大声でしゃべり続ける女の子たちが校舎の角を曲がって見えなくなってから、相馬くんはようやく、おそるおそる立ち上がった。体が震えているのが見て取れる。足下に置いたリュックが倒れたままなのも気づいていない様子だ。
 わたしは相馬くんの顔をのぞき込んだ。血の気が引いた顔は、天気の悪さのせいもあって真っ青だ。

「大丈夫ですか? ひどい陰口でしたね。あんな言い方はないと思う」
「……でも、僕に関しては事実なんで。嫌なこと聞かせちゃって、すみません……」
「謝らなくていいんですよ。もしかして、今の子たちがいたから、二年の靴箱のほうに逃げてきてたんですか?」

 一年生と二年生だと、教室のある棟が別々で、渡り廊下を使わないといけない。靴箱もそれぞれの教室に近いあたりに置かれているから、相馬くんがわたしと同じ扉を使うことは、本来はないはずなんだ。
 相馬くんは、せわしなく視線をさまよわせながら言った。

「僕、これでも、四月の初めよりマシになってきたんです。だけど、ダメなときはダメなんです。特にああいう感じの人は苦手で、話しかけられても、どうしていいかわからなくて、逃げるのが癖になってて……」
「ああいう感じって? 誰々くんがカッコいいとかって声高にしゃべったり、イケメンランキングをつけたりするような、女子グループのノリのこと?」

 同じ女子のわたしでもちょっと引いちゃうくらい、すごい勢いで「イケメン品評会」を開いている女子グループもある。ああいう話をするときって、言葉がとがりがちだなっていうふうにも思う。
 ひょっとしたら、気になる人のことを話している照れくささを隠すために、わざと勢いのいいしゃべり方をしたり、ラフなスラングを使ったりしてしまうのかもしれない。
 でも、はたから聞いていると、耳ざわりのいい言葉ではないことも多い。だから、相馬くんがおびえてしまう気持ちもよくわかる。

 相馬くんは震えながら、自分で自分の体を抱きしめた。
「興味や好意を持ってもらえるって、嬉しいことのはずなのに、うまく受け取れない自分が嫌になります。でも僕は、どうしても……体が動かなくなるんです。冷や汗が出て、息がうまくできなくなって、頭も働かなくなる……」
「相馬くん? 今、具合が悪いんじゃない? そうだ、二年の靴箱のところにベンチがあるんだ。座ろう?」

 ベンチだか花台だか知らないけれど、座れるものがあるのは事実だ。わたしは二人ぶんのリュックを持って、相馬くんの腕を引いて、ペンキのはげたベンチに導いた。
 腰を下ろした相馬くんは、胃が痛むみたいで、体を丸めている。隣に腰掛けたわたしは、とん、とん、とリズムをつけて、相馬くんの背中をゆっくり優しく叩いた。

 市民ミュージカルで年頃もバックグラウンドもさまざまな人たちと過ごしていたことを思い出す。
 座組の中に毎年必ずいたのが、うまく学校に通えない子と、その親御さん。不登校で八方ふさがりになっている現状を変えたくて、演劇に挑戦していた。とても勇気のいる挑戦だったはずだ。
 相馬くんも、きっとそう。前に進みたいのに、体がついていかない。今のままでいいとは思っていない。でも、どうしていいかわからない。心をむしばむ毒を振り払えない。

「わたしでよければ、話、聞きますよ」

 ガラス張りの玄関の向こうで、雨はまだ降り続いている。西の空は明るくなりつつあるけれど、雨宿りを口実に相馬くんと話をする時間は、もう少しありそうだ。
 相馬くんは縮こまってうつむいたまま、苦しそうに吐き出した。

「きっかけは、大したことない理由なんです。小五の頃、クラスのリーダー格の女子に告白されて、断ったら、いじめられるようになった。特に女子からのいじめがきつかった。無視と陰口。ときどき、ものがなくなった。でも、それだけのことなんです。なのに、ずっと尾を引いて……」

 大したことない理由。それだけのこと。
 ちっぽけな話であるかのような言葉を選んでいるけれど、そんなはずはない。

「小学生の頃からだったんですね。ずっと苦しんできたんだ」
「体がおかしくなるのがつらい。心因性で、血圧が急に下がるんです。本当に立っていられない。仮病じゃないんです」
「うん。仮病じゃないことは、顔色を見たらわかります。それに、ずっと震えてるでしょ」

 わたしは相変わらず、相馬くんの背中をそっと叩き続けている。この手に伝わってくる震えは、本物だ。相馬くんは本当に、体の自由が利かなくなるくらいに、心に苦しみを抱えている。
 相馬くんは、いやいやをするみたいに頭を振った。

「高校に上がってからは、朝、起きれてます。教室にもいられます。男子とは話せてます。でも、調子いいなと思って油断してると、すぐこんなふうになる。自分が情けないです……」
「情けなくないよ。小学生の頃の相馬くんは、いじめを受けて、ずいぶんショックを受けたんでしょう。リーダー格の子に告白されるくらいだから、相馬くんはクラスで一目置かれてたはずなのに、それがいきなり手のひらを返されて、混乱したんですよね?」

 相馬くんは、こくりと深くうなずいた。
「僕、あの一件の後、小学校での記憶がほとんどないんです。何も考えないようにして時間をやり過ごしていたんだと思います。放課後児童クラブで登志くんや真くんがかまってくれていたことは、ちょっと思い出せるんですけど」

 ああ、なるほど。あの二人が相馬くんのことを過保護なくらい大事にしているのは、その頃からなんだ。
 無理もない。
 知り合ったばかりのわたしでも、相馬くんをこのまま苦しませておくわけにはいかない、という気持ちになる。何か力になりたいと思ってしまう。

「今まで、ずっとつらかったでしょう?」
「でも、どうしようもなかったんです。小学校の頃の、僕が無視されたり陰口を言われたりする原因になった告白の件は、今考えると、本当に子供っぽい話で……」

 相馬くんは、ぽつりぽつりと語った。
 あの頃の相馬くんには、相手の女子に言われた「付き合う」ということの意味がわからなかったらしい。「付き合う」とはどういうことかを尋ねたら、まず「ほかの女子としゃべらないこと、目を合わせないこと」を求められた。
 その子が許した人としか仲良くしてはならない。どこへ行くにも何をするにも必ず、その子と一緒でなければならない。その子が求めたならば、手をつないでエスコートしなければならない。
 ああだこうだと言われれば言われるほどに、「付き合う」の意味がわからなくなっていった。
 好きな相手を自分の都合がいいように操ることが「付き合う」ならば、相馬くんにとって窮屈なだけだ。

「そもそも、好きという気持ちも、よくわかりませんでした。相手の子とは同じクラスになったばかりで、ほとんど話したこともなかったんです。告白されても、僕の何を知っていて、どこが好きなのか、実感できなかった」

 わたしには、その答えはわかってしまう。ため息交じりに言った。
「顔、でしょ。相手の子が相馬くんを好きになった理由。それに、勉強もよくできたんでしょう? 憧れの対象になるには十分なんですよ」

「……そんなこと言われても、わからなかったんです。僕の顔? そんなの、別に……」
「相手の女の子も、ただ幼すぎたんでしょうね。付き合うって、束縛することじゃないはずなのに。しかも、振られた腹いせにひどいことをするなんて」
「昔のことなんです。相手の子の顔も忘れた。なのに、どうして……? いつまで引きずるんだろう? どうして体までおかしくなるんだろう?」

 わたしはあえて明るい声をつくって言った。
「体の自由が利かなくなるってことは、自律神経のトラブルですよね。そういうケースはあせっちゃダメだって、真次郎くんが前に言ってました。気にしすぎなくて大丈夫。だって、わたしとはこうして話せるでしょう? 話せる相手が少しずつ増えていけば、それでいいんじゃない?」

 相馬くんがゆっくりと顔を上げた。わたしは、相馬くんの背中に添えていた手を引いた。うっすらと、相馬くんの目に、涙の膜が盛り上がっている。

「……そよ先輩とは不思議なくらい、最初からちゃんと話せました。こんな、震えてばっかりですけど、僕なりに、ちゃんと話せてるんです」
「うん、話せてるよ。わたしは相馬くんの今の話を聞いて、一生懸命だな、すごくいい子だなって、改めて思いました」

 すごくいい子、という言い方をしたのはわざとだ。一歳しかない年の差だけど、もっとうんと大人みたいなふりをしたら、相馬くんの心の負担が減るかもしれないな、と思って。
 それに、幼い子供を相手にするつもりでいれば、わたし自身、ドキドキしてしまわずにすむ。
 女子から好意を寄せられるという場面におびえてしまう相馬くんには、胸の高鳴りを悟られたくない。

 相馬くんは、ほんの少し微笑んだ。
「そよ先輩は優しいですね」
 ささやく声の響きが、何だか妙にくすぐったい。
 というのも、相馬くんが今日いきなりわたしの名前を呼ぶようになったせいだ。しかも、耳慣れない呼び方で。

「ねえ、相馬くん。少しだけ気になってたんだけど」
「はい」
「そよ先輩って呼び方されるのは初めてで、わたし、ちょっとびっくりしちゃったんですよね」

 わたしがそこまで言った途端、相馬くんは口元を手で覆って、声にならない声で、はくはくと何事かを叫んだ。
 ああ、これはつまり、無意識だったんだ。
 わたしは先回りして言ってみた。

「登志也くんや真次郎くんがわたしのことを『そよ』って呼ぶから、つられちゃった?」

 相馬くんの色白な肌が、かわいそうなくらい真っ赤になっている。顔だけじゃなく、首筋までもだ。まあ、でも、血の気が引いているよりは断然いいのかな。

「す、すみませんっ、つい、あの……」

 相馬くんの目が泳ぐ。きれいな顔の下半分を隠してしまう手は、指が長くて形がいい。
 その手の形、やっぱり、前にも見たことがある気がする。ずっと前から見知っている気がする。
 もしかしたら、あの夢の中の、誰かの手に似ているのかもしれない。

「謝らなくていいよ。嫌なわけじゃないから」
「や、で、でも……」
「それじゃ、わたしも、瑞己くんって呼んでいいですか?」
「は、はい。どんな呼び方でも、全然……あと、ですます調じゃなくていいんで……」
「わかった。じゃあ、そういうことで手を打とう。もう謝るのはなしだからね」

 相馬くん……じゃなくて、瑞己くんは、真っ赤な顔をしたまま、素直にうなずいた。

   *

 ほどなくして、雨が上がった。
 瑞己くんも立てるようになっていた。
 でも、まだ心配だったから、わたしは瑞己くんと途中まで一緒に帰ることにした。ぽつぽつと話しながら、お寺のそばの道を通って、市民公園のところで別れた。そして、それぞれの家路に就いた。

***