進路希望と書かれた紙に、ぴんとデコピンをする。いや、紙におでこはないんだから、この場合はなんと言えばいいんだろう。とにかく、わたしにとってはやっかいな紙だったから、攻撃せずにはいられなかった。
第一希望、第二希望、第三希望と書かれた、がらんと寂しい枠。言わずもがな、大学名を書く場所だ。ため息をついて、図書室のすみに設置された、大学のパンフレットコーナーに立ち尽くす。
一年生のときは、「入学したては大事な時期」。
二年生になると、「進路に向けて舵を切る大事な時期」。
きっと三年生になれば、「受験に向けた大事な時期」とでも言われるんだろう。
けっきょく、いつも大事な時期なんじゃん。先生の言うことは信用ならない。大事っていう言葉はここぞというときに使わないと、効果はないのに。先生はもうちょっと国語の勉強をすればいいと思う。単語の使い方を覚えましょう。
棚には色とりどりのパンフレットが並んでいる。どれも、ぴんとこない。
やりたいこと? とくにない。
看護だとか保育だとか、専門の学校に進む自分は想像できない。就職には有利かもしれないけど、その職場にいる自分の図なんてまったく描けないし。
文系、理系。まあ、文系……かな。ビジネス科だとか、国際交流科だとか、よくわからない単語が視界に入る。
「わかんないよな」
「うわぁっ」
とつぜん声がして、わたしは跳び上がった。はっと口を押さえて、まわりを見回す。幸い図書室で騒ぐことを怒るひとはいないようだった。
「湊、もう、びっくりした」
「ごめん」
となりに並んだ湊が、わたしと同じようにパンフレットを眺める。その黒い瞳には、どんな文字がとまるだろう。わたしはわずかな緊張とともに見守った。でも湊は天井を仰いだ。
「よくわからない」
思わず、ふっと噴き出してしまう。
「湊もか。まあ、そうだよね。未来のこととか、知るかって感じ。わたしはいまを生きるのに精いっぱいです」
「ん」
「湊は、精いっぱいって感じしないけど」
「そう?」
「いつも余裕ありそう」
湊は小首をかしげた。彼が動揺するところとか、見たことない。そんな湊に、いつも助けられている。どれだけ他人の感情に振り回されても、湊といると落ち着くのだから不思議だった。
「湊は、なに考えてるのかよくわからないんだよね」
そう言ったわたしを、湊はじっと見つめた。静かな瞳。数秒見つめあって、あ、とわたしはあわてる。
「褒めてるよ? ポーカーフェイスいいねってこと」
「そ」
いや待てわたし。彼女持ちの男に褒め言葉を送っていいのだろうか。大丈夫? わたし、嫌な女ムーブ取ってない? ううむ、とぐるぐる悩む。
ふいに湊が「あ、ごめん」と言って、パンフレットの前からどいた。それでわたしも気づく。振り返れば、遠藤さんが立っていた。彼女も進路希望の紙を手にしているから、わたしたちと同じ目的だろう。
わたしはさりげなく、湊のほうに移動した。遠藤さんから距離を取りたくて。あくまでさりげなく、したつもりだった。でも遠藤さんには、わたしの考えなんてお見通しらしい。ほんのわずかに、眉が下がった。
わたしは襲い来る《悲しみ》を予想して、息を吸った。
だけど不思議と、その波は来なかった。
遠藤さんは、ふいと視線をそらして、パンフレットを眺める。もともとスポーツが得意で、健康的な肌の色をしていたし、ほっそりと無駄な肉なんてない小顔がきれいだった遠藤さん。だけどいまは、弱々しい。体重が劇的に減っているわけでも、頬がこけているわけでもない。だけど、身体から発する雰囲気が、彼女の疲労を語っていた。
どれだけ見つめても、遠藤さんの感情は伝わってこない。おかしいな、と思う。前までは、こっちが倒れるくらいの感情だったのに。かといって、元気になった、と言えるような姿でもないし。むしろ、壊れてしまう一歩手前のような危うさを秘めているように思えた。
「遠藤さんさ」
湊がパンフレットを一枚抜き取りながら、何気なく言った。
「学校やめたら?」
わたしは思わず湊を見た。遠藤さんも、湊を見るためにゆっくりと顔の向きを変える。
たいして興味のない大学だったのか、湊はすこし眺めてからパンフレットを棚にもどした。それから遠藤さんを見て「あ」と小さく口を開ける。
「ごめん。無理して学校来る必要なくない、って意味」
あ、なんだ。そういうことか。急になにを言い出すんだ、湊も須川さんたちの側だったのか、とびっくりしたじゃないか。もう、心臓に悪い。
遠藤さんは、「ああ」と、ほとんどため息のような応答のあと、ぽつりと答える。
「でも、親に迷惑かけるし」
ろくにパンフレットを見ずに、遠藤さんは背を向けた。そのまま図書室を出ていってしまう。わたしたちは、そんな遠藤さんの背中を見つめた。
「大丈夫かな、遠藤さん」
湊がなにも表情を変えることなく、そう言った。
「無理してそう」
「……無理なんて」
わたしは、くちびるのはしを持ち上げた。
「無理なんて、ずっとしてるでしょ」
わたしには、なにもできないけどさ。でも、たしかに……、遠藤さんの様子は、いままでとすこしちがった気がした。
「大丈夫かな」
けっきょく、湊と同じ言葉を繰り返してしまう。
「あれ、湊くんとのどかちゃんじゃん。ふたり、ほんとに仲いいね」
遠藤さんと入れ替わるように、図書室に柊木先輩が入ってきた。片手に本を抱えている。いつも過疎が激しい図書室に、なぜだか今日はひとが集まる。
――ていうか、仲いいねって、嫌味だったりする……?
彼氏がほかの女子といっしょにいて、楽しいわけないよね。心配になって、わたしは柊木先輩の瞳をうかがう。
「ん? どうかした?」
嫌味なのかどうかまではわからない。だけど、柊木先輩からそよ風のように伝わってきた感情は《寂しさ》。ああ、これはこれで、よろしくない。
「ただのクラスメイトですよー。じゃ、わたしはこれで失礼します」
笑顔をつくって、わたしも図書室から逃げ出した。
もし、わたしと同じように、他人の感情がわかるひとがいたとしたら。いまのわたしの感情をどう表現するだろう。自分でも言い表すことができない、この感情を。
第一希望、第二希望、第三希望と書かれた、がらんと寂しい枠。言わずもがな、大学名を書く場所だ。ため息をついて、図書室のすみに設置された、大学のパンフレットコーナーに立ち尽くす。
一年生のときは、「入学したては大事な時期」。
二年生になると、「進路に向けて舵を切る大事な時期」。
きっと三年生になれば、「受験に向けた大事な時期」とでも言われるんだろう。
けっきょく、いつも大事な時期なんじゃん。先生の言うことは信用ならない。大事っていう言葉はここぞというときに使わないと、効果はないのに。先生はもうちょっと国語の勉強をすればいいと思う。単語の使い方を覚えましょう。
棚には色とりどりのパンフレットが並んでいる。どれも、ぴんとこない。
やりたいこと? とくにない。
看護だとか保育だとか、専門の学校に進む自分は想像できない。就職には有利かもしれないけど、その職場にいる自分の図なんてまったく描けないし。
文系、理系。まあ、文系……かな。ビジネス科だとか、国際交流科だとか、よくわからない単語が視界に入る。
「わかんないよな」
「うわぁっ」
とつぜん声がして、わたしは跳び上がった。はっと口を押さえて、まわりを見回す。幸い図書室で騒ぐことを怒るひとはいないようだった。
「湊、もう、びっくりした」
「ごめん」
となりに並んだ湊が、わたしと同じようにパンフレットを眺める。その黒い瞳には、どんな文字がとまるだろう。わたしはわずかな緊張とともに見守った。でも湊は天井を仰いだ。
「よくわからない」
思わず、ふっと噴き出してしまう。
「湊もか。まあ、そうだよね。未来のこととか、知るかって感じ。わたしはいまを生きるのに精いっぱいです」
「ん」
「湊は、精いっぱいって感じしないけど」
「そう?」
「いつも余裕ありそう」
湊は小首をかしげた。彼が動揺するところとか、見たことない。そんな湊に、いつも助けられている。どれだけ他人の感情に振り回されても、湊といると落ち着くのだから不思議だった。
「湊は、なに考えてるのかよくわからないんだよね」
そう言ったわたしを、湊はじっと見つめた。静かな瞳。数秒見つめあって、あ、とわたしはあわてる。
「褒めてるよ? ポーカーフェイスいいねってこと」
「そ」
いや待てわたし。彼女持ちの男に褒め言葉を送っていいのだろうか。大丈夫? わたし、嫌な女ムーブ取ってない? ううむ、とぐるぐる悩む。
ふいに湊が「あ、ごめん」と言って、パンフレットの前からどいた。それでわたしも気づく。振り返れば、遠藤さんが立っていた。彼女も進路希望の紙を手にしているから、わたしたちと同じ目的だろう。
わたしはさりげなく、湊のほうに移動した。遠藤さんから距離を取りたくて。あくまでさりげなく、したつもりだった。でも遠藤さんには、わたしの考えなんてお見通しらしい。ほんのわずかに、眉が下がった。
わたしは襲い来る《悲しみ》を予想して、息を吸った。
だけど不思議と、その波は来なかった。
遠藤さんは、ふいと視線をそらして、パンフレットを眺める。もともとスポーツが得意で、健康的な肌の色をしていたし、ほっそりと無駄な肉なんてない小顔がきれいだった遠藤さん。だけどいまは、弱々しい。体重が劇的に減っているわけでも、頬がこけているわけでもない。だけど、身体から発する雰囲気が、彼女の疲労を語っていた。
どれだけ見つめても、遠藤さんの感情は伝わってこない。おかしいな、と思う。前までは、こっちが倒れるくらいの感情だったのに。かといって、元気になった、と言えるような姿でもないし。むしろ、壊れてしまう一歩手前のような危うさを秘めているように思えた。
「遠藤さんさ」
湊がパンフレットを一枚抜き取りながら、何気なく言った。
「学校やめたら?」
わたしは思わず湊を見た。遠藤さんも、湊を見るためにゆっくりと顔の向きを変える。
たいして興味のない大学だったのか、湊はすこし眺めてからパンフレットを棚にもどした。それから遠藤さんを見て「あ」と小さく口を開ける。
「ごめん。無理して学校来る必要なくない、って意味」
あ、なんだ。そういうことか。急になにを言い出すんだ、湊も須川さんたちの側だったのか、とびっくりしたじゃないか。もう、心臓に悪い。
遠藤さんは、「ああ」と、ほとんどため息のような応答のあと、ぽつりと答える。
「でも、親に迷惑かけるし」
ろくにパンフレットを見ずに、遠藤さんは背を向けた。そのまま図書室を出ていってしまう。わたしたちは、そんな遠藤さんの背中を見つめた。
「大丈夫かな、遠藤さん」
湊がなにも表情を変えることなく、そう言った。
「無理してそう」
「……無理なんて」
わたしは、くちびるのはしを持ち上げた。
「無理なんて、ずっとしてるでしょ」
わたしには、なにもできないけどさ。でも、たしかに……、遠藤さんの様子は、いままでとすこしちがった気がした。
「大丈夫かな」
けっきょく、湊と同じ言葉を繰り返してしまう。
「あれ、湊くんとのどかちゃんじゃん。ふたり、ほんとに仲いいね」
遠藤さんと入れ替わるように、図書室に柊木先輩が入ってきた。片手に本を抱えている。いつも過疎が激しい図書室に、なぜだか今日はひとが集まる。
――ていうか、仲いいねって、嫌味だったりする……?
彼氏がほかの女子といっしょにいて、楽しいわけないよね。心配になって、わたしは柊木先輩の瞳をうかがう。
「ん? どうかした?」
嫌味なのかどうかまではわからない。だけど、柊木先輩からそよ風のように伝わってきた感情は《寂しさ》。ああ、これはこれで、よろしくない。
「ただのクラスメイトですよー。じゃ、わたしはこれで失礼します」
笑顔をつくって、わたしも図書室から逃げ出した。
もし、わたしと同じように、他人の感情がわかるひとがいたとしたら。いまのわたしの感情をどう表現するだろう。自分でも言い表すことができない、この感情を。