1

 夏目(なつめ)ナオトと春海(はるみ)キョウジが風間源蔵(かざまげんぞう)との交渉を終えた翌日の午前中のことである。喫茶探偵事務所『四季(しき)』に一通の書面が届けられた。風間源蔵の名前で出されたその書面は、念書であった。『四季』のメンバー五人の名前が列記してあり、「信用する」と、見事なまでの雄筆でしたためられていた。
 満足のいく内容ではあったが、書面に目を通した四季(よつき)ゲンイチロウの表情は、とても険しいものであった。視線を少し上げて、書面越しに正面を見る目は、信じられないものを見たような驚きの色に染まっていた。
 書面を届けに来たのは、風間慶一(かざまけいいち)であったのだ。当然のことながら、都筑彰男(つづきあきお)を従えていた。
「わざわざ君たちが、これを届けに来たのには、なにか理由でもあるのか?」
「今、あんたは『君たち』、と複数形でいったが、おれのいるところには彰男は常にいる。調べてわかっているはずだが」
 不愉快そうに苦虫を噛み潰したような表情で慶一が述べると、ゲンイチロウはかすかに首を縦に振った。
「ふん。まあいい。それより、他の連中はどこにいる?」
「それを知って、どうするつもりだ?」
「安心しな、どうもせんよ。話はすでに決着()いている。その文書を見れば、馬鹿でもわかるだろう」
 ゲンイチロウは探るような色を両眼に浮かべた。
「わしは、その馬鹿にはいる部類でな、できれば、君たちの口から、確約をもらいたい」
 慶一は、心底面倒臭そうに溜息をついた。
「このおれ、風間慶一は、お前らのことを信用してやる」
「慶一さま」
 彰男にたしなめられて、慶一が不満げ頭をかいた。
「わかっている。信用してやろう。……信用する」
「わたくし、都筑彰男は、あなた方、五人のことを信用いたします」
 ゲンイチロウは、文字通り手を打った。
「それと、これは親父、いや、風間源蔵からの言伝(ことづて)だ」
 出来得るだけ早いうちに、ゲンイチロウとキョウジ、ナオトら三人には、風間グループ本社に来てもらいたい。細かい取り決めを行い、約定書を交わすために、である。
 最後に、慶一は、ゲンイチロウの眼に自分の視線を合わせた。
「怪物の子は怪物を超える。弟子が師匠を超えるのと同様にな。それをいっておきたかったんだがな。いないのならしょうがない」
 慶一は背後に控えている彰男をちらっと見た。
「あなたから、他の方にいっておいてください。特に、夏目ナオトさんには」
 彰男が鋭い眼光でゲンイチロウの双眸を貫いた。鋭すぎる刃物を想起させた。目を合わせた者の心胆を寒からしめるのには充分であったが、ゲンイチロウは臆したりはしなかった。「どいつもこいつも肝が座っている」と、『四季』のメンバーを表現したことがあったが、それは、自分自身を含めてのものであったからである。
「ああ、伝えておこう」
 そういいおくと、ゲンイチロウは、ふたりに少し待つようにいってから奥の部屋に入って、しばらくしてから紙を持って再び現れた。
「こいつは返書だ」
 そういいながらゲンイチロウは、大真面目な表情で半紙を突き出した。半紙には、「風間慶一に関する一切の情報は破棄し、公にはしない」と、見事なまでの楷書体で書かれていた。やや滑稽に思えたが、そうするのが、礼儀作法(セレモニー)というものなのであった。
 それで毒気を抜かれたのかどうかはわからなかったが、風間慶一が面白くもなさそうに首を縦に振った。
「いいだろう」
 ゲンイチロウから半紙を受け取ると、風間慶一と都筑彰男は『四季』から出ていったのであった。

       2

 後日、間仲有佳里(まなかあかり)が『四季』へやって来た。
「この度は、どうも、ありがとうございました。おかげさまで、父の追放は取り止めると、風間源蔵が約束したそうです」
 有佳里は深々と頭を下げた。
「そうですか。それは良かった」
「皆様のご尽力の賜物です。おっしゃってください、いかような謝礼でも、差し上げるつもりでいます」
「では、――」
 ゲンイチロウは、吹っかけたりはしなかった。依頼料は五千円からであり、諸経費と成功報酬を気持ち多めに告げた。有佳里は、それでは少なすぎるということで、更に礼金を積もうとしたが、ゲンイチロウは頑なに断った。
 有佳里の緊要の課題は、彼女が語ったように「父の追放」である。しかし、長期的な問題としての「風間慶一の弱み」を提供することはできなくなってしまった。責任者同士の、この場合は風間源蔵と四季ゲンイチロウだが、ふたりの間での取引が成立した以上、約上に則って情報は破棄せざるを得ず、公にはできない。お互いの信用を前提としての薄氷上の双務協定である。しかも、お互い、どの深度まで相手を信用しているかは、不明確といわざるを得ないのである。
 有佳里の今後のことにまで思いを致す責任、必要はないだろう。少々突き放したいいかたをすれば、それは、当事者が決めることであり、『四季』が負う問題ではない。依頼ひとつひとつに心を痛めていては、探偵業など生業にはできないのである。
 何度か振り返りながら遠ざかっていく有佳里とその侍女を見届けると、シオリは側に立っているゲンイチロウの顔を見上げた。
「受け取ればよかったのに。店長は欲がないわね」
 冬木(ふゆき)シオリが少し飽きれたようにいったが、ゲンイチロウの為人はわかっているつもりであったので、口調はやんわりとしたものであった。
「こっちは生命(いのち)があっただけでも儲けものだ。今回は、これ以上を望むのは欲が過ぎるというものだ」
「収支は黒字になったんでしょうね」
「最低限の報酬は頂いた」
「そう。ならいいけれど」
 しっかり者のシオリは、小さくうなずいた。そして、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「風間源蔵は、なんで、あたしたちを信用したのかな?」
 ゲンイチロウは腕を組んだ。
「うむ。おそらくは、そのほうが傷がつかないからではないかな。決め手はあの音声だろう。あれで語られていることが明らかとなれば、確かに風間慶一の評価は地に落ちる。ついでに、間仲一族を冷遇することをリークすれば、風間グループの信用も失墜するだろう。信用を失った企業に明日はない。それは避けたかったのではないかな」
「つまり、信用するしかなかったってこと?」
 ゲンイチロウは太い腕を組み替えると、右手で左頬をさすった。
「提案に応じなければ、結果、都筑彰男がわしらを海に沈めることになっていたかもしれん。しかし、それは明らかな犯罪行為だ。彰男を捨て駒にするにしても、見合わないと考えたのかもしれんな」
 シオリはゲンイチロウにつられたように細い腕を組むと、左手で右頬をさすった。
「ほんとに海に沈められてたと思う?」
「うーん、わからんな。だが、わからん、という結論は怖ろしいことだぞ。気に入らないから人を殺すことも辞さない、なんてのは、まともな神経の持ち主ではない。飛躍しすぎている。飛躍しすぎている発想を実際に行い得る男、それが都筑彰男だが、振りなのか本気なのか、正直わからん。だが、都筑彰男ならやりかねない。そうわしらに思わせることで、こちらの交渉の責口を限定させた。ナオトがいっていたな、化かしあいみたいだったと。風間源蔵は楽しんでいるようだった。こちらがどのように攻めてくるのかを。とにかく、関わり合いたくない相手であることは、間違いない」
「それじゃあ、気が変わって、あたしたちを海に沈めることもありえるってこと? あたし嫌よ。十六のみそらで、まだ死にたくないよ」
「わしだって四十四のみそらで、まだ死にたくはない」
 この際年齢は問題ではなかったが、ふたりともそのことに気づいたようで、口元にそれぞれ「らしい」微笑を浮かべたのであった。
 ふとシオリは、店内を見回してから疑問に思った。昼時にもかかわらず、『四季』にはシオリとゲンイチロウしかいないのはなぜなのだろう、と。
「それで、みんなどこへ行ったの?」
「カナタは機械の部品を買いに行くといっていたな」
「結局、カナタはなにを作っていたのかな?」
「さあな。天才のことは凡人には計り知れんよ」
 ゲンイチロウのいいようがおかしかったのか、シオリはかすかに笑った。
「後のふたりは?」
「仕事をしている」
「仕事?」
「ああ、単なる素行調査だ。依頼主(クライアント)は上客ではないが上玉でな、件のごとく、キョウジはやけに張り切っていたな。まあ、頭の痛いところだが、背に腹は代えられんからな」
 左右に首を振って慨嘆したゲンイチロウを目にすると、シオリは意味ありげに笑いながら、打ち水を撒きに軽やかな足取りで外へ出て行った。
「しかし、わかっているのかね、今日は祝日でも休校日でもないということを」
 楽しそうに打ち水を撒いているシオリをガラス越しに見て、ゲンイチロウは、天を仰いで長嘆息した。

       3

 夏目ナオトは優木瑞稀(ゆうきみずき)と会っていた。場所は、東都大学の学食である。テーブルを挟んで、ふたりは向かい合うように座っていた。端から見れば、特別な関係に見えるような親密な雰囲気ではあったが、少し趣は異なる。
 前にふたりが会ったのは、ナオトとキョウジが風間源蔵と交渉した翌日、慶一と彰男が『四季』に念書を届けに来た、丁度その頃である。瑞稀と会って、直接、話しておきたいことがあったからである。できるだけ早く伝えておきたかったのだが、交渉当日は、『四季』に帰ってから細かい詰の作業を行うために、表現は悪いが、拘束されたのである。それに、事の顛末を語る必要もあった。キョウジに任せれば済む話ではない。実際、言葉を尽くしたのはナオトであったからである。
 瑞稀に伝えておきたい話をしてから、数日が経っていた。ナオトは、頬をかいて、どう話を切出すか、困っていた。
「瑞稀、その、なんだ、大丈夫、かい?」
「なんで先輩カタコトなのよ」
 瑞稀が屈託のない笑顔をみせた。
「元気、そう、だけど、無理、してない?」
 瑞稀は大きく頷いた。
「わたしは、うん、大丈夫。いっぱい泣いたから」
「そうか、だったら、良かった、のかな?」
 瑞稀が眉を曇らせた。
「先輩、さっきからなんか変だよ」
「おかしいか、な」
「挙動不審で捕まるわよ」
「それは困るな」
 ナオトが生真面目に応じたのがおかしかったのか、瑞稀はにっこりと微笑んだ。
「嘘よ、先輩が捕まるなんて、あるはずがないわ。もしもあったとしても、その人は人を見る目がないに決まってるわ」
 いつもと変わらない明るい瑞稀の声は、ささくれ立っていた心を穏やかにしてくれるように、ナオトには感じられた。そんな瑞稀の手を煩わせてしまったのは、申し訳なく思っていたし、心の底から感謝していた。
「いろいろとありがとう。瑞稀の証言がなければ、大切な仕事にかたをつけられなかったかもしれない。それと、嫌なことを思い出させてしまってすまない。本当に申し訳ない」
 ナオトはテーブルに両手を付いて、額をつけるようにして頭を下げた。
「いいわよ。本当のことだもん」
 瑞稀はホット・レモンティをすすった。脛に傷を抱えていても、生きていかなければならない。あったことはなかったことにはできないし、良いことも悪いことも引っくるめて、今の自分がある。瑞稀はそう思っていたし、その現実から逃げずに、それを実践していた。
 瑞稀もミーハーなところがあったのは事実であった。大学に入学して、風間慶一と都筑彰男のことを知って、人並みの興味を抱いた。友達と一緒に慶一と彰男と遊ぶこともあったのである。スナック・バー『千歳(ちとせ)』の裏口から大麻の売人と接触できることを知ったのは、知り合ってから随分経ってからのことであったが、驚きはしたものの、欠片ほどの興味はあった。怖いもの見たさという感情は、遊園地の絶叫マシンやお化け屋敷に好奇心を刺激されるような感覚に似ていた。だから、勧められるままに手を出した。悪いことをしているという後ろめたさはあったが、それは、高校生が隠れて煙草を吸うような心理であり、座が白けるのは、本意ではない。一度だけならば、という軽い気持ちであったのである。
 大麻の効果は無いに等しいものであったが、アパートに帰ってひとりになった時、急に恐ろしくなった。だから、一度きりで止めた。友達は止めなかった。どれだけ言葉を尽くしても聞き入れてもらえなかった。瑞稀は友達を失ったのである。彰男はそんな瑞稀にこう告げた。
「あなたが大麻(あれ)をやったことは、事実です。やりたくなければやらなくてもいい、わたくしはそういいましたよね?」
 確かに彰男はそういっていた。そういって瑞稀を脅し、迫った。「ネットに流せば、人生を棒に振ることになるでしょう」と、暗に身の破滅をほのめかした。彰男にそういわせたことは、慶一は一切関知していない。仮に瑞稀が大麻のことを告白しても、司法の手は彰男にまでしか及ばない。汚い仕事の身代わりとなることは、彰男の存在理由(レゾン・デートル)のひとつでもあったのである。そのように、理解させられた。
 以来、瑞稀は毎日を怯えながら生きてきた。新しく同性の友達をつくることには抵抗があった。また同じことを繰り返すかもしれなかったからである。罪を犯した以上、関わってはいけない、とも思った。異性の友達を求めることもしなかった。できなかった。汚れた自分に人を好きになる資格などあるのか、と悩み苦しんでいた。誰にも話せなかった。話さなかった。
 大学を辞めようとも思ったが、そうしなかったのには理由があって、公表しないという約束を信用したわけではなく、相手に屈服するのを由としないという理由でもなかった。事実を事実として受け入れて、自らの軽率な行動を心の底から後悔し、反省していたからであった。それが罪であるならば、罰は罰として受けるつもりでいたのである。それでも、警察に駆け込んで自白することはできなかった。大麻の話をすれば、入手経路を話さなければならなくなる。それは、慶一たちのことを話さなければならなくなる、ということである。友達だった子のことも話さなければならなくなる。関係者は大勢いる。全てに責任は求められなかった。卑怯かもしれなかったが、なんでもかんでも理想通りにはならないものである。瑞稀は、罪の意識を抱きながら、これから先も生きていくのであろう。無理矢理にでも、明るく振る舞いながら。だから、ナオトの言葉は衝撃的であった。
「あれは、大麻ではないよ。それに、もう、瑞稀は自由だ」
 ただのハーブだったという事実と自由という言葉は、瑞稀をべそをかく子供のようにした。その場で崩折れて、震える自分の身体を両手で抱きしめ、涙を流し、声を上げて、泣きじゃくった。ナオトは、なにもいわなかった。ただ、そっと、瑞稀の頭に手を置いて、優しく撫でた。それで、充分だった。思い出したくないいろいろな情景が脳裏をめぐり、様々な感情が渦を巻くように胸に迫り、瑞稀は泣き続けた。
 なぜ、初めて会った夏目ナオトに声をかけたのか、それは、ひとりでいたからである。瑞稀自身もひとりだった。田名部教授の講義を受ける人であれば、同じ学部であろう。でも、今まで一度も出会わない、というのはさすがに無理がある。ナオトは尋ねられて自分の学部を語った。瑞稀と同じ学部であれば、一度も会わないのはさすがに可怪しい。なんらかの理由で嘘をついている。であるのならば、怪しい人物と思わざるを得なかった。ところどころ話に綻びが感じられた。でも、良さそうな人であった。だから、気になった。風間慶一や都筑彰男のことをやたら尋ねてくるのも、そうなると可怪しく思えた。陰を感じた。都筑彰男とは異なるが、異質な感じがした。でも、話していて、心が安らいだ。理屈ではないのである。
 風邪をひいて、寝込んでいる瑞稀に甲斐甲斐しく接してくれた。夏目ナオトは、本当に心配している。尋ねてはいけないことを尋ねた後でも、普通に接してくれた。普通以上に優しくしてもらった。弱っているのも関係したのかもしれない。それで、今まで胸の内にしまいこんでいた思いを、言葉にして伝えた。
 ナオトは瑞稀の告白を黙って聞いてくれた。その心を汲んでくれたのである。なにもかもを正面から受け止めてくれたのである。それは、瑞稀にとっては、神仏による救済のように感じられたのである。だから、ナオトに深く感謝していた。
「お礼をいいたいのはわたしのほうよ。誰にも話せなかったことだもん。だから、先輩に話したら、懺悔したように、少し心が楽になったわ」
 そう述べた後で、瑞稀は、次のようにつけ加えた。
「先輩、神父さんになったらいいのに。そうしたら、わたし、毎日通うかもしれないわ」
 ナオトは頬をかいて、はにかんだ。
「神父さんには、どうすればなれるのか、おれは知らないな」
「わたしも知らないわ」
 ナオトと瑞稀は目をみかわして笑った。
 ナオトは、アイス・コーヒーの入っている紙コップを手にすると、飲むでもなく、少し波立っている表面を見ていた。その様子を目に止めて、瑞稀が真面目な表情で尋ねた。
「それで、いったい先輩は何者なのかしら?」
 ナオトは、顔を上げて瑞稀を見つめた。
「んー、まあ、慈善事業じゃあないが、困っている人の役には立っている、と、思いたいな」
 ナオトはコーヒーを一口すすった。
「まさか、もしかして、名前も年齢も偽っているの?」
「いや、名前にも年齢にも嘘はないよ。それに、普通の大学生でもあるんだ。東都大学(ここ)の、ではないけれどね」
「それ以上のことは話せないのね?」
 ナオトは、黙ったまま瑞稀を見つめた。
「いいわ、でも、なにかあれば、飛んできてくれるんでしょう?」
「そういう約束だったな、そういえば」
 ナオトは微苦笑してはぐらかしたが、あざとすぎる。意図的にはぐらかしている。瑞稀はそれが、ナオトのできる、精一杯なのだと思った。実際問題として、ナオトには、もう東都大学に来る必要はないからと理解していた。
 いずれすべてを話す時があるかもしれないが、それまでの間は、謎の大学生であればよい。ナオトは心の底から、そう思っていた。
 トレイを片づけて学食を出ると、ナオトは、瑞稀に目を向けた。
「それじゃあ、元気で」
「先輩、それ、なにかのフラグだよ」
 瑞稀が笑った。
 ナオトは頭をかいた。
「じゃあ、行くよ」
 ナオトは瑞稀に背中を向けると、ゆっくりと歩き出した。すれ違う大学生の表情は、ほとんどといっていいほど明るく晴れやかである。一度しかない人生を謳歌している、といえば陳腐な台詞であるが、少しの悩みもないように見える。表層的に見えているのであって、内心では人に話せない悩みを抱えているかもしれないが、それでも、人は笑うことができるのだ。笑うことで、少しは気が紛れるからなのかもしれないが、それは、人の強さ、なのだろうか。軽輩のナオトには、まだわからなかった。
 ナオトは、一度振り返った。優木瑞稀がナオトに向かって大きく手を振っている。ナオトは軽く手を上げた。そして、手を下ろすと背中を瑞稀に見せた。そして、二度と振り返ることはしなかった。
 大学の門をくぐって外へ出ると、ナオトが歩いて行く先に陽炎が揺らめいていた。陽光によって暖められた熱気が地表に溜まっているのであろう。ナオトは空を見上げて、手をかざして太陽を遮った。
「この調子だと、今年の夏も暑くなりそうだな」
 夏目ナオトは、夏が嫌いではなかった。