翌日の放課後。
 アレンジした台本を演劇部のみんなにチェックしてもらったら、「すごくよくなった!」と誉められた。
 恋のインパクトっていう、苦手意識の強い描写で誉められたのは、照れくさくもあった。でも、この感じなら、手応え十分だ。

 わかば短編公演で舞台に立つメンバーが部室で稽古をしている間、わたしは一人で印刷室に詰めていた。出来上がったばかりの、わかば本編公演の台本を印刷するためだ。
 インクのにおいがする。コピー機がリズミカルに働いている。刷り上がったページはほんのり温かい。

「あと四分の一、か」

 幼馴染みで一つ年下の(とも)()が、半分ほどコピーが終わった時点で運んでいってくれた。
 友恵は背が高いしスタイルがいいし、大人びた顔つきの美人だし、度胸がよくてしっかり者で堂々としている。おかげで、とても新入生には見えない。すでに演劇部の部室にも出入りして、わかば公演に向けてバタバタしているわたしたちを助けてくれている。
 そうそう、友恵も市民ミュージカルで出会ったんだ。お互い幼稚園児だった頃からの、家族ぐるみの付き合いだ。

「あ、紙が切れた」

 補充しなきゃ。慣れたものだから、さほど手間もかからない。
 またリズミカルに働き始めたコピー機を前に、わたしはふと、奇妙な感じを覚えた。

「何だっけ、これ? わたし、この場面、何か知ってる……」

 デジャヴだ。
 近頃、変な夢を見ている。子供の頃から見ていた、運命の恋人たちの夢とは別のものだ。
 予知夢、というものだと思う。
 ものを落としたり壊したりする夢だ。
 この一ヶ月くらいのうちに、これで三回目。その場面が迫ってきているのはわかる。「あれ? この場面、何だか覚えがある」と思っているうちに、手にしていたものが壊れちゃったりして。
 今回もなのかな。何が起こるのか思い出せないまま、その場面に至ってしまうのかな。

「派手な失敗じゃなければいいなぁ……」

 昔から見ているほうの、報われない運命の恋人たちの夢のことは、友恵にも打ち明けてある。でも、今回の予知夢のことはまだ言っていない。
 だって、別に悩んでいるというほどのことでもないし。何だか気持ち悪くて、引っかかりはするけれど。

 そんなことをつらつらと考えているうちに、台本のコピーが終わった。
 印刷室の隅に、空の段ボール箱が積んである。プリントを運ぶときは自由に使っていい、という感じの紙が貼られている。
 わたしはその箱を一つ取って、印刷済みの紙の束を入れた。
「よいしょっと」
 部室に持って帰ったら製本しなきゃ。全員の流れ作業でやるから、そう時間はかからないはず。

 印刷室を施錠して、すぐ隣にある職員室に鍵を返して、四階の隅にある部室を目指して歩き出す。
 階段を上り始めてすぐだった。
 ピンときたんだ。あっ、この場面だ、と。
 でも、対策する間もなかった。踊り場に足をかけた瞬間、いきなり段ボール箱の底が抜けた。

「ああっ、やっぱり!」
 ざぁっとこぼれ落ちて、階下のほうへひらひら飛び散っていく紙の束。
 なす術もなくその光景を見ながら、これこそが「壊れものの予知夢」の場面だったと思い出した。
「嘘ぉ……ああもう、何なの?」

 不幸中の幸いは、人に見られていなかったこと。放課後はこの階段を使う人があんまりいないんだ。
 と思ったんだけど。

「だ、大丈夫ですか?」

 すぐ上の階段の手すりから、男の子が顔をのぞかせた。
 色白できれいな顔をした子だ。
 あっ、と、わたしは声を漏らした。その声が彼と重なった。

「椿の木の……」

 そう言った声も、ほとんど重なっていた。
 入学式の翌日の朝、お寺の椿を見上げていた彼だ。何となくの流れで話し始めたはいいものの、照れてしまったのか、困った様子を見せていた彼。
 彼はぎこちなく微笑むと、軽やかに階段を駆け下りてきた。

「ひ、拾うの、手伝いますね」
 早口で言うが早いか、リュックを踊り場に置いて、さっと階段を下りていった。下のほうから順に、散らばった紙を拾い始める。

「ありがとう!」
 わたしのほうが出遅れて、もたもたしてしまった。

 上から順に拾っていこうとしたんだけど、バランスを崩しかけて慌てた。下から行くほうが安全だ。
 彼と二人、左右で手分けしたら、案外すぐに全部を拾い集めることができた。

「助かりました。本当にありがとう」
 わたしは彼に頭を下げた。
 彼は慌てたそぶりで、首をぶんぶんと左右に振った。
「い、いえ、あの……お役に立てたなら、よかったです。ええと、これは、部活の……?」

 彼が差し出してくれた紙の束は、ラストシーンのページがいちばん上に載っていた。
 運命の恋人たちが現代に生まれ変わって、昔と同じ花畑の情景で巡り会うシーン。近くに立つ松の木は、樹齢に合わせて大きく育っている。
 ……椿の花にはしなかったんだ。だって、椿そのままはあんまり恥ずかしすぎるかな、と思って。わかば短編の公演は、新入生全員が観る。つまり、目の前にいる彼も観てくれるわけで。
 あの朝、彼と一緒に玉之浦椿を見上げたのがヒントになっていると気づかれたら、恥ずかしい上に申し訳ない。だから、花畑と松の木に変えた。
 わたしは、それでも何だか恥ずかしくなって、紙の束を受け取りながら顔を伏せた。

「これ、台本なんです。わたし、演劇部の二年で、脚本とか演出とかやってて」
「嘉田そよ香さん?」
「えっ?」
 思わず顔を上げる。

「あ……こ、ここに、書いてあるから。拾うときに、名前が見えたんです。い、いきなり、すみませんっ」
 彼は慌てた様子で、奥付の書かれた紙を指差した。「脚本/演出:嘉田そよ香」と、確かに書いてある。
「ああ、うん。わたしの名前です」

 何だろ。うまく言えないけど、何だかすごくくすぐったくて照れくさい。
 なのに、彼が思いがけず、言葉を重ねてきたんだ。

「そよ風のそよ、ですか」

 ドキッとしてしまった。

「はい。自己紹介のとき、そんなふうに自分でも言うんですよね。そよ風のそよ」
 でも、人に言われたことはなかった。この上ないほど聞き慣れた自分の名前が、なぜだか、とても美しいものに思えてしまった。

 彼はわたしに何かを告げようとした。でも、しゃべるのはあまり得意ではないみたいだ。パッと身をひるがえすと、踊り場の隅に置いていた自分のリュックを取ってきた。

「これ……」
 彼は、リュックに入っていたペンケースの中から、一本のペンを取り出した。
 青を基調にしたステンドグラスみたいな、凝ったデザインのボールペンだ。ノック式で、油性インクで、万年筆みたいな細字。「Soyoka」という、わたしの名前が刻んである。

「わたしのペン! なくしたと思ってた。どこで見つけたの?」
 大好きだった大叔母がわたしの十二歳の誕生日に贈ってくれたボールペンだ。一目で気に入って、それ以来、台本や小説を書くときはいつもこのペンを使っていた。

 彼は、ほっとした顔で微笑んだ。
「春休みに、市立図書館で。えっと、閲覧室です。広い机の上」
 わたしは肩の力が抜けた。

「やっぱり図書館だったんだ。よかった。ありがとう! 図書館でインクの詰め替えをしたところまでは覚えてたんだけど、その後、ちゃんとペンケースにしまったかどうか、自信がなかったんです」
「詰め替えのとき、ペン、落としてしまったでしょう?」
「えっ、見てたの?」
「と、隣の机にいたので。先輩がペンを落としたところも、たまたま目に入ってしまって……あの、すみません。気持ち悪いですよね……」

 首をすくめて弁明する彼は、ひどく気弱そうだ。おびえているようにさえ見える。
 わたしはつい、幼い子供を相手にするみたいに、うつむいた彼の顔をのぞき込んで微笑んでみせた。

「謝らないで。前の失敗も見られてたんですね。椿の木の下で転んだ話もしちゃったし、今もこうして紙をぶちまけちゃったし。お察しのとおり、けっこうドジなんです。実はそのペン、落としただけじゃなくて、そのはずみで壊しちゃって。それも見てました?」
「はい。すごくあせっているのがわかって、その……声を掛けようか、迷ったんです。ひょっとしたら直せるかもって思って。でも先輩、その後すぐに電話がかかってきて、図書館を出ましたよね」
「そうだった。母と待ち合わせをしてたんだけど、ペンを壊しちゃってあせってるうちに、約束の時間を過ぎてたんです」
 だから、急いで荷物をまとめて図書館を出た。そして間抜けなことに、大事なペンを机の上に置き忘れてしまっていたらしい。

 彼はわたしにペンを渡そうとして、あっと気づいた顔をした。
「両手、ふさがってますね」
「確かに。箱……は、底が抜けてるし。どうしようかな」
 彼はリュックから丈夫そうな紙袋を出した。市内にある書店の紙袋だ。
「どうぞ」
「もらっちゃっていいんですか?」
 彼はこくりとうなずいた。
「昨日の、教科書購入のときの袋なんです」
「じゃあ、ありがたく使わせてもらいます」

 彼が広げてくれた紙袋に、わたしは抱えていた紙の束を入れた。
 それから改めて、彼はペンをわたしに差し出した。

「壊れたところ、直せました。確認してください」
「直せた? ほんと?」

 ペンを受け取るとき、ほんの少し、指先が触れ合ってしまった。彼はやけどでもしたかのように、ビクッとして手を引っ込めた。
 そんな極端な動きをするから、むしろわたしは気になって、彼の手を見つめてしまった。
 指が長い。爪の形は正方形に近くて、わたしの指先とは全然違う。意外なくらい大きくて、関節がくっきり目立つ手だ。
 ……どうしてだろう? その手を、なぜだか懐かしく感じた。その手がとても器用なことも、冬でも温かいことも、知っている気がする。
 いや、そんなわけない。
 わたしはそっとかぶりを振って、ペンをノックしてみた。カチリ、と確かな手応えがある。

「ほんとだ、直ってる! カチッとやってもペン先が出なくなってたの。君が直してくれたんですね?」
「あ、はい」
「本当にありがとうございます!」
 わたしは勢いよく頭を下げた。顔を上げると、慌てた彼がわたわたと手を振った。

「そ、そんな、大げさですよ。こういうノック式のペンは、中にバネが仕込んであって、それが外れたり歪んだりすると、カチッとならないんです。僕がやったのは、そのバネをもとのとおりに戻しただけですから」
「君は大したことないように言うけど、わたしには直せなかったんですよ。それに、大事に保管しておいてくれたことも、わたしは嬉しいです」
「それはあの、先輩が小梅高の制服だったから、近いうちに会える気がして……あっ、でも、そのくせ、朝、あの椿のところで会ったときは、頭が回らなくなって、ペンのこと忘れてて……すみません、人見知りで、ええと……」

 彼はうつむいた。サラサラの髪の間からのぞく耳が真っ赤だ。形のいい手を握ったり開いたりしているけれど、少し震えているのが見て取れる。
 もしかしたら、人見知りという表現では足りないくらい、知らない人と話すのが苦しいんじゃないかな? それなのに、こうして一生懸命、わたしとしゃべろうとしてくれている。
 わたしは、できるだけ柔らかい声音で、彼に言った。

「このペン、大事なものなんです。壊した上になくしたと思って、すごくへこんでたんですよね。予知夢の中で一度壊して、現実でもまた壊して、何やってるんだろうって自分を責めてました」
「……よ、予知夢、ですか?」
「そう。予知夢だったんだから防げたかもしれないって、それにもへこんじゃったんです……って、ごめんなさい。わたし、変なこと言ってますね。予知夢なんて。でも最近、連続で見てるんですよ。落としたり壊したりする予知夢ばっかり。今日の段ボール箱の件も」

 わたしはごまかし笑いを浮かべた。彼の前では、まるで気が抜けているみたいに、何でもぺらぺら話してしまう。椿の木の下で転んだ話もそうだったけれど。
 名前も知らない、顔を覚えたばかりの相手なのに。
 そうだ。名前、訊かなくちゃ。ペンを直してくれたことへのお礼をしたい。ぶちまけた台本を拾って、箱の代わりの紙袋をくれたことへのお礼も。

 でも、彼との会話はそこで途切れた。
 階段を駆け下りてくる足音と、わたしの名前を呼ぶ声がしたんだ。

「そよちゃん、そのへんにいるの?」

 友恵だ。
 わたしがなかなか部室に現れないから、気になって様子を見に来たんだろう。

「踊り場にいるよ! 遅くなってごめん!」
 わたしが答えるのとほぼ同時に、友恵が手すり越しに顔をのぞかせた。
 友恵は、ノーメイクでもくっきりとした目を丸く見張った。
「そよちゃんと、(そう)()? 何しゃべってるの? 二人、知り合いだった?」

 相馬と呼ばれた彼は、ビクッとして、リュックを胸に抱えた。
「み、(みな)(もと)さん……?」

 友恵は軽い足音を立てながら階段を下りてきた。
「そ、同じクラスの皆本友恵。覚えてたんだね。相馬は女子の前じゃビクビクしてばっかで目も合わないから、女子の顔も名前もわかってないもんだと思ってた」

 相馬くんは、友恵が近づいてくるのに従って、壁際に下がっていった。さっきまで真っ赤だったはずの顔色が、今や真っ白になっている。
 どういうこと?
 わたしが相手のときは、相馬くん、そこまで怖がっていなかったよね?
 友恵は、そんな相馬くんをチラッと見やると、わたしに向けて肩をすくめてみせた。

「相馬は入学式の間は学年一のイケメンだってうわさが流れてたのに、女子が近づくとそんな感じなんだから、あっという間に、変なやつ呼ばわりだよ。相馬、怖がんないでよ。あたしは何もしないって」

 相馬くんは友恵の言葉にうなずいたものの、やっぱりどうにもならないらしい。
「す、すみません、失礼します……!」
 バッと頭を下げると、逃げるように階段を駆け下りていった。

「そ、相馬くん? 待って!」
 わたし、ちゃんとお礼をしていないのに。それに、もう少し話してみたかったのに。
 でも、相馬くんは振り向きもせず、あっという間に遠ざかっていってしまった。

 友恵がわたしの手から台本の紙袋を奪いながら、首をかしげた。
「あたし、お邪魔だった? 相馬と何話してたの?」
「段ボール箱の底が抜けて台本をぶちまけて、慌てて拾ってたら、相馬くんが手伝ってくれたの。もともと図書館で顔を合わせたこともあったし。それでちょっとしゃべってたんだけど」
 少しの嘘を混ぜて、わたしは友恵に事情を伝えた。

「すごいね、そよちゃん。相馬としゃべれたんだ」
「そう? でも、名前もちゃんと訊いてないよ。顔だけは知ってたけど」
「相馬(みず)()。あたしたちとは別の中学から来た。中学時代は別室登校だった時期もあるらしいよ。今の教室でも女子と一言もしゃべらないし、男子の前でも挙動不審気味。何て言うか、人に慣れてなくて震えてる小犬みたい」
「震えてる小犬か」

 言いえて妙かもしれない。人が嫌いというより、人におびえているんだ。
 別室登校って、一体何があったんだろう? 高校では普通の教室に通うことを選んでいるけれど、それはひょっとして、覚悟のいることだったりするのかな。
 友恵と並んで部室へ向かいながら、わたしは胸の中で彼の名前を繰り返していた。

 相馬瑞己くん。
 また話せたらいいな、と思った。

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