてて……すみません、人見知りで、ええと……」

 彼はうつむいた。サラサラの髪の間からのぞく耳が真っ赤だ。形のいい手を握ったり開いたりしているけれど、少し震えているのが見て取れる。
 もしかしたら、人見知りという表現では足りないくらい、知らない人と話すのが苦しいんじゃないかな? それなのに、こうして一生懸命、わたしとしゃべろうとしてくれている。
 わたしは、できるだけ柔らかい声音で、彼に言った。

「このペン、大事なものなんです。壊した上になくしたと思って、すごくへこんでたんですよね。予知夢の中で一度壊して、現実でもまた壊して、何やってるんだろうって自分を責めてました」
「……よ、予知夢、ですか?」
「そう。予知夢だったんだから防げたかもしれないって、それにもへこんじゃったんです……って、ごめんなさい。わたし、変なこと言ってますね。予知夢なんて。でも最近、連続で見てるんですよ。落としたり壊したりする予知夢ばっかり。今日の段ボール箱の件も」

 わたしはごまかし笑いを浮かべた。彼の前では、まるで気が抜けているみたいに、何でもぺらぺら話してしまう。椿の木の下で転んだ話もそうだったけれど。
 名前も知らない、顔を覚えたばかりの相手なのに。
 そうだ。名前、訊かなくちゃ。ペンを直してくれたことへのお礼をしたい。ぶちまけた台本を拾って、箱の代わりの紙袋をくれたことへのお礼も。

 でも、彼との会話はそこで途切れた。
 階段を駆け下りてくる足音と、わたしの名前を呼ぶ声がしたんだ。

「そよちゃん、そのへんにいるの?」

 友恵だ。
 わたしがなかなか部室に現れないから、気になって様子を見に来たんだろう。

「踊り場にいるよ! 遅くなってごめん!」
 わたしが答えるのとほぼ同時に、友恵が手すり越しに顔をのぞかせた。
 友恵は、ノーメイクでもくっきりとした目を丸く見張った。
「そよちゃんと、(そう)()? 何しゃべってるの? 二人、知り合いだった?」

 相馬と呼ばれた彼は、ビクッとして、リュックを胸に抱えた。
「み、(みな)(もと)さん……?」

 友恵は軽い足音を立てながら階段を下りてきた。
「そ、同じクラスの皆本友恵。覚えてたんだね。相馬は女子の前じゃビクビクしてばっかで目も合わないから、女子の顔も名前もわかってないもんだと思ってた」

 相馬くんは、友恵が近づいてくるのに従って、壁際に下がっていった。さっきまで真っ赤だったはずの顔色が、今や真っ白になっている。
 どういうこと?
 わたしが相手のときは、相馬くん、そこまで怖がっていなかったよね?
 友恵は、そんな相馬くんをチラッと見やると、わたしに向けて肩をすくめてみせた。

「相馬は入学式の間は学年一のイケメンだってうわさが流れてたのに、女子が近づくとそんな感じなんだから、あっという間に、変なやつ呼ばわりだよ。相馬、怖がんないでよ。あたしは何もしないって」

 相馬くんは友恵の言葉にうなずいたものの、やっぱりどうにもならないらしい。
「す、すみません、失礼します……!」
 バッと頭を下げると、逃げるように階段を駆け下りていった。

「そ、相馬くん? 待って!」
 わたし、ちゃんとお礼をしていないのに。それに、もう少し話してみたかったのに。
 でも、相馬くんは振り向きもせず、あっという間に遠ざかっていってしまった。

 友恵がわたしの手から台本の紙袋を奪いながら、首をかしげた。
「あたし、お邪魔だった? 相馬と何話してたの?」
「段ボール箱の底が抜けて台本をぶちまけて、慌てて拾ってたら、相馬くんが手伝ってくれたの。もともと図書館で顔を合わせたこともあったし。それでちょっとしゃべってたんだけど」
 少しの嘘を混ぜて、わたしは友恵に事情を伝えた。

「すごいね、そよちゃん。相馬としゃべれたんだ」
「そう? でも、名前もちゃんと訊いてないよ。顔だけは知ってたけど」
「相馬(みず)()。あたしたちとは別の中学から来た。中学時代は別室登校だった時期もあるらしいよ。今の教室でも女子と一言もしゃべらないし、男子の前でも挙動不審気味。何て言うか、人に慣れてなくて震えてる小犬みたい」
「震えてる小犬か」

 言いえて妙かもしれない。人が嫌いというより、人におびえているんだ。
 別室登校って、一体何があったんだろう? 高校では普通の教室に通うことを選んでいるけれど、それはひょっとして、覚悟のいることだったりするのかな。
 友恵と並んで部室へ向かいながら、わたしは胸の中で彼の名前を繰り返していた。

 相馬瑞己くん。
 また話せたらいいな、と思った。

***
 おびえて震える子犬のようだと思った。
 おどかしちゃいけない。
 怖がらせちゃいけない。

 でも、そっと近寄ってみたい。

 ままならない自分を叱咤しながら、
 一生懸命に前を向こうとしている君が、
 とてもまぶしい。

 もっと話をしてみたい。

***
 ゴールデンウィーク直前の土曜日。
 我らが演劇部のわかば本編公演が市民ホールで上演された。
 ホールはお客さんで満席。立ち見も出たみたい。

 反響も上々だった。
 万雷の拍手というものを久しぶりに体感した。「うちの町の子たちは頑張ってるねぇ」みたいな、お義理の拍手ではなかったんだ。市民ミュージカルで知り合った大学生からも「大学演劇のコンクールで健闘できるレベルだよ!」と言ってもらえた。
 アンケートでは「脚本がよかった」という、ありがたい声をいっぱいいただいた。脚本担当としてクレジットされているのはわたしだから、わたしの名前も挙げていただいていたんだけど。

「何だか後ろめたいな。わたしひとりの力じゃないんだもん」

 部室で一人、わたしはつい声を上げてしまった。
 裏方のわたしは、大道具と一緒に顧問の先生の車に積まれて、一足先に部室に戻ってきたところだ。片づけられるものは片づけてしまった。ほかの部員が戻るのを待ちながらアンケート用紙をパラパラしてみたら、脚本を誉める文章が目に入ってきたというわけ。

 でも、買いかぶりなんだよね。
 わたしがいったん台本を仕上げた後も、結局は部員一同、本番ギリギリまで意見を出し合って演出に手を加え続けた。台詞をごっそり変えたところだってある。全員の台本が書き込みだらけになった。
 あんなふうに、台本がわたしひとりの手を離れて座組全員のものになっていくと、わたしはほっとする。

 最初にみんなの前に台本を出すときがいちばん恥ずかしいし、怖いんだ。わたしひとりが自分の中身を見せることになるから。
 その後、ほかのみんなもどんどん自分の中身をさらけ出しながら、演技をしたり台本に手を加えたりしていく。そうするうちに、恥ずかしさも怖さも消えてしまう。

「今回は特に、最初がきつかったなぁ」

 しみじみとつぶやく。
 何せ、いちばん初めに見せたのが、台本じゃなくて小説だったんだから。わたし、小説は一本しか書いた経験がない。その唯一の小説の一部を見せたわけで。
 部員一同の返事を待つ間の気まずさと居たたまれなさを、まざまざと思い返すことができる。

「終わりよければすべてよし!」

 わたしは声に出して宣言した。思い返すのも、もうやめよう。
 紆余曲折あったけれど、わかば公演は大成功だったんだ。
 ほどなくして、部員がぞろぞろと部室に戻ってきた。車で運びきれなかった小道具や工具なんかをそれぞれ抱えている。「お疲れー」と言いながら部室に入ってきては、手にしたものをパパッと棚にしまっていく。
 まだ帰ってきていないメンバーは買い出し班だ。これから部室で開く打ち上げのために、お菓子やジュースを買いに行っている。

「みんな、お疲れさまです。お客さんに書いてもらったアンケートはここだよ」

 わたしがアンケート用紙の束をバサバサやると、先輩たちがこっちにやって来た。わたしはもう目を通したから、部長にアンケート用紙を渡して、衣装の片づけに加わる。
 一緒に裏方をやっていた友恵が、わたしに言った。

「アンケート、脚本のこと書かれてたでしょ?」
「うん。見たの?」
「いや、客席にいた友達からのメッセージでね、『脚本にめちゃくちゃ感動した。アンケートにも書いたよ』って」
「わぁぁ、ありがたいけど申し訳ない。わたしが一人で書き上げたわけじゃないのに」
「それでも、そよちゃんの原案があったから、ちゃんと仕上がったんだよ。わかば公演『(はかな)き君と、あの日の続きを』、いろんな人に刺さるロマンスになったよね」
「ありがとう。恋愛もの書くの苦手すぎて、いっぱい足を引っ張ったけど、みんなのおかげで形になりました」

 でも、と友恵はわたしに耳打ちした。
「あんなに大事にしてた運命の恋人たちの夢、こんな形でお客さんに公開しちゃってよかったの?」

 夢を記録するところから、あの小説は生まれた。
 それを打ち明けた相手は、今までたった二人。大叔母と友恵だ。
 なのに今回、こうして舞台にした。原案の小説の明治時代編をまず何人かの先輩に読んでもらって、OKをもらってから台本にして、演劇という形で部員全員と共有して、短編公演は新入生の前で、本編公演は市民ホールいっぱいのお客さんの前で披露した。

「たぶん、これでよかったんだと思う。自分でも不思議だけどね。このタイミングで見てもらわなきゃいけない気がしたんだ」
「見てもらう? 誰に?」
「わからない。でも、舞台作品との巡り合わせって、そういうものじゃない? ああいうきっかけだったからあの台本が書けたとか、そのタイミングだったから観劇した作品がめちゃくちゃ刺さったとか。理屈で説明できない何かが、よくあるでしょ?」

 友恵は肩をすくめた。
「そういう論法でいくなら、今回の舞台は、そよちゃんの運命の恋人が観に来るからってことになるよね」
「う、運命の恋人って、何それ? 何度も言ってるけど、あの夢の続きが今の自分だなんて、わたし、思ってないよ」
「いや、あんな夢をずっと見ていながら無関係です傍観者ですって、それは無理がある気がするんだけど」
「だけど、夢を見たせいで泣きながら起きるとか、そういう感じじゃないんだよ。わたし、舞台でも本でも、感情移入したらすぐ泣くでしょ。あの夢はもっと遠いっていうか、他人事の距離感っていうか」

 いや、もしかしたら、心を鈍らせることを無意識に選んでいるのかもしれない。
 だって、あれだけくり返し見る夢に毎度泣かされていたら、心がすり減ってしまいそうだ。眠るのが怖くなる。夜、眠りにつくたびに、最愛の人との死別を体験することになるかもしれないなんて。

「他人事の距離感ねぇ。そよちゃん、夢の中では神の視点なの?」
「うーん……場面によるかな」
「少なくとも小説に書き起こしてあるのは、彼女視点だよね?」
「まあ、明治の話は、確かにそうなんだけど」

 台本では、そのへんの視点のブレや制約に関しても修正が入った。彼の役を務める先輩が「演じていて違和感があるんだが、男が本音を語りすぎじゃないか?」って言い出したんだ。
 改めて見直してみたら、確かにそうだった。
 物語の主軸は彼女で、お客さんと視点を共有するのも彼女のほうだ。彼は、彼女にとってどことなくミステリアスな存在のはずなのに、彼が台詞で語りすぎたらバランスが成り立たない。
 でも、それなら彼の心情や立場をどう説明しようか? それをクリアするために新たな工夫が必要になって、全員で意見を出し合った。
 そんなふうに、演じながら鋭い指摘をズバズバ入れてくれる仲間たちだから、とても信頼できる。わたしが頭の中でこね回すばかりだった物語が、頼もしい仲間たちの実演と分析を経て、どんどん鮮やかな姿を得ていった。

 ふと。
 ひときわにぎやかな声が部室の出入口から響いてきた。

「主役は遅れてやって来る、なんてな! 待たせてすまねえな、皆の衆!」

 よく通る声の持ち主は、()()()くんだ。普段から舞台用の声の張り方をしてるんじゃないかってくらい、本当に声が大きい。
 登志也くんの隣で、(しん)()(ろう)くんがしかめっ面をしている。

「耳元で叫ぶな。うるさい」

 そりゃね、肩を組まれた状態で登志也くんの大声を聞かされたら、耳がキンとするよね。
 ()(じょう)登志也くんと(あら)(まき)真次郎くんは、わたしより一学年上の先輩だ。でも、「先輩」じゃなく「くん」づけで呼んでいるのは、二人が市民ミュージカル時代からの演劇仲間だから。
 二人が並んで立つと、とにかく華がある。子供の頃から見慣れたわたしの目にも、登志也くんと真次郎くんがイケメンなのはよくわかる。しかも二人ともすさまじく勉強ができる。

 登志也くんは、目が大きくて眉がくっきりした、彫りの深い顔立ちだ。勉強の成績だけじゃなく、運動神経も抜群で、演劇部随一のアクションスター。ただし、元気がよすぎるというか、落ち着きがないというか、もはや小学生男子みたいというか。
 真次郎くんは切れ長な目が涼しげで色白、薄い唇の赤さが色っぽい。演劇部と科学部を掛け持ちしていて、ものすごい論文を書いたりもしている。でも、常に眉間にしわを寄せていて、言葉の切れ味が鋭すぎるし、ひたすら無愛想で偏屈だ。

「役を演じてる間は、二人ともあんなに健気な雰囲気だったのにな」
 わたしが思わずため息をつくと、友恵も深くうなずいた。
「登志也くんの演技、透明感があるんだよね。儚い役もうまかった。真次郎くんは笑顔に気品があって、今回はまさに貴公子だった。なのに、役を離れたらこれだもんね」
「顔と頭はいいけど、残念なイケメンに分類されるやつ」
「そう、それ。舞台上の姿を鑑賞するだけっていうのが、あの二人の正しい使用法だと思う」

 真次郎くんが登志也くんの腕を払いのけながら、廊下のほうを振り向いた。
「おい、そんなところにいてどうする? さっさと来い」
 誰かそこにいるみたい。

「で、でも、やっぱり僕は……」

 聞こえるかどうかの小声を、わたしの耳はしっかり拾った。
 ドキッとした。
 そう何度も聞いたわけではないけれど、わかる。覚えている。
 いや、でもそんな、まさか。

「いいから来い!」
 真次郎くんが腕を伸ばし、ぐいっと、その人を引き寄せた。
 やっぱり、そうだった。

「相馬、(みず)()くん」

***
 相馬くんは、登志也くんと真次郎くんの間に挟まれて固まっている。部室じゅうから集まる視線。でも、両腕をがっしりつかまれているから、逃げ出すこともできない。
 何も言えない相馬くんの代わりに、登志也くんが声を上げた。

「こいつ、相馬瑞己っていって、俺と真次郎の幼馴染みなんだ。帰宅部の一年生なんだけど、舞台に興味があるってんで連れてきた。打ち上げ、参加させてやってくれ」

 イケメン双璧と名高い二人の間にいて、相馬くんも全然、見劣りしない。スタイルがいい。顔はうつむきがちだけれど、その角度だと、まつげの長さやスッと通った鼻筋がかえって際立っている。

 部長がにこやかに言った。
「舞台に興味がある人なら誰でも大歓迎! 演劇部は毎日活動ってわけでもないし、兼部も自由。これを機に、気軽に入部してくれていいんだよ」

 真次郎くんが相馬くんの肩をぽんぽん叩いた。
「そういうことだ。おまえの事情に合わせて、俺や登志と同じように、公演前だけスポット参加する形でいい」

 瑞己くんは、ぷるぷると小刻みにかぶりを振った。
「……だけど、真くん、僕が人前で何かするなんて……」
「じゃあ、その手先の器用さを活かして裏方を手伝ってみろ。おまえ、高校では変わりたいと思ってるんだろ? できそうなところから挑戦しろ。文化祭公演までなら、俺も登志もついててやれる」

 ちょっと意外。マイペースでちょっと俺さま気質の真次郎くんがこんなに世話を焼くなんて。
 と思っていたら、真次郎くんにじろっとにらまれた。

「そよ。おまえ今、何か失礼なことを考えてただろ」
「え、別に。ただ、珍しいなーって思っただけで」
「何が珍しいんだ? ともかく、こいつは裏方志望だ。面倒見てやれ」

 真次郎くんは有無を言わせず相馬くんを引っ張って、わたしと友恵のところに連れてきた。
「本当に入部させちゃうの? 無理やりに見えるんだけど」
「気にするな。頼んだぞ」

 わたしに告げて、真次郎くんは登志也くんと一緒に、部長たちのところに行ってしまった。こちらには完全に背を向けている。
 取り残された相馬くんは、うつむいたまま固まっていた。

「あの、相馬くん?」
 呼びかけると、相馬くんは弾かれたように顔を上げて、真ん丸な目でわたしを見た。
「は、はいっ」
「とりあえず、演劇部へようこそ。公演の打ち上げって、だんだんテンションが上がって変なノリになっていくんだけど、びっくりしないでくださいね」

 相馬くんは目を見張ったまま、こくこくとうなずいた。
 友恵がわたしと相馬くんの顔を見比べて、にんまりした。

「ここは、そよちゃんに任せるね」
「えっ?」
「相馬は人としゃべるのが得意じゃなくて、女子は特に苦手なんだ。声が出なくなったり血の気が引いたりして、体がうまく使えなくなるんだなって、見ててハッキリわかる。一年生の間ではもう有名になってる話だよ。でも、そよちゃんの前では声が出てるよね、相馬?」

 女子としては背の高い友恵は、相馬くんと同じくらいだ。でも、背筋を伸ばして堂々とした友恵に対して、相馬くんはびくびくと身を縮めている。おかげで相馬くんのほうが小さく見えてしまう。
 確かに友恵はいかにも気が強そうだし、古武術を習っていて腕っぷしも強い。ちょっと弱気な男子が萎縮してしまうのは、よくあることではあるんだけど。
 相馬くんのおどおどした感じは、相手が友恵だからってだけじゃないみたい。ほかの一年女子や登志也くんが部長たちに説明する声が聞こえてくる。

「高校に上がってからは、普通の教室で授業を受けることもできている。ただ、人前に立つことや大勢が密集する集会、女子と一対一で話す場面で、めまいを起こして立てなくなったことがあった」

 まさに今も、相馬くんは唇が真っ白だ。すっかり血の気が引いている。このままじゃ倒れてしまいそう。
 友恵が丸椅子を二つ取ってきて、わたしのそばに置いた。

「ほら、二人とも座りなよ。そよちゃん、あとはよろしく」
 じゃあね、と手を振ると、友恵はみんなのところに行ってしまった。教室を二部屋ぶち抜きにした部室は広い。だから、本当に「行ってしまった」という感じ。わたしと相馬くんは、置いていかれてしまった。

 しょうがないな。
 わたしは笑顔をつくった。相馬くんは、すがりつくような目でわたしを見ていた。でも、目が合うと、うつむいてしまう。
 人に慣れてなくて震えてる子犬。友恵が相馬くんのことをそんなふうに表現していた。あれから三週間ほど経っているけれど、相変わらず相馬くんは臆病そうな子犬のままだ。

「ごめんね、相馬くん。うちの部員、ちょっと強引な人ばっかりで。でも、悪気はないんですよ。どうぞ座って」
 わたしが丸椅子に腰掛けると、相馬くんもおそるおそる続いた。隣り合うような、向かい合うような、斜めの位置だ。

「……僕こそ、ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「あの……皆本さんが言ったように、僕、人前で……特に女子の前で、ろくにしゃべれなくなるんで……」
「でも、わたしが相手なら、何となく平気なんでしょ?」

 相馬くんはうなずいた。
「自分でも、なぜだかわからないんですけど……すみません。勝手に、知り合いみたいな振る舞い方、しちゃって」
「謝らなくていいって。人と人の相性って、理屈じゃないんですよね。わたしはいろんな人と一緒に舞台をつくった経験があるんだけど、初めましての瞬間からなぜか馬が合うような不思議な出会いって、やっぱりあるんですよ」
 相馬くんにとってのわたしも、たぶんそういうことなんだろう。

 わたしは相馬くんの顔色を確認した。さっきよりは血の気が戻ってきているみたい。
 こうやってみると、相馬くんは本当にきれいな顔をしている。横顔というにはやや斜めの角度。うつむきがちなせいで顔に影ができていて、大人っぽく見える。

 わたしは改めて、相馬くんに告げた。
「舞台、観に来てくれてありがとうございました。演劇に興味を持ってくれたんですか?」

 相馬くんは、両手をギュッと握り合わせた。
「す、すごくよかったです、舞台。『儚き君と、あの日の続きを』……きれいな物語、だと思いました。先輩が台本を書いたんですよね?」
「一応ね。でも、みんなで話し合ってつくり上げたんですよ」
「みんなで、ですか?」
「そう。わたしひとりの視点では気づかなかったことを、たくさん指摘してもらいました。特に登志也くんや真次郎くん、頼りになるんですよ」

 相馬くんがちょっと視線を上げて、かすかに笑った。
「あの二人、ズバッと言うでしょう?」
 わたしも笑った。
「うん、本当にズバッと言うよね。でも、それがありがたい」

「怖くないですか?」
「それはないかな。あの二人とは、小学校の頃からよく知ってるんです。二人とも口が悪いところはあるけど、根はまじめで、演劇が本当に大好きなんです。だから、厳しいことを言われても怖くはないですよ。相馬くんは、あの二人のこと、怖い?」

 相馬くんはチラッと、登志也くんと真次郎くんのほうを見た。内緒話みたいにこっそり言う。
「僕は、物心ついた頃にはもう、あの二人に面倒を見てもらっていて、昔はよく泣かされていました」
「いじめられちゃった?」
「い、いえ、僕が勝手に怖がってただけです。子供の頃の二歳差は大きいし、あの二人、めちゃくちゃ賢いじゃないですか。プレッシャーがすごくて……」

「プレッシャーを感じるのはよくわかる。子供の頃からあの二人と仲がよかったって、どういうつながりなんですか?」
「えっと……個別指導塾つながりって言えばいいかな」
「あの二人が子供の頃から行ってる塾って、わたしも知ってます。小さな塾で、選ばれた精鋭みたいな人しかいなくて、ものすごく偏差値が高いんでしょう?」

 そこの塾長さんのことは、わたしも知っている。町の名士として有名で、市民ミュージカルの稽古のときにも差し入れをくださるんだ。それこそミュージカルの世界から飛び出してきたかのような男装の麗人で、大きな病院を経営している一族の人だ。

 相馬くんは気まずそうに視線をさまよわせた。
「今は個別指導塾なんですけど、もとは違うんです。託児所というか、放課後児童クラブというか。塾長先生と、うちの父と、登志くんや真くんの親と、医学部の学生時代からの付き合いがあるらしくて……」
「へえ、親の代からの付き合いなんだ」
「はい。それで、登志くんや真くんが赤ちゃんの頃、保育園をどうしようって話が上がったとき、塾長先生がつくったそうです。それがそのまま、僕たちの年齢が上がったら放課後児童クラブになって、今は個別指導塾です」

「すごい。豪快な解決方法ですね。ああ、そっか。登志也くんのご両親は、塾長さんの系列の病院に勤めてるんだ。真次郎くんのところは個人のクリニックだけど。相馬くんのお父さんもお医者さんなんですか?」
「ええと、父も病院勤めですけど、臨床検査技師で、患者さんじゃなくてサンプルが相手の仕事です。父も僕と同じで、人と接するのが昔からうまくないらしくて……」

 人と接するのがうまくない。そうは言うものの、相馬くんの口調は少しずつ冷静になってきている。わたしと話をすることに、だんだん慣れてきたみたい。
 顔も姿もよくて、どうやら頭もよくて、親御さんが医療系のお仕事をしている。同じような条件で育ったはずの登志也くんと真次郎くんは、ふてぶてしいほど堂々としている。
 それだというのに、相馬くんがこんなに気弱な様子なのは、過去に一体何があったんだろう?
 理由や事情が気になる。でも、下手に踏み込んだら、きっと傷つけてしまう。
 わたしは好奇心を抑えて、話を切り換えた。

「今、相馬くんは帰宅部なんですよね?」
「はい。学校に慣れるまでは、と思って」
「そっか。演劇部に入るのは難しい? 無理は言いません。でも、公演の準備や稽古にかからない時期は活動がないし、部活の中ではけっこう気楽なほうだと思いますよ」

 相馬くんは、握り合わせた手をそろそろとほどいた。
「自由な部だっていう話は、登志くんからもしょっちゅう聞いてます。僕、中学でも部活に入ってなくて、それを心配した登志くんが毎晩一緒にランニングしてくれてるんです。雨の日は一緒にジムに。それで、演劇部の話も聞いてて」
「登志也くんが毎晩必ず走ってるのは知ってるけど、相馬くんと一緒だったんだ。あの登志也くんのランニングについていけるって、足が速いんだね」
「必死でついていってるだけですよ。ついていかないと、知らない場所で置いていかれますから」
「ああ、登志也くんらしい。やることなすこと、かなり無茶苦茶だよね」

 わたしが嘆いてみせると、相馬くんは、ふわっと柔らかく笑った。今日、この部室に入ってからいちばんの笑顔だ。
 チラチラと、さっきから、登志也くんや真次郎くんがこちらの様子をうかがっている。相馬くんは二人に背中を向ける角度だから、きっと気づいていない。
 あの二人にとって、相馬くんは大事な弟みたいなものなんだろうな。人と話すことに難しさを感じてしまう相馬くんを、演劇部に引き込んで大丈夫かどうか、二人で作戦を練っていたのかもしれない。一応ゴーサインを出したものの、やっぱり心配なんだ。
 大丈夫な気がするよ、と、わたしは目顔で二人にメッセージを送ってみる。相馬くん、少しだけど、肩の力が抜けてきてるよ。

「ねえ、相馬くん。次の公演は八月と九月にあって、七月に準備に入るまでは、部としての活動はのんびりなんです。だから、七月頃にまた声を掛けさせてもらっていいですか?」
 相馬くんは、うつむきがちな顔を上げて、わたしを見つめた。光を映し込んだ目がきらきらしている。
「お願いします。やってみたい気持ちはあるんです。本当は、登志くんや真くんがやってた市民ミュージカルも興味がありました。でも、今年は参加しようと思っていた年に、僕、こんなふうになってしまって……だけど、だから、高校では、挑戦したいです」

 わたしは嬉しくなった。
 自分の好きなことに興味を持ってもらえていた。一緒にやってみたいと言ってもらえた。それって、胸がじんと熱くなって鼓動が高鳴ってしまうくらい、嬉しいことなんだ。

「よかった。歓迎します。裏方志望ですよね?」
「はい」
「助かります。裏方、いつも人手が足りなくて困ってるんです。次の公演の準備を始める時期には必ず声を掛けるから、連絡先、教えてもらえますか?」

 サラッと事務的に言ったつもりだ。スタッフの連絡先を把握するって、必要なことだから。
 それだというのに、スマホをポケットから取り出す手がちょっと震えてしまった。ああもう、どうして変に意識してしまうんだろう? 相馬くんにちょっかいを出したら、わたし、きっと登志也くんと真次郎くんに締め上げられるよ。
 相馬くんもスマホを取り出した。わたしの手元を見て、あ、と声をもらす。

「スマホカバー、同じですね」
「え? あ、ほんとだ。春休みのバザーで買ったんですよ。凝ってるけど、手作りなんだって」
 濃い青から淡い青までのグラデーションに、縁起がいいとされる和の模様、青海波が白で描かれている。
「先輩もバザーで?」
「うん。色がきれいで一目惚れ。相馬くんもバザーに行ったって言ってましたよね」

 相馬くんが小さく笑い声を立てた。
「バザー、行きました。このスマホカバーを作っている人は、塾長先生の知り合いだから、紹介してもらったんです。SNSでも人気がある人で、アサスケさんっていって、物静かな人でした」
「クリエイターさんは、男の人?」
「はい。人前に出るのは苦手だって言って、売り子は奥さんに任せて、本人はテントの奥に隠れていたんです。塾長先生に呼び出されて、ようやく表に出てきて、たじたじになっていて。親近感がわきました」

 相馬くんは、くすぐったそうに笑っている。笑ったその顔から、わたしは目が離せない。
 胸の中で、しゅわしゅわと、炭酸の泡が弾ける。そんな心地。

 いきなり、登志也くんのよく通る声が、わたしと相馬くんを呼んだ。
「そよ、瑞己! ファンからの差し入れだとよ。ほら、ジュース受け取れ!」

 登志也くんが、ぽいとペットボトルを放った。
 ペットボトルはくるくる回転しながら、ゆったりとした放物線を描いて、わたしめがけて飛んでくる。
「ちょ、え、え?」
 運動神経抜群の登志也くんはコントロールも完璧で、わたしが素直に手を出せば、そこにペットボトルが落ちてくるはずだった。
 でも、こんないきなりじゃ慌てるでしょ? しかも片手はスマホでふさがっている。

 ……気づいてしまった。
 デジャ・ヴだ。わたし、この瞬間を知っている。
 夢に見たんだ。
 わたしは今からペットボトルを取り落とす。

 案の定だ。あせってしまったわたしの手指は、ペットボトルを弾いてしまう。
 あ……、と声が出たかもしれない。
 でも、その瞬間。

 サッと、相馬くんが動いた。

 椅子から離れて、わたしのそばにひざまずく格好で、伸ばした左手でペットボトルが床に落ちる前につかまえていた。
 相馬くんが微笑んだ。

「落ちなくてよかった」
 ほっとしたようなその顔は、少し大人びて見えた。
「あ、ありがとう」
「どうぞ」

 差し出されるペットボトルを受け取りながら、わたしは、頬のほてりを感じていた。困ったな。震える小犬状態を脱したら、相馬くんって、本当にカッコいいんだ。
 登志也くんが相馬くんに何か言いながらペットボトルをまた放って、相馬くんは危なげなく受け止めた。

「食べ物や飲み物は投げちゃダメだよ、登志くん」

 やんわりと、相馬くんが登志也くんをとがめた。小声だったから、わーわー騒ぐ登志也くんの耳には届かなかっただろうけれど。
 丸椅子に座り直した相馬くんに、わたしは改めてお礼を言った。

「ペットボトル、キャッチしてくれてありがとう。今の場面、夢で確かに見たんです。飛んでくるペットボトルを見た瞬間に思い出したんだけど。夢の中では、わたし、ペットボトルを落としたんですよね」
「落としたり壊したりっていう、あの予知夢ですよね?」
「そう。でも、また相馬くんにフォローしてもらっちゃった。ありがとうございます」

 相馬くんは、白い歯をのぞかせて笑った。
「お役に立ててよかったです。舞台の裏方でも、うまく使ってください。僕、わりと器用なほうなので」
 そう言った相馬くんは、ぱぱっとスマホを操作して、連絡先のIDを表示してくれた。
 連絡先を交換する。

 相馬瑞己。

 メッセージアプリの友だち一覧に加わったその名前は、文字の群れから一つだけ離れて、くっきりと浮かび上がってくるみたいに思えた。

***
 五月半ば。
 昼過ぎから雨が降りだしたその日、わたしは胸にモヤモヤを抱えていた。
 またあの予知夢を見たのを、何となく覚えている。でも、相変わらず、わたしが何を壊したり落としたりしてしまうのか、それを思い出せない。
 結局、モヤモヤしながらも無事に放課後を迎えてしまった。

 部室のパソコンで少し作業をしてから、ひとけの少ない生徒玄関のほうへ向かう。帰宅部はもう帰っているだろうし、ガッツリ系の部活はまだ練習の真っ最中という、微妙な時間帯。
 靴に履き替えて、開けっ放しの玄関扉をくぐる。
 雨はずっと降っていたらしい。すっかり気温が落ちている。ちょっと肌寒いくらいだ。

 わたしはリュックから折り畳み傘を取り出して、差そうとした。
「え? 何これ?」
 骨が一本、折れてしまっている。

 一応差してみたけれど、折れた骨のところがぷらんと垂れ下がって、雨を防げる範囲はずいぶんせまい。
 いつの間に壊れていたんだろう?

「お気に入りなのに……」
 青を中心にしたステンドグラス風の模様で、大叔母にもらったペンともよく似たデザインで、かわいいんだ。
 わたしは傘を畳んだ。気分が一気に沈んで、歩を踏み出すのもおっくうになってしまった。
 はあ、と、ため息をついたときだった。

「あの……そよ先輩?」

 遠慮がちに声を掛けられた。
 耳ざわりのふわっとした、まだ少し細い感じのする、男の子の声。
 ……今、わたしのこと、「そよ先輩」って呼んだ?

 わたしは振り向いた。
「相馬くん」
 会釈をした相馬くんは、扉をくぐってわたしの隣に並んだ。
「そよ先輩、傘、どうかしたんですか?」

 待って、本当に「そよ先輩」って呼んでる……ちょっと待ってよ。この間の打ち上げで、ずいぶんスムーズに会話できるようにはなったけれど、名前を呼ばれた覚えはないよ?
 わたしは動揺しながらも、何でもないふりをして相馬くんに答えた。

「この傘ね、いつの間にか骨が折れてたんです。お気に入りだから、悲しくなっちゃって」
「ひょっとして、またあの予知夢も見ました?」
「見ました。だから、きっとまた何か壊れちゃうんだなってわかっていて、朝から何となく嫌な気分だったの。そして結局、こうなんだから」

 わたしは相馬くんのほうに傘を突き出して、折れたところを見せた。
 相馬くんは目をしばたたいた。その視線がわたしの顔と傘を行き来する。

「ちょっと、これ、開いてみていいですか?」
「どうぞ」

 相馬くんは、わたしの傘を手に取ると、丁寧な仕草でそれを開いた。ぷらんと折れたところに、長い指で触れる。
 それから、相馬くんはわたしににこりと笑ってみせた。

「折り畳みの機構に関係ない箇所だから、修理できますよ」
「えっ? 直るの?」
「折れたところに添え木をするような感じで、傘の骨に取りつけて補強するパーツが売ってるんです。それを使ったら、まっすぐに戻りますよ」
「そうなんだ。そのパーツをつけるの、わたしにもできるかな? あ、それって、どこに売ってますか?」

 相馬くんは答えに迷うように、少しだけ沈黙して、そして言った。

「僕が預かって直してきましょうか?」
「でも、それって相馬くんの負担にならない?」
「いえ、全然。手先を使う作業は好きだから、むしろ気晴らしになります。これくらいなら、勉強の合間に、すぐできますから」
「そう? わたし、今日はあまりお金も持ってなくて、パーツ代も立て替えてもらうことになるけど、本当にいいんですか?」

 相馬くんはうなずいた。と思うと、目を伏せがちにして、早口で言い募った。

「もちろん、お金のことも全然大丈夫です。き、今日はあと二、三十分もすれば雨がやむみたいなので、少し待ったら、傘がなくても帰れるはずです。僕はもともと傘を持ってきてなくて……そよ先輩、迷惑じゃなかったら、一緒に待ちませんか?」

 あと二、三十分。
 相馬くんと二人で、雨宿りをする。
 傘が壊れていたおかげで。

「いいですよ。雨がやむの、待ちましょう」
 相馬くんは、自分が言い出しっぺなのに、びっくりしたように目を丸くした。
「あ、ありがとう、ございます……」

 何だかおもしろくて、わたしは少し笑ってしまった。
「ありがとうはわたしの台詞ですよ。傘、よろしくお願いします。お礼したいから、何がいいか考えておいてください」
「お礼、ですか?」
「高いものじゃなければ。たとえばケーキとか、おごってあげます」

 相馬くんがパッと顔を輝かせた。そんなに甘いものが好きなのかな?
「次、約束して、会ってもらえるんですか?」

 そんな言い方をされたら、勘違いしそうになるよ。わたしと会って話すこと、それ自体を望んでいるみたいに聞こえてしまう。
 わたしは冷静なふうを装って言った。

「演劇部の活動の話もしておきたいし、時間つくってくださいね。去年の公演の写真やパンフレットなんかも見せるから」
「はい。楽しみです!」

 子犬だったら、ぶんぶんと尻尾を振っていると思う。初めて会ったときは人におびえて震えていたけれど、この間、ちょっとだけ懐いてくれた子犬。
 相馬くんって、本当にかわいいな。顔立ちが整っていて、スタイルもよくて、カッコいいはずなのに、言動が相変わらず子犬だ。

 と思った次の瞬間。
 相馬くんはビクリと体を震わせると、わたしの右側にサッと回り込んで、膝を抱えて縮こまってしまった。

「そ、相馬くん? どうしたの?」

 質問してみたけれど、答えはすぐにわかった。
 女の子たちの声が聞こえてきたんだ。
 わたしの左側、鉢植えのバラが咲き乱れているところを挟んで十メートルくらい向こうは、一年生の靴箱があるエリアだ。そちらの扉から傘を差して出てきた女の子たちが三人、にぎやかにしゃべっている。

「えー、剣道部の広木先輩と大沢先輩も部活命ってタイプなの? それじゃあ、四組の坂本くんは?」
「あいつもダメ。同中だったから知ってる。片想いしてる相手が別の学校にいるとかで、誰がコクってもあっさり振るんだって」
「この学校の男子、顔がいい人に限って、堅物と変人が多すぎじゃない? うちのクラスの相馬もさぁ、あの態度はないよね」
「ないねー」
「はーい、同中情報。中一のときはすでにあんなんだったんだよ。もっとひどかったレベル。意味わかんなくない?」
「女嫌いっていうか女恐怖症だよね、あれ。え、その代わりに男が好きとか?」
「どうなんだろ? あー、でも五条登志也先輩や荒牧真次郎先輩にベッタリなんだっけ。怪しー」
「てか、何でフルネーム呼び?」
「カッコいい人は、名前を口に出すだけで幸せになる気がして」
「あ、わかるー! 桜井忠先生って、一日じゅう呼んでたい!」
「桜井先生、麗しいよねー! あの顔と声で『源氏物語』教えるとか、説得力えぐいし」
「でも桜井先生もさ、相馬のこと特別扱いしてたよね」
「相馬、ちょくちょく倒れすぎだよね。かまってちゃんってやつ?」
「病弱設定? 相馬、すごい白いし、無駄に似合うのが腹立つわー」

 しとしと降る雨も三つ並んだビニール傘も、にぎやかなおしゃべりをさえぎることはなかった。三人がずいぶん離れていってしまうまで、きゃらきゃらと笑う声は、わたしと相馬くんのところまで届き続けていた。

 わたしは言葉を失って立ち尽くしてしまった。
 相馬くんを連れてその場を離れればよかったと、後になって気づいた。

***
 大声でしゃべり続ける女の子たちが校舎の角を曲がって見えなくなってから、相馬くんはようやく、おそるおそる立ち上がった。体が震えているのが見て取れる。足下に置いたリュックが倒れたままなのも気づいていない様子だ。
 わたしは相馬くんの顔をのぞき込んだ。血の気が引いた顔は、天気の悪さのせいもあって真っ青だ。

「大丈夫ですか? ひどい陰口でしたね。あんな言い方はないと思う」
「……でも、僕に関しては事実なんで。嫌なこと聞かせちゃって、すみません……」
「謝らなくていいんですよ。もしかして、今の子たちがいたから、二年の靴箱のほうに逃げてきてたんですか?」

 一年生と二年生だと、教室のある棟が別々で、渡り廊下を使わないといけない。靴箱もそれぞれの教室に近いあたりに置かれているから、相馬くんがわたしと同じ扉を使うことは、本来はないはずなんだ。
 相馬くんは、せわしなく視線をさまよわせながら言った。

「僕、これでも、四月の初めよりマシになってきたんです。だけど、ダメなときはダメなんです。特にああいう感じの人は苦手で、話しかけられても、どうしていいかわからなくて、逃げるのが癖になってて……」
「ああいう感じって? 誰々くんがカッコいいとかって声高にしゃべったり、イケメンランキングをつけたりするような、女子グループのノリのこと?」

 同じ女子のわたしでもちょっと引いちゃうくらい、すごい勢いで「イケメン品評会」を開いている女子グループもある。ああいう話をするときって、言葉がとがりがちだなっていうふうにも思う。
 ひょっとしたら、気になる人のことを話している照れくささを隠すために、わざと勢いのいいしゃべり方をしたり、ラフなスラングを使ったりしてしまうのかもしれない。
 でも、はたから聞いていると、耳ざわりのいい言葉ではないことも多い。だから、相馬くんがおびえてしまう気持ちもよくわかる。

 相馬くんは震えながら、自分で自分の体を抱きしめた。
「興味や好意を持ってもらえるって、嬉しいことのはずなのに、うまく受け取れない自分が嫌になります。でも僕は、どうしても……体が動かなくなるんです。冷や汗が出て、息がうまくできなくなって、頭も働かなくなる……」
「相馬くん? 今、具合が悪いんじゃない? そうだ、二年の靴箱のところにベンチがあるんだ。座ろう?」

 ベンチだか花台だか知らないけれど、座れるものがあるのは事実だ。わたしは二人ぶんのリュックを持って、相馬くんの腕を引いて、ペンキのはげたベンチに導いた。
 腰を下ろした相馬くんは、胃が痛むみたいで、体を丸めている。隣に腰掛けたわたしは、とん、とん、とリズムをつけて、相馬くんの背中をゆっくり優しく叩いた。

 市民ミュージカルで年頃もバックグラウンドもさまざまな人たちと過ごしていたことを思い出す。
 座組の中に毎年必ずいたのが、うまく学校に通えない子と、その親御さん。不登校で八方ふさがりになっている現状を変えたくて、演劇に挑戦していた。とても勇気のいる挑戦だったはずだ。
 相馬くんも、きっとそう。前に進みたいのに、体がついていかない。今のままでいいとは思っていない。でも、どうしていいかわからない。心をむしばむ毒を振り払えない。

「わたしでよければ、話、聞きますよ」

 ガラス張りの玄関の向こうで、雨はまだ降り続いている。西の空は明るくなりつつあるけれど、雨宿りを口実に相馬くんと話をする時間は、もう少しありそうだ。
 相馬くんは縮こまってうつむいたまま、苦しそうに吐き出した。

「きっかけは、大したことない理由なんです。小五の頃、クラスのリーダー格の女子に告白されて、断ったら、いじめられるようになった。特に女子からのいじめがきつかった。無視と陰口。ときどき、ものがなくなった。でも、それだけのことなんです。なのに、ずっと尾を引いて……」

 大したことない理由。それだけのこと。
 ちっぽけな話であるかのような言葉を選んでいるけれど、そんなはずはない。

「小学生の頃からだったんですね。ずっと苦しんできたんだ」
「体がおかしくなるのがつらい。心因性で、血圧が急に下がるんです。本当に立っていられない。仮病じゃないんです」
「うん。仮病じゃないことは、顔色を見たらわかります。それに、ずっと震えてるでしょ」

 わたしは相変わらず、相馬くんの背中をそっと叩き続けている。この手に伝わってくる震えは、本物だ。相馬くんは本当に、体の自由が利かなくなるくらいに、心に苦しみを抱えている。
 相馬くんは、いやいやをするみたいに頭を振った。

「高校に上がってからは、朝、起きれてます。教室にもいられます。男子とは話せてます。でも、調子いいなと思って油断してると、すぐこんなふうになる。自分が情けないです……」
「情けなくないよ。小学生の頃の相馬くんは、いじめを受けて、ずいぶんショックを受けたんでしょう。リーダー格の子に告白されるくらいだから、相馬くんはクラスで一目置かれてたはずなのに、それがいきなり手のひらを返されて、混乱したんですよね?」

 相馬くんは、こくりと深くうなずいた。
「僕、あの一件の後、小学校での記憶がほとんどないんです。何も考えないようにして時間をやり過ごしていたんだと思います。放課後児童クラブで登志くんや真くんがかまってくれていたことは、ちょっと思い出せるんですけど」

 ああ、なるほど。あの二人が相馬くんのことを過保護なくらい大事にしているのは、その頃からなんだ。
 無理もない。
 知り合ったばかりのわたしでも、相馬くんをこのまま苦しませておくわけにはいかない、という気持ちになる。何か力になりたいと思ってしまう。

「今まで、ずっとつらかったでしょう?」
「でも、どうしようもなかったんです。小学校の頃の、僕が無視されたり陰口を言われたりする原因になった告白の件は、今考えると、本当に子供っぽい話で……」

 相馬くんは、ぽつりぽつりと語った。
 あの頃の相馬くんには、相手の女子に言われた「付き合う」ということの意味がわからなかったらしい。「付き合う」とはどういうことかを尋ねたら、まず「ほかの女子としゃべらないこと、目を合わせないこと」を求められた。
 その子が許した人としか仲良くしてはならない。どこへ行くにも何をするにも必ず、その子と一緒でなければならない。その子が求めたならば、手をつないでエスコートしなければならない。
 ああだこうだと言われれば言われるほどに、「付き合う」の意味がわからなくなっていった。
 好きな相手を自分の都合がいいように操ることが「付き合う」ならば、相馬くんにとって窮屈なだけだ。

「そもそも、好きという気持ちも、よくわかりませんでした。相手の子とは同じクラスになったばかりで、ほとんど話したこともなかったんです。告白されても、僕の何を知っていて、どこが好きなのか、実感できなかった」

 わたしには、その答えはわかってしまう。ため息交じりに言った。
「顔、でしょ。相手の子が相馬くんを好きになった理由。それに、勉強もよくできたんでしょう? 憧れの対象になるには十分なんですよ」

「……そんなこと言われても、わからなかったんです。僕の顔? そんなの、別に……」
「相手の女の子も、ただ幼すぎたんでしょうね。付き合うって、束縛することじゃないはずなのに。しかも、振られた腹いせにひどいことをするなんて」
「昔のことなんです。相手の子の顔も忘れた。なのに、どうして……? いつまで引きずるんだろう? どうして体までおかしくなるんだろう?」

 わたしはあえて明るい声をつくって言った。
「体の自由が利かなくなるってことは、自律神経のトラブルですよね。そういうケースはあせっちゃダメだって、真次郎くんが前に言ってました。気にしすぎなくて大丈夫。だって、わたしとはこうして話せるでしょう? 話せる相手が少しずつ増えていけば、それでいいんじゃない?」

 相馬くんがゆっくりと顔を上げた。わたしは、相馬くんの背中に添えていた手を引いた。うっすらと、相馬くんの目に、涙の膜が盛り上がっている。

「……そよ先輩とは不思議なくらい、最初からちゃんと話せました。こんな、震えてばっかりですけど、僕なりに、ちゃんと話せてるんです」
「うん、話せてるよ。わたしは相馬くんの今の話を聞いて、一生懸命だな、すごくいい子だなって、改めて思いました」

 すごくいい子、という言い方をしたのはわざとだ。一歳しかない年の差だけど、もっとうんと大人みたいなふりをしたら、相馬くんの心の負担が減るかもしれないな、と思って。
 それに、幼い子供を相手にするつもりでいれば、わたし自身、ドキドキしてしまわずにすむ。
 女子から好意を寄せられるという場面におびえてしまう相馬くんには、胸の高鳴りを悟られたくない。

 相馬くんは、ほんの少し微笑んだ。
「そよ先輩は優しいですね」
 ささやく声の響きが、何だか妙にくすぐったい。
 というのも、相馬くんが今日いきなりわたしの名前を呼ぶようになったせいだ。しかも、耳慣れない呼び方で。

「ねえ、相馬くん。少しだけ気になってたんだけど」
「はい」
「そよ先輩って呼び方されるのは初めてで、わたし、ちょっとびっくりしちゃったんですよね」

 わたしがそこまで言った途端、相馬くんは口元を手で覆って、声にならない声で、はくはくと何事かを叫んだ。
 ああ、これはつまり、無意識だったんだ。
 わたしは先回りして言ってみた。

「登志也くんや真次郎くんがわたしのことを『そよ』って呼ぶから、つられちゃった?」

 相馬くんの色白な肌が、かわいそうなくらい真っ赤になっている。顔だけじゃなく、首筋までもだ。まあ、でも、血の気が引いているよりは断然いいのかな。

「す、すみませんっ、つい、あの……」

 相馬くんの目が泳ぐ。きれいな顔の下半分を隠してしまう手は、指が長くて形がいい。
 その手の形、やっぱり、前にも見たことがある気がする。ずっと前から見知っている気がする。
 もしかしたら、あの夢の中の、誰かの手に似ているのかもしれない。

「謝らなくていいよ。嫌なわけじゃないから」
「や、で、でも……」
「それじゃ、わたしも、瑞己くんって呼んでいいですか?」
「は、はい。どんな呼び方でも、全然……あと、ですます調じゃなくていいんで……」
「わかった。じゃあ、そういうことで手を打とう。もう謝るのはなしだからね」

 相馬くん……じゃなくて、瑞己くんは、真っ赤な顔をしたまま、素直にうなずいた。

   *

 ほどなくして、雨が上がった。
 瑞己くんも立てるようになっていた。
 でも、まだ心配だったから、わたしは瑞己くんと途中まで一緒に帰ることにした。ぽつぽつと話しながら、お寺のそばの道を通って、市民公園のところで別れた。そして、それぞれの家路に就いた。

***
 わたしにだって、悩みはあるよ。
 いつでも笑っていられるわけじゃない。
 一つも悩んでないみたいに見える?

 なんてね。
 笑っちゃった。
 ……笑わせてくれて、ありがと。

 親友の言葉は、わたしの肩の力を抜いてくれる。
 ……うん、ありがと。
 戸惑いはまだ消えないけれど。

***