そして出会えた君と、儚く壊れる夢の続きを。

 おびえて震える子犬のようだと思った。
 おどかしちゃいけない。
 怖がらせちゃいけない。

 でも、そっと近寄ってみたい。

 ままならない自分を叱咤しながら、
 一生懸命に前を向こうとしている君が、
 とてもまぶしい。

 もっと話をしてみたい。

***
 ゴールデンウィーク直前の土曜日。
 我らが演劇部のわかば本編公演が市民ホールで上演された。
 ホールはお客さんで満席。立ち見も出たみたい。

 反響も上々だった。
 万雷の拍手というものを久しぶりに体感した。「うちの町の子たちは頑張ってるねぇ」みたいな、お義理の拍手ではなかったんだ。市民ミュージカルで知り合った大学生からも「大学演劇のコンクールで健闘できるレベルだよ!」と言ってもらえた。
 アンケートでは「脚本がよかった」という、ありがたい声をいっぱいいただいた。脚本担当としてクレジットされているのはわたしだから、わたしの名前も挙げていただいていたんだけど。

「何だか後ろめたいな。わたしひとりの力じゃないんだもん」

 部室で一人、わたしはつい声を上げてしまった。
 裏方のわたしは、大道具と一緒に顧問の先生の車に積まれて、一足先に部室に戻ってきたところだ。片づけられるものは片づけてしまった。ほかの部員が戻るのを待ちながらアンケート用紙をパラパラしてみたら、脚本を誉める文章が目に入ってきたというわけ。

 でも、買いかぶりなんだよね。
 わたしがいったん台本を仕上げた後も、結局は部員一同、本番ギリギリまで意見を出し合って演出に手を加え続けた。台詞をごっそり変えたところだってある。全員の台本が書き込みだらけになった。
 あんなふうに、台本がわたしひとりの手を離れて座組全員のものになっていくと、わたしはほっとする。

 最初にみんなの前に台本を出すときがいちばん恥ずかしいし、怖いんだ。わたしひとりが自分の中身を見せることになるから。
 その後、ほかのみんなもどんどん自分の中身をさらけ出しながら、演技をしたり台本に手を加えたりしていく。そうするうちに、恥ずかしさも怖さも消えてしまう。

「今回は特に、最初がきつかったなぁ」

 しみじみとつぶやく。
 何せ、いちばん初めに見せたのが、台本じゃなくて小説だったんだから。わたし、小説は一本しか書いた経験がない。その唯一の小説の一部を見せたわけで。
 部員一同の返事を待つ間の気まずさと居たたまれなさを、まざまざと思い返すことができる。

「終わりよければすべてよし!」

 わたしは声に出して宣言した。思い返すのも、もうやめよう。
 紆余曲折あったけれど、わかば公演は大成功だったんだ。
 ほどなくして、部員がぞろぞろと部室に戻ってきた。車で運びきれなかった小道具や工具なんかをそれぞれ抱えている。「お疲れー」と言いながら部室に入ってきては、手にしたものをパパッと棚にしまっていく。
 まだ帰ってきていないメンバーは買い出し班だ。これから部室で開く打ち上げのために、お菓子やジュースを買いに行っている。

「みんな、お疲れさまです。お客さんに書いてもらったアンケートはここだよ」

 わたしがアンケート用紙の束をバサバサやると、先輩たちがこっちにやって来た。わたしはもう目を通したから、部長にアンケート用紙を渡して、衣装の片づけに加わる。
 一緒に裏方をやっていた友恵が、わたしに言った。

「アンケート、脚本のこと書かれてたでしょ?」
「うん。見たの?」
「いや、客席にいた友達からのメッセージでね、『脚本にめちゃくちゃ感動した。アンケートにも書いたよ』って」
「わぁぁ、ありがたいけど申し訳ない。わたしが一人で書き上げたわけじゃないのに」
「それでも、そよちゃんの原案があったから、ちゃんと仕上がったんだよ。わかば公演『(はかな)き君と、あの日の続きを』、いろんな人に刺さるロマンスになったよね」
「ありがとう。恋愛もの書くの苦手すぎて、いっぱい足を引っ張ったけど、みんなのおかげで形になりました」

 でも、と友恵はわたしに耳打ちした。
「あんなに大事にしてた運命の恋人たちの夢、こんな形でお客さんに公開しちゃってよかったの?」

 夢を記録するところから、あの小説は生まれた。
 それを打ち明けた相手は、今までたった二人。大叔母と友恵だ。
 なのに今回、こうして舞台にした。原案の小説の明治時代編をまず何人かの先輩に読んでもらって、OKをもらってから台本にして、演劇という形で部員全員と共有して、短編公演は新入生の前で、本編公演は市民ホールいっぱいのお客さんの前で披露した。

「たぶん、これでよかったんだと思う。自分でも不思議だけどね。このタイミングで見てもらわなきゃいけない気がしたんだ」
「見てもらう? 誰に?」
「わからない。でも、舞台作品との巡り合わせって、そういうものじゃない? ああいうきっかけだったからあの台本が書けたとか、そのタイミングだったから観劇した作品がめちゃくちゃ刺さったとか。理屈で説明できない何かが、よくあるでしょ?」

 友恵は肩をすくめた。
「そういう論法でいくなら、今回の舞台は、そよちゃんの運命の恋人が観に来るからってことになるよね」
「う、運命の恋人って、何それ? 何度も言ってるけど、あの夢の続きが今の自分だなんて、わたし、思ってないよ」
「いや、あんな夢をずっと見ていながら無関係です傍観者ですって、それは無理がある気がするんだけど」
「だけど、夢を見たせいで泣きながら起きるとか、そういう感じじゃないんだよ。わたし、舞台でも本でも、感情移入したらすぐ泣くでしょ。あの夢はもっと遠いっていうか、他人事の距離感っていうか」

 いや、もしかしたら、心を鈍らせることを無意識に選んでいるのかもしれない。
 だって、あれだけくり返し見る夢に毎度泣かされていたら、心がすり減ってしまいそうだ。眠るのが怖くなる。夜、眠りにつくたびに、最愛の人との死別を体験することになるかもしれないなんて。

「他人事の距離感ねぇ。そよちゃん、夢の中では神の視点なの?」
「うーん……場面によるかな」
「少なくとも小説に書き起こしてあるのは、彼女視点だよね?」
「まあ、明治の話は、確かにそうなんだけど」

 台本では、そのへんの視点のブレや制約に関しても修正が入った。彼の役を務める先輩が「演じていて違和感があるんだが、男が本音を語りすぎじゃないか?」って言い出したんだ。
 改めて見直してみたら、確かにそうだった。
 物語の主軸は彼女で、お客さんと視点を共有するのも彼女のほうだ。彼は、彼女にとってどことなくミステリアスな存在のはずなのに、彼が台詞で語りすぎたらバランスが成り立たない。
 でも、それなら彼の心情や立場をどう説明しようか? それをクリアするために新たな工夫が必要になって、全員で意見を出し合った。
 そんなふうに、演じながら鋭い指摘をズバズバ入れてくれる仲間たちだから、とても信頼できる。わたしが頭の中でこね回すばかりだった物語が、頼もしい仲間たちの実演と分析を経て、どんどん鮮やかな姿を得ていった。

 ふと。
 ひときわにぎやかな声が部室の出入口から響いてきた。

「主役は遅れてやって来る、なんてな! 待たせてすまねえな、皆の衆!」

 よく通る声の持ち主は、()()()くんだ。普段から舞台用の声の張り方をしてるんじゃないかってくらい、本当に声が大きい。
 登志也くんの隣で、(しん)()(ろう)くんがしかめっ面をしている。

「耳元で叫ぶな。うるさい」

 そりゃね、肩を組まれた状態で登志也くんの大声を聞かされたら、耳がキンとするよね。
 ()(じょう)登志也くんと(あら)(まき)真次郎くんは、わたしより一学年上の先輩だ。でも、「先輩」じゃなく「くん」づけで呼んでいるのは、二人が市民ミュージカル時代からの演劇仲間だから。
 二人が並んで立つと、とにかく華がある。子供の頃から見慣れたわたしの目にも、登志也くんと真次郎くんがイケメンなのはよくわかる。しかも二人ともすさまじく勉強ができる。

 登志也くんは、目が大きくて眉がくっきりした、彫りの深い顔立ちだ。勉強の成績だけじゃなく、運動神経も抜群で、演劇部随一のアクションスター。ただし、元気がよすぎるというか、落ち着きがないというか、もはや小学生男子みたいというか。
 真次郎くんは切れ長な目が涼しげで色白、薄い唇の赤さが色っぽい。演劇部と科学部を掛け持ちしていて、ものすごい論文を書いたりもしている。でも、常に眉間にしわを寄せていて、言葉の切れ味が鋭すぎるし、ひたすら無愛想で偏屈だ。

「役を演じてる間は、二人ともあんなに健気な雰囲気だったのにな」
 わたしが思わずため息をつくと、友恵も深くうなずいた。
「登志也くんの演技、透明感があるんだよね。儚い役もうまかった。真次郎くんは笑顔に気品があって、今回はまさに貴公子だった。なのに、役を離れたらこれだもんね」
「顔と頭はいいけど、残念なイケメンに分類されるやつ」
「そう、それ。舞台上の姿を鑑賞するだけっていうのが、あの二人の正しい使用法だと思う」

 真次郎くんが登志也くんの腕を払いのけながら、廊下のほうを振り向いた。
「おい、そんなところにいてどうする? さっさと来い」
 誰かそこにいるみたい。

「で、でも、やっぱり僕は……」

 聞こえるかどうかの小声を、わたしの耳はしっかり拾った。
 ドキッとした。
 そう何度も聞いたわけではないけれど、わかる。覚えている。
 いや、でもそんな、まさか。

「いいから来い!」
 真次郎くんが腕を伸ばし、ぐいっと、その人を引き寄せた。
 やっぱり、そうだった。

「相馬、(みず)()くん」

***
 相馬くんは、登志也くんと真次郎くんの間に挟まれて固まっている。部室じゅうから集まる視線。でも、両腕をがっしりつかまれているから、逃げ出すこともできない。
 何も言えない相馬くんの代わりに、登志也くんが声を上げた。

「こいつ、相馬瑞己っていって、俺と真次郎の幼馴染みなんだ。帰宅部の一年生なんだけど、舞台に興味があるってんで連れてきた。打ち上げ、参加させてやってくれ」

 イケメン双璧と名高い二人の間にいて、相馬くんも全然、見劣りしない。スタイルがいい。顔はうつむきがちだけれど、その角度だと、まつげの長さやスッと通った鼻筋がかえって際立っている。

 部長がにこやかに言った。
「舞台に興味がある人なら誰でも大歓迎! 演劇部は毎日活動ってわけでもないし、兼部も自由。これを機に、気軽に入部してくれていいんだよ」

 真次郎くんが相馬くんの肩をぽんぽん叩いた。
「そういうことだ。おまえの事情に合わせて、俺や登志と同じように、公演前だけスポット参加する形でいい」

 瑞己くんは、ぷるぷると小刻みにかぶりを振った。
「……だけど、真くん、僕が人前で何かするなんて……」
「じゃあ、その手先の器用さを活かして裏方を手伝ってみろ。おまえ、高校では変わりたいと思ってるんだろ? できそうなところから挑戦しろ。文化祭公演までなら、俺も登志もついててやれる」

 ちょっと意外。マイペースでちょっと俺さま気質の真次郎くんがこんなに世話を焼くなんて。
 と思っていたら、真次郎くんにじろっとにらまれた。

「そよ。おまえ今、何か失礼なことを考えてただろ」
「え、別に。ただ、珍しいなーって思っただけで」
「何が珍しいんだ? ともかく、こいつは裏方志望だ。面倒見てやれ」

 真次郎くんは有無を言わせず相馬くんを引っ張って、わたしと友恵のところに連れてきた。
「本当に入部させちゃうの? 無理やりに見えるんだけど」
「気にするな。頼んだぞ」

 わたしに告げて、真次郎くんは登志也くんと一緒に、部長たちのところに行ってしまった。こちらには完全に背を向けている。
 取り残された相馬くんは、うつむいたまま固まっていた。

「あの、相馬くん?」
 呼びかけると、相馬くんは弾かれたように顔を上げて、真ん丸な目でわたしを見た。
「は、はいっ」
「とりあえず、演劇部へようこそ。公演の打ち上げって、だんだんテンションが上がって変なノリになっていくんだけど、びっくりしないでくださいね」

 相馬くんは目を見張ったまま、こくこくとうなずいた。
 友恵がわたしと相馬くんの顔を見比べて、にんまりした。

「ここは、そよちゃんに任せるね」
「えっ?」
「相馬は人としゃべるのが得意じゃなくて、女子は特に苦手なんだ。声が出なくなったり血の気が引いたりして、体がうまく使えなくなるんだなって、見ててハッキリわかる。一年生の間ではもう有名になってる話だよ。でも、そよちゃんの前では声が出てるよね、相馬?」

 女子としては背の高い友恵は、相馬くんと同じくらいだ。でも、背筋を伸ばして堂々とした友恵に対して、相馬くんはびくびくと身を縮めている。おかげで相馬くんのほうが小さく見えてしまう。
 確かに友恵はいかにも気が強そうだし、古武術を習っていて腕っぷしも強い。ちょっと弱気な男子が萎縮してしまうのは、よくあることではあるんだけど。
 相馬くんのおどおどした感じは、相手が友恵だからってだけじゃないみたい。ほかの一年女子や登志也くんが部長たちに説明する声が聞こえてくる。

「高校に上がってからは、普通の教室で授業を受けることもできている。ただ、人前に立つことや大勢が密集する集会、女子と一対一で話す場面で、めまいを起こして立てなくなったことがあった」

 まさに今も、相馬くんは唇が真っ白だ。すっかり血の気が引いている。このままじゃ倒れてしまいそう。
 友恵が丸椅子を二つ取ってきて、わたしのそばに置いた。

「ほら、二人とも座りなよ。そよちゃん、あとはよろしく」
 じゃあね、と手を振ると、友恵はみんなのところに行ってしまった。教室を二部屋ぶち抜きにした部室は広い。だから、本当に「行ってしまった」という感じ。わたしと相馬くんは、置いていかれてしまった。

 しょうがないな。
 わたしは笑顔をつくった。相馬くんは、すがりつくような目でわたしを見ていた。でも、目が合うと、うつむいてしまう。
 人に慣れてなくて震えてる子犬。友恵が相馬くんのことをそんなふうに表現していた。あれから三週間ほど経っているけれど、相変わらず相馬くんは臆病そうな子犬のままだ。

「ごめんね、相馬くん。うちの部員、ちょっと強引な人ばっかりで。でも、悪気はないんですよ。どうぞ座って」
 わたしが丸椅子に腰掛けると、相馬くんもおそるおそる続いた。隣り合うような、向かい合うような、斜めの位置だ。

「……僕こそ、ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「あの……皆本さんが言ったように、僕、人前で……特に女子の前で、ろくにしゃべれなくなるんで……」
「でも、わたしが相手なら、何となく平気なんでしょ?」

 相馬くんはうなずいた。
「自分でも、なぜだかわからないんですけど……すみません。勝手に、知り合いみたいな振る舞い方、しちゃって」
「謝らなくていいって。人と人の相性って、理屈じゃないんですよね。わたしはいろんな人と一緒に舞台をつくった経験があるんだけど、初めましての瞬間からなぜか馬が合うような不思議な出会いって、やっぱりあるんですよ」
 相馬くんにとってのわたしも、たぶんそういうことなんだろう。

 わたしは相馬くんの顔色を確認した。さっきよりは血の気が戻ってきているみたい。
 こうやってみると、相馬くんは本当にきれいな顔をしている。横顔というにはやや斜めの角度。うつむきがちなせいで顔に影ができていて、大人っぽく見える。

 わたしは改めて、相馬くんに告げた。
「舞台、観に来てくれてありがとうございました。演劇に興味を持ってくれたんですか?」

 相馬くんは、両手をギュッと握り合わせた。
「す、すごくよかったです、舞台。『儚き君と、あの日の続きを』……きれいな物語、だと思いました。先輩が台本を書いたんですよね?」
「一応ね。でも、みんなで話し合ってつくり上げたんですよ」
「みんなで、ですか?」
「そう。わたしひとりの視点では気づかなかったことを、たくさん指摘してもらいました。特に登志也くんや真次郎くん、頼りになるんですよ」

 相馬くんがちょっと視線を上げて、かすかに笑った。
「あの二人、ズバッと言うでしょう?」
 わたしも笑った。
「うん、本当にズバッと言うよね。でも、それがありがたい」

「怖くないですか?」
「それはないかな。あの二人とは、小学校の頃からよく知ってるんです。二人とも口が悪いところはあるけど、根はまじめで、演劇が本当に大好きなんです。だから、厳しいことを言われても怖くはないですよ。相馬くんは、あの二人のこと、怖い?」

 相馬くんはチラッと、登志也くんと真次郎くんのほうを見た。内緒話みたいにこっそり言う。
「僕は、物心ついた頃にはもう、あの二人に面倒を見てもらっていて、昔はよく泣かされていました」
「いじめられちゃった?」
「い、いえ、僕が勝手に怖がってただけです。子供の頃の二歳差は大きいし、あの二人、めちゃくちゃ賢いじゃないですか。プレッシャーがすごくて……」

「プレッシャーを感じるのはよくわかる。子供の頃からあの二人と仲がよかったって、どういうつながりなんですか?」
「えっと……個別指導塾つながりって言えばいいかな」
「あの二人が子供の頃から行ってる塾って、わたしも知ってます。小さな塾で、選ばれた精鋭みたいな人しかいなくて、ものすごく偏差値が高いんでしょう?」

 そこの塾長さんのことは、わたしも知っている。町の名士として有名で、市民ミュージカルの稽古のときにも差し入れをくださるんだ。それこそミュージカルの世界から飛び出してきたかのような男装の麗人で、大きな病院を経営している一族の人だ。

 相馬くんは気まずそうに視線をさまよわせた。
「今は個別指導塾なんですけど、もとは違うんです。託児所というか、放課後児童クラブというか。塾長先生と、うちの父と、登志くんや真くんの親と、医学部の学生時代からの付き合いがあるらしくて……」
「へえ、親の代からの付き合いなんだ」
「はい。それで、登志くんや真くんが赤ちゃんの頃、保育園をどうしようって話が上がったとき、塾長先生がつくったそうです。それがそのまま、僕たちの年齢が上がったら放課後児童クラブになって、今は個別指導塾です」

「すごい。豪快な解決方法ですね。ああ、そっか。登志也くんのご両親は、塾長さんの系列の病院に勤めてるんだ。真次郎くんのところは個人のクリニックだけど。相馬くんのお父さんもお医者さんなんですか?」
「ええと、父も病院勤めですけど、臨床検査技師で、患者さんじゃなくてサンプルが相手の仕事です。父も僕と同じで、人と接するのが昔からうまくないらしくて……」

 人と接するのがうまくない。そうは言うものの、相馬くんの口調は少しずつ冷静になってきている。わたしと話をすることに、だんだん慣れてきたみたい。
 顔も姿もよくて、どうやら頭もよくて、親御さんが医療系のお仕事をしている。同じような条件で育ったはずの登志也くんと真次郎くんは、ふてぶてしいほど堂々としている。
 それだというのに、相馬くんがこんなに気弱な様子なのは、過去に一体何があったんだろう?
 理由や事情が気になる。でも、下手に踏み込んだら、きっと傷つけてしまう。
 わたしは好奇心を抑えて、話を切り換えた。

「今、相馬くんは帰宅部なんですよね?」
「はい。学校に慣れるまでは、と思って」
「そっか。演劇部に入るのは難しい? 無理は言いません。でも、公演の準備や稽古にかからない時期は活動がないし、部活の中ではけっこう気楽なほうだと思いますよ」

 相馬くんは、握り合わせた手をそろそろとほどいた。
「自由な部だっていう話は、登志くんからもしょっちゅう聞いてます。僕、中学でも部活に入ってなくて、それを心配した登志くんが毎晩一緒にランニングしてくれてるんです。雨の日は一緒にジムに。それで、演劇部の話も聞いてて」
「登志也くんが毎晩必ず走ってるのは知ってるけど、相馬くんと一緒だったんだ。あの登志也くんのランニングについていけるって、足が速いんだね」
「必死でついていってるだけですよ。ついていかないと、知らない場所で置いていかれますから」
「ああ、登志也くんらしい。やることなすこと、かなり無茶苦茶だよね」

 わたしが嘆いてみせると、相馬くんは、ふわっと柔らかく笑った。今日、この部室に入ってからいちばんの笑顔だ。
 チラチラと、さっきから、登志也くんや真次郎くんがこちらの様子をうかがっている。相馬くんは二人に背中を向ける角度だから、きっと気づいていない。
 あの二人にとって、相馬くんは大事な弟みたいなものなんだろうな。人と話すことに難しさを感じてしまう相馬くんを、演劇部に引き込んで大丈夫かどうか、二人で作戦を練っていたのかもしれない。一応ゴーサインを出したものの、やっぱり心配なんだ。
 大丈夫な気がするよ、と、わたしは目顔で二人にメッセージを送ってみる。相馬くん、少しだけど、肩の力が抜けてきてるよ。

「ねえ、相馬くん。次の公演は八月と九月にあって、七月に準備に入るまでは、部としての活動はのんびりなんです。だから、七月頃にまた声を掛けさせてもらっていいですか?」
 相馬くんは、うつむきがちな顔を上げて、わたしを見つめた。光を映し込んだ目がきらきらしている。
「お願いします。やってみたい気持ちはあるんです。本当は、登志くんや真くんがやってた市民ミュージカルも興味がありました。でも、今年は参加しようと思っていた年に、僕、こんなふうになってしまって……だけど、だから、高校では、挑戦したいです」

 わたしは嬉しくなった。
 自分の好きなことに興味を持ってもらえていた。一緒にやってみたいと言ってもらえた。それって、胸がじんと熱くなって鼓動が高鳴ってしまうくらい、嬉しいことなんだ。

「よかった。歓迎します。裏方志望ですよね?」
「はい」
「助かります。裏方、いつも人手が足りなくて困ってるんです。次の公演の準備を始める時期には必ず声を掛けるから、連絡先、教えてもらえますか?」

 サラッと事務的に言ったつもりだ。スタッフの連絡先を把握するって、必要なことだから。
 それだというのに、スマホをポケットから取り出す手がちょっと震えてしまった。ああもう、どうして変に意識してしまうんだろう? 相馬くんにちょっかいを出したら、わたし、きっと登志也くんと真次郎くんに締め上げられるよ。
 相馬くんもスマホを取り出した。わたしの手元を見て、あ、と声をもらす。

「スマホカバー、同じですね」
「え? あ、ほんとだ。春休みのバザーで買ったんですよ。凝ってるけど、手作りなんだって」
 濃い青から淡い青までのグラデーションに、縁起がいいとされる和の模様、青海波が白で描かれている。
「先輩もバザーで?」
「うん。色がきれいで一目惚れ。相馬くんもバザーに行ったって言ってましたよね」

 相馬くんが小さく笑い声を立てた。
「バザー、行きました。このスマホカバーを作っている人は、塾長先生の知り合いだから、紹介してもらったんです。SNSでも人気がある人で、アサスケさんっていって、物静かな人でした」
「クリエイターさんは、男の人?」
「はい。人前に出るのは苦手だって言って、売り子は奥さんに任せて、本人はテントの奥に隠れていたんです。塾長先生に呼び出されて、ようやく表に出てきて、たじたじになっていて。親近感がわきました」

 相馬くんは、くすぐったそうに笑っている。笑ったその顔から、わたしは目が離せない。
 胸の中で、しゅわしゅわと、炭酸の泡が弾ける。そんな心地。

 いきなり、登志也くんのよく通る声が、わたしと相馬くんを呼んだ。
「そよ、瑞己! ファンからの差し入れだとよ。ほら、ジュース受け取れ!」

 登志也くんが、ぽいとペットボトルを放った。
 ペットボトルはくるくる回転しながら、ゆったりとした放物線を描いて、わたしめがけて飛んでくる。
「ちょ、え、え?」
 運動神経抜群の登志也くんはコントロールも完璧で、わたしが素直に手を出せば、そこにペットボトルが落ちてくるはずだった。
 でも、こんないきなりじゃ慌てるでしょ? しかも片手はスマホでふさがっている。

 ……気づいてしまった。
 デジャ・ヴだ。わたし、この瞬間を知っている。
 夢に見たんだ。
 わたしは今からペットボトルを取り落とす。

 案の定だ。あせってしまったわたしの手指は、ペットボトルを弾いてしまう。
 あ……、と声が出たかもしれない。
 でも、その瞬間。

 サッと、相馬くんが動いた。

 椅子から離れて、わたしのそばにひざまずく格好で、伸ばした左手でペットボトルが床に落ちる前につかまえていた。
 相馬くんが微笑んだ。

「落ちなくてよかった」
 ほっとしたようなその顔は、少し大人びて見えた。
「あ、ありがとう」
「どうぞ」

 差し出されるペットボトルを受け取りながら、わたしは、頬のほてりを感じていた。困ったな。震える小犬状態を脱したら、相馬くんって、本当にカッコいいんだ。
 登志也くんが相馬くんに何か言いながらペットボトルをまた放って、相馬くんは危なげなく受け止めた。

「食べ物や飲み物は投げちゃダメだよ、登志くん」

 やんわりと、相馬くんが登志也くんをとがめた。小声だったから、わーわー騒ぐ登志也くんの耳には届かなかっただろうけれど。
 丸椅子に座り直した相馬くんに、わたしは改めてお礼を言った。

「ペットボトル、キャッチしてくれてありがとう。今の場面、夢で確かに見たんです。飛んでくるペットボトルを見た瞬間に思い出したんだけど。夢の中では、わたし、ペットボトルを落としたんですよね」
「落としたり壊したりっていう、あの予知夢ですよね?」
「そう。でも、また相馬くんにフォローしてもらっちゃった。ありがとうございます」

 相馬くんは、白い歯をのぞかせて笑った。
「お役に立ててよかったです。舞台の裏方でも、うまく使ってください。僕、わりと器用なほうなので」
 そう言った相馬くんは、ぱぱっとスマホを操作して、連絡先のIDを表示してくれた。
 連絡先を交換する。

 相馬瑞己。

 メッセージアプリの友だち一覧に加わったその名前は、文字の群れから一つだけ離れて、くっきりと浮かび上がってくるみたいに思えた。

***
 五月半ば。
 昼過ぎから雨が降りだしたその日、わたしは胸にモヤモヤを抱えていた。
 またあの予知夢を見たのを、何となく覚えている。でも、相変わらず、わたしが何を壊したり落としたりしてしまうのか、それを思い出せない。
 結局、モヤモヤしながらも無事に放課後を迎えてしまった。

 部室のパソコンで少し作業をしてから、ひとけの少ない生徒玄関のほうへ向かう。帰宅部はもう帰っているだろうし、ガッツリ系の部活はまだ練習の真っ最中という、微妙な時間帯。
 靴に履き替えて、開けっ放しの玄関扉をくぐる。
 雨はずっと降っていたらしい。すっかり気温が落ちている。ちょっと肌寒いくらいだ。

 わたしはリュックから折り畳み傘を取り出して、差そうとした。
「え? 何これ?」
 骨が一本、折れてしまっている。

 一応差してみたけれど、折れた骨のところがぷらんと垂れ下がって、雨を防げる範囲はずいぶんせまい。
 いつの間に壊れていたんだろう?

「お気に入りなのに……」
 青を中心にしたステンドグラス風の模様で、大叔母にもらったペンともよく似たデザインで、かわいいんだ。
 わたしは傘を畳んだ。気分が一気に沈んで、歩を踏み出すのもおっくうになってしまった。
 はあ、と、ため息をついたときだった。

「あの……そよ先輩?」

 遠慮がちに声を掛けられた。
 耳ざわりのふわっとした、まだ少し細い感じのする、男の子の声。
 ……今、わたしのこと、「そよ先輩」って呼んだ?

 わたしは振り向いた。
「相馬くん」
 会釈をした相馬くんは、扉をくぐってわたしの隣に並んだ。
「そよ先輩、傘、どうかしたんですか?」

 待って、本当に「そよ先輩」って呼んでる……ちょっと待ってよ。この間の打ち上げで、ずいぶんスムーズに会話できるようにはなったけれど、名前を呼ばれた覚えはないよ?
 わたしは動揺しながらも、何でもないふりをして相馬くんに答えた。

「この傘ね、いつの間にか骨が折れてたんです。お気に入りだから、悲しくなっちゃって」
「ひょっとして、またあの予知夢も見ました?」
「見ました。だから、きっとまた何か壊れちゃうんだなってわかっていて、朝から何となく嫌な気分だったの。そして結局、こうなんだから」

 わたしは相馬くんのほうに傘を突き出して、折れたところを見せた。
 相馬くんは目をしばたたいた。その視線がわたしの顔と傘を行き来する。

「ちょっと、これ、開いてみていいですか?」
「どうぞ」

 相馬くんは、わたしの傘を手に取ると、丁寧な仕草でそれを開いた。ぷらんと折れたところに、長い指で触れる。
 それから、相馬くんはわたしににこりと笑ってみせた。

「折り畳みの機構に関係ない箇所だから、修理できますよ」
「えっ? 直るの?」
「折れたところに添え木をするような感じで、傘の骨に取りつけて補強するパーツが売ってるんです。それを使ったら、まっすぐに戻りますよ」
「そうなんだ。そのパーツをつけるの、わたしにもできるかな? あ、それって、どこに売ってますか?」

 相馬くんは答えに迷うように、少しだけ沈黙して、そして言った。

「僕が預かって直してきましょうか?」
「でも、それって相馬くんの負担にならない?」
「いえ、全然。手先を使う作業は好きだから、むしろ気晴らしになります。これくらいなら、勉強の合間に、すぐできますから」
「そう? わたし、今日はあまりお金も持ってなくて、パーツ代も立て替えてもらうことになるけど、本当にいいんですか?」

 相馬くんはうなずいた。と思うと、目を伏せがちにして、早口で言い募った。

「もちろん、お金のことも全然大丈夫です。き、今日はあと二、三十分もすれば雨がやむみたいなので、少し待ったら、傘がなくても帰れるはずです。僕はもともと傘を持ってきてなくて……そよ先輩、迷惑じゃなかったら、一緒に待ちませんか?」

 あと二、三十分。
 相馬くんと二人で、雨宿りをする。
 傘が壊れていたおかげで。

「いいですよ。雨がやむの、待ちましょう」
 相馬くんは、自分が言い出しっぺなのに、びっくりしたように目を丸くした。
「あ、ありがとう、ございます……」

 何だかおもしろくて、わたしは少し笑ってしまった。
「ありがとうはわたしの台詞ですよ。傘、よろしくお願いします。お礼したいから、何がいいか考えておいてください」
「お礼、ですか?」
「高いものじゃなければ。たとえばケーキとか、おごってあげます」

 相馬くんがパッと顔を輝かせた。そんなに甘いものが好きなのかな?
「次、約束して、会ってもらえるんですか?」

 そんな言い方をされたら、勘違いしそうになるよ。わたしと会って話すこと、それ自体を望んでいるみたいに聞こえてしまう。
 わたしは冷静なふうを装って言った。

「演劇部の活動の話もしておきたいし、時間つくってくださいね。去年の公演の写真やパンフレットなんかも見せるから」
「はい。楽しみです!」

 子犬だったら、ぶんぶんと尻尾を振っていると思う。初めて会ったときは人におびえて震えていたけれど、この間、ちょっとだけ懐いてくれた子犬。
 相馬くんって、本当にかわいいな。顔立ちが整っていて、スタイルもよくて、カッコいいはずなのに、言動が相変わらず子犬だ。

 と思った次の瞬間。
 相馬くんはビクリと体を震わせると、わたしの右側にサッと回り込んで、膝を抱えて縮こまってしまった。

「そ、相馬くん? どうしたの?」

 質問してみたけれど、答えはすぐにわかった。
 女の子たちの声が聞こえてきたんだ。
 わたしの左側、鉢植えのバラが咲き乱れているところを挟んで十メートルくらい向こうは、一年生の靴箱があるエリアだ。そちらの扉から傘を差して出てきた女の子たちが三人、にぎやかにしゃべっている。

「えー、剣道部の広木先輩と大沢先輩も部活命ってタイプなの? それじゃあ、四組の坂本くんは?」
「あいつもダメ。同中だったから知ってる。片想いしてる相手が別の学校にいるとかで、誰がコクってもあっさり振るんだって」
「この学校の男子、顔がいい人に限って、堅物と変人が多すぎじゃない? うちのクラスの相馬もさぁ、あの態度はないよね」
「ないねー」
「はーい、同中情報。中一のときはすでにあんなんだったんだよ。もっとひどかったレベル。意味わかんなくない?」
「女嫌いっていうか女恐怖症だよね、あれ。え、その代わりに男が好きとか?」
「どうなんだろ? あー、でも五条登志也先輩や荒牧真次郎先輩にベッタリなんだっけ。怪しー」
「てか、何でフルネーム呼び?」
「カッコいい人は、名前を口に出すだけで幸せになる気がして」
「あ、わかるー! 桜井忠先生って、一日じゅう呼んでたい!」
「桜井先生、麗しいよねー! あの顔と声で『源氏物語』教えるとか、説得力えぐいし」
「でも桜井先生もさ、相馬のこと特別扱いしてたよね」
「相馬、ちょくちょく倒れすぎだよね。かまってちゃんってやつ?」
「病弱設定? 相馬、すごい白いし、無駄に似合うのが腹立つわー」

 しとしと降る雨も三つ並んだビニール傘も、にぎやかなおしゃべりをさえぎることはなかった。三人がずいぶん離れていってしまうまで、きゃらきゃらと笑う声は、わたしと相馬くんのところまで届き続けていた。

 わたしは言葉を失って立ち尽くしてしまった。
 相馬くんを連れてその場を離れればよかったと、後になって気づいた。

***
 大声でしゃべり続ける女の子たちが校舎の角を曲がって見えなくなってから、相馬くんはようやく、おそるおそる立ち上がった。体が震えているのが見て取れる。足下に置いたリュックが倒れたままなのも気づいていない様子だ。
 わたしは相馬くんの顔をのぞき込んだ。血の気が引いた顔は、天気の悪さのせいもあって真っ青だ。

「大丈夫ですか? ひどい陰口でしたね。あんな言い方はないと思う」
「……でも、僕に関しては事実なんで。嫌なこと聞かせちゃって、すみません……」
「謝らなくていいんですよ。もしかして、今の子たちがいたから、二年の靴箱のほうに逃げてきてたんですか?」

 一年生と二年生だと、教室のある棟が別々で、渡り廊下を使わないといけない。靴箱もそれぞれの教室に近いあたりに置かれているから、相馬くんがわたしと同じ扉を使うことは、本来はないはずなんだ。
 相馬くんは、せわしなく視線をさまよわせながら言った。

「僕、これでも、四月の初めよりマシになってきたんです。だけど、ダメなときはダメなんです。特にああいう感じの人は苦手で、話しかけられても、どうしていいかわからなくて、逃げるのが癖になってて……」
「ああいう感じって? 誰々くんがカッコいいとかって声高にしゃべったり、イケメンランキングをつけたりするような、女子グループのノリのこと?」

 同じ女子のわたしでもちょっと引いちゃうくらい、すごい勢いで「イケメン品評会」を開いている女子グループもある。ああいう話をするときって、言葉がとがりがちだなっていうふうにも思う。
 ひょっとしたら、気になる人のことを話している照れくささを隠すために、わざと勢いのいいしゃべり方をしたり、ラフなスラングを使ったりしてしまうのかもしれない。
 でも、はたから聞いていると、耳ざわりのいい言葉ではないことも多い。だから、相馬くんがおびえてしまう気持ちもよくわかる。

 相馬くんは震えながら、自分で自分の体を抱きしめた。
「興味や好意を持ってもらえるって、嬉しいことのはずなのに、うまく受け取れない自分が嫌になります。でも僕は、どうしても……体が動かなくなるんです。冷や汗が出て、息がうまくできなくなって、頭も働かなくなる……」
「相馬くん? 今、具合が悪いんじゃない? そうだ、二年の靴箱のところにベンチがあるんだ。座ろう?」

 ベンチだか花台だか知らないけれど、座れるものがあるのは事実だ。わたしは二人ぶんのリュックを持って、相馬くんの腕を引いて、ペンキのはげたベンチに導いた。
 腰を下ろした相馬くんは、胃が痛むみたいで、体を丸めている。隣に腰掛けたわたしは、とん、とん、とリズムをつけて、相馬くんの背中をゆっくり優しく叩いた。

 市民ミュージカルで年頃もバックグラウンドもさまざまな人たちと過ごしていたことを思い出す。
 座組の中に毎年必ずいたのが、うまく学校に通えない子と、その親御さん。不登校で八方ふさがりになっている現状を変えたくて、演劇に挑戦していた。とても勇気のいる挑戦だったはずだ。
 相馬くんも、きっとそう。前に進みたいのに、体がついていかない。今のままでいいとは思っていない。でも、どうしていいかわからない。心をむしばむ毒を振り払えない。

「わたしでよければ、話、聞きますよ」

 ガラス張りの玄関の向こうで、雨はまだ降り続いている。西の空は明るくなりつつあるけれど、雨宿りを口実に相馬くんと話をする時間は、もう少しありそうだ。
 相馬くんは縮こまってうつむいたまま、苦しそうに吐き出した。

「きっかけは、大したことない理由なんです。小五の頃、クラスのリーダー格の女子に告白されて、断ったら、いじめられるようになった。特に女子からのいじめがきつかった。無視と陰口。ときどき、ものがなくなった。でも、それだけのことなんです。なのに、ずっと尾を引いて……」

 大したことない理由。それだけのこと。
 ちっぽけな話であるかのような言葉を選んでいるけれど、そんなはずはない。

「小学生の頃からだったんですね。ずっと苦しんできたんだ」
「体がおかしくなるのがつらい。心因性で、血圧が急に下がるんです。本当に立っていられない。仮病じゃないんです」
「うん。仮病じゃないことは、顔色を見たらわかります。それに、ずっと震えてるでしょ」

 わたしは相変わらず、相馬くんの背中をそっと叩き続けている。この手に伝わってくる震えは、本物だ。相馬くんは本当に、体の自由が利かなくなるくらいに、心に苦しみを抱えている。
 相馬くんは、いやいやをするみたいに頭を振った。

「高校に上がってからは、朝、起きれてます。教室にもいられます。男子とは話せてます。でも、調子いいなと思って油断してると、すぐこんなふうになる。自分が情けないです……」
「情けなくないよ。小学生の頃の相馬くんは、いじめを受けて、ずいぶんショックを受けたんでしょう。リーダー格の子に告白されるくらいだから、相馬くんはクラスで一目置かれてたはずなのに、それがいきなり手のひらを返されて、混乱したんですよね?」

 相馬くんは、こくりと深くうなずいた。
「僕、あの一件の後、小学校での記憶がほとんどないんです。何も考えないようにして時間をやり過ごしていたんだと思います。放課後児童クラブで登志くんや真くんがかまってくれていたことは、ちょっと思い出せるんですけど」

 ああ、なるほど。あの二人が相馬くんのことを過保護なくらい大事にしているのは、その頃からなんだ。
 無理もない。
 知り合ったばかりのわたしでも、相馬くんをこのまま苦しませておくわけにはいかない、という気持ちになる。何か力になりたいと思ってしまう。

「今まで、ずっとつらかったでしょう?」
「でも、どうしようもなかったんです。小学校の頃の、僕が無視されたり陰口を言われたりする原因になった告白の件は、今考えると、本当に子供っぽい話で……」

 相馬くんは、ぽつりぽつりと語った。
 あの頃の相馬くんには、相手の女子に言われた「付き合う」ということの意味がわからなかったらしい。「付き合う」とはどういうことかを尋ねたら、まず「ほかの女子としゃべらないこと、目を合わせないこと」を求められた。
 その子が許した人としか仲良くしてはならない。どこへ行くにも何をするにも必ず、その子と一緒でなければならない。その子が求めたならば、手をつないでエスコートしなければならない。
 ああだこうだと言われれば言われるほどに、「付き合う」の意味がわからなくなっていった。
 好きな相手を自分の都合がいいように操ることが「付き合う」ならば、相馬くんにとって窮屈なだけだ。

「そもそも、好きという気持ちも、よくわかりませんでした。相手の子とは同じクラスになったばかりで、ほとんど話したこともなかったんです。告白されても、僕の何を知っていて、どこが好きなのか、実感できなかった」

 わたしには、その答えはわかってしまう。ため息交じりに言った。
「顔、でしょ。相手の子が相馬くんを好きになった理由。それに、勉強もよくできたんでしょう? 憧れの対象になるには十分なんですよ」

「……そんなこと言われても、わからなかったんです。僕の顔? そんなの、別に……」
「相手の女の子も、ただ幼すぎたんでしょうね。付き合うって、束縛することじゃないはずなのに。しかも、振られた腹いせにひどいことをするなんて」
「昔のことなんです。相手の子の顔も忘れた。なのに、どうして……? いつまで引きずるんだろう? どうして体までおかしくなるんだろう?」

 わたしはあえて明るい声をつくって言った。
「体の自由が利かなくなるってことは、自律神経のトラブルですよね。そういうケースはあせっちゃダメだって、真次郎くんが前に言ってました。気にしすぎなくて大丈夫。だって、わたしとはこうして話せるでしょう? 話せる相手が少しずつ増えていけば、それでいいんじゃない?」

 相馬くんがゆっくりと顔を上げた。わたしは、相馬くんの背中に添えていた手を引いた。うっすらと、相馬くんの目に、涙の膜が盛り上がっている。

「……そよ先輩とは不思議なくらい、最初からちゃんと話せました。こんな、震えてばっかりですけど、僕なりに、ちゃんと話せてるんです」
「うん、話せてるよ。わたしは相馬くんの今の話を聞いて、一生懸命だな、すごくいい子だなって、改めて思いました」

 すごくいい子、という言い方をしたのはわざとだ。一歳しかない年の差だけど、もっとうんと大人みたいなふりをしたら、相馬くんの心の負担が減るかもしれないな、と思って。
 それに、幼い子供を相手にするつもりでいれば、わたし自身、ドキドキしてしまわずにすむ。
 女子から好意を寄せられるという場面におびえてしまう相馬くんには、胸の高鳴りを悟られたくない。

 相馬くんは、ほんの少し微笑んだ。
「そよ先輩は優しいですね」
 ささやく声の響きが、何だか妙にくすぐったい。
 というのも、相馬くんが今日いきなりわたしの名前を呼ぶようになったせいだ。しかも、耳慣れない呼び方で。

「ねえ、相馬くん。少しだけ気になってたんだけど」
「はい」
「そよ先輩って呼び方されるのは初めてで、わたし、ちょっとびっくりしちゃったんですよね」

 わたしがそこまで言った途端、相馬くんは口元を手で覆って、声にならない声で、はくはくと何事かを叫んだ。
 ああ、これはつまり、無意識だったんだ。
 わたしは先回りして言ってみた。

「登志也くんや真次郎くんがわたしのことを『そよ』って呼ぶから、つられちゃった?」

 相馬くんの色白な肌が、かわいそうなくらい真っ赤になっている。顔だけじゃなく、首筋までもだ。まあ、でも、血の気が引いているよりは断然いいのかな。

「す、すみませんっ、つい、あの……」

 相馬くんの目が泳ぐ。きれいな顔の下半分を隠してしまう手は、指が長くて形がいい。
 その手の形、やっぱり、前にも見たことがある気がする。ずっと前から見知っている気がする。
 もしかしたら、あの夢の中の、誰かの手に似ているのかもしれない。

「謝らなくていいよ。嫌なわけじゃないから」
「や、で、でも……」
「それじゃ、わたしも、瑞己くんって呼んでいいですか?」
「は、はい。どんな呼び方でも、全然……あと、ですます調じゃなくていいんで……」
「わかった。じゃあ、そういうことで手を打とう。もう謝るのはなしだからね」

 相馬くん……じゃなくて、瑞己くんは、真っ赤な顔をしたまま、素直にうなずいた。

   *

 ほどなくして、雨が上がった。
 瑞己くんも立てるようになっていた。
 でも、まだ心配だったから、わたしは瑞己くんと途中まで一緒に帰ることにした。ぽつぽつと話しながら、お寺のそばの道を通って、市民公園のところで別れた。そして、それぞれの家路に就いた。

***
 わたしにだって、悩みはあるよ。
 いつでも笑っていられるわけじゃない。
 一つも悩んでないみたいに見える?

 なんてね。
 笑っちゃった。
 ……笑わせてくれて、ありがと。

 親友の言葉は、わたしの肩の力を抜いてくれる。
 ……うん、ありがと。
 戸惑いはまだ消えないけれど。

***
 (みず)()くんから連絡があったのは、長話をしながら雨宿りをしてから三日後のことだった。

〈傘、直せました!〉

 金曜日の夜だ。
 わたしは、傘は週明けに学校で渡してもらえたら、と思ったんだけれど、瑞己くんはちょっと意外なメッセージを続けて送ってきた。

〈明日か明後日、傘をお渡ししたいので、時間ありませんか?〉
 それから、言い訳をするように追加のメッセージが来た。
〈月曜、朝から雨が降るらしいです〉

 あの傘のほかにも、使える傘ならある。だから、わざわざ休日に瑞己くんに時間を使ってもらわなくても、大丈夫と言えば大丈夫だ。
 でも、わたしはそんなふうには答えなかった。

〈ありがとう! 明日は部活でちょっと集まるんだけど、日曜は一日じゅう空いてるよ〉

 メッセージを送ると同時に既読になった。瑞己くんも今、こうしてスマホを手にしているんだ。

〈日曜日の午後三時頃、市立図書館の前で落ち合えますか? 図書館のそばによく行くカフェがあるので、この間のお礼に何かおごらせてもらえたらと思って〉
〈お礼をするのはわたしのほうだよ?〉
〈いえ、僕のしょうもない話を聞いてもらったので〉
〈しょうもなくないけどな〉
〈でも、お礼をしたいんです。演劇部の打ち上げに参加させてもらったことも、悩みを打ち明けられたことも〉

 実は、そのあたりのこと、登志也くんと真次郎くんからもお礼を言われたんだ。二人は「瑞己があんなに夢中になるなら、もっと早く演劇の道に誘えばよかった」とも言っていた。
 基本的には怖いもの知らずで自信満々なあの二人が、瑞己くんのこととなると慎重だ。瑞己くんの抱える苦しみとどう向き合ってあげればいいか、ずっと考え続けていたものの、うまい答えを出せなかったらしい。

 その状況が今、変わりつつある。
 わたしが何か特別なことをしたわけではないんだって、わたし自身がいちばんよくわかっている。
 タイミング、だと思う。
 瑞己くんがずっと闘い続けてきて、自分の殻の中から外へ踏み出す準備が整った。これまでは上手にコントロールできなかった体調も、どうにかなりつつある。
 そのタイミングが、ちょうど今なんだ。

 わたしは瑞己くんに返信を送った。
〈わかった。お言葉に甘えてカフェはおごってもらうね。その代わり、わたしもお礼がしたいから、うちの近所のケーキ屋さんの焼き菓子をプレゼントします。返品不可。いい?〉

 少し、間があった。
 焼き菓子、瑞己くんも嫌いじゃないはずだ。わかば公演の打ち上げでもお菓子の話をした。あの日のお菓子は市販のものばかりだったけれど。
 新しいメッセージがポップアップした。

〈この間の打ち上げで話してたKeiっていう店のお菓子ですか?〉
〈そう、Kei。覚えてたんだ?〉
〈あの後すぐチェックしました! でも買いに行けてないので、プレゼント嬉しいです!〉

 よかった。
 瑞己くんの笑顔が画面越しに見えた気がして、胸の中がじんわり熱くなる。子犬が尻尾を振っているみたいな、あの笑顔。

〈じゃあ、日曜日の午後三時に市立図書館の前で〉
〈はい! おやすみなさい!〉

 メッセージのやり取りを終えた後、自分でもびっくりするくらい、胸がドキドキしていた。
「瑞己くんって、文字でやり取りするときは元気な感じなんだ。こっちが素の瑞己くんなのかな」

 びっくりマークがいっぱいついたメッセージを見返してみる。
 面と向かって声に出して言葉を交わすときも、今みたいに元気に、スムーズに、できるようになればいい。瑞己くんが自分らしくいられるときが早く訪れてほしい、と、わたしは思った。

***
 休日に出かける場合、着ていく服をどうしようか、というのが大きな問題となる。
 いや、たとえば市民ミュージカルの座組の仲間みたいな、純粋に演劇つながりの人が相手だったら、さほど悩まない。稽古での格好は、動きやすくてガンガン洗濯できることが最優先だ。そんな格好をお互い見せてきているから、ハードルが低い。
 しかし、今回のお出かけの相手は、あの瑞己くんなわけで。

「あぁぁ、どうしようかな? 気合い入れすぎるのも違うし。そもそもわたしのクローゼット、稽古着用の笑えるTシャツばっかだし」

 Tシャツに描かれた模様やロゴや格言を見て、ふふっと笑えるっていうのは大事なんだ。座組のメンバーとの会話のきっかけになる。だから、ちょっとしたネタが仕込まれたTシャツと見ると、わたしは思わず買ってしまう。
 でも、今回はダメ。行き先は稽古場じゃないんだから。

 もういっそ制服で行って「ちょっと学校に寄ってきたから」なんて言い訳をするほうが楽じゃないかなっていうくらい、さんざん悩んだ。
 結局、シンプルな水色のシャツワンピに細めのジーンズを合わせて、白いキャスケットをかぶることにした。
 黒のショルダーバッグは、大好きな劇団の二十五周年記念の限定販売品だ。台本や稽古着で多少かさばっても大丈夫なくらいたっぷり入るサイズで、今のところいちばんのお気に入り。

 待ち合わせの時間まで図書館で勉強することにして、筆記用具やノート、舞台の脚本集をバッグに詰めた。その上に、そっと、Keiの焼き菓子セットの包みを入れた。
 家でお昼を食べてから、バスで図書館に向かう。
 図書館の閲覧室で勉強道具を広げたものの、約束の時間が近づくにつれて心臓の鼓動がやかましくなってきた。

「何かダメだ……」

 ドキドキそわそわが落ち着きそうになくて、わたしは頭を抱えた。持ってきた脚本集に目を落としてみても、ちっとも頭に入ってこなかった。

 そして午後三時の十五分前。
 ちょっと早いかなとも思ったけれど、気が急いてしまって、わたしは席を立った。
 玄関ホールに降りてみたら、大窓の向こう側に瑞己くんの後ろ姿が見えた。瑞己くんも早めに来てしまったらしい。

「あ、私服だ」

 当然と言えば当然か。
 瑞己くんのコーディネートは、シンプルな水色の襟つきシャツに、すっきり細めのジーンズだ。ボディバッグは白と黒のツートンカラー。
 わたしは思わず口を押さえた。

「かぶっちゃったな」

 水色のシャツワンピにジーンズ、白の帽子に黒のバッグのわたしと、見事に色合いが同じだ。
 困ったなあと思わなくはないけれど。
 その「困った」は、顔がにやけそうなくらい嬉しくて「困った」なんだ。

「ダメでしょ。そよ香、平常心!」

 自分に言い聞かせる。
 深呼吸をして、そ知らぬ顔をして、わたしは瑞己くんに近づいた。玄関ホールの自動ドアをくぐって外に出ると、瑞己くんがパッとこちらを向いた。

「そよ先輩! よかった、来てもらえた」
 少し照れくさそうな瑞己くんの笑顔につられて、わたしも思わず笑ってしまう。
「約束したんだから来るよ。お待たせしたかな?」
「いえ、大丈夫です。えっと、忘れないうちに、傘、お渡ししておきます。これ」

 瑞己くんは手早く傘を開いてみせた。
 パッと、青い花が咲いたみたい。ステンドグラス風の模様は涼しげに日の光を透かして、きれいだ。
 この澄んだ青は、瑞己くんに似合う。
 うっかり見とれてしまったわたしは、あわてて視線を傘だけに向けた。

「ありがとう。どこが折れたかわからないくらい、上手に直してくれたんだね」
「ちゃんと直せて、ほっとしました」

 瑞己くんは器用な手つきで傘をたたむと、わたしに差し出した。わたしは傘を受け取る。
 用はすんだのだから、ここでバイバイと別れてもいい。でも、別れたくないから、わたしは明るい声を出してみせた。

「じゃ、カフェに案内して。わたし、楽しみにしてきたんだ」
「ほんとにいいんですか? そよ先輩の時間、取っちゃって」
「もちろん」

 こっちです、と手振りで示して歩きだす瑞己くんに、少し遅れてついていく。
 瑞己くんは前を向いたまま、小声でぽつりと言った。

「すみません」
「どうして謝るの?」
「えっと……服、似てて。あの、はたから見たら、カップルだと思われるかもしれなくて……相手が僕で、すみません」

 ……ちょっと待って。
 カップル?
 そんなにストレートな言葉にされると困る。先輩風を吹かせる気持ちでごまかした鼓動の高鳴りが、完全に戻ってきてしまった。
 だけど、ここで黙ってしまうのはダメだ。瑞己くんと会話を続けていたい。
 だって、この胸の高鳴りは、ちっとも嫌なんかじゃないから。

「青ってね、好きな色なんだ。瑞己くんも?」
「そ、そうですね。服、たくさんは持ってないんですけど、全部、青系かモノトーンって感じで」
「わたしも同じ。稽古着を別にすれば、青か白の服ばっかりで、長袖は黒もあるかな。じゃあ、何を選んでも、似ちゃう可能性がけっこう高いんじゃない?」
「……すみません」
「だから、どうして謝るの? わたし、気にしないよ。瑞己くんとは趣味が合うんだなって思うと、むしろ嬉しい」

 瑞己くんがチラッとわたしのほうを見た。いつの間にか、頬も耳も首筋も赤い。色白なせいで赤みが目立ってしまうんだろう。
 聞き取れるかどうかギリギリのささやき声で、瑞己くんが言った。

「……僕も、本当は嬉しいです……」

 そして、大きな手で口元を覆いながら、そっぽを向いてしまった。

***
 瑞己くんがゆっくり歩いていたのは、顔のほてりを冷ますためだったのかもしれない。

 図書館の裏手は住宅地になっている。江戸時代からの由緒ある土地柄で、かつては上級武家の住むエリアだったらしい。今でも、上等な庭つき一戸建てが並んでいる。
 その住宅地の入口に、こぢんまりとしたカフェがある。それが目的の場所だった。

「カフェひより? 聞いたことある気がする」

 わたしは首をかしげた。
 お店の看板は手作りみたい。フレームは、木切れや松ぼっくりやドライフラワーをセンスよく組み合わせてあって、ナチュラルな感じが素敵だ。そのフレームの中に、元気いっぱいな子供の字みたいなフォントで店の名前が書かれている。
 この看板も見覚えがある。どこで見たんだっけ?
 瑞己くんは店のドアを開けて、どうぞ、と手振りで示した。わたしはエスコートに従って、ドアをくぐった。

「いらっしゃいませ」

 女の人と女の子の声がいくつか重なった。かわいらしい店内を見回すと、四重奏だったらしい。
 カウンターテーブルの内側に、三十代半ばかな、という年頃の女の人。
 その対面に、中学生と小学生の姉妹らしき女の子たちが座っている。
 キッチンから顔を出したのは、大学生っぽい女の人。
 店内のお客さんは、読書をしているマダムや新聞を広げたおじいさん、ケーキを食べているおばあさんの二人連れだ。常連さんなんだろうか。落ち着いた空気が店内に満ちている。

 カウンターテーブルの女の人が、おっとり優しい声で、わたしと瑞己くんに言った。
「お待ちしていましたよ。瑞己くん、来てくれてありがとう。窓際のテーブル席にどうぞ」

 姉妹がサッと立って、席まで案内してくれた。
 椅子に腰掛けると、姉妹のうちお姉ちゃんのほうがメニューを出してくれながら、てきぱきと自己紹介した。

「このカフェで母の手伝いをしています。(ふう)()といいます。中一です。こっちは妹の()()。小二です」
 あっちにいるのが母、と言って、楓子ちゃんはカウンターテーブルのほうに目を向けた。

 瑞己くんはわたしの対面に座りながら、そわそわと視線をさまよわせている。
 詩乃ちゃんが、じとっとした目で瑞己くんを見すえていた。

「瑞己兄ちゃん、『友達を連れてくる』って言って、怪しいなって思ってたら、やっぱり女の人を連れてきたのね」
「と、友達って言ったっけ? いや、えっと、先輩なんだよ。学校で、お世話になってるっていうか……」
「そんなにあわてて、変なの」

 詩乃ちゃんはぷいっと顔を背けた。ほっぺたをふくらませているのがかわいい。
 瑞己くんのことが大好きなんだろうな。だから、わたしなんかに焼きもちを焼くんだ。
 楓子ちゃんが詩乃ちゃんの腕をつかんで、カウンターのほうへ引っ張っていった。表の看板の「カフェひより」の字は、詩乃ちゃんが書いたのかな。元気いっぱいで、すごくいい字だった。
 瑞己くんは、ほっと息をついた。

「いきなりすみません。ここの店長の(なつ)()さんは、僕の母のいとこなんです。夏美さんは、僕が生まれた頃から僕のことを知ってるし、僕も、楓子ちゃん詩乃ちゃんが生まれた頃から二人のことを知ってます」

 夏美さんがカウンターの中で何か手を動かしながら、瑞己くんの話に応じた。

「ここにお店を出すときも、瑞己くんのお母さんには力になってもらったんですよ。この場所を見つけてくれたのも彼女だったの」
「母は、このあたりに先祖代々の家があるから、近所の土地や不動産の情報には強くて。それに、家の近所にカフェがほしいとも言っていたので、いろいろ噛み合ったんですよ」

 わたしは、なるほどと思った。

「じゃあ、瑞己くんはこのあたりに住んでるんだ?」
「はい。すぐ近くに」
「武家の血を引いてるんだね。うん、しっくりくる。着物、絶対に似合うよね」
「そ、そうですか?」

 キッチンからチラリと顔を出した女の人は、大学生アルバイトの(はつ)()さんというらしい。「僕がいるときはホールに出てこないんです」と瑞己くんが説明した。一度、初奈さんの前でパニックになったことがあって、それ以来、気を遣ってもらっているそうだ。
 瑞己くん自身の口から、そんな事情をサラッと話してくれた。夏美さんも、ごく落ち着いた顔で聞いている。
 ここは瑞己くんにとって安全な場所なんだ、と感じた。
 わたしはメニューを広げてみた。途端に歓声を上げてしまう。

「わぁ、季節のフルーツのスムージー、おいしそう! フルーツのジェラートもあるんだ。迷うなぁ。あ、自家製のレモネードやジンジャーエールもおいしそう!」

 あれ? このメニューも、看板同様、見覚えがある。
 はしゃいでしまうわたしに、瑞己くんはくすりと笑った。

「やっぱり喜んでもらえた。ひよりがオープンしたのはこの春休みなんですけど、ジェラートもスムージーも最初から人気があるんです。売り切れも出てしまうくらい」

 春休みという単語と、「やっぱり」という言い回し。わたしはそれでようやくピンときて、思い出した。

「わかった、春休みの市民バザーだ! カフェひよりも出店してたよね。お店の看板も、見たことあると思ったんだ」
「覚えてたんですね」
「うん、予知夢の件もあったから、印象に残ったの」

 小声になって「予知夢」と言ったわたしに合わせて、瑞己くんも内緒話みたいなしゃべり方をした。

「予知夢? ものが壊れてしまうという、あの夢ですか?」
「うん。落としたジェラートを眺めてる夢だった」
「そうだったんですか」

 わたしは肩をすくめた。ひそひそしゃべるのがくすぐったくなって、声の大きさをもとに戻す。

「でも、わたしが落としたんじゃないんだ。実際は、わたしの前に並んでた小さな女の子がジェラートを落として泣きだしそうになったから、わたしが買ったぶんをあげたの。季節のフルーツのジェラートで、いちごベースだった」

 ちょうどお冷やとおしぼりを持ってきた楓子ちゃんが、勝ち誇ったように瑞己くんに言った。
「ほーらね。そよ香さん、ちゃんと覚えてたでしょ?」

 一つ思い出したおかげで、記憶がつながっていく。

「代わりのジェラートを持ってきてくれたのは、楓子ちゃんだったよね? 桜のジェラート」
 楓子ちゃんがうなずく。
「そうです。季節のフルーツはちょうど売り切れたから、桜のほうを」

「桜と季節のフルーツで悩んでたから、桜のジェラートをいただけて嬉しかった。しかも、底のほうにこっそり、季節のフルーツのジェラートも少しだけ入れてくれていたでしょう? おいしかったです。あのときはごちそうさまでした」

 楓子ちゃんと詩乃ちゃん、そして夏美さんにも頭を下げた。
 にっこりした夏美さんがカウンターに身を乗り出して、種明かしをした。

「瑞己くんがね、そよ香さんが季節のフルーツか桜で迷っていたのを、ちゃんと見ていたそうなんです。だから瑞己くん、ほかのどれでもなく桜のジェラートをサッと作って、楓子に持っていかせたの」

 わたしは驚いた。
「えっ、瑞己くんが? バザーのお店、手伝ってたんですか?」
「そうよ。お母さん公認の、初めてのアルバイトだったのよね、瑞己くん。桜のジェラートの底に、半端に余っていた季節のフルーツのほうも入れていたの?」

 水を向けられた瑞己くんは、たちまちのうちに真っ赤になった顔を、きれいな形の手で覆った。

「ええ、まあ、その……す、すみません……」
「またすぐ謝る。どうして謝るの?」
「だって、図書館でペンを拾った件といい、バザーのジェラートの件といい、そよ先輩は僕のこと認識してなかったのに、僕が裏で勝手に先回りして動いてて、気持ち悪いんじゃないかと思って……」

 確かに、一般的に見たら、そうなのかもしれない。ストーカーっぽいと感じてしまうかも。
 でも。

「瑞己くん、すごく現金なこと言っていい?」
「え、あ、はい」
「気持ち悪いなんてこと、ないよ。ただし瑞己くんに限るってやつです」
「……それって、イケメンに限る、じゃないんですか?」
「まったく知らない人だったら、相手がどんなイケメンでも気持ち悪いよ。でも不思議なことに、瑞己くんだったら平気。見ず知らずだったわたしに親切にしてくれてありがとう。その親切も押しつけがましくないから、純粋に嬉しいです」

 真ん丸な目をして息を呑む瑞己くんの顔は、無防備でかわいい。
 わたしは照れくさくなってきて、瑞己くんから視線を外して夏美さんに告げた。

「季節のフルーツのジェラート、今は桃なんですね。おいしそう。桃のジェラート、お願いします」
「うけたまわりました。瑞己くんはいつものカフェオレでいい?」

 瑞己くんはまだ息を呑んだまま、こくこくとうなずいた。

***