その日、わたしは図書室にいた。彩と湊もいっしょだ。今日は珍しく文化祭の準備に湊も参加していて、練習が終わってからそのまま図書室に移動した。吹奏楽部の練習が終わり次第、美里も合流する予定だ。

 どうせ図書室にはわたしたち以外来ないから、司書室ではなく、閲覧席の机を囲っている。草本先生は「ちょっとお昼食べてくるから、ごゆっくりー」と出ていった。ここには正真正銘、わたしたちしかいないことになる。それでも、図書室という場所だからか、わたしたちは小声になっていた。

「彩の声はきれいだから、銀河鉄道のイメージに合うね」
「そ、そうかな……?」

 頬を赤くした彩は、うつむいて、パラパラと台本をめくった。そんな姿もかわいらしくて、わたしは頬杖をつきながら笑みを浮かべる。

 ダメだ、どんどん彩を好きになる自分がいる。

 この前、美里とないしょの恋愛話をしたとき、去り際に「わたしが部活に勤しんでいる間に、のどかが彩と浮気してるの、つらいんだけど!」と思い出したように叫ばれた。美里も彩も、どっちも大事な友だちだ。浮気とかじゃない、っていうか、いつわたしは美里とつきあったのよ。

 口をとがらせていた美里を思い出して、くすくすと笑えてくる。

 まあ、そんなこともあったから、今日は美里が来るのを待っているわけなんだけど。

「のどかも、キャスト陣だったら、もっと楽しかったと思うのにな」
「わたしには無理だよ。それを言うなら、湊のほうが合ってるんじゃない?」
「ん?」

 湊は首をかしげた。

「ああ。湊くん、いい声だから」
「ね。カンパネルラとか似合いそうじゃん。美里が言うには、カンパネルラは色素薄い系イケメンらしいよ」

 わかるかも、と彩が笑った。

 開けた窓から風が吹き込んで、白いカーテンをふわりと膨らませる。カーテンのすき間から、海のきらめきが見えた。その輝きとともに、吹奏楽部の練習の音が入り込む。最近はやりの、女性ボーカルの曲だった。さわやかなその旋律を美里が何度も口ずさんでいるものだから、わたしも鼻歌を歌うときに無意識に選んでしまうようになったくらい。きっと文化祭のステージ発表で披露するんだろう。

 頬杖をついたまま、その音色に耳を澄ませる。

 窓のない司書室より、ここのほうが気持ちいい。三階にあるからか、図書室は地上にいるより澄んだ空気が入ってくるような気がする。

「あたし、ジュース買ってくるね」

 彩が立ち上がった。草本先生から「熱中症怖いから、図書室でも水分とってよし。ただし絶対こぼさないこと」と言われているから、ジュースの持ち込みも問題ない。彩が扉の向こうに消えていくと、湊が彩の台本を手に取った。

「色素薄い系イケメンって、なに」
「透明感あって、儚いって感じかな」
「へえ。カンパネルラ死ぬもんね。たしかに儚いか」

 どきり、とした。

 死、というものが、わたしの心に傷痕を残しているらしいことは、わたし自身うすうす感じていた。もう彩は大丈夫だと思うけど……それでもひゅっと息が詰まってしまう。だから、わたしはあえて明るい声で笑った。

「色素薄い系は、そういうんじゃないよ。なんていうか、短命っていうより、こう、精神的かつ見た目の儚さ? みたいな感じ」
「なにそれ、むずかしい」
「そういう概念なんだよ」
「概念ね」

 台本をめくるために伏せた湊の目に、前髪がかかる。すっと通った鼻梁を、わたしは見つめた。湊がページをめくるたびに、かさりと紙のこすれる小さな音がする。

 いつのまにか、吹奏楽部の音は止まっていた。運動系の部活も休憩に入ったのか、声がしない。紙をめくる、かわいた音だけがする。

 ――きれいな顔。

 いまこの瞬間は、世界にわたしと湊だけしかいないような気分になれる。この時間がずっとつづけばいいのに。でもそんな魔法のような願いが叶わないことはわかっているから、完成されたこの短いひとときを、わたしは身体中で感じることに意識を注いだ。

 まだまだ「オトモダチ」だと、わたしの心は思ってくれないらしい。でも明日はそうなっているかもしれないから、いまだけは、この感情も大切にしておきたいと思う。

 ……なんて、こんな甘い考えだと、いつまで経っても変化は起きないかもしれない。まずい。

「カンパネルラって、友だちをかばって死ぬよね」

 湊が台本を見つめたまま言った。わたしはうなずく。

 ジョバンニとカンパネルラ、ふたりの少年が鉄道に乗って、不思議な銀河の旅をする物語。でも旅から帰ってきたのは、ジョバンニひとり。ジョバンニは家に帰る途中、川に落ちた友だちを助けたカンパネルラが、行方知れずになっていることを知って、終幕。美しさのなかに、死のもの悲しさが漂う、そんなお話だった。

「俺とカンパネルラは、似てないよ。俺は、だれかをかばって死ぬような、できた人間じゃないし」
「え?」
「そういう死に方、俺はできないと思う」

 また、ページをめくる音。

 わたしは湊を見つめた。湊はまだ、台本を眺めている。

 彼はなにが言いたいんだろう。こういうときに感情が読めたらいいのに、湊のことはなにもわからない。これって、ふつうの世間話? でも、死ぬとかどうとか、あんまり、冗談でもしないでほしい。

「べつに、かばって死ぬのが正義ってわけじゃないでしょ。だいたい、溺れたひとを助けるために水に入っちゃダメって、よく言うじゃん」

 わたしは、湊の様子をうかがいながら言う。

「溺れてるひとって、助かろうとしてめちゃくちゃ暴れるから、助けに行くのは危険らしいよ。って考えると、銀河鉄道、ちゃんとしてるね。救命活動のダメな例」

 自分で言っておきながら、せっかくの名作も台無しな表現だな、と苦笑する。

 湊の目は伏せられたまま。まつ毛が、影を落としていた。

 ――最近の湊は、へんだ。

 この前、須川さんを中庭で見かけたときから、様子がおかしい。表情は変わらない、感情もあいかわらず読めない。じゃあなにがおかしいのって言われたら、わからない。だけど、へん。

 須川さん、あのときなんて言ってたっけ。放火魔が湊かもしれない――だったかな。

 なんでそんな話になったんだろう。湊はそんなことしないでしょ。でも火のない所に煙は立たない、かもしれない。

「ねえ、湊」
「ん?」

 口を開こうととして……、やめた。ゆるゆると首をふる。

「なんでもない」
「そ」

 わたしは、その一歩を踏みこめない。

 たとえばわたしが、湊の恋人であったなら、ちがっただろうか。埋まらない距離を埋めるために、一歩を前に踏み出せた? 彼に指を伸ばすことができた?

 ――いいな、柊木先輩。

 先輩なら、戸惑わずに、それができてしまうんだろう。わたしはこの距離から動けない。ここから見ていることしかできない。

「なに?」

 湊が目線をあげた。澄んだ瞳とぶつかる。瞬間、思ってしまう。

 ――好き。

 わたしは、湊が好き。

 そう言えたら、きっと楽だった。

「ううん、なんでもないよ」

 でもわたしは微笑んで、窓の外を見つめることしかできない。夏の太陽を浴びた海は、あちこちで宝石のような光を散らしている。きれいだ。

 彩、はやく帰ってこないかな。

 自分の気持ちに、だれか、ブレーキをかけてくれないだろうか。

 わかってるんだよ。だって湊には柊木先輩がいる。わたしなんかが出る幕じゃない。ずっとずっとわかってる。それなのに、自分ひとりじゃ、どうしようもないんだ。好きって、気持ちが、あふれそうになる。わたしみたいな体質のひとがいたら、きっとすぐにばれてしまうくらい、感情があふれてしまうんだ。

 どうしよう。わたしは、どうすればいいのかな。

 ぜんぜん大丈夫じゃないよ、美里。