早起きは得意なほうだ。今朝も何となく早く目が覚めた。
肩に届くかどうかの長さの髪はストンとまっすぐで、前髪ともども、今日も手がかからなかった。わたしのこだわりが薄すぎるだけかもしれないけれど。
洗面台の鏡に映る顔は、まずまず無難? 美人ではない。でも、笑うと愛想がいいらしくて、「話しやすい」と言われる。そんな自分のことが、嫌いではない。
わたし、嘉田そよ香は、高校生活の二年目が始まったところだ。
悪くない毎日だと思う。少なくとも、学校に向かう足が止まるようなことはない。
授業開始まで、まだ十分に時間がある。せっかくだから遠回りして学校に行こうと決めた。
「お寺の椿、まだ咲いてるかな?」
四月に入って、すっかり桜の季節ではあるけれど。
いちばん近い道を通るなら、高校まで歩いて十五分だ。中学のときより徒歩通学の時間が短い。
でも、わたしのお気に入りの道は、市民公園の端っこをかすめるルート。途中に大きなお寺があって、境内で住職さんが地域猫まみれになっているのが見えたり、季節ごとの花が楽しめたりするんだ。
それに、舞台の演出のアイディアを思いつくのも、お気に入りのルートで回り道をしているときが多い。
苦しいときの神頼みじゃないけれど、あのお寺の仏さまには何度も助けていただいている気がする。
「行ってきます!」
朝の支度にバタバタしている両親に告げて、わたしは家を出た。
両親が経営するデザイン事務所は家から目と鼻の先にあるから、通勤が便利そうだ。晩ごはんの後にも仕事をしに事務所に戻れてしまうところは、便利すぎてむしろ大変そうだけれど。
つい昨日、わたしの通う小梅ヶ原高校の入学式がおこなわれた。とはいえ、わたしたち上級生は式に参加せず、さっそく授業を受けていた。一年生たちとの顔合わせは、三日後の部活動紹介の集会まで持ち越しだ。
部活動紹介では、もちろん我らが演劇部もステージに上がる。春休みの間に苦しみ抜いた脚本と演出も、集会で披露するぶんはどうにかまとまった。
「新入生、何人か入ってくれるかな?」
知ってる子が来るといいな。初めましての場面があんまり続くと、いつの間にか疲れ果てていたりするし。
演劇をやってますと自己紹介すると、「人前で堂々としてそう」とか「だからハキハキしゃべるんだね」とか、そんなことを言われる。確かに、きたえられているとは思う。
でも、人見知りしないふりならできるけれど、本当のところ、わたしだって人並みに緊張するんだ。四月最初のホームルームで自己紹介したときは、手のひらに爪の痕がいっぱいできるくらい、ガチガチに拳を握り続けていた。
幸いなことに、今年のクラスは雰囲気がいい。自己紹介で演劇のことを言っても、変な空気にならなかった。
中学のときには、ちょっとあったんだ。変な空気や嫌な雰囲気。
冷笑っていうのかな、そういう笑いを向けられていた。「妄想癖があるんだ」「目立ちたがりでしょ」「演劇部はオタクの集まり」「変な人だよね」って、陰で言われていた。わたしが本気で悩みだすより前に、ひそひそ聞こえる陰口は別のターゲットに矛先を向けたけれど。
あれ以来、進級してすぐの自己紹介で演劇部のことを言うときは、やっぱり身構えてしまう。
「今年は大丈夫。楽しくやろう」
自分を励ましながら、わたしはどんどん足を進める。春の朝の風はほんの少し肌寒い。
角を曲がると、例のお寺だ。
生垣として植えられているのは、椿の木。
一口に椿といっても、いろんな種類がある。十一月頃から四月初旬の今に至るまで、さまざまな色や形の花が順番に開いてきた。
ひときわ大きな木にはまだ、小さくて赤い花がぽつぽつと咲いている。わたしのお気に入りの木。花は赤一色じゃなくて、花びらの縁だけがきっぱりと白い。
玉之浦椿っていう、ちょっと珍しい種類なんだって。古い木ではあるけれど、病気ひとつしていない元気者らしい。樹齢は、記録によると二百歳以上だとか。住職さんに、そんなふうに教えてもらった。
艶やかな葉っぱは濃いグリーンで、とてもきれいだ。朝の光が宿ってキラキラしている。
ふと、気がついた。
「あれ? あの子……」
同じ高校の男子生徒だ。きっと新入生。制服も学校指定のリュックも革靴も真新しい。
彼は、椿の花を見上げながら歩いている。その姿に、わたしはつい、クスッと笑ってしまった。
わたしもそうやって、ここの椿を見上げて歩くのが好きだ。冬、見事に咲き誇る花はもちろん、春先のまだ柔らかそうな葉っぱも、夏の膨らんだ実や弾けた殻も、秋のだんだん色づいていくつぼみも、いつの季節の姿も好き。
でも、危ないんだけどな。このあたりの歩道は、アスファルトの下に、お寺から伸びてきた木の根がはっているせいで、平らじゃないんだ。
と思った途端、アスファルトの盛り上がりに足を取られたみたいで、彼がつまずきそうになった。
「あっ」
声を上げたのは、わたしと彼と同時で。
でも、彼は転んだりしなかった。踊るように器用なステップを踏んで、体勢を立て直した。運動神経がいいんだ。
そんな一部始終を見ていたわたしと、パッと顔を上げた彼と。
目が合った。
色白できれいな顔立ちの男の子だ。大きめの制服と、頬がすべすべなせいもあって、何となくまだ幼い感じがする。
あは、と彼が笑った。
「花に目を惹かれてしまって、足下、見てませんでした」
照れくさそうに、長い指で頬を掻く。
わたしも笑ってみせた。
「去年、わたしも同じことをして、転んじゃいました。ちょうどこの大きな椿の木の下で」
あのときは誰にも見られていなかった。慌てて立ち上がって、何もなかったふりをした。今の今まで忘れていたのに。
転んじゃった話なんて、初めて会った年下の男の子に披露して、わたし、どういうつもりなんだろう? 彼のほうも、いきなりこんな話をされたって困るよね。
いや……でも、何だか不思議なんだ。初めて会った気がしない。
どうしてだろう? どこかで見かけた? たとえば、市立図書館の閲覧室とかで。
彼は、はにかむ様子で視線をさまよわせている。
「あの、ええと……」
何となく始めてしまった会話をどうしていいか、わからないみたい。
恥ずかしそうな様子のまま、彼をほったらかすのも酷だ。こういうとき、わたしは自分の中のスイッチを切り替える。舞台モード、オン。そうしたら、アドリブでお客さんと絡むのだって、度胸よくガンガンいける。
「珍しい配色の椿でしょう? 玉之浦椿っていう種類なんだって。このお寺の住職さんがおっしゃってました。ここの住職さん、知ってます?」
彼は、こくりとうなずいた。
「に、ニコニコ笑ってる仁王像みたいな……」
その表現に、わたしは噴き出してしまった。
「あはは、確かに! 筋骨隆々として、いかつい顔で、仁王像みたいですよね。でも、いつもニコニコしていらっしゃるから、ちっとも怖くないんです。あんなに体が大きいのに、保育園の子どもたちに大人気なの。ここ、お寺の中に保育園があって」
「あ……知ってます。バザーで、あの、住職さんとも、お話ししたので」
「バザーって、春休みにあった市民バザーでしょ? わたしもあのバザーに行って、住職さんを見かけましたよ。保育園児が背中に何人もよじ登ってたんですよね」
彼は、はにかみ笑いで目を泳がせ続けている。あいづちの言葉を紡ぐみたいに口が動いたけれど、声がかすれていて、聞き取れなかった。
かなり人見知りしてしまうんだろう。わたしとしゃべり続けるの、きつそうだな。
それはそうだよね。入ったばかりの高校の先輩、しかも異性の先輩相手にいきなり長話なんて、きつくないはずがない。
わたしは彼を促した。
「時間、大丈夫ですか? まだ遅刻するような時間じゃないけれど、早めに学校に着こうとしていたんじゃないですか?」
「あっ、えっと、そうだ、職員室……お、お先に、失礼しますっ」
ぺこりとお辞儀をすると、彼はパッと駆け出した。
走る彼のフォームはきれいで、とても軽やかだ。あっという間に遠ざかっていく。その後ろ姿に、わたしは目を奪われた。
同じ中学出身ではない、と思う。この遠回りの道は、隣の中学との境目のあたりだ。
「あっちの中学の子だよね。部活動紹介の舞台、あの子にも見てもらえるってことか」
独り言をつぶやいてみた。
ほんのささいな出来事。名前もわからないままの出会い。これっきり、すれ違うこともないかもしれないけれど。
わたしはそっと胸に手を当てた。いつの間にか鼓動が弾んで、ドキドキ、そわそわしていた。
***
肩に届くかどうかの長さの髪はストンとまっすぐで、前髪ともども、今日も手がかからなかった。わたしのこだわりが薄すぎるだけかもしれないけれど。
洗面台の鏡に映る顔は、まずまず無難? 美人ではない。でも、笑うと愛想がいいらしくて、「話しやすい」と言われる。そんな自分のことが、嫌いではない。
わたし、嘉田そよ香は、高校生活の二年目が始まったところだ。
悪くない毎日だと思う。少なくとも、学校に向かう足が止まるようなことはない。
授業開始まで、まだ十分に時間がある。せっかくだから遠回りして学校に行こうと決めた。
「お寺の椿、まだ咲いてるかな?」
四月に入って、すっかり桜の季節ではあるけれど。
いちばん近い道を通るなら、高校まで歩いて十五分だ。中学のときより徒歩通学の時間が短い。
でも、わたしのお気に入りの道は、市民公園の端っこをかすめるルート。途中に大きなお寺があって、境内で住職さんが地域猫まみれになっているのが見えたり、季節ごとの花が楽しめたりするんだ。
それに、舞台の演出のアイディアを思いつくのも、お気に入りのルートで回り道をしているときが多い。
苦しいときの神頼みじゃないけれど、あのお寺の仏さまには何度も助けていただいている気がする。
「行ってきます!」
朝の支度にバタバタしている両親に告げて、わたしは家を出た。
両親が経営するデザイン事務所は家から目と鼻の先にあるから、通勤が便利そうだ。晩ごはんの後にも仕事をしに事務所に戻れてしまうところは、便利すぎてむしろ大変そうだけれど。
つい昨日、わたしの通う小梅ヶ原高校の入学式がおこなわれた。とはいえ、わたしたち上級生は式に参加せず、さっそく授業を受けていた。一年生たちとの顔合わせは、三日後の部活動紹介の集会まで持ち越しだ。
部活動紹介では、もちろん我らが演劇部もステージに上がる。春休みの間に苦しみ抜いた脚本と演出も、集会で披露するぶんはどうにかまとまった。
「新入生、何人か入ってくれるかな?」
知ってる子が来るといいな。初めましての場面があんまり続くと、いつの間にか疲れ果てていたりするし。
演劇をやってますと自己紹介すると、「人前で堂々としてそう」とか「だからハキハキしゃべるんだね」とか、そんなことを言われる。確かに、きたえられているとは思う。
でも、人見知りしないふりならできるけれど、本当のところ、わたしだって人並みに緊張するんだ。四月最初のホームルームで自己紹介したときは、手のひらに爪の痕がいっぱいできるくらい、ガチガチに拳を握り続けていた。
幸いなことに、今年のクラスは雰囲気がいい。自己紹介で演劇のことを言っても、変な空気にならなかった。
中学のときには、ちょっとあったんだ。変な空気や嫌な雰囲気。
冷笑っていうのかな、そういう笑いを向けられていた。「妄想癖があるんだ」「目立ちたがりでしょ」「演劇部はオタクの集まり」「変な人だよね」って、陰で言われていた。わたしが本気で悩みだすより前に、ひそひそ聞こえる陰口は別のターゲットに矛先を向けたけれど。
あれ以来、進級してすぐの自己紹介で演劇部のことを言うときは、やっぱり身構えてしまう。
「今年は大丈夫。楽しくやろう」
自分を励ましながら、わたしはどんどん足を進める。春の朝の風はほんの少し肌寒い。
角を曲がると、例のお寺だ。
生垣として植えられているのは、椿の木。
一口に椿といっても、いろんな種類がある。十一月頃から四月初旬の今に至るまで、さまざまな色や形の花が順番に開いてきた。
ひときわ大きな木にはまだ、小さくて赤い花がぽつぽつと咲いている。わたしのお気に入りの木。花は赤一色じゃなくて、花びらの縁だけがきっぱりと白い。
玉之浦椿っていう、ちょっと珍しい種類なんだって。古い木ではあるけれど、病気ひとつしていない元気者らしい。樹齢は、記録によると二百歳以上だとか。住職さんに、そんなふうに教えてもらった。
艶やかな葉っぱは濃いグリーンで、とてもきれいだ。朝の光が宿ってキラキラしている。
ふと、気がついた。
「あれ? あの子……」
同じ高校の男子生徒だ。きっと新入生。制服も学校指定のリュックも革靴も真新しい。
彼は、椿の花を見上げながら歩いている。その姿に、わたしはつい、クスッと笑ってしまった。
わたしもそうやって、ここの椿を見上げて歩くのが好きだ。冬、見事に咲き誇る花はもちろん、春先のまだ柔らかそうな葉っぱも、夏の膨らんだ実や弾けた殻も、秋のだんだん色づいていくつぼみも、いつの季節の姿も好き。
でも、危ないんだけどな。このあたりの歩道は、アスファルトの下に、お寺から伸びてきた木の根がはっているせいで、平らじゃないんだ。
と思った途端、アスファルトの盛り上がりに足を取られたみたいで、彼がつまずきそうになった。
「あっ」
声を上げたのは、わたしと彼と同時で。
でも、彼は転んだりしなかった。踊るように器用なステップを踏んで、体勢を立て直した。運動神経がいいんだ。
そんな一部始終を見ていたわたしと、パッと顔を上げた彼と。
目が合った。
色白できれいな顔立ちの男の子だ。大きめの制服と、頬がすべすべなせいもあって、何となくまだ幼い感じがする。
あは、と彼が笑った。
「花に目を惹かれてしまって、足下、見てませんでした」
照れくさそうに、長い指で頬を掻く。
わたしも笑ってみせた。
「去年、わたしも同じことをして、転んじゃいました。ちょうどこの大きな椿の木の下で」
あのときは誰にも見られていなかった。慌てて立ち上がって、何もなかったふりをした。今の今まで忘れていたのに。
転んじゃった話なんて、初めて会った年下の男の子に披露して、わたし、どういうつもりなんだろう? 彼のほうも、いきなりこんな話をされたって困るよね。
いや……でも、何だか不思議なんだ。初めて会った気がしない。
どうしてだろう? どこかで見かけた? たとえば、市立図書館の閲覧室とかで。
彼は、はにかむ様子で視線をさまよわせている。
「あの、ええと……」
何となく始めてしまった会話をどうしていいか、わからないみたい。
恥ずかしそうな様子のまま、彼をほったらかすのも酷だ。こういうとき、わたしは自分の中のスイッチを切り替える。舞台モード、オン。そうしたら、アドリブでお客さんと絡むのだって、度胸よくガンガンいける。
「珍しい配色の椿でしょう? 玉之浦椿っていう種類なんだって。このお寺の住職さんがおっしゃってました。ここの住職さん、知ってます?」
彼は、こくりとうなずいた。
「に、ニコニコ笑ってる仁王像みたいな……」
その表現に、わたしは噴き出してしまった。
「あはは、確かに! 筋骨隆々として、いかつい顔で、仁王像みたいですよね。でも、いつもニコニコしていらっしゃるから、ちっとも怖くないんです。あんなに体が大きいのに、保育園の子どもたちに大人気なの。ここ、お寺の中に保育園があって」
「あ……知ってます。バザーで、あの、住職さんとも、お話ししたので」
「バザーって、春休みにあった市民バザーでしょ? わたしもあのバザーに行って、住職さんを見かけましたよ。保育園児が背中に何人もよじ登ってたんですよね」
彼は、はにかみ笑いで目を泳がせ続けている。あいづちの言葉を紡ぐみたいに口が動いたけれど、声がかすれていて、聞き取れなかった。
かなり人見知りしてしまうんだろう。わたしとしゃべり続けるの、きつそうだな。
それはそうだよね。入ったばかりの高校の先輩、しかも異性の先輩相手にいきなり長話なんて、きつくないはずがない。
わたしは彼を促した。
「時間、大丈夫ですか? まだ遅刻するような時間じゃないけれど、早めに学校に着こうとしていたんじゃないですか?」
「あっ、えっと、そうだ、職員室……お、お先に、失礼しますっ」
ぺこりとお辞儀をすると、彼はパッと駆け出した。
走る彼のフォームはきれいで、とても軽やかだ。あっという間に遠ざかっていく。その後ろ姿に、わたしは目を奪われた。
同じ中学出身ではない、と思う。この遠回りの道は、隣の中学との境目のあたりだ。
「あっちの中学の子だよね。部活動紹介の舞台、あの子にも見てもらえるってことか」
独り言をつぶやいてみた。
ほんのささいな出来事。名前もわからないままの出会い。これっきり、すれ違うこともないかもしれないけれど。
わたしはそっと胸に手を当てた。いつの間にか鼓動が弾んで、ドキドキ、そわそわしていた。
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