六月に入った。夏服への移行期間だ。
蒸し暑いなと思う日が五月のうちから続いていたから、半袖のポロシャツが解禁されて、何となくみんなが浮わついているように見える。
わたしはうまくついていけない。
朝、ぼーっとしたまま長袖のカッターシャツを着てしまって、学校に着く頃には汗ばんでいた。袖を折り返してごまかす。スカートも、分厚い生地の冬服のままじゃ蒸し暑いのに、昨日もまた衣替えをし忘れていた。
しっかりしなきゃ。
休み時間はいつもどおりのふりをしたくて、友達とのおしゃべりの間、笑ってごまかしていた。でも、どうしても、話をちゃんと聞けずにいたみたいだ。
「ねえ、嘉田ちゃんもだよね」
いきなり水を向けられて、びっくりしてしまう。
「え? えっと……」
「どしたの? 顔色悪くない? 早くも夏バテ?」
「あー……ご、ごめん、ぼーっとしてた」
「やだもー、嘉田ちゃんは英語得意だから、ぼーっとしてても小テストいけるんだー」
クラスメイトの曽我さんは、いじけたようなことを言って、笑い飛ばしてくれた。
今年のクラスはとても雰囲気がいい。いじめがないっていう、奇跡みたいなクラスだ。おかげで助かった。
でも、だからといって気を抜いちゃいけない。人の話を聞けないなんて、そもそも失礼きわまりないんだから。
「ごめんね、ほんと。今、ちょっと悩んでることがあって、昨日眠れなかったんだ」
差しつかえがない範囲で打ち明けておく。予防線だ。上手にやらなきゃって計算している。
瑞己くんだったら、きっとこんな計算なんてしないよね。ただまっすぐ一生懸命に、クラスの中で頑張っているはず。それに引き換え、わたしはずるいんだ。
曽我さんは首をかしげた。
「嘉田ちゃんが悩むのって、やっぱり演劇部のこと?」
「あ、まあ……そう、だね」
「んー? 今の微妙な空白は何? もしかして全然違って、恋の悩みだったりする?」
「いや、こ、恋じゃないよっ。ほんと、恋なんて……違う……」
恋とか、とても言えない。もっとシンプルなことだ。
そばにいたい人のそばに、近寄ってはならない。自分で決めたそのルールに苦しめられている。
頭がぐちゃぐちゃだ。
わたし、今、どんな顔をしているんだろう? きっとひどい顔だ。曽我さんが眉をひそめている。
「やっぱ嘉田ちゃん、きつそうだよ。保健室行くとか、いっそ帰っちゃうとかすれば? 無理しないでね」
「ありがとう」
「早く解決すればいいね」
うなずきながら、わたしは考えてしまう。
解決って、何だろう? いつになれば、もう瑞己くんは大丈夫って言えるようになるの? わたしが瑞己くんのことをすっかり忘れてしまえば、瑞己くんは安全になるのかな?
できそうにないよ。でも、何とかしたいよ。
わたしが瑞己くんにとっての疫病神なんだ。守りたいって気持ちに嘘はないのに。
だらだらと間延びしながら過ぎる時間。それでもどうにか、わたしは放課後を迎える。
次の公演の話し合いもしないといけない時期だ。でも、誰も決定的なアイディアをひらめかないみたいで、幸いなことに今日も召集がかからない。
いつの間にか放課後になっていて、部室に行く気の起こらないわたしは、のろのろと帰路に就いた。
このパターンだと、公演の準備は期日ギリギリになって取りかかって、無理やり間に合わせることになるんだろうな。
そうなると、衣装や大道具や小道具を作るのが本当に大変なんだ。今年は作業の速い瑞己くんがいてくれるとはいえ……。
「……ダメだ。危険だよね」
悪夢の残像が頭の中によみがえる。
でも、わたしが声をかけなくても、誰かが瑞己くんを公演の手伝いに呼ぶんじゃない?
わたしは、それじゃあ、どうすればいい?
何が正しいのか、もう全然わからない。眠れなくて、考えることに集中できなくて、瑞己くんと話したくて、〈ごめんなさい〉のメッセージがまた届いたことも心苦しくて。
ふと。
突然。
「そよちゃん?」
肩を叩かれて、わたしはビクッと固まった。半端に肩に引っかけただけのリュックを、思わず取り落とす。
あーあ、と言いながらリュックを拾ってくれたのは、友恵だった。
「やっぱりおかしくなってる。そよちゃん、何があったの?」
「と、友恵……」
「当ててあげようか? 土曜日に話してた悪夢のことでしょ。正夢が本当になるのが怖くて、相馬を避けてる」
友恵は、わたしにリュックをきちんと背負わせると、わたしの手を引いて歩きだした。
わたしは引っ張られて歩きながら、顔を上げられない。
「だって、どうしていいかわからなくて」
「詩乃ちゃんだっけ。あの子に言われたこと、気にしてるの?」
「だって……」
「だってだってって、そういうのはストップ。そよちゃんのせいで相馬に負担がかかってるなんて、あたしは思わないけどな」
「でも……」
「でももストップ。あたしがそよちゃんを捜して追いかけてきた理由、教えてあげる。相馬に頼まれたからだよ」
「え?」
顔を上げると、友恵はわたしのほうをチラッと振り向いた。小さい子供の面倒を見るときみたいな、やんわりした微笑み方をしている。
「教室でね、ガチガチに緊張した相馬が、『そよ先輩のことで』って相談しに来たんだ。相馬のほうから話しかけてきたのは初めてだよ。ちょっとびっくりした。相馬は、そよちゃんのために必死になってた」
「そんな、わたし……」
言葉が紡げない。何を言ったらいいか、わからないんだ。
「相馬のこと、避けてるんだって? どうして?」
「壊れものの夢が当たったら困るから。わたしと関わってると、瑞己くんが危ない目にあうかもしれない。そんなの嫌だ」
「そよちゃんと顔を合わせなかったら、相馬は安全なの?」
「わからない。だけど、それしか思いつかなくて」
友恵はため息をついた。
「それならそうと、相馬にも伝えてやればいいのに」
「もし伝えたら、瑞己くんはきっと『自分は大丈夫』って言って、今までどおりにしようとする。わたしはそれが怖い。ねえ、友恵。このこと、瑞己くんには教えないで。お願い」
振り向いた友恵は、ふふっ、と柔らかく笑った。
「同じこと言うんだ」
「誰と?」
「相馬に決まってるでしょ。『あたしがそよちゃんの考えを聞いてきて、相馬に伝えようか?』って提案したら、相馬は『教えてくれなくていい』って。そよちゃんの様子が心配だから見てきてほしいけど、そよちゃんとは自分で直接話したいらしいよ」
「え……?」
「あたしも相馬に賛成だな。だから、あたしは、今そよちゃんから聞いたことを相馬に言わない」
「と、友恵、それじゃ、あの予知夢は……」
「予知夢についても、相馬は気づいたことがあるんだって。大丈夫だと思うよ。相馬はあのとおり怖がりだけど、そよちゃんの予知夢のことは少しも怖がってないもん」
友恵がわたしの手をしっかりと握り直した。のろのろとして足運びが乱れるわたしを、背筋を伸ばして堂々とした早足で、前へと導いてくれる。
ぐるぐると考え続ける頭がこんがらがって、八方ふさがりだ。思考の迷路の出口が見えない。答えはおろか、声すら出なくなってきたわたしは、ただ黙ったまま歩を進める。
友恵は明るく言い放った。
「そよちゃんは、まず休みなよ。悪いほうにしか考えが向かってないでしょ。それ、よくないよー?」
そうなのかな?
頭の中のこのぐるぐるをいったん止めたら、いいアイディアが何か浮かぶ?
……そうなったら、いいけどな。
「ねえ、友恵」
「うん?」
「こんなに胸が苦しくて、頭の中がぐちゃぐちゃで、瑞己くんのことを考えるとわけがわからなくなっちゃうのは、恋、なのかな……」
何てありふれた台詞。声に出したら、自分がどれだけバカなのか、痛いくらいにわかってしまった。
「あたしが答える必要、ある?」
ちょっとからかうような友恵の言葉に、わたしはかぶりを振った。
わかってる。
もう、どうしようもないくらい、わかってるんだ。
涙をこらえるので精いっぱいだった。
こんなんじゃ、きっと今夜もろくに眠れない。
***
忘れ物をしたことに気づいたのは、昼休みになってからだった。
「財布がない。スマホもない……」
道理で、リュックが妙にスカスカして軽いわけだ。
幸いにしてお弁当は忘れていないけれど、飲み物は購買の自販機で買うつもりだった。財布を忘れていても、スマホケースに入れたICカードで買えるはずだったのに、両方忘れてくるなんて。
「嘉田ちゃーん、購買行くー?」
曽我さんに尋ねられて、苦笑を返す。
「財布もICカードも忘れちゃったから行けない」
「じゃ、飲み物ないんだ? 自販機のお茶でよければ、ついでに買ってくるよ。この前スポドリおごってくれたお返し」
「ほんと? 助かる」
拝むポーズで「ありがとう」をして、いつものグループに合流する。
わたしのいるグループは、集まり方がふわっとしている。昼休みに委員会の仕事や部活の用事がある子ばっかりで、全員が揃うときがない。
何となく気が合う曽我さんは生徒会で、グループの中でいちばん忙しそうだ。わたしも公演前になったら、昼休みが始まると同時に教室を飛び出す。
余りものが集まっている、とも言えるのかな。中学時代だったら、余りもののグループには暗いイメージがどうしてもついて回っていたけれど、今のクラスではそんなこともない。
気楽だな。
瑞己くんもちょっと変わっているけれど、のけ者にされたりなんかしていないって聞いた。瑞己くんのクラスも、うちのクラスと雰囲気が似ているのかもしれない。
……ああ、また、こんなこと考えてる。瑞己くんのことばっかり。
曽我さんが購買から帰ってくるのを待って、わたしはお弁当を広げた。
我が家のお弁当は、前日の夕食のとき、おかずを自分で詰めておくのがルールだ。おにぎりは朝食のときに自分で作る。
両親はデザイン関係の事務所を経営していて、仕事場は家から目と鼻の先だ。両親のお昼はそれぞれのタイミングで、自分で詰めたお弁当を食べているらしい。
わたしはデザインや設計のセンスが微妙だから、両親の仕事を継ぐことはないと思う。両親もそう認めて、自由にしなさいと言っている。
だとしたら、わたしは将来、何をやるんだろう? どんな仕事に就いて、どんな暮らしを送っていくの?
自由に、というのが結局、いちばん難しい。
将来のことなんて、考えれば考えるほど不安になる。何も見えない。わたしは、得意なこともやりたいこともあいまいで、夢や目標だって見つからない。
いや、単なる憧れだけで将来を思い描いていいのなら、あるよ。
演劇を続けたい。脚本や演出のテクニックを突き詰めていって、わたしの主宰で大きな公演を打ってみたい。
現実を見ようか。
大きな公演を主宰するだとか、演劇の道で食べていくだとか、そんな才能がわたしにあるだなんて、とても思えない。
ないんだ、才能。ただ演劇が好きなだけ。お金を稼ぐとか何とかを脇に置いて、とにかく舞台をやりたいだけ。
そんなふうだから、演劇を続けられるのは、大学までかもしれない。と考えると、演劇を続けるために大学進学を選ぶ、ということになりそう。短大や専門学校じゃなくて、四年制の大学だ。学部や専攻は、課題や実験や実習が忙しそうなところを避ける。
きっと四年間、使える時間はすべて演劇のために費やすんだ。学費は親に出してもらえるだろうから、単位は落とさないよう頑張るとしても、割りのいいバイトを見つけて演劇の活動資金をしっかり稼ぐ。
そして、大学の卒業が見えてくる頃になって、また同じ悩みにぶつかることになるんだろう。どうにかして演劇を続けられる道はないかな、なんて考えて、仕事の内容は二の次で就職先を決めて。
先延ばしして逃げて、また先延ばしを選んで。
わたしの人生、そんなふうに流れていくのかな。そうかもしれないな。
大きなトラブルのない、ほどほどに穏やかな人生で、ときどきちょっとした成功があれば幸せ。成功っていうのは、やっぱり、舞台がうまくいったらいいなってこと。
不安だ。
こんなにふわふわしたまま、時間だけが過ぎて、わたしは大人に近づいてしまう。
「嘉田ちゃん、今日もおとなしい。落ち込みモード続行中だね」
曽我さんに指摘された。昨日の今日でこの調子だから、ごまかしようもない。
「……一つ悩み始めると、ほかのことも連鎖的に考えちゃって、どんどん沈んでくんだよね」
「嘉田ちゃんはまじめだねぇ。帰りにどっか寄って気晴らししたら? 寄り道、嘉田ちゃんはどこ行く派?」
「図書館か駅ビルの本屋かな。あ、でも今日はダメ。財布もICカードもない」
「だね。今日は午後からだんだん雨が強くなるらしいから、帰れるなら早めに帰ったほうがいいよ。嘉田ちゃん、傘ある?」
「傘だけはある。リュックに入れっぱなしにしてたから」
瑞己くんに修理してもらった、青いステンドグラスみたいな模様の折り畳み傘だ。もともとお気に入りだったけれど、それ以上の意味を持ってしまった傘。
また、ため息。
雨が降り始めた。開け放っていた窓から、雨混じりの風が吹きつけてくる。
冷たい。朝はもう少し蒸し暑かった気がするけれど。
わたしは、折り曲げていたカッターシャツの袖を戻した。半袖の曽我さんの腕には、鳥肌が立っている。
「今日は嘉田ちゃん、長袖で大正解だね」
曽我さんは窓を閉めながら苦笑した。
「ほんとだね」
「ラッキーじゃん」
惰性で長袖を着てきただけなのに、明るい声でラッキーだと言ってもらえて、わたしはちょっと笑ってしまった。
*
午後の授業の間、降り続けていた冷たい雨は、ちょうど放課後になる頃に弱まってくれた。
霧のような雨が風に乗って舞う中を、わたしは傘を差さずに家まで歩いた。
あとほんのちょっとのところになって、バケツをひっくり返したみたいに、ザーッと強く降ってきた。走ったり傘を差したりする気が起きなかった。リュックを胸に抱えて、背中を丸めて、濡れながらのろのろと歩き続けた。
もっとびしょびしょに濡れたい気分だった。でも、タイミングがいいのか悪いのか、出先から戻ってきた母に見つかって、「何やってるの?」とあきれられた。
熱いシャワーを浴びたら、ずいぶん体が冷えていたのを実感した。びしょ濡れの制服は、しまいっぱなしだった夏服と一緒に、乾燥機つきの洗濯機に放り込んだ。
「制服、便利だな」
冬服は形状記憶のサラッとした生地。スカートも同じく形状記憶の生地で、乾燥機でぐるぐるされてもプリーツはきれいなままだ。夏服のポロシャツはちゃんと汗を吸うし透けないし、中学時代の木綿のセーラー服に比べて、ずっと着やすい。
舞台の衣装じゃ、こうはいかない。舞台映えと値段の兼ね合いで選ぶ生地は、たいていの場合、着心地や扱いやすさが犠牲になる。汗を吸わずに肌に貼りつくとか、洗濯したら色落ちするとか、アイロンはダメだとか、縫った箇所から布地がほどけたりとか。
「ああ、次の公演、どうしよ? 衣装に手間がかからないやつだと助かるけど」
洗面所で髪を乾かしながら、洗濯機のドラムの中でぐるぐる回る制服を、見るともなしに眺めていた。
次の公演、と、思い出してはたびたびつぶやく。
思い出さない間、繰り返し浮かんでくるのは、瑞己くんとの会話の記憶。
忙しくなるから覚悟してね、と冗談交じりで言ったとき、キラキラした笑顔で「楽しみです!」と言ってくれた。
「一緒にやりたかったんだけどな……」
頭で考えて、すでにあきらめている部分と。
でも心がどうしてもあきらめきれない部分と。
ぐちゃぐちゃに混ざって、わけがわからない。
昨日の帰り道、友恵が何度も「ストップ」と言ってくれた。スイッチを切るみたいに、悩んだり迷ったりでめちゃくちゃになる頭と心も、パチッとストップできればいいのに。
肩に軽く掛かる長さの髪は、もう乾いてしまった。だけど、ドライヤーを棚に戻しても、わたしはそのまま、ぐるぐる回る乾燥機のドラムを眺めていた。
ぐるぐる、ぐるぐる。
時間だけがどんどん過ぎていく。
***
結局、洗濯から乾燥が全部終わるまで、わたしは洗面所にいた。そしたら母が帰宅する時間帯になっていて、母につかまって夕食を作る手伝いをした。料理が出来上がった頃に父が帰ってきて、そのまま三人で夕食。
おかげで、二階にある自分の部屋に戻るのが遅くなった。
机の上に置きっぱなしにしていたスマホが、いくつもの受信や着信を知らせて点滅していた。
大半は、フォローしているアーティストの新着情報を知らせるものだ。気分が乗らないときに見ても、目が滑ってしまう。
「後でしっかり見よう」
ため息にのせてつぶやいて。
次の瞬間、息が止まる。
「瑞己くん……!」
ミュートすることも、ましてやブロックすることなんて、とてもできない。むしろ、相馬瑞己と書かれた新着通知さえスクリーンショットで全部保存しておきたいくらい、大事な存在。特別な名前。
わたしは無視を続けているのに、どうして?
おそるおそる、わたしは瑞己くんからのメッセージを表示してみた。
〈そよ先輩、今日の放課後に少しだけ会えませんか?〉
〈カップの修理がうまくいったので見てほしくて。放課後に渡り廊下で待ってます。そよ先輩が来るまで待ってますから〉
その二つのメッセージがトークルームに届いたのは、朝の始業直前だ。わたしがスマホを家に置き忘れていなかったら、授業のために電源を落とす前、最後にチェックする時間帯。
さっと背筋が冷える。
「待ってますって、そんな……」
疑問形でわたしの意思を確かめてからじゃなく、断固とした宣言だ。
瑞己くんがそんな強い態度に出たのは初めてだった。なのに、わたしはそのメッセージに気づいていなかった。
わたしの既読がつかない間、瑞己くんはどんな気持ちでいただろう?
もしかして、本当に宣言どおり、放課後に渡り廊下でずっと待ってたんじゃ……?
「で、でも……ああ、どうしよう?」
今さら確かめる方法は、本人に尋ねてみるしかない。
わたしは震える手で返信を打った。
〈ごめんなさい!〉
〈今日は家にスマホを忘れて、帰ってからもちょっと手がつけられなくて、やっと今になってメッセージを見ました〉
頭を抱えて、ため息をつく。
その瞬間。
送ったばかりのメッセージが既読になった。そして間髪をいれず、瑞己くんからの通話が入る。
さすがに今ここで避けるわけにもいかない。
わたしは、震える指で通話アイコンをタップした。
「も、もしもし? 瑞己くん……?」
少し間があった。
スピーカーから聞こえてきた声は、瑞己くんのものではなかった。
「そよ、すまんな。瑞己はぶっ倒れて、話せる状態じゃねえんだ」
「……登志也くん?」
「正解。真次郎もいるぞ」
「えっ、どういうこと? いや、その前に、瑞己くんが倒れたって、ど、どうして……?」
ぞっとして、体が震えた。口の中が干上がっていく。
まさか、あの予知夢が当たってしまったということ?
瑞己くんがガラスの人形みたいにバラバラに割れてしまう情景。ぐったりした瑞己くんを、登志也くんが抱えている場面。その後は真次郎くんも加わって、深刻な顔で瑞己くんの様子を見ていた。
目覚めた瞬間から怖くて怖くてたまらなかったあの夢が、やっぱり実現してしまったの?
「そよ! おい、聞いてるのか?」
真次郎くんが電話の向こうで苛立った声を上げている。
「ご、ごめん。聞いてる。あの、瑞己くんは……」
「体を冷やしたのが引き金で発症、発熱した。喉の腫れから見て、おそらくアデノウイルスによる風邪だな。登志が日課のランニングのために瑞己と落ち合って、まあ今日はこの雨だからジムで落ち合ったらしいが、とにかくそのときに瑞己が倒れたんで、うちのクリニックに担ぎ込んだんだ」
わたしはへたり込んだ。
「か、風邪?」
「ああ。プール熱とも呼ばれる風邪で、夏場に子供の患者が増える。瑞己は、カフェひよりの姉妹からうつされたんだろうな。あの二人も熱を出したらしいから」
「えっと、ほんとに、普通の風邪……?」
あの壊れてしまう夢は、このことだったの? 登志也くんが瑞己くんを抱えている様子も、発熱して倒れた瑞己くんを心配している場面だったってこと?
真次郎くんが冷静な声で言った。
「普通の風邪だ。しかし、高熱が出やすい型で、喉や目をひどくやられることもある。今、瑞己は薬が効いて症状が落ち着いて、ここで眠ってるがな。点滴も打ってやってるから、脱水症状の心配もない」
「そ、そっか」
「気管支や肺に炎症が及んでいる様子はないし、数日ですっきり治るだろう、というのが親父の診断だ」
真次郎くんのお父さんは内科医だ。わたしのかかりつけ医でもある。
登志也くんの声が割り込んできた。
「瑞己のやつ、放課後ずっと渡り廊下にいたらしい。今日は気温が低かったし、あそこは雨が降り込んでくるだろ? 肌寒い中、半袖で濡れ続けたせいで、体が冷えたんだ」
「やっぱり、待ってたんだ……」
登志也くんは事情をわかっているらしかった。ちょっとあきれたような、いくらか怒っているような口調で言った。
「そよのせいとは言わねえよ。妙な意地を張り続けた瑞己自身の責任だ。そよと話したいなら、教室でも家でも訪ねていきゃよかったんだ。そよが来るかどうかを試すようなやり方は、ずるいだろ」
わたしはかぶりを振った。ぶんぶんと、髪が弾むほど振ったけれど、音声通話の登志也くんにそれが伝わるわけもない。
涙交じりで震えそうになる声が情けない。それでも喉を振り絞って、ちゃんと言葉にする。
「違う。瑞己くんのせいじゃないよ。わたしが、どうしていいかわからなくて、黙って離れるしかできなくて、そのせいで瑞己くんを戸惑わせて、だから、だから……!」
そよ、と、わたしを呼ぶ登志也くんと真次郎くんの声が重なった。譲り合う気配があって、結局、真次郎くんの声がわたしに告げた。
「瑞己は悩んでるぞ。そよに避けられる理由の心当たりはないが、可能性は二つ考えられると言っていた。瑞己がうっとうしいことをしたか、そよが瑞己に関する予知夢を見たか」
「予知夢? 瑞己くんがそう言ったの?」
ふん、と真次郎くんが笑った。
「予知夢のほうで正解か。壊れものの予知夢というやつだな。瑞己が壊れる夢でも見たのか?」
「や、えっと、その……」
「予知夢なんてのは非科学的な話だが、俺だって悪夢にうなされたり、正夢に気づいて変な気分になったり、そういう経験くらいある。そよ、何があった? なぜ瑞己を突き放して苦しめるんだ?」
淡々として落ち着いた真次郎くんの声を聞くうちに、わたしはとうとう涙を抑えられなくなった。
「あの、あのねっ、夢を見たのが怖くて、どうすればいいかわからなくなって……!」
うん、と真次郎の静かなあいづち。聞いてるぞ、と登志也くんの冷静な声。
わたしは我慢するのをやめた。泣きながら、全部打ち明けた。
昔から、ひとつながりの同じ夢を見続けていること。一連の悲恋の夢に「運命の恋人たちの夢」と名づけていること。その夢の登場人物に瑞己くんが似ていると気づいてしまったこと。
春休みの頃から、壊れものの予知夢を見るようになったこと。夢のとおりにものを落としたり壊したりする、その場面に必ず瑞己くんが居合わせること。つまり、奇妙な夢に瑞己くんを巻き込んでしまっていること。
そして、決定的に恐ろしい、壊れものの予知夢を見たこと。瑞己くんがバラバラに壊れてしまう場面と、倒れた瑞己くんのそばで登志也くんと真次郎くんが深刻な顔をしている場面。その夢が怖くて怖くて、もうどうしようもなくなったこと。
「壊れものの予知夢は当たっちゃうの。だから、瑞己くんに何があったらどうしようって……これ以上巻き込んで、危害を与えてしまうくらいなら、離れたほうがいいんじゃないかって、思って……」
涙で声が詰まる。息が苦しい。胸が痛い。
結局、あの予知夢は実現してしまったんだ。夢で見た情景ほど恐ろしいことは起こらなかったけれど。
スピーカーから、ふわっと柔らかな笑い声が聞こえた。
登志也くんではない。真次郎くんでもない。聞き間違えようがない。
「み、瑞己くん!」
ふわっと、また笑った声。
「やっぱりそういうことだったんですね、そよ先輩」
夏風邪で喉が腫れているせいだろうか。瑞己くんの声は、少ししゃがれて、かすれている。
「話、聞いてたの? いつから?」
「電話の最初からです」
「え? 眠ってるって、さっき真次郎くんが……」
「嘘だったんです。ごめんなさい。僕がそよ先輩に電話できずにいたから、登志くんが代わりにかけてくれて、真くんが事情を説明してくれて、僕はそばでずっと聞いてました。あ、真くんちのクリニックで横になって点滴してもらってるのは本当です」
途中で瑞己くんの声が近くなった。スマホが瑞己くんの枕元に置かれたらしい。
わたしは何と言っていいかわからなかった。とにかく口をついて出てきたのは「ごめんなさい」だった。
「ごめんなさい、瑞己くん。何日もちゃんと返信しなくてごめんなさい。今日、寒い中で待たせてごめんなさい。風邪をひかせてしまって……」
「そよ先輩」
さえぎるように、瑞己くんがわたしを呼んだ。
「はい」
「全部わかったから、もういいですよ。大丈夫です。謝らないでください」
「……はい」
もともと優しい響きの瑞己くんの声は、横たわった姿勢のためか、ますます柔らかく聞こえる。喉が痛むはずなのに、丁寧にしゃべってくれている。胸にじゅわっと染み入るくらいに、その声は優しくて柔らかくて。
わたしは目を閉じた。目尻から涙があふれた。
瑞己くんの声がわたしの耳をそっとくすぐる。
「そよ先輩に話したいことがあります。壊れものの予知夢のことです。そよ先輩は、一つ、思い違いをしてますよ。僕、その謎が解けたんです。ガラス細工みたいに僕が壊れてしまったという夢で、謎解きが合ってるって確信しました」
「思い違い? 謎解きって?」
ちょっと前にも、瑞己くんが予知夢のことでわたしに何か話そうとしていたことがあった。部室で二人で話していたときのことだ。友恵と登志也くんが来たから、尻切れとんぼになっていたけれど。
話をしたい、と思った。
瑞己くんと話したい。話すべきこと、伝えるべきことを、ちゃんと全部、言葉にして届けたい。電話越しにじゃなくて、触れられる近さで、目を見て話したい。
逃げたり避けたり離れたりなんて、できるはずなかったんだ。
だって、こんなにもそばにいたいと思える人、ちょっと会わないだけで苦しくてたまらない相手なんて、瑞己くんのほかにいないのだから。
わたしは、どうしようもないくらい、瑞己くんのことが好きだから。
深呼吸を、一つ。
声に想いをのせる。
「瑞己くん」
「はい」
「今は、熱があるんだよね?」
「はい。眠ってるっていうのだけは嘘でしたけど、風邪で熱が出ているのは本当です」
罪悪感で胸がざらつく。でも、謝るのはもういいと言われたから、ぐずぐず繰り返さない。次の言葉を紡ぐ。
「会って話がしたい。だから、風邪が治ったら、会ってもらえませんか?」
ふわっと笑う気配がスマホから伝わってきた。
「僕もです。熱が下がって登校できるようになったら、連絡しますね」
「待ってる」
「もし、また僕に関わる予知夢を見ても、今度は避けないでくださいね」
「もう避けない。ちゃんと話すから」
「よろしくお願いします。じゃあ、また」
瑞己くんが言葉を切ると、少し遠くから真次郎くんの声が聞こえた。もう十分だろ、と告げる声だ。瑞己くんがうなずいたようで、真次郎くんが通話を代わった。
「一応、話がついたようだな」
「うん」
「とは言え、そよと瑞己はまだ、直接きちんと話したわけじゃない。今の話は、俺と登志を経由してのことだ。そのへん、きちんとしろよ」
「わかった」
真次郎くんは盛大にため息をついた。
「まったく、世話が焼ける」
横で登志也くんが噴き出した。
「とか言って、二人のことをめちゃくちゃ心配して、俺が止める間もなく、すごい勢いで世話を焼いたのは真次郎だろ」
「う、うるさい。登志こそ、瑞己に尋ねもせずに、そよにいきなり電話をかけたくせに」
「おうよ。そりゃあ心配したさ。でも、ま、そよと瑞己がちゃんと二人で話すってんなら、そのときは邪魔しねえよ」
「まあ、そうだな」
登志也くんも真次郎くんも、びっくりするほど優しい声をしていた。二人が「じゃあな」と口々に言って、通話が切れた。
へたり込んだ格好のままだったわたしは、もう一度、深呼吸をした。
会って話したい、と瑞己くんに告げた。瑞己くんはもちろん、登志也くんと真次郎くんも聞いている場面で。
声にのせたこの想いは、もう、瑞己くんに伝わってしまっているだろう。あの二人も察しているはず。
思い出したかのように、今になって、胸の鼓動が駆け足で高鳴り始めた。
でも、逃げ出したいなんて気持ちには、もうならないんだ。
「早く話したい」
胸の奥がきゅっと痛んで、甘くて苦くて切ない。
瑞己くんの風邪が早くよくなりますように。
***
瑞己くんと待ち合わせをすることになったのは、次の週の木曜日だった。
〈放課後に市民公園のベンチで。くすの木の影にある百葉箱のそばって、わかりますよね?〉
百葉箱というのは、温度計や湿度計が収められた木の箱だ。昔は、鳥の巣箱かリスの飼育小屋なのかな、と思っていた。
〈たぶんわかるよ。くすの木と、近くにはアガパンサスの花壇もあるよね? 背の高い青い花の花壇〉
〈そうです。あの花、きれいですよね! そこで待ち合わせで、いいですか?〉
〈了解。それじゃあ木曜日に〉
幸いなことに、約束をしたその日は朝から晴れていた。わたしは一日じゅう、そわそわと落ち着かなかった。
わたしが急いで待ち合わせ場所に向かったら、瑞己くんはすでにベンチに腰掛けて、本を手にしていた。
「ごめんね。待たせちゃった。進路指導のホームルームが、思ってた以上に長引いたの」
上ずりそうな声をなだめて告げれば、瑞己くんはこちらを向いて、にっこり笑った。
「平気です。そよ先輩が来てくれるってわかってるときの待ち合わせは、わくわくするので」
「わくわくなんだ」
わたしは瑞己くんの隣に腰を下ろした。
瑞己くんはリュックに本をしまいながら、少し小さな声になって言った。
「でも、すごくドキドキしてたのも本当で、図書館の本を読みながら待ってようと思ってたんですけど、全然ダメでした」
チラッと見えたタイトルは、学生演劇の入門書だ。わたしも前に図書館から借りて読んだことがある。
「演劇部の中心メンバーは明日、部室に集まって次の公演の話し合いをするよ。瑞己くんは、演目が決まってからの参加でいいのかな?」
「はい。今はまだ右も左もわからない上に、ひどい人見知りをしてしまうから。でも、もっと慣れてきたら、ちゃんと初めから力になりたいです」
「ありがとう。公演直前はきっと、あまりにギリギリで、人見知りしてる場合じゃないってことになるよ。喉の調子も、もう大丈夫そうだね」
「きつかったのは最初の二日だけでしたよ。でも、完全に熱が下がって丸二日は空けてから登校するようにって、真くんのお父さんに言われて。早く登校できるようになりたくてじりじりするなんて、ずいぶん久しぶりでした」
「高校での環境が瑞己くんに合ってるんだろうね。よかったね」
瑞己くんは柔らかく笑ってうなずいて、リュックから十五センチ四方くらいの箱を出した。
「そよ先輩、見てください。あのカップ、金継ぎで直したら、もとの姿よりもずっとよくなったんです」
箱の中から、ガーゼ地のタオルハンカチでしっかり包まれたものを取り出す。タオルハンカチをほどくと、青い陶器のカップが現れた。
「あ、きれい」
もともと素敵なカップだった。うわぐすりと窯の温度によって生まれた、絶妙なグラデーションの青。深みがあるようにも透き通っているようにも見える青の地には今、金とも銀ともつかない輝きのラインが入っている。初めからデザインされていた模様みたいに、見事に馴染んでいる。
「これが金継ぎです。割れたところをパテで継ぎ合わせて、その継ぎ目には金箔と銀箔と漆を混ぜたものをかぶせて、しっかり固めてあります。ここで使った漆は、漆器に使われているものと同じなんですよ」
「漆器と同じ? それなら、このカップ、また使えるんだね」
「使えます。僕、今のこのカップが好きですよ。うまくできてるって思いません?」
瑞己くんはちょっといたずらっぽい目をしてわたしに尋ねた。
「うまくできてる。すごいね」
「よかった。だから、前にも約束したとおり、この件はもうおしまいです。いいですよね?」
「うん、わかった」
「じゃあ、話を先に進めますよ」
「うん」
「壊れものの予知夢の謎が解けたって、僕、言ったでしょう? その件です。初めから話しますね」
瑞己くんは金継ぎの出来を確かめるように、カップを一度、宙にかざした。それから、カップをもとのとおりにタオルハンカチで包んで箱にしまいながら、話を切り出した。
「今座ってるこのベンチのところで、春休み、僕はそよ先輩を見かけたんです。市民バザーでカフェひよりが出店していた場所が、ここでした」
わたしは、その日のことを振り返ってみる。
くすの木の下、百葉箱のそばのベンチ。ここは図書館側の入り口から近い。わたしはその日、図書館帰りにバザーに寄った。公園に入ってまもなく、カフェひよりのかわいい看板と「季節のフルーツのジェラート」の文字を見つけたんだ。
「このあたりだったよね。何となくだけど、覚えてる」
「最初の壊れものの予知夢の場面は、ここで起こったことになりますよね?」
「うん。小さな女の子がジェラートを落とした。わたしも同じフレーバーのジェラートを買ってたから、自分のぶんを女の子にあげた。そしたら、楓子ちゃんが代わりのジェラートを持ってきてくれたんだ。瑞己くんが気づいて、作ってくれたんだよね?」
「はい。だから、そよ先輩も、違うフレーバーとはいえ、ジェラートを食べることができたでしょう?」
「そう。冷たくて甘くて、本当においしかった。桜のジェラートの底に、季節のフルーツのほうも入れてもらってたし」
瑞己くんはわたしを見て、まぶしそうに目を細めて笑って、話を続けた。
「次の予知夢は、図書館の閲覧室でペンを落としたことですよね。そよ先輩はなくしたと思ったけど、僕が拾って、修理もして、最終的にそよ先輩に返すことができました」
「その節はありがとう。ペンを渡してもらったのは、学校だったよね。印刷した台本を段ボール箱に入れて運んでたら、箱の底が抜けて紙をぶちまけて、瑞己くんが拾うのを手伝ってくれた」
「僕がちょうど持ってた紙袋をあげたんですよね。そのときにペンも返せたんです」
わかば公演の打ち上げでは、わたしが落としそうになったペットボトルを瑞己くんが拾ってくれた。
お気に入りの折り畳み傘が壊れていたときも、瑞己くんが預かって修理してくれた。
わたしのせいで割れてしまったカップも、瑞己くんの手できれいによみがえった。
一つずつ確認していって、瑞己くんはキッパリと言い切った。
「そよ先輩が見てしまう壊れものの予知夢は、壊れておしまいになることの予知じゃありません。全部、僕が直したり補ったりできた。あの夢の続きをつなぐようにして、現実では問題も解決できたし、僕はそよ先輩と話せるようになりました」
「だけど、それは瑞己くんをわたしの不運に巻き込んでるみたいで、心苦しいよ」
「僕は巻き込まれたいですよ。いや、その言い方は何か違うな。縁、という言葉を使いたいです。壊れものの予知夢は、僕にとって、そよ先輩との縁を結んでくれた吉夢ですから」
吉夢というのは、縁起のいい夢のことだ。壊れものの予知夢を見るようになってから、夢占いとか正夢とか、いろいろ調べてみたときに知った。
ドジで間が悪いわたしのフォローをさせてしまっているのに、瑞己くんはそれを縁起のいいことだと言ってくれる。
ありがたくて嬉しくて、でも申し訳なくて、わたしは鼻の奥がツンとしてきた。涙が湧いてきてしまいそうで、慌ててまばたきをする。
「わたしが思い違いをしてるって言ってたのは、そのこと? わたしが見ていたのは、壊れものの夢じゃなくて、壊れた先で瑞己くんが助けてくれる夢?」
「僕がそよ先輩の助けになれてたなら、嬉しいです。僕ばっかり助けてもらったんじゃ、釣り合いがとれませんから」
「でも、それじゃあ、この間の、瑞己くん自身が割れて壊れてしまう夢は? 熱が出たことの比喩? あれだけは、どういうことなのかわからなくて」
瑞己くんは急に、はにかんだように笑いだした。
「心当たり、ありますよ。僕、自分ではあれが何のことなのか、わかってるんです。ものすごく、何ていうか、クサい感じのこと言いますけど」
「うん」
「僕がガラスか陶器みたいに割れて砕けたんですよね? それの正体、僕の心、だと思います」
「心?」
「失恋のこと、ブロークンハートっていうでしょう? 渡り廊下で待ってた日、そよ先輩が来ないまま最終下校時刻の放送が鳴ったときの僕の心境は、まさにそれでした。心が砕け散るみたいに感じたんです」
「そ、そうだったんだ」
サラッと言われた単語に、ドキッとした。「失恋」って言った、よね?
瑞己くんは頬を掻いたり頭を掻いたりしながら、その言葉をくり返した。
「あの後、ジムで登志くんと落ち合ったときに『何て顔してるんだ。どうした?』って訊かれて、『失恋した』って答えて。そうこうするうちに熱が上がって倒れたんですけど。薬と点滴で状態が落ち着いてから改めて説明したら、登志くんからも真くんからも『バカ野郎』ってあきれられて」
「えっと、それは、あの電話のときのこと?」
「登志くんが電話をかける直前です。真くんが完全にお説教モードになって、『とにかく、そよと二人でちゃんと話せ。始まってもいない、始めようともしてないくせに、何が失恋だ』って。そしたらちょうど、そよ先輩からメッセージが来たので、そのまま登志くんが通話を始めてしまって」
瑞己くんは、頬や頭に触れていた手を、膝の上に下ろした。深く息を吸って吐くのがわかった。
いつの間にか、わたしは、体を瑞己くんのほうに向けて座っていた。
瑞己くんも同じように、体ごとわたしのほうを向いて、わたしの目をまっすぐに見て、言った。
「今回の予知夢も、それまでと同じです。確かに僕の想いは一度、壊れました。そよ先輩が僕を避けるなら仕方ないのかなって。でも、僕はどうしても、壊れたままにできません。あきらめたくないんです。僕はやっぱり今回も、壊れたものを直してしまいました」
「壊れたもの……」
瑞己くん自身の心。一度はわたしのせいで壊れてしまった、想い。
ささやくような声で、瑞己くんは告げた。
「そよ先輩のことが好きです」
赤くなった頬。キラキラした真剣な目。
見つめられて、わたしは、息が苦しいくらい心臓がドキドキしている。
でも、わたしの口をついて出たのは、あいまいで情けない本音だった。
「どうしてわたしなのかな? 取り柄ってほどの取り柄もないし、性格もあんまりよくないんだよ。今だって、瑞己くんの言葉を聞いても、素直に受け止められなくて、『どうして』なんて訊いてしまう。嫌な人だよね」
瑞己くんは少し、どこかが疼いて痛むみたいに、眉をひそめた。
「どうしてそよ先輩なのかって、その理由は僕にもわかりません。だけど、そよ先輩だけが特別なんです。一緒にいると、安心できる。でもドキドキしてしまう。これって、僕がそよ先輩を好きだってことですよね?」
わからないよ。わたしには答えられない。
だって、わたしは瑞己くんではないんだから。瑞己くんが感じている気持ちをそのまま理解することなんて、できない。
そう。理屈だと、そういうことになる。
気持ちというのは主観的なもので、主観というのは一人ひとりの中にあるもので、スポーツのルールみたいに客観的に明確なものとは言えなくて。
だけど、不思議だよね。
わたしと瑞己くんは、まったく違った一人と一人なのに。
それなのに、どうしてこんなに、言葉にして表したい気持ちが似ているんだろう?
「一緒にいると安心できて、でもドキドキする、か。おもしろいよね。自分のことなのに、自分で全然、意味がわからない。安心とドキドキって、真逆みたいなのにね」
「そよ先輩も、同じなんですか?」
おそるおそるといった様子で、瑞己くんがわたしに問う。
「同じ気持ちなのかどうか証明する方法なんて、どこにもないよ。でも、同じだったらいいなって思う。前からそう思ってた」
「ほ、本当ですか?」
わたしはうなずいた。
「瑞己くんのことが好きです」
キラキラした目を大きく見開いて、瑞己くんが息を呑んだ。
「本当に、僕でいいんですか? 僕は、人との距離の取り方がわかってなくて、うっとうしいかもしれないですよ」
「大丈夫。わたし、今回のことで懲りたから。何も言わずに瑞己くんのことを避けてる間、本当に苦しかった。だから、次からちゃんと言う。わたしはこう思ってるとか、瑞己くんにこうしてほしいとか、ちゃんと言うようにする」
瑞己くんの顔に笑みが戻った。
「よかった。ダメなときはダメって、ちゃんと叱ってくださいね」
「うん。瑞己くんもだよ? 嫌なことや困ったことがあったら、教えて。わたしの力じゃ何の解決もできないかもしれないけど、話を聞くことはできるから」
瑞己くんはうなずいた。それから、わたしが見る夢のことへ、話を戻した。
「そよ先輩、前に、運命の恋人たちの夢の続きが僕なんじゃないかって言ってましたよね?」
「ああ、うん。瑞己くんが、わたしのあの夢に出てくる人に似てるから、何となく」
「もし本当に僕がその夢と関わりがあるのなら、そよ先輩、心配しないでください。僕はそよ先輩の見る夢の続きを、直したり補ったりできるんです。僕なら、運命だって、壊れたままにはしない。運命の恋人たちの夢の続きは、悲恋なんかじゃありません」
瑞己くんがおずおずとわたしのほうに手を差しのべた。
きれいな形をした長い指。器用で優しい手。
その手が未来へ導いてくれる。儚く壊れる恋を運命づけられた、夢の中の彼らとは違う未来へ。
わたしは、瑞己くんの手を取った。
「ありがとう。よろしくね」
瑞己くんは、ふわりとわたしの手を握って、それから、ギュッと握り直した。
優しくて力強いその手の熱は、なぜだか、とても懐かしいような気がした。
***
七月のテストも終わって、明日から夏休み。
演劇部の部室では、八月の公演に向けて稽古が本格化したところだ。持ち寄った五台の扇風機をガンガンに回してはいるものの、部室の熱気はすさまじい。
悩みに悩んだ演目だったけれど、結局、去年の八月公演や文化祭と同じ作戦で行くことになった。つまり、おとぎ話をベースにみんなでアイディアを出し合ってアレンジして、全体としてコメディ路線で行きつつも、最後はほろっと来る物語にする。
ちなみに、ベースとなるおとぎ話は『桃太郎』だ。去年の『ガリヴァー旅行記』よりもラブコメ色が強い。
そう、ラブコメなんだ。鬼の姫君が桃太郎に一目惚れしたりとか、桃太郎も鬼の姫君の正体を知らないまま心を惹かれてしまったりとか、登場人物たちの事情はけっこう複雑で、いっそ悲劇的なんだけど。
それなのに、演劇部のみんなにかかると、ひたすらドタバタなコメディになっていくから不思議だ。アイディア出しの話し合いのとき、わたしは議事録を取りながら、ずっと笑い転げていた。
「敵対関係にある家に生まれた男女の許されない恋物語といったら、やっぱり『ロミオとジュリエット』が有名だけど、あの作品も案外、途中はラブコメっぽい雰囲気だもんね。家のしきたりを破ったり出し抜いたりする若者たちの元気な恋って感じで」
わたしは衣装の型紙を作る手を動かしながら、瑞己くんに言った。
瑞己くんは小道具の刀の柄に平組紐を巻く手を止めた。
「知りませんでした。『ロミオとジュリエット』って、ラブコメ要素があるんですね」
「二人とも死んでしまうラストが有名だもんね」
「はい。シェイクスピア悲劇の代表作の一つですし」
「でも、ロミジュリは四大悲劇とは違って、明るい場面もあるんだよ。ロミオはちょっとチャラいし、ジュリエットは恋に恋するかわいい乙女だし、そのへんにいそうな雰囲気っていうか、親近感が持てるんだよね。だからこそ、ラストの悲劇が際立つんだけど」
「なるほど。僕もシェイクスピアの戯曲をちゃんと読んでみたいです。経験値が少なすぎて、このままじゃ話し合いにもついていけそうにない。そよ先輩の足を引っ張らないように、ちょっとでも追いつきたいんです」
瑞己くんが殊勝なことを言うから、わたしは勢いづいてしまった。
「ロミジュリは毎年のように舞台公演があるんだけど、まずは子供向けの漫画版がおすすめかな。絵がかわいくて、すごくよくまとまってるんだ。『リチャード三世』はね、わたしの大好きな劇団がアレンジしたバージョンがあるんだ。わたしはあのアレンジ版がめちゃくちゃ好きで!」
「どんな感じなんですか?」
「原作では徹底的な悪人として描かれる主人公リチャードを、善人の白と悪人の黒に分けて、二人一役で演じてるの。正しいように見える白リチャードがかえって悲劇を引き寄せて、黒リチャードがむしろ優しく見える瞬間があってね、あの価値観の反転がすごいんだ!」
ついつい熱く語ってしまうわたしに、瑞己くんが柔らかく微笑んだ。
「おもしろそうですね」
「ロミジュリの漫画もリチャードの円盤も持ってるよ。貸してあげようか?」
「じゃあ、漫画のほう、お借りします。『リチャード三世』は、一緒に見ませんか? 部室のパソコン、DVDの再生もできますよね」
「あ、いいね。夏休みのうちに、一緒に見よう」
「はい」
と、そのときだ。
立って動いてわーわー言いながら台本の読み合わせをしていた役者チームの登志也くんが、瑞己くんを手招きした。
「おい、瑞己。ちょっとこっちに来い」
「えっと、何?」
「大した仕事じゃないんだが、頼む。その壁際の椅子に座ってみてくれ」
瑞己くんは作りかけの刀を置いて、登志也くんの指示に従った。壁にぴったり背もたれをくっつけた椅子に、おとなしく腰掛ける。
わたしはわたしで、友恵に呼ばれて役者チームの輪に入った。
「そよちゃんにも協力してほしくてさ。ここ、ト書きがないんだけど、リアクションをどうしようかなって話になってね。でも、意見がいろいろ出て、まとまらなくて」
「どの場面?」
わたしは、友恵が指差すところに目を落とした。
おかげでわたしは隙だらけだった。ただでさえ、勘が鋭いわけでもないし運動神経が特別にいいわけでもないのに。
友恵の手が肩に触れた、と思ったら、予想外の方向へ突き飛ばされた。
「ひゃっ?」
情けない悲鳴を上げながら、短い距離をダダッと走る。
倒れ込みそうな先にいるのは……瑞己くん?
ぶつかる!
……と思ったけれど、ギリギリのところで、わたしは耐えた。椅子に腰掛けた瑞己くんの顔の両側に、左右の手をついた。おかげで、転びながら抱き着くのは避けることができた。
けれど。
これは、壁ドンというやつではないでしょうか?
お互いの前髪が触れ合いそうな距離。近い。とにかく近い。瑞己くんの長いまつげが一本一本数えられそうなくらい近い。
瑞己くんはまばたきもできずに固まっている。たぶん息もしていない。わたしも同じだ。まばたきも息もできないし、どうやったら体が動くのかがわからない。
ただ、すごい勢いで顔が熱くなっていく。鼓動がドキドキと爆走している。
そのまま数秒。
ぷっ、と噴き出したのは、たぶん真次郎くんだった。それを皮切りに、みんなが笑いだす。張り詰めていた空気がガラリと色合いを変えた。
おかげでわたしも動き方を思い出した。
「ちょ、ちょっと! 友恵っ!」
わたしは瑞己くんから跳び離れて、友恵に怒鳴った。
でも、友恵は全然悪びれることもなく、けらけら笑っている。
「ほらねー。うぶな二人だと、こういうリアクションになるんだってば」
「えええ演技プランの材料にしないで!」
「だって、演劇部で付き合ってるの、そよちゃんと相馬だけだもん。付き合ってるっていうわりには、相変わらずピュアピュアなままだけど」
「ま、まだ一ヶ月ちょっとだし!」
わたしはぷいっと友恵から顔を背けた。
代わりに視界に入ってきたのは、壁際の椅子の上にいるかわいい生き物だった。瑞己くんは、真っ赤になった顔の下半分を両手で覆って、両足を椅子の上に引き上げて小さくなって、まだ固まっている。
「瑞己くん? ごめんね。大丈夫?」
尋ねてみれば、口元を隠したままうなずくけれど、全然大丈夫そうに見えない。
やばい。かわいい。小動物みたい。
でも、こんなにかわいい瑞己くんを、ほかの誰にも見せたくない。
わたしは、瑞己くんをいじろうとしている登志也くんと真次郎くんを押しのけた。
「こら、二人とも、いじめないで。瑞己くんが困ってるでしょ。瑞己くん、ちょっと資料を捜しに図書室に行こうか」
有無を言わせず、わたしは瑞己くんの手を取った。軽く引っ張ると、瑞己くんは素直に立ち上がってついてくる。
登志也くんを筆頭に、演劇部のみんながニヤニヤしながら冷やかしてきた。それも気にしないふりをして、わたしは瑞己くんの手を引いて部室を出た。
*
四階の廊下は、放課後になると、あまりひとけがない。演劇部の誰かが追いかけてくる気配もなかった。
七月中旬の放課後。日は陰りつつあるけれど、やっぱり暑い。開け放った窓から吹き込んでくる風は、夏のにおいがしている。
されるがままだった瑞己くんが、わたしの手をそっと握り返した。
「そよ先輩、あの……僕、情けなくてすみません」
「情けなくないよ。さっきのは、びっくりしちゃっても仕方ない」
「でも」
わたしは振り向いて、笑ってみせた。
「瑞己くんがかわいかったから、独り占めしたくなっただけ」
目を真ん丸にした瑞己くんは、まだ顔じゅうが真っ赤だ。つないだ手も熱い。
ああもう、かわいいな。
しっかり者で頭がよくて手先が器用で優しくて一生懸命。思わず二度見する人もいるくらい、きれいな顔をしているしスタイルもいい。
カッコいい男の子のはず、なんだけど。
胸がきゅんとするくらい、瑞己くんはかわいい。
実はわたし、近頃、気づいたことがある。
何気なくたくさん使いがちな「かわいい」っていう言葉なんだけど、もしかして、これは「いとしい」っていう意味なのかな、と。
瑞己くんのことを「かわいい」と言ってしまうのは、「いとしい」ということなんじゃないかな、と。
まだちょっと確証が持てないから、瑞己くんに伝えたことはないけれど。
ゆっくり時間をかけて、「かわいい」と「いとしい」の意味を考えていけたらいいなと思っている。
瑞己くんが謎解きをしてくれて以来、壊れものの予知夢を見なくなった。運命の恋人たちの夢も、このところ見ていない。
まるで役割を終えたかのように、不思議な夢たちは、わたしの生活から消えてしまった。
「そよ先輩、お願いがあるんですけど」
「どうしたの?」
「顔のほてりが引くまで、図書室に行くのは、ちょっと待ってください」
わたしはうなずいた。
「もちろんいいよ。ゆっくり回り道して行こう」
あせらなくていいと思うんだ。瑞己くんも、わたしも。
一緒にいると、ドキドキする。でも、この上なく安心する。ずっとこの気持ちが続いていきますように。
わたしがそっと手を引き寄せると、瑞己くんは隣に並んでくれた。少し見上げて笑ってみせたら、瑞己くんもおずおずと微笑んだ。
儚く壊れる夢に導かれて、君と出会った。
君が見つけてくれた答えは、二人で一緒に進んでいける未来への可能性。
わたしは君の隣を、今、確かに歩いている。
【fin.】