わたしは、波が引いていくまで待って、ゆっくりうなずいた。

「……好き、です」
「そっか」
「ごめんなさい」

 湊は、先輩の恋人なのに。口からこぼれた謝罪に、先輩は首をふる。

「のどかちゃんが謝ることじゃない。わたしは、湊くんの名ばかり彼女でしかないし」

 風に遊ばれる髪を指で耳にかけてから、先輩はカメラに指を沿わせた。

「今日ね、湊くんに別れよう、って言うつもり」
「え」
「終わらせないと、湊くんにものどかちゃんにも、申し訳ない。それに、わたしもすっきりするしね。けっこう、しんどかったんだ。そう望んだのは、わたしなんだけどさ」

 ふふふっと先輩は笑った。それから、後輩のひとりを呼んで自分のカメラを預けると、なんの戸惑いもなしに海へと進んでいった。ローファーが、靴下が、制服のスカートが、波に沈んでいく。

「先輩……⁉」
「のどかちゃんもおいでよー! どうせ濡れてもいい服なんだからー!」

 先輩が大きく手をふった。

 わたしと先輩は、卒業生が残していったという制服とローファーを身にまとっていた。写真部、夏の恒例行事なのだそうだ。制服姿で海に遊ぶ少女。これぞ青春、らしい。

 なんとモデルとして参加する他の人間はみんな男子生徒だった。だから、海の撮影はわたしと、写真部きっての美人な柊木先輩がモデルをすることになったのだ。

 ――青春ね。

 たしかに先輩は、とてもきらきらしていた。

 先輩の感情にはくもりがない。すっきりとした気配をふりまいている。ずっと、湊との関係に、悩んでいたのかもしれない。別れることで、解放される。寂しさもあるはずだけど、それでも先輩は笑顔だった。

 じゃあ、わたしは、どうなんだろう。

 湊と先輩が別れるなら、わたしを縛っていたものもなくなるはずだ。だけど、すなおに喜べない。だって、ふたりが別れたからって、湊がわたしを見てくれるわけじゃない。湊の瞳には、なにも映らないんだから。

 わたしはずっと、悩んでいる。

 湊の過去をどう受け止めればいいのか、湊にどう接すればいいのか。だけどやっぱり、わたしには湊を救うことはできない気がしていた。わからないんだ。わたしが、どうすべきなのか。だってわたしが湊を求めることは、湊を縛る行為でしかない。それは嫌だ。

「のどかちゃーん!」
「……はーい!」

 わたしは首をふって、先輩を追うために海に入った。ローファーで海水を踏みつける。靴下もスカートも、どんどん水を吸って重くなる。

「カメラは気にしなくていいよ。制服で水遊び、めったにできないんだから、楽しんで」
「はい」
「このために、インナー着こんでるんだから」

 先輩がくすっと笑う。わたしたちは水に濡れても透けないように、ブラトップに半袖のインナーと、念には念を入れていた。スカートの下にも半ズボン着用だ。「破廉恥は、この部長が許しません」と先輩が言い切っていた。

「ねえ、のどかちゃん」
「はい」
「我慢しなくていいんだよ」
「え――わぁっ!」

 その瞬間、先輩はぐいとわたしの腕をつかんで、引っ張った。バランスを崩して、わたしも先輩も派手な水しぶきを上げて倒れる。盛大に叫んだわたしとはちがって、先輩は楽しそうに声をあげて笑った。

「のどかちゃんはさ、いい子すぎるから。たまには、思いっきり羽目はずさなきゃ!」

 ぽかんとするわたしの顔に、今度は海水をすくって投げかけてくる。

「うわっ、ちょっと先輩!」

 浴びせられる水しぶきに、わたしは腕で顔を防御する。もう髪も制服もびしょびしょだ。

 写真部のみんなが、靴や靴下を脱ぎ捨てて、撮影のために近寄ってくる。その中には湊もいるのが見えた。

「この前、湊くんと、なにかあったでしょ」

 先輩がわたしに顔を寄せてささやいた。黒い瞳に、じっと見つめられる。やわらかな笑顔を見て、ああ、このひとは、本当にやさしいんだと思った。わたしはぐっとくちびるをかんだ。みんなに聞こえないよう、わたしもささやき声で返す。

「わたしは……、湊のためになにができるのか、わからないんです」
「湊くんのため、か。のどかちゃんはやさしいね」
「先輩だって、やさしいですよ」
「そんなことないよー? わたしはけっこう、ずるいことしてる。好きでもないのにつきあってもらってたのだってそう。わたしはずるい。……のどかちゃんは、どうしたいの?」

 わたしは。

 わたしは、湊に、自分の意思で生きてほしい。感情のない人形みたいな生き方じゃなくて、笑ったり泣いたり、そういうことを心からしてほしい。許されるなら、わたしといっしょにいたいと、湊に思ってほしい。

 でも、わからないんだ。

「……わかりません。わからなくて、いま、しんどいんです」

 彼の心が、見つからない。

 わたしといっしょにいて、と言えば、湊はそうしてくれる。だけどそれじゃ意味がない。心が、じんじん痛い。だけど泣くことは、あれ以来、どうしてかできなかった。とても心は痛いのに。

 先輩が、わたしの手を握った。海水に冷やされた、それでもあたたかい手。そして、あたたかい感情だった。

「そっか。じゃあいまは、しんどいのを我慢しないでおこうよ」
「我慢」
「うん。我慢してたら、しんどいのが増すだけなんだから。よくないよ」

 そう言うやいなや、先輩はわたしから手を離して、海水のシャワーを浴びせてきた。油断していたわたしは正面からしぶきを浴びて、間抜けな叫び声をあげる。先輩の明るい笑い声が響いた。

「まったく、罪な男を好きになったものですねー、わたしものどかちゃんも」

 微笑む先輩。おいでおいで、と先輩の感情が、わたしの沈んだ心を手招きしている。わたしはその誘いに導かれて、濡れた前髪をかきわけながら、すこしだけ笑えた。

「ほんとに……、そうですね」

 わからないの。湊のことがわからない。どうすべきか、わからない。

 前髪から落ちてくる海水の雫といっしょに、涙がこぼれた。あんなに泣けないと思っていたのに、あっけなくこぼれ落ちた。わたしは単純なのかもしれない。ぐいと手でぬぐう。きっといまなら、海水と涙の区別はつかないだろう。

 先輩は微笑んでいる。わたしも、あはは、と笑った。

「ほんと、困っちゃいますね!」
「ねー!」

 わたしは、先輩に海水をお返ししてやった。

 きらきら、きらきら。海は輝く。
 あいかわらず、むかつくくらいに、青い。

 湊は、ただ静かにシャッターを切っていた。