帰宅部のわたしにとっては、夏休みに学校に来る用事は文化祭の準備くらいしかなかった。

 写真部の湊や、吹奏楽部の美里は、けっこう忙しく学校にも顔を出していたみたいで、そういうのも青春って感じがしていいなあとは思いつつ、帰宅部なんだから仕方ない。余裕があってすてき、ということにしておく。

 文化祭の準備は、人形づくりグループは早い段階でやることがなくなった。つくってしまえば、もう暇だ。だから脚本グループとか背景グループの手伝いなんかもした。ちなみに湊は背景グループだ。家のシルエットだとか、背景に必要なものを紙でつくっていた。

 そうやって下準備が終われば、あとはキャスト陣や、劇中に人形を動かす人形づかいグループの練習が本格的にはじまる。

「どう、彩? 大丈夫そう?」

 わたしは台本を広げる彩をのぞき見た。

「うん。演劇とちがって、台本を暗記する必要はないから、なんとか……」
「そっか。影絵は裏で声当てるだけだもんね。がんばって」
「ありがとう、のどか」

 にっこり笑う彩。その頬にできるえくぼを見ながら、わたしも笑う。

 文化祭準備は、だいたい朝の十時に集合して、昼の一時には終わる。

 ほかの子と比べたら短時間だけど、彩も教室に来て練習をしていた。須川さんたちがちょっかいをかけてこないかと心配していたけど、すこしずつ彩も須川さんたちを受け流す力をつけているみたいだ。前みたいに過度に怯えることはない、どこか吹っ切れた強さがあった。

 今日も台本を読んで、変なところがあれば脚本グループと相談して修正、という流れで練習が終わった。

「じゃあ、今日は終わり。おつかれさまー」

 文化祭実行委員の声に、クラスメイトたちが「おつかれー」と返す。

「帰ろ。彩」
「うん」

 夏休みに入ってから、自然と遠藤さんのことを、彩と呼ぶようになった。彩も、わたしをのどかと呼ぶし、美里のことも呼び捨てだ。

 わたしたちが仲よくすることを、須川さんたちはおもしろくなさそうに見ているけれど、わたしも彼女たちのご機嫌をうかがって彩と距離をおくことは、もうしない。

 結果、須川さんたちからの重たい感情を浴びることになっても、これでいいと思う。……とまでは、楽観的に言えないのだけど。

「あー、湊がいないのつら」

 そうこぼすと、彩はきょとんと目を丸めてから、あっと声をあげる。

「のどかってやっぱり、湊くんのこと」
「ちがうからね」

 あわてて否定したけど、露骨な反応すぎたかもしれない、とちょっと反省。でも、ちがうんだよ、そういうのじゃなくて。

「あ、感情が、ってこと?」

 察しのいい彩は、すぐに表情を引き締めた。

「やっぱり、教室にいるの、大変……?」
「まあね。湊がいてくれたら、ほかのひとの感情もリセットできるんだけど」

 須川さんたちの《不愉快》。ほかのクラスメイトの《気まずさ》《緊張》。

 だけど写真部の活動時間と、わたしたち文化祭準備の時間が重なっているらしくて、湊はあまり教室に来なかった。部活優先ってことになってるから、それは仕方がないんだけど。美里だって吹奏楽部の練習で、あまり来てないし。とはいえわたしの健康上、大問題だ。

「あの、ごめんね、あたしのせいで……」
「彩は悪くないって」

 うつむいてしまう彩のおでこを、ぴんと指で弾く。

「元気に笑っててよ。じゃないと、もっとわたしの体調悪化しちゃう」

 冗談っぽく言えば、彩は「うん」とはにかんだ。

 最近の彩は、明るい感情のときが多い。教室で須川さんたちに会うときは、もちろんまだ怖がっているけれど、それでも笑顔が増えた。いいことだと思う。

「あ、あたし、図書室寄ってから帰るね」

 図書室につながる階段を彩が指さす。

 夏休みまで図書室登校をするくらい、彼女は読書家だったらしい。運動神経の良さと、それに見合ったしなやかな体躯、しかも読書家なんて、凡人のわたしとは大ちがいのスペックの高さだ。一要素でもいいからわたしに分けてほしい。

 彩と草本先生は読書傾向が似ていて、話すのが楽しいらしかった。たぶん、須川さんたちに会うと疲れるから、リフレッシュといった意味合いも、この図書室通いには含まれているんだろう。なら、とことん好きな本を読んで、草本先生と語ってくれればいい。残念ながら、わたしはそこまで本に詳しくないから、交ざれないし。

「じゃあまた」
「うん。また」

 彩と別れて、玄関に向かう。

 本当なら夏休みの間、図書室は閉まっているはずだったけれど、草本先生はずっと開放してくれている。彩のためだと察することはできた。でも草本先生はいつもどおりに笑っているから、わたしたちに気まずさを感じさせない。ちょっとお節介だけど、いい先生なんだと思う。

 グラウンドからは野球部の声援が聞こえ、音楽室からは吹奏楽部の練習の音が響いてくる。美里も今ごろ、練習に励んでいるんだろうな。

 ――湊もまだ、学校にいるよね。

 今日も、部活があるから文化祭の準備はパスで、と言っていた。それなら、中庭あたりにいるかもしれない。彩にとって図書室がリフレッシュの場なら、わたしにとってそれは湊のとなりだ。でも、中庭に行ってみると、湊の姿はなかった。

 その代わりに、女子三人の姿があって、思わず柱の陰に隠れてしまった。

「もー、イライラする。劇とかだるい」
「ねー。彩もやる気出しちゃってるしさ。めんどくさーい」

 須川さんたちだ。

 彼女たちの感情が、ずるずると肌に這いのぼってくる。ぬらりとした蛇に心臓を絡めとられたような悪寒がして、目を閉じた。呼吸を整えて、耐えようとする。

 このまま立ち去ればいい、と思う。だけど、会話の先が気になってしまうのは、ひとの(さが)というか。上下関係の図の下のほうに属する弱い人間の(さが)というか。自分たちを害する物音には、耳を澄ませてしまうもので。なにかひどいことを言われないだろうか。聞きたくないのに、その場に留まってしまう。

「ていうか、聞いた? 文化祭、やっぱ一日になるかもって」
「えー。まじで?」
「まじまじ。放火魔が危ないからー、とかなんとか」

 予想に反して、話は彩から離れていった。ほっとして、わたしは踵を返そうとする。だけど、途中で足が止まってしまった。須川さんの声がつづいたからだ。

「ねえ、放火魔って言えばさ、聞いた? 湊くん犯人説」