七月のテストも終わって、明日から夏休み。
 演劇部の部室では、八月の公演に向けて稽古が本格化したところだ。持ち寄った五台の扇風機をガンガンに回してはいるものの、部室の熱気はすさまじい。

 悩みに悩んだ演目だったけれど、結局、去年の八月公演や文化祭と同じ作戦で行くことになった。つまり、おとぎ話をベースにみんなでアイディアを出し合ってアレンジして、全体としてコメディ路線で行きつつも、最後はほろっと来る物語にする。

 ちなみに、ベースとなるおとぎ話は『桃太郎』だ。去年の『ガリヴァー旅行記』よりもラブコメ色が強い。
 そう、ラブコメなんだ。鬼の姫君が桃太郎に一目惚れしたりとか、桃太郎も鬼の姫君の正体を知らないまま心を惹かれてしまったりとか、登場人物たちの事情はけっこう複雑で、いっそ悲劇的なんだけど。
 それなのに、演劇部のみんなにかかると、ひたすらドタバタなコメディになっていくから不思議だ。アイディア出しの話し合いのとき、わたしは議事録を取りながら、ずっと笑い転げていた。

「敵対関係にある家に生まれた男女の許されない恋物語といったら、やっぱり『ロミオとジュリエット』が有名だけど、あの作品も案外、途中はラブコメっぽい雰囲気だもんね。家のしきたりを破ったり出し抜いたりする若者たちの元気な恋って感じで」

 わたしは衣装の型紙を作る手を動かしながら、(みず)()くんに言った。
 瑞己くんは小道具の刀の柄に平組紐を巻く手を止めた。

「知りませんでした。『ロミオとジュリエット』って、ラブコメ要素があるんですね」
「二人とも死んでしまうラストが有名だもんね」
「はい。シェイクスピア悲劇の代表作の一つですし」

「でも、ロミジュリは四大悲劇とは違って、明るい場面もあるんだよ。ロミオはちょっとチャラいし、ジュリエットは恋に恋するかわいい乙女だし、そのへんにいそうな雰囲気っていうか、親近感が持てるんだよね。だからこそ、ラストの悲劇が際立つんだけど」
「なるほど。僕もシェイクスピアの戯曲をちゃんと読んでみたいです。経験値が少なすぎて、このままじゃ話し合いにもついていけそうにない。そよ先輩の足を引っ張らないように、ちょっとでも追いつきたいんです」

 瑞己くんが殊勝なことを言うから、わたしは勢いづいてしまった。

「ロミジュリは毎年のように舞台公演があるんだけど、まずは子供向けの漫画版がおすすめかな。絵がかわいくて、すごくよくまとまってるんだ。『リチャード三世』はね、わたしの大好きな劇団がアレンジしたバージョンがあるんだ。わたしはあのアレンジ版がめちゃくちゃ好きで!」
「どんな感じなんですか?」
「原作では徹底的な悪人として描かれる主人公リチャードを、善人の白と悪人の黒に分けて、二人一役で演じてるの。正しいように見える白リチャードがかえって悲劇を引き寄せて、黒リチャードがむしろ優しく見える瞬間があってね、あの価値観の反転がすごいんだ!」

 ついつい熱く語ってしまうわたしに、瑞己くんが柔らかく微笑んだ。

「おもしろそうですね」
「ロミジュリの漫画もリチャードの円盤も持ってるよ。貸してあげようか?」
「じゃあ、漫画のほう、お借りします。『リチャード三世』は、一緒に見ませんか? 部室のパソコン、DVDの再生もできますよね」
「あ、いいね。夏休みのうちに、一緒に見よう」
「はい」

 と、そのときだ。
 立って動いてわーわー言いながら台本の読み合わせをしていた役者チームの登志也くんが、瑞己くんを手招きした。

「おい、瑞己。ちょっとこっちに来い」
「えっと、何?」
「大した仕事じゃないんだが、頼む。その壁際の椅子に座ってみてくれ」

 瑞己くんは作りかけの刀を置いて、登志也くんの指示に従った。壁にぴったり背もたれをくっつけた椅子に、おとなしく腰掛ける。
 わたしはわたしで、友恵に呼ばれて役者チームの輪に入った。

「そよちゃんにも協力してほしくてさ。ここ、ト書きがないんだけど、リアクションをどうしようかなって話になってね。でも、意見がいろいろ出て、まとまらなくて」
「どの場面?」

 わたしは、友恵が指差すところに目を落とした。
 おかげでわたしは隙だらけだった。ただでさえ、勘が鋭いわけでもないし運動神経が特別にいいわけでもないのに。
 友恵の手が肩に触れた、と思ったら、予想外の方向へ突き飛ばされた。

「ひゃっ?」

 情けない悲鳴を上げながら、短い距離をダダッと走る。
 倒れ込みそうな先にいるのは……瑞己くん?
 ぶつかる!
 ……と思ったけれど、ギリギリのところで、わたしは耐えた。椅子に腰掛けた瑞己くんの顔の両側に、左右の手をついた。おかげで、転びながら抱き着くのは避けることができた。

 けれど。
 これは、壁ドンというやつではないでしょうか?

 お互いの前髪が触れ合いそうな距離。近い。とにかく近い。瑞己くんの長いまつげが一本一本数えられそうなくらい近い。
 瑞己くんはまばたきもできずに固まっている。たぶん息もしていない。わたしも同じだ。まばたきも息もできないし、どうやったら体が動くのかがわからない。
 ただ、すごい勢いで顔が熱くなっていく。鼓動がドキドキと爆走している。

 そのまま数秒。

 ぷっ、と噴き出したのは、たぶん真次郎くんだった。それを皮切りに、みんなが笑いだす。張り詰めていた空気がガラリと色合いを変えた。
 おかげでわたしも動き方を思い出した。

「ちょ、ちょっと! 友恵っ!」

 わたしは瑞己くんから跳び離れて、友恵に怒鳴った。
 でも、友恵は全然悪びれることもなく、けらけら笑っている。

「ほらねー。うぶな二人だと、こういうリアクションになるんだってば」
「えええ演技プランの材料にしないで!」
「だって、演劇部で付き合ってるの、そよちゃんと相馬だけだもん。付き合ってるっていうわりには、相変わらずピュアピュアなままだけど」
「ま、まだ一ヶ月ちょっとだし!」

 わたしはぷいっと友恵から顔を背けた。
 代わりに視界に入ってきたのは、壁際の椅子の上にいるかわいい生き物だった。瑞己くんは、真っ赤になった顔の下半分を両手で覆って、両足を椅子の上に引き上げて小さくなって、まだ固まっている。

「瑞己くん? ごめんね。大丈夫?」

 尋ねてみれば、口元を隠したままうなずくけれど、全然大丈夫そうに見えない。
 やばい。かわいい。小動物みたい。
 でも、こんなにかわいい瑞己くんを、ほかの誰にも見せたくない。
 わたしは、瑞己くんをいじろうとしている登志也くんと真次郎くんを押しのけた。

「こら、二人とも、いじめないで。瑞己くんが困ってるでしょ。瑞己くん、ちょっと資料を捜しに図書室に行こうか」

 有無を言わせず、わたしは瑞己くんの手を取った。軽く引っ張ると、瑞己くんは素直に立ち上がってついてくる。
 登志也くんを筆頭に、演劇部のみんながニヤニヤしながら冷やかしてきた。それも気にしないふりをして、わたしは瑞己くんの手を引いて部室を出た。

   *

 四階の廊下は、放課後になると、あまりひとけがない。演劇部の誰かが追いかけてくる気配もなかった。
 七月中旬の放課後。日は陰りつつあるけれど、やっぱり暑い。開け放った窓から吹き込んでくる風は、夏のにおいがしている。
 されるがままだった瑞己くんが、わたしの手をそっと握り返した。

「そよ先輩、あの……僕、情けなくてすみません」
「情けなくないよ。さっきのは、びっくりしちゃっても仕方ない」
「でも」

 わたしは振り向いて、笑ってみせた。
「瑞己くんがかわいかったから、独り占めしたくなっただけ」

 目を真ん丸にした瑞己くんは、まだ顔じゅうが真っ赤だ。つないだ手も熱い。
 ああもう、かわいいな。
 しっかり者で頭がよくて手先が器用で優しくて一生懸命。思わず二度見する人もいるくらい、きれいな顔をしているしスタイルもいい。
 カッコいい男の子のはず、なんだけど。
 胸がきゅんとするくらい、瑞己くんはかわいい。

 実はわたし、近頃、気づいたことがある。
 何気なくたくさん使いがちな「かわいい」っていう言葉なんだけど、もしかして、これは「いとしい」っていう意味なのかな、と。
 瑞己くんのことを「かわいい」と言ってしまうのは、「いとしい」ということなんじゃないかな、と。
 まだちょっと確証が持てないから、瑞己くんに伝えたことはないけれど。
 ゆっくり時間をかけて、「かわいい」と「いとしい」の意味を考えていけたらいいなと思っている。

 瑞己くんが謎解きをしてくれて以来、壊れものの予知夢を見なくなった。運命の恋人たちの夢も、このところ見ていない。
 まるで役割を終えたかのように、不思議な夢たちは、わたしの生活から消えてしまった。

「そよ先輩、お願いがあるんですけど」
「どうしたの?」
「顔のほてりが引くまで、図書室に行くのは、ちょっと待ってください」
 わたしはうなずいた。
「もちろんいいよ。ゆっくり回り道して行こう」

 あせらなくていいと思うんだ。瑞己くんも、わたしも。
 一緒にいると、ドキドキする。でも、この上なく安心する。ずっとこの気持ちが続いていきますように。
 わたしがそっと手を引き寄せると、瑞己くんは隣に並んでくれた。少し見上げて笑ってみせたら、瑞己くんもおずおずと微笑んだ。

 儚く壊れる夢に導かれて、君と出会った。
 君が見つけてくれた答えは、二人で一緒に進んでいける未来への可能性。
 わたしは君の隣を、今、確かに歩いている。

【fin.】