瑞己くんと待ち合わせをすることになったのは、次の週の木曜日だった。

〈放課後に市民公園のベンチで。くすの木の影にある百葉箱のそばって、わかりますよね?〉

 百葉箱というのは、温度計や湿度計が収められた木の箱だ。昔は、鳥の巣箱かリスの飼育小屋なのかな、と思っていた。

〈たぶんわかるよ。くすの木と、近くにはアガパンサスの花壇もあるよね? 背の高い青い花の花壇〉
〈そうです。あの花、きれいですよね! そこで待ち合わせで、いいですか?〉
〈了解。それじゃあ木曜日に〉

 幸いなことに、約束をしたその日は朝から晴れていた。わたしは一日じゅう、そわそわと落ち着かなかった。
 わたしが急いで待ち合わせ場所に向かったら、瑞己くんはすでにベンチに腰掛けて、本を手にしていた。

「ごめんね。待たせちゃった。進路指導のホームルームが、思ってた以上に長引いたの」
 上ずりそうな声をなだめて告げれば、瑞己くんはこちらを向いて、にっこり笑った。
「平気です。そよ先輩が来てくれるってわかってるときの待ち合わせは、わくわくするので」
「わくわくなんだ」

 わたしは瑞己くんの隣に腰を下ろした。
 瑞己くんはリュックに本をしまいながら、少し小さな声になって言った。

「でも、すごくドキドキしてたのも本当で、図書館の本を読みながら待ってようと思ってたんですけど、全然ダメでした」
 チラッと見えたタイトルは、学生演劇の入門書だ。わたしも前に図書館から借りて読んだことがある。

「演劇部の中心メンバーは明日、部室に集まって次の公演の話し合いをするよ。瑞己くんは、演目が決まってからの参加でいいのかな?」
「はい。今はまだ右も左もわからない上に、ひどい人見知りをしてしまうから。でも、もっと慣れてきたら、ちゃんと初めから力になりたいです」
「ありがとう。公演直前はきっと、あまりにギリギリで、人見知りしてる場合じゃないってことになるよ。喉の調子も、もう大丈夫そうだね」

「きつかったのは最初の二日だけでしたよ。でも、完全に熱が下がって丸二日は空けてから登校するようにって、真くんのお父さんに言われて。早く登校できるようになりたくてじりじりするなんて、ずいぶん久しぶりでした」
「高校での環境が瑞己くんに合ってるんだろうね。よかったね」

 瑞己くんは柔らかく笑ってうなずいて、リュックから十五センチ四方くらいの箱を出した。
「そよ先輩、見てください。あのカップ、金継ぎで直したら、もとの姿よりもずっとよくなったんです」
 箱の中から、ガーゼ地のタオルハンカチでしっかり包まれたものを取り出す。タオルハンカチをほどくと、青い陶器のカップが現れた。

「あ、きれい」

 もともと素敵なカップだった。うわぐすりと窯の温度によって生まれた、絶妙なグラデーションの青。深みがあるようにも透き通っているようにも見える青の地には今、金とも銀ともつかない輝きのラインが入っている。初めからデザインされていた模様みたいに、見事に馴染んでいる。

「これが金継ぎです。割れたところをパテで継ぎ合わせて、その継ぎ目には金箔と銀箔と漆を混ぜたものをかぶせて、しっかり固めてあります。ここで使った漆は、漆器に使われているものと同じなんですよ」
「漆器と同じ? それなら、このカップ、また使えるんだね」
「使えます。僕、今のこのカップが好きですよ。うまくできてるって思いません?」

 瑞己くんはちょっといたずらっぽい目をしてわたしに尋ねた。

「うまくできてる。すごいね」
「よかった。だから、前にも約束したとおり、この件はもうおしまいです。いいですよね?」
「うん、わかった」
「じゃあ、話を先に進めますよ」
「うん」
「壊れものの予知夢の謎が解けたって、僕、言ったでしょう? その件です。初めから話しますね」

 瑞己くんは金継ぎの出来を確かめるように、カップを一度、宙にかざした。それから、カップをもとのとおりにタオルハンカチで包んで箱にしまいながら、話を切り出した。

「今座ってるこのベンチのところで、春休み、僕はそよ先輩を見かけたんです。市民バザーでカフェひよりが出店していた場所が、ここでした」

 わたしは、その日のことを振り返ってみる。
 くすの木の下、百葉箱のそばのベンチ。ここは図書館側の入り口から近い。わたしはその日、図書館帰りにバザーに寄った。公園に入ってまもなく、カフェひよりのかわいい看板と「季節のフルーツのジェラート」の文字を見つけたんだ。

「このあたりだったよね。何となくだけど、覚えてる」
「最初の壊れものの予知夢の場面は、ここで起こったことになりますよね?」
「うん。小さな女の子がジェラートを落とした。わたしも同じフレーバーのジェラートを買ってたから、自分のぶんを女の子にあげた。そしたら、楓子ちゃんが代わりのジェラートを持ってきてくれたんだ。瑞己くんが気づいて、作ってくれたんだよね?」
「はい。だから、そよ先輩も、違うフレーバーとはいえ、ジェラートを食べることができたでしょう?」
「そう。冷たくて甘くて、本当においしかった。桜のジェラートの底に、季節のフルーツのほうも入れてもらってたし」

 瑞己くんはわたしを見て、まぶしそうに目を細めて笑って、話を続けた。

「次の予知夢は、図書館の閲覧室でペンを落としたことですよね。そよ先輩はなくしたと思ったけど、僕が拾って、修理もして、最終的にそよ先輩に返すことができました」
「その節はありがとう。ペンを渡してもらったのは、学校だったよね。印刷した台本を段ボール箱に入れて運んでたら、箱の底が抜けて紙をぶちまけて、瑞己くんが拾うのを手伝ってくれた」
「僕がちょうど持ってた紙袋をあげたんですよね。そのときにペンも返せたんです」

 わかば公演の打ち上げでは、わたしが落としそうになったペットボトルを瑞己くんが拾ってくれた。
 お気に入りの折り畳み傘が壊れていたときも、瑞己くんが預かって修理してくれた。
 わたしのせいで割れてしまったカップも、瑞己くんの手できれいによみがえった。
 一つずつ確認していって、瑞己くんはキッパリと言い切った。

「そよ先輩が見てしまう壊れものの予知夢は、壊れておしまいになることの予知じゃありません。全部、僕が直したり補ったりできた。あの夢の続きをつなぐようにして、現実では問題も解決できたし、僕はそよ先輩と話せるようになりました」
「だけど、それは瑞己くんをわたしの不運に巻き込んでるみたいで、心苦しいよ」
「僕は巻き込まれたいですよ。いや、その言い方は何か違うな。縁、という言葉を使いたいです。壊れものの予知夢は、僕にとって、そよ先輩との縁を結んでくれた吉夢ですから」

 吉夢というのは、縁起のいい夢のことだ。壊れものの予知夢を見るようになってから、夢占いとか正夢とか、いろいろ調べてみたときに知った。
 ドジで間が悪いわたしのフォローをさせてしまっているのに、瑞己くんはそれを縁起のいいことだと言ってくれる。
 ありがたくて嬉しくて、でも申し訳なくて、わたしは鼻の奥がツンとしてきた。涙が湧いてきてしまいそうで、慌ててまばたきをする。

「わたしが思い違いをしてるって言ってたのは、そのこと? わたしが見ていたのは、壊れものの夢じゃなくて、壊れた先で瑞己くんが助けてくれる夢?」
「僕がそよ先輩の助けになれてたなら、嬉しいです。僕ばっかり助けてもらったんじゃ、釣り合いがとれませんから」
「でも、それじゃあ、この間の、瑞己くん自身が割れて壊れてしまう夢は? 熱が出たことの比喩? あれだけは、どういうことなのかわからなくて」

 瑞己くんは急に、はにかんだように笑いだした。

「心当たり、ありますよ。僕、自分ではあれが何のことなのか、わかってるんです。ものすごく、何ていうか、クサい感じのこと言いますけど」
「うん」
「僕がガラスか陶器みたいに割れて砕けたんですよね? それの正体、僕の心、だと思います」
「心?」

「失恋のこと、ブロークンハートっていうでしょう? 渡り廊下で待ってた日、そよ先輩が来ないまま最終下校時刻の放送が鳴ったときの僕の心境は、まさにそれでした。心が砕け散るみたいに感じたんです」
「そ、そうだったんだ」

 サラッと言われた単語に、ドキッとした。「失恋」って言った、よね?
 瑞己くんは頬を掻いたり頭を掻いたりしながら、その言葉をくり返した。

「あの後、ジムで登志くんと落ち合ったときに『何て顔してるんだ。どうした?』って訊かれて、『失恋した』って答えて。そうこうするうちに熱が上がって倒れたんですけど。薬と点滴で状態が落ち着いてから改めて説明したら、登志くんからも真くんからも『バカ野郎』ってあきれられて」
「えっと、それは、あの電話のときのこと?」
「登志くんが電話をかける直前です。真くんが完全にお説教モードになって、『とにかく、そよと二人でちゃんと話せ。始まってもいない、始めようともしてないくせに、何が失恋だ』って。そしたらちょうど、そよ先輩からメッセージが来たので、そのまま登志くんが通話を始めてしまって」

 瑞己くんは、頬や頭に触れていた手を、膝の上に下ろした。深く息を吸って吐くのがわかった。
 いつの間にか、わたしは、体を瑞己くんのほうに向けて座っていた。
 瑞己くんも同じように、体ごとわたしのほうを向いて、わたしの目をまっすぐに見て、言った。

「今回の予知夢も、それまでと同じです。確かに僕の想いは一度、壊れました。そよ先輩が僕を避けるなら仕方ないのかなって。でも、僕はどうしても、壊れたままにできません。あきらめたくないんです。僕はやっぱり今回も、壊れたものを直してしまいました」
「壊れたもの……」

 瑞己くん自身の心。一度はわたしのせいで壊れてしまった、想い。
 ささやくような声で、瑞己くんは告げた。

「そよ先輩のことが好きです」

 赤くなった頬。キラキラした真剣な目。
 見つめられて、わたしは、息が苦しいくらい心臓がドキドキしている。
 でも、わたしの口をついて出たのは、あいまいで情けない本音だった。

「どうしてわたしなのかな? 取り柄ってほどの取り柄もないし、性格もあんまりよくないんだよ。今だって、瑞己くんの言葉を聞いても、素直に受け止められなくて、『どうして』なんて訊いてしまう。嫌な人だよね」

 瑞己くんは少し、どこかが疼いて痛むみたいに、眉をひそめた。

「どうしてそよ先輩なのかって、その理由は僕にもわかりません。だけど、そよ先輩だけが特別なんです。一緒にいると、安心できる。でもドキドキしてしまう。これって、僕がそよ先輩を好きだってことですよね?」

 わからないよ。わたしには答えられない。
 だって、わたしは瑞己くんではないんだから。瑞己くんが感じている気持ちをそのまま理解することなんて、できない。

 そう。理屈だと、そういうことになる。
 気持ちというのは主観的なもので、主観というのは一人ひとりの中にあるもので、スポーツのルールみたいに客観的に明確なものとは言えなくて。

 だけど、不思議だよね。
 わたしと瑞己くんは、まったく違った一人と一人なのに。
 それなのに、どうしてこんなに、言葉にして表したい気持ちが似ているんだろう?

「一緒にいると安心できて、でもドキドキする、か。おもしろいよね。自分のことなのに、自分で全然、意味がわからない。安心とドキドキって、真逆みたいなのにね」
「そよ先輩も、同じなんですか?」
 おそるおそるといった様子で、瑞己くんがわたしに問う。

「同じ気持ちなのかどうか証明する方法なんて、どこにもないよ。でも、同じだったらいいなって思う。前からそう思ってた」
「ほ、本当ですか?」
 わたしはうなずいた。

「瑞己くんのことが好きです」

 キラキラした目を大きく見開いて、瑞己くんが息を呑んだ。

「本当に、僕でいいんですか? 僕は、人との距離の取り方がわかってなくて、うっとうしいかもしれないですよ」
「大丈夫。わたし、今回のことで懲りたから。何も言わずに瑞己くんのことを避けてる間、本当に苦しかった。だから、次からちゃんと言う。わたしはこう思ってるとか、瑞己くんにこうしてほしいとか、ちゃんと言うようにする」

 瑞己くんの顔に笑みが戻った。

「よかった。ダメなときはダメって、ちゃんと叱ってくださいね」
「うん。瑞己くんもだよ? 嫌なことや困ったことがあったら、教えて。わたしの力じゃ何の解決もできないかもしれないけど、話を聞くことはできるから」

 瑞己くんはうなずいた。それから、わたしが見る夢のことへ、話を戻した。

「そよ先輩、前に、運命の恋人たちの夢の続きが僕なんじゃないかって言ってましたよね?」
「ああ、うん。瑞己くんが、わたしのあの夢に出てくる人に似てるから、何となく」
「もし本当に僕がその夢と関わりがあるのなら、そよ先輩、心配しないでください。僕はそよ先輩の見る夢の続きを、直したり補ったりできるんです。僕なら、運命だって、壊れたままにはしない。運命の恋人たちの夢の続きは、悲恋なんかじゃありません」

 瑞己くんがおずおずとわたしのほうに手を差しのべた。
 きれいな形をした長い指。器用で優しい手。
 その手が未来へ導いてくれる。儚く壊れる恋を運命づけられた、夢の中の彼らとは違う未来へ。
 わたしは、瑞己くんの手を取った。

「ありがとう。よろしくね」

 瑞己くんは、ふわりとわたしの手を握って、それから、ギュッと握り直した。
 優しくて力強いその手の熱は、なぜだか、とても懐かしいような気がした。

***