五月半ば。
 昼過ぎから雨が降りだしたその日、わたしは胸にモヤモヤを抱えていた。
 またあの予知夢を見たのを、何となく覚えている。でも、相変わらず、わたしが何を壊したり落としたりしてしまうのか、それを思い出せない。
 結局、モヤモヤしながらも無事に放課後を迎えてしまった。

 部室のパソコンで少し作業をしてから、ひとけの少ない生徒玄関のほうへ向かう。帰宅部はもう帰っているだろうし、ガッツリ系の部活はまだ練習の真っ最中という、微妙な時間帯。
 靴に履き替えて、開けっ放しの玄関扉をくぐる。
 雨はずっと降っていたらしい。すっかり気温が落ちている。ちょっと肌寒いくらいだ。

 わたしはリュックから折り畳み傘を取り出して、差そうとした。
「え? 何これ?」
 骨が一本、折れてしまっている。

 一応差してみたけれど、折れた骨のところがぷらんと垂れ下がって、雨を防げる範囲はずいぶんせまい。
 いつの間に壊れていたんだろう?

「お気に入りなのに……」
 青を中心にしたステンドグラス風の模様で、大叔母にもらったペンともよく似たデザインで、かわいいんだ。
 わたしは傘を畳んだ。気分が一気に沈んで、歩を踏み出すのもおっくうになってしまった。
 はあ、と、ため息をついたときだった。

「あの……そよ先輩?」

 遠慮がちに声を掛けられた。
 耳ざわりのふわっとした、まだ少し細い感じのする、男の子の声。
 ……今、わたしのこと、「そよ先輩」って呼んだ?

 わたしは振り向いた。
「相馬くん」
 会釈をした相馬くんは、扉をくぐってわたしの隣に並んだ。
「そよ先輩、傘、どうかしたんですか?」

 待って、本当に「そよ先輩」って呼んでる……ちょっと待ってよ。この間の打ち上げで、ずいぶんスムーズに会話できるようにはなったけれど、名前を呼ばれた覚えはないよ?
 わたしは動揺しながらも、何でもないふりをして相馬くんに答えた。

「この傘ね、いつの間にか骨が折れてたんです。お気に入りだから、悲しくなっちゃって」
「ひょっとして、またあの予知夢も見ました?」
「見ました。だから、きっとまた何か壊れちゃうんだなってわかっていて、朝から何となく嫌な気分だったの。そして結局、こうなんだから」

 わたしは相馬くんのほうに傘を突き出して、折れたところを見せた。
 相馬くんは目をしばたたいた。その視線がわたしの顔と傘を行き来する。

「ちょっと、これ、開いてみていいですか?」
「どうぞ」

 相馬くんは、わたしの傘を手に取ると、丁寧な仕草でそれを開いた。ぷらんと折れたところに、長い指で触れる。
 それから、相馬くんはわたしににこりと笑ってみせた。

「折り畳みの機構に関係ない箇所だから、修理できますよ」
「えっ? 直るの?」
「折れたところに添え木をするような感じで、傘の骨に取りつけて補強するパーツが売ってるんです。それを使ったら、まっすぐに戻りますよ」
「そうなんだ。そのパーツをつけるの、わたしにもできるかな? あ、それって、どこに売ってますか?」

 相馬くんは答えに迷うように、少しだけ沈黙して、そして言った。

「僕が預かって直してきましょうか?」
「でも、それって相馬くんの負担にならない?」
「いえ、全然。手先を使う作業は好きだから、むしろ気晴らしになります。これくらいなら、勉強の合間に、すぐできますから」
「そう? わたし、今日はあまりお金も持ってなくて、パーツ代も立て替えてもらうことになるけど、本当にいいんですか?」

 相馬くんはうなずいた。と思うと、目を伏せがちにして、早口で言い募った。

「もちろん、お金のことも全然大丈夫です。き、今日はあと二、三十分もすれば雨がやむみたいなので、少し待ったら、傘がなくても帰れるはずです。僕はもともと傘を持ってきてなくて……そよ先輩、迷惑じゃなかったら、一緒に待ちませんか?」

 あと二、三十分。
 相馬くんと二人で、雨宿りをする。
 傘が壊れていたおかげで。

「いいですよ。雨がやむの、待ちましょう」
 相馬くんは、自分が言い出しっぺなのに、びっくりしたように目を丸くした。
「あ、ありがとう、ございます……」

 何だかおもしろくて、わたしは少し笑ってしまった。
「ありがとうはわたしの台詞ですよ。傘、よろしくお願いします。お礼したいから、何がいいか考えておいてください」
「お礼、ですか?」
「高いものじゃなければ。たとえばケーキとか、おごってあげます」

 相馬くんがパッと顔を輝かせた。そんなに甘いものが好きなのかな?
「次、約束して、会ってもらえるんですか?」

 そんな言い方をされたら、勘違いしそうになるよ。わたしと会って話すこと、それ自体を望んでいるみたいに聞こえてしまう。
 わたしは冷静なふうを装って言った。

「演劇部の活動の話もしておきたいし、時間つくってくださいね。去年の公演の写真やパンフレットなんかも見せるから」
「はい。楽しみです!」

 子犬だったら、ぶんぶんと尻尾を振っていると思う。初めて会ったときは人におびえて震えていたけれど、この間、ちょっとだけ懐いてくれた子犬。
 相馬くんって、本当にかわいいな。顔立ちが整っていて、スタイルもよくて、カッコいいはずなのに、言動が相変わらず子犬だ。

 と思った次の瞬間。
 相馬くんはビクリと体を震わせると、わたしの右側にサッと回り込んで、膝を抱えて縮こまってしまった。

「そ、相馬くん? どうしたの?」

 質問してみたけれど、答えはすぐにわかった。
 女の子たちの声が聞こえてきたんだ。
 わたしの左側、鉢植えのバラが咲き乱れているところを挟んで十メートルくらい向こうは、一年生の靴箱があるエリアだ。そちらの扉から傘を差して出てきた女の子たちが三人、にぎやかにしゃべっている。

「えー、剣道部の広木先輩と大沢先輩も部活命ってタイプなの? それじゃあ、四組の坂本くんは?」
「あいつもダメ。同中だったから知ってる。片想いしてる相手が別の学校にいるとかで、誰がコクってもあっさり振るんだって」
「この学校の男子、顔がいい人に限って、堅物と変人が多すぎじゃない? うちのクラスの相馬もさぁ、あの態度はないよね」
「ないねー」
「はーい、同中情報。中一のときはすでにあんなんだったんだよ。もっとひどかったレベル。意味わかんなくない?」
「女嫌いっていうか女恐怖症だよね、あれ。え、その代わりに男が好きとか?」
「どうなんだろ? あー、でも五条登志也先輩や荒牧真次郎先輩にベッタリなんだっけ。怪しー」
「てか、何でフルネーム呼び?」
「カッコいい人は、名前を口に出すだけで幸せになる気がして」
「あ、わかるー! 桜井忠先生って、一日じゅう呼んでたい!」
「桜井先生、麗しいよねー! あの顔と声で『源氏物語』教えるとか、説得力えぐいし」
「でも桜井先生もさ、相馬のこと特別扱いしてたよね」
「相馬、ちょくちょく倒れすぎだよね。かまってちゃんってやつ?」
「病弱設定? 相馬、すごい白いし、無駄に似合うのが腹立つわー」

 しとしと降る雨も三つ並んだビニール傘も、にぎやかなおしゃべりをさえぎることはなかった。三人がずいぶん離れていってしまうまで、きゃらきゃらと笑う声は、わたしと相馬くんのところまで届き続けていた。

 わたしは言葉を失って立ち尽くしてしまった。
 相馬くんを連れてその場を離れればよかったと、後になって気づいた。

***